ブローノ・ブチャラティと別れてから、二週間が経っていた。
美樹さやかは、相変わらず完全復活とは程遠かった。
教室で上条恭介の姿を見れば胸がざわつくし、志筑仁美が隣にいるのを見れば喉の奥がぎゅっと詰まる。
全然ダメじゃん、あたし。
そう思う日は、まだ多かった。
だが、あの夜と違うことがひとつあった。
今日は、飯を食え。
温かいものを飲め。
眠れるなら眠れ。
明日、顔を洗え。
それから考えればいい。
ブチャラティの言葉を思い出すたび、さやかは「今日だけ」をなんとかやり過ごした。
今日だけ学校に行く。
今日だけご飯を食べる。
今日だけ人の前で笑う。
今日だけ生きる。
それを繰り返しているうちに、ほんの少しだけ呼吸が楽になっていた。
そんなある日。
さやかは駅前のベンチに座っていた。
膝の上には、小さな紙袋がひとつ。
中には、きれいに洗って畳んだ白いハンカチと、商店街の洋菓子店で買った焼き菓子が入っている。
それだけなら、ただの返し物だった。
けれど、さやかはもうひとつ、ポケットの中に小さな青いリボンを忍ばせていた。
自分の魔法少女の衣装と同じ、鮮やかな青。
ただの布ではない。
ほんの少しだけ、さやかの魔力を込めた。
誰かを癒すほどの力はない。
魔女を倒すような力もない。
でも、持ち主が本当に危ない時、ほんの一瞬だけ、心を引き戻す。
「……いや、なにやってんだろ、あたし」
さやかは自分で自分にツッコミを入れた。
普通なら、ハンカチを返して、ありがとうございましたと言って、それで終わり。
でも、さやかには終わりにできなかった。
あの夜の自分は、本当に危なかった。
恭介のこと。
仁美のこと。
自分の願いのこと。
正義の味方になりたかったくせに、報われたかった自分のこと。
全部がぐちゃぐちゃになって、もう自分なんかどうでもいいと思いかけていた。
その時に、ブチャラティは、さやかの隣に座ってくれた。
踏み込みすぎず、突き放しもせず。
ただ、そこにいてくれた。
「……あたしは、あの人に助けられたんだよな」
さやかは紙袋を抱え直した。
恋の傷は、まだ治っていない。
教室で恭介の声を聞くたび、胸がきゅっと痛む。
仁美を見ると、笑おうとして顔が引きつる。
まどかに心配されると、申し訳なくなって逃げたくなる。
けれど。
それでも、朝起きて顔を洗うようになった。
温かいものを飲むようになった。
空腹のまま外へ出ないようになった。
『普通のことを続けるのが一番難しい時もある』
ブチャラティはそう言った。
あの言葉は、さやかが思っていた以上に、深く心に残っていた。
「さやか」
ふいに声がした。
顔を上げる。
白いスーツの青年が、駅前の人混みの中に立っていた。
黒髪のおかっぱ。
真っ直ぐな視線。
見滝原の街並みには、やっぱり少し浮いている。
「ブチャラティさん!」
さやかは立ち上がった。
「待たせたか」
「いえ、あたしが早く来すぎただけです」
「そうか」
ブチャラティは、さやかの顔を見て、少しだけ目を細めた。
「顔色がよくなったな」
「えっ、そうですか?」
「ああ。少なくとも、あの夜よりはずっといい」
さやかは照れくさそうに頬をかいた。
「まあ……ご飯食べてますから」
「いいことだ」
「ブチャラティさんが言ったんですよ、飯を食えって。
だから一応、ちゃんと食べてます」
「それなら、俺も言った甲斐があった」
その穏やかな声に、さやかは一瞬だけ胸が詰まった。
あの夜、自分はこの声に救われた。
何も知らない相手なのに。
魔法少女のことも、魔女のことも、ソウルジェムのことも、何も知らないのに。
それでも、たしかに救われた。
「これ」
さやかは紙袋を差し出した。
「ハンカチ、洗って返します。あと、お菓子も入ってます。ちょっとしたお礼です」
ブチャラティは紙袋を受け取った。
「律儀だな」
「約束しましたから」
「そうだったな」
「……あたし、あの時、ハンカチ返す約束があったから、次の日ちゃんと起きられたんです」
ブチャラティの表情が、ほんの少し真剣になる。
さやかは笑ってごまかそうとしたが、うまくいかなかった。
「変ですよね。そんな小さいことでって思うかもしれないけど」
「思わない」
ブチャラティは即座に言った。
「人が踏みとどまる理由が大きい必要はない。
約束、借りたもの、誰かに言われた一言。
そういう小さなものが、時に命を繋ぐ」
「……ブチャラティさんって、素でカッコいいこといいますよね」
「?」
「自覚ないのかい……でも、そこがいいところだと思います」
さやかは少し笑った。
そして、ポケットの中のリボンを握りしめた。
渡すなら今だ。
けれど、いざとなると少し恥ずかしい。
何しろ、相手は大人びた外国人の青年だ。
こっちは中学生で、魔法少女で、失恋で泣いたばかりで、自分で作ったお守りを渡そうとしている。
冷静に考えると、ちょっと重い。
「……あの」
「なんだ」
「もうひとつ、渡したいものがあって」
さやかは青いリボンを取り出した。
ブチャラティはそれを見る。
「これは?」
「お守りです」
「お守り」
「はい。えっと……あたし、こう見えて、ちょっと不思議パワーみたいなのがあるんで」
「不思議パワーか」
「そこ、深く突っ込まないでください」
「わかった」
本当に深く突っ込まないあたり、ブチャラティは器が大きかった。
さやかはリボンを両手で差し出した。
「これ、すごい力があるわけじゃないです。弾丸を弾くとか、怪我を治すとか、そういうのは無理です」
「では、何をしてくれる?」
「……思い出させます」
「何を?」
さやかは少し俯いた。
そして、顔を上げる。
「あたしに言ったことを」
ブチャラティは黙った。
「自分を捨てるなって。
誰かを助けたいって気持ちは、すごく大事だけど……それで自分が壊れていい理由にはならないって」
正確には、ブチャラティがそのままそう言ったわけではない。
でも、さやかはそう受け取った。
あの夜、ブチャラティの言葉は、さやかの中でそういう形になった。
「ブチャラティさんって、優しいです。でも、なんか……危なっかしいです」
「俺が?」
「はい」
さやかはきっぱり言った。
「人のためなら、自分のこと後回しにしそうです。
しかも、それを当然みたいな顔でやりそうです」
ブチャラティは少しだけ目を伏せた。
否定はしなかった。
「仕事柄、そういう場面はある」
「仕事って何なんですか」
「説明が難しい」
「もしかして、ヤバいやつですか?」
「……否定はできない」
「ほら!」
さやかは半眼になった。
「だから持っててください。あたしを助けた人が、どこかで勝手に死んだりしたら、後味悪すぎます」
「勝手に死ぬつもりはない」
「ほんとですか?」
「……努力はする」
「そこは即答してくださいよ!」
ブチャラティは静かに笑った。
その笑顔は穏やかだったが、どこか寂しそうでもあった。
さやかは、その顔を見て胸がざわついた。
この人は、たぶん本当に危ないところへ行く。
根拠はない。
でも、魔法少女として何度も修羅場をくぐってきた直感が告げていた。
この人は、死に近いところにいる。
しかも、死を恐れていない。
それが怖かった。
「ブチャラティさん」
「なんだ」
「生きてください」
その言葉は、さやか自身が思っていたより強く出た。
「誰かを守るために戦うのは、かっこいいと思います。
あたしもそういうの、嫌いじゃないです。
むしろ、そうなりたかった」
声が少し震える。
「でも、死んだら終わりです。
残された人は、ずっと痛いです。
かっこよくても、立派でも、痛いものは痛いんです」
恭介に選ばれなかった痛みとは違う。
でも、失う痛みならわかる気がした。
自分が消えてもいいと思いかけたからこそ、残された側のことをほんの少しだけ考えられるようになった。
「だから……生きてください」
ブチャラティは、長い間、黙っていた。
駅前の雑踏が二人の周りを流れていく。
誰も、さやかの手の中の青いリボンに特別な意味があるとは思わない。
誰も、この小さな会話が、遠い国の運命を変えるとは知らない。
やがてブチャラティは、静かにリボンを受け取った。
「わかった」
「ほんとですか」
「ああ」
「軽く言ってません?」
「軽くは言っていない」
ブチャラティはリボンを丁寧に畳み、内ポケットにしまった。
「覚えておく。
誰かを守るために、自分を捨てるな。そういうことだな」
「はい」
「さやか」
「はい?」
「ありがとう」
その一言で、さやかは急に照れくさくなった。
「いや、あたしが言う側なんですけど。ありがとうございますって」
「助けたつもりが、助けられることもある」
「またそういうかっこいいこと言う……」
「本心だ」
ブチャラティは紙袋を手に持ち直した。
「俺は明日、イタリアへ戻る」
「……明日?」
「ああ」
「急ですね」
「そういう仕事だ」
「危ないんですよね」
ブチャラティは答えなかった。
答えないことが、答えだった。
さやかは唇を噛んだ。
「じゃあ、なおさらです」
「ああ」
「絶対、ちゃんと帰ってきてください」
「約束しよう」
「ほんとに?」
「俺は約束を破らない」
その言葉を聞いて、さやかはようやく少し笑えた。
「じゃあ、今度会ったら、肉まんじゃなくてもっといいもの奢ってください」
「何がいい?」
「そうですね……イタリアの人なら、やっぱり本場のパスタとか?」
さやかは冗談めかして言う。
「日本で本場を用意するのは難しいな」
「じゃあイタリアに招待してください」
「それは大きく出たな」
「命の恩人候補ですから、それくらいしてもらわないと」
ブチャラティは小さく笑った。
「考えておく」
「そこは約束じゃないんだ」
「旅費は高い」
「現実的!」
そのやり取りに、さやかは笑った。
久しぶりに、ちゃんと笑えた気がした。
完全に元気になったわけではない。
でも、あの夜の底なしの暗さからは、少しだけ離れられた。
そしてその分だけ、彼に返したかった。
自分がもらったものを、ほんの少しでも。
翌日。
ブローノ・ブチャラティは日本を発った。
青いリボンは、内ポケットの奥にしまわれていた。
本人でさえ、それを強く意識していたわけではない。
ただ、時折胸元に手をやると、布の感触があった。
約束の感触だった。
生きてください。
少女の声が、妙に耳に残っていた。