見滝原の夜は、やけに青かった。
街灯の白い光も、コンビニの看板も、遠くのビルの窓明かりも、全部が水の底みたいに滲んで見える。
美樹さやかは、歩道橋の階段に腰を下ろしていた。
別に、そこに座りたかったわけじゃない。
ただ、足が動かなくなった。
膝に置いた手はぎゅっと握りしめすぎて、爪が手のひらに食い込んでいる。
なのに痛みは遠かった。
胸のほうが、もっと痛かったから。
「……ばっかみたい」
小さく吐き出した声は、誰に向けたものでもなかった。
上条恭介のことを思い出す。
ずっと隣にいたつもりだった。
支えているつもりだった。
自分だけは、彼の苦しみをわかっているつもりだった。
でも、違った。
自分が勝手に特別だと思い込んでいただけだった。
魔法少女になったことも、奇跡を願ったことも、彼の腕が治ったことも。
全部、全部。
「……あたし、何してんだろ」
声が震えた。
泣きたくなかった。
泣いたら、負けた気がした。
誰に?
仁美に? 恭介に? まどかに? 自分に?
わからない。
わからないけど、涙は勝手に出てきた。
「っ……う、うぅ……」
両手で顔を覆う。
見られたくない。
こんな顔、誰にも見られたくない。
正義の味方だとか、ヒーローだとか、自分で散々言っておいて……たかが失恋ひとつで、こんなにぐちゃぐちゃになるなんて。
情けない。
惨めだ。
そう思えば思うほど、余計に涙が止まらなくなる。
そのときだった。
「……大丈夫か?」
低く、落ち着いた声がした。
さやかはびくっと肩を震わせた。
顔を上げると、階段の下にひとりの青年が立っていた。
白いスーツに、整った顔立ち。
夜の街には少し不釣り合いなくらい、まっすぐな目をした男だった。
外国人だろうか? 日本語は自然だったが、どこか響きが違う。
さやかは慌てて袖で目元を拭った。
「だ、大丈夫です、全然……ちょっと、その……目にゴミが」
「そうか」
青年は短く答えた。
それ以上、無理に踏み込んではこない。
普通なら『本当に?』とか『何かあったの?』とか、気を遣うふりで近づいてくるところだ。
なのに、その男はただ階段の下に立ったまま、静かにこちらを見ていた。
その沈黙が、妙に優しかった。
「……いや、嘘です」
さやかは自分でも驚くくらい、簡単に認めていた。
「めちゃくちゃ大丈夫じゃないです」
青年は少しだけ目を細めた。
「隣に座ってもいいか?」
「……変な人じゃないですよね?」
「自分でそう言って信用されるなら、世の中に詐欺師はいないな」
「……ふふ」
ほんの少しだけ笑ってしまった。
笑えたことに、さやか自身が驚いた。
青年はゆっくり階段を上がり、さやかから一段分空けて腰を下ろした。
近すぎず、遠すぎず、逃げようと思えば逃げられる距離。
それがまた、妙に気遣われている感じがした。
「俺はブローノ・ブチャラティだ」
「……美樹さやかです」
「さやか。
何があったかは、無理に話さなくていい」
「じゃあ、なんで声かけたんですか」
「倒れそうな顔をしていた」
「……そんな顔してました?」
「ああ。今にも、自分で自分を罰しようとしている顔だ」
胸の奥を突かれた気がした。
さやかは言葉に詰まった。
自分で自分を罰しようとしている。
その言葉が、妙にしっくり来てしまった。
「……失恋したんです」
ぽつり、とこぼれた。
言ってしまえば、ひどく陳腐だった。
世界が終わったみたいに苦しいのに、言葉にするとたったそれだけ。
「好きな人がいて。
その人のために、あたし、いろいろ頑張ったつもりで……でも、結局、別の子に取られちゃって」
ブチャラティは黙って聞いていた。
「いや、取られたって言い方も変ですよね。
あいつは物じゃないし、仁美だって悪い子じゃないし……むしろちゃんとしてた。
ちゃんと正面から言ってくれた。
あたしに時間もくれた」
さやかは笑おうとした。
でも、うまくいかなかった。
「だから、誰も悪くないんですよ。
誰も悪くないのに、あたしだけが汚いんです。
悔しいとか、ずるいとか、なんであたしじゃないのとか……そんなことばっか考えて」
手のひらを見つめる。
魔法少女の力で、何度も人を助けた手。
でも今は、何も掴めない手に見えた。
「あたし、正義の味方になりたかったんです。
見返りなんていらないって思ってた。
誰かのために何かできる自分でいたかった。
でも本当は、見返りが欲しかったんだなって」
声がまた震えた。
「ありがとうって言ってほしかった。
こっち向いてほしかった。
あたしを選んでほしかった!」
涙が落ちる。
ぽたぽたと、膝に染みを作る。
「そんなの、全然正義の味方じゃないじゃん……」
ブチャラティは、すぐには何も言わなかった。
夜風が吹いた。
車の音が遠くを流れていく。
やがて彼は、静かに口を開いた。
「さやか。
おまえは、自分の弱さを見つけてしまったんだな」
「……はい」
「それはつらいことだ。
自分が信じていた自分と、本当の自分が違って見える。
胸の中を覗いたら、綺麗なものだけではなかった。
そういうとき、人は自分を嫌いになる」
さやかは何も言えなかった。
「だがな」
ブチャラティの声は、穏やかなのに強かった。
「人間は、見返りを求めたからといって、今までの善意が全部嘘になるわけじゃあない」
さやかは顔を上げた。
「え……」
「誰かに気づいてほしかった。
愛されたかった。
報われたかった。
そう思うことは、罪じゃあない」
ブチャラティはまっすぐ前を見ていた。
「人は神じゃない、傷つけば痛む。
尽くせば報われたいと思う、自分を選んでほしいと願う。
それは醜さじゃない。生きている証だ」
「でも……でもあたし、嫉妬したんですよ? 友達に……」
「友達に嫉妬するなんて珍しくない話だ」
あっさりと言われて、さやかは目を丸くした。
「えっ」
「大切だからこそ比べる。近いからこそ苦しくなる。
だが、そこで何を選ぶかだ」
ブチャラティはさやかのほうを見た。
「嫉妬した自分を見つけて、おまえは傷ついている。
なら、おまえはまだ人を大切にしたいと思っているんじゃあないのか?」
さやかの喉が詰まった。
否定したかった。
そんな綺麗なものじゃない、と言いたかった。
でも、本当は。
本当は、仁美のことも嫌いになりきれなかった。
恭介のことも憎みきれなかった。
だから、余計に苦しかった。
「……わかんないです」
「今はそれでいい」
「よくないですよ。
あたし、もうぐちゃぐちゃで……どうしたらいいか、全然」
「すぐに答えを出さなくていい」
ブチャラティはそう言って、ポケットから白いハンカチを取り出した。
それを、さやかに差し出す。
「泣くなら、まず泣け。
傷口を見ないふりをしたまま走れば、いずれ足が動かなくなる」
さやかはハンカチを見つめた。
受け取っていいのか迷った。
でも、手は勝手に伸びていた。
「……ありがとうございます」
「返さなくていい」
「いや、洗って返しますよ」
「なら、そうしろ。
返す理由があれば、明日まで生きる理由がひとつ増える」
その言い方があまりに真面目で、さやかはまた少しだけ笑ってしまった。
「ブチャラティさんって、変な人ですね」
「よく言われる」
「……あははっ」
笑いながら涙を拭く。
ハンカチは清潔で、少しだけ香水の匂いがした。強すぎない、静かな匂いだった。
さやかはしばらく鼻をすすっていたが、やがて小さく言った。
「……あたし、誰かに『それでもいい』って言ってほしかったのかも」
「それでもいい」
ブチャラティは即座に言った。
さやかは驚いて彼を見た。
「おまえが今、情けなくても、嫉妬していても、泣いていても、それでもいい。
だが、自分を捨てるな」
「自分を……」
「おまえが誰かを助けたいと思ったこと、誰かのために走ったこと、好きな人を救いたいと願ったこと。
それは、おまえのものだ。
誰にも奪わせるな。
たとえ結果が望んだものではなかったとしても、その願いまで汚れたことにはならない」
さやかの胸が、また痛くなった。
でもそれは、さっきまでのただ潰されるような痛みとは違った。
固まっていたものに、少しずつ血が通っていくような痛みだった。
「……でも、どうやって立ち直ればいいんですか」
「立ち直ろうと焦る必要はない」
「え?」
「今日は飯を食え。
温かいものを飲め。
眠れるなら眠れ。
明日、顔を洗え。
それから考えればいい」
「そんなのでいいんですか?」
「そんなことができなくなるほど、人は傷つく」
ブチャラティの言葉は、重かった。
まるで、そういう人間を何人も見てきたみたいに。
「大きな覚悟は、小さな生活の上にしか立たない。
空腹で眠れず寒さに震えている人間に、正しい判断をしろというほうが無理だ」
さやかは目を伏せた。
そういえば、何も食べていなかった。
胸がいっぱいで、食欲なんてないと思っていた。
でも意識した途端、胃のあたりがきゅうっと縮む。
「……お腹、空いてるかも」
「近くに店がある。嫌でなければ、何か温かいものを買ってこよう」
「いや、そこまでしてもらうのは」
「遠慮するな。俺がそうしたい」
きっぱりと言われて、さやかは言葉を失った。
同情ではない。
押しつけでもない。
ただ、この人は困っている人を見過ごせないのだと、なぜか自然にわかった。
「……じゃあ、肉まん」
「肉まんだな」
「あと、あったかいお茶」
「わかった」
ブチャラティは立ち上がった。
その背中を見て、さやかはふと不安になった。
「あの!」
ブチャラティが振り返る。
「……戻ってきますよね?」
口にしてから、自分でも子供みたいだと思った。
知らない人に何を言っているのだろう。
でも、今は置いていかれるのが怖かった。
ブチャラティは少しだけ表情をやわらげた。
「俺は約束を破らない」
それだけ言って、階段を下りていった。
さやかはひとりになった。
でも、さっきまでのひとりとは少し違った。
夜はまだ青い。
胸はまだ痛い。
涙も、たぶんまた出る。
それでも、ほんの少しだけ呼吸がしやすくなっていた。
やがて、ブチャラティは本当に戻ってきた。
手にはコンビニの袋。
肉まんと、温かいペットボトルのお茶。それから、なぜかプリンも入っていた。
「プリン?」
「甘いものも必要だと思った」
「……ブチャラティさん、お母さんみたいですね」
「部下にも似たようなことを言われたことがある」
「部下?」
「こっちの話だ」
さやかは肉まんを受け取った。
両手で包むと、じんわりと熱が伝わってくる。
ひと口かじる。
思ったより熱くて、舌を火傷しそうになった。
「熱っ!」
「気をつけろ」
「先に言ってくださいよ」
「肉まんは熱いものだ」
「うっ、正論で殴られた……」
そんなやり取りをしているうちに、さやかの肩から少しだけ力が抜けた。
肉まんは普通の味だった。
コンビニの、どこにでもある味。
でも、今のさやかには泣きたくなるくらい温かかった。
「……おいしい」
「そうか」
「うん」
さやかはゆっくり食べた。
途中でまた涙が出た。
でも今度は、顔を隠さなかった。
ブチャラティも、何も言わなかった。
それがありがたかった。
食べ終わる頃には、冷えきっていた指先に少し感覚が戻っていた。
「ブチャラティさん」
「なんだ」
「あたし、明日ちゃんと友達の顔見れるかな」
「見られないかもしれない」
さやかは苦笑した。
「そこは励ましてくださいよ」
「嘘は言わない。
見られない日もあるし逃げたくなる日もあるだろう。
だが、逃げた自分をまた責めすぎるな」
ブチャラティは続けた。
「大切なのは、最後にどちらを向くかだ。
友を憎むほうへ行くのか、自分の痛みを抱えたままでも、もう一度人を大切にするほうへ行くのか」
「……難しいですね」
「ああ。だから価値がある」
さやかは黙ってお茶を飲んだ。
熱が喉を通って、胸に落ちる。
「……あたし、まだ嫌なこと考えちゃうと思います」
「当然だ」
「仁美のこと、羨ましいって思うと思います」
「ああ」
「恭介のことも、しばらく普通に見れないと思います」
「それでもいい」
「でも……」
さやかはハンカチを握った。
「でも、あたしが誰かを助けたいって思ったことまで、嘘だったってことには……したくないです」
ブチャラティは頷いた。
「それが、おまえの心の向かう先だ」
「心の向かう先……」
「迷ったときは、そこへ戻れ」
夜風が、今度は少しだけ心地よかった。
さやかは空を見上げた。
星はあまり見えない。
でも、真っ暗ではなかった。
「……あたし、帰ります」
「送ろう」
「大丈夫です。たぶん、歩けます」
そう言って立ち上がると、足元が少しふらついた。
ブチャラティがすぐに手を差し出す。
さやかは一瞬迷ってから、その手を取った。
大きくて、温かい手だった。
「……やっぱ、途中までお願いします」
「わかった」
ふたりは歩道橋を下りた。
街の灯りが、さっきより少しだけ普通に見えた。
歩きながら、さやかはぽつぽつと話した。
まどかのこと。
仁美のこと。
恭介のバイオリンのこと。
自分がいかに空回りして、いかに勝手に期待して、いかに勝手に傷ついたか。
ブチャラティは、最後まで遮らずに聞いた。
時々、短く相槌を打つだけだった。
でもその相槌は、さやかを急かさなかった。
家の近くの角まで来たところで、さやかは立ち止まった。
「ここで大丈夫です」
「そうか」
「……ハンカチ、洗って返します」
「急がなくていい」
「だめです。返します。約束だから」
ブチャラティは少しだけ笑った。
「なら、待っている」
その言葉に、さやかは胸の奥が少し温かくなるのを感じた。
待っている。
ただそれだけの言葉が、今は救いになった。
「ブチャラティさん」
「なんだ」
「今日、声かけてくれて……ありがとうございました」
「礼はいらない」
「いります。あたしが言いたいから」
さやかは目をこすりながら、無理やり笑った。
まだ不格好な笑顔だった。
でも、さっきよりは少しだけ心が晴れていた。
「明日になったら、また落ち込むかもしれないけど」
「ああ」
「でも、ごはん食べます」
「いい判断だ」
「顔も洗います」
「それもいい」
「それで……ちょっとだけ、ちゃんと考えてみます」
ブチャラティは静かに頷いた。
「それで十分だ」
さやかは家のほうへ歩き出した。
数歩進んでから、振り返る。
白いスーツの青年は、まだそこに立っていた。
まるで、彼女がちゃんと帰れるのを見届けるためだけに。
さやかは小さく手を振った。
ブチャラティも、ほんの少しだけ手を上げた。
部屋に戻ったさやかは、明かりをつけずにベッドへ倒れ込んだ。
胸はまだ痛い。
思い出せば、また涙が出る。
でも、ポケットの中にはハンカチがあった。
明日、洗って返すもの。
明日まで生きる理由が、ひとつ。
「……変な人だったなぁ」
そう呟く声は、まだかすれていた。
けれど、その夜。
美樹さやかは、絶望の底に沈みきる前に、ほんの少しだけ息を吸うことができた。
そしてその小さな呼吸は、たぶん。
彼女がもう一度、自分の心の向かう先を探すための、最初の一歩だった。