【完結】Black Heart Vulpecula 作:扇架
Peregrine
くすんだ色の波に遊ぶ、小舟の上。空を仰いでみれば、断ち割られたように色を変えている。
振り向けば、遠く遠くにあるのは蒼。見えない線のこちら側は、灰色。
夏の国と冬の国のようだ、と彼は思う。交わらない季節、交わらない世界。永遠に隔てられたあちらとこちら。
そのどれもが間違ってはいない。
北の海、とある孤島は鎖されている。
大監獄アズカバンは。
人の世の向こう、希望のない果ての地なのだ。
岸に着き、ろくに舗装もされていない岩場を抜け、聳える門をくぐり、所定の手続きを済ませ、ウルペクラ・レストレンジは看守の背を追った。もっと厳重な手順があるのかと思いきや、と拍子抜けだ。レストレンジの家紋――『蠍』紋の腕輪を示すだけで「ご案内します」ときた。もっとも、ウルペクラの呼びかけに応えて銀色の蠍に変じ、腕輪に戻った場面を看守はみているわけで、ただの腕輪なわけがない。そのあたりを看守は心得ていたのだろう。
――それに
『蠍』紋を堂々と身につける馬鹿がいるはずもない……とウルペクラは唇を歪ませる。英国のレストレンジ、その本家の紋などなおさらだ。長い長い尾――十三節の尾を持つ蠍を身につけるのは、今やウルペクラともう一人だけなのだから。
その一人はこの世の果てたるアズカバンの、闇の底にいる。
暗く虚ろな靴音を響かせて、鉄錆の香をかきわけて。
ウルペクラは、会いに行く。
「片づけに来たか」
最下層、色濃く鉄錆が香る、淀んだ場所――古代語が彫り込まれた鉄格子の向こうにいる影が、軽く問いかけてくる。
乏しい魔法灯に照らされるその面はやつれ、金の髪はくすみ、薄青の眼は凪いでいた。
「情けをかけるつもりはない」
ウルペクラは格子の前で腕を組み、囚われ人――汚らしい石床に座り込む、実の父、ロドルファス・レストレンジを見やる。
「退屈で死にそうだ」
「吸魂鬼がいなくなったから快適だろうに」
戯言を鼻で笑っていなす。
今のアズカバンに吸魂鬼の影はない。彼らは離反し、魔法省の制御下にない。孤島に囚人を放り込めば吸魂鬼が勝手に片づけてくれた……そんな時代は終わったのだ。
闇の帝王がいなくなって約二ヶ月。だからといって面倒事が減るわけではない。むしろ増えるといういい例であろう。
魔法省はアズカバンの改革を余儀なくされた。吸魂鬼の穴を埋めるように、看守――人間だ――を増員。聞くところによれば、守護霊の呪文を使えて腕が立つ人員をかき集めたとか。元々、人間の看守もいるにはいたが、少数精鋭。少数精鋭と言えば聞こえがいいが、不人気。増員と言うだけならば簡単だが、人員確保は相当難航しているようだ。
おまけに吸魂鬼狩りをせざるを得なくなり、ついでに監獄の守りを強化し、と魔法省は大忙しだ。
「一応三食付いて、屋根もあるんだから贅沢なものじゃないか。働かずに優雅そのもの」
つらつらと言ってやる。頭の片隅に魔法省から――実のところルーファス・スクリムジョールの誘い――が浮かぶ。省に入らないかね、アズカバンの看守なんてどうだろう。年収■■■■ガリオン……とそれとなく話があった。よほどアズカバンの看守は不人気らしい。「レストレンジ」を勧誘するとはどういうことであろう。
――ノグテイル狩りのときに
また打診があるのだろうな、と逸れかけた意識を、気だるげな声が引き戻した。
「お前にはわかるまい。無為な時間の積み重ねが、どれほどのものか」
「我が君の御為に、十数年耐えたとは思えない口振りだ」
ちらと「父」を見て、なんだか嫌気が差してきた。ウルペクラに流れる血の半分はこの男のものだ。金の髪と、性格のいくらかは父譲りであろう。難儀なことに。けして無能ではないが、致命的に道を間違えた男。間違え続けている男。今に至るも、ずっと。
「我が君のお供をすればよかったんだ」
皮肉を乗せて言ってやる。挑発を込めたそれに、返ってきたのはかすかな笑いだった。
「ベラが逝ったからな」
だからいい、とロドルファスは言う。温度のない声。同志について語る口振り。ベラトリックス・レストレンジ――旧姓ブラックについて世界で一番わかっている、とでもいうような。
ろくでなしのくせに、とウルペクラは歯噛みしたくなった。理解ある夫婦ごっこかよ、と。
そうともベラトリックスは死んだ。あっけなく、意外な形で逝った。神秘部最奥の「門」に「愛する我が君」を追って飛び込んだのだ。焼け焦げた主の身体を回収しようとしたのか、それとも目的を失ったがゆえの、自裁か。真相は闇の中。ベラトリックスにだってわからなかったのかもしれない。あるのは結果だけだ。闇の帝王の寵臣、彼の子を孕み産み落とすという「誉れ」を与えられた女は死んだ。永遠に、いなくなった。
「私に情けをかけるでも、ベラの思い出話に花を咲かせるわけでもない。お前、なにをしにきた」
「惨めなろくでなしを見物に……というのは冗談だ」
まるで父子らしい会話ではないが、仕方がないだろう。ウルペクラとロドルファスは血肉で繋がっているだけ。情らしい情はない。実の子を贄に捧げた男を父と思うなんて無理な話だ。十数年分の恨み辛みを思えば、少々、いささか、刺々しくなったところで可愛いものであろう。
「指輪」
慎重に、右手――銀の手を突き出す。反抗的な息子にはやらん、と言われるかと思えば違った。ロドルファスは身じろぎ、指輪を引き抜いた。じりじりと格子に近づき、痩せた指を突き出してきた。煌めく銀色を、受け取った。
レストレンジの当主の指輪を、ウルペクラは左手――人差し指にはめる。じわり、と指輪が熱を帯び、あっけなく継承は済んだ。
長い長いレストレンジの歴史の中で、こんな継承などあったろうか。監獄の中で、見守る者といえば看守くらいで。儀式らしい儀式もなく。
家令たちの助けを借り、実質的にレストレンジ家を仕切っていたのはウルペクラである。長い長い間「嫡子」で「代行」であった。だから、当主の指輪を回収しなくとも特段不便はなかったのだ。
当主死亡につき、ということにして新たな指輪をつくってもよかった。闇の帝王亡き後の「新時代」にはそちらのほうがふさわしかったのかもしれない。
だが、魔が差したのか、気まぐれか。己にもわからないまま、ウルペクラは監獄に足を運んでしまっていた……。
「レストレンジのことは心配なさらず。ゆるりとお過ごしください、父上」
囁くように告げ、とっくりと「父」を眺め、ウルペクラは踵を返した。ローブが翻り、ふわりと鉄錆が香る。
「よく言う」
くっ、と軋むような笑声が追いかけてくる。
「ウルペクラ・レストレンジ。我が君がお隠れして、それでおしまいと思うのか」
甘い、と声は続ける。
「野に同志が散っている。中には、誰かを担ぎ上げようとする者もいるだろう……たとえば、お前。それかデルフィーニ」
「おいたわしい父上。妄言を吐きなさるとは」
ふう、とため息を吐く。けして、振り向かないままに歩を進める。
最後の最後に、餞別の言葉を投げた。
「どうか、次会う時までご健勝で」
それから、叔父のラバスタンが絡んでくるのをいなし、叔父――姻族のほう――のルシウスにシシー叔母からの手紙を差し入れ、ノットの父に本を差し入れ、ウルペクラは監獄の外に出た。
鈍い陽の下、濁った海に漕ぎ出す。生臭い風に吹かれながら、まっすぐに南を見る。
「……我が君もろとも殺しておくべきだった」
ぽつ、とこぼした呟きを聞く者は、空と海だけ。だから、存分に不機嫌をまき散らせる。
主を喪い、監獄に逆戻りで少しはしおらしくしているかと思えば。ロドラファスはまったく悪びれていない。最後の最後、お優しい忠告まで下さるとは。
「誰が闇の帝王の子だよ」
残党が担ぐといえば、それくらいしかいないだろう。つまりデルフィーニである。デルフィーニ・レストレンジ。赤い眼に白銀の髪を持つ「妹」。闇の帝王の子、それか血縁ではあるまいかと囁かれるであろう女。とち狂った馬鹿が担ぐ可能性は十分にある。そして「レストレンジ兄妹」の兄であるウルペクラに白羽の矢が立つ可能性もあるのだ。突然現れた、謎めいた「大陸育ちのレストレンジ」の「兄」だから。
いくらウルペクラが「レストレンジだ」と主張したところで、純血過激派は気にするまい。ひとまず旗頭が必要、と捏造でもなんでもしかねない。争乱を起こしたい者なんて掃いて捨てるほどいるだろう。
――こうなったら
闇の帝王の子がいるのではないか、と噂を流すとしよう。純血の誰それ、いやあの子、あの娘、と通り一遍出回れば、そのうち与太話として片づけられることであろう。もちろんウルペクラとデルフィーニも対象にすればいい。先手を打ってやるのである。そうして、否定してしまえ。レギュラス・ブラックの養女――まだ予定だが――のデルフィーニ、そしてレストレンジ家当主たるウルペクラのことを噂できるものならすればよい。
眉間に皺を刻み、彼方を見晴るかす。人の世へ、澄んだ空がある場所に、近づいている。天は美しい蒼に染まっている。
闇の帝王を灼いた燐を思い出す。レストレンジの書庫に眠っていた資料を元に、ウルペクラが再構築した蒼炎。ゲラート・グリンデルバルドの代名詞ともいえる魔法。聖にして邪なる炎環。
大悪を討ち、分けられた魂の器――黄金のカップと銀の髪飾りを破壊した炎はいずれ。
ロドルファス・レストレンジを灼くであろう。
英国魔法界の最高刑は終身刑であった。が、それは吸魂鬼という狩人がいたから成り立っていた仕組みだ。監獄に送れば勝手に死んでくれていた。髪が白くなるまで生き延びる者などいなかった。緩慢、消極的な死刑。
吸魂鬼はもういない。監獄は解放された。そのうちに、ウルペクラに使者が遣わされることだろう。父君の処刑が決まりました、つきましては……と恭しく言うに違いない。
ルーファス・スクリムジョールはけして無能でも邪悪でもない。むしろ有能で冷徹だろう。無情ともいいがたく、どうやらウルペクラに目をかけているようだが。
だからこそレストレンジの当主の手で、前の当主を、一族の汚点を処分しろと選択を迫る。そう、ウルペクラは確信している。
悪縁を、呪縛を断ち切らせるために、彼は命じる。己が父を殺せ、と。
――拒否するつもりはない
喜んで、ウルペクラは父を滅ぼすだろう。旧悪を除き、新たな風を吹かせるために。
血の臭気を帯びた風に、顔をしかめたそのとき、白い白い輝きが波の上を翔けてきた。
右手を伸べれば、銀の隼が音もなく舞い降りる。柔らかな声で伝言を囁き、ぬくもりを宿した風を吹かせ、散っていく。
きらきらとした残滓を星の眼に映し、ウルペクラは杖を振った。軌跡が銀の輝きを描き、星の光を宿した。
「今から帰るよ」
ダフネ、と紡いだ声は我知らず、穏やかで。
言の葉を乗せた隼が、蒼い蒼い空の果てに飛び去った。