イースター休暇明け、一日目の夕刻。
ウルペクラは八階にある『必要の部屋』で、くつろいでいた。上質なソファに腰掛け、杖を振る。魔法具修復の手引きや、転移魔法についての本がふわりと浮き上がり、行儀よく棚におさまった。
「じゃあ、行ってくるよ」
わずかに緊張した声は、ポッターのもの。姿をくらます飾り棚の前に立ち、ぎくしゃくとした歩みで闇の中に飛び込む。ぱたり、と扉が閉じた。
落ち着かなさげにあたりをうろついていたセドリックが立ち止まる。灰色の眼がウルペクラを見やった。
「大丈夫かな?」
「そう言うなら、お前が修復すればよかったろうが」
返し、セドリックを睨めつける。
だいたい、全部こいつが悪いとすら思う。ウルペクラがソファに腰掛けているのは、疲れているからだ。なぜ疲れているかというと、姿をくらます飾り棚を修復していたからだ。
――本来
これほど急がなくてもよかったのに、できることなら四月中という無茶を振ってきたのはセドリックである。わざわざポッターを引きずって図書館にやってきて「相談があるんだ」と宣ったのが数日前のことだ。
「悪いね、ダフネともっといたかったろうに」
セドリックはにやりとし、飾り棚の傍らによりかかった。少々寝不足のウルペクラと違い、いつも通り完成された好青年である。無粋にも図書館での逢瀬を邪魔しにきた男とは誰も思うまい……と舌打ちが漏れかける。
「……耳飾りを片方やっただけだ」
「へえ。そして穴をあけて、付けてあげて、似合うよと言ったと」
「そこに割り込んできたお前とポッター。ポッターめ、破廉恥な現場を見たような反応を」
「実際、破廉恥な空気が」
「黙れ、破廉恥過敏症」
セドリックのからかいに、ウルペクラは毒づいた。ちょっとしたやりとりだったはずなのに、過敏症どもの客観的視点を垂れ流されると、実に居心地が悪い。
「この部屋を使えて捗ったろう?」
あまり、破廉恥と言うものじゃなしとばかりに、セドリックが強引に話を変えた。ウルペクラはソファに腰掛けたまま唸る。
飾り棚修復を急いでほしいと言ったセドリックは「寮の自室でやるより、僕らが『必要の部屋』と呼んでいるあそこのほうがいい」とすすめてきた。
ウルペクラは過去に二度ほど『必要の部屋』に踏み入ったことがある。一度目はトム・マールヴォロ・リドルに導かれて。二度目は銀の冠――レイブンクローの髪飾り、その複製を隠すために。
いずれの時も八階に隠されたその部屋は、時と物体が堆積した迷宮の様相を呈していた。が、セドリックが「絶対捗るから」と言うものだから根負けして三度目に踏み入ってみれば、部屋は以前とまったく違っていた。ソファに、書棚。仮眠用の寝具まであった。ウルペクラはセドリックの確信の理由も、部屋が『必要の部屋』と呼ばれている訳も悟るほかなかった。おそらく、トム・マールヴォロ・リドルこと、闇の帝王は隠し場所を求めて迷宮に入り込んだ。絶対誰にもわからない、髪飾りは奪われていないと思い込んでいることだろう。城の秘密は自分のものだと。
「お陰で、ずたずたになった式を再構築して、その傍ら、対の飾り棚回収を手配して、と忙しかったとも。まさか、お前がポッターをぶち込もうと画策するとは思わなかったが」
嫌味ったらしく言ってやる。繰り返すが、本当はもっと余裕を持って修復に取り組めるはずだったのだ。
ポッターがシリウスと話したいらしい、とひょんなことから聞いたセドリックが「じゃあ飾り棚の試運転をしよう」と言ったものだからもう大変。なにがじゃあだよ。
「まさかぶっつけ本番で使うわけにもいかないだろう」
僕は悪くありません、とさらりと主張したセドリック。これでにやにやしたり嘲笑を浮かべていたら、思う存分殴れるのに……とウルペクラは歯噛みした。腹が立つほど正論である。
「知らないぞ、ポッターがどこかで引っかかってても」
そこそこの日数で修復を終わらせて――五月半ばにはできるだろうと踏んでいた――ウルペクラは、己で実験するつもりだったのだ。それがどうだ、名付け親と話したいというポッターの要望を叶えるために頑張るはめになった。煙突飛行に失敗した実績のあるポッター、ポート・キーで墓場まで運ばれたことのあるポッターが、飾り棚での移動に成功すれば、ウルペクラの修復は完璧だったと証されるであろう。
ポッターが箒以外での移動手段を無意識に忌避していてもなお、飾り棚が作動したということなのだから。
もちろんウルペクラの推測に過ぎない。見たところ、ポッターは名付け親と話せるという一事に胸がいっぱいだ。無意識の忌避などないのかもしれない。
「仮にどこかで迷っていても、あちらの面々がなんとかしてくれるだろう」
「そして僕が叱られるのさ」
両面鏡があるだろうに、とさ。
ウルペクラは吐き捨てる。なにがどうしてポッターが名付け親と話したいかはわからない。どうも、閉心術の授業に関係している……つまり、スネイプ関係だ。どうにか聞き出したところ、優秀な閉心術士たるセブルス・スネイプはポッター「なんぞ」に技を伝授していられるか、と特別授業を放棄したのだとか。驚くことに、三月――ダンブルドアと話した時には、ポッターとスネイプの溝は決定的なものとなったようだ。
「まあ、シリウスは乗り気だったし。大丈夫だろう」
「今頃もてなしているだろうな」
うんざりしながら言う。シリウスがポッターに向ける愛情は、ひとかたならぬものがある。ウルペクラが「お前の名付け子が直接会って話したいと言っているんだが」と暗号文を飛ばして打診したら「俺はいつでも歓迎だ。明日でもいいくらいだ。いつになるんだ?」と乱れた字で返してきた。はしゃいでいる犬に「落ち着け。まずはボージン・アンド・バークスから対を回収しないと。トンクスにでも振ってくれ」と返事の返事を書いたのは、記憶に新しい。
きっとシリウスは、ポッターと会える日を指折り数え、首を長くして待っていただろう。
そうして、ウルペクラは「わんちゃん」の機嫌を損ねると面倒、とばかりに働いた。トンクスも働いたろう。七変化を駆使し貴族風の男に化けて、姿をくらます飾り棚を買い付けた。店主は飾り棚を美しい家具としか思っていなかったようで、すんなりと事が運んだそうだ。
ウルペクラは壁――置かれた時計を見やる。十分ほど経過したか。ポッターは移動できたのだろう。飾り棚はその働きを知らぬ者にとっては、ただの家具。対のところに、と念じてこそ本来の力を発揮する。モンタギューは念じるもなにも……だが、あれは対が壊れていたから。ただの事故だ。
「――二時間もかからないだろうな」
セドリックが沈黙を埋めるように呟く。ウルペクラは肩をすくめた。
「ポッターの友人どもが誤魔化すだろう。それに、双子の「本気」らしいから、二時間でも問題ないはず」
「本気って、彼らはなにを……」
「さあ」
首を傾げた。要注意人物たるポッターが、思う存分話せるように、と双子に持ちかけたのはウルペクラだ。まかり間違ってもアンブリッジの手の者に、それか本人に邪魔されるわけにも「怪しい会合をしている」と思われるわけにもいかなかった。ちょうど八階に到着したとき、花火が爆発したような音が聞こえてきたから、陽動作戦は順調に滑り出していたはず。今頃、城は上へ下への大騒ぎであろう。
「室の一つや二つ、なんなら新校長室でも吹き飛ばせば? と言っておいたが」
「やりかねないよ」
「いいだろう別に」
かなりどうでもいい。アンブリッジの趣味の悪い小皿が灰になるなら結構なことだ。
どさくさに紛れて、数週間昏倒してくれてもいいくらいだ。計画の邪魔である。さあ出かけようという時に、しゃりしゃり出てくる気がしてならない。アンブリッジはなにがなんでも成果を上げたいと思っているのだから。ダンブルドアを排除して、浮かれていられたのは一日かそこら。抑圧は反動を生じさせるものだ。スリザリンですら、アンブリッジに積極的に協力する者は少ない。ホグワーツは無法地帯と化し、なにかを勘違いしている女は右往左往、四苦八苦、七転八倒していた。そう遠くないうちに、任に堪えないとして、解任される……かもしれない。
――なんにせよ
ウルペクラは結末を見届けられないだろうが。
ふ、とため息を吐いたとき、飾り棚の扉が開く。細い影が滑り出た。
「ありがとう、話せたよ」
冴えない顔色のポッターがウルペクラに歩み寄る。小さな包みを差し出してきた。
「これ、レギュラスからだって」
「僕の予想では、もうすぐだ」
たぶん五月……上旬かな、と鏡の中の男が言う。
「ブラック家は占者の血筋でしたっけ?」
セドリックとポッターを先に帰し――飾り棚の最終確認と言っておいた――ウルペクラは相も変わらずソファに腰掛けていた。片手には小さな鏡。両面鏡である。シリウスが持っているものとは別に、レギュラスが所有していた。そうして、ポッターに託し、ウルペクラに渡ったのである。
「僕は星読みでね。己の星は見えないが……赤い星の輝き具合からして、そろそろだ」
未来がわかれば、闇の帝王に心酔することも、死喰い人になることも、無謀にも『分霊箱』を奪取しようとし、死にかけることもなかったよな……等々をウルペクラは胸中に仕舞い込んだ。わざわざ言わなくてもいいことはあるものだ。
代わりに、こう口にした。
「一年先でもいいくらいですが」
「残念ながら、セブルスによると……ヴォルデモートは動くつもりらしい」
「そろそろ、民衆が気づき始めたから?」
「魔法省が躍起になってもみ消そうとしている。なにかある……しかもそれなりに信憑性のある説が『ザ・クィブラー』に掲載された」
レギュラスは囁くように言う。灰色の眼が――星に愛された一族の双眸が、きらりと光った。
「怖いかい、ウルペクラ?」
「本能は嫌だと叫んでますよ」
強がろうとして、そうできない。声に混じるのは呻きだ。ウルペクラの未来は確定した。遠くないうちに……一月もしないうちに、退場することになるのだ。
一年先でもいいと言ったのは本音だ。
「……怖くないわけがない。笑えることに、自ら死期を早めるようなことをしながら、終わりが……その時が恐ろしいと思う」
ウルペクラは闇の帝王がつくった最後の『分霊箱』。きっと、常人と同じ年の取り方はしない。その証拠に、闇の帝王はいつの頃からか時を止めてしまっているという。歪んだ魂が肉体まで変異させたのだ。
よって、ウルペクラは破壊されない限り、理論上は百数十年、ひょっとして数百年生きることも可能だろう。たとえ精神が磨耗しようとも、廃人となろうとも「ウルペクラ・レストレンジ」の肉体は生き続ける。壊れた魂の器を生きているとするならば、だが。
闇の帝王は長い長い生を望むあまり、怪物と成り果てた。ウルペクラをもその運命に巻き込んだ。
「『分霊箱』を壊さなければ、不死鳥の騎士団に協力しなければ、すべてを秘密にしていたら、姿をくらませば、神秘部で終わらせようと言わなければ、闇の帝王に従えば」
僕は長く生きられる。
囁きにも満たない、掠れた声が漏れ出る。ひょう、とか細い息を零し、ウルペクラは続けた。
「闇の印を刻まれたのは僕の意志じゃない。『分霊箱』にされたのも、片腕を奪われたのも。僕は望まれて生まれてきた。だが、それは……贄にされるため、捧げられるためだった」
一息で言い、片手で顔を覆う。ドラゴン革に覆われた、銀の手で。
「僕の生は僕のものじゃなかった。最初から、そうじゃなかった。闇の帝王に隷従して生き延びて、それで? そんなものは生きていると言えない」
だから、僕は死ぬんだ。それが僕にできる、唯一の抵抗だから。
レギュラスがなんと答えたのかわからない。気づけば両面鏡は放り出され、ウルペクラはソファに転がっていた。
「……すまない、ダフネ」
指輪は贈ってやれない。
戦慄く声を聞く者は『必要の部屋』のみ。
死を意識し、恐怖するこぎつねは知らない。両面鏡での対話を終え、獅子座の名を冠する男が――星読みがこう呟いていたことを。
本質的に異なる、二つの魂……と。
知らずに、こぎつねは遺書をしたため。
五月二日『必要の部屋』へと再び踏み入った。
「どうか無事で」
「ああ」
ダフネのかすかに震える声に返し、ウルペクラは花唇に掠めるようなくちづけを落とす。とどめとばかりに、太陽の贈り物が煌めく耳朶へ睦言を囁いた。
「■■■■」
見開かれる緑瞳をよそに、己が修復した飾り棚に歩を進める。セドリックも、ポッターも、友人たちも数秒遅れて入ってきた。
ダフネの小さな手が飾り棚に触れる。
ぱたり、と、見事な装飾がなされた扉が。
二人を隔てるように閉じられて。
「……帰ってきてよ」
月桂樹の名を冠する女は、飾り棚を破壊した。そうするように、言われていたから。
なにか、大きな間違いをしたのではと胸騒ぎが襲い来る。
「愛してるなんて」
まるで……と言い掛けて、女は唇を引き結ぶ。
不吉な予感は、口にすべきではないのだ。
本当になってしまうかもしれないから。
――遺言のようだと
思うなんて馬鹿げている。