四國志   作:丸亀導師

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列王 4

 

歴史というものは、ほんの些細な「目撃」によって、その後の巨大なうねりの軌道を完全に変えてしまうことがある。

この物語において、東の海から迫る未知の理の存在によって、最もその運命の軌道を激変させた男がいた。

 

北方の雄、公孫瓚(こうそんさん)。字を伯珪(はくけい)

 

時は少し遡り、西暦一八四年。

 

中原全土が「黄巾の乱」という未曾有の大反乱によって血の海に沈んでいた頃。公孫瓚は、その黄巾討伐の主力には加わっていなかった。彼は辺境である幽州(ゆうしゅう)に留まり、中原の混乱に乗じて決起した北方の異民族たちの反乱を鎮圧する任務に忙殺されていたのである。

 

ある日のこと。

 

遼西(りょうせい)の沿岸部で、反乱軍の小勢を蹴散らした公孫瓚は、血に濡れた槍の穂先を拭いながら、馬上でふと東の海——渤海(ぼっかい)の沖合へと視線を向けた。

 

「……ん?」

 

公孫瓚の鋭い双眸が、沖合を悠然と進む『奇妙な二つの影』を捉えた。

船であった。

だが、辺境の海辺で育ち、水軍や船の運用にも明るい公孫瓚の目に映ったその船の姿は、大漢帝国で一般的に使われているジャンク船(中国帆船)とは、明らかに異質であった。

 

船体は細長く、波を切り裂くような無骨な造りをしている。

そして何より公孫瓚の目を釘付けにしたのは、その船が張っていた「一枚の巨大なバテンセイル(網代帆・あじろほ)」であった。

 

中原の船も帆に竹の骨(バテン)を入れる技術は持っていたが、遠目に見えるその二隻の船は、風を受ける帆の角度、船体の傾き、そして波をいなす操舵の技術が、尋常の域を完全に超えていた。

 

逆風に近い風向きでありながら、その船は一枚の帆を巧みに操り、帆柱の角度を調整することで、まるで海の上を滑るように……いや、風そのものを手懐けたかのように、恐るべき速度で渤海を北上していたのである。

 

(……なんだ、あの船の動きは。漢の船ではない。高句麗のものでも、三韓のものでもない)

 

公孫瓚は、背筋に冷たい汗が伝うのを感じた。

 

(あれは、ただ航海しているのではない。二隻で一定の距離を保ち、我が大漢の沿岸部を地形に沿って舐めるように北上している。……『測量』しているのか? 渤海をぐるりと一周して、我が国の海の急所を調べ上げているというのか?)

 

航海術において、明らかに大漢帝国を凌駕する存在が、あの海の向こうにいる。

武勇に絶対の自信を持つ公孫瓚であったが、手の届かない海上から、己の庭を我が物顔で覗き見られているような気味の悪さに、彼はただ無言でその船影が水平線の彼方に消えるのを見送ることしかできなかった。

 

それからしばらく後。

公孫瓚は、洛陽の宮廷へと事後報告のために赴いた際、役人たちの間で囁かれている「ある噂」を耳にした。

 

『東の海の果てにある、()という小さな島国の使者が、我が大漢に対して無礼な振る舞いを行ったらしい』

 

『皇帝陛下の御前にて、属国としての礼をとらず、対等な口を利いたとか。全く、身の程を知らぬ東の蛮夷どもめ。毛皮を着た猿の分際で、中原の威光を理解できぬのだ』

 

宮廷の文官たちは、袖で口元を隠しながら、その「東夷の島国」を心底見下して嘲笑っていた。

だが、公孫瓚は一人、その場に立ち尽くし、全く笑うことができなかった。

周囲の役人たちの笑い声が、耳障りなノイズのように遠ざかっていく。

 

(……毛皮を着た猿、だと? 馬鹿な)

 

公孫瓚の脳裏に、あの渤海の沖合を、風を切り裂いて完璧な統率で進んでいった「二隻の船」の姿が鮮明に蘇った。

 

(あの見事な操船術。無駄の一切ない船の構造。……あれを造り、動かせる国が、未開の蛮族であるはずがない。奴らは、我々漢の人間を『観察』しに来たのだ。我々の強さを、弱さを、そして海の防りを、冷徹な目で値踏みしに来たのだ!)

 

無礼な振る舞いを行ったのではない。彼らは初めから、大漢帝国など恐れていなかったのだ。

あの海の向こうには、中原の人間が想像もしていないような、高度な技術と知性を持った「全く別の国」が息を潜めている。

その圧倒的な事実の前に、公孫瓚は己の傲慢さを打ち砕かれた。

そして、その日を境に、公孫瓚伯珪という男の「戦う理由」と「世界を見る目」は、他の諸侯とは全く異なる方向へと決定的に変生したのである。

 

 

時は降って、西暦一九一年。

幽州という北の辺境は、中原が董卓の暴政や諸侯の内乱で血の海となっている中にあって、奇跡的なほどの平穏を保っていた。

その平穏を生み出していたのは、幽州牧である劉虞(りゅうぐ)と、強力な騎馬隊「白馬義従(はくばぎじゅう)」を率いる公孫瓚という、二人の男の『完璧な連携』であった。

 

本来の歴史であれば、この二人は水と油である。

 

異民族に対して武力での徹底的な殲滅を掲げる公孫瓚と、恩徳によって懐柔しようとする平和主義者の劉虞。二人の思想は真っ向から対立し、やがて骨肉の争いへと発展する運命にあった。

 

だが、今の公孫瓚は違った。

 

彼は、かつてのように「北方の烏桓(うがん)鮮卑(せんぴ)といった異民族を皆殺しにする」という無益な執着を、とうの昔に捨て去っていたのだ。

 

「……伯珪(公孫瓚)よ。此度の烏桓族への交渉も、上手くいったぞ。彼らに鉄と塩を与え、自治を認めれば、決して我ら漢の国境を脅かすことはない」

 

温和な顔立ちの劉虞が、書状を手に微笑む。

 

「御意にございます、劉虞様。……劉虞様のその大いなる徳と懐柔策こそが、この北の辺境を無用な血から守る最善の手。異民族どもも、貴方様の人徳には逆らえますまい」

 

公孫瓚は、深々と頭を下げて劉虞の政策を全面から称賛し、支援した。

公孫瓚が劉虞の懐柔策を支持するようになった理由は、決して彼自身が平和主義に目覚めたからではない。

「北の異民族如きと、いちいち本気で殺し合って兵力(リソース)を消耗している場合ではない」という、極めて冷徹な地政学的判断からであった。

 

(烏桓や鮮卑など、所詮は点と点で動く野盗の群れに過ぎん。劉虞の甘い餌で大人しくなるのであれば、それに越したことはないのだ)

 

公孫瓚の視線は、常に東の海へと向けられていた。

あの渤海を悠々と進んでいた船。あれから数年、直接的な侵攻こそないものの、商人たちを通じて「東の方で、質の高い鉄がばら撒かれている」という不気味な噂が、彼の耳にも確実に届いていた。

 

(真の脅威は、海から来る。……私は、その見えざる脅威に対する『巨大な防波堤』をこの北の地に築き上げねばならん。そのためには、幽州を劉虞の懐柔策で無傷のまま安定させ、私自身の『白馬義従』は、中原の愚か者どもを平定するために温存しておかねばならないのだ)

 

公孫瓚は、劉虞という最高の内政官(盾)を立てることで、自らは後顧の憂いなく中原の覇権争い(矛)に集中できるという、極めて合理的な体制を構築していたのである。

 

 

その公孫瓚の元に、南から厄介な知らせが届いた。

反董卓連合の盟主である袁紹と対立している袁術が、長安の皇帝への使者として向かっていた劉虞の息子・劉和(りゅうわ))を南陽で捕らえ、事実上の『人質』として軟禁してしまったというのだ。

 

「袁公路(袁術)の奴め。我が父上を皇帝に祭り上げようという袁紹の目論見を潰すため、私を人質にして父上の動きを縛ろうというのか……!」

 

劉和からの密書を受け取った劉虞は、青ざめて震えた。

本来であれば、公孫瓚は従弟の公孫越(こうそんえつ)に数千の騎兵を預けて袁術の下へ派遣するところであった。

しかし、この世界線における公孫瓚は、そのような手ぬるい真似はしなかった。

 

「劉虞様、ご安心くだされ。……この公孫瓚が自ら赴き、若君の無事を確保してご覧に入れます」

 

「ば、伯珪自らか!? しかし、南陽は遠い。袁紹の領地も通らねばならんぞ」

 

「構いませぬ。私の『白馬義従』の機動力をもってすれば、袁紹の軍が気づく前に南陽まで駆け抜け、そして戻ってくることなど造作もないこと。……それに、私はあの袁術という男を、欠片ほども信用しておりませんので」

 

数日後。

南陽の袁術の陣営は、突如として巻き起こった土煙と、地響きに包まれた。

 

「な、なんだ!? 敵襲か!」

 

袁術が慌てて陣幕から飛び出すと、そこには見渡す限りの真っ白な駿馬に跨り、銀の鎧を煌めかせた数千の精鋭騎兵——天下に名高き『白馬義従』が、弓を引き絞った状態で袁術の陣を完全に包囲していた。

そして、その先頭から一騎の武将が進み出た。

公孫瓚その人である。

 

「公、公孫瓚殿!? なぜ貴殿が自ら、こんなところまで……!」

 

袁術は、額に脂汗を浮かべて後ずさった。

公孫瓚は馬から降りることすらなく、馬上から冷たく見下ろして言い放った。

 

「袁術殿。貴殿が劉和殿を保護してくださっていると聞き、劉虞様に代わって礼を言いに参った。……どうやら劉和殿は、長安へ行くには兵が足りず、ここに留まっているのだとか」

 

「あ、ああ、そうだ! だから私が……」

 

「ならば、私の直属の精鋭騎兵を、数百騎ここに置いていく。劉和殿の『護衛』としてな」

 

公孫瓚の目が、蛇のように細められた。

 

「これで、劉和殿の身の安全は完璧に守られよう。……袁術殿、まさかこの騎兵たちが、貴殿の寝首を掻かねばならぬような事態には、決してならぬと信じておりますぞ?」

 

それは保護などではない。

公孫瓚が自ら大軍を率いて乗り込み、袁術の喉元に物理的に匕首(騎兵)を突きつけ、人質に手出しをさせないための強烈な脅迫であった。

 

「わ、分かっておる……! 私と貴殿は、憎き袁紹を討つための同盟者ではないか!」

 

袁術が引き攣った笑いを浮かべると、公孫瓚はふんと鼻を鳴らして手綱を返した。

 

(袁術。名門の血筋を鼻にかけるだけの、底の浅い小悪党め。貴様などと同盟を結ぶ気など毛頭ない。……貴様はただ、私が憎き袁紹を背後から討つための『囮』として生かしておいてやるだけだ)

 

公孫瓚は、袁術陣営に騎兵を配置し、劉和の安全を確固たるものにすると、再び風のように北へと軍を返していった。

 

公孫瓚の当面の最大の敵は、冀州(きしゅう)を我が物にしようと虎視眈々と狙う袁紹である。

 

「袁本初(袁紹)。貴様が天下の覇権を握るなど、絶対に許さん。貴様のような、中原の泥の中で権力遊びに現を抜かしているような井の中の蛙では、この国は確実に滅びるのだ」

 

北へ向かって馬を駆けさせながら、公孫瓚は振り返らずに心の中で吐き捨てた。

曹操が悲しみを胸に「文勇」を得て修羅の道を歩み始めたように。

 

公孫瓚もまた、あの日見た『海の向こうの圧倒的な理』に対する恐怖と強迫観念から、己の進むべき覇道を完全に定めていた。

 

(私が、袁紹を叩き潰す。冀州と青州を手に入れ、大漢の東の沿岸部をすべてこの白馬義従で制圧する。……あの不気味な船を操る国が、いつ海を渡ってこようとも、私がこの中原の東の壁となり、すべてを叩き落としてやる!)

 

かつて異民族を殺戮することにのみ血道を上げていた辺境の武将は、東の国という強烈な外的要因によって己の視座を極限まで引き上げ、中原で最も海を警戒する「大漢の防波堤」となるべく覚醒した。

 

 

董卓の暴政によって大漢帝国が血と炎に沈む中、北の辺境・幽州は、奇跡のような平穏と繁栄を保っていた。

幽州牧・劉虞の「徳と懐柔」による内政。

そして、公孫瓚率いる「白馬義従」の圧倒的な武力。

 

本来ならば水と油であるはずの二人が、公孫瓚の「東の海への強烈な警戒」という独自の理由によって奇妙な連携を見せたことで、幽州は乱世における巨大な安全地帯として機能し始めていたのである。

 

そして、この絶妙な均衡を保つ幽州の地に、一人の男が客将として招かれていた。

公孫瓚の同門の友であり、黄巾討伐や反董卓連合で名乗りを上げながらも、未だ己の領地を持たずに天下を流浪していた男——劉備、字を玄徳である。

 

「おお、玄徳! よくぞ来てくれた!」

 

公孫瓚は、幽州へ到着した劉備の手を固く握り締め、満面の笑みで歓迎した。

劉備の背後には、彼の義兄弟であり、一騎当千の武勇を誇る関羽と張飛が、巨木のように静かに、しかし圧倒的な威圧感を放って控えている。

 

「伯珪(公孫瓚)兄。お招きいただき、感謝の言葉もありません。我ら三兄弟、兄上の覇業のため、この身を粉にして働く所存です」 

 

劉備が深く頭を下げると、公孫瓚は快活に笑い飛ばした。

 

「水臭いことを言うな。お前は俺の弟分だ。それに、関羽や張飛といった天下の猛将が味方についてくれるのだ、これほど心強いことはない」

 

こうして劉備は、公孫瓚の客将として幽州に身を寄せることとなった。

しかし、この劉備という男が持つ底知れぬ「人徳」は、公孫瓚のみならず、幽州のもう一人の最高権力者の心をも、瞬く間に魅了していくこととなる。

 

「劉玄徳殿と申されたか。……なるほど、噂に違わぬ清らかな眼をしておられる」

 

幽州牧・劉虞は、謁見に訪れた劉備と対座し、その穏やかな瞳で劉備の顔を真っ直ぐに見つめていた。

劉虞は、漢の宗室(皇族の血筋)であり、何よりも「徳」と「礼」を重んじる人物である。

 

一方の劉備もまた、中山靖王(ちゅうざんせいおう)の末裔を自称する劉氏の一族であった。血筋の繋がりもさることながら、劉虞が劉備に強く惹かれたのは、その内面から滲み出る「政治的センスと、民を慈しむ天性の気質」であった。

 

公孫瓚は、確かに頼りになる無双の武将である。しかし、彼の根底にあるのはあくまで「力と冷徹な計算」であり、民の心に寄り添うような温かさは持っていない。

 

しかし、目の前にいる劉備は違った。

 

「玄徳殿。貴殿は、戦場で槍を振るうことよりも、民の声を聞き、土地を豊かにすることに喜びを見出す性質とお見受けする。……いかがかな。公孫瓚の武将としてだけでなく、私の下で政を手伝ってはくれまいか」

 

劉虞のこの異例の抜擢により、劉備は平原の相(長官)として、実際の行政を任されることとなった。

 

劉備はこれに見事に応えた。賊の侵入を関羽と張飛の武力で完全に防ぎつつ、民の税を軽くし、身分を問わず同じ卓で飯を食い、常に民と同じ目線で語り合った。その恩徳により、平原の地は瞬く間に豊かになり、他郡からも劉備の徳を慕って多くの民が逃げ込んでくるようになったのである。

 

「素晴らしい……。公孫瓚の武の力ではなく、玄徳殿の『徳』の力こそが、真に人の心を一つにする」

 

劉虞は、劉備のその為政者としての手腕を絶賛した。

公孫瓚とは対極にある「徳による統治」。

劉虞は、劉備の中に「荒れ果てた大漢帝国に王道を取り戻すための、ひとつの希望の光」を見出していた。同じ劉氏として、彼は劉備を我が子のように重用し、その発言力を日増しに高めていったのである。

 

幽州の最高権力者である劉虞からそこまで寵愛を受ければ、普通であれば直属の主ある公孫瓚から嫉妬や警戒をされてもおかしくない。

だが、公孫瓚もまた、劉備を深く愛していた。

 

むしろ、劉虞が劉備を重用することを、公孫瓚はどこか安堵したような目で見守っていたのだ。

ある夜、公孫瓚は陣屋に劉備と関羽、張飛の三兄弟だけを招き、酒宴を開いていた。

 

「飲め、玄徳! 雲長(関羽)も、益徳(張飛)も、遠慮はいらんぞ。お前たちの平原での見事な働き、我が軍の誇りだ!」

 

公孫瓚は上機嫌で酒を呷り、三兄弟に次々と杯を勧めた。

張飛が大声で笑いながら酒壺をあおり、関羽が静かに杯を干す。その二人の豪傑を、劉備が穏やかな笑みを浮かべて見守っている。

 

「……玄徳よ」

 

ふと、公孫瓚が真顔になり、劉備の肩に重い手を置いた。

 

「伯珪兄、いかがなされました?」

 

公孫瓚の鋭い眼光が、揺れる篝火の中で静かに光った。

 

「お前は、劉虞様の下で政を学び、民の心を掴んだ。そしてお前の両脇には、天下無双の刃がある。……お前はもう、ただの流浪の将ではない。一つの国を背負って立つだけの『器』になったのだ」

 

「買い被りすぎです。私はただ、兄上や劉虞様のお力添えあってこそ……」 

 

「いいや、俺の目は誤魔化せん」

 

公孫瓚は、手元の杯を卓に置き、驚くべき言葉を口にした。

 

「玄徳。もしも俺が……これから始まる激しい戦の中で死ぬようなことがあったら。俺の命とも言える精鋭騎兵『白馬義従』のすべてを、お前に任せる。お前が引き継いでくれ」

 

「なっ……!?」

 

劉備だけでなく、静かに飲んでいた関羽も、大声で笑っていた張飛も、その言葉にハッと息を呑んで公孫瓚を見つめた。

 

「伯珪兄! 縁起でもないことを仰らないでください! 第一、白馬義従は兄上の魂そのもの。それを私のような客将に譲るなど……」 

 

「客将だからこそだ」

 

公孫瓚は、劉備の言葉を遮り、低い声で言った。

 

「俺は、これから袁紹と死闘を繰り広げる。……だが、俺の本当の眼は、袁紹の首の向こう側、あの不気味な『東の海』に向けられているのだ」

 

公孫瓚の言葉に、劉備は怪訝な顔をした。東の海。その意味するところを、まだ劉備は深く理解してはいなかった。

 

「詳しいことは、今は言えん。だが、俺がもし志半ばで倒れた時。ただ武力だけしか持たぬ将では、幽州は守りきれん。劉虞様のように徳だけでも、海の向こうの脅威には太刀打ちできない」

 

公孫瓚は、劉備の目を真っ直ぐに射抜いた。

 

「俺の『武』と、劉虞様の『徳』。その両方の間に立ち、両方を繋ぎ合わせることができるのは、玄徳、お前しかいないのだ。お前になら、俺の背後を……いや、この大漢の北の果てを、安心して託すことができる」

 

それは、己の死をも覚悟した男の、究極の信頼の証であった。

武威と冷徹な計算で動く公孫瓚が、唯一、損得を抜きにして心を許せる「同門の義弟」への、絶対的な託宣。

劉備は、公孫瓚の眼の奥にある強烈な覚悟と、得体の知れない「何か」に対する強迫観念のような焦りを感じ取り、息を呑んで深く頭を下げた。

 

「……兄上。そのお言葉、身に余る光栄にございます。しかし、兄上には死なせません。この劉玄徳、そして関羽、張飛の三兄弟が、兄上の盾となり矛となり、必ずやその覇業をお支えいたします」

 

「おう! 俺の蛇矛が、敵の首をすべて薙ぎ払ってやるわ!」

 

「兄上の背中、この関雲長がしかとお守りいたします」

 

三兄弟の熱い誓いに、公孫瓚は満足げに深く頷き、再び酒杯を高く掲げた。

 

劉虞の徳に愛され、公孫瓚の武に絶対の信頼を置かれた劉備。

彼という「奇跡の接着剤」の存在により、本来ならば破綻するはずだった公孫瓚と劉虞の路線対立は完全に塞がれ、幽州は巨大な岩盤のように強固な地盤を形成した。

後顧の憂いを完全に絶った公孫瓚は、ついにその牙を剥き出しにする

「時は満ちた。全軍に告ぐ! 標的は冀州(きしゅう)、盟主気取りの袁紹本初(えんしょうほんしょ)の首一つである!」

 

西暦一九一年の暮れ。

公孫瓚は、幽州の精鋭と白馬義従、そして劉備三兄弟を従え、怒涛の勢いで南下を開始した。

 

袁紹を打ち破り、東の沿岸部をすべて己の支配下に置き、やがて来るべき「海の向こうの見えざる脅威」に対する絶対的な防波堤を築き上げる。その巨大すぎる野望を成し遂げるための、最初の、そして最大の障壁を取り除くための進軍。

 

迎え撃つ袁紹もまた、冀州の豊かな兵糧と精鋭の弩兵(どへい)を率い、界橋(かいきょう)の地へと軍を進める。

北方の白馬か、名門の威光か。

 

曹操が東郡で己の牙を研ぎ澄ませているのと同じ頃、河北の覇権を懸けた血で血を洗う死闘の幕が、今まさに切って落とされようとしていた。

 

 

しかし……。

群雄たちが血で血を洗う覇権争いに明け暮れ、大漢帝国がゆっくりと、しかし確実に崩壊の淵へと沈んでいく騒乱の中。

 

その狂騒を、まるで舞台上の喜劇でも眺めるかのような、ひどく冷めきった眼差しで見つめている者たちがいた。

中原の各地を渡り歩き、諸侯や富裕な貴族、あるいは難を逃れた元・宦官たちの屋敷を密かに出入りする、正体不明の商人たちである。

 

「……おお、見事な赤だ。まるで若き乙女の生き血のようではないか」

 

ある薄暗い豪邸の一室。

絹の衣を纏った恰幅の良い貴族が、木箱に敷き詰められた「深紅の砂」を指先で掬い上げ、恍惚としたため息を漏らしていた。

 

「お目が高い。これぞ、東の海の果て、神仙(しんせん)が住まうとされる蓬莱(ほうらい)の島より持ち込まれた極上の『辰砂(しんしゃ)』にございます」

 

頭を深く下げ、揉み手をして見せる初老の商人は、恭しい笑みを浮かべながら言葉を紡ぐ。

 

「この辰砂は、ただの顔料ではございませぬ。特別な練丹術(れんたんじゅつ)によって精製された、まさに『不死の妙薬』。これを少量の酒に溶かし、日々お飲みになれば、老いた内臓は若返り、寿命は天の神々と同じ長さにまで延びると言われております」

 

「素晴らしい……! 董卓の暴政に怯え、いつ首と胴体が離れるか分からぬこの乱世。力や金など何の意味もない、最後に勝つのは『最も長く生きた者』なのだ。……言い値で買おう。すべて置いていけ」

 

貴族は商人に砂金と高価な絹織物を惜しげもなく渡し、深紅の砂——辰砂の入った箱を、宝物のように大事に抱え込んだ。

 

「毎度、ありがとうございます。旦那様の末永きご健勝を、心よりお祈り申し上げます」

 

商人は平身低頭して屋敷を後にした。

しかし、重い門が閉まり、貴族の視線が完全に遮断された瞬間。初老の商人の顔に張り付いていた卑屈な愛想笑いは、冬の湖面のように冷たく、一切の感情を持たない無機質な表情へと一変した。

 

「……愚かな豚め。不老不死だと? 少しずつ己の内臓と脳髄を腐らせているとも知らずに、よくもまああんな気味の悪いものを喜んで飲むものだ」

 

商人は、路地裏で待機していた手代(てだい)の男に金目の物を放り投げながら、漢語とは全く違う、独特の抑揚を持った「和語」で吐き捨てた。

 

彼らが売り歩いている「辰砂」——その正体は、水銀(硫化水銀)である。

 

大漢帝国において、辰砂は道教の神仙思想と結びつき、不老不死の薬(仙丹)の主成分として、権力者や貴族たちの間で異常なほどの高値で取引されていた。

 

しかし、この商人たちは、その辰砂の恐るべき真実を熟知していた。 

 

彼らの本当の正体。それは、単なる利を求める商人などではない。東の大国・「大和国(日本)」から中原へと潜入し、全土に張り巡らされた巨大な情報網の末端を担う工作員たちであった。

 

日本国において、辰砂(水銀)の扱いは極めて厳格である。

彼らの国には高度な医学と本草学の知識が蓄積されており、「水銀は人体を破壊し、精神を狂わせ、死に至らしめる猛毒である」という事実が常識として共有されている。

 

そのため、大和国で辰砂が用いられるのは、書物や木簡に記すための「朱墨」や、建物の防腐剤を兼ねた「顔料」など、極めて限定された工業用途のみであり、化粧品として肌に塗ることすら固く禁じられている。

 

大和の人間からすれば、猛毒を「長寿の薬」と信じて喜んで飲み込む漢の貴族たちは、文字通り「狂人」にしか見えなかった。

だが、彼らは決してその間違いを指摘しない。むしろ、積極的に「不死の妙薬」として漢の権力者たちに売り捌き、莫大な富を搾り取っていた。

 

(我々の国では顔料にしか使わぬ有毒の石が、この中原では金や真珠と同等の価値で売れる。……しかも、厄介な漢の権力者どもが、自ら金を払って勝手に寿命を縮め、頭を狂わせて死んでいってくれるのだ。これほど効率の良い『侵略』は他にない)

 

彼らは、中原の人間に対して一切の情を抱いていなかった。

大和の冷徹な理(システム)においては、敵国の権力層が自発的に猛毒を摂取し、国力を低下させてくれるのであれば、それに越したことはない。彼らは辰砂を「遅効性の毒の刃」として中原の心臓部にばら撒き続けていたのである。

 

そして、この「死の商人」たちが負っているもう一つの、そして最大の任務。

それは、中原の権力者たちと深く結びつき、大漢帝国の内情を丸裸にするための「情報の収集と操作」であった。

彼らは辰砂や美しい真珠を賄賂として使い、洛陽の十常侍や、地方の太守たちと太いパイプを構築していた。 

 

軍がどこへ向かったか、今年の麦の収穫量はどれほどか、どの諸侯とどの諸侯が手を結ぼうとしているか。そうした中原の命脈に関わるすべての極秘情報が、彼ら商人を通じて集められ、暗号化されて東の海を渡り、任那(鎮守府や長岡京へと送られていく。

 

かつて班稀が洛陽で宦官に媚びへつらい情報を集めていた時、その裏で糸を引いていたのも彼らであった。

さらにもう一つ、彼らが宮廷や市場で意図的に流布し続けていた「決定的な嘘」がある。 

 

「おお、東の海の向こうの国ですか? ええ、私も船で少しだけ立ち寄ったことがありますが、酷いところですよ」

 

商人は、酒場で中原の役人を相手に、顔をしかめて見せる。

 

「連中は言葉も通じず、顔や体に気味の悪い墨(刺青)を入れ、獣の毛皮を纏って素潜りで魚を捕るばかりの、未開の野蛮人(倭人)どもです。まともな都も、法もありません。辰砂が採れる山はありますが、連中にはその価値も分かっていないので、安く買い叩けるというわけです。……漢の威光など、遠く及ばぬ猿の島国にございますよ」

 

これこそが、大和国が中原の目を完全に欺くために仕掛けた、国家規模の偽装工作であった。

 

大漢帝国の宮廷で、役人たちが「東夷の島国など、毛皮を着た猿の集まりだ」と嘲笑っていたのは、中原の人間が勝手に勘違いしていただけではない。大和国の商人たちが何十年にもわたって、「我々は野蛮で無力な未開人である」という嘘の情報を、中原の常識として意図的に植え付け続けていたからなのだ。

 

すべては、己の真の国力と、「律令」の存在を隠し通すため。

 

そして、中原の群雄たちが己の覇権争いに現を抜かしている間に、半島の南端に強固な防衛線を築き上げ、来たるべき衝突の日に向けて刃を研ぎ澄ます時間を稼ぐためである。

 

「さて……次は徐州の陶謙(とうけん)の元へ向かおうか。あそこの老いぼれも、近頃は死を恐れて『神仙』に傾倒していると聞く。極上の辰砂(どく)を、たんまりと売りつけてやろう」

 

「へい。それに、曹操が東郡を手に入れ、公孫瓚が南下を始めたという情報も、早急に本国へ送らねばなりませんからね」

 

路地裏の影の中。

大和の密偵たちは、懐にずっしりと重い中原の富を抱えながら、血で血を洗う漢の動乱を嘲笑うかのように、音もなく次の標的へと姿を消していった。

中原の群雄たちが、己の武威と知略を尽くして死闘を繰り広げているその足元で。

 

絶対的な規律と冷徹な合理性を持った『異界の触手』は、静かに、そして確実に、大漢帝国の毛細血管の隅々にまで猛毒と偽りの情報を流し込み続けていたのである。

 

 

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