『赤雷』を一度、二度、三度と振るえばあっけなく事は成せた。
闇色の飾り棚を裂いた傷口は、蜘蛛の巣のように広がり、崩壊が崩壊を呼び、やがて形を保つこともできず、いくつもの欠片が積み上がった。そうして、紅の雷に貫かれた。
マグル製品不正使用取締局の一画に、紅い光が舞う。一秒にも満たない刹那、ウルペクラは飾り棚の残骸が放つ、最後の輝きを見やる。
「よかったのか」
壊す必要が? と声をかけられる。ウルペクラは振り向きもしなかった。
「危険物だ」
それだけを返す。セドリックに――ポッター一味に、多くを語る必要などない。姿をくらます飾り棚は、ここで役目を終えることになっていた。ホグワーツに直接侵入できる通路など、闇側の手に陥ちればどうなることか。言うまでもなく、セドリックたちはわかっているだろうに。
ボージン・アンド・バークスから対の飾り棚を回収し、一旦騎士団本部に移送。そうしてホグワーツ側の飾り棚が修復できたことを確認し、魔法省はマグル製品不正使用取締局の隅へ。押収品という名目で、アーサー・ウィーズリーが運び……と手間暇かけたのは、闇の陣営に気取られないためである。誰も閑職の「血を裏切る者」の部署にホグワーツへの直通路があるなどと思うまい。
一連の流れはセドリックもポッターも承知のはず。ポッターに請われてついてきたグレンジャーやウィーズリーも飾り棚の持つ危険性は悟るだろうに。
――なぜ
わざわざ訊くのか。セドリックの、奇妙に気遣わしげな声が癇に障る。ウルペクラが飾り棚を壊したくないように見えたのか?
「――シリウスが危険なんだろう? おしゃべりしている場合か」
素っ気なく――しかし、わずかな焦りを滲ませて言う。
ポッターは誘き出されたことになっていて、ウルペクラたちはシリウス救出のために乗り込んだことになっているのだから。勇敢で愚かなる者どものふりをしなければならない。
幸いと言っていいのか、セドリックたちは薄汚れ、森の匂いを濃く纏っていた。待ちかまえているであろう死喰い人たちは、勝手に思い込んでくれることだろう。ポッターどもはセストラルに乗ってやってきたらしい、と。
実際はどうだったか。蛙の妨害にあって、森に捨ててきたとのことだ。グレンジャー作の偽金貨にはそう書いてあった。ウルペクラは金貨を眺めつつ、じりじりしながら『必要の部屋』で時間を潰していたのだ。
――このまま
セドリックたちと合流できなければよい、とどこかで思い。
『必要の部屋』に伴った、ダフネの存在を感じ。
成さねばならぬとわかっていても、心の半分では時よ止まれと願いながら。矛盾する思考に、頭がどうにかなりそうだった。
今でもそうだ。この先に進みたくないと思っている。
退路を断つような真似も、したくなかった。
「行くぞ」
呟くように言う。かすかな震えを押し殺す。
飾り棚があった場所から視線を引き剥がし。
飾り棚が繋いでいたものから、心を離す。
この場の誰も知らずとも、ウルペクラは知っている。
これは行きて帰れぬ旅。
「……未練など」
持つものか。
囁きとともに片耳に触れる。太陽の贈り物の耳飾りは、ただ静かにそこにあった。
そうしてこぎつね座のウルペクラは。
最期の旅に。最期の場所に、赴いた。
その名を神秘部。
祖、ラドルファス・レストレンジの復讐の舞台。多くの神秘部員を処刑した場所。
ハリー・ポッターを「生き残った男の子」と成す契機となった、くだらない予言が納められているところ。
闇の帝王、名前のない誰かの。
神秘部は隠され、秘められた場所。その内部は複雑怪奇。通路は気まぐれに経路を変え、時に消失する。人を惑わせる。堅く、堅く守られる。
それは、内に魔法の粋をはらんでいるから。
たとえば、時。
たとえば、思考。
たとえば――予言。
青く揺らめく炎に照らされた、その空間。連なる棚は無数とも思えるほど。納められているのは歌われた予言の数々。
かつて、ラドルファス・レストレンジがすべての予言を打ち砕けど、言の葉は下され続けた。空になった予言の間は、長い長い時を経て再び予言が満ちる場所となった。
「それで?」
一行を予言の間まで導いた男――復讐者ラドルファス・レストレンジの裔たるウルペクラは、軽く息を吐いた。彼の星の眼が見やるのは、肉の母。己と同じ色の、けれども激しい念をたぎらせた双眸。
「揃いも揃ってご苦労にも、我が君の使いとしていらしたと。ただの戯言だというのに」
くだらない、とばかりに肩をすくめてみせれば、獰猛な唸りが波のように打ち寄せてきた。
「――黙れ。予言を渡せ」
ベラトリックスの杖先は寸毫も揺らがない。見事な覚悟であり忠義だと、賞賛する気にもなれなかった。彼女と並び立つロドルファス――ウルペクラの肉の父も「妻」に倣っていた。レストレンジ夫妻の杖先が仲良く狙っているのはウルペクラである。
他方、叔父たるルシウスと胤違いの妹デルフィーニはポッター一行を牽制するように杖を構えている。
「予言に関してはポッターに権利があります。それか親愛なる我が君に」
ウルペクラは穏やかに返した。柔らかく、滑らかで。ただそれだけ。実の父母との再会も、杖を向けられているという事実も、ウルペクラの心をかき乱すことはない。
期待しなければ、失望することもない。それだけのことだった。
レストレンジ夫妻は、単なる血の繋がった他人である。今更感動の再会もなにもあるものか。
だから。
「それでも私の息子か。ウルペクラ」
「こちらに来い、ウルペクラ。お前は我が君のものなのだから」
片方が激し、片方が淡々と口にしたその言に、失笑するほかなかった。
高く、ひきつれた木霊が、予言の間に吸い込まれる。涙が滲むほど笑い、喉を鳴らし。ようやっと呼吸を鎮め、ウルペクラはにぃっと口端を吊り上げた。弧を描く月にも、死神の鎌にも思える、鋭利な形に。
「父上、母上」
ウルペクラは呼びかける。己に金の髪を、星の眼を授けた男女を眺めやる。
望まぬ運命を押しつけた『蠍』と『双狼』に唸った。
「これだけは言っておきます」
ひらり、と左手を振る。顕現した『赤雷』が閃いた刹那、彼はこの言葉を贈った。
「誰が産んでくれと頼んだ?」
温度のない声とともに、棚が崩壊する。いくつもの、無数とも思える硝子玉が転がり落ちて、輝く雨のよう。儚い音ともに砕けて散って。
青く染められた床に、星の渦を描いた。
「やれ」
ポッター。
闇を印されし者は、稲妻を印されし者に呼びかけた。
崩壊に巻き込まれた死喰い人たちの叫びも虚しく。ハリー・ポッターの手から、硝子玉が滑り落ちる。
あまりに脆く、あまりにあっけなく予言の硝子玉は砕かれて。
描かれた星々に、またひとつ光が集った。
青く輝く闇の中を、一行は駆け抜ける。追いかけてくる者たちの存在は承知の上で。
予言が喪われたとなれば、するべきことはひとつだけ。
すなわち、命の奪い合い。
「……なんで、なんで」
なんで、なんで!
神秘部最奥、魔法省のはじまりとされる場所。「穴」の底であった地に、高く、脆く、ひび割れた声が響く。
聳える巨大な門の、落ちかかる闇に染められた藍色を、デルフィーニは潤ませて、ただ叫ぶ。
「お兄様、どうして?」
疑問とともに振るわれるのは『星屑の剣』。夜闇の、星の一族たるブラック家の宝剣から迸るのは蒼い炎。
「教えてやろう妹よ」
ウルペクラは、軽やかに歩を踏み、流れるように『赤雷』を翻す。赤い稲妻が、蒼い炎と喰い合って、弾け、砕ける。光の粒子は紫の星となって、あたりに散った。
「親と暮らせば幸せだ……なんて、幻想に過ぎないからだ。だから、裏切るも――」
眠りの魔法を切り裂いて、ウルペクラは鼻を鳴らした。
「――裏切らないも、あるものか」
わかっているんだろう、とからかうように言ってやる。殺意を乗せた蒼。そうして迎え撃つ赤の応酬。こぎつねと白いるか、闇の帝王によって名付けられ、印を刻まれた兄と妹がこうして舞い始め、どれほどの時が経ったのか。刹那にも、永遠にも思える。逆転時計の繰り返す時間の中にいるようにも思える。
――逆転時計は
すべて壊したけれど、とウルペクラは小さく笑う。水を差すように、衣が鉄の重さを帯びる。軽く右手――杖を振って、変身を解除――ではなく、呪いを打ち返した。
白いるかの動きが鈍る。己が仕掛けた変身術を食らい顔を歪ませるも、虫を払うようにたやすく、解除。
ウルペクラとデルフィーニ。星の名を冠する二人に流れるのはブラック家の血。どこからか流れ着いた形質が、七変化となって顕れた。故に変身術は得意なのだ。
半分だけ血の繋がった兄妹の戦いは、殺し合いというには激しさが足りなかった。戯れにも思えるほど軽やかで、予定調和に見えるほど、流れるようで。一方が放ち、一方が回避し。一方が振るい、一方がいなす。
時の砂ばかりが落ちていく。
「お父様に従えば、地位を約束されるのに。私と一緒に……そばに……」
「お兄様にすがるほど辛かったか。僕らの「お母様」はあてにならないようだしな」
ぎゃ、と『赤雷』が床を抉る。粉塵が舞い、デルフィーニが半歩後退する。わずかに稼いだ隙で、ウルペクラは周囲を見回した。
大半の死喰い人が制圧された。ルシウスはどこかで転がっていて、ノットの父をはじめとした残党は応戦するふりをして逃げ回っているが。ポッター一味と追いかけっこを演じているようである。シャックルボルトやトンクス、マッド・アイは淡々と狩りをしている。
壇の上で死の舞踏を演じているのは、ラバスタンとシリウス、ベラトリックスとレギュラス、ロドルファスとセドリック。光がいくつも閃めく中「レギュラス!」とお美しい母上の怒声が響いている。「やあお元気そうでなにより、ベラ」とレギュラスは余裕綽々だ。
壇上の攻防は激しさを増す。そろそろか――と思ったそのとき。
「――なにをしている、ベラ、デルフィーニ」
情の欠片もない声とともに、闇が滲み、膨れ上がり、人の形をとって、現出した。
闇の帝王の紅眼が、己が副官を捉え、刹那の半分にも満たない空白が生まれた。
「これほど」
手こずるとは、不甲斐ない、失望した。
闇の帝王がなにを言おうとしたか、ウルペクラは知らない。聞き取りもしない。
彼は行動を開始した。『赤雷』が虚空をはしる。
纏う色は赤ではなく蒼。
燐のごとき、美しく澄んだ色が闇の帝王に襲いかかる。
死の呪文の緑ではない。一本の矢が闇の帝王を射抜いたとて、意味はない。
ウルペクラに必要なのは時間だった。ほんのわずかな、仕上げのための時の砂。
だから、この魔法を使う。
彼の大悪が使ったとされる魔法。
「
『分霊箱』――黄金のカップと銀の冠を打ち砕いた炎が、闇の帝王を包み込む。長い長い悲鳴。もがき苦しむ影が、旧い大悪の炎を祓おうとする。散ったと思えばまた集い、闇の帝王を食んでいく。蒼い蝶に覆われたがごとき様は、美しくもおぞましい。
「……見事な再現だの」
と、と壇の上に降り立ったのは、大魔法使い。かつての友、決別した悪の蒼炎を留め、闇の帝王を灼熱の獄から逃がしはしない。
誰もが――死喰い人たちや騎士団員が蒼い影を見やる。それは、闇の帝王の娘たるデルフィーニも同じこと。
するり、とその腰に『赤雷』が巻き付いて。雷を纏わぬそれが、そうっと引き寄せる。
『星屑の剣』を持った妹を、兄の下へ。
「え……」
呆けたような声。
ウルペクラは妹を抱き留めた。まるで、ダンスに誘うように。するり、と二つの影が溶け合う。細い影が、突き出した。
鈍い音。そして衝撃にウルペクラは笑う。思惑通りにいった、と。
デルフィーニがこの日、この場所に『星屑の剣』を持ってきてくれてよかった、と安堵する。
「焼け焦げた、醜い様など」
見せたくないからな。
銀の右手を妹の背に回し、耳元で囁く。
左手は、妹の細腕を掴んで離さない。
宝剣の切っ先を、引き抜かれては困るから。
「『星屑の剣』は『分霊箱』を――僕を、殺す物質だから」
己が胸を、背を貫く灼熱をウルペクラは意識する。せめて、死ぬのならば苦しみは少ないほうがよい。
だからこそ悪霊の火や聖にして邪なる炎環で、自身を灼こうとは思わなかった。
けれど、闇の印も、なにもかもが燃えている……そう錯覚するほどの痛苦。
そう楽には死ねないらしい……と唇を歪める。
耐え切れず、膝を突く。あふれるのは鉄錆の香。
お兄様! という悲鳴。
世界が揺れる。炎に呑まれる。
己が内に巣食う、邪悪なる魂が断末魔とともに砕けていく。それが、わかる。
そうして、わずかな満足を覚え。
ウルペクラの意識は、闇に滑り降りていった。
どこでもないどこか。黄昏に染まった野原を歩いていて。
醜い醜い赤ん坊が泣いていた。
憎くて憎くてたまらずに、その怪物に得物を振るおうとすれば、誰かが縋りついて。ぎゅっとこぎつねの片腕を掴んできた。
ごめんなさい、ごめんなさい、産んでしまってごめんなさい。坊や。だけれども、ほしかったの。あのひととの子どもがほしかったの。
あいしてくれると思ったから。
死んでしまってごめんなさい。わたしの坊や。
どうかどうか、ひどいことをしないでください。
白銀の髪に、赤い眼の女はけして美しくなかった。語彙もつたなかった。だけれども、必死だった。
みっともなく泣いていた。みっともなく、懇願していた。
どうか、わたしが坊やを連れて行くから。
ずっと、待っていたの……。
弱々しく、けれど頑固な女に舌打ちして、怪物を押しつけてやった。
ありがとう、ありがとう、と女は言って。震える片手で赤ん坊を抱き。
残る片手、荒れた指先でこぎつねの胸を――心臓のあるあたりをそっと撫でた。
わたしの坊やがごめんなさい。
あなたがしあわせになりますように。
にっこり言って、女はどこかを指さす。
明るいところにお行きなさい。帰りなさい。だいじょうぶよ、間に合うわ。
わたしたちは、暗いほうに還ります。
ああ、怪物が呼んでいる……。
じゃあね、と女は手を振って、ゆっくりと歩き去っていく。
大事に大事に醜いなにかを抱えて、その影は黄昏にとけていく。
ぼう、と女を見送って、こぎつねは歩き出す。明るいほうへと。
ふと空を見上げれば、禍々しい紅い星が。
弧を描いて墜ちていった。
――夢か、幻か
どこでもないどこかの記憶が、あわあわと最後の輝きを放って失せていく。
ウルペクラはふっと眼を開けた。
胸のあたりが酷く痛み、小さく呻く。どうやら自分は寝台にいるらしい、とそれだけを把握した。
「……ウル?」
覗き込んできたのは、鮮やかな緑だ。生きる喜びに満ちた色彩だった。
「――ダフネ」
かろうじて、その名を口にして。目眩をこらえ、問いを投げた。
「なんで僕は――」
生きている、と言おうとして叶わない。
ただぎゅっと抱きしめられた。華奢な身体の重みを感じつつ、どうにか背を撫でてやる。
「あんな、遺言みたいな」
「ごめん」
「愛してるって言い逃げみたいに」
「本音だ。逃げじゃない。仕方なかった」
返し、ウルペクラは視線を巡らせる。窓から月が覗いている。柔らかな光が照らすのは、卓の上に置かれた小瓶。
貼られたラベルに書かれているのは。細長い字。
綴られていたのは命の水、という言葉だった。
次で最終話です。