数日後。
イタリアでは、すべてが変わり始めていた。
ブチャラティが生きている。
それだけで、『運命』は本来あるべき流れとは違うものになっていた。
彼は以前よりも無茶をしなくなった。
もちろん、危険な場面では先頭に立つ。
敵の攻撃から仲間を庇う。
判断も速い。
だが、明らかに変わったことがあった。
それは、自分が死んでいるという前提で行動をしなくなったこと。
自分を駒として捨てないということ。
「ジョルノ、治療は必要ない。
俺はまだ動ける」
「その『まだ』が危険なんです」
ジョルノの言葉を受けて、ブチャラティは苦笑する。
「……そうだな。訂正する。無理はしない」
ミスタが横から茶化す。
「おいおい、ブチャラティが自分から無理しないって言ったぜ。明日は雨か?」
「黙れ、ミスタ」
「いやでもよォ、いいことじゃねえか。
前のあんたなら、血ィ流しながら普通に『問題ない』って言ってたぜ」
「今も必要がなければ言う」
「そこは変わんねえのかよ!」
それは小さな変化だった。
だが、大きな変化だった。
リーダーが生きている。
声を出し、指示を出し、叱り、時には冗談を受け止める。
その事実が、仲間たちの心を支えていた。
ブチャラティ自身も、その重みを感じていた。
死んで導くのではない。
生きて背負う。
それは、死ぬ『覚悟』よりもずっと難しい時があった。
痛みもある。
恐怖もある。
失敗すれば仲間を失うかもしれない。
それでも生きて選び続ける。
そのたびに、胸元の青いリボンを思い出す。
もう魔力は残っていない。
ただの布だ。
だが、約束は残っている。
遠く離れた日本、見滝原。
美樹さやかは、ある夜ふと立ち止まった。
胸の奥が、急に熱くなった気がした。
「……なに、今の」
ソウルジェムを見る。
濁りは少しあるが、異常はない。
敵の気配もない。
けれど、なぜか涙が出そうになった。
悲しいわけではない。
むしろ逆だった。
どこか遠くで、誰かがぎりぎり踏みとどまったような、そんな感覚。
「ブチャラティさん……?」
名前を呟いてから、さやかは苦笑した。
何を言っているのだろう。
イタリアにいるはずの人のことなんて、わかるはずがない。
自分のお守りだって気休めみたいなものだ。
本当に効いたかどうかなんて、知りようがない。
──それでも。
さやかは夜空を見上げた。
「……生きてよ」
小さく言う。
「約束したんだから」
その時、携帯が震えた。
まどかからのメッセージだった。
『さやかちゃん、明日一緒にお昼食べられる?』
さやかはしばらく画面を見つめた。
以前なら、適当にごまかしていたかもしれない。
まだ笑う自信がないから。
まだ恭介や仁美の話題が出たら苦しいから。
でも、今は少しだけ違った。
さやかは返信を打つ。
『うん、食べる。
購買の肉まん買ってくる』
送信。
それだけで、少し息がしやすくなった。
「……あたしも生きるか」
ぽつりと言って、さやかは歩き出した。
さらに後日。
すべての戦いが終わった後。
ディアボロの支配は崩れた。
──そしてブチャラティは、生きていた。
だが、傷は残った。
サン・ジョルジョ・マジョーレ島で受けた傷はあまりにも深く、ジョルノの能力でも完全には消えなかった。
深く息を吸うと、胸が痛む時がある。
雨の日には古傷が疼く。
だが、それは生きている証だった。
ある日の午後。
ブチャラティはネアポリスの小さな店で、封筒を前に座っていた。
中には航空券が一枚。
日本からイタリアへ来るためのもの。
それをミスタが横から覗き込む。
「なんだよ、それ」
「約束を果たす」
「誰と?」
「日本の友人だ」
「友人? あんた日本に友人なんかいたのか?」
「いる」
ミスタは少しだけ意外そうに目を丸くした。
「へえ。どんなやつだよ」
「命の恩人だ」
ミスタの表情が変わる。
「……マジか」
「ああ」
ブチャラティは封筒に手紙を入れた。
丁寧な日本語で書かれた短い手紙。
『さやかへ。
約束通り、生きている。
君のお守りに助けられた。
今度は俺が約束を果たす番だ。
本場のパスタを食べに来るといい。
旅費はこちらで持つ。
もちろん、無理にとは言わない。
だが、君がいつか自分の足で遠くへ行きたいと思った時、その理由のひとつになればいい。
ブローノ・ブチャラティ』
手紙を書き終えると、彼は青いリボンを取り出した。
血の染みは、完全には落ちなかった。
端も少し破れている。
だが、捨てる気にはならなかった。
「それが例の?」
ミスタが聞く。
「ああ」
「ただのリボンに見えるけどな」
「ただのリボンだ」
ブチャラティは静かに言った。
「だが、人を生かすにはただのリボンで十分な時がある」
ミスタは首を傾げた。
「わかるような、わかんねえような」
「いつか分かる」
「年寄りみてえなこと言うなよ」
ブチャラティは小さく笑った。
そして封筒を閉じた。
数週間後。
美樹さやかは、郵便受けの中から国際郵便を見つけて固まった。
「……え?」
差出人の名前を見て、さらに固まる。
ブローノ・ブチャラティ。
「ええええええええ!?」
部屋に駆け込み、封筒を開ける。
中には手紙と航空券。
さやかは、しばらく言葉を失った。
「本当に……生きてた」
手紙を読む。
読み終えるころには、目が潤んでいた。
ブチャラティは詳しいことを書いていない。
危険な仕事だったこと。
お守りに助けられたこと。
約束を果たしたいこと。
それだけ。
でも、さやかには十分だった。
あのリボンは届いた。
あの言葉は、届いた。
自分が泣きながらも差し出した小さな恩返しは、確かに誰かの命をつないだ。
「……なんだよ」
さやかは笑いながら泣いた。
「かっこよすぎでしょ、あの人」
机の上に手紙を置く。
窓の外を見る。
見滝原の空は、今日も青い。
でも、あの夜のような水底の青ではない。
もっと高くて、遠くへ続いている青だった。
さやかは携帯を取り出し、まどかにメッセージを打った。
『まどか、あたしイタリア行くかもしれない』
すぐに返信が来た。
『えっ!?』
さやかは笑った。
当然の反応だ。
自分でもそう思う。
でも、悪くない。
失恋して、泣いて、正義の味方になれないと思っていた自分が、誰かを少しだけ助けた。
その誰かが、遠い国から手紙をくれた。
次に進む理由なんて、それくらいでいいのかもしれない。
さやかは、ブチャラティからの手紙をもう一度読んだ。
約束通り、生きている。
その一文を指でなぞる。
「……うん」
さやかは小さく頷いた。
「じゃあ、あたしも約束守らなきゃ」
生きること。
食べること。
顔を洗うこと。
傷ついても、自分を捨てないこと。
そしていつか、本場のパスタを食べに行くこと。
それは、世界を救うような大事件ではない。
誰も知らない、小さな恩返しだった。
けれどその小さな出来事が、サン・ジョルジョ・マジョーレ島でひとりの男の死を遠ざけた。
死ぬはずだった男が生きて戻り、守られるだけだった少女が自分の意思で立ち、仲間たちは生きたリーダーの声を聞きながら進んだ。
運命は、巨大な力でしか変えられないわけではない。
泣いている誰かの隣に座ること。
温かいものを差し出すこと。
借りたハンカチを返すこと。
青いリボンを渡すこと。
たったそれだけで、世界は拓く。
まるでスティッキィ・フィンガーズが石の床にジッパーを刻むように。
閉ざされたはずの未来に、ほんの小さな出口が開く。
そしてその出口の向こうで、ブローノ・ブチャラティは生きていた。
美樹さやかもまた、生きていた。
二人は遠く離れていたが、同じ約束で繋がっていた。
自分を捨てない。
誰かを助けるために、生きる。
その約束は、青いリボンのように細く。
けれど、決して切れなかった。