「――では」
九月某日。闇の魔術に対する防衛術高等魔法試験級――七年生の教室に、穏やかな声が響く。
「優れた理論さえあれば、高等魔法試験も難なく突破できると。そうおっしゃっているのですか? 先生」
抑制された響きに、ウルペクラは不安を感じる。が、視線を前に向けたまま、ただ背筋を伸ばして座っていた。アンブリッジとかいうどこの馬の骨をつつくのは、セドリックに任せればよいのだ。品行方正、クィディッチチームキャプテン、三校対抗試合ホグワーツ代表選手。セドリック・ディゴリーは実力者であり、礼儀正しい。真面目な優等生の仮面を巧く被り、立ち回る。
仮面もなにも、彼は優等生で礼儀正しいのは本当なのだが。夏からこっち、貴族の世界に片足を踏み込んだせいか、笑顔に磨きがかかったように思うだけだ。
――相当怒っているな
ウルペクラは友人から放出されるなにかを鋭敏に感じ取っていた。忍耐の男だからこそ、アンブリッジに攻撃的な態度をとらないだけ。今年は高等魔法試験の年なんですよ、座学だけなんてありえないとは言わない。
「ウィルハード・スリンクハードの『防衛術理論』は素晴らしい本です。理論を網羅し、魔法省の見解にも適っています。ええ、試験に合格できますとも……学ぶ人によるでしょうが」
アンブリッジはさらさらと言う。ウルペクラはいかにも神妙に、感じ入っているような顔をしながら、ローブのポケットに手を突っ込む。硝子のつるりとした感触にふれた。
魔法具――録音装置は起動してある。アンブリッジもとい、魔法省の見解とやらはきちんと記録されていることだろう。セドリックと打ち合わせたわけではないが、言質がとれた形になる。魔法省がしゃりしゃり出てきて教師を押しつけてきたくせに、理論こそすべてと唱える無能だと。挙げ句に「合格できなければそれは授業が悪いのではなく個人の問題である」と解釈できる発言までしたのだ。
「他に質問は? ミスター・ディゴリー」
アンブリッジの高く甘ったるい声が言う。まるで背骨を直に、そうっと撫でられたかのような不快感に、ウルペクラは一度、二度と瞬いた。悪趣味な格好をした魔女は、まるでセドリックが無知で愚かで幼い、と言わんばかりの態度であった。甘い声にあるのは媚ではない。侮りである。
「いいえ。お答えくださってありがとうございます」
嘗められているのはわかっているだろうに、セドリックは完璧な笑みを崩さず、速やかに着席した。
けっこう頑固なところがあるのにな――ウルペクラの胤違いの妹を諦めきれないくらいには――と感心していたのだが、名ばかりの授業が終わった後、脱力するはめになった。
「……こうなったら自習するしかないと思うんだ」
「勝手にやれよ。巻き込むなよ。図書館で学ぶとしても座学になるだろうが」
「君が「闇の魔術に対する防衛術は理論だけになるかもな」と言ってたのを鼻で笑って悪かったよ」
「誰だって鼻で笑うだろうよ」
「それで、いつ集まろう?」
「人の話を聞け。ハッフルパフは数が多いんだから独自にできるだろう」
廊下を並んで歩きながら――周囲はすっかりウルペクラとセドリックの組み合わせを当たり前のものとして受け止めていた――言い合う。
「僕ら、というか七年生なんてどうとでもなるだろう。幸い、六年生の時にあれの授業を受けて色々叩きこまれているし」
偽マッド・アイの名を強いて出さない。あれで十分であるし、どこで誰がなにを聞いているかわからない。もちろん盗聴防止はかけているが、用心に越したことはない。
魔法省の公式見解では、昨年闇の魔術に対する防衛術を教えていたのはマッド・アイことアラスター・ムーディその人。偽者なんていないのである。ファッジが駒を送り込んできた今、おおっぴらに「いなかった男の話」をするのは避けたほうがよい。
ポッターのようにアンブリッジに噛みつくなど論外だ。グリフィンドール生に理性はないのか。
「役に立たない授業なんて大問題だろう」
「ロックハートしかり……僕は病欠でも使うかな……長く臥せっていた令息役に徹するつもりだ」
ウルペクラは、歌うように言う。ふっと、セドリックの呼吸が変わる。
「接触があると?」
「ポッター側かどうか、確認くらいはあるだろうよ。たぶん、お前もな」
淡々と言った。余計なことは口にしない。
三校対抗試合で死人が出たとしても、魔法省は黙殺したであろうとか。なにかがほんの少しずれていたら、セドリックが死ぬ確率は極めて高かったろうとか。
誰が自分が死んだ仮定などを聞きたいと思う? 怪物と怪物の息子であり『分霊箱』たる異形にだって、繊細な気遣いくらいできるのだ。
――翻って
繊細な気遣いができず、断りもなく身体接触を図る生物もいる。
たとえば、目の前にいる女。ドローレス・ジェーン・アンブリッジ。
「大変な目に遭いましたね」
そう言って、ウルペクラの両手をぎゅっと握り締める彼女は、端から見れば生徒を気遣う優しい教師に見えるかも……しれない。
「命はありましたので」
そっと笑む。骨太で指の短い手から、己の両手を引き抜く。ドラゴン革の手袋は破棄するしかないだろう。替えが何枚もあるので問題ない。この趣味の悪い女の体液がついているほうが嫌だ。ノット家の祖が唱えただけとはいえ「間違いなく純血」とされる聖二十八族の一、レストレンジの嫡子にいかにも親しげに触れてくるなど、アンブリッジは礼儀を知らぬ。
シシー叔母はよく両手をぎゅっと握って「よくやりました、ウル」と言ったものだが、あれは親族であり目上の女性だから許容できるのだ。
アンブリッジとウルペクラは初対面。親族でも目上でもなく、どうも混血で、出自が曖昧。仮に貴族としても泡沫である。親しげにされる道理などない。
百歩譲って濃厚な握手を我慢できたとしよう。現在進行形でしているわけだけれども。しかし、握られた上にさすられれば――それが手袋の上からであっても――気持ちが悪い。
これがマクゴナガルであれば「体調はどうですかレストレンジ」と静かにウルペクラを気遣うであろう。
不死鳥の騎士団本部ですれ違った時、実際にそう言われた。あまり立ち入らず、けれど必要なことは訊き、不躾にならない程度に気を遣ったのだ、彼女は。そのとき、ウルペクラは銀狐のまま戻れなくて、変身術教授はウルペクラを撫でながら「あまり焦らないように」とありがたいお言葉をくださった。
――いますぐ
この室を出て行きたい。全方位悪趣味である。あの飾り皿はなんだ。数枚ならば可愛らしいで済むが、壁を埋め尽くす勢いだ。子猫たちの、なあなあという声も鬱陶しい。
「三校対抗試合であんな事故があって」
はあ、とアンブリッジはため息を吐く。本人は気品ある、憂い深き吐息とお思いのようだ。その唇から香るのは、花の香ではなく腐臭であった。どうやって取り入ったのか、大臣直々に引き上げられ、上級次官になった者の、欲にまみれた臭い。
「色々と、想定外があったのは確かですね」
ウルペクラはお茶を濁した。茶器を傾け、口に含むふりをしつつ、無言消失呪文で中身を空にした。
なにを入れられているかわかったものではない。毒――麻痺毒から死に至るものまで――は効かないが、真実薬、あるいは魅了系統の薬はわからない。代表的なものに愛の妙薬が挙げられるが、日々摂取させ、段々と気持ちを傾かせるものもある。手間はかかるが、その作用は魅了を飛び越して服従の域に至るのだとか。
アンブリッジは大臣の駒である。もしかしたら、大臣を唆している可能性すらある。いくら冴えなくて悪趣味な女であっても警戒すべきだった。
「四人目の代表選手は選ばれる、ドラゴンの数を追加するはめになり……我らがホグワーツが優勝したのですから、今となっては些事かと」
なんてことない風に言う。第三の課題で三人の代表選手が揃って脱落したことや、なぜかポッターとウルペクラが迷路入口に現れたらしいことは口にしない。
すべては「バーテミウス・クラウチ・ジュニアを名乗った男」が仕掛けた騒動だ、で魔法省は押し通したい。無論、大臣はくどくどと「公式見解」を述べたわけではない。代わりに、行動で示したのだ。
「優勝者が裁判にかけられるなど前代未聞ですが。嘆かわしいことです」
ひとつまみ分の苛立ちを舌にのせる。実にたやすい芸当であった。ウルペクラは沸点の低いポッターに苛立っている。アンブリッジを挑発して罰則を食らう愚か者めと思っている。
「ええ、ええ。吸魂鬼が出たなんて言って……きっと孤児で注目を集めたくて、ああいう子になってしまったんでしょう」
なにせ虚言癖のある子だというじゃありませんか。ダンブルドアになにやら吹き込まれているに違いありません。
わずかに身を乗り出し、アンブリッジは早口で言う。その眼は爛々と輝き、指にはめた不格好な指輪も、主の意を写してか、ぎらぎらと光っていた。
熱心に訴えるアンブリッジを、ウルペクラは冷めた眼で観察する。
脳裏に、八月の記憶が蘇る。ポッター移送作戦が急遽組み立てられている最中、レギュラスは漏らしたのだ。
『……ポッターを邪魔と思う誰かの仕業かな。そこらに野良の吸魂鬼なんているはずがない。命令権を持っているのは魔法省』
闇の陣営は噛んでいないはず。もしヴォルデモートが吸魂鬼を掌握しているのならば……と言葉を切り、意味ありげにウルペクラを――銀狐を見たのである。
――レギュラスの言う通りだろう
アンブリッジの様子に、ウルペクラは一種の確信を得る。ファッジはポッターを貶めて地位を安定させたいだけ。闇の帝王の復活を否定したいだけ。積極的には動くまい。
彼はよくも悪くも平凡だ。純血に奇妙な憧憬を抱く一方で、マグル保護法を成立させた。闇の帝王復活という悪夢を突きつけられ、暴走しているだけの男である。
目障りなものは排除とばかりにバグノールドのご息女に手を伸ばそうとしたり、ウルペクラも排除しようとしたり、いただけない点はあるが。その目論見は破綻したのだから、もうどうでもよい。
ファッジは都合の悪いものを見たくない、聞きたくないとばかりに内にこもり、影に怯えている。吸魂鬼をポッターの下へ遣わせるなんて危険は冒すまい。万が一ポッターが廃人になってしまえば、取り返しがつかないのだから。吸魂鬼は魂を啜る者。それが生き残った男の子であろうとも、彼らの前では平等に餌である。
たとえ闇の帝王であろうとも、吸魂鬼にとってはただの魂の器である。機会さえあれば喜んで啜りそうだ……と頭の半分で考え、残りで言葉を紡いだ。
「しかし先生、ポッターは孤児とはいえ、後見人はブラック家のシリウスです。無罪にもなるでしょう」
吸魂鬼や虚言癖には触れず、ウルペクラは事実を述べる。ポッターは無罪になった。後見人はあのシリウス・ブラック。純血の中の純血と謳われる、自称王族の末裔だと。
「彼は魔法省に不信感を抱いていますから……無理もありませんが」
クッキーに手を伸ばす。アンブリッジの苦い顔を強いて無視した。やたらと甘い、安物の味を噛みしめる……ふりをして、消失させた。
「そういえば、あなたは死喰い人の捕縛に貢献したとか」
「僕の食料が食い荒らされたので、仕置きをしたらああいうことに」
細かいことは言わない。ホグワーツの厨房が荒らされ、食料が減ったのは事実。ウルペクラはホグワーツの生徒なのだから「僕の食料」と言っても嘘ではないのだ。
「ああいう、こそこそと卑しい輩は嫌いで」
「人はそれを狡猾と言うのでは?」
「真に狡猾な者なら、完全犯罪を成立させるでしょう。そしたら僕は拍手していたでしょう」
ぱちぱちと手を叩いてみせれば、アンブリッジはわずかに震える手で、茶器を取った。
正々堂々なんて無縁、あらゆるものを蹴り落とし、踏みにじり、上にのぼった女は考えている。
ウルペクラ・レストレンジの一連の発言は嫌味か。もしかして、吸魂鬼事件のことを勘ぐっているのか。いや彼は極めて礼儀正しい……それにレストレンジの子で、ポッター側、ひいてはダンブルドア側につくはずもない。
こそこそと卑しい輩という言葉は、ピーター・ペティグリューに向けられたもの。そうであるはずだ、と。
――残念ながら
全部嫌味で、牽制なのだが。
アンブリッジの思考を撫で、ウルペクラは内心で鼻を鳴らした。閉心術の心得もないらしい。大臣のお気に入りにしてはお粗末なことだ。
これでひとつ、事実が明らかになった。
吸魂鬼をポッターの下へ送りつけたのはアンブリッジ。そもそも、闇の陣営が吸魂鬼を掌握している可能性はレギュラスが除外していたので、再確認にすぎないのだが。
吸魂鬼が闇の陣営に従っているのならば、大監獄アズカバンはとっくのとうに崩壊し、虜囚たちは自由の身になっているだろうから。
その中には、ウルペクラの肉の父母もいるに決まっていて、喜んで「我が君」の下へ馳せ参じているであろう。
彼らは未だ、闇の中。唯一無二の太陽、絶対の主への忠誠を胸に抱き。
ひたすらに、耐えているのだろう。
「……では」
そう言って、ウルペクラは退出する。アンブリッジに有益な情報をなにひとつ渡さないまま、颯爽と踵を返す。
廊下に出て、苦い苦いなにかを無理矢理に奥底に封じ込める。
「息子を怪物にしておいて、なにが忠誠だ」
闇の中で朽ち果てろ、我が肉の父母よ。
燃えるような怒りを秘めた、その唸りを聞くものは秋の、くすんだ風だけであった。