――うんざりだ
九月某日。ウルペクラはホグワーツ城内を歩きつつ、そっと息を吐いた。現在、授業と授業の間の休憩時間兼移動時間である。ウルペクラの次の授業は闇の魔術に対する防衛術であったが、爪先を向けるのは図書館であった。
ギルデロイ・ロックハートによる初回の授業に出て悟ったのだ。ああ、これは駄目だ。自習のほうがよほどいいと。
元々、ただの有名人。自伝もとい小説が売れただけの成り上がり。数年もしないうちに消えそうだと思っていた。名家出身であるという裏打ちもなく、従って教養も乏しそう。しかも、学生時代はただ目立ちたがっただけで、特筆すべき功績や実力の片鱗はなかったようだ。
では、前任のクィレルはどうか。彼とて名家の出ではなく、純血を名乗れる者ではなかったが、その知識は幅広く、教え方は丁寧であった。まとも、常識的、分をわきまえていると言ってもいい。闇の帝王に憑依されただか、身体を差し出したかしなければよかったものを。
「……いやはや、惜しい人を亡くした」
ロックハートに期待していなかったし、懸念もあったが、想像以上の馬鹿であった。小説の朗読会にウルペクラは参加した覚えはない。浮かれゆく魂を呼び戻すという禁術――あるいは死の秘宝の一つ、蘇りの石でも使って、クィレルを地獄から引きずり戻せないだろうか。無能よりも亡霊のほうがまだマシだ。
来年は普通魔法試験、通称ふくろうがあるのだ。ウルペクラは四年生。九月中旬を過ぎ、十五歳になった。九月の十三日生まれなのである。あと二年もすれば成人で、ホグワーツで学べる時間はさして残されていない。普通魔法試験で可ばかりとるわけにはいかない。高等魔法試験でとれる科目が著しく制限される。
――名家に生まれたからといって
胡座をかいていられない。血筋を盾に、偉ぶるだけなら馬鹿でもできる。吼えるだけの愚か者が継げば、名家などたちまちのうちに滅びる。没落し、他家に食われる。実権を無くし、名ばかりとなり、やがて社交界――上流から締め出され、財は底を尽き、名誉は泥にまみれる。下位の貴族に娘を嫁がせ、あるいは商人に息子をやって……金貨を恵まれるはめになるだろう。
ノット家の祖が唱えたと言われる、間違いなく純血とされる聖二十八族ですら、階を転がり落ち、虫の息の一族があるのだ。たとえばプルウェット。先の戦で直系男子を失っている。たとえばクラウチ。これまた、直系の男子を失っている。レストレンジは泥にまみれ、闇の家系として知られているが、踏みとどまっている。少なくともウルペクラがどこぞの身売りする必要はない。しかし、足下が危ういのは確か。今の当主は監獄の中。ウルペクラが下手を打てば――金庫の中身を蕩尽する、遊びにうつつを抜かす、事故死あるいは病死、殺害されるなど――レストレンジはただの空の器になり、没落するだろう。
家令夫妻とて血は薄いがレストレンジに連なる者。万が一の場合は彼らに託すことになろう。だが、所詮使用人。大陸のレストレンジが横槍を入れてくる可能性は、なくもない。
仮に薄い薄い血の大陸のレストレンジが引き継いだとしよう。彼らが英国レストレンジを大事に守るとは思えない。邸は売り払われ、領地も解体される。ウルペクラの父、ロドルファス・レストレンジが「帰還」することなど、ありえないのだから。
彼は死んだも同然だ。彼の妻――ウルペクラの母である、ベラトリックス・レストレンジ同様に。
レストレンジをブラックのようにするわけにはいかないし、ゴーントのようになるのも真っ平である。
ブラックは直系男子の一人が消息不明、おそらく死亡しており、もう一人が監獄の中である。レストレンジよりなお悪い状況で、獄中のブラックが死ねば、マルフォイかレストレンジがブラック家を引き継ぐことになるかもしれない。
ブラック家は原則男子が相続するらしいので……ウルペクラに星の王冠が転がり込んでくる可能性が高いが。ウルペクラの母はブラック分家の長子――長女なのである。獄中にいるシリウス・ブラックの、最も近い血縁。分家長子のこれまた長子、しかも男子であるウルペクラが継承権第一位になると思われる。婚姻による乗っ取り、あるいは継承の一例だ。
ゴーントの場合は、と思考を巡らせる。こちらは単純明快な没落だ。純血にこだわりすぎて、同族としか交わらなかった結果、濃くなりすぎた血のしっぺ返しを受けて、異常者を多数輩出。やんごとなき純血からも避けられ、蔑まれるはめになり、ますます箍が外れ、血を誇るしかできなくなり、孤立し、蔑まれ……と悪循環。先祖代々の財も使い果たし、ゴーントは滅んだ。サラザール・スリザリンの直系とされる家が、なんと無様な結末か。
ウルペクラはレストレンジの最後の主になるつもりはない。ただ静かに生きていきたい。
だというのに、願いも虚しく、余計な手間をかけさせられている。闇の魔術に対する防衛術教授が木偶だからだ。しゃべらないだけ、木偶のほうがいいかもしれない。
沈黙は金、雄弁は銀。おしゃべり人形は嫌いである。
足早に歩を進める。どいつもこいつも。ドラコも同類であろう。眉間に皺が寄りそうになる。片手でもみほぐし、どうにか違うことを考えようとする。
――従弟の
不用意な、穢れた血発言から意識を逸らそうとして、失敗する。考えるまいと意識することは、畢竟、それについて考えることである。心を閉じることはできるが、空にするまでには至らない。嘘か本当か、真に優れた閉心術者は、相手に空白を見せるらしい。心を押し開いても、見えるのはただの虚。しまいに覗いた者が発狂するとか。伝説、おとぎ話の類である。
次いで優れた者は相手が望むものを見せ、惑わす。いわゆる一流である。その次がただ心を閉じる。
ウルペクラは一流の閉心術者であるが、それでも、己の心がままならない時というものはある。いくら閉心術者であっても、監禁し、磔刑の呪文で弱らせられれば、守りは緩むものだが。何事も絶対はない。一流であればこそ、そのことをよく肝に銘じるべし、とは家令夫妻の教えである。
完璧などない。人というものは間違えるものだ。ドラコは真綿にくるまれるようにして育った類。
――だからまあ
「……仕方ないのかもしれない」
ぽつんと呟く。どうせ誰も聞いていない。たいていの生徒は次の教室に移動するのに忙しい。ウルペクラには連れ立つ者もいない。同室者はいるものの、ウルペクラは彼らを犬のように連れ回す趣味はなかった。悪名高きレストレンジ家の子息に連れ回されたい輩がいようが、知ったことではなかった。それに、人数の関係でウルペクラには今年から個室が割り当てられた。ひょっとして現時点で来年の監督生に内定している可能性もある。監督生は希望すれば個室がもらえたはずだった。
黙々と歩を進める。頭の中はドラコの愚かしい発言でいっぱいだった。ウルペクラは無駄な努力をやめた。考えないことなどできはしないのだ。おとぎ話の心の
穢れた血、とドラコは言ったらしい。らしいというか、本人から聞いた。ウィーズリーのやつが呪いを逆噴射させて滑稽だったよウル。あいつ、グレンジャーを穢れた血って呼んだら怒ったんだ。血を裏切る者と穢れた血、似合いじゃないかと笑っていた。
言動に気をつけろ。お前は自分がなにをしたかわかっているのか。そんな説教をしても意味がないのは明らかだ。なにせドラコの周りは――主にクィディッチチームの面々――穢れた血発言を面白がっているのだから。ウルペクラが「生き残った男の子に絡むな」「穢れた血と口にすることは過激派と迎合することだ」「現在、マグル保護法が制定されようとしていることからわかるように、純血主義はよい顔をされない」と言っても馬耳東風に決まっている。
ウルペクラは「マグル生まれのカメラ小僧」や「なめくじを吐くウィーズリー」のものまねをするドラコに心底うんざりした。間違っても談話室で会わないように、なるべく図書館に籠もるようにしていた。
なにが面白いのだか。ドラコのものまねは、大いにうけていた。ダフネ、ノット、ザビニあたりは冷めた眼を向けていたが。純血貴族マルフォイ家の御曹司は、子どもっぽい、幼稚だと思われているようだ。
もう知らん、と思う。よちよちと後をついて回り、ウル、ウルと言ってまとわりつき、誰かのものを盗って、罪をなすりつけ。
そんなことはすっかり忘れ、無邪気に寄ってくる従弟。彼がホグワーツに入学して一年、監視も兼ねてそれなりに面倒をみたのだからいいだろう。お前はもう、過激派として生きていけ。
どうせレストレンジの悪事は千里を走っているのだ。口の悪い従弟がひっついたところで今更だ。
放置、と考えをまとめてすっきりする。いつの間にやら図書館の近くに差し掛かっていた。嫌な予感がして、闇の魔術に対する防衛術の参考書は家からたんと持ってきたし、書店にも発注し、取り寄せた。フローリシュ・アンド・ブロッツ書店での騒ぎの後に、注文書を送ったのである。
図書館で座学、自室で呪文の練習をすれば、なんとかなるだろう。集中だ集中、と気を取り直す。ドラコの馬鹿面を内心で殴りながら。
が、ウルペクラの目論見は、儚く崩れ去った。次の角を曲がれば図書館、というところで、障害物があったのである。
数人の、こまこました一年生と思しき生徒。中古のローブが、血を裏切る者が、とはしゃいでいる。
「お前なんて」
穢れた血の仲間じゃないか!
幼い、少し高い声。耳障りなことこの上ない。兎のほうがまだ可愛らしい。こいつらは蛙か蛭と言ったところか。みっともない阿呆どもが囃し立てているのは、赤毛の女の子だ。
突き飛ばされたのか、しりもちをつき、うつむいている。切り裂かれたのだろう。鞄から学用品がこぼれている。
眼を細める。ため息すらつかず、ウルペクラは杖を振った。
「血を裏切る者に構い」
僕の邪魔をするか。
小さな一年生が、まとめて倒れる。かつ、と鋭く靴音を響かせ、距離を詰めれば、確認するまでもなく緑と銀のネクタイを締めていた。全身金縛りを少しゆるめた術をかけられて、彼らは床に転がったまま、豚のように鳴いた。
誰だ、酷い。僕らはスリザリンだぞ純血だぞと鳴いていたが――ウルペクラの顔を見たとたん、凍り付いた。
「そこのお前は純血とは名ばかりの混血だったな」
祖父母の代にマグルと結びついてなかったか?
「嘆かわしいことに、お前も混血。というよりも不明」
正妻の子ということにはなっているが。父親が、夜の花を手折ったとの噂。
「僕の顔をちゃんと覚えているのは賢いが」
三人目に、にっこりと笑いかける。屈み込み、ネクタイをぐっと引き寄せて、へたり込んだその子の、見開かれた眼を覗き込むようにする。
「お遊びにかまけているから、君の家は上に登れないんだよ」
なあ、純血の――嬢?
「それとも混血の男の子に乗せられて」
赤毛虐めをし、廊下を塞ぎ。
「この僕の」
行く手を阻むか。
上位者には道を譲るものだろう? まったく躾がなっていない。純血も地に堕ちたな。
ぴしゃりと言い、令嬢もといはしゃいだ愚民のネクタイを離してやる。いくらでもいびってやれたが勘弁してやった。邪魔すぎるので、追い払い呪文で廊下の果てまで飛ばしてやる。もちろん、図書館とは逆方向に。
叫びが響いたが無視。立ち上がり、鼻を鳴らす。
振り向いて、ちらと赤毛の女の子を捉え、散らばる学用品を眺めやる。
つっと眉をひそめた。
杖を一振り。好き勝手に転がる教科書が行儀よく積み上がる。割れたインク壷は修復され、こぼれたインクがおさまる。羊皮紙がふわりと舞い上がり、ウルペクラと女の子を隔てる。くるりと丸まった、何本もの筒が床に転がった。
最後の仕上げにもう一振り。破れた鞄に応急処置を施した。
「あの、」
か細い声。ウルペクラは、女の子の――ウィーズリー家の娘の、青い眼に一瞥をくれた。
「授業に遅れたいのか?」
冷たく言い放ち、女の子に背を向ける。手を差し出して、助け起こしてやるほど、ウルペクラは暇ではないし、親切ではない。そんなものは騎士道を謳うグルフィンドールの仕事である。
かつん、と靴音。ローブの裾がふわりと膨らむ。角を折れ、ウルペクラは唇を歪めた
ローブの内ポケットから取り出したのは、黒い本――どうやら、日記帳。闇のにおいが芳しく香る。
なぜウィーズリー家の娘が、闇の品を持っているのか。逆転時計を使うまでもなく、答えは明白。
「……叔父上ときたら」
なにをたくらんでおられるやら、と歌うように言う。
わざわざウィーズリー家に絡みに行ったのも、これを仕込むためだったのだろう。
くだらない。さすが不忠者。スリザリンの一年生と同じく、お遊びがお好きらしい。
「さあて、お前をどうしてやろうか」
においはきついが、即死の呪いがかっているわけでもあるまい。
ひとまず、保管しておくか。ルシウスへのなんらかの手札になるかもしれない。
まさか甥に奪われているとは思わないだろう。
くつっと笑ったそのとき。
闇の香が立ち上る。ふわり、とウルペクラにまとわりつき。
耳元で、誰かが笑った。
くすっと。
悪戯な、どこか無邪気で残酷な、声がした。
――そうして十月三十一日
『秘密の部屋』が開かれた。
「――なにをどうしたら、そういう結論になる」
十一月一日、図書館の奥――禁書の棚の近くで、ウルペクラは嘆息した。背は棚に押しつけられ、目の前には剣呑な眼をした赤毛が二人。鏡に映したかのようにそっくりだ、とこんな時なのに感心する。こんな時だからこそ、くだらないことを考えるのかもしれないが。
「どうしたも」
「こうしたも」
お前はレストレンジだろう、とウィーズリーの双子は綺麗に、寸分のずれもなく言い切った。さすが双子。一心同体というわけだ。つまるところ、片方が暴走しても片方が止めないということである。
「お前たちの可愛い妹を――ウィーズリー家の一人娘を、」
赤毛どもを睨み、吐き捨てた。
「僕が構うわけがないだろう」
切って捨てる。だというのに、双子は包囲を解かない。ウルペクラに杖を向け、一歩も退かない構えである。
「虐める。虐めるが正確じゃなければ暴力を振るう、侮辱する、そういうことはしていない。寮も学年も違う。すれ違っただけだ」
仮にも、嫌々、渋々机を並べてきた仲だろうが。僕が無駄なことをすると思うのか? 滔々と並べ立てれば、双子は眉間に皺を寄せた。六年生のパーシー・ウィーズリーにそっくりである。あれはスリザリン生を警戒している。昨日『秘密の部屋』が開かれてからというもの。それに、ウィーズリーというものは――グリフィンドール系の家門は、殊にスリザリンを嫌うものだ。不思議はない。
「じゃあなんで」
お前の周りをちょろちょろしているんだよ、我らが妹は。
「知るか……ちょろちょろしていたのか? へえ」
無感動に言い返してやる。やたら廊下で見かけるなとは思っていたが、それだけだった。赤毛が目立つからだと思っていたのだけど。
「そこで訊いてやったのさ」
「素敵なお兄さまたちに話してみなさいと」
つらつらと語られる経緯――誤解への経緯に、頭が痛くなってきた。これは誰が悪いのか。妹の私的領域に思慮なく踏み入ろうとした、素敵なお兄さまたちこと、双子が悪いのか。曖昧にしか物を言わないウィーズリーの一人娘が悪いのか。
「調査の結果」
お前のところの一年生ちゃんたちが、うちの妹にちょっかいをかけた。いやいや、ジニーはすれ違っただけと言っているが。
「お前が一年生をけしかけたんだろう」
「黙れ迷探偵ども」
あまりの馬鹿さ加減に嘆息を禁じ得ない。
「入学したての一年生、しかも伸び伸び育てられたろうお前たちの妹なんて、寝ていたってどうにかできる」
わざわざ動員をかけるか。
「だってジニーは怯えてたんだぞ」
「ねえフレッド、ジョージお願いだからなにもしないでって」
「しなくていい。お前たちの妹のほうがよほど賢い」
怯えていたのはウルペクラが頭の悪い一年生どもを吹き飛ばしたからだろうし、どこぞの愛想のいい男のように、笑顔で接しなかったせいだろう。言ったところでウィーズリーどもは信じまい。
約一ヶ月と少し、ウルペクラの周りを「ちょろちょろ」していたのは、たぶん日記を返してほしいから。
――何度か
もの問いたげな、震える兎のような眼で見てきたな、と今更思い出す。うっとうしいので「失せろ」と言ったら泣いて逃げていった……。
うん? 僕が悪いのか、と首を傾げた。
「おいお坊ちゃん」
「人の話を聞け」
ネクタイを掴まれる。ぐいっと引っ張られた。これだからお坊ちゃんは、俺たちの話なんて聞く価値なしだとか。ちゃらちゃらしている、いくつ指輪を付けているんだよ、等々悪口を言われた。心外な。耳飾りや腕輪、指輪を身に付けているすなわち不品行とか言われてたまるか。
「面白半分で、悪戯とやらをしているお前たちの話なんて」
聞いてなんになる。
ふん、と鼻を鳴らした。双子のほうがよほど不品行である。それに、彼らの弟は、親の空飛ぶ車で暴れ柳に突っ込む愚か者。対してウルペクラはどうか。成績優秀。自分からグリフィンドールに絡みに行ったことはない。罰則を食らったこともなければ、減点もない。絵に描いたような優等生だ。
ただ、その姓が。
レストレンジなだけで。
大声で騒ぎ立ててもいいが、どうするか。ウィーズリーの双子と「レストレンジ」では、レストレンジが分が悪い。ウルペクラが死喰い人の息子というのは、よほど情報に疎い者でなければ知っている。マルフォイが「主君を裏切り、保身に走った」のが周知の事実、暗黙の了解なように。
双子は人気者だ。マグル擁護派のウィーズリー家の子。とにかく目立ち、人目をひく。悪戯を愉快だと思う者は多い。殊に、スリザリンに対して「やってやった」ならば、双子は拍手喝采で迎えられる。
ウルペクラがウィーズリーの双子に絡まれた、と訴えたところで、嘘だなんだと言われるだろう。教職員はさすがにそうではないだろうが。グリフィンドールのマクゴナガルは、厳格だが公明正大。ウルペクラの訴えにも耳を傾けるだろう。スネイプは公明正大とはほど遠いが、ウルペクラの味方になる……が、まったくありがたくない。この場を切り抜けることができたとしても、ウルペクラへの心証は悪化する。一番底ならぬ二番底へ転落である。
ポケットに手を突っ込もうとして、掴まれる。杖なし、しかも無言で魔法が使えるか。やってみるしかあるまい、と腹を括った時、声がした。
「――スリザリンが信用できなくても」
ハッフルパフならどうだろう?
するりと、書棚の陰から姿を現したのは、ハッフルパフのセドリック・ディゴリーだった。双子がぱっと振り向いたのと同時に、ウルペクラは彼らに蹴りを入れ、よろめいたところを押しのける。どうにか包囲から逃れ出た。
「パーティにようこそ、セドリック」
「なかなか楽しそうだったねウル」
セドリックがにやりとする。愛想のよい軟弱者、と陰口を叩かれている男の眼は、まったく笑っていなかった。
「おいおいセドちゃん」
「レストレンジを庇うのかい?」
「いや、君たちの言いがかりだろう」
声を尖らせる双子。余裕を崩さないセドリック。もうどうとでもなれな、なウルペクラ。
「彼は僕の友人なんだけど?」
先生方に証言してもいいよ。君たちの言いがかりとやらをね。
セドリックはさらりと言う。ウルペクラは、いったいいつ、こいつと友人になったのだろうと考えるのに忙しかった。もはや戦闘態勢を解いていた。なぜならば、善人の保証があれば、この面倒な状況はどうにかなると踏んでいるから。しかも、セドリックは不退転の構えである。
「いいかセドリック」
「ご存じないかもしれないが」
こいつはレストレンジ。マルフォイと仲良しの、死喰い人仲間だぞ。
双子は唇を引き結び、ウルペクラを指差す。ほぼ合っているが、さすが迷探偵である。
「……ひとつだけ言っておくが」
深い深いため息がこぼれた。
「ドラコがなにも考えない馬鹿なのは、僕のせいじゃない」
頭痛が酷い。どいつもこいつも。
不満そうにしながらも、双子は去っていった。ウルペクラは首を振り、書棚から目的の本を取り出して、机に置いた。
「礼を言わなきゃならないか?」
「いや、借りを返しただけだよ」
「……セドリック。あっちの明るいところに、空いている机がたんとあるが」
「運ぶのが面倒」
諦めた。二人で向かい合って座るはめになる。立ち話くらいはするが、妙な気分だ。こうして勉強することはない。
「――借りとは?」
闇の魔術に対する防衛術の■■年度の普通魔法試験問題を解きながら、問いかける。眼は文字を追い、手は羽根ペンを動かすのに忙しい。
「……覚えてないと思ったけどね」
「どうせ君、邪魔だと言って」
障害物を排除したんだろう?
面白がるような声に、眼を上げる。柔らかな灰色の眼差しが、ウルペクラを見ていた。どこから双子とのやりとりを聞いていたかは知らないが、この様子では必要なところは聞いていたのだろう。そうして、見かねて出てきたのだ。
「ウィーズリーの小さいのは一人。スリザリンの小さいのは複数。どちらが邪魔で目障りかというと、スリザリンだった」
それだけだが? 嘆かわしくも、我が寮の一年生は躾がなっていない。レストレンジに道を譲るという常識を教えられていなかった。
「ただの教育。ウィーズリーの小さいのが、なにを勘違いしたかは知らないが」
単なる副産物だ、と歌う。
「変わってないねえ」
セドリックが天を仰ぐ。
「君、僕が絡まれている時も」
障害物を片づけていたんだけども。
へえ、と声が漏れた。躾のできていない馬鹿を片づける。新学期、九月頃に叩いておくのである。つまり年に一度……のはず。いつのことだろう、と首を傾げる。
クィディッチ絡みでスリザリンとグリフィンドールが緊張状態にある時も数えたほうがいいのか。たまに返り討ちにするのだけども。
「一年生の時に」
上級生を。
投げられた手がかりに、しばし考え込む。そんなこともあったような。見苦しい真似をしている
「……あったかも?」
泡沫貴族と貴族未満が邪魔であった。廊下で広がるなよ馬鹿が、と思い。呪文の練習にちょうどよかったので実践した。以上。
「エルドリッチ・ディゴリーの子孫だなんだと、からかわれて、君に助けられたんだよ」
「見苦しい、目障りな塵の処理をしただけだ」
ひらひらと手を振る。ウルペクラにも益があった。五年生をまとめて制圧したと、畏怖されるようになったのだ。だからセドリックに感謝される筋合いはない。
「どういたしまして、とにっこりして言えばいいものを」
君、けっこう人気があるんだよ。ハッフルパフの女の子の中でも。セドリックが嘆息する。
「マグル生まれが多い寮が、なにをとち狂っている?」
ウルペクラはあざ笑う。まったくもって面白いではないか。人気がある? レストレンジのウルペクラが?
「双子の妹だって――ジニーだっけ……たぶん、お礼が言いたいんじゃないかなあ」
「そしてどういたしまして、とにっこりしてやれと」
「愛想って大事だと思うね」
「黙れ」
むっと唇を引き結ぶ。本を閉じ、羊皮紙を丸める。荷物を片づけ、席を立った。
「ハッフルパフのセドリック」
成績優秀、品行方正、ウルペクラの自称「友人」を見下ろした。
「馬鹿な秀才。この時機にスリザリンに――純血に近づくなんて」
『秘密の部屋』が開かれたというのに。
ざわつく心を抱えながら、その場を後にする。セドリックは「愉快犯かもしれないよ?」と呑気なものだった。
舌打ちをこらえ、手近な手洗いに飛び込む。
何度も何度も口を濯ぐ。
――愉快犯
「……そう、ただ猫が石になっただけ」
顔を上げる。鏡に映るのは、灰色の眼をぎらつかせた、少年の姿。
「『秘密の部屋』が開かれた、と誰かが宣言した。壁に犯行文を残した」
ただそれだけ。
眼を瞑る。
ぐらつく思考に、鮮やかな緑が浮かんだ。
誰かの手が杖を振って。それを描いた。想像にしてはいやにはっきりとした、幻視。ただの空想。
だというのになぜ、ウルペクラは苛立っているのか。夢見が悪いせいか。ぐるぐると再生される、燦々と陽の照るダイアゴン横丁。死ねばいいのにと言われた記憶。いつだったかの社交で、物を盗んだと罪を擦り付けられた記憶。燃えるような屈辱。
次から次へと、記憶が夢となって立ち上がった……。
誰かが囁いた。
君は純血だ。正しいことを、偉大なことをすればいい。
そうすればみんな、誉めてくれるよ。
ささくれ立った心を慰めるための逃避なのだろう。夢の内容も切れ切れで、曖昧模糊としていて。
誰かの――おそらく己の、囁きだけが、甘かった。
甘い甘い毒を、そうと知りながら飲んでいる。そんな気がする。
「くだらない重圧で、逃避で」
僕が軟弱なだけだ。
だから妙な夢を見る。
だから――。
口の中に血の味を感じて飛び起きてしまったんだ。
甲高い、鳥の悲鳴が頭の中で木霊するはめになったのだ。
すすいでも、すすいでも。
血の味は流れてはくれなかった。