四國志   作:丸亀導師

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凶兆 3

 

その日、大漢帝国の心臓たる帝都・洛陽は、底の抜けた巨大な(かなえ)のように沸騰していた。

 

「主上(おかみ)が……天子様が、崩御あらせられたぞ!」

 

「馬鹿な、まだお若いというのに! 流行り病か? それとも……」

 

霊帝(れいてい)の突然の死。

それは、長きにわたり黄巾の乱や各地の反乱によって軋みを上げていた漢王朝という巨大な建造物の、最後の大黒柱がへし折れた瞬間であった。

 

病死であると公表されてはいたものの、洛陽の街を駆け巡る噂はどれも陰惨なものばかりであった。十常侍と呼ばれた宦官たちが己の権力を保つために毒を盛ったのだという者もいれば、大将軍・何進(かしん)の息がかかった太医が手を下したのだと囁く者もいる。

 

真実がどうであれ、もはや誰にも確かめる術はない。ただ一つ確かなことは、天の頂点が空位となったことで、洛陽の宮廷は「次代の皇帝を誰にするか」という剥き出しの権力闘争の修羅場と化したということである。

 

大将軍・何進を筆頭とする外戚(がいせき・皇后の親族)派と、蹇碩(けんせき)をはじめとする宦官派。両陣営は洛陽城内に武装した兵士を配置し、一触即発の睨み合いを続けていた。

 

街には戒厳令が敷かれ、民衆は固く戸締りをして息を潜めている。夜になれば、宮中の暗がりで誰かが暗殺され、あるいは謀反の罪を着せられて一族もろとも処刑される。血の匂いと、焼け焦げた紙の匂いが、夏の熱気と共に洛陽の空を重く覆っていた。

そんな極限の混乱と狂騒の中にあって。

 

「宮廷に出仕していた数名の宦官が、忽然と姿を消した」という事実など、誰一人として気にも留めなかった。

 

 

姿を消したのは、張譲(ちょうじょう)趙忠(ちょうちゅう)といった歴史に名を残すような大宦官ではない。後宮の物品調達や、東方の沿岸部(青州や徐州)との交易記録の管理などを任されていた、中級から下級の宦官たちである。

 

彼らがいなくなったことを知った宮廷の役人たちは、皆一様にこう言って鼻で笑い、即座に忘却した。

 

「また何進将軍の刺客に暗殺され、井戸にでも投げ込まれたのだろう」

 

「あるいは、形勢不利と見て、蓄えた黄金を持って田舎へ逃げたか。いつもの権力闘争の犠牲者よ。数える価値もない」

 

だが、真実は全く違った。

彼らは何進に殺されたわけでも、単なる保身で逃げたわけでもない。彼らは、霊帝の暗殺にも、次期皇帝の権力闘争にも一切関与していなかった。

 

彼らは、「日本の密偵として、情報を流し続けていた者たち」であった。

日本というシステム国家は、中原の動乱を観察するために、洛陽の最深部にも見えざる触手を伸ばしていた。彼らは宦官という、金と欲望に弱く、それでいて宮廷の機密に触れやすい存在に目をつけた。

 

大和国から極秘裏に持ち込まれる「極上の真珠」や「不純物のない鉄や金」、そして何より「絶対に安全な逃り場所」という対価を与えられ、彼らは洛陽の軍の配置や水軍の動向を、定期的に東の海へと流していたのである。

その彼らが、霊帝の死を知った直後、示し合わせたように洛陽から姿を消した。

 

彼らは長年、日本の「理」に触れていた。だからこそ、洛陽の役人たちよりも遥かに正確に、この国の未来を予測することができたのだ。

 

(……この国は、もう終わりだ)

 

(大将軍が勝とうが、十常侍が勝とうが関係ない。こんな泥沼で殺し合っているうちに、いずれあの東の『化け物』が海を渡ってくる。中原に留まっていれば、間違いなくすり潰される)

 

彼らは、霊帝の崩御を「大漢帝国の完全なる死の宣告」と受け取った。

彼らは宮廷から持ち出せるだけの金銀を捨て、代わりに「東方の沿岸防衛の最新の地図」と「戸籍の束」だけを懐に忍ばせ、いち早く洛陽を脱出した。そして、青州の沿岸に偽装して停泊していた大和国の関船に乗り込み、永遠の安全が約束された東の国家へと、早々に亡命を果たしていたのである。

 

漢王朝という沈みゆく泥船から、最も賢い鼠たちが、東の海へ向かって逃げ出した瞬間であった。

 

この「数名の宦官の失踪」の裏にある真の恐ろしさに気づいた人間が、洛陽にただ一人だけいた。

新たに創設された西園軍の典軍校尉(てんぐんこうい)として、宮中の警備と兵の統括を担っていた、曹操孟徳(そうそうもうとく)である。

曹操は、配下の兵が持ってきた「行方不明者の名簿」と、彼らの部屋の検分録を見た瞬間、背筋に氷を当てられたような悪寒を覚えた。

 

(……部屋に争った形跡はない。暗殺ではない。それに、消えたのはすべて『東方の海路や防衛網』の情報を扱う部署の者たちばかりだ)

 

曹操の脳裏に、譙県の地下書庫で班稀(はんき)が語っていた言葉が蘇る。

 

『かの国は、中原のすべてを記録し、観察しております。彼らの諜報網は、すでに洛陽の泥沼の底にまで及んでいるでしょう』

 

「……逃げたな。あの化け物の懐へ」

 

曹操は、手にした竹簡をギリッと握り潰した。

日本は、漢の権力闘争を煽るわけでもなく、ただ静かに「漢が内側から自滅する」のを待っている。そして、この霊帝の死という最高のタイミングで、自国の手駒を回収すると同時に、漢の最新の防衛情報を根こそぎ持ち去ったのだ。

 

「殿、いかがなされましたか?」

 

傍らに控えていた腹心の夏侯淵(かこうえん)が、曹操の異様な気配に気づいて尋ねた。

 

「妙才(夏侯淵)。……すぐに袁紹(えんしょう)殿と大将軍の元へ行く。取り返しのつかない事態になる前に、目を覚まさせねばならん」

 

曹操は、何進と袁紹が軍議を開いている大将軍府へと馬を飛ばした。

大広間では、何進が額に脂汗を浮かべ、袁紹をはじめとする名門の士大夫たちが、いかにして十常侍を皆殺しにするかという陰惨な計画を熱っぽく語り合っていた。

曹操は広間の中央に進み出ると、周囲の殺気立った空気を無視して声を張り上げた。

 

「大将軍、並びに本初(袁紹)殿! 宦官との争いなど、直ちに手打ちになされよ! 今、この宮中から数名の宦官が『沿岸防衛の地図』を持って姿を消した。奴らが向かったのは東の海……すなわち、未知の超大国である『日本』だ!」

 

曹操の言葉に、大広間が水を打ったように静まり返った。

しかし次の瞬間、袁紹が呆れたような、そして蔑むようなため息を吐いた。

 

「またその話か、孟徳。東夷の島国がなんだと言うのだ。今、我らは次代の玉座にどなたを据えるかという、国家の存亡を懸けた軍議をしているのだぞ」

 

「これが国家の存亡に関わる話なのだ! 霊帝陛下の崩御に乗じ、海の向こうの化け物が確実に動き出している。内輪揉めをしている暇などない、直ちに東方の海岸線に防塁を築き、軍を差し向けねば、中原は海から呑み込まれるぞ!」

 

曹操の必死の進言は、しかし、権力という麻薬に完全に脳を侵された者たちには、一言も届かなかった。

 

「黙れ、曹操!」

 

何進が、太い腕を振り上げて怒鳴りつけた。

 

「貴様、祖父が宦官であったからと言って、我らの十常侍討伐の邪魔をする気か!? 逃げた下級の宦官など放っておけ。問題は、あの玉座の周りに巣食う張譲や趙忠ら、目障りな豚どもをどうやって切り刻むかだ!」

 

「本初殿、頼む、分かってくれ! 貴殿なら……!」

 

曹操が親友へとすがるような視線を向ける。しかし袁紹は、氷のように冷たい目で首を横に振った。

 

「孟徳。そなたのその妄言、これ以上は我が庇いきれぬぞ。……下がらんか」

 

戯言(たわごと)

 

誰もが、曹操の言葉をそう一蹴した。彼らにとって世界の中心はこの洛陽の宮廷のみであり、海の向こうに彼らを凌駕する相手が存在するなど、天地がひっくり返っても認められない事実であったのだ。

 

曹操は、怒りよりも深い絶望に包まれながら、無言で踵を返し、大将軍府を後にした。

 

その後、洛陽は奇妙な「淀み」の時期を迎えた。

少帝(しょうてい)が即位したものの、何進と十常侍の武力衝突は決定打に欠け、互いに宮廷内で睨み合う泥沼の冷戦状態が続いたのだ。

 

闘争が爆発する前の、息が詰まるような重い静寂。

その淀みの中で、痺れを切らした袁紹が、ついに「大漢帝国を完全に破壊する」致命的な一手を何進に提案した。

 

『この膠着状態を打破するためには、外の力が必要です。西涼(せいりょう)で強大な軍を率いる猛将・董卓(とうたく)を洛陽へ呼び寄せなさい。彼の武力をもって、十常侍を一網打尽にするのです』

 

その情報が曹操の耳に入った時、彼は自らの耳を疑った。

 

「……正気か? 袁本初は、狂ったのか?」

 

曹操は自室で、手元の竹簡を床に叩きつけた。

 

「宦官という家の中の鼠を追い出すために、野に放たれた飢えた狼を呼び寄せるだと!? 董卓の残虐さと野心を知らぬわけではあるまい。あのような無法者を帝都に入れれば、宦官どころか、漢王朝そのものが食い殺されるわ!」

 

曹操は幾度も翻意を促す書状を送ったが、何進も袁紹も聞く耳を持たなかった。

彼らは自分たちが名門であり、辺境の武将である董卓など意のままに操れると高を括っていたのである。

日本の冷徹なシステムを理解し、この洛陽の軍を丸ごと奪って対抗しようと目論んでいた曹操にとって、この展開は最悪であった。董卓が来れば、軍の指揮権はすべてあの野蛮な狼に奪われ、洛陽は灰燼(かいじん)に帰す。日本に対抗するどころか、中原は自らその寿命を何十年も縮めることになる。

 

その日の夕刻。

曹操は一人、洛陽の小高い城壁の上に立ち、沈みゆく夕日を見つめていた。

 

赤く染まる空の下、立ち並ぶ宮殿の瓦礫、不安に怯える民の住処、そして今まさに破滅へ向けて自ら扉を開けようとしている愚かな権力者たちの都。

曹操は、己の胸の奥底で、奇妙な感情が渦巻いていることに気がついた。

 

彼は冷徹なリアリストである。

沛国譙県で屯田の実験を進め、洛陽に戻ってきたのも、「いずれ日本と戦うための新しい国家を己の手で創る」ためであり、この腐りきった漢王朝など、とっくの昔に見限っていたはずであった。

 

利用価値がなくなったのなら、さっさとこの泥船を見捨てて、再び故郷へ逃げ帰ればいい。それが最も合理的で、彼らしい選択だ。

しかし、彼の足は洛陽の城壁から動こうとしなかった。

 

(なぜ、私はこれほどまでに腹を立てているのだ。なぜ、董卓が来ることにこれほどまでの焦燥と絶望を感じているのだ)

 

董卓が来れば、間違いなく漢室は終わる。

その事実に直面した時、曹操の胸を締め付けたのは、野望が潰えることへの怒りではなく、どうしようもない「喪失感」であった。

 

「……そうか」

 

曹操は、夕日の中で自嘲するように、短く息を吐いた。

彼は、自分が思っていた以上に、この中原の大地を、そして曲がりなりにも四百年続いた「漢」という巨大な歴史を愛していたのだ。

 

腐りきっている。愚か者ばかりだ。海の向こうのかの国から見れば、虫ケラのように非効率で滑稽な国だろう。

それでも。

 

それでも、ここには人間の泥臭い情があり、歴史があり、彼が生まれ育った中華の誇りがあった。

彼は、董卓が来る前のこの「淀み」の時間を、どこかで「まだ漢が復興できるかもしれない最後の機会」だと捉えていた自分自身に気がついてしまったのだ。

 

「……私は、この国が嫌いではなかったのだな」

 

曹操は、誰に聞かせるでもなく、心の中で静かに呟いた。

 

「だが、もう遅い。狼は放たれた。……ならば私は、この愛した大漢帝国がその狼に喰い殺される様を、最後まで特等席で見届けさせてもらおう。そして、狼の腹の中から『次代の覇権』をこの手で抉り出してみせる」

 

西暦一八九年、秋。

洛陽の空を不気味な赤が染め抜く中。

日本という見えざる脅威への防波堤となるはずだった大漢帝国は、董卓という名の致命的な破壊者をその懐へと迎え入れ、修復不可能な崩壊の歴史へと、凄まじい轟音を立てて転がり落ちていったのである。

 

 

中原の洛陽において、大漢帝国の権力者たちが血に塗れた暗闘を繰り広げ、誰もが「己こそが歴史の主役である」と信じて疑わなかったその頃。

 

彼らの目が全く届かない東の果て、朝鮮半島の南部において、歴史の根底を覆すほどの巨大な地殻変動が、一切の情け容赦なく引き起こされていた。

 

場所は、半島の南東部。史実(我々の知る歴史)であれば、のちに「新羅(しらぎ)」という強大な国家が興り、千年王国として半島を統一するための心臓部・慶州(けいしゅう)となるはずの地である。

 

しかし今、その未来の都のすぐ南、蔚山(うるさん)の荒涼たる麓において、新羅の祖となるべき国(斯盧国)の王、伐休尼師今(ばっきゅうにしきん)は、絶望的な防衛戦の只中に立たされていた。

 

彼の眼前に広がるのは、祖国の地を蹂躙せんと迫る日本の任那鎮守府より派遣された、五千の討伐軍である。

 

特筆すべきは、この五千という軍勢が、大和国の「本国軍」ですらないという事実であった。

彼らはあくまで、半島南部の兵站拠点を防衛・管理するための「鎮守将軍の手勢」に過ぎない。しかし、その地方守備隊でさえも、半島諸国からすれば、理解の範疇を超えた恐るべきで統率された軍団であった。

 

蔚山の麓、なだらかな丘陵地帯を挟んで、両軍は陣を敷いた。

秋の冷たい風が吹き抜ける中、伐休尼師今は自陣の中央から敵の陣容を睨み据えていた。

 

伐休(ばっきゅう)が率いるのは、祖国を守るために掻き集められた数千の軍勢である。

 

彼らの基本陣形は、当時の半島や大陸の小国における伝統的かつ標準的なものであった。

 

最前列には、木と獣皮で作られた盾を構える【槍兵】が並ぶ。

その背後には、青銅の矢尻を番えた【弩兵(いしゆみへい)】が控え最後尾には、伐休自身が率いる【騎馬本隊】と、その両翼を固める【騎馬隊】が機動力を活かすべく待機している。

 

彼らの瞳には、侵略者を故郷から追い出さんとする強烈な愛国心と、野性的な熱気が宿っていた。

 

対する日本軍・鎮守将軍の手勢五千は、全く異質な静寂に包まれていた。

 

怒号も、戦意を高揚させるための(とき)の声もない。ただ、金属が擦れる冷たい音と、風にはためく『白地に赤丸の軍旗(日章旗)』の音だけが響いている。

日本軍の陣形は、極限まで機能性を追求した層によって構成されていた。

 

最前列には、地面に突き立てて固定する巨大な【置き盾】の壁。

 

第二列には、精密な狙撃を行う【弩兵(一般的な矢を用いる部隊)】

 

第三列には、放物線を描いて盾の壁越しに敵の頭上から矢の雨を降らせるための長大な【和弓部隊】

 

さらにその和弓部隊の間には、台座に固定された巨大な兵器——青銅の機関部と強靭な木材を組み合わせた【石弓(大型弩)】が据え付けられている。これは矢ではなく、一貫(約三・七五キログラム)もの重さを持つ真円の「石弾」を撃ち出す、当時の常識を逸脱した古代の野戦砲である。

 

第四列には、敵の突撃を押し留めるための長大な【槍兵】の密集陣。

そして最後尾には、指揮官たる将軍の【本陣】を中央に置き、その左右を機動力に優れた【騎馬武者】が固めている。

 

そして本陣には『赤地に、黄金の模様(天皇旗)』それは、日本国において、ただ一人——【将軍】という絶対的な指揮権を持つ者のみに掲げることが許された、最高司令官の証明であり、誰の軍であるのかを謳った。

 

しかし、日本軍の最も恐るべき特質は、その「兵種」の豊富さではなく、軍隊の「構造」そのものにあった。

 

五千の軍勢は、一つの巨大な塊ではない。彼らは「五百人を一部隊とする、十個の独立した戦術単位」に分割されていたのである。 

 

この五百人の各部隊が、それぞれ前述の「盾・弩・弓・槍」の機能を完全に備えた一つの「小さな軍隊」として自己完結しており、大将の直接の命令を待たずとも、現場の指揮官の判断で独立して攻撃・防御を展開できる権限と訓練を与えられていた。

 

開戦の初動。伐休尼師今は、決して愚かな将ではない。

彼は正面から日本の陣形に突撃することが自殺行為であることを悟り、丘陵地帯の地形と深い森を利用した「遊撃戦」を仕掛けた。

 

数百の別働隊を森の斜面に迂回させ、日本軍の側面や背後、あるいは兵站線を奇襲する。地形を熟知している地の利を活かせば、大軍の統率を乱すことができるはずだ。

 

それが、伐休の計算であった。

 

「行け! 奴らの側面を突き崩し、陣形をズタズタに引き裂け!」

 

新羅の伏兵たちが森から飛び出し、雄叫びを上げて日本軍の右翼へと殺到した。

だが、伐休の目に映ったのは、想定していた「パニック」や「伝令が走り回る混乱」ではなかった。 

 

奇襲を受けた日本軍の右翼に位置する「五百人の部隊」は、全く動揺することなく、まるで一つの生き物のように瞬時に陣形を円形に組み替えた。最前列がサッと置き盾を並べて即席の要塞を構築し、間髪入れずに内側から弩の精密射撃を放つ。

 

新羅の奇襲部隊が盾の壁に阻まれて足を止めた瞬間、さらに絶望的な事態が起きた。

攻撃を受けた部隊の隣にいた「別の五百人の部隊」が、中央からの命令を待つことなく自律的に動き出し、奇襲部隊の背後へ向かって回り込み始めたのである。

 

「な、なんだあの動きは……!?」

 

伐休は、高台からその光景を見て息を呑んだ。

日本側は、半島諸国が地形を利用したゲリラ戦を得意としていることを、過去数十年の交易と間者の報告によって「完全にデータ化し、研究し尽くしていた」のだ。

 

一部隊が囮となって奇襲を受け止め、隣接する部隊が挟み撃ちにして殲滅する。全体が連動するのではなく、モジュール化された各部隊が現場の状況に応じてパズルのように陣形を変化させるため、ゲリラ戦の最大の武器である「指揮系統の分断」が全く意味を成さない。

 

「引け! 伏兵を戻せ、喰われるぞ!」

 

伐休の悲痛な銅鑼(どら)の音が響く。しかし、挟撃を受けた新羅の奇襲部隊は、逃げ道を塞がれ、和弓の雨と長槍の壁にすり潰されて消滅した。

地形の利という半島の誇りは、大和の戦型の前に完全に無効化されたのである。

 

小細工が通用しないと悟った伐休尼師今は、血を吐くような思いで全軍に「正面からの総力戦」を命じた。もはや、己の主力である槍兵と騎馬隊の突撃力で、敵の陣形を物理的に粉砕するしか道は残されていなかった。

 

「進め! 恐れるな、我らが死せば斯盧の未来は潰えるのだ!」

 

ドスドスという重い足音を響かせ、新羅の槍盾兵が丘を下り、日本軍の正面へと迫る。彼らの背後からは、援護の弩兵たちが一斉に青銅の矢を放った。

 

しかし、新羅の放った矢の多くは、日本軍の最前列に隙間なく並べられた「置き盾」の分厚い木板に突き刺さり、空しく弾き返されるばかりであった。

 

距離が縮まる。

 

日本軍の陣地から、笛の音が鋭く鳴り響いた。

その瞬間、日本軍の第二列の弩兵たちが置き盾の隙間から一斉に水平射撃を行い、新羅の前衛を次々と貫いた。

だが、真の恐怖はその後方からやってきた。

 

放て(はなて)!!」

 

ドォォン!! という、弓弦が弾けたとは到底思えない、腹の底を揺らすような重低音が日本軍の陣地から響き渡った。

 

それは、第三列に据え付けられた【石弓(大型弩)】から放たれた、一貫(三・七五キロ)の重さを持つ石弾の豪雨であった。

青銅の巨大なバネと太い麻縄の張力によって極限まで加速された石弾は、目にも止まらぬ速度で空気を引き裂き、新羅の槍盾兵の密集陣のど真ん中へ着弾した。

 

「ガァアアッ!?」

 

「ひ、ひぃぃっ!!」

 

凄惨な破壊音が戦場に響いた。

一貫の石弾は、新羅兵が構えていた木と皮の盾などティッシュペーパーのように粉砕し、盾を持っていた兵士の腕を根元から千切り飛ばし、その後ろにいた数名の兵士の胴体をもボウリングのピンのように砕きながら、真っ赤な肉塊の道を作って転がっていった。

 

矢であれば、刺さって死ぬだけだ。しかし石弾は違う。物理的な「質量」による圧倒的な破壊エネルギーは、人間の肉体はおろか、周囲の兵士たちの「戦意」をも根本から粉砕する。

顔の半分を吹き飛ばされて痙攣する仲間、原型を留めないほどに潰された死体。

 

「なんだ、あれは……! 神の怒りか、悪魔の投石か!?」

 

「逃げろ! 盾が役に立たない!!」

 

新羅の前衛は、石弾のたった数回の斉射で完全にパニックに陥り、陣形は瓦解し始めた。

 

その混乱に追い討ちをかけるように、後方に控えていた日本の【和弓部隊】が、一斉に天に向かって矢を放った。放物線を描いて空を覆い尽くした矢の雨が、陣形を崩して逃げ惑う新羅の弩兵や槍兵たちの頭上へ、容赦なく降り注ぐ。

水平からの貫通力を持つ石弓の砲撃と、上空から降り注ぐ和弓の雨。

 

完璧に計算された「二次元の殺戮」の中で、新羅の歩兵部隊はまたたく間に血の海に沈んでいった。

 

「おのれ……! おのれぇぇっ!!」

 

味方の無惨な死を目の当たりにし、伐休尼師今は両目から血の涙を流さんばかりに激怒した。

歩兵が崩壊した今、残されたのは己が率いる騎馬本隊のみである。 

 

「我に続け! 飛び道具など恐れるな、馬の機動力で一気に本陣を抜く!」

 

伐休は自ら剣を抜き放ち、残存するすべての騎馬隊を率いて、死体を踏み越えながら日本軍の中央へ向けて決死の突撃を敢行した。

 

日本の飛び道具の装填の隙を突き、最短距離で敵将の首を狙う。それは戦術というよりも、滅びゆく王の悲壮な特攻であった。

新羅の騎馬隊が、土煙を上げて日本軍の置き盾の壁に肉薄する。

だが、五百人の日本軍は、ここでも機械のような無機質さで対応した。

 

置き盾を支えていた兵士たちがサッと左右に道を開ける。すると、その直後から現れたのは、第三列にいたはずの【槍兵】の強固な密集陣であった。彼らは長い柄を持つ槍の石突を地面に固定し、穂先を斜め前方に突き出した「対騎兵の槍襖」を瞬時に形成していた。

 

「突破しろ!!」

 

ドゴォォン!!

新羅の騎馬が槍の壁に激突する。馬の悲鳴が上がり、最前列の騎兵たちが串刺しになって次々と宙を舞った。

それでも伐休たちは狂乱のままに槍の壁を強引にこじ開け、ついに日本軍の中央深くまで抉り込んだ。

 

「見えたぞ! 敵将の首だ!」

 

伐休の視線の先、本陣を示す軍旗の下に、馬に跨り、氷のように冷たい目で戦場を見下ろす任那鎮守将軍・木理扶明の姿があった。

伐休は血まみれの剣を振り上げ、木理へ向けて一気に馬を駆けさせようとした。

しかし。

彼が敵将まであと数十歩の距離に迫ったその時、左右の視界の端から、地鳴りのような轟音が迫ってくるのに気づいた。

 

「——かかれ」

 

木理の静かな、しかしよく通る号令が下された。

本陣の左右に温存されていた日本の【騎馬武者】たちが、完璧なタイミングで両翼から楔を打ち込むように、新羅の騎馬本隊の脇腹へと突撃してきたのである。

 

「しまっ……!?」

 

正面には長槍の壁。左右からは新鮮な日本の騎馬隊による強烈な挟撃。

完全に動きを封じられた新羅の騎馬隊は、まさにまな板の上の鯉であった。日本の騎馬武者たちは、馬上から規格化された長剣や槍を無表情に振り下ろし、疲れ果てた新羅の兵士たちを次々と屠っていく。

 

もはや、戦いと呼べるようなものではなかった。

 

それは、工業製品をラインで解体していくような、極めて事務的で冷徹な「処理」の光景であった。

伐休の周囲を固めていた近衛の騎兵たちが、一人、また一人と物言わぬ骸へと変わっていく。

彼らの死に顔には、戦いに敗れた無念さよりも、自分たちを殺した相手が「最後まで一切の熱も怒りも持たなかった」ことに対する、底知れぬ恐怖が刻まれていた。

 

「……これまでか」

 

血まみれになり、乗馬も傷ついて膝を折った伐休尼師今は、力なく剣を取り落とした。

彼の周囲は、完全に日本の騎馬武者たちに取り囲まれている。彼らは無駄な罵声を浴びせることもなく、ただ槍の切っ先を王の喉元へ正確に突きつけていた。

伐休は、馬を進めてきた日本の将軍・木理扶明を見上げた。

 

「……何故だ」

 

伐休は、掠れた声で問うた。

 

「お前たちには、我らを憎む理由も、恨みもないはずだ。だというのに、なぜこれほどまでに冷酷に……我が国をすり潰すことができるのだ」

 

木理は、感情の読み取れない澄んだ瞳で伐休を見下ろし、淡々と答えた。

 

「憎悪や情念で戦を行うのは、獣のすることだ。我らはただ、大和の『理』をこの半島に広げるための土台を(なら)しているに過ぎぬ。……お前たちの存在は、我らの算盤の上では、排除すべき『誤差』であった。ただそれだけのことだ」

 

その冷たすぎる宣告を聞いた瞬間、伐休の心の中で、何かが決定的に砕け散った。

彼らが敗れたのは、強大な武力ではない。人間の感情や歴史の重みなど一切考慮しない、日本という国に敗れたのだ。

 

「……斯盧の未来が……我が国が……こんな、熱を持たぬ者たちによって……」

 

絶望の呟きが、蔚山の風に溶けて消える。

次の瞬間、木理の無言の合図により、数本の槍が一切の躊躇いなく伐休尼師今の体を貫いた。

 

蔚山の戦場跡には、勝鬨の喧騒も、戦利品を奪い合う野蛮な略奪の光景も一切存在しなかった。

あるのはただ、逃げ散った斯盧の残党を無感情に刈り取っていく歩兵たちの規則正しい足音と、回収した無傷の青銅武器や鉄器を荷車へと仕分けしていく、徹底的に規格化された事後処理の冷たい作業音だけであった。

 

丘の頂きに設営された日本軍の本陣。

風避けの幕が張られた広々とした陣屋の中では、任那鎮守将が、卓上の広大な地図と算木を前に、次なる進軍経路と残党狩りの配置を計算し続けていた。周囲には、各部隊の指揮官たちが静かに控え、次なる命令が下されるのを待っている。

 

「いやはや、見事な采配でしたな、将軍。我らの『目』も、存分に働いた甲斐があったというものです」

 

張り詰めた静寂の中、どこか飄々とした、戦場の血生臭さとは無縁の気さくな声が響いた。

声の主は、陣の入り口から歩み寄ってきた一人の男である。

 

彼の名は、丸子烏見鯨(わにこからすみのくじら)

 

古くから大和国の情報伝達と測量を裏から支えてきた「丸子(わにこ)の一族」に生まれ、戦場において上空からの偵察と地形把握を専門とする【烏見(からすみ)】という特殊な役職に就く男であった。

 

鯨の両腕には、分厚い革の小手(こて)がはめられており、その左右の腕に一羽ずつ、艶やかな漆黒の羽を持った巨大な烏が留まっていた。

 

「くぁぁっ、くルル……」

 

烏たちは、主である鯨の顔を見るなり、猛禽類特有の鋭い嘴を甘えるように彼の頬へスリスリと擦り付けた。鯨もまた、細めた目で烏の喉元を優しく撫でてやる。この大和の無慈悲な秩序で構築されたこの陣屋の中で、彼と烏たちの間にだけは、血の通った柔らかな親愛の情が溢れていた。

 

木理扶明は算木から目を離し、鯨とその腕の烏に静かな視線を向けた。

 

「烏見よ。お前たちの『空からの俯瞰』がなければ、敵の伏兵をあれほど正確に挟撃することはできなかった。見事な働きであった」

 

「勿体なきお言葉。こいつらも、干し肉の褒美が弾むと喜んでおりますよ」

 

鯨が腕を軽く振ると、烏たちはバサリと翼を広げた。

その瞬間、烏の翼の裏側に、黒地にくっきりと浮かび上がる「白い丸模様」が現れた。

 

大和国の烏見たちが使役する烏は、長年にわたる交配と選別によって生み出された特殊な軍用種である。上空を飛翔している際、地上にいる味方から「大和の軍烏」であることを即座に目視確認できるよう、この明確な白い標識が遺伝的に刻み込まれているのだ。

 

そして、彼らの足元。

烏の二本の脚のすぐ横には、頑丈な麻紐で結わえられた、黒く塗られた細長い竹あるいは獣骨の筒がぶら下がっていた。

通信用の暗号文を入れる伝令筒であり、同時にその烏の所属と個体番号を示す認識票である。遠目から見れば、この筒がまるで「もう一本の脚」のように見える。

 

——後世の中原や日本の神話において、「太陽の使い」あるいは「勝利を導く神鳥」として語り継がれる『八咫烏(やたがらす)の三本足』の伝承。その正体は、大和の高度な情報戦を支えた、この軍用烏たちの「認識タグ」の姿が神格化されたものであった。

 

「しかし、何度見ても神業(かみわざ)だな」

 

傍らに控えていた将軍の一人が、感嘆の息を漏らした。

 

「言葉の通じぬ鳥畜生が、空から敵の配置を読み取り、我らに知らせてくるとは」

 

「鳥畜生とはご挨拶ですな。こいつらは、下手な斥候よりも遥かに賢い『空の(つわもの)』ですよ」

 

鯨は苦笑しながら、卓上の地図の端に烏たちを降ろした。

蔚山の開戦前。

この烏たちは、空高く放たれ、戦場全体を円を描くように飛翔していた。

 

上空数百尺の高度から、彼らの驚異的な視力は、森の中に潜む新羅の伏兵の数、地形の起伏、そして敵本陣の位置を正確に「視覚情報」として記憶する。

 

そして本陣へと舞い戻ってきた烏たちは、自らの嘴で、用意されていた白と黒の碁石を咥え、陣屋に広げられた縮尺図の上へと次々に落としていったのである。

 

森の斜面に黒い石が三つ。右翼の谷間に二つ。

それは、上空から見た敵の部隊の配置を、そのまま二次元の地図上にプロットする行為であった。烏見の一族は、幼鳥の頃から盤上の図形と実際の地形をリンクさせる高度な訓練を施し、正しく石を置けば餌を与えるという条件付けを何世代にもわたって繰り返すことで、この「生体レーダーシステム」を完成させていたのである。

 

「彼らの目は、欺けない」

 

木理は、地図の上に置かれた石の配置を見つめながら言った。

 

「敵将の伐休は、地の利を活かした奇襲を仕掛けたつもりであったのだろう。だが、上空からすべてを見下ろされている状態では、森の木々も地形の起伏も、何ら隠れ蓑にはならぬ。我らは敵がどこから来るかを知った上で、ただ盾を並べて待てばよかったのだからな」

 

大和国の五百人を基本単位とするモジュール部隊が、異常なまでの柔軟さで敵の奇襲を返り討ちにできた最大の理由は、この「烏見によるリアルタイムの航空偵察」が完全に機能していたからであった。

 

情報の非対称性。敵の姿はすべて見えているが、敵からはこちらの全容が見えない。この圧倒的な優位こそが、大和の「算盤」を戦場で完璧に機能させるための絶対条件であった。

 

「それにしても、将軍」

 

鯨は、烏の嘴に上質な干し肉を含ませながら、少し不思議そうに首を傾げた。

 

「我が大和の理は、情や不要な繋がりを排し、すべてを無機質に動かすこと。ですが……我ら烏見と、この烏たちとの間にあるのは、計算では割り切れぬ『情愛』です。こいつらは、私が心から愛し、信じているからこそ、命がけで空を飛び、必ず私の腕へと帰ってくる。……これは、大和の理に反する不純物ではないのですか?」

 

鯨の問いは、システムの根幹に関わる鋭いものであった。

木理は算木を一つ手に取り、静かに首を振った。

 

「否だ。烏見鯨よ」

 

木理の冷徹な瞳が、鯨と烏の深い絆を、全く否定することなく見つめ返した。

 

「情愛や信頼そのものが悪なのではない。それを『戦術の決断』や『国家の運営』の基盤に置き換えてしまうことが、破滅を招くのだ。……お前と烏の間に強固な信頼(絆)があるからこそ、烏は正確な観測情報を持ち帰り、我が軍のシステム(理)は狂いなく稼働する」

 

木理は、算木を地図上の「蔚山のさらに北」へとパチンと置いた。

 

「お前たちのその温かな絆は、大和国にとって極めて有用な『機能』だ。存分に烏を愛し、撫でてやれ。……そして、次の戦場でも、私に最も冷酷で正確な盤面を見せてくれ」

 

「……御意」

 

鯨は深く一礼すると、二羽の三本足の神鳥を再び両腕に乗せ、陣屋の出口へと向かった。

 

(さて、残党どもがどの谷へ逃げ込んだか……上空からたっぷりと『観測』してやるとしよう)

 

空には、翼に白い丸模様を輝かせた巨大な烏たちが飛び立ち、逃げ惑う新羅の残党たちの頭上を、死神のような正確さで旋回し始めていた。大和の圧倒的な侵略の歯車は、空からの視座という「神の目」を手放すことなく、さらに半島を北上していくのであった。

 

 

 

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