「我が君御自ら動かれる必要はない。餌は、シリウスが妥当……お前の言うとおりだ」
愛しい娘、と母は囁く。マルフォイ邸の豪奢な一室――寝台に半身を起こし、星の眼をデルフィーニに注いでいる。
一月に暗渠から逃れ、数ヶ月。痛々しいほど痩せていたが、少しだけ健康を取り戻したようだ。一度は長くもつれた黒髪をばっさりと切った――デルフィーニが手伝った――が、徐々に伸ばし始め、背の半ばまで烏の濡れ羽色は流れている。骨に張り付いているようだった肌は人並みの柔らかさを、枯れ枝のようだった肢体は曲線を帯びている。
――声はまだ掠れているし
悪夢にもうなされているようだけれど。
それでも、監獄の闇に沈んだままでいるよりはよかったのだろう。あのまま朽ちていれば、デルフィーニは一生母に会えないままだったのだから。
よかったのだ、そうすべきだったのだ、とデルフィーニは言い聞かせる。老夫婦の下で生活していた時のように。自分が悪いのだ。自分のせいなのだと思いこもうとしていたときのように。
暗がりの中、幸せなのだと思おうとしていた、幼年から染み付いた、卑屈な癖が抜けない。そのことを、デルフィーニは自覚しない。わからない、ふりをする。
「失敗はできないよ」
お前はもう三度しくじったのだから、と母が唸る。灰色が煌めいて、青を帯びる。ブラック家の者の、怒りの兆候をデルフィーニはよく知っていた。
「わかっているわ」
そうっとデルフィーニは言う。失望を押し隠しながら、従順に振る舞う。長い長い間、闇に沈み、病んだ母は穏和しい娘をお望みなのだ。救出され「再会」を果たしたその時だけはデルフィーニに優しく接してくれたけれど……。
「今度こそ、お父様の望みを叶えるわ」
「そうでないと困る」
母が唇をゆがめる。美しい人なのに、酷く冷たく、歪な笑み。彼女が滑らせた視線の先には、開かれた『ザ・クィブラー』と『日刊予言者新聞』。
「娘は不器用で、息子は放蕩者ときた」
踊りは上手なようだねえ、と母は鼻を鳴らす。
脱獄して以来、母は外界の情報を求めた。文字を認識できるようになったのはつい最近。それまでは、デルフィーニが十数年分の新聞を読み上げていた。
長いことかかって、ようやく最近の記事までたどり着いた。母は己を少しずつ取り戻し、娘と息子が載っているもの、息子と恋人についてのもの、二つの記事を読んだのである。
「半分はレストレンジだというのに、まあ浮ついていること」
――浮ついているどころか
船上の宴で、完璧に踊りをこなし、もはや主役級に目立ち、レストレンジでさえなければ……と令嬢たちを嘆かせていたのだが。
放蕩者などとんでもない。衆目を集めようがどこ吹く風。兄の灰色の眼は、ただダフネ・グリーングラスに注がれていた。たぶん、ロドルファスの血なのだろう。彼も放蕩者どころか、真面目な性質に思える。少なくとも、妻をとられてやり返すなんてことはしない。不義の子であるデルフィーニに対しても礼儀正しい。
せっせと食事を運んでやれば――救出された者たちに三食運ぶのはデルフィーニの仕事だ――「ご息女の手を煩わせるわけには」と言われたもので、戸惑った。ロドルファス・レストレンジ、兄の父には、デルフィーニを憎む理由があるというのに。困惑し、立ち尽くすデルフィーニに、彼は苦笑った。
ベラは私に息子を授けてくれた。だからよいのです。
ロドルファスと母の関係はさっぱりわからない、と未だに思っている。いちいち口にしないし、言っても仕方ないし、当事者間で解決しているならいいが。お兄様が生まれてきてくれてよかった、とデルフィーニはしみじみと噛みしめた。ロドルファスの発言は、裏を返せば「子がいなければ、デルフィーニに対して含むところがあったかもしれない」ともとれる。
不義や、それを受け入れているらしきロドルファス、半分血のつながった兄……複雑怪奇な問題を強いて考えないようにする。妙な方向に話が転がらないように――お前は私と我が君の子ゆえに優秀、我が君との間に子ができて幸せ、など――デルフィーニは『ザ・クィブラー』を手に取った。紙幅を割いた記事の題は『闇の帝王復活の夜』。
「腕をなくして、傷心しているのよ。ぬくもりがほしくなる時だってあるわ」
傷心どころか絶叫し、のたうち回っていたのだが。兄の右腕を落としたのはデルフィーニなのだが……と、かなり後ろめたい事実は、あえて言わない。
記事には「ウルペクラ・レストレンジはその出自ゆえに目を付けられ、拉致され、ハリー・ポッターへの見せしめに腕を落とされたのだ」「彼は喪われた片腕の痛みに日々耐えている」「心の傷は深いようだ」と書かれているが、真実一割未満、他は誇張や嘘である……も言わなくてよいだろう。どうせ兄の同意なくポッターがしゃべったのだろうし、兄は見栄えがするので――令嬢たちの眼は釘付け――記者があれこれ盛ったのであろう。所詮、くだらない雑誌である。
あまり、母が兄をけなすところは見たくもないし聞きたくもない。それが、デルフィーニの口を重くして、情報を出し惜しませた。よけいなことを口にして、叱られてはたまらない、という防衛本能ももちろんあった。
だから、言わなかった。兄は泰然としていた、痛みを堪えている風には思えなかった……と。
「軟弱者め。私とロドルファスの子とは思えないね」
母は眼を眇める。軽く眉間に皺を立て『日刊予言者新聞』――『船上の宴、呪われし貴公子と姫君』と『麗しきレストレンジ兄妹』が載ったそれを燃やしてしまう。周囲の物は焦がしもせず、ただ新聞だけを灰に変えた。
煙がくゆる中、母はにぃっと笑った。
「まあ、よい。予言を奪取した、記念すべき日にあれも呼び戻せばよい」
ねえ、デルフィーニ、と母はにっこりする。美しく、冷たく、子を所有物だと考える者の、酷薄な笑み。
「あれは我が君の黒き心臓ウルペクラ。私が産み、捧げたもの」
あるべきところに帰るのだ。それが正しい道というものだ。
デルフィーニは父たる闇の帝王に、策を献上した。
「確かに、小僧に取りに行かせるのが筋」
シリウス・ブラックが餌となり得るか? と問われ、デルフィーニは小さく頷いた。膝を突き、緑の敷物をじっと見て。父を仰ぎ見ないように。
「ポッターは孤児ですもの。親代わりはなによりも大事なはず」
なにがあっても、助けに行くでしょう。
その言葉には真実の響きがあった。重みがあった。なぜならば、デルフィーニは知らず知らずのうちに、一人の面影を脳裏に浮かべていたから。
黒髪に灰色の眼の元恋人、ずっとずっとデルフィーニを追っている人を。彼が危機に陥れば、どうにかして助けたいと思うもの、と。
デルフィーニの喉から転がり出た、切実な響きに父が喉を鳴らす。怯える兎をいたぶる、獣の響き。数拍もしないうちに柔らかく優しい声がとって代わった。
「よかろう。繋がりを使い、ブラックの幻でも見せてやればよい。おびき出せばこちらのもの――次に失敗したら、わかっているな?」
「予言を、あなた様の手に」
喘ぐように言い、デルフィーニは自嘲する。元恋人の面影を振り払う。
彼とは袂を分かった。だというのに、何度も手を伸ばしてくれた。
助けて、と言えたならどれほどよいか。その手を取る機会をふいにしたのは自業自得。
あなたは自由に生きればよい。ポッターなんか放っておいて、海外にでも行ってほしい。遠く遠くに去ってほしい。届かぬ星だと思えば、諦めも――もう諦めている――なにを考えているのか……、と唇を噛む。
私もお兄様も、手遅れなのだ。「レストレンジ」の二人は悪徳の血が流れている、どす黒いそれから――。
――逃れられはしないのだ