四國志   作:丸亀導師

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日本 終

 

西暦一八六年。

 

黄巾の乱という未曾有の嵐が過ぎ去った後も、大漢帝国の帝都・洛陽は、快方へ向かうどころか致命的な死の病を深く進行させていた。

霊帝(れいてい)は政務を完全に投げ出し、己の享楽と売官(官位を金で売ること)にのみ熱中している。

朝廷の実権は十常侍(じゅうじょうじ)と呼ばれる宦官たちが完全に握り、賄賂を贈らぬ忠臣たちは次々と処刑され、あるいは都を追われていた。

 

街には黄巾の残党や流民が溢れ、西方の涼州(りょうしゅう)では大規模な反乱が泥沼化している。帝国の血管は至る所で破れ、腐臭が漂っていた。

 

そんな絶望的な洛陽の城門を、数台の馬車が静かにくぐり抜けた。

 

東の海へ遣わされていた使節団の帰還である。

 

馬車から降り立った正使・班稀(はんき)の姿は、洛陽を出立した一年ほど前の「傲慢で野心に満ちた官僚」のそれとは完全に別人であった。

 

頬は痩せこけ、身なりも薄汚れている。しかし、その双眸だけは、暗闇で獲物を狙う獣のように、あるいは全てを悟った狂人のように、異様なほど澄み切った光を放っていた。

 

彼の手には、大和国——いや、『日本』の恐るべき全貌を詳細に書き記した、膨大な数の竹簡が握りしめられている。

 

共に帰還した使節団の下働きの中には、いつの間にか姿を消した者たちが数名いた。曹操の放った間者たちである。彼らは洛陽に入るや否や、班稀と同じ情報を抱えて、密かに彼らの主君の元へと散っていったのだ。

班稀はそれに気づいていたが、止めるつもりは毛頭なかった。一人でも多くの、しかも「力のある者」にこの絶望的な真実が伝わることこそが、彼の望みであったからだ。

 

翌日、班稀は宮中の朝議の場に引き出された。

玉座には霊帝が退屈そうに身を横たえ、その周囲を張譲(ちょうじょう)をはじめとする豪奢な絹を纏った宦官たちが取り囲んでいる。

 

「東夷の島国への使い、大儀であった。して、蛮族どもは皇帝陛下の威光に平伏し、いかほどの貢ぎ物を差し出したか?」

 

張譲が、甲高い声で下問した。

班稀は、大理石の床に膝をつき、両手で自らが命を削って書き上げた竹簡を高く掲げた。 

 

「申し上げます。……東の海にあるは、蛮族の国などではありませぬ。かの国は『日本(にほん)』と名乗り、大漢帝国の臣従を明確に拒絶いたしました」

 

その一言で、朝議の場が水を打ったように静まり返った。

 

「彼らは巨大な安宅船で海流を支配し、沿岸は鉄壁の石垣と青銅石弓の要塞で固められております。国内には数百万の民がおり、一切の餓死者を出さぬ完璧な法と兵站の法が存在します。

その強大さは、今の中原の力をもってしても、決して攻め落とせるものではありませぬ!

陛下、十常侍の皆様方。直ちに国内の乱れを収め、東方の沿岸防衛を固めねば、遠からず大漢帝国は海から来る化け物に呑み込まれますぞ!」

 

班稀の血を吐くような絶叫が、宮殿に響き渡った。

沈黙。

そして、次の瞬間——宮殿は、嘲笑と怒号の渦に包まれた。

 

「頭がおかしくなったか、班稀!」

 

「東夷の小島に数百万の民だと? 石の要塞だと? 荒波に揉まれて恐怖のあまり狂ったか!」

 

「さては東夷の者どもから賄賂を受け取り、我が大漢の威信を傷つけるために斯様な妄言を吐いておるのだな!」

 

宦官たちは顔を真っ赤にして班稀を罵倒した。

彼らにとって、中華が世界の頂点でないという報告など、決して認めるわけにはいかない「不快なノイズ」でしかない。

権力を貪る彼らの脳には、海の向こうの脅威など、自分たちの派閥争いに比べれば塵芥(ちりあくた)ほどの価値もなかったのだ。

班稀は、己に浴びせられる罵声を、ただ冷たい目で見つめ返していた。

 

(……やはり、この国はもう死んでいる。だが、私の役割は終わった。真実は、曹孟徳へと渡ったのだから)

 

「不敬にして欺瞞の大罪! 直ちにその狂人を捕らえよ! 官位を剥奪し、地下牢へ繋げ!」

 

近衛兵たちが雪崩れ込み、班稀の腕を乱暴に拘束した。

彼が掲げていた竹簡は床に叩き落とされ、張譲の足によって無惨に踏みにじられた。

 

班稀は一言も命乞いをすることなく、狂人のように静かな笑みを浮かべながら、暗い地下牢へと引き立てられていった。正史に名なき官僚が、大漢帝国を救うために打った最後の大芝居は、こうして洛陽の闇の中へと葬り去られたのである。

 

 

班稀が投獄されてから数日後。

洛陽の城下にある酒家に、一人の筋骨隆々とした武将が、配下の者たちを連れて酒を呷(あお)っていた。

彼の名は、孫堅(そんけん)(あざな)文台(ぶんだい)

のちに「江東の虎」と恐れられ、三国の一角たる孫呉の礎を築くこととなる猛将である

西暦一八六年、この時期の孫堅は、涼州の反乱軍討伐に従軍し、車騎将軍・張温(ちょうおん)の配下として戦っていた。しかし、戦線において董卓(とうたく)が軍令に背く専横を働いた際、孫堅は「軍紀を乱す董卓を直ちに斬るべし」と進言したものの、張温は董卓の力を恐れてこれを却下。

 

己の正論が通らず、腐敗した軍の現実に激しい鬱屈を抱えた孫堅は、軍務の報告のために一時的に洛陽へと帰還していたのである。

 

「ええい、飲め! 洛陽の酒は高いばかりで、血が(たぎ)るような味がせぬわ!」

 

孫堅が苛立たしげに杯を叩きつけた時、隣の席で酒を飲んでいた下級役人たちの会話が耳に入ってきた。

 

「聞いたか? 例の東夷の使いに行った班稀の末路を」

 

「ああ、狂人め。海の波に怯えて頭のネジが吹き飛んだのだろう。『東の海には、漢軍よりも規格の揃った鉄の槍を持つ数百万の兵がいる』などと寝言をほざいたらしいぞ」

 

「挙句の果てには、『我が国が束になっても勝てない兵站の理がある』だと。笑わせる。班家の血筋も地に堕ちたものよな」

 

役人たちは下品に笑い合いながら、酒を煽った。

 

その会話を聞いた孫堅の配下である程普(ていふ)が、呆れたように鼻を鳴らした。

 

「……情けない話ですな、殿。文官という生き物は、海を見たことがないからといって、少し船が揺れただけで己の無能を隠すために荒唐無稽な大ウソを吐く」

 

しかし、孫堅は酒を注ぐ手を止め、じっと考え込んでいた。

彼の鋭い双眸には、いつもの荒々しい光とは違う、極めて実戦的で冷静な思案の色が浮かんでいた。

 

「……妄言、か」

 

孫堅は低い声で呟いた。

孫堅は、中原の土にまみれた洛陽の役人たちとは違う。彼は江東(長江の下流域)の出身であり、若い頃は水賊の討伐で名を挙げた「水軍と船の戦い」の専門家である。

海や大河が持つ恐ろしさも、水路を用いた兵站の重要性も、彼は骨の髄まで理解していた。

 

程普(ていふ)よ。お前は、出世欲に塗れた洛陽の文官が、己の首が飛ぶと分かっているのに、わざわざ皇帝を激怒させるような『無意味な嘘』を吐くと思うか?」

 

「え……? いや、それは……」

 

「班稀とやらが語ったという『規格化された鉄の槍』『巨大な安宅船』『兵站の理』……。狂人の妄言にしては、あまりにも具体的で、戦の本質を突きすぎている」

 

孫堅は杯を置き、洛陽の東——はるか彼方の海へと続く空を睨みつけた。

 

「我ら江東の民は、古くから水に親しんできた。だが、その海のさらに奥深くに、我々の常識が及ばぬ『何か』が育っているとしたらどうだ」

 

もしそれが事実ならば、涼州の反乱や、董卓の専横など、いずれ来る本当の脅威に比べれば児戯に等しい。

そして、もし東の海からその「化け物」が押し寄せてきた場合、真っ先に矢面に立たされるのは、海に面した己の故郷——江東の地である。

 

「……長江の守りだけでは、足りぬかもしれんな」

 

虎の直感が、見えざる脅威の気配を正確に嗅ぎ取っていた。

洛陽の朝廷が東の国を嘲笑し、中原の群雄たちが目の前の領土と権力に目を奪われている中で、孫堅文台ただ一人が、班稀の遺した狂気の報告の裏に潜む「圧倒的な海神の威圧」を、肌で感じ取っていたのである。

 

洛陽の朝廷で班稀(はんき)が狂人として地下牢に繋がれ、孫堅(そんけん)が洛陽の酒場で鬱屈を噛み締めていたのと同じ西暦一八六年。

中原の北の果て、幽州(ゆうしゅう))にも近い中山国・安喜県(あんきけん)において、一人の男が血まみれの鞭を握りしめ、荒い息を吐いていた。

 

彼の名は劉備(りゅうび)(あざな)玄徳(げんとく)

中山靖王(ちゅうざんせいおう)の末裔を名乗るも、むしろを織って生計を立てていた貧窮の身から、黄巾の乱での軍功によって、ようやくこの安喜県の「県尉(けんい)(警察署長のような小役人)」の座を得たばかりの男である。

 

劉備の足元には、豪華な絹の衣を血と泥で汚し、豚のように泣き叫ぶ肥満体の男が縛り上げられていた。

洛陽の朝廷から派遣されてきた「督郵(とくゆう)(監察官)」である。

 

「お、おのれ劉備! 朝廷の使いである私を縛り上げ、鞭打つとは! 貴様、謀反人として一族郎党ことごとく……!」

 

「黙れ!!」

 

劉備が再び鞭を振り下ろすと、督郵の悲鳴が県尉の粗末な館に響き渡った。

史書の『三国志演義』においては、豪傑・張飛(ちょうひ)が怒りに任せて督郵を打ち据えたことになっているが、正史において激怒し、自らの手でこの腐れ役人を縛り上げて滅多打ちにしたのは、他ならぬ劉備自身であった。

 

温厚で情に厚いとされる劉備が、なぜここまで激怒したのか。

それは、督郵が「賄賂」を要求してきたからだ。黄巾賊と血みどろになって戦い、部下たちを大勢死なせてようやく得た小さな役職。それを、洛陽の温かい部屋からやってきただけの小役人が「軍功のみで役人になった者はクビにするという詔(みことのり)が出た。だが、金を積めば見逃してやる」と嘲笑ったのである。

 

劉備の背後には、彼の義兄弟である関羽(かんう)と張飛が、怒りで全身を震わせながら控えていた。

 

「……兄者。もうよい。その豚を打ち殺したところで、死んだ兵たちは帰ってこねえし、この飢えた(まち)の民の腹が膨れるわけでもねえ」

 

張飛が、吐き捨てるように言った。

劉備は鞭を投げ捨て、血の滲む手で顔を覆った。

 

「なぜだ……。我らは漢室を復興し、民を救うために立ち上がったはずだ。黄巾の賊を討てば、世は平らかになると信じていた。だというのに、賊を倒した後にやってきた朝廷の役人が、賊よりも無慈悲に民と我らから搾り取ろうとする!」

 

関羽が静かに進み出て、劉備の肩を抱いた。

 

「兄者。この漢という大樹は、すでに根の先まで腐り果てております。もはや、我々のような名もなき枝葉がどれほど血を流そうとも、花が咲くことはありませぬ」

 

「ならば……我らはどうすればよいのだ、雲長(うんちょう)。私の剣は賊を斬ることはできても、この腐りきった『仕組み』を斬ることはできぬ……!」

 

劉備は、自らの無力さに慟哭した。

彼の最大の武器は、民を憂う強烈な「仁(じん)」と、人を惹きつける「魅力」である。しかし、それだけでは飯は食えない。システム(国家機構)が完全に狂っている中原において、劉備の持つ人間味や優しさは、ただ泥にまみれてすり減っていくしかなかったのだ。

 

「行くぞ。県尉の印綬など、この豚の首にでも括り付けておけ」

 

劉備は督郵をその場に捨て置き、関羽、張飛とともに、再びあてのない放浪の旅へと歩み出した。

これが、西暦一八六年における、劉備玄徳の最底辺の現実であった。

 

役職を捨て、お尋ね者となった劉備一行は、洛陽や中央の目から逃れるように、幽州から渤海(ぼっかい)沿岸の荒野へと足を向けていた。

 

彼らの行く手には、黄巾の乱の爪痕と、打ち続く飢饉によって荒れ果てた農地が延々と広がっている。道端には草の根をかじる流民や、すでに息絶えた(むくろ)が転がっていた。

 

劉備は自分のわずかな握り飯を、道端の飢えた子供に分け与えながら歩いていたが、それもすぐに底を突いた。

ある日、海に近い街道の分かれ道で、彼らは奇妙な一団とすれ違った。  

 

それは、東の海——遼東(りょうとう)や楽浪郡《らくろうぐん》の方角から歩いてきたと思われる、商人や流民の入り混じった集団であった。

 

「……おい、見たか兄者」

 

張飛が目を丸くして囁いた。

 

「あいつら、流民のくせに、誰も飢えた顔をしてやがらねえ。それに、背負っているあの荷車……車輪の軸に『鉄』が使われてやがるぞ」 

 

関羽も鋭い目でその一団を観察していた。

中原では、鉄は極めて貴重な戦略物資であり、軍隊の武器以外に使われることは稀である。それが、ただの商人の荷車の補強に使われているのだ。

劉備はたまらず、その一団の長らしき商人に声をかけた。

 

「もし。あなた方は、東の果てから来られたと見受けられる。いったい、海の向こうで何が起きているのですか?」

 

商人は、見すぼらしいがどこか高貴な気品を漂わせる劉備の顔をまじまじと見つめ、周囲を警戒しながら声を潜めた。

 

「……お客人。あんたも飢えから逃れたいのなら、中原の都なんぞ目指さず、東の海(半島)へ向かいなせえ。あそこには今、とんでもない富が流れ込んできてるんだ」

 

「富、だと?」

 

「ああ。海のさらに向こうからやってくる『黒い船』だよ。城のようにでかい船団が、定期的に半島へやってきて、大量の鉄と米をバラ撒いていく。代わりに彼らが求めていくのは、文字が読める役人や、腕のいい職人、そして若い男女の『人』だ」

 

商人の言葉に、劉備たち三人は息を呑んだ。

米と鉄が余っている国だと? この地獄のような中原の隣に、そんな夢のような場所があるというのか。

 

「その国は、漢の天子様よりも豊かなのか?」

 

張飛が身を乗り出して聞くと、商人は自嘲するように笑った。

 

「天子様? 洛陽の天子様は、俺たちに泥水をすすらせるだけじゃねえか。……だがな、東の国は違う。向こうへ渡った俺の親戚からの(ふみ)によれば、かの国には『餓死』という言葉が存在しねえそうだ」

 

「餓死が、存在しない……!?」

 

劉備は、雷に打たれたように立ち尽くした。

 

「ああ。国中が水路と道で繋がれ、働けば必ず飯が食えるらしい。誰も飢えず、誰も路頭に迷わねえ。……まさに、天の国だ。だけどよ」

 

商人はそこで言葉を切り、ブルッと身震いをした。

 

「親戚の文には、こうも書かれていた。『ここは飯が食える。だが、誰もが決められた(とき)に起き、決められた仕事をこなし、決められた道を歩く。まるで、見えない巨大な手によって動かされる【絡繰(からくり)人形】になったようだ』……とな」

 

商人は足早に去っていった。

残された劉備は、泥だらけの街道に立ち尽くし、東の空をじっと見つめていた。

 

 

餓死者が存在しない国。

それは、劉備玄徳が己の血を流してでも創り上げたかった、究極の理想郷そのものであった。

しかし、その理想郷を創り上げているのは、劉備が持つような「熱い情」や「仁義」ではない。感情を徹底的に排除し、人間をシステムを回すための「歯車」として管理する、極限の『算術と理』である。

 

「兄者……」

 

関羽が心配そうに声をかけた。

 

「……雲長、翼徳(よくとく)。私は恐ろしいのだ」

 

劉備は、自らの胸を強く握りしめながら呟いた。

 

「もし、その東の国が真実だとして……。この中原の飢えた民たちが、あの『黒い船』の噂を聞きつければ、誰も漢室など見向きもしなくなるだろう。皆が喜んで、飯を食うために自ら『絡繰人形』になりにいく」

 

劉備の直感は、曹操や孫堅が抱いた「軍事的な脅威」とは全く別の、もっと根源的な『人間の魂への脅威』を正確に感じ取っていた。 

 

曹操は「敵のシステムを我が国に組み込んで対抗しよう」とするだろう。

 

孫堅は「己の牙と爪(武力)で、海からの侵略を撃ち破ろう」とするだろう。

 

だが、劉備は違う。

 

劉備玄徳という男の本質は、泥臭いまでの『人間賛歌(情、涙、義理)』である。

彼がこれから戦わなければならないのは、洛陽の腐敗した宦官でも、各地の軍閥でもない。「飯を食わせる代わりに、人間から感情と自由を奪う、完璧な冷たいユートピア(日本)」という、究極のイデオロギーそのものとなる。

 

「行くぞ。今はただ、生き延びるのだ」

 

劉備は、泥だらけの草鞋(わらじ)を踏み出し、再び歩き始めた。

 

「いつか必ず、私がこの手で……血の通った、人間のための国を創る。絡繰ではない、民が笑って泣ける国を創って見せる……!」 

 

西暦一八六年、お尋ね者として荒野を彷徨う貧しき義龍は、見えざる東の怪物に対し、己の「仁」を懸けた果てしない戦いを、心の中で密かに誓っていた。

 

大漢帝国、洛陽。

 

光の届かぬ冷たい地下牢の中で、班稀(はんき)は手足に重い枷を嵌められ、藁の上に横たわっていた。

 

黄巾の残党や大罪人たちが繋がれるこの不衛生な牢獄は、腐臭と病の温床であり、まともな人間であれば数日で精神を病むか、死に至る地獄である。しかし、狂人としてここに落とされた班稀の瞳には、奇妙なまでの静けさと理知の光が宿り続けていた。

彼の精神は、この汚泥のような現実を完全に切り離し、海の向こうの——あの白と黒の幾何学で構成された長岡京の書庫の中を、果てしなく彷徨い続けていたのだ。

 

(かの国……日本の皇統。その成り立ちは、我ら中原の歴史とは全く異質な論理で編み上げられていた……)

 

班稀の脳裏に、大内裏の奥深くで読み解いた無数の木簡や竹簡の記憶が、鮮やかに蘇る。

 

(彼らの皇統は、紀元前五百年頃、中原で()が東海の覇を唱え、初めて使者を送った時には、すでに盤石の体制を築いていた。つまり、かの列島が政治的に『一つの力』として安定したのは、さらに百年余り遡る……紀元前六百六十年頃と推定される)

 

楚の動乱から逃れてきた者たち、あるいはそれ以前から列島に存在した強大な氏族たち。それらを一つのシステムとして纏め上げたのが、彼らが信仰する「神話」であった。

 

(日本の頂点たる天皇(すめらぎ)の血筋。それは『天照(アマテラス)』という女神を始祖と仰ぐ。そして、『素戔嗚(スサノオ)』と『月読(ツクヨミ)』という名の神を戴く別の強大な二つの一族と血の同盟を結ぶことで、列島の支配を確固たるものにしたのだ)

 

そして、班稀が最も戦慄したのが、その『皇位継承』における異常なまでの論理的帰結であった。

 

中華において、君主は絶対的に「男」である。女は(まつりごと)から遠ざけられ、子を産むための道具として扱われるのが儒教の理だ。

 

しかし日本は、始祖が「女神」であるがゆえに、男系(血の純血)を尊びながらも、同時に「長子」を皇と仰ぐ。

 

もし、その長子が『女』であった場合。

 

大内裏で聞いた和那比売(わなのひめ)の冷たく澄んだ声を思い出し、班稀は牢の暗闇の中で身震いした。

 

(女の長子が天皇となった場合、彼女は『現人神(あらひとがみ)』として一生子を成さず、ただ天と繋がり、民を纏めるための絶対的な象徴となる。そして次子、参子の男子たちが、次代の皇統を継ぐための男子を儲ける……それが彼らの『存在意義』として完全に規格化されているのだ)

 

男の大王がいないわけではない。統計的には半々であると記録にはあった。

 

だが、「(まつりごと・政治)祭事(まつりごと・神事)を完全に分離し、女が(象徴)を、男が(実務)を統べるべきである」という思想。この役割分担が機能している時、日本という国は最も恐ろしい統制力と冷徹な算術を機能させる。

まさに今、和那比売という女帝が天に座し、広庭皇子という右大臣が地を回しているこの時代こそが、日本の歴史上において最も研ぎ澄まされた「極限の刃」の状態なのだ。

 

(あのような完璧に役割分担されたシステム国家に、宦官に(おもね)るだけのこの漢王朝が、どうして勝てようか……)

 

班稀が絶望と感嘆の混じったため息を吐いた、その時だった。

カチャン……。

暗闇に包まれた地下牢の奥で、金属が擦れるような固い音が響いた。

 

看守の足音ではない。もっと低く、油断なく気配を殺した、武を修めた者の足取りである。

班稀がゆっくりと目を開けると、鉄格子の外に、黒い外套をすっぽりと被った男が立っていた。松明の微かな光に照らされたその男の顔には、中原の役人とは違う、戦場の血の匂いと、冷徹な間者の眼光があった。

 

「……正使殿」

 

外套の男は、低い声で囁いた。

 

「お迎えに上がりました。我が主君、曹孟徳(そうもうとく)が……あなたのその『東の理が詰まった頭脳』を、何よりも欲しておられます」

 

班稀の唇の端が、僅かに吊り上がった。

 

「……やはり、生きて私を出してくれる狂人がいたか」

 

西暦一八六年、洛陽の暗闇の中で。

 

大漢帝国から歴史ごと抹殺された「記録者」は、次代の覇者の腕の中へと静かに迎え入れられた。

 

班稀が洛陽の地下から姿を消した頃。

遠く海を隔てた大和国、長岡京の巨大な大内裏において。

日本の政治の実務を一身に担う右大臣・広庭皇子の館に、新たな風が吹き込んでいた。

彼の「側室」として、一人の女が輿入れしてきたのである。

 

彼女の名は、於呂(オロ)

かつて阿弖流為(あてるい)が降伏し、大和に帰順した東の果て——「蝦夷(えみし)」の族長の血を引く女であった。

 

「……これが、お前の言う『酒』か。甘ったるくて、獣の血の方がマシだぞ!」

 

館の庭先で、豪快に笑い声が響いた。

大和の宮廷における高貴な女といえば、十二単(じゅうにひとえ)に似た優美な装束を身に纏い、御簾の奥で和歌を詠むような「淑やかさ」が求められるのが常である。

 

しかし於呂は違った。彼女は動きやすい毛皮と麻の混じった装束を身につけ、その手には蝦夷特有の反りのある短刀が握られている。彼女は自ら馬を駆り、戦陣に立って弓を引くほどの、生粋の「男勝りの戦士」であった。

 

広庭皇子は、縁側に腰を下ろしたまま、彼女が杯の酒を一気に飲み干す姿を、氷のように冷たい、しかしどこか満足げな目で見つめていた。

 

大和の宮廷の役人たちの多くは、この粗野な蝦夷の女が右大臣の側室となることに眉をひそめるかと思われた。しかし、誰もそれを拒むことはなかった。

なぜなら、これこそが大和国の真骨頂である「和」の論理だからである。

 

(日本における女とは、基本的には『護られるべき尊き者』である)

 

これはかつて、徐福(じょふく)らが大陸から持ち込んだ思想が影響している。女は清らかであり、命を育む存在であるため、戦場に出ることは好ましくないとされてきた。

 

しかし、いざ「家の中」という内なる世界においては、大和の女は男よりも遥かに強い。男は外で戦い、算段を回すが、家の中では()に頭が上がらず、尻に敷かれるのが日常の風景である。

 

広庭皇子にとって、於呂を迎え入れることは単なる政治的政略結婚以上の意味があった。

 

「広庭よ、お前はいつも難しい顔をして木簡ばかり見ているな! 狩りに出るぞ、私が猪を仕留めてみせる!」

 

於呂がズンズンと縁側に歩み寄り、大和国の最高権力者の一人である広庭の肩をバンバンと遠慮なく叩いた。

 

「……少しは手加減をしろ、於呂。私の肩の骨が砕ける」

 

広庭は顔をしかめながらも、それを振り払うことはしなかった。

(この国は、理と算術だけで回していると、いずれ熱を失い、凍りついて死ぬ。……蝦夷という、野性にして巨大な新しい血を我らの内に取り込み、完全に同化させるためには、この女の持つ『熱』が必要なのだ)

 

冷酷なまでにシステム化された長岡京の白と黒の世界の中で。

於呂という名の、野生の炎のような蝦夷の女は、広庭皇子の冷たい館に、大陸には決して存在しない「泥臭くも強靭な人間味」をもたらしていた。

 

極限の論理で動く女帝・和那比売が天にあり。

冷徹な算術で地を統べる広庭皇子がおり。

そして、その強固なシステムの中に、於呂のような異邦の熱すらも溶け込ませて、さらに巨大化していく大和国。

 

中原の英傑たちが、互いの裏をかき、領土を奪い合う血みどろの泥沼でもがいている間に。

 

東の怪物は、一切の淀みなく、ただ完全なる形態へ向けて静かに呼吸を続けていた。やがて訪れる「四國志」の激突の時を、巨大な防波堤の奥で待ち構えるように。

 

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