西暦188年
曹操は己の故郷である
彼の屋敷に、洛陽の朝廷から一人の使者が慌ただしく駆け込んできた。
朝廷の権力を握る
『新たに
使者が去った後、屋敷の奥間に集まった夏侯惇や曹仁らの一族の者たちは、不快げに顔をしかめた。
「西園軍だと……? また宦官どもの浅知恵か」
夏侯惇が吐き捨てるように言った。
現在、洛陽の軍権は外戚である大将軍・
つまり、この召喚は名誉でもなんでもない。大将軍と宦官という、洛陽の泥沼のような権力闘争の最前線に曹操を引っ張り出し、都合の良い「手駒」として使おうという露骨な罠であった。
「お断りになりましょう、殿。我らは今、この譙県で新たな国造りの基礎を固めている最中。あのような腐りきった泥水に、自ら飛び込む必要はありませぬ」
曹仁が進言した。
曹操は、手にした詔の書簡を無言で見つめ、深く沈思黙考していた。
確かに、今の洛陽は腐臭に満ちた死に体である。あそこに戻れば、再び宦官たちに頭を下げ、くだらぬ暗闘に神経をすり減らす日々が待っている。
しかし——。
その日の深夜。
地下の隠し書庫に降りた曹操は、油灯の灯りの中で、大量の竹簡と向き合っていた班稀に詔の件を告げた。
「……典軍校尉、ですか」
班稀は竹簡から顔を上げ、静かに応じた。
「殿はどうお考えで?」
「断るべきだという声が多い。だが、私は受けるべきだと考えている」
曹操は、壁に掛けられた巨大な中華の地図と、その東の果てに自らが書き足した「日本」という異質な影を見つめた。
「班唯才よ。我らがこの譙県で進めている実験は、確かに実を結びつつある。中原の風土に合った独自の理の萌芽は生まれた。……しかし、遅すぎるのだ」
曹操の言葉には、天才ゆえの強烈な焦燥感が滲んでいた。
「一つの
班稀は、曹操の背中を見つめ、深く頷いた。
「御意。かの国は、天皇という絶対的な名分の下、国中の鉄と米を一箇所に集約させております。対抗するには、殿ご自身が中原のすべてを統べる『実権』を握るしかありませぬ」
「洛陽の西園軍は、腐っているとはいえ、正真正銘の『大漢帝国の正規軍』だ。そこには、私がこの田舎では逆立ちしても手に入らない兵器、馬、そして数万の兵士という『資源』がある」
曹操は振り返り、猛禽のような笑みを浮かべた。
「洛陽の豚どもは、私を権力闘争の盤上の駒として使うつもりだろう。ならば、喜んでその駒になってやろうではないか。……懐に潜り込み、奴らの持つ軍権と兵士を、内側からすべて喰い破って私のものにする。この『典軍校尉』という役職は、大漢帝国という死骸を乗っ取るための、最高の足がかりとなるのだ」
単なる名誉欲や保身ではない。
遥か東の海で不気味に胎動する「絶対的な絶望」を見据えている曹操にとって、洛陽の権力闘争など、己の軍備を拡張するための「ただの餌場」に過ぎなかったのである。
翌朝。
曹操は、一族の者たちを集め、洛陽への出立を告げた。
「元譲(夏侯惇)、子孝(曹仁)。私は洛陽へ戻る」
「殿!」
不満げに声を上げる彼らを制し、曹操は鋭い眼光で命じた。
「お前たちはこの譙県に残り、我らが創り上げた『新しい理』をさらに研ぎ澄ませよ。農地を開拓し、流民を集め、鉄を打ち、いつ私が戻っても『数万の兵を動かせるだけの兵糧と土台』を整えておくのだ。よいな、決して洛陽の騒ぎに巻き込まれるな。ここは我らの『真の陣地』だ」
その声に込められた凄まじい覚悟を感じ取り、夏侯惇と曹仁は深く頭を下げた。
「はっ……! 殿が再びこの地へ戻られる日を、万全の支度でお待ちしております」
曹操は愛馬に跨り、数名の供だけを連れて洛陽へと向かう街道を駆け出した。
大漢帝国の心臓部・洛陽へと舞い戻った曹操の鼻を突いたのは、数年前と何一つ変わらぬ、いや、さらに濃密さを増した「豪奢な腐臭」であった。
街には相変わらず行き場を失った流民が溢れ、その一方で宮城へ続く大路には、諸侯や役人たちが
洛陽は、死を目前にした病人が、高熱に浮かされて最後の狂宴を繰り広げているような異様な熱気に包まれていた。
「……変わらぬな、この都は」
曹操は馬上から冷ややかな視線を投げやり、深く息を吐いた。
大極殿において、皇帝・
彼を推挙したのは、洛陽の軍権を握る大将軍・
そして数日後。
洛陽の城外に広がる平野において、新たに創設された「
「おお……見事なる武威よ!」
天高くそびえる天蓋の下で、霊帝が満足げに声を上げる。
平野を埋め尽くす数万の精鋭たち。
陽光に煌めく無数の鉄の槍衾、一糸乱れぬ動きを見せる騎馬隊、そして色鮮やかな軍旗が風にはためく様は、大漢帝国が未だ強大な武力を保持していることを示す圧倒的な光景であった。
典軍校尉として自らの部隊の先頭に立つ曹操の双眸は、その光景を前にして猛禽のように細められていた。
(素晴らしい。譙県の田舎で鍛えた私兵とは比べ物にならぬ。良質な鉄、鍛え抜かれた軍馬、これこそが私が喉から手が出るほど欲していた『大漢の遺産』だ)
だが、曹操は同時に、この巨大な軍隊が抱える「致命的な欠陥」を正確に見抜いていた。
この西園軍は、決して「一つの生き物」ではない。
中央で総指揮を執る上軍校尉・蹇碩は、宦官の利益を守るためにこの軍を動かそうとしている。しかし、曹操と並んで部隊を率いる中軍校尉・
頭が二つあり、互いの首を噛み千切ろうとしている巨大な毒蛇。それが、この西園軍の正体であった。
(日本の大和軍は、天皇という絶対的な名分の下、一万の兵が『一人の人間の手足』のように動くと聞く。……それに引き換え、我が国の正規軍はこの有様か。外を向くべき矛先が、すべて内側の政争に向けられている。何たる無駄、何たる愚行か)
観兵式の勇壮な軍鼓の音が響く中、曹操の内心には、皇帝の威光に対する畏敬の念など欠片もなかった。ただ、この巨大な毒蛇の頭を両方とも切り落とし、その胴体だけをいかにして自らの手中に収めるかという、冷酷な算段だけが目まぐるしく駆け巡っていた。
観兵式が終了したその夜。
洛陽の豪奢な宮殿において、西園軍の創設を祝う盛大な宴が開かれた。
しかし、その宴の席は、祝賀とは名ばかりの異様な空間であった。
広間の右側には、蹇碩をはじめとする宦官派の役人たちが集まり、甲高い声で皇帝の威光を讃え合っている。
一方、左側には大将軍・何進に連なる名門の士大夫(したいふ)や武将たちが陣取り、宦官たちへあからさまな憎悪と侮蔑の視線を向けていた。
酒が注がれ、音楽が奏でられても、両派閥の間には見えない氷の壁がそびえ立ち、少しでも隙を見せれば即座に剣を抜き放ちかねない殺気が充満している。
その泥沼のような対立の中央付近に席を与えられていた曹操は、顔に愛想の良い笑みを張り付けながら、飄々と杯を傾けていた。
彼は宦官の孫という出自を持ちながら、若い頃は洛陽の法を厳格に執行して宦官の親族を打ち据えたこともある。両派閥から「使えるかもしれないが、信用しきれない男」として微妙な位置づけにあったのだ。
「孟徳よ。久しいな」
不意に、曹操の背後から声をかける者があった。
振り返ると、そこには見事な絹の衣を纏い、威風堂々たる風格を備えた若き美丈夫が立っていた。
「おお、本初殿ではないか! 息災であったか」
曹操は立ち上がり、大仰な笑顔を作って袁紹と抱擁を交わした。
「そなたこそ。しばらく見ぬ間に、少しばかり土の匂いが染み付いたのではないか?」
袁紹は、端正な顔に親しげな笑みを浮かべながらも、その瞳の奥には底知れぬ野心と、相手を探るような鋭い光を宿していた。
二人は周囲の耳を避けるように、広間の隅にある静かな一角へと席を移した。
宴の喧騒が遠のく中、袁紹は自らの手で曹操の杯に並々と酒を注いだ。
「して、孟徳。そなたはこの数年間、一体どこで何をしていたのだ?」
袁紹は、単刀直入に問いかけた。
「済南の相を辞し、朝廷の呼びかけにも応じず、故郷の譙県に引き籠もっていたと聞く。あの黄巾の残党が跳梁跋扈する中で、そなたのような男がただ読書をして暮らしていたなどとは、我は信じぬぞ」
袁紹の問いは、旧友としての純粋な興味と、今後の権力闘争において曹操が「敵か味方か」を見極めようとする政治的な探りの両面を含んでいた。
曹操は杯の酒をゆっくりと喉に流し込み、微かに息を吐いた。
彼の脳裏に、譙県の地下書庫で記録を書き続ける班稀の顔と、泥濘の中で砕け散った巨大水車の光景がフラッシュバックする。
東の海に、中原を丸ごと飲み込むほどの高度な理を持った化け物国家が存在し、自分はその化け物を迎え撃つための新しい国家システムの実験をしていた。
——それをありのまま語れば、袁紹は間違いなく曹操を「狂った」と笑うだろう。あるいは、名門の誇りゆえに「東夷の島国など恐るるに足らず」と鼻で笑い飛ばすに決まっている。
曹操は瞬時に計算を終わらせ、巧みな「嘘」を交えながら、自らの真実を語り始めた。
「……隠すつもりはないさ、本初。私は故郷で、ただ泥にまみれていたのだ」
「泥に、だと?」
「ああ。私は済南で役人どもの不正を正そうとしたが、結局は上の者たちに邪魔をされて終わった。この漢王朝の政治に嫌気がさした私は、故郷に戻り、いにしえの『孫子』や『呉子』といった兵法書や、農書の古文書を読み漁っていたのだ」
曹操は自嘲するように笑った。
「ある時、山深くで死にかけの奇妙な放浪の学者に出会ってな。彼から、中原で失われたとされる兵法の原典に近い書き物や、奇妙な農具の図面を譲り受けたのだよ」
「ほう、奇妙な学者に、古の兵法書か」
袁紹は面白そうに身を乗り出した。
「私はその学者の知識を使い、自らの領地で『完璧な軍隊と農村』を創り上げようとした」
曹操の目に、本物の熱が宿る。ここからの経験談は、紛れもない真実であった。
「私は民たちに軍律のごとき厳格な時間を守らせ、一糸乱れぬ動きで畑を耕させようとした。川には巨大な自動の水車を作り、理のままに天の恵みを支配しようとしたのだ。……すべてを規格化し、一切の無駄を省いた、最強の軍事と農業の国を創ろうとした」
「……何という途方もないことを。して、結果はどうなったのだ?」
「惨めな失敗さ」
曹操は肩をすくめ、わざと道化のように笑ってみせた。
「水車は中原の荒波に耐えきれず車軸が折れ、土手は崩壊した。軍律で縛り付けた農民たちは、恐怖のあまり夜逃げを繰り返した。……私は学んだよ、本初。書物に書かれた完璧な理というものは、この中原の泥臭い人間の情や、荒々しい風土にはそのままでは当てはまらぬということをな」
袁紹はそれを聞くと、愉快そうに声を上げて笑った。
「はははっ! さしもの曹孟徳も、書物の知識だけで農民を動かそうとしてしっぺ返しを食らったか。民というものは、名門の威光と恩恵をもって導くべきもの。力と規則だけで縛ろうとすれば、反発するのは道理であろう」
袁紹はすっかり安堵した様子であった。
彼にとって、曹操が語った話は「野心家が故郷でちょっとした兵法と農業の実験をして、失敗して懲りた」という、他愛のない笑い話に過ぎなかったのである。
「孟徳よ。やはりそなたの居場所は田舎の泥の中ではない。この洛陽の煌びやかな軍陣こそがふさわしい。……どうだ、我が派閥(大将軍・何進)に力を貸さぬか? 共にあの忌まわしい去勢者どもをこの都から掃き清めようぞ」
袁紹が、熱を帯びた声で曹操の肩を叩いた。
「ありがたいお誘いだ。……微力ながら、共に漢室の未来のために尽くそうではないか」
曹操は袁紹の目を真っ直ぐに見つめ返し、力強く頷いてみせた。
袁紹は満足げに頷き、再び祝宴の中心へと戻っていった。
一人残された曹操は、手元の杯を見つめたまま、張り付けていた笑みをスッと消し去った。
(……阿呆め)
曹操の胸中には、名門の御曹司に対する冷酷なまでの見下しと、深い絶望が渦巻いていた。
袁紹は、曹操の言葉の表面しか理解できなかった。
「完璧な理」が中原で失敗したという話を聞いて、袁紹は「そんなものは不要だ」と笑ったのだ。
だが曹操が本当に言いたかったのは、「海の向こうには、その『完璧な理』を失敗することなく数百年かけて完成させ、数百万の民を機械のように動かしている化け物が実在する」という絶望的な事実である。
袁紹の頭の中には、「宦官を倒すこと」と「名門としての天下取り」しかない。彼の見ている世界(盤面)は、洛陽という小さな水たまりの中だけで完結しているのだ。
(天下の袁家も、たかが知れたものよ。……こ奴らには、決して見えまい。私が水車を壊し、農民の逃亡を経験した泥濘の底から、『中原の人間の情に適合させた、新たなる軍事と農業の理』をすでに編み出しつつあるという事実が)
曹操は、杯に残った酒を、洛陽の腐った空気を洗い流すように一気に飲み干した。
「……殺し合うが良い、何進も、宦官も、袁紹も。お前たちがこの小さな都で血を流し合っている間に、私はお前たちの兵士と鉄をすべて奪い取り、東の海を迎え撃つための『本当の国』を創らせてもらう」
洛陽の祝宴の陰で。
かつては漢帝国の未来を語り合った二人の若き英傑の道は、この夜を境に完全に、そして決定的に分かれた。
大漢帝国で客星が夜空を切り裂き、曹操が洛陽の泥沼へと自ら飛び込んでいった頃。
海を隔てた朝鮮半島の南端、日本の最前線基地である「
任那は、かつて中原の者たちが「
しかし現在のその姿は、小国の集落などという牧歌的なものではない。長岡京の大内裏と同じく、定規で引いたように真っ直ぐな石畳の道が敷かれ、巨大な倉庫群が幾何学的な配置で並ぶ、徹底的に規格化された「軍事・物流の要塞」であった。
港には、瀬戸内海から途切れることなく物資を運んでくる巨大な輸送船が停泊し、兵士や職人たちが、まるで感情を持たないからくり人形のように、無言で、そして極めて効率的に荷揚げ作業を行っている。
その要塞の中枢、分厚い石と漆喰で造られた鎮守府の長官室。
そこに座す男こそが、日本軍の半島における最高司令官たる任那鎮守将軍——木理扶明であった。
彼は、中原の将軍たちのように、虎の皮を敷いた椅子にふんぞり返り、酒を飲みながら部下に怒鳴り散らすような真似は決してしない。
木理は、
そこへ、一人の伝令が音もなく部屋に入り、深く平伏した。
「将軍。本国より、早船にて『密書』が届きましてございます。……右大臣・広庭皇子様の
パチン、と。
木理の指先で動いていた算木の音が、ピタリと止まった。
木理は無言で密書を受け取ると、封を切り、中に記された和紙の文字に冷徹な視線を落とした。
書かれていたのは、極めて簡潔な、しかし半島の歴史を根本から覆す絶対の命令であった。
『半島の有力者、並びに我が国に協力的なる部族長たちの目録を開け。その中より、最も影響力を持つ有力な者たちを選別し、直ちに大和の【
木理は、書状から目を離さず、薄い唇を微かに吊り上げた。
「……ついに、大王と右大臣殿は、半島を『喰らう』刻が来たとご判断されたか」
【冠位を授ける】。
それは、一見すると非常に名誉で、平和的な外交手段に思える。
現在、半島南部(馬韓、辰韓、弁韓の諸国)の有力者たちは、日本から供給される良質な鉄や進んだ農具、そして圧倒的な武力を背景とした「保護」に依存しきっている。彼らにとって、強大な大和国から「位」を賜ることは、自分の部族の権威を高め、他の部族に対して優位に立つための絶好の「箔付け」に見えるだろう。
しかし、木理はその冠位の裏にある、日本という国家の「恐るべき本質」を熟知していた。
日本における冠位とは、単なる名誉職でも勲章でもない。
それを受け取った瞬間、その者は「日本の天皇の絶対的な臣下」に組み込まれることを意味するのだ。
位を授かるということは、日本の「
税として米や特産品を定められた期日に納めなければならない。戦が起きれば、日本の軍律に従って決められた数の兵士を供出しなければならない。
逆らえば、「天皇の臣下でありながら法を破った反逆者」として、日本の正規軍によって合法的に、そして徹底的に
(冠位とは、名誉という金箔で包んだ『鉄の首輪』だ。……これを受け入れた時点で、半島の諸侯は独立した王ではなくなり、大和国の地方官に成り下がる)
これはつまり、日本がこれまで数百年かけて行ってきた「
木理は、卓上に置かれた広大な地図に目を向けた。
なぜ、本国はこの時期を選んで「直轄化」の号令をかけたのか。
(中原の空に、客星が流れた。そして、洛陽から間者が送ってきた報告によれば、大漢の皇帝が崩御し、都は宦官と大将軍の権力闘争で完全に機能不全に陥っているという)
木理の冷徹な頭脳が、広庭皇子と同じ計算を弾き出す。
今、大陸の巨大な龍(漢)は、己の内臓を喰い破ることに夢中になっている。
北方の
大陸のすべての目と力が、洛陽の泥沼や北方の動乱に向けられている今、この半島南部に介入できる余力を持つ勢力は、地球上のどこにも存在しない。
(中原が火の海で踊っているこの数年の間が、最大の、そして唯一の好機。……この絶対の空白期間に、我が日本は半島南部に巨大な『防波堤(直轄領)』を築き上げるのだ)
木理は、これまで計算していた「日常の物流」の算木を、掌で一息に崩した。
そして、戸棚から真新しい白木の算木と、巨大な空白の目録を取り出した。彼の目から、日常を管理する文官の色が消え、冷徹な「侵略の将軍」としての凄絶な光が宿る。
木理は、筆にたっぷりと墨を含ませ、新たな目録の作成に取り掛かった。
「冠位を授ける使者を出す。喜んで首輪をつける犬もいれば、己の立場に気づき、大和の法に牙を剥く愚か者も必ず出よう」
彼は、反乱が起きることを最初から「前提」として組み込み、算木を弾き始めた。
彼が弾き出しているのは、武功や大義名分といった精神論ではない。反乱を起こした部族を、一切の損害を出さずに物理的に「すり潰す」ために必要な、兵站の計算であった。
パチン、パチンと、冷たい部屋に算木の音が響き続ける。
「慶尚北道から全羅北道に至る諸国。……反抗勢力として想定される最大兵力は、およそ五万。彼らの武装は旧式の青銅器と、質の悪い鉄器のみ」
木理の頭脳の中で、日本軍の規格化された部隊がシミュレーションを展開する。
「これを制圧し、さらにその先へ国境の防塁を築くために必要な本国からの増援は……。重装歩兵三千。弓弩兵二千。そして、これを運ぶための安宅船三十隻、快速の関船五十隻」
彼の筆が、紙の上を滑るように走り、必要な物資の量が次々と書き込まれていく。
「兵五千を半島で半年間維持するための兵糧……精米した
木理は、決して「戦に勝つこと」だけを計算していない。
中原の軍隊は、戦に勝てば略奪をして満足して帰るか、あるいは兵糧が尽きて撤退する。しかし、日本の軍隊は違う。彼らは進軍したその日から、測量士が土地を測り、水路を引き、大和と同じ「規格化された町と農地」を強制的に造り上げていくのだ。
それは、土地の文化や歴史を根こそぎ上書きする、最も恐ろしく、最も確実な「侵略」であった。
「……計算は、出た」
木理は筆を置き、完成した膨大な「侵略の請求書」を冷たい目で見下ろした。
ここには、何人の将軍の首を取るとか、いかなる奇計を用いるかといった華々しい戦語りは一言も書かれていない。あるのはただ、「この莫大な物量と兵器を、期日通りに半島へ流し込めば、確実に半島の半分が日本の直轄地になる」という、冷徹な物理法則の証明だけであった。
「伝令!」
木理の低く通る声に、部屋の外から兵士が駆け込んできた。
「この目録を、直ちに早船で本国へ送れ。大王と右大臣殿に、『任那鎮守府は、いつでも半島を飲み込む準備ができている』とお伝えしろ」
「はっ!」
伝令が風のように飛び出していく。
木理は再び椅子に深く腰を下ろし、窓の外の暗い海を見つめた。
「さあ、冠位を配る時間だ。……中原の英傑どもよ、せいぜい洛陽の玉座を巡って殺し合うが良い。お前たちが血に酔いしれている間に、我らは静かに、お前たちの喉元に『完璧な要塞』を築き上げさせてもらう」
西暦一八九年。
董卓の足音が洛陽に迫り、曹操や袁紹が中原の覇権を懸けて動き出そうとしていたその死角で。
日本は、ついに海を越え、朝鮮半島を「完全な自国領」とするための、冷酷で機械的な侵略の歯車を、重々しく回し始めたのである。