四國志   作:丸亀導師

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凶兆 4

 

西暦一八九年、秋。

 

大漢帝国の帝都・洛陽(らくよう)は、かつて世界の中心として栄華を誇った壮麗なる姿を完全に喪失し、阿鼻叫喚の地獄絵図と化していた。

 

涼州(りょうしゅう)の荒野から、砂埃と共に数十万の野蛮なる軍勢を引き連れて入京した男。

 

西涼の軍閥董卓仲穎(とうたくちゅうえい)である。

何進(かしん)十常侍(じゅうじょうじ)の共倒れという、洛陽の権力者たちが自ら引き起こした権力の真空地帯。そこに、圧倒的な軍事力という「暴力の絶対法則」を引っ提げて現れた董卓は、少帝を廃して献帝(けんてい)を擁立し、自らは相国(しょうこく)という人臣を極める最高位に就いた。

 

しかし、彼が洛陽にもたらしたものは、帝国の再建などでは断じてなかった。それは、純粋な破壊と略奪、そして底なしの欲望の解放であった。

 

「探せ! 金目のものはすべて掻き集めろ! 逆らう家は火を放ち、女は陣へ引きずっていけ!」

 

西涼の騎兵たちが、洛陽の大路を我が物顔で闊歩する。

彼らは長年、異民族との血みどろの抗争に明け暮れてきた荒くれ者たちである。洛陽の豪奢な宮殿や、名門貴族の邸宅に蓄えられた莫大な富は、彼らにとって喉から手が出るほど欲しい「餌」に過ぎなかった。

 

数百年にわたり漢の屋台骨を支えてきた名家や高官の邸宅の門が、無残に打ち破られる。悲鳴が響き、絹の衣が引き裂かれ、伝来の宝物や貴重な書簡が、文字すら読めぬ西涼兵たちの泥に塗れた軍靴によって踏みにじられていく。

 

逆らう者はその場で首を刎ねられ、洛陽の街路には常に血の匂いと、屋敷が焼け落ちる焦げ臭い煙が立ち込めていた。

帝都の法は死に絶え、朝廷の威厳は完全に地に堕ちた。

 

董卓という一人の魔王の暴力の前に、名門の士大夫たちも、残存する官僚たちも、ただ震え上がり、媚びへつらうことしかできなかった。

 

その絶望的な狂乱の渦中にあって、己の感情を完全に殺し、沈黙を保ち続けている一人の男がいた。

新たに驍騎校尉(ぎょうきこうい)に任じられた、曹操孟徳である。

 

曹操は当初、董卓の圧倒的な軍事力を前に、渋々と、しかし極めて計算ずくで従う姿勢を見せていた。

 

かつて彼は「董卓という猛獣を飼い慣らすことなど不可能だ」と袁紹(えんしょう)に警告したが、事態がここまで進行してしまった以上、正面から反発して無駄死にすることは避けたのだ。彼は董卓の懐に潜り込み、その軍の編成、兵站、そして西涼兵の気質を、まるで解剖学者のような冷徹な眼差しで観察し続けていた。

 

(……見事なまでの暴力だ。だが、それだけだ。董卓には『理』がない)

 

曹操は、血と泥に塗れた洛陽の街を馬で進みながら、内心で冷酷な評価を下していた。

 

董卓の軍勢は確かに強い。個々の兵の武勇は中原のそれを凌駕している。しかし、彼らの行動原理は「略奪」というその日暮らしの欲望のみに支えられていた。

 

略奪によって得た富を再分配することで兵士を繋ぎ止めるという原始的な行い。

 

それは、土地を耕し、資源を管理し、継続的な兵站を構築するという「国家の運営」とは対極にある、ただの「食い潰し」である。

 

曹操が最も重く受け止め、怒りすら覚えたのは、董卓が「漢王朝という国家」そのものを、修復不可能なまでに物理的に破壊し始めているという事実であった。

 

(名家の蔵を焼き、職人を殺し、農地を荒らす。……この豚は分かっていない。この中原の富と人口は、いずれ東の海からやってくる『化け物』を迎え撃つために、私が一つ残らず統合し、利用しなければならない資源なのだぞ)

 

譙県(しょうけん)の地下書庫で、班稀(はんき)が書き記した大和国の完璧な工廠や兵站の記録を思い出す。

日本が、数百万の民を一つの精密な歯車として組み上げ、国力を高めているまさにこの時。中原では、董卓という害獣が、対抗するための貴重な資源をただの享楽のためにドブに捨てている。

 

これ以上、董卓の暴政を黙って見ていれば、漢の国力は日本の侵略を待つまでもなく完全に枯渇する。

曹操はついに、潜伏の暗闇から刃を抜く決断を下した。

その夜。

曹操の自室の奥深くで、筆が和紙の上を激しい速度で走っていた。

 

それは、皇帝の密詔(偽造ではあったが、大義名分としては十分なもの)を掲げ、天下の諸侯に向けて放つ、董卓討伐の「檄文(げきぶん)」であった。

 

「……董卓は天子を蔑ろにし、国を焼き、民を惨殺する逆賊である。大漢の忠臣たちよ、今こそ義兵を挙げ、洛陽の魔王を討ち果たせ」

 

曹操は書き上げた檄文を何十枚も複製し、密かに集めた信頼に足る使者たちに託した。

 

「この書状を、渤海(ぼっかい)に逃れた袁本初(袁紹)殿をはじめ、兗州(えんしゅう)徐州(じょしゅう)、荊州《けいしゅう》の各州牧(しゅうぼく)刺史(しし)の元へ届けよ。……誰にも見つかるな。これは、天下を再びひっくり返すための火種だ」

 

「はっ!」

 

闇に紛れ、使者たちが四方八方へと散っていく。

董卓を直接暗殺するという小さな賭けではない。天下の大乱という巨大な坩堝(るつぼ)の中に、大漢帝国の残存戦力のすべてを放り込み、董卓をすり潰すという巨大な劇薬の投下。

反董卓連合の結成に向けた、曹操の最初の、そして決定的な一手であった。

 

 

曹操が天下を揺るがす火種を蒔いていた頃。

洛陽の喧騒から遠く離れた、凍てつく北東の辺境——遼東(りょうとう)の地にも、董卓の権力によって新たな支配者が送り込まれていた。

 

その男の名は、公孫度(こうそんど)(あざな)昇済(しょうさい)

 

董卓によって遼東太守に任命された彼は、数千の兵を率いて遼東の中心都市である襄平(じょうへい)へと入城を果たした。

吹き荒れる冷たい風の中、分厚い毛皮の外套に身を包んだ公孫度は、城壁の上からどこまでも広がる荒涼たる大地を見下ろしていた。

 

洛陽の豚(董卓)は、私をこの僻地に追いやって恩を着せたつもりだろうが……笑止なことよ」

 

公孫度は、野心に満ちた瞳を細め、冷たく笑った。

彼は生粋の辺境の人間である。中原の士大夫たちが重んじる儒教の道徳や名誉などよりも、力と権謀術数がすべてを支配するこの地の掟を誰よりも熟知していた。

 

彼にとって、洛陽が董卓の暴政によって大混乱に陥っている現状は、まさに「天の配剤」に他ならなかった。中央の権力が辺境まで及ばない今、この遼東と、さらに東の楽浪郡(らくろうぐん)玄菟郡(げんとぐん)を完全に支配下に置けば、誰にも干渉されない「自分だけの独立王国」を築き上げることができる。

入城した公孫度が最初に行ったのは、徹底的な「恐怖による地盤固め」であった。

 

彼は着任するや否や、遼東で長年権力を握っていた名家や、かつて自分を冷遇した豪族たちを些細な罪を着せて次々と捕縛し、一族もろとも市中で斬首した。その数、百余家。血の雨を降らせることで、遼東の民と役人たちに「この地の新たな絶対者は公孫度である」という事実を、骨の髄まで叩き込んだのである。

 

足元を完全に固めた公孫度は、次に外へと目を向けた。

北には強大な騎馬民族である烏桓(うがん)鮮卑(せんぴ)。東には、鴨緑江(おうりょくこう)流域で不気味に勢力を拡大しつつある高句麗(こうくり)

 

そして、さらに南——かつて漢が設置した楽浪郡の南に広がる、馬韓(ばかん)辰韓(しんかん)弁韓(べんかん)といった半島南部の情勢である。

 

「周辺の異民族どもの動向を徹底的に探れ。特に、南の半島諸国の動きだ。高句麗が南下を企てているという噂もある。我らが背後を突かれぬよう、正確な情報を集めよ」

 

公孫度の命令により、数多くの斥候や間者が、密かに鴨緑江を越え、半島の奥深くへと潜入していった。

 

それから暫くの日々が過ぎた。

遼東の厳しい冬が近づき、襄平の城壁にも霜が降り始めたある夜のこと。

公孫度の執務室に、半島南部への探りを入れていた間者の一人が、半死半生の状態で転がり込んできた。彼は長期間の逃避行と極度の疲労、そして何より「底知れぬ恐怖」によって、顔面を蒼白に引き攣らせていた。

 

「太守様……! 南で……半島のはるか南で、異常事態が起きております……!」

 

間者は、震える唇から必死に言葉を絞り出した。

公孫度は眉をひそめ、玉座から身を乗り出した。

 

「高句麗が動いたか? それとも、馬韓や辰韓の蛮族どもが同盟でも結んだというのか」

 

「違います! 高句麗でも、半島の蛮族でもありません! あれは……全く見たこともない、得体の知れない大軍勢です!」

 

間者の報告は、公孫度の予測を完全に裏切る、極めて不可解で不気味な内容であった。

間者が潜入したのは、辰韓や弁韓が存在するはずの半島南東部(慶州から蔚山周辺)である。しかし、彼がそこで見たものは、小国同士の小競り合いや、蛮族の集落などではなかった。

 

「大地が……切り取られておりました」

 

「大地が切り取られるだと? 意味が分からん、はっきりと申せ!」

 

「文字通りでございます。山は切り崩され、川は真っ直ぐに引き直され、見渡す限りの巨大な石垣と、真っ平らな道が築かれておりました。そこには、辰韓の王族も民の姿もなく、ただ、無言で土を運び、鉄を打つ、蟻の群れのような軍隊の野営地が広がっていたのです」

 

間者の声が、恐怖に裏返った。

中原の軍隊の野営地といえば、雑然とした天幕が並び、馬のいななきや兵士たちの怒号、焚き火の煙が絶えないのが常である。

しかし、間者が見たその陣地は、異常なまでに「静か」であり、そして恐ろしいほどに「規格化」されていたという。

 

「……その軍勢の素性は分かったのか。どのような旗を掲げていた?」

 

公孫度は、背筋に冷たい汗が伝うのを感じながら問うた。

 

「旗……。はい、(おびただ)しい数の軍旗が、海岸線から内陸に向けて、文字通り『森のように』林立しておりました」

 

間者は、目に焼き付いたその鮮烈な色彩を思い出すように、空を仰いだ。

 

「半島を埋め尽くすほどの部隊や、港を埋め尽くす巨大な軍船が掲げていたのは……すべて『白地に、血のような赤い模様』が描かれた軍旗でございました。一切の文字も、武将の名を示す意匠もありません。ただ、無数の白と赤の旗だけが、統率された部隊の頭上で、不気味に揺らめいておりました」

 

中原の軍旗といえば、青、黄、赤、黒など様々な色が使われ、そこに「曹」や「董」といった将軍の姓が大きく染め抜かれるのが常識である。

 

しかし、その未知の軍勢は、個人の名を誇示することを完全に放棄し、ただ「同一の規格」である白と赤の旗を、数万の兵と数百の船に統一して掲げていたのだ。

 

「そして……」

 

間者はゴクリと唾を呑み込んだ。

 

「その白と赤の海のさらに奥深く。遥か後方に築かれた、山の如き巨大な本陣の楼閣にだけは、全く異なる旗が翻っておりました」

 

「何色だ?」

 

「『赤地に、黄金の模様』が描かれた、巨大な旗でございます」

 

それは、日本国において、ただ一人——【将軍】という絶対的な指揮権を持つ者のみに掲げることが許された、最高司令官の証明であった。

 

間者は、その赤と金の旗の下に誰がいるのか、顔を見ることはおろか、近づくことすらできなかった。ただ、その旗が存在するというだけで、白と赤の無数の軍隊が、まるで一つの生き物のように寸分の狂いもなく動いているという事実だけが、遠目にもはっきりと理解できたのである。

 

「赤地に、金の旗……。白地に、赤の旗……」

 

公孫度は、間者の報告を反芻しながら、執務室の冷たい床を見つめた。

それは、歴史上、中原のいかなる記録にも存在しない軍隊であった。

 

言葉の通じない野蛮な夷狄(いてき)であれば、まだ対処のしようがある。武力で叩き潰すか、財宝で手懐ければよいのだから。

しかし、間者が語ったのは「完全な規格」と「異様なまでの規律」を持った、中原の軍隊ように確かに高度な存在であった。

 

「……彼らは、南から這い上がってきているのだな」

 

「はい。半島の南端を完全に飲み込み、今もなお、石垣と道を北へ北へと伸ばし続けております。このままでは、数年のうちに楽浪郡の国境にまで到達するかと……!」

 

公孫度は、重い沈黙に沈んだ。

彼の頭の片隅に、かつて洛陽で耳にした「東の海の彼方には、大漢を凌駕する巨大な島国がある」という、ただの法螺話だと思っていた噂が、不気味な現実味を帯びて蘇ってきた。

 

(洛陽で董卓が暴れ回り、中原の馬鹿どもが血を流して玉座を奪い合っている間に。……東の海から、音もなく『何か』が半島を侵食してきているというのか)

 

公孫度昇済は、己の独立王国を築くという野心の前に、想定外の、そして全く底の知れない巨大な「壁」が立ちはだかろうとしていることを直感した。

 

「赤と金の旗、そして白と赤の無数の陣……」

 

遼東太守・公孫度は、間者からもたらされた未知の軍勢の報告を反芻し、深く息を吐き出した。

 

辺境の地で独立の野心を抱く彼にとって、半島南部でのこの異様な動きは決して無視できるものではなかった。間者の言葉から推測するに、その軍勢は決して野蛮な賊などではない。かつて大漢帝国が全盛を誇った時代の、統率の取れた中央軍を彷彿とさせる、いや、それ以上の厳格な規律を保っているように思えた。

 

「……相手の規模と正体を見誤ってはならん」

 

公孫度は、冷たい石造りの床を歩きながら呟いた。

洛陽の董卓のように、己の力を過信して暴れ回れば、いずれ足元をすくわれる。この北東の辺境で生き残るためには、相手が何者であり、どれほどの力を持ち、そして「どこまでを領土とするつもりなのか」を正確に測らねばならなかった。

 

「すぐに使者を立てよ」

 

公孫度は、傍らに控える腹心の文官に命じた。

 

「漢の遼東太守・公孫度の名をもって、その未知の軍勢の『将軍』とやらへ親書を送る。我らは敵対する意志はないこと、そして彼らが何処から来たりて、半島の何処までを欲しているのかを丁重に問え」

 

「はっ。しかし、言葉が通じるでしょうか?」

 

「陣の張り方からして、高度な知識を持つ集団だ。漢の文字くらいは理解できよう。……よいか、決して傲慢な態度はとらせるな。相手は未知の巨大な存在だ。出方を見誤れば、我々が呑み込まれるぞ」

 

公孫度の命令により、数名の使節団が組まれ、凍てつく遼東の地から半島を南下していった。

彼らは、未知の軍旗がはためく最前線を目指し、息を潜めながら進んでいく。それが、日本の絶対的な「理」と、中原の「勢力」が初めて公式に接触する、極めて危険な外交戦の幕開けとなることを、公孫度はまだ知る由もなかった。

 

公孫度が北東の辺境で未知の勢力に警戒を強めていた頃。

中原の南、長江の下流域に位置する長沙(ちょうさ)の地では、一人の男が激しい怒りと共に立ち上がっていた。

 

「逆賊・董卓を討つ! 我に続けェェッ!!」

 

怒号と共に軍旗を振りかざしたのは、長沙太守の孫堅文台(そんけんぶんだい)である。

彼はかつて洛陽で「董卓を斬るべし」と進言しながらも容れられず、深い鬱屈を抱えたまま、この南の地で黄巾の残党や反乱軍の討伐に明け暮れていた。

 

そこへ、曹操が放った「董卓討伐の檄文(げきぶん)」が飛び込んできたのである。

 

霊帝の死、少帝の廃位、そして洛陽の炎上。董卓の暴虐の限りを尽くす振る舞いを聞き、孫堅の内に眠っていた猛虎の血が、凄まじい勢いで沸騰した。

 

「洛陽の文官どもが怯えて身をすくめようとも、この孫文台の牙は折れてはおらん! 帝都を穢す西涼の豚め、我が手で必ずその喉笛を食い破ってくれるわ!」

 

孫堅の決断は、疾風迅雷の如くであった。

彼は檄文に応じるや否や、直ちに数万の精鋭をまとめ上げ、長沙から北へと軍を進めた。

 

彼の行軍は、反董卓連合に参加する他の諸侯たちとは一線を画す苛烈さを持っていた。途上において、董卓に(おもね)る者や、兵站に協力しない荊州の役人たちを次々と軍律にかけて処断し、自軍の糧食と士気を強制的に引き上げながら、真っ直ぐに洛陽を目指したのである。

 

「殿、凄まじい行軍の速さです。このままでは、我らが諸侯の先陣を切ることになりましょう」

 

腹心の程普(ていふ)が、馬上から声をかけた。

 

「構わん! 袁紹や他の腰抜けどもが到着するのを待つ必要はない。戦は先手必勝だ!」

 

孫堅は、風を切って愛馬を駆りながら叫んだ。

彼には、洛陽の酒場で聞いた「東夷の島国」という見えざる脅威の記憶が、未だ脳裏の片隅にへばりついていた。

 

もし本当に、海の向こうに強大な国が存在するのなら。こんな中原の泥沼で、いつまでも内輪揉めをしている暇はないのだ。董卓という目先の病魔を一刻も早く切り裂き、漢の武威を再び一つにまとめ上げなければならない。

 

(待っていろ、董卓! そして……東の海の影よ! この孫文台が、貴様らの思い通りにはさせぬ!)

 

 

北東の冷たい辺境で公孫度の使者が未知の軍勢へと歩を進める中、中原の南からは、孫堅という名の最も熱く、最も危険な刃が、洛陽の董卓の首を狙って一直線に突き進んでいた。

 

 

大漢帝国の心臓部たる洛陽で、董卓の暴政という巨大な嵐が吹き荒れ、各地の諸侯が血眼になって軍兵を集めていたその頃。

中原の中心に位置する潁川(えいせん)郡・陽翟(ようてき)の街角にある、ひどく土埃にまみれた粗野な旗亭(きてい・酒場)の片隅で、一人の若い男が気怠げに酒を煽っていた。

男の名は、郭嘉(かくか)(あざな)奉孝(ほうこう)のちに曹操の覇業をその神算鬼謀で支え、「天下の奇才」と謳われることになる男である。

 

この時期の郭嘉は、洛陽の朝廷から受けた司徒(しと)の府への招き、あるいは司徒そのものの職を自らあっさりと辞して、故郷の潁川へと返っていた。

 

権力闘争に明け暮れる宮廷の有様に早々と見切りをつけた彼は、表舞台から完全に姿を消し、隠遁暮らしを送っている。時折、名門である潁川郭氏の一族の者たちが持ち込む「どの群雄に仕えるべきか」といった相談事に対し、辛辣で的確な人物評論を行ってやる以外は、こうして昼間から安酒を飲み歩くような自堕落な日々を過ごしていた。

 

「おのれ董卓め、洛陽の絹職人を皆殺しにしおって! おかげで、少し見栄えのする絹は、昨年の三倍の値段に跳ね上がりおったわ!」

 

「絹なんぞどうでもいい! それより隣の家の犬が夜通し吠えて煩くてかなわん。あれは絶対に凶兆だ、洛陽の戦火がこの街にも燃え移るに違いない!」

 

旗亭の中には、市井の人々の生活の匂いと、愚痴と、中身のない喧騒が満ちていた。

郭嘉は、彼らの会話に直接相槌を打つことはない。しかし、その切れ長でどこか冷めた双眸は、半ば閉じられながらも、周囲の言葉の端々を極めて精緻な網のようにすくい取っていた。

 

(……絹が高い、か。無理もない。董卓が洛陽を物理的に破壊したことで、中原の『流通の心臓』が止まった。各地の群雄が道を封鎖すれば、物価はさらに狂うだろうな)

 

郭嘉は、盃の縁を指でなぞりながら、頭の中で大陸の地図と物資の流れを俯瞰していた。

洛陽の諸侯たちが「誰が玉座に座るか」という権力ゲームに酔いしれている中、郭嘉の興味は常に「人間がどう動くか」と「物がどう流れるか」という、極めて合理的で冷徹な現実に向けられていた。

 

「……おい、亭主」

 

郭嘉が短く声をかけると、厨房の奥から恰幅の良い旗亭の亭主が、愛想笑いを浮かべて酒瓶を持ってやってきた。

この粗野な酒場で、郭嘉は他の客とはほとんど口を利かないが、この亭主にだけはよく話しかけ、そして深い話をした。この亭主は、ただ酒を売るだけでなく、潁川を行き交う行商人たちから各地の相場や噂話を仕入れる「情報屋」としての側面を持っていたからだ。

 

「郭嘉様。今日もまた、世の憂さを晴らしにこられましたか?」

 

「憂さなどないさ。世がどう狂おうと、酒の味が変わるわけではない。……それより、最近の商いはどうだ。何が高くて、誰が何処へ、何を売りに行っている?」

 

郭嘉が小銭の束を卓に置くと、亭主はそれを素早く懐にしまい、声を潜めた。

 

「いやはや、それがどうにも奇妙な具合でしてな」

 

亭主は、周囲の客を気にしながら顔を近づけた。

 

「洛陽の騒ぎで、道という道が塞がりかけております。当然、物の値段は軒並み跳ね上がっている。絹はもちろん、塩も、油もです。……ですが、一つだけ、こんなご時世に『安く』なっているものがあるのです」

 

「……安くなっている?」

 

郭嘉の眉がピクリと動いた。

戦乱の世において、物価が下がるなどということは通常あり得ない。

 

「なんだ? それは」

 

「『鉄』ですよ。それも、鍬や鋤といった農具から、飾りのない無骨な槍の穂先に至るまでです。質の良い鉄器が、なぜか戦が始まる前よりも安く出回っているのです」

 

郭嘉は盃を口に運ぶ手を止め、鋭い視線を亭主に向けた。

 

「……おかしいな。諸侯が兵を挙げている今、鉄は最も必要な軍事物資だ。どこの軍閥も、鉄を買い占めて武具を作ろうとする。需要が跳ね上がっているのに、値段が下がるなどという算段は成り立たんぞ。……誰が、どこから持ち込んでいる?」

 

「それが、東の方角からなのです。徐州(じょしゅう)青州(せいしゅう)の沿岸部からやってくる、見慣れぬ身なりの商人たちが、馬車に山のような鉄器を積んでやってくる。しかも、その鉄器ときたら……」

 

亭主は店の奥から、一本の小刀を持ってきた。

 

「これをご覧ください。昨日、その商人から買い取ったものです。他の行商人が持っていたものと見比べたのですが、長さ、重さ、刃の反り具合に至るまで、全く同じ形をしておりました。中原の鍛冶屋が打ったものとは、どうも勝手が違う。まるで『型』に流し込んで、一度に何千本も作ったような……」

 

郭嘉は小刀を受け取り、指で刃を弾いた。

キィン、と澄んだ高い音が響く。不純物の少ない、極めて上質な鉄である。

 

(……規格化されている、だと?)

 

郭嘉の脳内で、急速に思考の歯車が回り始めた。

 

「亭主。その商人たちは、鉄を売って得た銭で、中原から『何』を買って帰っている?」

 

「それがまた妙なのです。彼らは絹や宝飾品といった贅沢品には見向きもしません。買い漁っているのは、ただの『米』や『麦』といった穀物ばかり。それも、中原で飢えに苦しむ民に売り捌くのではなく、東の海の方角へ、馬車に積んで丸ごと持ち去っているのです」

 

亭主はさらに声を潜めた。

 

「穀物だけではありません。最近、この辺りの腕の良い大工や、船大工、さらには読み書きや算術ができる若い役人くずれが、次々と姿を消しているのです。どうやら、その商人たちが『中原の三倍の賃銀を払う』と言って、彼らを東へ連れ去っているようで……」

 

「……なるほどな」

 

郭嘉は小刀を卓に置き、深く息を吐き出した。

その顔には、先程までの気怠げな酔漢の面影は微塵もなく、極限まで研ぎ澄まされた知性の刃が剥き出しになっていた。

 

「どういうことです? 郭嘉様」

 

「亭主。お前はただの商いの話だと思っているだろうが……これは、商いではない……。戦だ」

 

郭嘉は、指先に酒をつけ、卓の上に線を引いた。

 

「通常の商人ならば、戦乱が起これば『安く買って、高く売る』のが定石だ。米が不足している洛陽周辺に米を運び、高値で売りつける。それが商人の理だ」

 

郭嘉の指が、卓の東側を叩いた。

 

「だが、この者たちの動きは完全に『一方通行』だ。彼らは、戦において最も価値が上がるはずの『鉄』を惜しげもなく放出し、相場を崩している。そして代わりに、中原から『穀物』と『技術を持った人間』を根こそぎ吸い上げ、外部へと持ち去っている」

 

郭嘉の背筋に、微かな悪寒が走った。

それは、中原の英傑たちが未だ誰も——あの曹操でさえも、軍事的な側面に目を奪われて完全には言語化できていなかった「異次元の侵略」の正体であった。

 

「亭主。鉄を安く大量にばら撒くということは、どういうことか分かるか?」

 

「ええと……農民たちが助かる、ということでは?」

 

「違う。中原の鍛冶屋がすべて『死ぬ』ということだ」

 

郭嘉は冷徹に言い放った。

 

「安くて質の良い鉄器が出回れば、誰も中原の職人が打った高い鉄器を買わなくなる。中原の鉄の生産力は死に絶え、いずれ皆、東から来る鉄器に依存せざるを得なくなる。……彼らは武力を使わずに、中原の『生殺与奪の権』を握ろうとしているのだ」

 

そして、同時に穀物と技術者を吸い上げる。

これが意味することはただ一つ。

 

(東の海の向こうに……董卓の戦乱など一切及ばない、完全に統率された巨大な『国家』が存在している。そしてその国家は、中原が泥沼の内乱で疲弊し、血を流しているこの隙を突き、極めて計画的に、算盤の音だけで我々の国力を解体・吸収し始めているのだ)

 

郭嘉は、自らの推論に行き着き、思わず自嘲するような笑いを漏らした。

 

「はっ……ははははっ!」

 

「郭、郭嘉様……?」

 

「いや、滑稽だと思ってな。袁紹も、何進も、そしてあの董卓でさえも……皆、自分が天下の覇者になるのだと信じて、泥の中で殺し合っている。だが、彼らが血を流して手に入れようとしている『漢という財産』は、彼らが気づかぬうちに、東の巨大な蟻によって底から静かに食い破られ、持ち去られているのだからな」

 

 

郭嘉は残っていた酒を飲み干すと、卓の上に十分すぎる小銭を叩きつけ、ふらりと立ち上がった。

 

「どちらへ?」

 

「少し、酔いが覚めた。……このままこの田舎町で隠遁を決め込んでいれば、数年のうちに、私もその見えざる商人たちの『荷物』として東へ運ばれる羽目になりそうだからな」

 

郭嘉は、薄暗い旗亭の出口へと向かいながら、頭の中で大陸の群雄たちの顔を思い浮かべていた。

 

(袁紹では駄目だ。あのアホウは名門の誇りに目が眩み、この『見えざる経済の侵略』に気づくことすらできまい。……では、誰だ? この中原において、東の巨大な影の存在に気づき、それを真正面から受け止めて盤面をひっくり返せるほどの、桁外れの狂気と理を併せ持つ器は)

 

「……曹孟徳、か」

 

郭嘉の口から、かつて洛陽で典軍校尉を務め、今は董卓討伐の檄文を飛ばして天下を騒がせている男の名が、自然とこぼれ落ちた。 

 

 

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