Black Heart Vulpecula   作:扇架

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九話

 

これはあなたに縁の深い方のものです。どうかお役に立ちますように

 

 休暇明けのホグワーツ、スリザリンの寮の自室で、ウルペクラは欠伸をかみ殺した。安物の羊皮紙に綴った、意味ありげな文を眺める。ほっそりと柔らかい手蹟()を心がけた。ついでに、かすかに震え、インクをこぼしておいた。

 真面目なことだね。

 からかうような声に、唇を引き結ぶ。誰のせいだよ、と毒づいた。自室にはウルペクラ一人。声が聞こえる道理などない。見えざる声に答える動機などない。その不思議に、なんのひっかかりも覚えない。そんなものだと受け入れて、ごく自然に「仕事」をしている。

 図書館から書簡集をいくつか探した。有名な魔法使いや魔女の手紙を載せたものである。その中でも恋文集に目を付けて、決闘なんておやめくださいどうこう、のやりとりが書いてあるそれをざっと読み込んだ。おおまかな手蹟を把握して、少し遅めのクリスマスプレゼントに付ける手紙を作成したのである。

 さあて、ひっかかるかな? 楽しげな声に、ウルペクラは答えない。ひっかかってくれなければ回収するだけだ。密やかに近づいて、鞄に忍び込ませるより、成功率は高いだろう。

 引き出しから、黒い日記を取り出す。闇の香りに眉をひそめることはない。なぜ自室に日記があるのか、考えることもない。ウルペクラの頭脳はそれらしい回答を弾き出している。家令夫妻が荷物の中に入れたのだろう、と。ジニー・ウィーズリーと接触したことは覚えていても、日記を掠め取ったことは欠落しているのだ。

 手紙にちょっとした魔法をかける。暗示、誘導の類。日記に興味を持つように。

「ポッターは、好奇心旺盛だ」

 でなければ賢者の石事件に首を突っ込んだりしない。そして。

「……あの方を阻もうとしない」

 ああ、情けない。未来の僕ときたら、一年生ごときにやられるなんて。嘆く風の声。しかし、隠しきれない興味が覗いている。

 僕に対抗しうる者なのかな? 投げられた問いに、肩をすくめた。

 それはあなたが確かめることだ、と。

 

 瞬く。こぎつねはそっと問いかけた。

「過去のあの方。そういえば、あなたの名を知らないな……」

 闇の帝王で十分に通じるし、不便はない、と思い直す。が、問われた方は不満げに鼻を鳴らした。

 いいとも、教えてやろう。おい、無視をするな。器、共犯者、印を刻まれた者よ。

 いい子だから、考えてごらん。

 ふっと脳裏に文字が浮かぶ。

 

 I AM LORD VOLDEMORT

 

 ウルペクラは、黒い日記、その署名に眼をやった。

 

 T・M・リドル。

 

トム・マールヴォロ・リドル(TOM MARVOLO RIDDLE)?」

 ウルペクラの呟きに、繰り手の弾んだ声が答えた。

 そうとも。祖父はマールヴォロ。スリザリンの直系、ゴーントの血筋だ。穢れた父の名も姓もいらない。愚かな母親の名残もいらぬ。

 後に『名前を言ってはいけない例のあの人』とまで呼ばれるとは、さすがに思わなかったけれどね。

 ヴォルデモートは秘密の名前。忠実なる者しか知らぬ、隠し名。

 「レストレンジ」の孫。忠臣の血筋よ。

 君も、秘密を知る者となったんだ。

 さあ共犯者よ、捧げられたこぎつねよ。

 僕を「生き残った男の子」のもとへ届けておくれ。

 

 そうして。

 ポリジュース薬を使って潜入作戦をしたにもかかわらず、なんの成果も得られず。おまけに親友が変身に失敗し、苛立つ少年の下に、謎めいたクリスマスプレゼントが届けられた。

 震え――怯えたようにも見える――手紙に少々戸惑ったものの、彼は日記を手に取った。第一に、なんにも進展がなくて退屈だったので。第二に、手紙の送り主――たぶん、女の子だろう――の、か細い筆跡に、なにやら不穏なものを感じたから。プレゼントと見せかけてその実、助けを求めているのなら、どうにかしてやりたいと思ってしまったから。

 ハリー・ポッターはちょっとばかりひねくれていても、善人寄りである。正義感も強ければ、好奇心も旺盛だ。どこかのこぎつねのように、打算とちょっとした事情から、日記をかすめ取るような性根はしていないのだ。

 綺麗な包みを脇に除けて、しげしげと日記を眺めた。裏表紙にはロンドンのホグゾール通りの店の名が。そして、製造年は一九■■年。五十年前ではないか。

 ハリー・ポッターは見事に食いついた。前回『秘密の部屋』が開かれたのは五十年前。そして日記は五十年前のもの。

 これは偶然、いや必然。運命だと思うのも仕方がないことだ。

 無事に接触が叶い、繰り手は小躍りした。首尾は上々。ハリー・ポッターの頭の中を覗いたり、操ることはできないけれど、十分だ。こぎつねとの結びつきは強く、多少離れたところで問題なし。楽しいやりとりをして、戻ればよし。パンくずを撒いて、導いてやればよいだろう。『秘密の部屋』に招待申し上げ、始末するのもいいな。

 一週間もあれば、再びこぎつねのもとに戻れるだろう……と踏んでいた。

 繰り手は甘かった。

 彼は失念していた。己やこぎつねは賢く優れている類であるだけ。生き残った男の子はただの少年だ。悪徳が芽を出す兆しすらない、普通の男の子であった。

 さらに不幸なことに、彼の友人たち――血を裏切る者も、賢い穢れた血も、彼自身も。

 日記を書く習慣がなかった。

 

 特段事件もなく、日々は過ぎていった。ハーマイオニー・グレンジャーがなぜか入院し、一時は継承者に襲われたのだ、と噂になっていたのは事件に含まれない。それよりなにより、皆を震え上がらせたのは休暇直前に三号温室が炎上したこと。マンドレイクが全滅したのである。継承者はマグル生まれを全滅させるつもりに違いない、と休暇が明けても戻ってこない生徒が何人かいた。石になる、あるいは死ぬよりはよい……と。それほどに温室炎上――否、放火事件は衝撃を与えたのである。

「……やつらは賢明だ」

 二月十四日。図書館の片隅で、ウルペクラは呻いた。周囲を魔法の環(サークル・オブ・マジック)で囲み、机に頬を付けた。

「馬鹿な小人に追いかけられる心配をしなくていいんだから」

「彼らだって好きで休学しているわけじゃないんだけど……」

 今回ばかりは同感だ。セドリックは力なく言う。常はきちんとしている優等生のはずの彼は、黄色と黒のネクタイは解けかけ、黒髪がくしゃくしゃになっていて、暴動から逃げ出したのかという有様であった。椅子にだらりともたれるのも珍しいことであった。

「ロックハートを片づけられないか」

「嫌だよ。趣味の悪い彫像の出来上がりだ」

 ウルペクラの刺々しい言をたしなめることなく、セドリックはため息を吐いた。忌々しい二月十四日、無能によるバレンタインという名の騒動に、ほとほと嫌気がさしているのは明らかだった。穏和な優等生はどこかに出かけたようだ。

「マンドレイク薬なんてすぐできます、とか言っていたそうだ。スネイプは大変お怒りだった」

「……そのマンドレイクはないわけだけど」

「あれは貴重だからなあ」

 とはいえ、世界中の在庫が払底したわけではない。レストレンジ家はベゾアール石のみならず、マンドレイク薬を持っている。各貴族家とて、万能回復薬とはいかずとも、それなりの備えはしているはずだ。よほど強力な呪いならば、レストレンジは薬を分け……あるいは赴き、恩を売ったこともあるとか。そうそう起こりえないが。たいてい、毒殺は即死毒が使われるから。

 

 昔々ならば毒で一族郎党皆殺し、なんてこともあったけれど、今はそこまで物騒なことは起こらない。純血が数を減らしすぎたせいもある。あったとしても当主夫妻を殺害し、子女を奪い取り、乗っ取りくらいだろう。どちらかというと一族内、身内の争いだ。

 氏族同士の争いは遠くなり、血の鎖で結びつき、縛られているのだから。無闇な争いよりも婚姻による合法的な乗っ取りが主流なのである。

――ホグワーツが泣きついてきたら

 マンドレイク薬を高値で売りつけるか、否か。それともいい子の顔をして、無償で恩を売るべきか。悩ましい問題である……とくだらないバレンタインから気を逸らそうとする。うじゃうじゃとやってきた小人どもに思考を割くよりかは、建設的だろう。やつらには錯乱の呪文をかけたので、図書館に突入してくる可能性は低い。よしんばやってきたところで、魔法の環の守りが――いけない。マンドレイク薬のことを考えていたのだった。

「ホグワーツの卒業生が何人いると思っているんだ。その中に、薬屋だってあるだろう」

 ダイアゴン横丁の薬問屋とか。気を取り直し、ウルペクラは口にした。セドリックが頷く。

「ああ、まあ……グリーングラスもそっちに強いしね」

 薬、というよりも呪い解除に長けているとか。ウルペクラはちらりとセドリックを見やる。ディゴリー家は貴族の端くれだ。かつて魔法大臣を輩出した名門……だが、最初にして唯一の大臣、エルドリッチ・ディゴリーが不可解な死を遂げて――首謀者はマルフォイ家と囁かれている――じわじわと沈んでいった。

「母方がグリーングラスだったか?」

「本家の方。従姉はイルヴァモーニーに行っているね」

「お前もホグワーツなんかより、北米のほうがよかったんじゃないか?」

 エルドリッチ・ディゴリーと言うまでもなく、セドリックは察したようだ。純血の趣味の悪い輩にとって、ディゴリー家は見下すべき家である。無様に一族の星を殺された……とされているのだから。

 人望があり、まともだから殺されたという。確か、アズカバンの廃止を進めようとしたとか。それに、純血過激派どころか、マグル寄りだったとされている。

「純血とされているから――別に価値もないけれどね……継承者のお眼鏡には適わないだろう」

 やあ、心配してくれているのかありがとう、とさらりと言われた。こいつは誰にでもこんな態度なのだろう。だから小人の大群に追いかけられるはめになるのだ。愚か。

「マグル生まれがいなくなれば、次の獲物は血を裏切る者だろうよ」

 返し、胸の内を――深いところを、ざらりとした感触がはしる。舌が妙にひっかかる感じ。だが、あまりに些細な違和感に過ぎず、強いて振り返ることもない。

「ウィーズリー家ほど、高名な家じゃあないからね」

 セドリックは肩をすくめる。

「君のほうこそ、イルヴァモーニーのほうがよかったんじゃ?」

「僕あてに小人を遣わせようが、どうせ読まないのに」

 せせら笑う。実に、実にくだらない。小人の襲撃は、ウルペクラに転校という選択肢をちらつかせるに足るものだったが――匿名の手紙で好きだなんだと言われたところで、誰が心を動かされるだろう?

 そんな有象無象を相手にするくらいなら、泡沫貴族からきた縁談に頷くほうがマシである。いやでも、馬鹿どもの中には、六歳の女の子――どうも妾の子――との縁談を送ってきた者もいる。■■家に呪いあれ。女の子に幸あれ。ウルペクラは、売り飛ばされた女の子を拾う趣味などない。まったくもって、嘗められたものだレストレンジは。

 馬鹿らしい縁談の数々に、頭が痛くなってくる。もちろん全部お断りした。あるいは馬鹿らしいにもほどがあったので黙殺した。

「……顔色がよくなったから、いいかな」

 あれやこれやと考えるウルペクラを、セドリックの言が引き戻した。

「お前は僕の保護者か、ファンか、なんなんだ」

「友人だと思っているけれど」

「ああそう。友人殿、僕の顔色がなんだって?」

 セドリックの灰色の眼を睨む。怯むでもなく、彼はウルペクラを見返した。じっくりと、観察するように。

「気づいてなかったのか? 休み前まで、調子が悪そうに見えた……けど」

「来年、普通魔法試験を控えているんだ。勉強疲れだよ」

 するり、と言葉が出る。無理のない言い訳。ウルペクラにとっては真実。実のところ偽り――自覚のない嘘を。

 わかるわけがない。ウルペクラ自身にとって、変化などないのだ。

 冬期休暇前、早めのクリスマスプレゼントとばかりにマグル生まれを一人片づけ、三号温室を燃やした。

 日記はホグワーツに置いていった。闇の品との繋がりは切れずとも、物理的な距離が開いた。

 そして休みが明け、日記はホグワーツの敷地内にあるものの、ハリー・ポッターの手元にある。

 ほんの少し、誤差の範囲で影響が薄れているのだ……と、考えつきはしないのだ。

 

 なぜならば、ウルペクラは呪縛されているから。闇の品にとって、居心地のよい器であるから。

 穢れた血ではなくマグル生まれ、と本来の己らしく口にしようが、毒されていることに変わりはない。

 疲れるほど勉強しているだろうか。いいや、普通魔法試験はすべて優を取るのだから、と日々机に向かっているではないか……自問自答を、叫びが打ち破った。

「あー! セドリック! ごめん中に入れて小人が!」

 はっと、声のほうを見てみれば、レイブンクローのロジャー・デイビースであった。どうやら「逃走者」その三のようだ。

「僕が描いたわけじゃないんだけど」

 逃走者その二こと、セドリックが苦笑う。小人に追われる鬱陶しさは重々承知している。ウルペクラは一つ息を吐くと、魔法の環にデイビースを招いた。

「ああ、助かった……なに、セドリックとレストレンジは友達だったの」

「そうだよ」

「は? こいつが押し掛けてきただけだ」

「あー、じゃあ、僕も友達になるのかな、その基準――わかった、冗談だ! 見捨てないで!」

「それでいい」

 ウルペクラは、ふざけた野郎とふざけた野郎を睨みつけた。

「脳味噌がすっからかんなセドリックと違って、お前はわかっているだろう、デイビース?」

 レストレンジが何たるか。

 ロジャー・デイビースは情報通だ。ウルペクラの両親が死喰い人……のその先まで承知しているはずだ。

 鋭く言ったが、デイビースは怯えるでもなく、口笛を吹いてみせた。

「マルフォイの坊やの保護者――ああ、わかった! ここにいさせて!」

「誰が保護者だ。あれが勝手にひっついてくるだけだ鬱陶しい」

 これ以上、時間を空費する気にならず、籠城を見越して机に積んであった本――授業は欠席するつもりだ――を手に取った。

 あれを、ドラコ・マルフォイの保護者だと。ふざけている。

 身の内から、激しい怒りが噴き上がる。己のものに似て、しかしそれより激しい炎が。

 あれは主君を捨てた、不忠者の子。赦しはしない、と。

 陽が傾いていく。籠城した逃亡者たちは、黙々と読書に勤しむ。

 ほっそりとした指で、頁を繰ったこぎつねは、歓喜の声を聞いた。

 繰り手はほくそ笑んだ。グリフィンドール寮、男子寮――寝台の上で。ハリー・ポッターを優しく導きながら。

 ああやっと、接触することができた。白紙の日記があれば、何か書いてみるものだろうに……。偶然のお導きがなければ、どうなっていたことか。

 パンくずは落とした。ホグワーツという深い深い森の奥底『秘密の部屋』への手がかりを。生き残った男の子は、きっとあの半巨人に訊くだろう。怪物とはなんなのか……。

 勇ましく、森に行くだろう。大蜘蛛の口から、真実が語られるさ。

 用は済んだ。長居は無用。

 さあ、こぎつね。僕を迎えに来てくれ。

 

 二月が過ぎ、春の声が聞こえてきた頃、ハリー・ポッターは、大事に持ち歩いていた日記を無くした。どこを探しても見あたらなかった。

 彼は知らない。すれ違った赤毛の女の子の正体を。それが化けたこぎつねだということを。

 ふさわしい器の下に戻った繰り手は、ひそひそとこぎつねに囁いた。

 狩りを再開しようか。

 こぎつねは答えた。

 いいや、もう少し待とう。マンドレイクの一件で、教師たちが警戒している。ぴんと張った糸がゆるむまで――。

 そうだな、あまり人がいない時がいい。

 たとえば、クィディッチの時なんてどうだろう? 祭りの喧噪に紛れ、密やかにやってしまえばいいんだ。

 

 

 そうして、イースター休暇が明けてしばらくした頃。グリフィンドール対ハッフルパフ戦が開催される日。

「……賢いな」

 こぎつねは、紛うかたなき賛辞を送った。

「穢れた血、ただの二年生だというのに……」

 仕上げにとっておいたのに、見事に回避されてしまった。

「純血に生まれたならば、もしかして魔法大臣にだってなれたかも」

 残念ながら、なったところで短命政権に終わるのが常なんだけども。

 転がる石像を見下ろす。ふんわりとした髪も、茶色い眼も、なにもかもが灰色になっている。特筆すべきは、彼女が自分だけでなく、他人まで救ったらしいことだ。石像は、一体ではなく、二体あった。

 どうしたものか。砕いてしまえばいい。そうすれば結果は変わらない。

 こぎつねは、しばしの間――半秒ほど、考え込んだ。

 なにをしている、やってしまえという囁きを振り切るように、踵を返した。

「小さな子を……一人は年上だけど……どうこうするのは趣味じゃあない」

 穢れた血なんて、塵芥、獣、人以下だ、と唸る声を切り捨てる。珍しくも、強硬に。

「最終目標は」

 生き残った男の子をお招きすることだろう?

 柔らかく、優しくこぎつねが言い、優雅にその場を去る頃には。

 日記から、二つの名が消えていた。

 

 Penelope・Clearwater

 

 Hermione・Granger

 

 

 

 

 まだまだ候補はいるけれど、とこぎつねは消極的だった。

――少々障りが出てきたのかもしれないな

 繰り手は考え込む。最初の器――赤毛の小娘に比べ、こぎつねは成熟している。加えて闇の魔術もとい「トム・マールヴォロ・リドル」の宿主に適していた。本当に、すんなりと馴染んだのだ。わざわざ小娘を懐柔するような手間などいらなかった。

 とはいえ、こぎつねに負担がかからないわけではない。いくら男で、十五歳で体力気力が充実していようが、限界値というものはあるのだ。繰り手とて愚かではないので、憑依して、操るくらいにしよう、と心がけていた。

 「トム・マールヴォロ・リドルの日記」は『秘密の部屋』を開くための鍵の役割も果たす。己が作ったろう他の器と違い、他者の心を暴き、憑依し、操り人形とする機能に特化している。そのためにわざわざ日記にしたのである。一見してただの日記。つらつらと他愛のないことを書き込むうちに、のめり込んでいく。自己開示とは危ういものである。お古の制服は嫌だ、と小娘が書き込んだそのときに、繰り手は目覚めたのだ。優しく声をかけ――小娘は多少怪しんだようだが――するり、と憑いた。後に、血を裏切る者よりもふさわしい器が繰り手を拾ったので、これ幸いと小娘から乗り換えたのである。

 

 大変使える。何せ未来の己が見込んだ少年だ。当然のことだ。潰すわけにはいかないし、そのつもりもないので、ちょっとずつ、ちょっとずつ暗い記憶がたっぷり満ちた魂の、その痛苦をすすり、繰り手の力にするくらい。小娘のくだらない悩みに比べ、こぎつねの湛える闇は深かった。

 己の息子でないのが惜しまれる。多少生意気でも許してやろうと思うくらいには、繰り手はこぎつねを気に入っていた。日記はどこかの時点でホグワーツにいる生徒――未来の己に子がいればその子に、あるいは配下に、と考えていたのだ。どうやら『名前を言ってはいけない例のあの人』は、配下に日記を預けたのだろう。そしてその配下は、赤毛の小娘の手に日記が渡るようにした。おそらく、大事な品だから持っておけくらいしか配下に伝えていなかったようだ。まさか魂の欠片入りとは言わないだろう。『分霊箱』は秘められるべきものなのだから。

 こぎつねの推測によれば『分霊箱』を玩具代わりにした馬鹿は、マルフォイの子である。ああ愚かしい。アブラクサスはどういう躾をしたのやら。巡り巡って忠実なるレストレンジ、稀な血を持つ子に渡ったからよかったものの。

 つらつらと考えつつ――このお遊びを終えたら、マルフォイの子……こぎつねの「ルシウス叔父上」に仕置きをせねばな――繰り手は囁いた。

 

 じゃあどうやって、ハリー・ポッターを始末する? 『秘密の部屋』に招く?

 こぎつねは、さらりと答えた。

 あれの親友でも攫えばいいだろう。いや、あの二人は常に一緒か。

 ふむ、と考え込んだこぎつねに――気が乗らないようであった――繰り手は耳打ちした。

 簡単じゃないか。狩りの基本は弱く小さいものを狙うことだ。

 かなり……頑固に渋られた。そも、こぎつねは穢れた血をマグル生まれと言い、血を裏切る者なんて言葉も口にしない、いわゆるいい子、優等生である。強いて穢れた血を見下す動機はない。むしろ自分を置いていった両親を、由緒正しき純血の父母を、恨んでいる。ついでに言えば繰り手の未来の姿、闇の帝王であり『名前を言ってはいけない例のあの人』に対しても忠誠心はない。こぎつねはけして狂信者ではなく、あるのは闇の帝王に対する恐怖であった。

 こぎつね、君の事情など知ったことではない。渋る理由なんてわかっている。僕はすべてを知っている。

 未来の己がこぎつねに刻んだ印に干渉する。真夜中の寮――個室に叫びが木霊した。

 

 

――これは

 試験前の追い込みのせいか、城がなにかと騒がしいせいか。それとも……とウルペクラは考える。どうにも身体が重い。耳鳴りまでする始末だ。

 ルシウスのせいだ。ダンブルドアを排除したものだから、ホグワーツは混乱に見舞われ、ロックハートは偉そうな顔をしている。スリザリン生は毒蛇か毒虫を見るような眼で見られ、場合によっては嫌がらせをされるはめになっている。ハッフルパフとレイブンクローはなんとか自制しているが、グリフィンドールは箍が外れたようになっている。

 グレンジャーが襲われたことにより、ハリー・ポッターの容疑は完全に晴れた。継承者と目されているのはドラコである。当のドラコは「ポッターが継承者なはずがないだろうずるい!」とか言っていたくせに、自分が注目の的になると、顔をひきつらせていた。シシー叔母の手前、なにかあっては不味いので、お付き二人には「ドラコをよろしく」と頼んでおいた。幸い、ドラコだけでなく、スリザリン生は一人で行動しないようにしているので、嫌がらせ――呪いが飛んでくるとか――は軽微な被害で済んでいる。もっとも、ホグワーツは厳戒態勢で、授業と授業の間は教師の引率がつく。嫌がらせの頻度は少ない。罰則、減点覚悟で、廊下ですれ違った時に仕掛ける……あるいは大広間で食事中に……しかないのだから、当然の結果であった。

 窮屈な集団生活。安全措置。生徒は不満の声を漏らし、あるいは怯えながら過ごしている。ウルペクラとて、鬱陶しいとは思いつつ、なるべく穏和しくしようと思っていた。寮を抜け出して、それか授業を欠席して図書館に籠もることはあったけれど。

 

――だが

 こんなところに、用事はないのだが。ウルペクラは首をひねる。ごちゃごちゃと物が積み上がった迷宮。美しい冠――髪飾りを矯めつ眇めつした。闇が香る品だ。しかし、見事な細工である。ローブのポケット――ちょっとした拡張魔法をかけたそれに大事に仕舞った。

 隠れられそうな場所でここが出るか……と誰かが囁く。まあいい。それは君が持っておけ。マルフォイの阿呆みたいに玩具にはしないだろう。

 さあ、仕事をおし、僕のこぎつね。

 赤毛の小娘を『秘密の部屋』に……。

 繰り手の囁きに、どうして、なぜという疑問が淡雪のように解けていく。こぎつねは呼び出し――失神させた「赤毛の小娘」を見下ろした。例の物について話がある、と呼び出したらまんまと来たのだ。八階の謎の場所に連れ込んだら、わあわあ叫んだ。あのね、あの、それは怪しいのよ。なにかがいるんだわ! ずっと言おうと思ってたのに、あなたが避けるし、追い払うんだから! 

 あんまりにも一生懸命に赤毛の小さいのが言うものだから、こぎつねは愉快になった。片手に掴んだ黒い日記を高々と掲げ、小さいのにぴょんと跳ねる赤毛を見やった。まるで兎のようだ。それも、不用心な兎だ。血を裏切る者、純血とはいえ平民のようなものだ。きっと邸の抜け道だって教えてもらってないだろうし、襲撃を受けたときの心構えだって言い聞かされていないだろう。ベゾアール石だって持たされていないに違いない。

 ごく普通の、善良な子なのであろう。蔑まれることはあっても、恨まれることなどなかったろう。両親によって捧げられることもなかったろう。

 燃えるような赤毛を持つ一族、血を裏切る者は実にまっとうなのだと、こぎつねは知っていた。だからこそこうして罠に引っかかるのだ。

 哀れ、と思いながら意識を刈り取ってやった。こぎつねはひょいと赤毛の小さいのを抱え――両手が塞がるが仕方ない――声の導きに従って「通路」を繋げた。

 とある手洗いの近くに出られるように。

 そうして、透明になったこぎつねは、家主たる霊がいない隙に『秘密の部屋』の入口を開いた。

 同時に、見えざる影――力を付けた者が、グリフィンドール塔、寮の祖たるゴドリック・グリフィンドールの姿を描いたとされる、美しい色硝子(ステンドグラス)の窓の対面――陽を透かし、鮮やかに染まる壁に、こう書いた。

 

 彼女の白骨は永遠に『秘密の部屋』に横たわるであろう

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