青いリボンの約束   作:東頭鎖国

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第一章 見滝原の夜

 見滝原の夜は、やけに青かった。

 街灯の白い光も、コンビニの看板も、遠くのビルの窓明かりも、全部が水の底みたいに滲んで見える。

 美樹さやかは、歩道橋の階段に腰を下ろしていた。

 

 別に、そこに座りたかったわけじゃない。

 ただ、足が動かなくなった。

 

 膝に置いた手はぎゅっと握りしめすぎて、爪が手のひらに食い込んでいる。

 なのに痛みは遠かった。

 胸のほうが、もっと痛かったから。

 

「……ばっかみたい」

 

 小さく吐き出した声は、誰に向けたものでもなかった。

 上条恭介のことを思い出す。

 ずっと隣にいたつもりだった。

 支えているつもりだった。

 自分だけは、彼の苦しみをわかっているつもりだった。

 

 でも、違った。

 

 自分が勝手に特別だと思い込んでいただけだった。

 魔法少女になったことも、奇跡を願ったことも、彼の腕が治ったことも。

 

 全部、全部。

 

「……あたし、何してんだろ」

 

 声が震えた。

 泣きたくなかった。

 泣いたら、負けた気がした。

 

 誰に? 

 

 仁美に? 恭介に? まどかに? 自分に? 

 

 わからない。

 わからないけど、涙は勝手に出てきた。

 

「っ……う、うぅ……」

 

 両手で顔を覆う。

 見られたくない。

 こんな顔、誰にも見られたくない。

 

 正義の味方だとか、ヒーローだとか、自分で散々言っておいて……たかが失恋ひとつで、こんなにぐちゃぐちゃになるなんて。

 情けない。

 惨めだ。

 そう思えば思うほど、余計に涙が止まらなくなる。

 

 そのときだった。

 

「……大丈夫か?」

 

 低く、落ち着いた声がした。

 

 さやかはびくっと肩を震わせた。

 顔を上げると、階段の下にひとりの青年が立っていた。

 白いスーツに、整った顔立ち。

 夜の街には少し不釣り合いなくらい、まっすぐな目をした男だった。

 外国人だろうか? 日本語は自然だったが、どこか響きが違う。

 

 さやかは慌てて袖で目元を拭った。

 

「だ、大丈夫です、全然……ちょっと、その……目にゴミが」

 

「そうか」

 

 青年は短く答えた。

 

 それ以上、無理に踏み込んではこない。

 

 普通なら『本当に?』とか『何かあったの?』とか、気を遣うふりで近づいてくるところだ。

 なのに、その男はただ階段の下に立ったまま、静かにこちらを見ていた。

 その沈黙が、妙に優しかった。

 

「……いや、嘘です」

 

 さやかは自分でも驚くくらい、簡単に認めていた。

 

「めちゃくちゃ大丈夫じゃないです」

 

 青年は少しだけ目を細めた。

 

「隣に座ってもいいか?」

 

「……変な人じゃないですよね?」

 

「自分でそう言って信用されるなら、世の中に詐欺師はいないな」

 

「……ふふ」

 

 ほんの少しだけ笑ってしまった。

 

 笑えたことに、さやか自身が驚いた。

 青年はゆっくり階段を上がり、さやかから一段分空けて腰を下ろした。

 近すぎず、遠すぎず、逃げようと思えば逃げられる距離。

 それがまた、妙に気遣われている感じがした。

 

「俺はブローノ・ブチャラティだ」

 

「……美樹さやかです」

 

「さやか。

 何があったかは、無理に話さなくていい」

 

「じゃあ、なんで声かけたんですか」

 

「倒れそうな顔をしていた」

 

「……そんな顔してました?」

 

「ああ。今にも、自分で自分を罰しようとしている顔だ」

 

 胸の奥を突かれた気がした。

 さやかは言葉に詰まった。

 自分で自分を罰しようとしている。

 

 その言葉が、妙にしっくり来てしまった。

 

「……失恋したんです」

 

 ぽつり、とこぼれた。

 

 言ってしまえば、ひどく陳腐だった。

 

 世界が終わったみたいに苦しいのに、言葉にするとたったそれだけ。

 

「好きな人がいて。

 その人のために、あたし、いろいろ頑張ったつもりで……でも、結局、別の子に取られちゃって」

 

 ブチャラティは黙って聞いていた。

 

「いや、取られたって言い方も変ですよね。

 あいつは物じゃないし、仁美だって悪い子じゃないし……むしろちゃんとしてた。

 ちゃんと正面から言ってくれた。

 あたしに時間もくれた」

 

 さやかは笑おうとした。

 

 でも、うまくいかなかった。

 

「だから、誰も悪くないんですよ。

 誰も悪くないのに、あたしだけが汚いんです。

 悔しいとか、ずるいとか、なんであたしじゃないのとか……そんなことばっか考えて」

 

 手のひらを見つめる。

 

 魔法少女の力で、何度も人を助けた手。

 

 でも今は、何も掴めない手に見えた。

 

「あたし、正義の味方になりたかったんです。

 見返りなんていらないって思ってた。

 誰かのために何かできる自分でいたかった。

 でも本当は、見返りが欲しかったんだなって」

 

 声がまた震えた。

 

「ありがとうって言ってほしかった。

 こっち向いてほしかった。

 あたしを選んでほしかった!」

 

 涙が落ちる。

 ぽたぽたと、膝に染みを作る。

 

「そんなの、全然正義の味方じゃないじゃん……」

 

 ブチャラティは、すぐには何も言わなかった。

 夜風が吹いた。

 車の音が遠くを流れていく。

 

 やがて彼は、静かに口を開いた。

 

「さやか。

 おまえは、自分の弱さを見つけてしまったんだな」

 

「……はい」

 

「それはつらいことだ。

 自分が信じていた自分と、本当の自分が違って見える。

 胸の中を覗いたら、綺麗なものだけではなかった。

 そういうとき、人は自分を嫌いになる」

 

 さやかは何も言えなかった。

 

「だがな」

 

 ブチャラティの声は、穏やかなのに強かった。

 

「人間は、見返りを求めたからといって、今までの善意が全部嘘になるわけじゃあない」

 

 さやかは顔を上げた。

 

「え……」

 

「誰かに気づいてほしかった。

 愛されたかった。

 報われたかった。

 そう思うことは、罪じゃあない」

 

 ブチャラティはまっすぐ前を見ていた。

 

「人は神じゃない、傷つけば痛む。

 尽くせば報われたいと思う、自分を選んでほしいと願う。

 それは醜さじゃない。生きている証だ」

 

「でも……でもあたし、嫉妬したんですよ? 友達に……」

 

「友達に嫉妬するなんて珍しくない話だ」

 

 あっさりと言われて、さやかは目を丸くした。

 

「えっ」

 

「大切だからこそ比べる。近いからこそ苦しくなる。

 だが、そこで何を選ぶかだ」

 

 ブチャラティはさやかのほうを見た。

 

「嫉妬した自分を見つけて、おまえは傷ついている。

 なら、おまえはまだ人を大切にしたいと思っているんじゃあないのか?」

 

 さやかの喉が詰まった。

 否定したかった。

 そんな綺麗なものじゃない、と言いたかった。

 

 でも、本当は。

 本当は、仁美のことも嫌いになりきれなかった。

 恭介のことも憎みきれなかった。

 

 だから、余計に苦しかった。

 

「……わかんないです」

 

「今はそれでいい」

 

「よくないですよ。

 あたし、もうぐちゃぐちゃで……どうしたらいいか、全然」

 

「すぐに答えを出さなくていい」

 

 ブチャラティはそう言って、ポケットから白いハンカチを取り出した。

 

 それを、さやかに差し出す。

 

「泣くなら、まず泣け。

 傷口を見ないふりをしたまま走れば、いずれ足が動かなくなる」

 

 さやかはハンカチを見つめた。

 受け取っていいのか迷った。

 でも、手は勝手に伸びていた。

 

「……ありがとうございます」

 

「返さなくていい」

 

「いや、洗って返しますよ」

 

「なら、そうしろ。

 返す理由があれば、明日まで生きる理由がひとつ増える」

 

 その言い方があまりに真面目で、さやかはまた少しだけ笑ってしまった。

 

「ブチャラティさんって、変な人ですね」

 

「よく言われる」

 

「……あははっ」

 

 笑いながら涙を拭く。

 ハンカチは清潔で、少しだけ香水の匂いがした。強すぎない、静かな匂いだった。

 さやかはしばらく鼻をすすっていたが、やがて小さく言った。

 

「……あたし、誰かに『それでもいい』って言ってほしかったのかも」

 

「それでもいい」

 

 ブチャラティは即座に言った。

 さやかは驚いて彼を見た。

 

「おまえが今、情けなくても、嫉妬していても、泣いていても、それでもいい。

 だが、自分を捨てるな」

 

「自分を……」

 

「おまえが誰かを助けたいと思ったこと、誰かのために走ったこと、好きな人を救いたいと願ったこと。

 それは、おまえのものだ。

 誰にも奪わせるな。

 たとえ結果が望んだものではなかったとしても、その願いまで汚れたことにはならない」

 

 さやかの胸が、また痛くなった。

 でもそれは、さっきまでのただ潰されるような痛みとは違った。

 固まっていたものに、少しずつ血が通っていくような痛みだった。

 

「……でも、どうやって立ち直ればいいんですか」

 

「立ち直ろうと焦る必要はない」

 

「え?」

 

「今日は飯を食え。

 温かいものを飲め。

 眠れるなら眠れ。

 明日、顔を洗え。

 それから考えればいい」

 

「そんなのでいいんですか?」

 

「そんなことができなくなるほど、人は傷つく」

 

 ブチャラティの言葉は、重かった。

 まるで、そういう人間を何人も見てきたみたいに。

 

「大きな覚悟は、小さな生活の上にしか立たない。

 空腹で眠れず寒さに震えている人間に、正しい判断をしろというほうが無理だ」

 

 さやかは目を伏せた。

 そういえば、何も食べていなかった。

 胸がいっぱいで、食欲なんてないと思っていた。

 でも意識した途端、胃のあたりがきゅうっと縮む。

 

「……お腹、空いてるかも」

 

「近くに店がある。嫌でなければ、何か温かいものを買ってこよう」

 

「いや、そこまでしてもらうのは」

 

「遠慮するな。俺がそうしたい」

 

 きっぱりと言われて、さやかは言葉を失った。

 同情ではない。

 押しつけでもない。

 ただ、この人は困っている人を見過ごせないのだと、なぜか自然にわかった。

 

「……じゃあ、肉まん」

 

「肉まんだな」

 

「あと、あったかいお茶」

 

「わかった」

 

 ブチャラティは立ち上がった。

 その背中を見て、さやかはふと不安になった。

 

「あの!」

 

 ブチャラティが振り返る。

 

「……戻ってきますよね?」

 

 口にしてから、自分でも子供みたいだと思った。

 知らない人に何を言っているのだろう。

 でも、今は置いていかれるのが怖かった。

 ブチャラティは少しだけ表情をやわらげた。

 

「俺は約束を破らない」

 

 それだけ言って、階段を下りていった。

 さやかはひとりになった。

 でも、さっきまでのひとりとは少し違った。

 夜はまだ青い。

 胸はまだ痛い。

 

 涙も、たぶんまた出る。

 

 それでも、ほんの少しだけ呼吸がしやすくなっていた。

 やがて、ブチャラティは本当に戻ってきた。

 手にはコンビニの袋。

 肉まんと、温かいペットボトルのお茶。それから、なぜかプリンも入っていた。

 

「プリン?」

 

「甘いものも必要だと思った」

 

「……ブチャラティさん、お母さんみたいですね」

 

「部下にも似たようなことを言われたことがある」

 

「部下?」

 

「こっちの話だ」

 

 さやかは肉まんを受け取った。

 両手で包むと、じんわりと熱が伝わってくる。

 ひと口かじる。

 思ったより熱くて、舌を火傷しそうになった。

 

「熱っ!」

 

「気をつけろ」

 

「先に言ってくださいよ」

 

「肉まんは熱いものだ」

 

「うっ、正論で殴られた……」

 

 そんなやり取りをしているうちに、さやかの肩から少しだけ力が抜けた。

 肉まんは普通の味だった。

 コンビニの、どこにでもある味。

 

 でも、今のさやかには泣きたくなるくらい温かかった。

 

「……おいしい」

 

「そうか」

 

「うん」

 

 さやかはゆっくり食べた。

 途中でまた涙が出た。

 でも今度は、顔を隠さなかった。

 ブチャラティも、何も言わなかった。

 それがありがたかった。

 

 食べ終わる頃には、冷えきっていた指先に少し感覚が戻っていた。

 

「ブチャラティさん」

 

「なんだ」

 

「あたし、明日ちゃんと友達の顔見れるかな」

 

「見られないかもしれない」

 

 さやかは苦笑した。

 

「そこは励ましてくださいよ」

 

「嘘は言わない。

 見られない日もあるし逃げたくなる日もあるだろう。

 だが、逃げた自分をまた責めすぎるな」

 

 ブチャラティは続けた。

 

「大切なのは、最後にどちらを向くかだ。

 友を憎むほうへ行くのか、自分の痛みを抱えたままでも、もう一度人を大切にするほうへ行くのか」

 

「……難しいですね」

 

「ああ。だから価値がある」

 

 さやかは黙ってお茶を飲んだ。

 熱が喉を通って、胸に落ちる。

 

「……あたし、まだ嫌なこと考えちゃうと思います」

 

「当然だ」

 

「仁美のこと、羨ましいって思うと思います」

 

「ああ」

 

「恭介のことも、しばらく普通に見れないと思います」

 

「それでもいい」

 

「でも……」

 

 さやかはハンカチを握った。

 

「でも、あたしが誰かを助けたいって思ったことまで、嘘だったってことには……したくないです」

 

 ブチャラティは頷いた。

 

「それが、おまえの心の向かう先だ」

 

「心の向かう先……」

 

「迷ったときは、そこへ戻れ」

 

 夜風が、今度は少しだけ心地よかった。

 さやかは空を見上げた。

 星はあまり見えない。

 でも、真っ暗ではなかった。

 

「……あたし、帰ります」

 

「送ろう」

 

「大丈夫です。たぶん、歩けます」

 

 そう言って立ち上がると、足元が少しふらついた。

 

 ブチャラティがすぐに手を差し出す。

 さやかは一瞬迷ってから、その手を取った。

 大きくて、温かい手だった。

 

「……やっぱ、途中までお願いします」

 

「わかった」

 

 ふたりは歩道橋を下りた。

 

 街の灯りが、さっきより少しだけ普通に見えた。

 歩きながら、さやかはぽつぽつと話した。

 まどかのこと。

 仁美のこと。

 恭介のバイオリンのこと。

 自分がいかに空回りして、いかに勝手に期待して、いかに勝手に傷ついたか。

 

 ブチャラティは、最後まで遮らずに聞いた。

 時々、短く相槌を打つだけだった。

 でもその相槌は、さやかを急かさなかった。

 

 家の近くの角まで来たところで、さやかは立ち止まった。

 

「ここで大丈夫です」

 

「そうか」

 

「……ハンカチ、洗って返します」

 

「急がなくていい」

 

「だめです。返します。約束だから」

 

 ブチャラティは少しだけ笑った。

 

「なら、待っている」

 

 その言葉に、さやかは胸の奥が少し温かくなるのを感じた。

 

 待っている。

 

 ただそれだけの言葉が、今は救いになった。

 

「ブチャラティさん」

 

「なんだ」

 

「今日、声かけてくれて……ありがとうございました」

 

「礼はいらない」

 

「いります。あたしが言いたいから」

 

 さやかは目をこすりながら、無理やり笑った。

 まだ不格好な笑顔だった。

 でも、さっきよりは少しだけ心が晴れていた。

 

「明日になったら、また落ち込むかもしれないけど」

 

「ああ」

 

「でも、ごはん食べます」

 

「いい判断だ」

 

「顔も洗います」

 

「それもいい」

 

「それで……ちょっとだけ、ちゃんと考えてみます」

 

 ブチャラティは静かに頷いた。

 

「それで十分だ」

 

 さやかは家のほうへ歩き出した。

 数歩進んでから、振り返る。

 白いスーツの青年は、まだそこに立っていた。

 

 まるで、彼女がちゃんと帰れるのを見届けるためだけに。

 さやかは小さく手を振った。

 ブチャラティも、ほんの少しだけ手を上げた。

 

 部屋に戻ったさやかは、明かりをつけずにベッドへ倒れ込んだ。

 胸はまだ痛い。

 思い出せば、また涙が出る。

 

 でも、ポケットの中にはハンカチがあった。

 

 明日、洗って返すもの。

 明日まで生きる理由が、ひとつ。

 

「……変な人だったなぁ」

 

 そう呟く声は、まだかすれていた。

 

 けれど、その夜。

 

 美樹さやかは、絶望の底に沈みきる前に、ほんの少しだけ息を吸うことができた。

 そしてその小さな呼吸は、たぶん。

 

 彼女がもう一度、自分の心の向かう先を探すための、最初の一歩だった。

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