四國志   作:丸亀導師

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凶兆 終

 

遼東太守・公孫度が、南から這い寄る未知の勢力に向けて使者を送る決断を下してから、数ヶ月の時が流れた。

極寒の冬を越し、海氷がようやく溶け始めた頃。襄平(じょうへい)の城を出立した使節団は、遼東半島の最南端に位置する港町・沓氏(とうし)へと到着していた。

 

正使を任されたのは、公孫度に古くから仕える武官・田英(でんえい)である。

彼は中原の洗練された士大夫ではないが、辺境の荒々しい空気を吸って育った肝の座った男であった。彼の懐には、公孫度の署名と太守の印が押された分厚い木簡の書状が、油紙に厳重に包まれて収められている。

 

「……ここから先は、海路を行く。船の手配は済んでいるな?」

 

田英が沓氏の港で部下に問うと、部下は顔を青ざめさせながら頷いた。

 

「はっ。楽浪郡(らくろうぐん)の沿岸警備の目を掻き潜るため、裏の海を知り尽くした密貿易の快速船を大金で雇い上げました。……ですが、船乗りたちの様子がどうにも妙なのです」

 

田英が桟橋へ向かうと、そこには潮風に焼け、体中に刀傷のある屈強な海の男たちが十数名、出航の準備をしていた。

彼らは普段、漢の法を無視して中原と半島、あるいは異民族との間で密貿易を行い、海賊紛いの荒事も平気でこなす無法者たちである。しかし、彼らの顔には「大金を得た喜び」や「野蛮な活気」は微塵もなく、まるでこれから処刑台にでも向かうかのような、重く沈んだ空気が漂っていた。

 

「おい、顔色が悪いぞ。遼東太守の使いを運ぶのだ、気合を入れろ」

 

田英が声をかけると、船の長である初老の男が、恨めしそうな目で田英を睨みつけた。

 

「……お役人様。俺たちは太守様に首を刎ねられるのが嫌だから、仕方なく船を出すだけだ。あんたらが『どこへ行って、誰に書状を渡そうとしているのか』……俺たちには分かっているんだよ」

 

船長は、震える指で南の海——黄海の彼方を指差した。

 

「一攫千金を夢見て、南の海へ鉄や女を漁りに行った俺の同業者(なかま)たちが、ここ数年、何十隻もあの海へ向かった。……だが、誰一人として、二度と帰ってこなかった」

 

「なに? 嵐にでも巻き込まれたか、水賊にやられたのだろう」

 

田英が鼻で笑うと、船長は首を横に激しく振った。

 

「違う! 嵐なら板切れの一つでも海岸に打ち上げられる。水賊なら、奪われた積み荷がどこかの市で出回るはずだ。だが、南へ行った船は、跡形もなく消え失せる。漂流物一つ、死体一つ残さず、完全に神隠しに遭うんだ! 東の海は今……魔物が棲む『死の海』になっちまってるんだよ!」

 

無法者の海の男たちが、これほどまでに怯えきっている。

その異常な気配に、田英も微かな薄気味悪さを感じた。しかし、太守の厳命を帯びた使者として、ここで引き下がるわけにはいかない。

 

「怯えるな! 我らは太守・公孫度様の正式な使者である。いかなる化け物であろうと、大漢帝国の辺境を統べる威光の前に(かしず)かせてみせるわ。さあ、船を出せ!」

 

田英の怒声に押されるようにして、密貿易船は静かに沓氏の港を離れ、波高き黄海へとその舳先(へさき)を向けた。

 

密貿易船は、漢の正規軍が巡回する楽浪郡の沿岸部を大きく避けるため、一旦陸地が見えなくなる沖合へと大きく舵を切り、そこから黄海を南東へ直航する航路を取った。

海は、船乗りたちの怯えを嘲笑うかのように、薄気味悪いほど穏やかであった。

 

帆に受ける風は順調であり、波も静かだ。しかし、その過剰なまでの静寂が、逆に船上の緊張感を極限まで張り詰めさせていた。

田英は船室に座り、懐の書状を何度も撫でては、見えない相手の正体を思索していた。

 

(……間者の報告によれば、相手は赤と白の無数の旗を掲げ、半島南部に石垣と道を張り巡らせているという。文字も、言語も分からぬ相手の可能性が高い)

 

言葉が通じない野蛮な夷狄(いてき)であった場合、使者としてどのように振る舞うべきか。

公孫度の威光を示すためには、まず相手の陣容を観察し、少しでも付け入る隙があれば、強圧的な態度で中原の力を見せつけるべきだ。もし相手が少しでも怯む様子を見せれば、そこから有利な条件(不可侵や貢物の要求)を引き出せる。

 

「……舐められてはならん。相手が何万の軍勢であろうと、所詮は半島の僻地に巣食う群れだ」

 

田英は己に言い聞かせるように呟き、腰の剣の柄を強く握りしめた。

彼の頭の中には、かつて中原の将軍たちが異民族を平伏させてきた「力と威圧の外交」の構図しかなかったのだ。

出航から数日が経過し、船は半島の西海岸、のちに全羅道(ぜんらどう)と呼ばれる地域の沖合へと差し掛かっていた。

間者の報告によれば、この辺りから内陸の水系(大同江や漢江など)へ潜入すれば、その謎の勢力の前線基地、あるいは本陣の港へと接触できるはずであった。

 

「……お役人様。霧が出てきました」

 

甲板から、船長の硬い声が響いた。

田英が船室から出ると、周囲の海面には乳白色の濃い霧が立ち込め、視界は極端に悪くなっていた。風が止み、帆船である密貿易船は海の上で完全に足を止めてしまっている。

 

「ちぃっ。風待ちか。……おい、何か音が聞こえないか?」

 

田英が耳を澄ませた。

波の音ではない。もっと規則的で、重く、海面を一定の周期で叩くような水音。

ザクッ……。ザクッ……。ザクッ……。

 

「……な、なんだあの音は。風がないのに、何かがこちらに向かってきている……!」

 

船員の一人が、霧の向こうを指差して悲鳴を上げた。

 

その水音は、次第に数を増し、霧の奥底から不気味な輪郭を現し始めた。

 

「……船、だ」

 

田英は息を呑んだ。

霧の中から音もなく滑り出してきたのは、一隻の異様な船であった。

中原の船に見られるような、風を孕むための巨大な帆を張っていない。代わりに、船の両側面にムカデの足のように並んだ無数の「櫓」が、寸分の狂いもない機械的な一定のリズムで海面を掻き、無風の海を驚るべき速度で直進してきているのである。

 

日本軍の沿岸哨戒船——『関船』あった。

その船体は無骨なまでに機能的に造られ、側面には矢除けのための厚い竹束が隙間なく並べられている。そして船の前後には、間者の報告通り「白地に、血のような赤い模様」が染め抜かれた軍旗が、霧の湿気を吸って重々しく垂れ下がっていた。

 

「ひぃぃっ……魔物だ! 出たぞ!!」

 

密貿易の船員たちは甲板に這いつくばり、恐怖のあまり歯の根を合わさず震え始めた。

彼らが恐れたのは、その船の大きさでも、武装でもない。

その関船から、「人間の気配」が全く感じられなかったからだ。

通常、見知らぬ船を拿捕(だほ)しようとする海賊や水軍であれば、「止まれ!」「武器を捨てろ!」という怒号が飛び交うのが当たり前である。威嚇のための銅鑼が鳴り、矢が射掛けられるはずだ。

 

しかし、目の前に迫る関船からは、一切の声が聞こえない。

ただ、数十人の漕ぎ手たちが、まるで一つの心臓に繋がれたからくり人形のように、無言で、無表情で、ひたすらに櫓を押し引きする音だけが、海上に響き渡っているのだ。

 

(な、なんだこの不気味さは……! まるで、意思を持った巨大な木箱ではないか!)

 

田英は、背筋を這い上がる強烈な悪寒を必死に抑え込み、甲板の最前列へと進み出た。

 

「怯えるな! 我らは太守の使者だ!」

 

田英は腰の剣を抜き、それを足元に置くと、懐から公孫度の書状を高く掲げた。

 

「我は、大漢帝国の遼東太守・公孫度様より遣わされし使者である! 貴軍の将へ、この書状を届ける任を帯びている! 武器を収め、責任者の元へ案内せよ!」

 

田英は、ありったけの胆力を振り絞り、霧の海に向かって怒鳴りつけた。

言葉が通じなくとも、この堂々たる態度は伝わるはずだ。相手が中原の威光を少しでも知る者であれば、ここで無闇な攻撃は仕掛けてこないはずだと。

 

関船が、密貿易船のすぐ横にピタリと横付けされた。

櫓の動きが一斉に止まり、重い静寂が降り下りる。

関船の甲板から、音もなく数名の兵士たちが姿を現した。

 

彼らは中原の兵士が着るような鎧ではなく、黒漆が塗られた(さね)を緻密に編み込んだ奇妙な胴当てを身につけ、手には規格化された長い槍と、弦が引かれた状態の弩を構えている。

 

彼らの顔には、怒りも、好奇心も、威圧の色すらなかった。

ただ「境界線を越えた異物」を認識し、規則に従って処理しようとする、極めて冷たく事務的な視線が、田英と船員たちへ向けられていた。

 

「……書状を、受け取れ。遼東太守からの……」

 

田英の気負いに満ちた声は、彼らのその無機質な瞳を見つめた瞬間、急速に萎み、かすれていった。

相手を威圧して交渉の糸口を掴む。

 

そんな中原の外交の常識は、一切機能しない。彼らは怒らせることも、怯えさせることもできない。条件に合致すれば殺し、合致すれば生かす。ただそれだけの存在なのだ。

 

(……この者たちは、人間ではない。命令を実行するためだけの、生きた兵器だ)

 

田英が冷や汗を流して立ち尽くす中。

関船の兵士の一人が、無言のままスッと手を伸ばし、田英が掲げていた書状を奪い取るように受け取った。

そして、彼らは一切の言葉を発することなく、手にした長槍の穂先で、密貿易船の船首を東の方向——彼らの本陣があると思われる水系の方角へと指し示した。

 

「……ついてこい、ということか」

 

田英は、喉の渇きを覚えながら呟いた。

 

「お、お役人様……! 駄目だ、連れて行かれます、あの魔の海へ……!」

 

船長が泣き叫ぶが、逆らえる状況ではないことは明白であった。周囲の霧の中から、さらに二隻、三隻と、同じ白と赤の旗を掲げた関船が音もなく姿を現し、密貿易船を完全に包囲していたからだ。

 

一切の怒号もなく、流血もなく。

公孫度の野心と威信を背負った使節団は、大和国の哨戒網という冷たい顎に音もなく呑み込まれ、霧の奥深く、未知なる勢力の心臓部へと静かに連行されていった。

 

濃密な霧を抜け、関船に先導された密貿易船は、やがて波の穏やかな湾内へと滑り込んでいった。

舳先の向こうに現れたのは、巨大な入り江を切り開いて急造されている真新しい港町であった。

 

「降りろ」

 

関船から乗り移ってきた兵士たちに促され、遼東太守の使者である田英と、怯えきった密貿易船の船員たちは陸地へと降ろされた。

周囲を見渡した田英は、その光景に微かに息を呑んだ。

そこは未だ港としての体裁こそ不格好であったが、凄まじい活気に満ちていた。

 

切り出されたばかりの真新しい木材の香りが潮風に混じって漂い、あちこちで槌音が響いている。大勢の人々が汗を流し、威勢の良い掛け声を上げながら巨大な丸太を運び、次々と倉庫や兵舎らしき建物を組み上げていた。周囲にはすでに大小の集落が形成され始めており、一見すればどこにでもある、開拓の熱気に溢れた新興の町の風景である。

 

(……なんだ、この者たちも我らと同じ、汗を流して働く血の通った人間ではないか)

 

田英は少しだけ安堵した。

海上で一切の言葉を発さず船を漕いでいた兵士たちの姿から、何か得体の知れない化け物の巣窟にでも連れ込まれるのかと危惧していたが、陸で働く者たちの姿は、中原の農民や職人たちと大差ないように見えた。完全無欠の統制などあるはずもなく、時には木材を落として怒鳴り合う者もいれば、額の汗を拭って息をつく者の姿もある。

 

彼らもまた、日々の労苦の中で生きる生身の人間であったのだ。

しかし。

その安堵は、港から少し離れた小高い丘のふもとへと連行されていく途中で、無残にも打ち砕かれることとなった。

 

「……ッ!?」

 

鼻を突く、強烈な腐臭と血の匂い。

田英の足が、釘を打たれたようにピタリと止まった。密貿易船の船員たちは、その光景を見るなりその場に崩れ落ち、胃の中のものを吐き戻した。

 

彼らが歩く道のすぐ脇。少し開けた荒れ地に、数十に上る人間の死体が並べられていたのである。

それは、通常の戦場で見られるような、無造作に転がった戦死者の(むくろ)ではない。

 

遺体はすべて衣服を剥ぎ取られて真っ裸にされ、首を鋭利な刃物で刎ね飛ばされていた。そして、切り落とされた首は、その胴体のすぐ横に、まるで品物でも並べるかのように一定の間隔を空けて、意図的に、そして極めて整然と並べられていたのだ。

 

すでに処刑から数日が経過しているのだろう。

血塗れの肉塊には無数の銀蠅が群がり、上空から舞い降りた烏や野犬が、生々しい傷口からついばむように肉を食いちぎっている。食い破られた腹からは赤黒い内臓が見え隠れし、空虚な眼窩(がんか)が見開かれたままの首が、恨めしげに空を睨んでいた。

 

「コレは何という……」

 

田英の口から、漢語の呟きが震えるように漏れ出た。

中原に生きる田英の根底には、儒教の強い教えが根付いている。

 

身体髪膚(しんたいはっぷ)、之を父母に受く、敢えて毀傷(きしょう)せざるは、孝の始めなり』。

己の体は親から授かったものであり、遺体は五体満足のまま土に還すことこそが人間の守るべき道である。

 

いかに戦争で敵対した相手であろうと、見せしめのために首を刎ねるまでは百歩譲って理解できる。だが、わざわざ裸に剥き、首と胴体を丁寧に並べ立て、あまつさえ鳥獣に食い荒らされるに任せるなど、人間の尊厳を根底から否定する究極の冒涜であった。

狂気だ。

活気にあふれた町造りのすぐ真横で、このような凄惨な地獄絵図が平然と放置され、大工たちもそれに見向きもせずに木を削っている。その異様さに、田英の背筋を氷の刃が撫で上げた。

 

「この者たちの心は穢れていた故に、世に帰って無に帰すのだ」

 

不意に、田英の真横から、流暢な漢語の返答があった。

驚いて振り向くと、そこには簡素だが清潔な麻の衣を纏い、腰に木簡の束を下げた一人の若い男が立っていた。

任那鎮守府の書記官であり、大陸の言葉と情勢を学ぶために配属された日本の文官であった。

 

「……穢れ、だと?」

 

田英が顔を引き攣らせて問い返すと、文官は並べられた死体へ淡々とした視線を向けた。

 

「左様。この者たちは、かつてこの地を治めていた小国の長とその側近たちです」

 

文官は、大工たちの槌音に負けぬよう、はっきりとした声で続けた。

大和国は、半島の統治にあたり、初めから武力による殲滅を望んだわけではなかった。

彼らはまず、有力な部族の長たちに対して『冠位』を授け、大和の法の下で共に国を豊かにする道を示したのだ。実際に多くの民はそれを受け入れ、あるいは戦に敗れた後に降伏し、今や新しい町造りのための労働力として、生きて汗を流している。

 

「しかし、この数十名の者たちは違った」

 

文官の目に、かすかな冷たさが宿った。

 

「彼らは我らの提示した調和を拒絶し、戦に敗れた後もなお、己の小さな権力と誇りに固執して無駄な血を流し続けた。……大和の理において、それは勇気でも忠義でもなく、周囲の民を死に追いやる『穢れ』に他ならぬ」

 

大和国の信仰の根底にあるのは、自然との調和と、清浄なること(清き明き心)である。

徒らに和を乱し、不必要な死を招く者は、人間社会から排除されるべき「穢れ」と見なされるのだ。

 

「故に、彼らは大和の土を踏むことも、手厚く葬られることも許されない」

 

文官は、烏が内臓をついばむ凄惨な光景を、当然の摂理であるかのように指し示した。

 

「首を落として己の愚かさを悟らせ、衣服を奪って飾られた虚栄を剥ぎ取り、野に晒す。鳥が啄み、虫が喰らい、風雨に打たれることで、彼らの穢れた魂と肉体は、ゆっくりと自然の理の中へと溶けていく。……そうして完全に『無』に還ることこそが、彼らに与えられた浄化なのです」

 

それは、中原の儒教的道徳とは全く異なる、大和国特有の原始的かつ冷厳な死生観であった。

権力を誇示するための拷問や残虐行為ではない。和を乱した穢れを取り除き、自然の循環の中へ物理的に廃棄するという、極めて事務的で宗教的な処置に過ぎなかったのだ。

 

「……我々の常識など、ここでは塵芥(ちりあくた)も同然か」

 

田英は、陽光の下で腐敗していく首の列から目を逸らすことができなかった。

活気ある人々の労働のすぐ隣に、異なる理によって執行された残酷なまでの死が、当たり前のように横たわっている。

 

ここは、大漢帝国の威光も、孔子の教えも一切届かない、全く別世界の神が支配する領域である。その事実を骨の髄まで理解させられた使節団は、案内されるがまま、重い足取りで鎮守府の陣屋へと向かって歩き出した。

 

凄惨な晒し首の列を背にして、遼東太守の使者である田英と密貿易船の船員たちは、静かな案内のままに新興の港町の中へと足を踏み入れていった。

 

恐怖と動揺で胃の腑が鉛のように重い。しかし、田英は辺境を生き抜いてきた歴戦の武官である。死の恐怖に心が乱されながらも、彼の目は無意識のうちに周囲の地形や陣容を観察し、足の裏は地面の感触を確かめ続けていた。

 

(……この道。ただ人が歩いてできた獣道ではない)

 

田英は、自らが踏みしめている地面の妙に気がついた。

開拓が始まったばかりの辺境の港町であれば、道は雨でぬかるみ、荷車の重みで深い(わだち)が刻まれているのが常である。

 

しかし、彼らが歩くこの道は、驚くほど硬く突き固められていた。よく見れば、土だけでなく細かく砕かれた石が均等に敷き詰められており、水はけを良くするために道の中心が微かに高く、両脇には綺麗に側溝が掘られている。

 

洛陽や長安といった大漢帝国の中心部にある主要街道ならばいざ知らず、この半島南部の荒れ地に、これほどの手間をかけた道がすでに何筋も通されているのだ。

 

道の両側に広がる大小の集落も同様であった。

建ち並ぶ家屋はどれも粗削りな木材で組まれた簡素なものであったが、その配置には明確な規則性があった。風の通り道や日当たりが計算され、延焼を防ぐために家と家の間には一定の広場が設けられている。

 

広場では、泥だらけになった男たちが井戸の周りで汗を拭い、笑い合いながら水を飲んでいる。女たちが(かまど)で煮炊きをし、その煙が空へと立ち昇る。

 

彼らの姿は、田英が知る中原の民となんら変わりない、日々の労働に汗を流す生身の人間たちの営みであった。

 

(……孔子の教えも、礼記(らいき)の道徳も持たぬ集団だと高を括っていた。だが、これだけの町を短期間で造り上げるには、気の遠くなるような数の人足を動かす『統率力』と、高度な知識が不可欠だ)

 

田英は、冷や汗が背中を伝うのを感じた。

相手は決して、力任せに略奪を繰り返す蛮族などではない。中華の中央政府にも匹敵する、いや、現場の統制においてはそれ以上に整然とした組織力を持つ存在であることは明白であった。

 

その事実を決定的に裏付けたのが、集落の中央を流れる幅の広い川に差し掛かった時であった。

 

「これは……見事なものだ」

 

田英は思わず足を止め、目の前の建造物に見入った。

川の両岸を繋ぐように架けられた、巨大な木製の橋である。

中原において、川に橋を架けるといえば、平らな板を渡すか、あるいは石を積み上げて強固な土台を作るのが一般的だ。しかし、目の前の橋は、何層にも組み合わされた太い木材が、空に向かって美しい「孤」を描いて対岸へと渡り、その上を一直線の木板が敷かれていた。

現代で言う、『上路式木造アーチ橋』である。

 

その複雑な木組みの美しさもさることながら、田英の武官としての目を釘付けにしたのは、川の激流の中に立つ「橋桁」の構造であった。

 

巨大な石を精緻に積み上げて造られた橋桁は、真四角ではない。川上に向かって、まるで船の舳先のように鋭く尖った「流線型」の形をしていたのである。

 

(なんと合理的な……。あれならば、増水した川の急流も、上流から流れてくる大木も、真っ向から受け止めるのではなく、左右に滑らせて威力を逃がすことができる)

 

田英は、その設計思想に底知れぬ凄みを感じ取った。

自然の猛威を巨大な石の壁で力任せにねじ伏せようとするのではなく、水の流れを正確に読み取り、それに逆らわずに力を受け流す。その高度な算術と建築の知識が、この異国の軍勢の根底には流れているのだ。

 

田英は、自らの内にあった「中原の威光を背景に、強圧的に交渉を進める」という当初の計画を、ここで完全に破棄した。

 

(この者たちは、独自の、そして極めて強固な『道徳観と法』で動いている。……先ほどの晒し首がその証明だ。我々の常識が通じない以上、相手の『逆鱗』がどこにあるのか全く見当がつかない。不用意な一言を発すれば、どのような些細なきっかけで激昂され、我々もあの首の列に並ばされるか分かったものではない)

 

未知の文化と、未知の思考原理を持つ強大な集団。

田英は、己が一歩でも足を踏み外せば千尋の谷底へ真っ逆さまに落ちるような、ヒリヒリとする緊張感を抱えながら、橋を渡り、ついに集落の最奥にある陣屋へと足を踏み入れた。

 

陣屋は、過度な装飾や豪奢な天蓋など一切ない、質実剛健を絵に描いたような造りであった。

風通しの良い板張りの広間に、数名の武将と文官たちが静かに控えている。彼らの視線が、一斉に田英たち使節団へ向けられたが、そこには殺気も敵意もなく、ただ「観察」するような冷たい静けさがあった。

 

そして、広間の一番奥。

 

一段高くなった板の間に、簡素な木の椅子に腰を下ろしている一人の男がいた。

彼が、日本軍の半島南部における最高司令官——任那鎮守将軍・木理扶明であった。

 

木理は、虎や狼の皮を敷き詰めるわけでもなく、豪奢な絹の衣を纏っているわけでもない。動きやすい黒漆塗りの簡素な武具を身につけ、手元の卓に広げられた木簡と幾つかの算木(さんぎ)に目を落としていた。

田英が歩み寄ると、木理は静かに顔を上げ、その底冷えのするような澄んだ双眸で使者を真っ直ぐに見据えた。

 

「大漢帝国、遼東太守・公孫度様より遣わされし使者であるとお見受けする。……遠路はるばる、ご苦労であった」

 

木理の口から発せられたのは、淀みのない、極めて正確な発音の漢語であった。

 

田英はハッと息を呑んだ。通訳を介さずとも言葉が通じる。それは交渉において有利に働くはずだが、田英の背筋に走った緊張はむしろ高まった。相手はこちらの文化や言葉を完全に研究し尽くしているという証左だからである。

 

田英は、中原の傲慢な使者としての態度を完全に捨て去り、武官としての礼節を以て、深く両手を組み合わせ、深く腰を折って拱手(きょうしゅ)の礼をとった。

 

「はっ。我らは、遼東太守・公孫昇済が命を帯びて参りました、田英と申す者にござる。貴軍の将軍閣下にお目通り叶い、至極光栄に存じます」

 

田英の声には、もはや虚勢の欠片もなかった。

彼は懐から、油紙に包まれた公孫度の書状を恭しく両手で掲げ持った。

 

「我が主君、公孫度は、この半島南部における貴軍の偉大なる威容を聞き及び、大いに驚嘆しております。我らは大漢帝国の北東の守りを任されておりますが、貴軍と干戈(かんか)を交える意志は毛頭ございません」

 

田英は言葉を慎重に選びながら、ゆっくりと続けた。

 

「我が主君は、ただ一つ、お尋ねしたいと申しております。……貴軍は、いずこより来たりて、この半島の『何処まで』を領地とするおつもりか。それを知ることで、我らもまた、貴軍との末永き良き隣人としての境を定めたいと願うものであります」

 

木理扶明は、田英の恭しい口上を無言のまま最後まで聞き届けた。

 

「書状を」

 

木理が短く命じると、傍らに控えていた文官が進み出て田英から書状を受け取り、将軍の卓の上へと開いて置いた。

 

木理の視線が、竹簡に書かれた公孫度の文字を滑っていく。

その表情には微かな変化も読み取れなかった。怒りも、喜びも、戸惑いもない。ただ、送られてきた情報を、頭の中の巨大な算盤で弾き、自軍の利益と目的と照らし合わせる演算の時間が、静かに過ぎていく。

 

田英は、木理が書状を読み終えるまでの数刻が、まるで数日のように長く感じられた。

沈黙する将軍の周囲には、血生臭い武の威圧感とは異なる、全てを論理で押し潰すような静かな重圧があった。

 

(……この男が、あの拱橋(きょうきょう)を設計させ、そしてあの晒し首を平然と並べさせた頭脳か。底が見えん。果たして、どのような答えを返してくるか……)

 

やがて。

木理扶明は書状からゆっくりと目を離し、田英の顔を静かに見つめ返した。

その薄い唇が、静かに開かれる。未知の境界線を巡る、歴史的な問答が、今まさに始まろうとしていた。

 

「我が大和の軍勢が、いずこまで進むか……であったな」

 

任那鎮守将軍・木理扶明の声は、広間に静かに、しかし絶対的な重さを持って響いた。

遼東太守の使者である田英は、息を殺して次の言葉を待った。相手の口から「遼東まで」あるいは「幽州まで」といった中原への侵略の意志が示されれば、それは全面戦争の宣戦布告に他ならない。

木理は手元の算木を静かに払い、卓の上に置かれた半島の地図を指でなぞった。

 

「我らが定める北の境界線は、すでに『算段』がついている。西は、半島の腰を流れる郁里河(うくりは・漢江)の南岸まで。そして東は、海岸線を北上し、三日浦の近くに位置する東濊港(とうわいこう)の町までである」

 

田英は、その地名を聞いてハッと目を見開いた。

 

(郁里河の南岸……それに、東濊港だと……!?)

 

辺境の武官である田英は、半島の地理を熟知している。

木理が示した二つの地点を結ぶ線は、まさに半島の「首」の部分を横断するラインである。しかし、問題はその先だ。その境界線のすぐ北には、大漢帝国が直接統治する楽浪郡(らくろうぐん)が口を開けて待っているのである。

 

「将軍、お待ちくだされ」

 

田英は、外交の礼を保ちながらも、思わず声を荒げそうになるのを必死に抑え込んだ。

 

「将軍が仰られたその境界線は……我ら大漢帝国の直轄地である楽浪郡と、まさに『目と鼻の先』。漢の勢力圏に直接隣接する限界点に他なりませぬ。本当に、そこで鉾を収められるとおおせか?」

 

田英の懸念はもっともであった。

国境を接するということは、常に小競り合いの火種を抱えるということである。ましてやこれほどの大軍勢が、漢の喉元にぴったりと張り付くように陣取れば、公孫度だけでなく中原の諸侯も黙ってはいないだろう。

だが、田英の必死の問いかけに対し、木理の表情には微塵の揺らぎもなかった。

 

「左様。そこで進軍は完全に停止する」

 

木理は、一切の淀みなく断言した。

 

「なぜならば、それ以上北の土地は、我らの『理』において必要としないからだ」

 

木理の言葉は、中原の将軍たちがよく口にする「皇帝の慈悲」や「不戦の誓い」といった感情的なものではなかった。

 

日本国が半島に求めているのは、中原との衝突の衝撃を吸収するための強固な「防波堤」である。

郁里河と東濊港を結ぶ防衛線を構築すれば、地形的にも兵站的にも最も効率よく大陸からの侵攻を塞ぐことができる。

 

それより北の、冬になれば深く凍てつく土地まで前線を押し上げることは、補給路を無駄に伸ばし、維持のための労力を増大させるだけの「非合理な行為」であった。

 

「我が大和の目的は、その境界線の内側に、我々の法に基づく平穏な町と田畑を築くことにある。……我らからその線を越え、大漢帝国の領土へ侵攻することは決してない。公孫太守には、そうお伝えいただきたい」

 

その言葉には、虚勢や駆け引きの色は全くなかった。

彼らは己の計画に必要な分だけを正確に切り取り、不要なものには一切手を出さない。その極めて冷徹で計画的な軍事行動の真理に触れ、田英は深い安堵と、同時に底知れぬ恐ろしさを覚えた。

 

(……この者たちは、欲望のままに領土を広げるわけではない。あらかじめ『どこで止まるか』を完全に計算した上で、この大軍を動かしているのだ)

 

目的が達せられれば、ピタリと止まる。

それは、感情で動く人間の軍隊というよりは、役割を終えれば停止する巨大なからくりのようであった。

 

「……承知仕りました。貴軍の偽りなき御意志、我が主君へ違わずお伝えいたします」

 

田英は深く頭を下げた。

これ以上の問答は無用であり、また危険であった。持ち帰るべき情報はすべて得たのだ。

 

「遼東からの海路、そして慣れぬ土地での交渉。さぞ骨が折れたであろう」

 

木理は、卓上の地図を巻きながら、初めて労うような言葉をかけた。

 

「客人のために、港の近くに風を凌げる宿舎を用意させてある。……我が陣の飯が口に合うかは分からぬが、出立の日まで、ゆるりと休まれるがよい」

 

「お心遣い、感謝いたします」

 

田英が再び一礼し、広間を退出する。

案内役の文官に先導されて陣屋の廊下を歩きながら、田英は己の背中が冷や汗でびっしょりと濡れていることに気がついた。

命のやり取りこそなかったが、完全に相手のペースで盤面を動かされた、圧倒的な疲労感が田英の全身を包み込んでいた。

 

陣屋の出口へ向かう途中、田英はふと足を止めた。

板張りの広い部屋の横を通りかかった時のことだ。そこは、大和国の文官や書記官たちが数十人集まり、物資の目録や各地への通達を書き記している執務室であった。

彼らは皆、小刀で木簡を削り、無言で筆を走らせている。

 

(……漢語を解し、漢の文字を扱う。中原の知識を貪欲に吸収しているのは間違いないが……)

 

田英の視線が、一人の文官が書き上げ、乾燥させるために傍らに積まれた木簡の表面に吸い寄せられた。

そこに書かれている文字を見て、田英は眉をひそめた。

 

「あれは……」

 

確かに、中原で使われている「漢字(真名)」が並んでいる。

しかし、その漢字と漢字の間に、田英の全く見たこともない奇妙な文字が、規則的に織り交ぜられていたのである。

一つは、漢字の一部を刃物で鋭く切り取ったような、カクカクとした無骨な文字(カタカナの原型)。

 

もう一つは、漢字の草書体をさらに極端に崩し、流れるような曲線で構成された流線型の文字(ひらがなの原型)であった。

 

(なんだ、あの文字は。暗号か? いや、違う……)

 

田英は、文官の筆の運びを見て戦慄した。

彼らは、複雑な意味を持つ漢字(名詞や動詞の語幹)を書き付けた後、そのカクカクとした文字や流線型の文字を使って、言葉と言葉を繋ぎ合わせ、文章の響き(助詞や活用)を整えているのだ。

 

それは単に、中原の文字をそのまま真似ているのではない。

彼らは、大漢帝国の誇る複雑な漢字の体系を一度完全に解体し、自らの国で話されている独自の言葉(和語)の音や文法に合わせて、全く新しい「別の文字体系」として再構築してのけているのである。

 

文字とは、国家の知性と文化の根幹である。

かつて中原の周辺にいた異民族たちは、独自の文字を持たず、漢の文字を借りてようやく記録を残していた。しかし、この大和国の人々は、漢の文字を単なる「素材」として扱い、自らの理に合わせた高度な文字体系を創り出しているのだ。

 

「……使者殿。いかがなされましたか?」

 

案内役の文官が、立ち止まった田英を不思議そうに振り返った。

 

「あ、いや……何でもない」

 

田英は慌てて歩みを再開した。

宿舎へと向かう道すがら、綺麗に突き固められた舗装路を踏みしめながら、田英の胸中には一つの確信が重く沈み込んでいった。

独自の道徳観による死の執行。

自然の理を読み取ったアーチ橋の設計。

そして、中原の文字を己の言語体系に作り変える、異形で複雑な文字の存在。

 

(……我々は、とんでもない存在を怒らせずに済んだのかもしれん)

 

彼らは、中原の模倣者ではない。漢の威光に怯える蛮族でもない。

独自の強固な知性を持ち、冷徹な計画性をもって半島の半分を正確に切り取りに来た、全く別の文化圏に属する『強大な隣人』である。

田英が宿舎に辿り着いた時、彼は立っているのもやっとの疲労に襲われていた。

 

彼が持ち帰るこの「限界線の提示」と「相手の真の姿」の報告は、遼東太守・公孫度に、己の野心の大きさを再考させるだけの十分すぎるほどの重みを持っていた。

 

 

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