青いリボンの約束   作:東頭鎖国

2 / 5
第二章 青いリボン

 ブローノ・ブチャラティと別れてから、二週間が経っていた。

 美樹さやかは、相変わらず完全復活とは程遠かった。

 教室で上条恭介の姿を見れば胸がざわつくし、志筑仁美が隣にいるのを見れば喉の奥がぎゅっと詰まる。

 

 全然ダメじゃん、あたし。

 そう思う日は、まだ多かった。

 

 だが、あの夜と違うことがひとつあった。

 

 今日は、飯を食え。

 温かいものを飲め。

 眠れるなら眠れ。

 明日、顔を洗え。

 それから考えればいい。

 

 ブチャラティの言葉を思い出すたび、さやかは「今日だけ」をなんとかやり過ごした。

 

 今日だけ学校に行く。

 今日だけご飯を食べる。

 今日だけ人の前で笑う。

 今日だけ生きる。

 

 それを繰り返しているうちに、ほんの少しだけ呼吸が楽になっていた。

 

 そんなある日。

 

 さやかは駅前のベンチに座っていた。

 膝の上には、小さな紙袋がひとつ。

 中には、きれいに洗って畳んだ白いハンカチと、商店街の洋菓子店で買った焼き菓子が入っている。

 

 それだけなら、ただの返し物だった。

 

 けれど、さやかはもうひとつ、ポケットの中に小さな青いリボンを忍ばせていた。

 自分の魔法少女の衣装と同じ、鮮やかな青。

 ただの布ではない。

 ほんの少しだけ、さやかの魔力を込めた。

 

 誰かを癒すほどの力はない。

 魔女を倒すような力もない。

 でも、持ち主が本当に危ない時、ほんの一瞬だけ、心を引き戻す。

 

「……いや、なにやってんだろ、あたし」

 

 さやかは自分で自分にツッコミを入れた。

 普通なら、ハンカチを返して、ありがとうございましたと言って、それで終わり。

 でも、さやかには終わりにできなかった。

 

 あの夜の自分は、本当に危なかった。

 

 恭介のこと。

 仁美のこと。

 自分の願いのこと。

 正義の味方になりたかったくせに、報われたかった自分のこと。

 

 全部がぐちゃぐちゃになって、もう自分なんかどうでもいいと思いかけていた。

 その時に、ブチャラティは、さやかの隣に座ってくれた。

 

 踏み込みすぎず、突き放しもせず。

 ただ、そこにいてくれた。

 

「……あたしは、あの人に助けられたんだよな」

 

 さやかは紙袋を抱え直した。

 恋の傷は、まだ治っていない。

 

 教室で恭介の声を聞くたび、胸がきゅっと痛む。

 仁美を見ると、笑おうとして顔が引きつる。

 まどかに心配されると、申し訳なくなって逃げたくなる。

 

 けれど。

 

 それでも、朝起きて顔を洗うようになった。

 温かいものを飲むようになった。

 空腹のまま外へ出ないようになった。

 

『普通のことを続けるのが一番難しい時もある』

 

 ブチャラティはそう言った。

 あの言葉は、さやかが思っていた以上に、深く心に残っていた。

 

「さやか」

 

 ふいに声がした。

 顔を上げる。

 

 白いスーツの青年が、駅前の人混みの中に立っていた。

 

 黒髪のおかっぱ。

 真っ直ぐな視線。

 見滝原の街並みには、やっぱり少し浮いている。

 

「ブチャラティさん!」

 

 さやかは立ち上がった。

 

「待たせたか」

 

「いえ、あたしが早く来すぎただけです」

 

「そうか」

 

 ブチャラティは、さやかの顔を見て、少しだけ目を細めた。

 

「顔色がよくなったな」

 

「えっ、そうですか?」

 

「ああ。少なくとも、あの夜よりはずっといい」

 

 さやかは照れくさそうに頬をかいた。

 

「まあ……ご飯食べてますから」

 

「いいことだ」

 

「ブチャラティさんが言ったんですよ、飯を食えって。

 だから一応、ちゃんと食べてます」

 

「それなら、俺も言った甲斐があった」

 

 その穏やかな声に、さやかは一瞬だけ胸が詰まった。

 

 あの夜、自分はこの声に救われた。

 

 何も知らない相手なのに。

 

 魔法少女のことも、魔女のことも、ソウルジェムのことも、何も知らないのに。

 それでも、たしかに救われた。

 

「これ」

 

 さやかは紙袋を差し出した。

 

「ハンカチ、洗って返します。あと、お菓子も入ってます。ちょっとしたお礼です」

 

 ブチャラティは紙袋を受け取った。

 

「律儀だな」

 

「約束しましたから」

 

「そうだったな」

 

「……あたし、あの時、ハンカチ返す約束があったから、次の日ちゃんと起きられたんです」

 

 ブチャラティの表情が、ほんの少し真剣になる。

 さやかは笑ってごまかそうとしたが、うまくいかなかった。

 

「変ですよね。そんな小さいことでって思うかもしれないけど」

 

「思わない」

 

 ブチャラティは即座に言った。

 

「人が踏みとどまる理由が大きい必要はない。

 約束、借りたもの、誰かに言われた一言。

 そういう小さなものが、時に命を繋ぐ」

 

「……ブチャラティさんって、素でカッコいいこといいますよね」

 

「?」

 

「自覚ないのかい……でも、そこがいいところだと思います」

 

 さやかは少し笑った。

 そして、ポケットの中のリボンを握りしめた。

 渡すなら今だ。

 

 けれど、いざとなると少し恥ずかしい。

 何しろ、相手は大人びた外国人の青年だ。

 こっちは中学生で、魔法少女で、失恋で泣いたばかりで、自分で作ったお守りを渡そうとしている。

 冷静に考えると、ちょっと重い。

 

「……あの」

 

「なんだ」

 

「もうひとつ、渡したいものがあって」

 

 さやかは青いリボンを取り出した。

 ブチャラティはそれを見る。

 

「これは?」

 

「お守りです」

 

「お守り」

 

「はい。えっと……あたし、こう見えて、ちょっと不思議パワーみたいなのがあるんで」

 

「不思議パワーか」

 

「そこ、深く突っ込まないでください」

 

「わかった」

 

 本当に深く突っ込まないあたり、ブチャラティは器が大きかった。

 さやかはリボンを両手で差し出した。

 

「これ、すごい力があるわけじゃないです。弾丸を弾くとか、怪我を治すとか、そういうのは無理です」

 

「では、何をしてくれる?」

 

「……思い出させます」

 

「何を?」

 

 さやかは少し俯いた。

 そして、顔を上げる。

 

「あたしに言ったことを」

 

 ブチャラティは黙った。

 

「自分を捨てるなって。

 誰かを助けたいって気持ちは、すごく大事だけど……それで自分が壊れていい理由にはならないって」

 

 正確には、ブチャラティがそのままそう言ったわけではない。

 

 でも、さやかはそう受け取った。

 

 あの夜、ブチャラティの言葉は、さやかの中でそういう形になった。

 

「ブチャラティさんって、優しいです。でも、なんか……危なっかしいです」

 

「俺が?」

 

「はい」

 

 さやかはきっぱり言った。

 

「人のためなら、自分のこと後回しにしそうです。

 しかも、それを当然みたいな顔でやりそうです」

 

 ブチャラティは少しだけ目を伏せた。

 

 否定はしなかった。

 

「仕事柄、そういう場面はある」

 

「仕事って何なんですか」

 

「説明が難しい」

 

「もしかして、ヤバいやつですか?」

 

「……否定はできない」

 

「ほら!」

 

 さやかは半眼になった。

 

「だから持っててください。あたしを助けた人が、どこかで勝手に死んだりしたら、後味悪すぎます」

 

「勝手に死ぬつもりはない」

 

「ほんとですか?」

 

「……努力はする」

 

「そこは即答してくださいよ!」

 

 ブチャラティは静かに笑った。

 その笑顔は穏やかだったが、どこか寂しそうでもあった。

 

 さやかは、その顔を見て胸がざわついた。

 

 この人は、たぶん本当に危ないところへ行く。

 根拠はない。

 でも、魔法少女として何度も修羅場をくぐってきた直感が告げていた。

 

 この人は、死に近いところにいる。

 しかも、死を恐れていない。

 それが怖かった。

 

「ブチャラティさん」

 

「なんだ」

 

「生きてください」

 

 その言葉は、さやか自身が思っていたより強く出た。

 

「誰かを守るために戦うのは、かっこいいと思います。

 あたしもそういうの、嫌いじゃないです。

 むしろ、そうなりたかった」

 

 声が少し震える。

 

「でも、死んだら終わりです。

 残された人は、ずっと痛いです。

 かっこよくても、立派でも、痛いものは痛いんです」

 

 恭介に選ばれなかった痛みとは違う。

 でも、失う痛みならわかる気がした。

 自分が消えてもいいと思いかけたからこそ、残された側のことをほんの少しだけ考えられるようになった。

 

「だから……生きてください」

 

 ブチャラティは、長い間、黙っていた。

 駅前の雑踏が二人の周りを流れていく。

 

 誰も、さやかの手の中の青いリボンに特別な意味があるとは思わない。

 誰も、この小さな会話が、遠い国の運命を変えるとは知らない。

 やがてブチャラティは、静かにリボンを受け取った。

 

「わかった」

 

「ほんとですか」

 

「ああ」

 

「軽く言ってません?」

 

「軽くは言っていない」

 

 ブチャラティはリボンを丁寧に畳み、内ポケットにしまった。

 

「覚えておく。

 誰かを守るために、自分を捨てるな。そういうことだな」

 

「はい」

 

「さやか」

 

「はい?」

 

「ありがとう」

 

 その一言で、さやかは急に照れくさくなった。

 

「いや、あたしが言う側なんですけど。ありがとうございますって」

 

「助けたつもりが、助けられることもある」

 

「またそういうかっこいいこと言う……」

 

「本心だ」

 

 ブチャラティは紙袋を手に持ち直した。

 

「俺は明日、イタリアへ戻る」

 

「……明日?」

 

「ああ」

 

「急ですね」

 

「そういう仕事だ」

 

「危ないんですよね」

 

 ブチャラティは答えなかった。

 答えないことが、答えだった。

 

 さやかは唇を噛んだ。

 

「じゃあ、なおさらです」

 

「ああ」

 

「絶対、ちゃんと帰ってきてください」

 

「約束しよう」

 

「ほんとに?」

 

「俺は約束を破らない」

 

 その言葉を聞いて、さやかはようやく少し笑えた。

 

「じゃあ、今度会ったら、肉まんじゃなくてもっといいもの奢ってください」

 

「何がいい?」

 

「そうですね……イタリアの人なら、やっぱり本場のパスタとか?」

 

 さやかは冗談めかして言う。

 

「日本で本場を用意するのは難しいな」

 

「じゃあイタリアに招待してください」

 

「それは大きく出たな」

 

「命の恩人候補ですから、それくらいしてもらわないと」

 

 ブチャラティは小さく笑った。

 

「考えておく」

 

「そこは約束じゃないんだ」

 

「旅費は高い」

 

「現実的!」

 

 そのやり取りに、さやかは笑った。

 久しぶりに、ちゃんと笑えた気がした。

 完全に元気になったわけではない。

 

 でも、あの夜の底なしの暗さからは、少しだけ離れられた。

 そしてその分だけ、彼に返したかった。

 自分がもらったものを、ほんの少しでも。

 

 

 翌日。

 

 ブローノ・ブチャラティは日本を発った。

 青いリボンは、内ポケットの奥にしまわれていた。

 

 本人でさえ、それを強く意識していたわけではない。

 ただ、時折胸元に手をやると、布の感触があった。

 約束の感触だった。

 

 生きてください。

 

 少女の声が、妙に耳に残っていた。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。