四國志   作:丸亀導師

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凶兆の章
凶兆


 

西暦一八七年。

 

大漢帝国の空を覆う暗雲は、黄巾の乱が平定された後も晴れることはなく、むしろ各地で吹き荒れる軍閥の反乱によって、その陰惨さを増していた。

 

かつて洛陽で「董卓を直ちに斬るべし」と息巻いていた孫堅が鬱屈を抱え、北方の荒野で劉備が県尉の職を投げ打って放浪していたこの頃。

のちの魏の武帝にして、中原の覇者となる曹操孟徳は、表舞台から完全に姿を消していた。

 

彼は前年に「済南の相」という高い役職に就いていたが、領内の腐敗した役人や新興宗教の祠を徹底的に破壊するという苛烈な統治を行った後、突如として自ら病を理由に職を辞した。

 

洛陽の朝廷が彼を再び呼び戻そうと東郡太守に任命した際も、これを固辞。曹操は己の故郷である沛国(はいこく)譙県(しょうけん)へと引き籠もり、広大な自領の中で「春夏は読書にふけり、秋冬は狩猟をして己を磨く」という、まるで隠遁者のような生活を送っていたのである。

だが、それはあくまで洛陽の宦官たちに向けた「表の顔」に過ぎなかった。

 

譙県にある曹操の広大な私邸。その最奥に設けられた、陽の光すら満足に入らぬ地下の隠し書庫。

そこに、一人の男が幽閉されるようにして、夥しい数の竹簡の山に囲まれていた。

 

「……ここを、もう一度読み上げよ」

 

書見台の前に座る曹操が、手にした古びた竹簡を指差した。

その声に応え、影のように控えていた男が、淡々と、しかし極めて明瞭な声で文字を読み上げる。

 

「『兵とは詭道なり。故に能なるも之に不能を示し、用なるも之に不用を示し……』」

 

「そこだ。我が国に伝わる今の『孫子』の写本とは、文字の並びが僅かに違う。……だが、こちらの解釈の方が、兵法の根本たる『理』において遥かに筋が通っている」

 

曹操の前にいる男。

それは、洛陽の朝廷で「東夷の島国に数百万の民がいる」と妄言を吐き、狂人として地下牢に繋がれ、のちに「獄中で病死した」と公式に記録された元正使——班稀(はんき)であった。

曹操は莫大な賄賂と父・曹嵩の権力を使い、洛陽の地下牢から班稀を秘密裏に救出。死体をすり替えて彼を「死人」とし、自らの故郷の隠し部屋へと囲っていたのである。

 

班稀が長岡京の大内裏から持ち帰った情報は、曹操の放った間者たちが書き留めた「兵力」や「要塞の構造」といった表層的な軍事データだけではなかった。

 

班稀の真の功績は、大和国の書庫に眠っていた「中原で失われた古代の思想書・兵法書の原典それに近いもの」を、驚異的な記憶力で書き写してきたことにあった。

 

「班唯才よ。日本という国は、本当に恐ろしい化け物だな」

 

曹操は、班稀の書き起こした竹簡を撫でながら、震えるような感嘆の息を漏らした。

 

「我が中原では、王朝が代わるたびに、前の王朝の記録を焼き、兵法書でさえも時の権力者に都合の良いように改竄(かいざん)されてきた。今、洛陽の学者どもがありがたがって読んでいる『孫子』や『呉子』には、後世の無駄な道徳や、実戦を知らぬ文官どもの注釈がこびりついている。……だが、かの国は違った」

 

班稀は、感情の消え失せた静かな瞳で頷いた。

 

「御意。かの国の大内裏には、数百年前に楚や呉から海を渡った記録が、一切の改竄なく保存されておりました。彼らは儒教の『徳』や『情』といった不純物を完全に削ぎ落とし、孫子の兵法を『純粋な算術と物理の法則』としてのみ解釈し、国家のシステムとして組み込んでいるのです」

 

「だからこそ、あの強大な兵站と関門海峡の防塁が生まれたというわけか」

 

曹操は、中原の英傑たちの中で誰よりも早く、日本の真の恐ろしさが「魔法のような未知の力」ではなく、「中原の古代の叡智を、何百年もかけて極限まで純化・実践した結果」であることを理解していた。

 

敵の強さの根源が、自国の失われた古代の知識の応用である。

これほど凄まじい皮肉と、そして曹操の知的好奇心を刺激する事実はなかった。彼は故郷に引き籠もることで、董卓が暴れ回る中央の政争から距離を置き、班稀の持ち帰った「東の理」を己の血肉とするための研究に没頭していたのである。

 

しかし、曹操はただ地下室で書物を読むだけの空論家ではない。

彼は自らの領地である譙県の広大な農地と、そこに抱える私兵(一族の若者や集めた流民たち)を用いて、日本の「理」を中原の大地に再現する極秘の実験を開始した。

 

初秋のある日。

曹操と班稀は、粗末な農民の衣服を纏い、領地内を流れる渦水の支流に立っていた。

 

目の前には、数十人の農民や私兵たちが泥だらけになりながら、木材を組み合わせて何か巨大なものを建造している。

班稀が描いた図面を基に作られた、「日本の巨大水車」の模造品であった。

 

「……回れ。回ってくれよ」

 

監督をしていた曹仁(そうじん)が、祈るように叫んだ。

(せき)を切られ、水路に川の水が流れ込む。

勢いよく流れ込んだ水が、木製の巨大な羽根車を叩き、ギシギシと重い音を立てながら、水車がゆっくりと回転し始めた。水車に取り付けられた無数の竹筒が川の水を掬い上げ、高い位置にある田畑へ続く水路へと次々に吐き出していく。

 

「おおっ! 動いたぞ!」

 

「これで、わざわざ桶で水を汲み上げる手間が省ける!」

 

農民たちが歓声を上げた。

 

中原にも水車(竜骨車など)の概念はあったが、それは人が足で踏んで動かす小規模なものが主であった。

川の自然の力だけで自動的に大量の水を汲み上げ、それを広大な農地に計画的に分配するという日本の「完全自動の灌漑(かんがい)システム」を目の当たりにし、曹操も満足げに頷きかけた。

 

——だが、その歓喜は数刻と保たなかった。

 

バキィッ!!

 

不気味な破砕音が響いたかと思うと、水車の中心を支えていた太い車軸が真っ二つにへし折れた。

制御を失った巨大な羽根車が濁流に呑まれて崩壊し、跳ね飛ばされた木材が水路の土手を激しく打ち据えた。

 

「土手が崩れるぞ! 逃げろ!」

 

農民たちの悲鳴が上がり、丹念に掘られたはずの水路が、黄土(こうど)を含んだ濁流によって瞬く間にドロドロに崩れ去り、周囲の畑を水浸しにしてしまった。

 

「……またか」

 

曹仁が泥まみれになりながら、悔しげに拳を叩きつけた。

曹操は表情を変えず、無残に砕け散った車軸の破片を拾い上げた。

隣に立つ班稀が、淡々とその失敗の理由を分析する。

 

「……木材の『規格』と『強度』の計算が合っておりませぬ。かの国では、水車を作る木材はすべて専門の工廠で乾燥され、寸分の狂いもなく規格化されたものが使われます。

さらに、川の水量や流速も、星読みたちが季節ごとに完璧に算出し、それに耐えうる車軸を設計しているのです」

 

「……」

 

「我々がその辺の山から切り出してきた生木を、職人の『勘』だけで継ぎ接ぎして作った水車では、中原の川の荒々しい水流には耐えられませぬ。加えて……」

 

班稀は、崩れ去った土手を指差した。

 

「土の質が違いすぎます。日本の瀬戸内海の土壌と違い、この中原の黄土は、水を含めば脆く崩れやすい。かの国の運河の図面をそのまま持ち込んで掘っても、この地の土では自重を支えきれず、こうしてすぐに決壊するのです」

 

物理的な土木工事の失敗だけではない。

曹操が最も頭を悩ませていたのは、軍事や農業を支える「人間」の性質の決定的な違いであった。

 

「殿! もう限界です。あの者ども、全く指示通りに動きませぬ!」

 

軍事調練を任されていた夏侯惇(かこうとん)が、苛立ちを隠しきれない様子で曹操の元へやってきた。

曹操は、日本の「雑徭」や軍律のシステムを模倣し、領民たちに極めて厳格な時間管理を課していた。

 

日の出と共に一斉に起床し、小隊ごとに定められた作業(開墾、土木、軍事訓練)を刻の狂いもなく行い、食事も同時に摂らせる。すべては「無駄な待機時間を無くし、効率を極限まで高める」ためである。

 

日本においては、数百万の民がこの「巨大な時計の歯車」のように整然と動いていると班稀は報告していた。

しかし、譙県の農民や流民たちにそれを強制した結果、起きたのは「効率化」ではなく「猛烈な反発と逃亡」であった。

 

「少しでも刻に遅れた者を罰し、作業の歩調を無理に合わせさせた結果、民たちは恐怖と疲労で完全に疲弊しております。中には、夜逃げをして別の豪族の領地へ逃げ込む者まで出る始末……」

 

夏侯惇は、苦虫を噛み潰したような顔で言った。 

 

「我ら中原の民は、良くも悪くも『己の勘と都合』で動くことに慣れきっております。雨が降りそうなら勝手に休み、腹が減れば勝手に飯を食う。それを、東夷の機械のような法で無理やり縛り付ければ、反乱が起きるのも時間の問題ですぞ!」

 

曹操は目を閉じ、深く息を吐き出した。

班稀の持ち帰った知識は、間違いなく本物である。

しかし、その「理」を、この中原の現実にそのまま移植しようとすれば、激しい拒絶反応が起きる。

 

「……風土が違う。土が違う。そして何より、人間の『気質』が根底から違うのだ」

 

曹操は、夕日に照らされて泥に沈む水車の残骸を見つめながら、静かに呟いた。

 

日本は、海という絶対的な防壁に守られた閉鎖空間である。

外敵の脅威がない安全な箱庭の中で、何百年もかけてじっくりと民を調教し、システムを構築することができた。

 

しかし中原は違う。常に四方から異民族が攻め込み、内乱が起き、黄河は氾濫し、人々は「明日の命も知れぬ混沌」の中で、己の情と欲望、そして野性的な勘だけを頼りに生き抜いてきた。

そんな混沌の熱の塊のような漢の民を、いきなり冷徹な「機械の歯車」にはめ込もうとすれば、歯車そのものが砕け散る。

 

「……班唯才(はんすいさい)よ。そなたはどう見る?」

 

曹操は、背後の影に向かって問うた。

 

「我が実験は、惨めな失敗か? かの国のシステムをこの大陸で再現することは、不可能であると?」

 

班稀は、薄暗い地下室で見せる顔とは違う、土にまみれた曹操の背中を見つめ、静かに首を振った。

 

「一朝一夕に成るものではありませぬ。かの国とて、現在の『理』を完成させるまでに数百年という途方もない時間を費やしているのです。……しかし、不可能ではありませぬ。殿は今、かの国の真似事をして失敗したことで、『中原に足りないもの』と『中原の民が持つ反発力』の正体を、正確に測り終えたはずです」

 

「……ふっ、ふはははは!」

 

曹操は、泥だらけの両手で顔を覆い、腹の底から笑い声を上げた。

それは自嘲ではない。極めて困難な障壁を前にして、己の知略を極限まで研ぎ澄ませることを許された天才の、歓喜の笑いであった。

 

「その通りだ! 私は愚かだった。虎が魚の真似をして海に飛び込んでも、溺れ死ぬだけのこと。……ならば、魚の『理』を解剖し、虎の骨肉に合わせた『新しい牙』として組み直せばよいのだ!」

 

曹操の双眸に、圧倒的な覇気の炎が灯った。

彼は夏侯惇と曹仁に向き直り、矢継ぎ早に新たな指示を飛ばし始めた。

 

「元譲(夏侯惇)よ! 民を無理に同じ時間で動かすのはやめよ。彼らには彼らのやり方がある。だが、軍律と農作業の『結果』だけは極限まで規格化し、厳格に管理する。畑の広さ、収穫の量、そして槍の長さだ。それ以外の過程は、ある程度彼らの『情』と『勘』に任せてガス抜きをさせよ!」

 

「は、はっ!」

 

「子孝(曹仁)! 水車は無理に巨大なものを作らなくてよい。中原の黄土に合った、小さくとも確実に回る足踏み式の竜骨車を大量に作らせよ。木材の規格は、近隣の山で最も多く採れる木を基準に『我が軍独自の規格』を定めろ。それに合わぬものは容赦なく燃やして薪にせよ!」

 

曹操は班稀に向かって、猛禽のような笑みを向けた。

 

「班唯才。私はかの国のように、数百年もかけて国を機械化してやる時間は持っていない。

洛陽の豚どもが中原を食い尽くす前に、この混沌の大地に『漢の泥にまみれた独自の理』を根付かせねばならんのだ」

 

「……それが完成した暁には、いかなる軍勢となりましょうや」

 

「軍隊でありながら農民であり、民の熱量(欲望)を餌にして自己増殖し続ける、泥まみれの巨大な獣だ。……これを、のちに『屯田(とんでん)』と名付けよう」

 

曹操が再び中央の舞台へ躍り出るまで、残された時間はあとわずかであった。

 

 

曹操孟徳が故郷の泥濘(でいでい)の中で独自の「理」を模索し、劉備玄徳が泥をすすりながら東の理想郷の噂に戦慄していた翌年。

 

西暦一八八年(中平五年)の二月。

 

突如として、巨大な「天変」が夜空に現れた。

天上に、一つの異常な光が(はし)ったのである。

 

それは通常の星々とは異なり、尾を引いて不気味に輝く未知の星——中華の天文学において「客星(かくせい)」、あるいは「妖星(ようせい)」「彗星(ほうきぼし)」と呼ばれるものであった。

 

この客星の出現は、ただでさえ黄巾の乱の爪痕と軍閥の跳梁によって荒れ果てていた大漢帝国の運命に、決定的な暗い影を落とす「事件」となった。

 

洛陽の宮廷では、星の運行を司る太史令(たいしれい)が青ざめた顔で霊帝に凶兆を奏上し、十常侍(じゅうじょうじ)たちは己の悪政への天罰ではないかと密かに震え上がった。

 

しかし、最も深く、そして致命的な絶望に囚われたのは、大地に這いつくばって生きる民衆たちであった。

 

「天の(ほうき)が現れた……。あれは、古いものを掃き清め、天下が大きく乱れる前触れだ」 

 

「天子様は、もう天から見離されてしまったのだ……!」

 

中華の統治理念の根幹には、「天人相関説(てんじんそうかんせつ)」がある。

 

天の意志と地上の政治は連動しており、皇帝の徳が失われれば、天は災異(天変地異や凶星)をもって警告を発するという思想である。

 

信心深く、そして日々の飢えに苦しむ民衆にとって、夜空を不気味に切り裂く客星の姿は、漢王朝の「天命(てんめい)」が完全に尽きたことを示す、何よりの証明であった。

 

彼らの心の中から、漢室への最後の微かな忠誠心や期待が、音を立てて崩れ去っていく。この天の警告は、やがて群雄たちが「もはや漢王朝に天下を治める資格はない」と公然と牙を剥き始めるための、最大の心理的要因となっていったのである。

 

大陸全土が、夜空に浮かぶ凶星を見上げて不安と恐怖に(おのの)き、次なる巨大な殺し合いの予感に血を(たぎ)らせていた。 

 

 

しかし、その客星が放つ冷たい光は、海を隔てた東の果て——日本の都、長岡京をも平等に照らし出していた。

 

長岡京の心臓部たる大内裏。

白と黒の幾何学で構成された冷徹な宮城の最奥部、「内庭(うちにわ)」に面した広大な部屋に、一つの影が静かに座していた。

 

現人神(あらひとがみ)たる女帝・和那比売である。

分厚い御簾(みす)は上げられ、澄み切った冬の夜気が部屋に流れ込んでいる。

 

彼女の眼前には、上質な漆が塗られた巨大な盤が置かれ、その上には赤と黒に塗られた数百本の細い木の棒——「算木(さんぎ)」が、精緻な陣形を組むように並べられていた。

 

パチン……。パチン……。

 

静寂に包まれた内庭に、和那比売の白魚のような指先が算木を弾き、配置を組み替える乾いた音だけが、小気味良く響き渡っていた。

 

大王(天皇)の仕事とは、ただ玉座に座って神事を執り行うだけではない。

彼女が今、夜を徹して行っているのは、陰陽寮(おんみょうりょう)の星読みや暦博士たちが数ヶ月がかりで編纂した「次年の(こよみ)」の最終確認であった。

 

暦の編纂は、このシステム国家において「国家の命運そのもの」である。

何月に種を蒔き、何月に水を張り、何月に収穫の雑徭を行うか。

 

それらの予定はすべて、太陽と月の運行、そして季節の移り変わりを完全に予測した「暦」に依存している。

もし暦の計算が一日でも狂えば、何百万という民の農作業の足並みが乱れ、致命的な飢饉を引き起こしかねない。

 

だからこそ、天皇自らが最終的な検算を行う。

和那比売の頭脳は、感情というノイズが一切存在しない、極限まで研ぎ澄まされた巨大な計算機(からくり)であった。

 

「……大陰()の運行予測。冬至からの日数の割り出しに、微かな『ズレ』が生じている」

 

和那比売は、感情の起伏を一切見せない澄んだ声で独りごちた。

彼女の指先が迷いなく動き、盤上の算木を幾つか弾き飛ばす。

 

「暦博士どもめ。うるう月の挿入を急ぐあまり、黄道における日月の交点の計算を、わずか一分(いちぶ)ほど大雑把に丸めおったな。このままでは、五年後の秋に冬起こるはずの日食の予測が半刻《約一時間》ずれる」

 

パチン、と最後の算木を置き直し、彼女は完璧な暦の数式を盤上に完成させた。

 

「明日、陰陽頭(おんみょうのかみ)を呼び出せ。この算木の通りに数式を修正させよ。少しの妥協も許さぬと伝えよ」

 

背後の暗がりに控えていた女官が、音もなく平伏して退室していく。

和那比売は、冷たい吐息を一つ吐くと、算木の盤から顔を上げ、開け放たれた縁側から夜空を見上げた。

 

 

彼女の視線の先、満天の星が瞬く夜空を斜めに切り裂くように、白く長い尾を引く「客星」が浮かんでいた。

大陸の皇帝や民衆たちが、恐怖と絶望に顔を歪めて見上げているその同じ星を。

 

和那比売は、一切の恐怖を抱くことなく、むしろ微かに目を細め、その壮大な宇宙の現象を心から「楽しんで」いた。

 

「美しいものだ……」

 

彼女の薄い唇から、微かな感嘆の吐息が漏れた。

 

彼女にとって、この客星は「天の怒り」でも「王朝の滅亡の凶兆」でもない。暦の編纂という、ガチガチに計算され尽くした予測可能な日常の中に突如として飛び込んできた、極めて美しく、スリリングな「未知の変数」であった。

 

暦の編纂とは関係のない、予測不可能な天体イベント。

 

陰陽寮の役人たちは、この客星の出現に慌てふためき、「凶事の兆れではないか」と騒ぎ立てていたが、和那比売は彼らを一喝して静まらせた。

 

(計算できぬ事象を、すぐに『神の怒り』や『凶兆』などという曖昧な言葉で片付けるのは、愚者の逃げ道に過ぎぬ。……現実に起きている事象には、必ずそれを司る『理』が存在するのだ)

 

和那比売は、縁側に立ち上がり、夜風に長い黒髪を揺らした。

彼女の双眸は、ただ星の美しさを愛でているのではない。客星の軌道、光の強さ、そして尾のなびく方角を、頭の中の算盤で冷徹に記録し、測量していた。

 

彼女の胸の内に、一つの巨大な「哲学的な疑問」が渦巻いていた。

 

(現在の我らの暦や星読みは、大地が平らであり、その上を半球状の『天球(星が描かれた天井)』が一定の速度で回転しているという前提で成り立っている。大陸の『渾天説(こんてんせつ)』や『蓋天説(がいてんせつ)』も同様だ)

 

和那比売は、空を指でなぞった。

(だが、もし大地が完全に不動であり、天球が真にただの『(張りぼて)』であるのなら……このような事は絶対に起こらない)

 

彼女の思考は、当時の人類の限界を突破しようとしていた。

 

(元々、天球の運行(規則正しい星々の動き)には存在しなかったはずの星が、ある日突然現れ、そして他の星々とは全く違う独自の軌道を描いて移動し、やがて消えていく。……これを説明するためには、星々が同じ天井に張り付いているという前提自体が間違っているのではないか?)

 

和那比売の瞳に、知的な興奮の光が灯る。

 

(星には『近い星』と『遠い星』があるのだ。宇宙は平坦な天井ではなく、途方もなく深く、広大な奥行き(空間)を持っている。そして、この客星は、我々の知る天球のさらに向こう側の深淵から、全く別の法則に導かれて飛来してきた『旅人』に違いない)

「……元々天球の運行には無かった其れ等の現象を説明するには、全く別の『理』が必要ではないか?」

 

和那比売は、暗闇の庭に向かって静かに囁いた。

それは、地球中心説(天動説)の限界を直感的に悟り、より高度な宇宙の立体構造と力学法則の存在に気づき始めた、極めて近代的な科学的思考の萌芽であった。

 

大陸が「天の怒りだ」「皇帝の徳がないからだ」と呪術的・感情的な迷信に支配されている間に。

日本の現人神は、同じ天変地異を眺めながら、「現在の物理モデルの欠陥」と「新たなる宇宙の法則の必要性」について、純粋な論理と思索を深めていたのである。

 

 

「……和那比売様。夜風が冷とうございます」

 

背後から、右大臣・広庭皇子が静かに声をかけた。

彼は手に持っていた薄手の上着を、女帝の肩にそっと掛けた。

 

「広庭か。……見よ。見事な(ほうき)の星だ」

 

和那比売は空を指差したまま、広庭に言った。

 

「陰陽寮の者たちは騒いでおりましたが、私はあれを『凶星』とは呼称させませぬ。我が国の神道において、あれは『矢乃波波木神(やのははきのかみ)』であると定めました。」

 

広庭皇子は、その名を聞いて微かに目を細めた。

 

「……矢乃波波木神。古き神話において、箒を神格化した存在。チリやケガレを払い清め、出産の時には安産を導くという神の御名ですか。」

 

「左様」 

 

和那比売は、冷たい笑みを浮かべた。

 

「中原の愚か者どもは、あの星を『災いをもたらす魔の箒』として恐れおののいているだろう。だが、我ら日本にとって、あれは『ケガレを払う清浄の箒』だ」

 

和那比売の言葉には、大陸の動乱を見透かした絶対的な自信が満ちていた。 

 

「あの星が中原の空を掃き清めれば、腐り切った漢王朝という名のゴミは完全に掃き捨てられ、大陸はさらに深い泥沼の戦乱へと落ちていく。それは我が日本にとって、新たなる時代を産み落とすための、見事な『安産の兆し』ではないか」

 

広庭皇子もまた、客星を見上げ、氷のような笑みを深めた。

 

「……御意。天が中原を掃き清めている間に、我らは半島の足場をさらに強固なものとし、新たな『理』を組み上げましょう。あの箒星が消える頃には、大陸の様相は一変しておりましょうな」

 

「頼むぞ、広庭。私の頭の中にある『新たな宇宙の理』を地上に現出させるには、大陸の鉄と労働力がまだまだ足りぬ。

……残さず、刈り取れ」

 

「はっ。すべては、算盤の導くままに」

 

西暦一八八年。

 

中原の運命を左右し、漢帝国の死の宣告となった天空の「客星」。

悲鳴と絶望に包まれる大陸の夜空とは対照的に、長岡京の内庭では、女帝と右大臣が並んで星を見上げ、静かに、そして楽しげに「世界の刷新」の算段を語り合っていた。

 

 

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