ヴェネツィア。
水の都は美しかった。
だがブチャラティたちにその美しさを味わう余裕はなかった。
敵の追撃。
任務の重圧。
そして、ボスからの最終指令。
トリッシュ・ウナを、父親であるボスのもとへ届ける。
サン・ジョルジョ・マジョーレ島。
指定された場所……鐘楼。
そこへ連れて行くのは、たった一人。
武器も通信手段も持たずに。
ブチャラティは命令を聞いた時、胸の奥に小さな違和感を覚えた。
あまりにも慎重すぎる。
あまりにも孤立させすぎる。
だが、ボスは姿を見せない男だ。
正体を隠すためなら、それくらいの条件をつけても不思議ではない。
そう考えることもできた。
「ブチャラティ」
船の上で、トリッシュが声をかけた。
彼女は不安げだった。
強がっていても、手の震えは隠しきれていない。
……無理もない。
突然命を狙われ、見知らぬ男たちに守られ、ようやく父親に会えると思ったら、また孤独な場所へ連れて行かれる。
しかも、その父親の顔すら知らない。
「大丈夫だ」
ブチャラティは静かに言った。
「俺がついている」
「……本当に?」
「ああ」
トリッシュはブチャラティを見つめた。
その目には、まだ完全な信頼とは違うものがあった。
だが、最初に出会った時のような反発だけではない。
この旅の中で、彼女は少しずつ変わっていた。
守られるだけの少女ではなく、自分の運命を知ろうとする者へ。
ブチャラティはそれを感じていた。
だからこそ、胸の違和感が消えなかった。
「行くぞ」
二人は島へ上がった。
サン・ジョルジョ・マジョーレ島。
海を渡る風が冷たい。
鐘楼は高く、白い壁は静かに陽光を受けていた。
あまりにも静かだった。
――静かすぎる。
ブチャラティはトリッシュを連れて進む。
一歩。
また一歩。
足音が響く。
トリッシュが小さく息を呑む。
「ねえ」
「なんだ」
「父さんは……どんな人だと思う?」
ブチャラティはすぐには答えなかった。
本当のところ、わからない。
パッショーネの頂点。
絶対に正体を見せない男。
恐怖で組織を支配する存在。
そんな男が、娘に対してだけ父親らしい情を見せるのか。
ブチャラティには、わからなかった。
それでも彼は言った。
「おまえは、確かめる権利がある」
「権利?」
「ああ。誰かの都合で生まれ、誰かの都合で追われ、誰かの都合で引き渡されるだけの存在じゃあない。
おまえには、自分の目で確かめる権利がある」
トリッシュは黙った。
「……変な人」
「よく言われる」
「でも、少し安心した」
「そうか」
その時だった。
胸元の青いリボンが、ほんの少しだけ揺れた気がした。
ブチャラティは無意識に内ポケットへ手をやる。
布の感触。
遠い日本の少女の声。
『自分を捨てないでください』
ブチャラティは眉をひそめた。
なぜ今、それを思い出す?
任務中に余計なことを考えるべきではない。
だが、一度浮かんだ声は消えなかった。
『ブチャラティさんって、優しいです。
でも、危なっかしいです。
人のためなら、自分のこと後回しにしそうです』
階段を上る。
トリッシュの足音が後ろに続く。
ブチャラティは、違和感の正体を探った。
これは罠か? 人の気配はない。
だが、人の気配がないこと自体がおかしい。
ボスがいるはずなのに、気配がない。
あまりにも完全に消えている。
それは、隠れているというより、世界そのものから切り離されているような不気味さだった。
「ブチャラティ?」
トリッシュが不安げに言った。
「どうしたの?」
「……いや」
ブチャラティは足を止めなかった。
だが、心の中で判断を切り替えた。
これは単なる引き渡しではない。
もしボスがトリッシュを守るために呼んだのなら、この孤立は過剰だ。
もしボスがトリッシュを愛しているなら、ここまで恐怖を与える必要はない。
では、なぜ?
その答えに辿り着いた瞬間、ブチャラティの背筋に冷たいものが走った。
ボスは、トリッシュを迎えるつもりではない。
消すつもりだ。
自分の過去につながる存在を。
自分の正体につながる血を!
「トリッシュ」
「なに?」
「俺から離れるな」
「え?」
「何があっても、俺の手を離すな」
トリッシュの顔が強張る。
ブチャラティは階段を上りきった。
鐘楼。
そこには、誰もいなかった。
いや。
誰もいないように見えた。
次の瞬間。
空間が歪んだ。
何かが飛んだ。
時間の感覚が途切れた。
ブチャラティの目の前で、トリッシュが消える。
「──ッ!」
本来なら、その時点で遅かった。
ブチャラティは異変に気づき、ボスの本性を知り、トリッシュを奪い返そうとして、ディアボロの攻撃を受ける。
その一撃は致命的なはずだった。
胸を貫かれ、命を落とすはずだった。
だが。
この世界のブチャラティには、ひとつだけ違うものがあった。
青いリボン。
そして、少女の言葉。
『生きてください。
助けるために死ぬんじゃなくて、生きて助けてください』
時間が消し飛ぶ寸前。
ブチャラティは、いつもの自分なら選ばない選択をした。
前へ突っ込まなかった。
自分の身体を盾にして、ただ真正面から奪い返す道を選ばなかった。
彼は床に手を叩きつけた。
「スティッキィ・フィンガーズ!!」
ジッパーが床を走る。
鐘楼の石床が裂ける。
同時に、ブチャラティは自分の上半身にもジッパーを走らせた。
身体を裂く。
位置をずらす。
致命点を外す。
それは常識外れの動きだった。
敵の攻撃を読むというより、死の未来から自分の心臓だけを逃がすような行為。
ディアボロの腕が、ブチャラティの胸を貫いた。
だが、ほんの数センチずれていた。
本来なら心臓を砕くはずの一撃は、肺を裂き、肋骨を砕き、肉を抉った。
血が噴き出す。
激痛が全身を焼く。
「ぐ……ッ!」
それでも、死んでいない。
ブチャラティは倒れながら、裂いた床のジッパーを掴んだ。
その先に、トリッシュの気配。
いや、気配ではない。
腕。
ボスに掴まれ、連れ去られかけたトリッシュの腕。
「トリッシュ!!」
ブチャラティは叫んだ。
血が喉に絡む。
だが、手は離さない。
ジッパーが空間を噛む。
スティッキィ・フィンガーズが、トリッシュの衣服にジッパーを刻む。
「なに……?」
低い声がした。
初めて聞く声。
その声には、怒りよりも先に困惑が混じっていた。
――ボスだ。
姿は見えない。
だが確かに、そこにいる。
「この状況で……まだ動くのか……!」
ブチャラティは答えなかった。
答える余裕などない。
代わりに、リボンが熱を持つ。
胸元の内ポケット。
血で濡れた布が、微かに光る。
魔法の力としては、ごく小さい。
けれど、さやかの願いは単純だった。
死ぬな。
それだけだった。
その単純さが、ブチャラティの意識を繋ぎ止めた。
「俺は……」
ブチャラティは歯を食いしばった。
「おまえを……引き渡すために来たんじゃあない……!」
トリッシュの悲鳴が響く。
「ブチャラティ!」
「おまえを……連れて帰るために来たッ!」
スティッキィ・フィンガーズが唸る。
床。
壁。
柱。
ブチャラティは鐘楼そのものをジッパーで裂いた。
空間が折り畳まれる。
トリッシュの身体が、強引にこちら側へ引き戻される。
ディアボロの手が離れる。
いや、離さざるを得なかった。
今ここで深追いすれば、自分の正体に繋がる何かを残す可能性がある。
さらに、ブチャラティは死んでいない。
それはディアボロにとって、想定外だった。
「……ブローノ・ブチャラティ」
姿なき声が、冷たく響いた。
「おまえは今、この瞬間に組織を裏切った」
ブチャラティは血を吐いた。
「違うな」
「何?」
「裏切ったのは……おまえだ」
ブチャラティはトリッシュを抱え、裂いた床の中へ転がり込んだ。
「俺たちの信頼を……トリッシュの命を……最初から裏切っていたのは、おまえの方だッ!」
返事はなかった。
次の瞬間、また時間が飛ぶような感覚。
だが、ブチャラティはもう正面にはいない。
ジッパーで開いた石壁の内側へ、トリッシュを抱えて滑り込む。
敵の攻撃が、外側の石を砕いた。
破片が降り注ぐ。
トリッシュが震えている。
「ブチャラティ……血が……!」
「黙っていろ。舌を噛むぞ」
「でも!」
「生きて戻る」
その言葉を口にした瞬間、ブチャラティ自身が驚いた。
生きて戻る
今、自分はそう言った。
守って死ぬ、ではない。
使命を果たして倒れる、でもない。
生きて戻る。
さやかの声が、胸の奥で笑った気がした。
そこは即答してくださいよ。
ブチャラティは、血まみれの顔でわずかに笑った。
「……ああ。即答するべきだったな」
「え?」
「いや、こっちの話だ」
彼はジッパーを開き、鐘楼の外壁から身を投げるように脱出した。
下は海。
落下の途中で壁にジッパーを走らせ、身体を滑らせる。
衝撃を殺し、トリッシュを庇う。
それでも傷口が開き、視界が白くなる。
死が近づいてくるのを感じる。
だが、まだ遠い。
遠ざけられる。
自分はまだ死んでいない。
「ブチャラティ!」
船の方から声がした。
ミスタだ。
ナランチャもいる。
フーゴも、アバッキオも、ジョルノも。
仲間たちが気づいた。
ブチャラティはトリッシュを抱えたまま、最後の力でジッパーを開く。
岸壁が裂け、船の近くへ道がつながる。
「受け取れ!」
ミスタが叫ぶ。
「な、何が起きてんだよォ──ーッ!」
ナランチャの声が裏返る。
ジョルノが真っ先に動いた。
「ブチャラティ!」
ブチャラティは船に転がり込むように倒れた。
トリッシュも一緒に甲板に投げ出される。
彼女は泣いていた。
恐怖だけではない。
裏切られた衝撃。
父親に殺されかけた痛み。
そして、目の前で自分を救った男が血まみれになっていることへの混乱。
「ジョルノ……」
ブチャラティがかすれた声で言う。
「傷を……」
「わかっています!」
ジョルノはすぐにゴールド・エクスペリエンスを出し、傷口に触れる。
砕けた肉を補い、裂けた肺を埋める。
完全な治癒とは違う。
だが、命を繋ぐ。
ブチャラティの顔色は死人のように白い。
それでも、脈はある。
呼吸もある。
ジョルノの目が見開かれた。
「生きている……」
アバッキオが息を呑む。
「どういう意味だ、ジョルノ」
「致命傷のはずです。
でも、心臓が外れている。
肺もひどい損傷ですが、まだ……間に合う」
ミスタが叫ぶ。
「おいおいおい、じゃあ治せるんだな!? 治せるって言えよ、ジョルノ!」
「黙ってください。集中しています」
ナランチャはトリッシュの肩を支えながら、何が起きたのか理解できずにいた。
「ボスが……やったのか?」
トリッシュは震えながら頷いた。
「父さんが……私を……殺そうとした……」
船の上に、重い沈黙が落ちた。
フーゴが顔を歪める。
「そんな……あり得ない。ボスが? 自分の娘を?」
アバッキオが低く言う。
「あり得ない話じゃあない。
むしろ、あの姿を誰にも見せない男なら、過去に繋がるものを消したがるのは筋が通るぜ」
「筋が通るって……!」
ナランチャが叫ぶ。
「そんなの、人間のやることじゃねえだろ!」
「だからボスなんだろうな」
アバッキオの声には怒りがあった。
ブチャラティは、ジョルノの治療を受けながら、ゆっくり目を開けた。
「全員……聞け……」
「ブチャラティ、喋らないでください」
「必要なことだ」
ジョルノは唇を噛んだ。
ブチャラティは呼吸を整えようとした。
血の味がする。
胸が焼ける。
だが、声は出る。
生きている声だ。
「ボスは……トリッシュを殺すつもりだった」
誰も反論しなかった。
「俺は……トリッシュを守る」
ブチャラティは仲間たちを見た。
「だが、これは俺個人の決断だ。
おまえたちに強制はしない。
ボスを敵に回せば、組織全体が敵になる。
逃げ場はない。
命の保証もない」
ミスタは黙って聞いていた。
ナランチャは拳を握りしめている。
フーゴは青ざめている。
アバッキオは目を伏せている。
ジョルノは、治療の手を止めない。
「降りるなら、今だ」
ブチャラティは言った。
「ここで去る者を、俺は責めない」
波の音だけが聞こえる。
最初に口を開いたのは、ミスタだった。
「ブチャラティよォ」
「ああ」
「今さら何言ってんだ。
あんた、血ィ流しながらトリッシュ連れて戻ってきたんだぜ?」
ミスタは笑った。
「そんなもん見せられて、はいそうですかって帰れるかよ。
それに勝算があんだろ? ブチャラティ」
ナランチャも叫んだ。
「……俺も行く! トリッシュを見捨てたボスを許せねえ!」
アバッキオは舌打ちした。
「チッ……まさか組織を裏切ることになるなんてな」
「アバッキオ」
「だが、俺が従うのはブチャラティ。
あんただけだ」
ジョルノが静かに言った。
「僕は最初から、ギャング・スターになるためにここにいます。
恐怖で支配し、娘すら消そうとする男がボスだというのなら、やはり頂点を変えるべきです」
フーゴだけが黙っていた。
彼の顔は苦痛に歪んでいる。
頭がよすぎるからこそ、わかっている。
この選択がどれほど無謀か。
ボスを敵に回すということが、どれほど現実離れした自殺行為か。
「フーゴ」
ブチャラティは言った。
「おまえは賢い。だからこそ、無理をするな」
フーゴは震えていた。
「……僕は」
誰も急かさない。
ブチャラティも責めない。
やがてフーゴは、絞り出すように言った。
「僕は……行けない」
ナランチャが目を見開く。
「フーゴ!」
「わかってる! わかってるんだ、でも……!」
フーゴは拳を握りしめた。
「勝てるはずがない。ボスの能力もわからない。組織全体が敵になる。これは勇気じゃない、無謀だ」
ブチャラティは静かに頷いた。
「そうだな」
「……責めないんですか」
「責めないと言った」
フーゴは苦しそうに顔を歪めた。
ブチャラティは続ける。
「生きる選択もまた、覚悟だ」
その言葉に、フーゴは一瞬だけ顔を上げた。
ブチャラティ自身も、その言葉を噛みしめていた。
以前の自分なら、そうは言えなかったかもしれない。
死地へ向かう者だけを、覚悟ある者として見ていたかもしれない。
だが今は違う。
生きることを選ぶ者にも、別の痛みがある。
さやかがそうだった。
泣きながら、それでも明日を選んだ。
その強さを、ブチャラティは知っている。
「フーゴ。おまえはここで降りろ」
「……ブチャラティ」
「だが、生きろ。そして自分の選択から目を逸らすな」
フーゴは何も言えなかった。
ブチャラティ達が乗るボートを、ただ見送った。
ブチャラティは振り返らなかった。
ナランチャは泣きそうな顔をしていたが、何も言わなかった。
ブチャラティは、ジョルノの肩を借りて身体を起こした。
傷は塞がっている。
だが、まだ無理はできない。
それでも彼は立っていた。
死体ではない。
魂だけで動く者でもない。
傷つき、痛み、血を流し、それでも生きている男として。
トリッシュが彼の前に立った。
「ブチャラティ」
「ああ」
「私……父親に殺されかけたのよね」
「そうだ」
「私が、何か悪いことをしたから?」
「違う」
ブチャラティは即答した。
「おまえは何も悪くない」
トリッシュは唇を震わせた。
「じゃあ、どうして」
「奴がおまえという存在を恐れたからだ。
過去と繋がる血を。
自分の正体が暴かれる可能性を」
「そんな理由で……?」
「そんな理由で人を殺す男だということだ」
トリッシュは涙をこぼした。
悔しさと恐怖と怒りが混じった涙だった。
ブチャラティは言った。
「トリッシュ。おまえはもう、引き渡される荷物じゃない」
トリッシュが顔を上げる。
「自分で選べ。
逃げるのか、立ち向かうのか。
どちらでもいい。
俺たちは、おまえの選択を守る」
トリッシュは長く黙っていた。
そして、震える声で言った。
「私は……知りたい。
私を殺そうとした男が何者なのか。
どうしてそこまでして自分を隠すのか知りたい」
その目に、初めて強い光が宿った。
「そして、もう逃げたくない」
ブチャラティは頷いた。
「なら、行こう」
彼は胸元に手をやった。
青いリボンは血で濡れていた。
だが、まだそこにあった。
さやかの魔力は、もうほとんど残っていない。
あの一瞬で使い切ったのだろう。
けれど、それで十分だった。
一瞬。
ほんの一瞬、死に向かう足を止めただけ。
それだけで、運命は変わった。