四國志   作:丸亀導師

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列王 3

 

西暦一九一年。

大漢帝国の東部、兗州(えんしゅう)から東郡にかけての広大な平野は、黄巾の残党から膨れ上がった数万の賊軍——「黒山軍(こくざんぐん)」の度重なる略奪によって、荒れ果てた泥土と化していた。

その土煙の只中を、血に濡れた剣を振りかざし、鬼神の如き形相で馬を駆る一人の将の姿があった。

 

曹操孟徳である。

 

「押し包め! 陣形を崩すな! 息をつかせる暇を与えるな、一気に賊の首魁を叩き潰せェッ!!」

 

曹操の激しい怒号が戦場に響き渡る。

彼の指揮する軍勢は、数においては黒山軍に遠く及ばない。しかし、その動きは統率の取れていない烏合の賊とは比較にならぬほど鋭く、そして苛烈であった。曹操自身が常に陣頭に立ち、絶え間なく檄を飛ばして軍全体を一つの巨大な刃のように動かし続けているからだ。

 

敵の血を浴び、泥にまみれながら剣を振るう曹操の瞳の奥には、燃え盛るような怒りと共に、底なしの「深い悲しみ」が黒い炎となって渦巻いていた。

 

彼の視界の片隅には、常に「欠落」があった。

本来ならば、彼が馬を進めるそのすぐ右隣には、誰よりも父を敬愛し、武勇に優れた長男の姿があったはずだった。そして左隣には、彼が己の背中を無条件で預けることのできた、最も信頼のおける古参の部下の姿があったはずなのだ。

だが、彼らはもういない。

 

前年(一九〇年)、董卓が洛陽を焼き払って長安へと逃亡を図ったあの時。

 

酸棗(さんそう)に集結していた反董卓連合の諸侯たちは、西涼軍の強さを恐れ、董卓を追撃することなく、あろうことか陣屋で連日連夜、美酒を酌み交わして己の保身と権力闘争に明け暮れていた。

 

『この国を救うのは、我々ではないのか! 臆病者どもめ、ならば私一人でも行くわ!』

 

曹操は激怒し、己の手勢だけで董卓軍の背後を猛追した。

しかし、それは結果として曹操の「深追い」と「慢心」であった。

 

滎陽(けいよう)の地で、董卓軍の猛将・徐栄(じょえい")の伏兵に完全に包囲され、自軍は壊滅的な打撃を受けたのだ。

その血みどろの撤退戦の中で。

曹操を逃がすため、長男は自ら盾となって敵の槍をその身に受け、信頼する部下は圧倒的な数の敵陣へと単騎で突入し、二度と帰ってはこなかった。

 

(……私のせいだ。私が焦り、そして、あの酒に酔った豚(諸侯)どもの大義を信じたが故に……彼らを死なせたのだ)

 

曹操は、敵の首を刎ね飛ばしながら、己の胸を刃でえぐるような痛みに耐え続けていた。

もし諸侯が共に軍を動かしていれば。あの時、美酒ではなく戦いを選んでくれていれば、息子も部下も、あのような無惨な死を遂げることはなかった。

 

その絶望的な悔恨と悲しみを拭い去るかのように、曹操は黒山軍との戦いに己のすべてを投じていた。立ち止まれば、無念の叫び声が耳の奥で響く。だからこそ彼は、修羅となって戦場を駆け回り、乱れた天下をこの手で平定することに己の命を燃やし尽くそうとしていたのである。

 

「孟徳! 突出するな! 貴様が死んでは元も子もないぞ!」

 

横合いから馬を寄せてきたのは、曹操の無二の戦友であり、同じく黒山軍の討伐に命を懸けている猛将・鮑信(ほうしん)であった。

鮑信は、自暴自棄にも似た猛進を見せる曹操の馬の轡を掴み、強引に引き戻した。

 

「焦るな、孟徳! 我らの軍は勝っている。無理に前線を押し上げずとも、敵は自重で崩れる!」 

 

「……すまぬ、鮑信。だが、奴らを逃がすわけにはいかんのだ」

 

「分かっている。お前の背中は、この鮑信が守る。共に生き抜き、この中原の泥を払うのだ!」

 

鮑信の熱い言葉に、曹操は荒い息を吐きながら深く頷いた。

信頼できる友が隣にいる。その事実だけが、今の曹操を狂気の淵から辛うじて繋ぎ止めていた。

 

曹操の軍勢が、兵力で勝る黒山軍を相手にこれほどまでにアグレッシブに、かつ絶え間なく戦い続けることができたのには、曹操の武略や鮑信の奮戦とは別の、もう一つの『決定的な理由』が存在していた。 

 

どれほど激しい戦を繰り返しても、兵士たちの腹は決して減らなかった。

 

折れた槍は翌日には補充され、放ち尽くしたはずの矢の束は、夜明けと共に陣屋の前に正確に積み上げられていた。

前線から数里離れた、曹操軍の後方支援拠点。

そこには、前線の血生臭い狂騒とは全く無縁の、恐ろしいほどの静寂と秩序に支配された空間が広がっていた。

 

「第三陣の輜重車、車輪の軋みが大きい。軸に油を差し直せ。……東郡からの麦の搬入は、予定より半刻遅れている。次の輸送隊には、ぬかるみを避けるよう西の迂回路を指示しろ。矢の束は、湿気を吸わぬよう天幕の中央に配置し、風通しを確保すること」

 

大量の木簡が積まれた天幕のド真ん中で、小刀を手にした一人の文官が、感情の起伏を一切見せずに淡々と指示を飛ばし続けていた。

洛陽を追われ、死罪の記録を隠して曹操の庇護下に入った男——班稀(はんき)である。

 

班稀は、曹操が兵を挙げて出陣する際、自ら志願して従軍し、兵站の全権を担う文官として陣中に加わっていた。

 

中原の軍隊において、兵糧の輸送や物資の管理は「裏方」であり、武功を立てる華々しい前線に比べれば、下っ端の文官がやる地味な仕事と見なされるのが常であった。

 

しかし、班稀のそれは、中原の常識を完全に凌駕していた。

彼は、東の国でこの眼に焼き付けてきた「規格化された物流と兵站」の概念を、大漢の軍隊の枠組みの中で可能な限り再現しようとしていたのだ。

 

兵糧の消費量を、兵士の疲労度や行軍距離から数理的に予測し、無駄のない量を計算する。

輸送用の荷車は大きさを統一し、車輪が壊れても即座に別の車の部品を流用できるようにする。

野営の陣地は、ただ天幕を張るだけでなく、荷車を円陣に並べることで即席の防壁として機能させる。

 

「班稀様。黒山軍の別働隊が、我々の補給線を断とうと北の峠に現れたとのことです!」 

 

伝令が駆け込んできた時も、班稀は木簡から目を離すことすらなかった。

 

「想定の範囲内だ。北の峠には既に、空の荷車を囮として配置し、周囲に伏兵を五十伏せてある。賊が荷車に群がったところを火矢で焼き払え。……本命の輸送隊は、すでに南の街道を通過している。前線の曹操様への物資の遅れは、一刻たりとも生じない」

 

伝令が息を呑み、畏れ入って平伏する。

彼の頭脳の中には、戦場全体の道という道、物資の量、そして敵の動きの予測までが、巨大な一つの「算盤の盤面」として完全に構築されていたのである。

 

数日後。

黒山軍の大軍を完全に打ち破り、大勝を収めた曹操と鮑信は、馬を並べて後方の兵站基地へと帰還した。

陣屋の入り口で彼らを出迎えたのは、血と泥にまみれた前線の将兵たちではなく、綺麗に整頓された荷車と、一滴の無駄もなく仕分けされた兵糧の山、そして清潔な麻の衣を纏った班稀の姿であった。

 

「……見事なものだ」

 

鮑信は、馬から降りるなり、その異常なまでに整然とした陣の有様を見て感嘆の息を漏らした。

彼は百戦錬磨の将である。だからこそ、軍隊において「飢えさせず、物資を途切れさせない」ということが、どれほど途方もない労力と頭脳を必要とする至難の業であるかを、骨の髄まで理解していた。

 

「孟徳よ。お前が連れてきたこの男……班稀と言ったか。彼の采配は、もはや尋常の域ではないぞ」

 

鮑信は、静かに一礼する班稀を見つめながら、曹操に向かって言った。

 

「黒山軍は数万。本来ならば、我々は戦う前に兵糧が尽き、疲労で瓦解していてもおかしくはなかった。だが、彼の引いた完璧な補給線のおかげで、兵は常に腹を満たし、新しい武器を手にすることができた」

 

鮑信は、班稀の肩にその大きな手を置いた。

 

「世の人間は、前線で剣を振り、敵の首を多く取った者を『武勇』に優れると称賛する。……だが、班稀よ。お前は剣を一度も振るわずして、数万の味方の命を救い、間接的に数万の敵を討ち果たした。お前のその静かで底知れぬ頭脳の働きは、まさに武勇と並び立つ、いや、それ以上の価値を持つ『文勇(ぶんゆう)』と呼ぶべきものだ」

 

文の勇。

知を以て武と成す、最上級の賛辞であった。

周囲の将兵たちも、これまで地味な裏方だと思っていたこの青白い顔の文官に対し、深い畏敬の念を込めて深く頭を下げた。

 

「……過分なお褒めの言葉、恐悦至極に存じます」

 

班稀は、表情を変えることなく恭しく拱手(きょうしゅ)の礼をとった。

だが、曹操と鮑信に向けられたその瞳の奥は、夜の湖のように冷たく、どこまでも静かであった。

 

(曹操よ。お前は確かに類まれなる英傑だ。悲しみを糧に修羅となり、天下を平定しようというその苛烈な意志は、凡百の諸侯の及ぶところではない。……だからこそ、私は私の持つ『東の理』の模倣を、お前に提供してやろう)

 

班稀は、遠く離れた蜀の地へ逃れた家族の顔を、心の奥底でそっと撫でた。

 

(だが、忘れるな。私がこの力を貸すのは、お前に忠誠を誓ったからではない。……お前という猛毒を以て、いつか必ず海を渡ってくるであろう『あの国』に対する強固な盾とするためだ。私は、お前たちのその熱い情熱にも、覇業にも、決して心は預けない)

 

曹操が深い悲しみを乗り越え、中原の覇権へと確実な一歩を踏み出した黒山軍討伐の戦い。

 

その狂騒の影で、大漢帝国に「兵站」という未曾有の概念を持ち込んだ天才・班稀は、誰にも真意を悟られることなく、曹操という巨大な器の内部で『文勇』の名をほしいままにしながら、静かに、そして冷徹に己の算盤を弾き続けていた。

 

黒山軍を完膚なきまでに打ち破った曹操の武功は、瞬く間に中原へと轟いた。

その圧倒的な戦果を受け、反董卓連合の盟主として渤海(ぼっかい)に陣取っていた袁紹は、曹操の力を己の陣営に繋ぎ止めるため、朝廷に上表を行い、曹操を|東郡太守《とうぐんたいしゅに推挙したのである。

 

東郡の治所である濮陽(ぼくよう)の庁舎。

袁紹からの使者を迎え、東郡太守の証である重厚な印綬を受け取った曹操は、顔いっぱいに喜色を浮かべ、深々と頭を下げた。

 

「袁本初(袁紹)殿の格別なる御推挙、この曹孟徳、身に余る光栄に存じる。どうか盟主に、私の深い感謝と忠誠の意をお伝え願いたい」

 

使者が満足げに頷き、祝いの品々を置いて帰っていく。

その背中が完全に見えなくなった瞬間。曹操の顔に張り付いていた愛想の良い笑みは、氷のように冷たく、そしてドス黒い侮蔑の表情へと一変した。

 

「……虫唾が走るわ」

 

曹操は、手にした太守の印綬を卓の上に放り投げた。

ゴトッ、と重い音が響く。

 

「人を見る目だけは、昔から小賢しいほどにある男だ。私が黒山軍を平定した途端に恩を着せ、己の手駒として飼い慣らそうという腹積もりか。……そもそも、貴様があの酸棗(さんそう)の陣で祝宴にうつつを抜かし、私の進軍を見捨てなければ、今頃長安の董卓の首は落ちていたのだ。これほど無駄に血を流し、長き戦いにする必要などなかったものを!」

 

曹操の脳裏に、撤退戦で死んでいった長男や、信頼する部下たちの無念の顔がよぎる。

袁紹という男の虚栄心と優柔不断さが、どれほど多くの将兵の命を散らせたか。その元凶から与えられた太守の座など、曹操にとっては本来ならば叩き返してやりたい代物であった。

だが、曹操は卓に投げ出した印綬を、もう一度ゆっくりと手に取り、その冷たい金属の感触を指先で確かめた。

 

(……しかし、感謝はしてやろう、本初よ)

 

曹操の唇の端が、三日月のようにつり上がる。

 

「これでやっと、私は己の『地盤』と『軍』を持つことができる。……他人の軒下を借りる流浪の軍ではなく、法と税を敷き、兵を養うための『国』をな」

 

東郡という土地。それは決して豊かではないが、曹操にとっては喉から手が出るほど欲しかった「己の裁量で自由に設計できる土台」であった。

いよいよ、自分の覇業を真の意味で形にする時が来た。曹操は、高鳴る胸の鼓動を抑えきれず、すぐに陣屋の奥深くで竹簡の整理をしている文官——班稀を呼び寄せた。

 

「班稀よ! 東郡は私のものとなった!」

 

曹操は、部屋に入るなり班稀の前に太守の印綬を示し、熱を帯びた声で語りかけた。

 

「さあ、いよいよ貴様の知識を試す時だ。お前が東の海で見てきたという、あの巨大な国を動かしている『法と兵站の理』……それを、ただちにこの東郡に敷け! 富国強兵の要となる常備軍の編成を急ぐのだ!」

 

曹操の眼は、野心と希望にギラギラと輝いていた。

中原の軍隊の常識を覆すほどの兵站管理を見せた班稀が、本格的に一郡の政を握れば、数年で他の諸侯を凌駕する強大な軍事国家が誕生する。曹操はそう確信していた。

 

しかし。

 

班稀は、曹操の熱狂を前にしても顔色一つ変えず、小刀で木簡のささくれを削る手を止め、ただ冷ややかに首を横に振った。

 

「不可能です、太守殿」

 

「……なんだと?」

 

水を差された曹操が眉をひそめる。

 

「不可能なものは、不可能と言っているのです。……そもそも、貴方様はあの国の統治の根幹を全く理解しておられない」

 

班稀は、卓の上に二つの木簡を並べた。

 

一つには『律』、もう一つには『令』と書かれている。

 

「我ら大漢帝国において、『律』とは刑罰の掟であり、『令』とは天子や役人がその都度発するお触れに過ぎません。

これらは別々の時期に、別々の役人が作り、継ぎ接ぎだらけになった別々の物です。……しかし、私が東の国で見たのは、これらが完全に一つの巨大な歯車として機能する**『律令(りつりょう)』という名の、国家運営機構なのです」

 

班稀は、曹操を真っ直ぐに見据えた。

 

「律と令を一つとし、共に機能させるためには、何が必要かお分かりですか? それは『絶対的な情報』です」

 

班稀は、東郡の地図を広げ、その上を指でなぞった。

「この東郡に、今現在、何人の口があり、どれだけの男女の比率なのか。

どの土地にどれだけの麦が実り、どの山からどれだけの鉄や木材が切り出せるのか。

川に流れる水の量は季節ごとにどう変化し、どこに道を引けば最も効率よく荷が運べるのか。……太守殿は、それをすべて把握しておられますか?」

 

曹操は言葉に詰まった。

 

「それは……これから調べさせることだ」

 

「一朝一夕になるものではありません」

 

班稀は冷徹に言い切った。

 

「人と物、そして水と道。それらすべてを精緻に『測量』し、数字として把握しなければ、法など敷いたところで絵に描いた餅に過ぎません。さらに言えば、明文化した律と令を、文字の読めない末端の農民たちにまで行き渡らせ、理解させる教育と周知の期間も必要です」

 

常備軍というものは、農民を畑から引き剥がし、兵士として専門に養うという行為である。

 

それを行うには、残された者たちだけで軍の飯を賄えるだけの『圧倒的な農業生産力と税の徴収システム』が完全に機能していなければ、国家そのものが飢え死にする。

 

「まずは、この戦乱で荒れ果てた東郡の地を安定させること。逃げ出した流民を呼び戻し、土地に縛り付け、彼らが食っていけるだけの『田』を復活させること。それが先決です。……夢を見るのは、足元の泥を綺麗に(なら)してからになさることですね」

 

あまりにも容赦のない、正論による全否定。

並の主君であれば激怒し、班稀の首を刎ねていてもおかしくないほどの不遜な物言いである。

しかし、曹操は暫しの沈黙の後……突如として、天を仰いで腹の底から笑い出した。

 

「ふはははっ! はははははっ!」

 

「……何がおかしいのですか」

 

「いや、痛快だと思ってな!」

 

曹操は笑い涙を拭いながら、班稀の肩をバンと叩いた。

 

「貴様の言う通りだ、班稀。己の城を持った喜びに、私は少々目が眩んでいたようだ。……人を知り、土地を知らねば、法などただの飾りに過ぎん。貴様のその冷たすぎるほどの現実を見る眼こそ、私が求めていたものだ」

 

曹操は全く怒っていなかった。むしろ、己の盲点を一瞬で論理的に突き崩して見せたこの男の知性に、改めて惚れ直していたのである。

 

「同時に、私は理解したぞ。貴様の言う『東の国の統治』とやらを実現するには、今私の手元にいる武将たちだけでは、どう足掻いても手が足りん。土地を測り、民の戸籍を整理し、法を設計する……圧倒的な数の『優秀な文官』が必要だ」

 

「御明察です。私一人で東郡すべてを測量して回れば、寿命が尽きますからな」

 

班稀が皮肉げに返すと、曹操はニヤリと笑った。

 

「案ずるな。私はすでに、そのための『手』を打ってある。先ほど袁紹の使者が来たと言ったな? ……実は、その袁紹の陣営から、彼が全く使いこなせていなかった『極上の頭脳』を一人、引き抜いておいたのだ」

 

曹操が手を叩くと、部屋の扉が静かに開かれた。

そこへ入ってきたのは、まだ三十路にも満たないであろう、一人の若き文官であった。

 

身なりは質素でありながら、その立ち振る舞いには、大漢帝国の正統なる名門の教養と、揺るぎない気品が溢れ出ている。そして何より、その双眸には、班稀の冷たい眼差しとはまた異なる、深く、温かく、そして底知れぬ「王佐(おうさ)の才」の輝きが宿っていた。

 

「お呼びでしょうか、明公(めいこう)」

 

透き通るような声で一礼したその男に、曹操は満足げに頷い。

 

「班稀よ。紹介しよう。彼が、これからお前と共にこの東郡の、いや、私の覇業の屋台骨となる政(まつりごと)を担う男だ」

 

若き文官は、曹操の傍らに立つ班稀へと向き直り、静かに拱手した。

 

潁川(えいせん)荀彧(じゅんいく)(あざな)文若(ぶんじゃく)と申します。……以後、お見知りおきを」

 

「……班稀、字は唯才だ」

 

班稀は、荀彧の目を見つめ返した。

 

(……なるほど。これが曹操の引き抜いた才覚か。袁紹の下で腐らせておくには、あまりにも惜しい男だ。この男の目には、中原の『正しき道』が見えている)

 

大漢帝国の正統なる法と徳を重んじ、乱世に王道を取り戻そうとする天才・荀彧文若。

東の海の冷徹なシステムを頭脳に宿し、中原の理そのものを解体・再構築しようとする異端の天才・班稀唯才。

全く異なる出自と、全く異なる理想を抱いた二つの極上の叡智が、曹操孟徳という器の中で、初めてその視線を交差させた瞬間であった。

 

 

東郡太守の印綬を受けたその日の夕刻。

 

曹操は、新たに迎え入れた荀彧と、すでに自軍の兵站を根底から作り変えつつあった班稀の二人を、自らの私室へと招き入れていた。

 

「文若(荀彧)。お前には東郡の政の全体を。唯才(班稀)には、それを支える兵站と制度の骨組みを任せたい。……だが、我が軍にはもう一人、貴様ら二人に絶対に引き合わせておかなければならない男がいる」

 

曹操がそう言って顎をしゃくると、部屋の奥の襖が音もなく開き、一人の男が姿を現した。

 

「お呼びでしょうか、明公(めいこう)

 

年の頃は荀彧や班稀と同じか、少し上といったところだろうか。

痩せこけた頬に、どこか病的なほどに青白い肌。しかし、その落ち窪んだ双眸(そうぼう)には、飢えた鷹のように鋭く、ギラギラとした光が宿っていた。身に纏う衣からは、墨や竹簡の匂いよりも、土埃と血の匂い――戦場の最前線特有のひりつくような空気が漂っている。

 

曹操は、その男の肩を抱き寄せるようにして二人に紹介した。

 

「彼が、我が軍の戦闘と戦術のすべてを司る、総参謀とでも言うべき男だ。名を、戯志才(ぎしさい)という」

 

戯志才は、無造作に拱手の礼をとった。

 

潁川(えいせん)の戯志才だ。荀彧殿の噂は、かねがね聞いております。班稀殿は……失礼ながら、存じ上げない。だが、あの黒山軍との戦いで、我が軍の矢と麦を一度も途切れさせなかった手腕は見事であった」

 

「前線の将兵が、無駄矢を撃たなかったからに過ぎん。私は数字を合わせただけだ」

 

班稀が淡々と返すと、戯志才はニヤリと唇を歪めて笑った。

 

「数字を合わせる、か。言うは易いが、戦場でそれができる者がどれほど少ないことか。……頼もしいことだ」

 

戯志才という男。彼は、荀彧のように大局的な国家の理想を語ることもなければ、班稀のように冷徹に国全体の物資を計算することもしない。

 

彼が持つ才能は、ひたすらに「目の前の戦場において、いかにして敵を殺し、勝利を掠め取るか」という一点に極限まで特化していた。敵の心理を読み、地形の虚を突き、時には味方すらも騙すような奇計を用いて勝利を導く。まさに、血みどろの前線において最も才を現す「前線の軍師」であった。

 

ここに、曹操の覇業を支える「三つの極上の頭脳」が揃い踏みした。

興味深いことに、彼ら三人は、その思考の根源から性格に至るまで、全くの別物――三者三様であった。

 

一人目、荀彧(文若)

彼は、真っ直ぐに伸びた名剣のような男である。

大漢帝国の正統なる名門に生まれ、彼が謀るのは常に「天下の大局」であった。どのようにして国を運営し、いかにして漢の華やかりし頃の理想を体現するか。そのために、正しき徳と法を作り上げ、乱世に王道を敷こうとする。

 

しかし、その理想の高さゆえに、彼の性格は極めて「頑な」であった。己の信じる正義や大漢帝国への忠義という芯が強すぎるため、それが曲げられそうになれば、たとえ主君である曹操であろうと真っ向から諫言(かんげん)するだけの激しさを内に秘めている。

 

 

二人目、班稀(唯才)

彼は、水のように形を変える男である。

荀彧が「理想の法」を語るなら、班稀はそれを実現するための「純粋な兵站と、冷徹な法の実用性」を見る。彼は東の国での律令を見てきたが、それをそのまま中原に押し付けるような愚は犯さない。

 

班稀の最大の特徴は、「衆人の風向きを極めて鋭く読む」ことであった。よく言えば柔軟、悪く言えば「風見鶏」的な性質である。

かつて洛陽で、一族を守るために己の知性を隠し、無能な阿呆を演じて宦官どもに阿り、媚びへつらっていたのも、この性質ゆえであった。時代の風がどこへ吹き、誰に頭を下げれば家族が生き残れるかを瞬時に悟り、己の矜持すらも躊躇なく泥に捨てることができる。絶対的な理想に殉じる荀彧とは真逆の、極限の現実主義であった。

 

三人目、戯志才

彼は、鋭く尖った匕首(あいくち)である。

法や国の運営といった後ろを振り返る仕事には一切の興味を示さず、風向きがどうであろうと、ただ眼の前に現れた敵の急所を的確に突き刺すことだけを考える。戦場でいかに血を流さずに勝つか、あるいは敵にどれほどの血を流させるかという「戦術」において、右に出る者はいない。

 

理想を追う真っ直ぐな大局者(荀彧)

風を読み、泥を這ってでも現実の兵站と法を回す風見鶏(班稀)

そして、血の匂いを嗅ぎ分け、戦場で敵を屠る刃(戯志才)

 

これほどまでに異なる三人が同じ部屋に集められれば、当然、考え方の違いから激しい衝突が起こる――曹操自身も、ある程度の口論は覚悟していた。

 

「……それで、まずはこの東郡をどう料理するつもりだ?」

 

戯志才が、曹操の用意した酒を呷りながら口火を切った。

 

「北にはまだ黒山軍の残党が燻り、東の徐州(じょしゅう)には陶謙(とうけん)という厄介な老いぼれがいる。俺に兵を預けてくれれば、残党どもを谷間に誘い込み、三日で火攻めにして消し炭にしてやるが?」

 

戯志才のいかにも前線軍師らしい物騒な提案に、荀彧が静かに首を振った。

 

「戯志才殿、それでは民が怯えます。まずは東郡の民に太守の徳を知らしめ、安心させることが先決です。無闇な武威の誇示は、徒らに怨みを買い、次の反乱の火種を残すだけ。ここは布告を出し、投降する者には罪を問わず土地を与えるという『法と寛容』を示すべきでしょう」

 

荀彧の正論に、戯志才は「ふん」と鼻を鳴らした。

 

「寛容などと生ぬるい。賊は一度甘い汁を吸えば、また必ず武器を取る。殺せる時に根絶やしにするのが戦の鉄則だ」

 

真っ向から対立する大局(徳)と戦術(武威)

曹操がどう割って入ろうかと思案したその時、ずっと黙って二人のやり取りを聞いていた班稀が、手元の木簡をパチンと鳴らした。

 

「お二方とも、少し気が早い。……火攻めにするにも油と矢が要り、投降兵に土地を与えるにも彼らを食わせる種籾(たねもみ)が要る。今の東郡の蔵には、そのどちらも十分にありませんよ」

 

班稀の言葉に、二人の視線が彼に集まる。

 

「班稀殿、それではどうするのだ?」

 

荀彧が問うと、班稀はさらりと答えた。

 

「風向きを見るのです。今は黒山軍が討たれ、民は『曹操軍の力』に怯えつつも、乱世の終息を期待している。この追い風を利用します。

まず、戯志才殿の言う通り、北の残党に対しては苛烈な軍を動かして『見せしめの武威』を示し、民の恐怖を煽ります。……しかし、殺し尽くす前に寸止めにし、そこで荀彧殿の言う『寛容な法』を絶妙な時機で発布する。

強烈な恐怖の直後に与えられた法と慈悲は、民の骨の髄まで浸透します。彼らは喜んで我々の下で鍬を握るでしょう。そうして得た労働力で、私は荒れ地を開墾させ、次の戦のための兵糧を蔵に満たしてご覧に入れる」

 

班稀は、手元の盃を指で弾いた。

 

「戦術で脅し、大義で救い、兵站で縛る。……どれか一つでは成り立ちません。三つが揃って、初めて国は動くのです」

 

その言葉に、部屋の中に一瞬、不思議な静寂が落ちた。

戯志才が、目を丸くして班稀を見つめている。

荀彧もまた、小さく息を呑み、班稀の顔をまじまじと見つめ返していた。

相反するはずの自分たちの意見が、班稀という『現実の仲介者』を通した瞬間、恐ろしいほどに完璧な一つの戦略として噛み合ったのだ。

 

「……ははっ! なるほど、俺が脅し役で、荀彧殿が救い主か。悪くない。戦場で好きに暴れられるのなら、後の後始末は任せておけばいいというわけだ」

 

戯志才が、愉快そうに手を叩いて笑い出した。

荀彧もまた、小さく微笑みを浮かべて深く頷いた。

 

「太守の威徳を示すために、一時的な武威という泥を被ることもまた辞さぬ……班稀殿、貴方のその柔軟な思考と実務の才には、恐れ入りました。私と戯志才殿だけでは、決して出なかった答えです」

 

「おだてても、兵糧の支給額は増やしませんよ」

 

班稀が涼しい顔で返すと、三人の間に、初めて声を出しての笑いが弾けた。

曹操は、その光景を玉座から見下ろしながら、背筋に心地よい震えが走るのを感じていた。

 

理想の「荀彧」

戦術の「戯志才」

現実の「班稀」

三者三様、全く異なる性質の歯車

 

しかし彼らは互いを否定するのではなく、己に欠けている部分を他者が完全に補い合える関係であることを、この僅かな対話だけで直感的に理解し合ってしまったのだ。

不思議なほどに、話の馬が合う。それは単なる友情などという生ぬるいものではなく、極限の知性同士が引かれ合う、奇跡のような化学反応であった。

 

曹操は、手元の杯の酒をグイと飲み干した。

 

 

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