四國志   作:丸亀導師

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日出処の天子

 

大和国がその心臓部を「長岡京」へと遷都してより、早200余年の歳月が流れていた。

 

広大な巨椋池(おぐらいけ)の水系を完璧に制御し、中華の「条坊制」を大和流に作り替えたこの水都は、大陸のいかなる都とも異なる威容を誇っていた。都市の血脈たる運河が碁盤の目のように幾重にも走り、小型の関船や小早が音もなく滑るように物資を運んでいく。

 

この都に、中華の宮殿に見られるような朱塗り(丹塗り)や、極彩色の緑や金といった豪奢な装飾は一切存在しない。

大和の美学、すなわち神道の「清浄」と「穢れのなさ」を具現化した都市は、徹底して「白」と「黒」のみで彩られていた。

分厚い漆喰で塗り固められた白壁。

 

防火と防腐のために表面を黒く焼き付けられた堅牢な柱。

そして、建物の頭上を覆うのは、漢の技術を奪い取り、独自に改良を重ねた「黒鋼のようないぶし銀の瓦」である。

 

大和の建築には、大陸特有の優美に反り返る屋根の形はない。

 

屋根の輪郭は、算術によって定規で引いたように真っ直ぐであり、急角度の切妻(きりづま)が天を切り裂くようにそびえ立っている。その黒瓦の頂点には、巨大な丸太の「堅魚木(かつおぎ)」が並び、両端からはV字型に交差した鋭い「千木(ちぎ)」が天を衝いていた。

 

遠く瀬戸内の海から長岡京を望めば、巨大な黒い波の上に、無数の鋭い千木が「槍衾(やりぶすま)」のように突き出しているのが見える。それは、この海国が内に秘めた鋭い牙と、他国の干渉を絶対に許さないという厳格な武威を、視覚的に見せつける絶望の光景であった。

 

大内裏の中心に鎮座する大極殿、および朝堂院。

ここは、湿気を防ぎつつ権威を示すための「巨大な石の基壇」の上に建てられていた。さながら、堅牢な石の土台の上に築かれた白木の神殿である。

 

内部を見上げれば、そこには大和の職人たちが漢の「斗栱(ときょう)」の作りを解明し、さらに強固に組み上げた驚異的な木組みの技があった。梁や柱の接合部はあえて天井板で隠されず、筋交いを幾重にも張り巡らせた骨組みが剥き出しになっている。

 

装飾ではなく、ただ建物を支えるという(ことわり)のみを追求したその「計算された木組みの美」が、空間全体に張り詰めた空気を生み出していた。

 

「——征東将軍より、早馬にて急報にございます」

 

朝堂の静寂を破り、伝令の足音が響く。

長岡京の踏み固められた道、そして大内裏の庭には、塩で清められた真っ白な玉砂利が敷き詰められている。馬の蹄や人の歩みが必ず鋭い音を立てるよう計算された、巨大な警戒の仕掛けである。

 

玉座である石の基壇の上。

御簾の奥には、天照大御神の直系たる現人神——大和の大王(天皇)が静かに座している。その眼下には、冠位十二階に基づき、血筋ではなく「算術」と「武功」によってその座を勝ち取った太政官や神祇官の大臣、そして将軍たちが平伏していた。

 

「面を上げよ。征東将軍・坂ノ上の報告を聞こう」

 

太政大臣の静かな声に促され、竹簡を手にした書記官が進み出た。

 

「はっ。征東将軍の報によれば、東北蝦夷(えみし)の諸属の帰順、概ね順調に進んでおります。未だ一部の山間部にて抵抗を続ける族長もおりますが、我が軍の槍衾と弩の前に陣立ては維持されております」

 

書記官は、顔色一つ変えずに淡々と読み上げる。

 

「彼らの兵糧は既に底を突いており、十七条憲法・第一条が示す『和』の道に彼らを完全に組み込むのも、もはや時間の問題であるとのこと。また、降伏した蝦夷の若者は、直ちに水軍の漕手として調練を施しております」

 

大臣たちは無言で頷き合った。東の憂いは消えた。大和の「算盤」の通りに事は運んでいる。

 

「次に、九州・大宰府の征西将軍より報告」

 

別の書記官が立ち上がる。

 

「遥か西の海域、黒潮の源流に近い海域にて、点在する島々(琉球)と、そこに住まう独自の部族を発見いたしました。彼らは大陸とも異なる風習を持ち、優れた操船の術を有しております。現在、有力な者たちと交易を通じた交渉に入っております」

 

これに対し、左大臣が口を開いた。

 

「力押しだけで屈服させるのは下策。彼らの知見と航海術は我が国の糧となる。しかし……」

 

左大臣は鋭い眼差しで周囲を見渡した。

 

「力を見せねば、算盤の弾き方を間違える輩もいる。関船の大艦隊を三島に派遣し、沖合から青銅石弓による『演習』を見せつけよ。さすれば、彼らも喜んで我が大和の『和』に入るであろう」

 

大臣たちは再び静かに頷いた。私情を挟まぬ徹底した実利の追求。それが大和の政治であった。

 

「……最後に。任那(みまな)鎮守府将軍より、至急の報にございます」

 

その一言で、朝堂の空気が一段と張り詰めた。

国の生命線、防衛の要たる朝鮮半島南部の直轄領からの報告である。

 

「ここ数月、半島北部より下ってくる流浪の民の数が急激に増加しております。彼らの証言、ならびに我が国の商人たちが集めた探りによれば——中華全土に『黄色の頭巾』を被った妖術使いの集団が蜂起し、洛陽の朝廷は完全に(まつりごと)を失いつつあるとのこと」

 

朝堂に、ざわめきが広がった。

 

「ついに、か」

 

「以前より商人が流していた風説通り、漢の命脈が尽きようとしている……」

 

大陸で幾千万の民が殺し合う、未曾有の戦乱が始まる。

その事実を前に、何人かの大臣は背筋に冷たいものを感じた。いかに海を隔てているとはいえ、その波紋は必ず海を越えてくる。

その時だった。

 

列座の中から、右大臣が静かに立ち上がった。彼は大陸の情勢分析と外交を一手に見る、私情を排した知将であった。

 

「陛下、並びに諸卿。恐れることは何もありませぬ。むしろ、今こそが『その時』なのです」

 

右大臣の力強い声が、剥き出しの木組みの天井に反響した。

 

「漢は腐り落ちようとしております。間もなく大陸は群雄が割拠し、血で血を洗う泥沼へと沈むでしょう。我が国はこれまで、漢の皇帝に対して『東夷の属国』として朝貢し、彼らを油断させ、技術を啜り上げてきました。しかし……もうその仮面を被る必要はありません」

 

右大臣は玉座に向かって深く一礼し、言葉を継いだ。

 

「今、漢へと使者を送りましょう。しかし、貢ぎ物を持たせた属国としてではなく、海を束ねる全く対等な国として。我が大和が、中華の枠組みから完全に独立した不可侵の国であることを、あの崩れゆく大陸に見せつけるのです!」

 

「な、早まるな右大臣!」

 

古参の大臣が声を荒げた。

 

「いかに漢が乱れようと、腐っても巨大な国。不用意に刺激すれば、矛先が我が任那に向かうやもしれんぞ!」

 

「否! 乱れているからこそ、今のうちに強力な国境線を引くのだ。海に手を出せば手痛い反撃を受けると、奴らの骨髄に刻み込ませるために!」

 

朝堂は、激しい議論の渦に包まれた。

海を閉ざして嵐が過ぎるのを待つか。それとも、この機に乗じて東の海における絶対的な支配を宣言するか。

 

「——静まれ」

 

玉座の奥から、低く、しかし空間の全てを鎮める声が響いた。

大王(天皇)の声であった。

その一言で、大臣たちの激論は嘘のように止み、朝堂は玉砂利の擦れる音さえ聞こえない完全な静寂に包まれた。

御簾の向こうで、大王はゆっくりと頷いた。

 

「右大臣の言、もっともである。我らは万世一系、この葦原中国を永遠に統べる者。大陸の有象無象の争いに巻き込まれる謂れはない。我らが『何者』であるか、知らしめる時が来た」

 

大王の決断は下った。十七条憲法に則り、一切の感情を排した、大局的な見地に基づく「独立宣言」であった。

 

「書記官。直ちに国書を認めよ」

 

大王の命を受け、最高位の能筆家が進み出て、真新しい竹簡を開いた。大和の総意を込めた、歴史を覆す一筆である。

 

「始めの句は……いかがなさいましょうか」

 

大王は、東の空に昇りつつある太陽を見つめながら、静かに、そして力強く宣言した。

 

「——『日出処の天子、書を日没する処の天子に致す。つつがなきや』と」

 

ここに、一つの時代が終わった。

東の海で研ぎ澄まされた黒鋼の艦隊が、その鋭い牙を隠すことなく、長江を目指して抜錨する。三国志という血塗られた英傑たちの時代に、一切の私情を挟まず(ことわり)のみで動く強大な海国が、その重い影を落とそうとしていた。

 

 

中原から海を隔てた朝鮮半島の最南端、大和国の絶対国防圏たる任那(みまな)の地。

そこには、大陸の戦乱の足音とは無縁の、しかしそれ以上に張り詰めた空気が漂っていた。 

 

港には、大和の「輸送安宅(ゆそうあたけ)」が幾隻も横付けされ、その巨大な船腹には、精錬されたばかりの鉄の塊が次々と運び込まれていく。山背の奥深くからは、昼夜を問わず鉄を打つ音が響き、立ち上る黒煙は空を焦がさんばかりであった。

 

ここ任那は、大和帝国にとっての巨大な「心臓」であった。

ここから送り出される鉄が、列島の農具となり、武具となり、国家の屋台骨を支えている。この流れが一日でも滞れば、帝国の拡大は止まり、その均衡は崩れる。

その心臓の鼓動を、一分一秒の狂いもなく管理している男がいた。

 

任那鎮守将軍、木理 扶明(もくり ふみょう)である。

 

扶明は、大和の大内裏にあるような優美な寝所を好まなかった。彼の居室は、鎮守府の最深部にある、四方を竹簡と計算用の算木(さんぎ)に囲まれた無機質な空間である。

 

「……本日の鉄の産出量、当初の予測を二分上回る。されど、釜の修繕に三日を要する。その間の不足分は、予備の備蓄より補填せよ。輸送安宅の出航を半刻早め、潮の流れを計算に入れれば、長岡京への到着に遅れは生じぬ」

 

扶明の指先が、卓の上の算木を素早く弾く。

彼にとって、戦争とは華々しい武勲の場ではない。それは、鉄の産出量と、兵糧の消費量、そして兵の移動速度という、膨大な「数」を調和させるための高度な事務作業であった。

十七条憲法・第四条。

『民を治める本は規律にあり、軍を動かす本は算にあり』。

扶明はこの教えを、誰よりも忠実に、そして徹底して己の血肉としていた。

 

「将軍。失礼いたします」

 

重厚な木の扉が開き、副官が進み出た。その手には、新たな報告が記された竹簡が握られている。

扶明は算木を置くことなく、視線だけを向けた。

 

「北方の警備隊より報告にございます。また新たな難民の群れが、楽浪郡を越えて押し寄せております。その数、およそ三千。前回よりもその規模が増しております」

 

「三千か……」

 

扶明の脳内で、瞬時に算盤が弾かれる。三千人が消費する一日の米の量、彼らを収容するために必要な土地の面積、そして、そこから発生しうる疫病の危険性と、それを防ぐための清浄の儀(防疫)に必要な塩の量。

 

「文字を読み書きできる者はどれほどいる」

 

「はっ。今回の群れには、楽浪郡の役人や、中原より逃れてきた学識の徒が数十名含まれているとのこと」

 

「よろしい。その者らを隔離し、墨と筆を与えよ。彼らが知る限りの大陸の情勢、地勢、そして張角なる賊の動向を余さず記させよ。知識は、いかなる鋼の剣よりも鋭き武器となる」

 

扶明の指示は、淀みがない。

彼は難民を、単なる憐れむべき対象としては見ていなかった。彼らは、大陸から「知」という宝を運んでくる生きた資材であり、同時に、大和の「仕組み」に組み込むべき新たな労働力であった。

 

「兵糧の備蓄には未だ五年の余裕がある。されど、無計画な施しは民の慢心を生む。難民のうち、体健やかなる者には即座に鉄山での労役、あるいは道路の整備を命じよ。十七条憲法・第十六条に則り、職を与え、糧を配給する。彼らを帝国の歯車として回し始めるのだ」

 

「承知いたしました」

 

副官が退こうとした時、扶明は一言付け加えた。 

 

「……彼らの中に、漢の宮廷の礼節を知る者がおれば、丁重に扱え。近く大和より、大陸への使者が発たれる。その際の露払いとして、奴らの知識が必要になる」

 

副官は驚きに目を見開いた。

 

「大陸への使者……。今、あの火の海の中へ向かわれるのですか?」

 

扶明は、再び算木に手を伸ばした。

(ことわり)で考えよ。中原が乱れている今こそ、我らが『対等なる隣国』であることを認めさせる好機。混乱の中では、理に適った強固な意思を持つ者こそが、盤面を支配するのだ」

 

 

その日の夕刻、扶明は難民の中から選別された知識層の一人と対峙した。

男はかつて漢の官吏であったというが、その衣は汚れ、目には深い絶望が宿っていた。しかし、扶明が差し出した白木の机と、整然と並べられた竹簡を目にすると、男は微かに理知の光を取り戻した。

 

「……将軍、大和の国の有様には驚かされるばかりだ」

 

男は掠れた声で語り始めた。 

 

「漢の地は、もはや人の住む場所ではありませぬ。黄色い布を巻いた徒が村々を焼き、官軍は私欲に走り、帝の言葉は宮城の壁を一歩も越えぬ。道は途絶え、糧は奪われ、ただ強い者が弱い者を喰らうだけの、獣の世にございます」

 

扶明は男の言葉を遮ることなく、一字一句を正確に自ら「かな文字」で記録していった。

男が語る、張角の太平道、十常侍の専横、そして各地で産声を上げ始めた「英雄」と称される野心家たちの名。

 

扶明はそれらの名を、算木のように脳内で配置し直す。

 

「彼らは、何を求めて戦っているのだ。天下を一つにまとめ、どのような法を敷こうとしている」

 

「分かりませぬ。彼らが語るのは『天命』や『大義』ばかり。されど、足元の民が明日食う米のことなど、誰一人として計算しておらぬように見えました」

 

扶明は、ふっと鼻で笑った。

 

「天命、か。数にできぬものを信じるから、国が傾くのだ」

 

扶明にとって、国家とは「民の腹を満たし、外敵を寄せ付けぬための精緻な仕組み」そのものである。そこに個人の感情や、実体のない天命などが入り込む余地はない。

 

「我が大和は違う」

 

扶明は男を真っ直ぐに見据えた。

 

「ここでは、君臣の和があり、算術に基づいた理がある。そなたが持つ漢の知識を、我が帝国の理に捧げよ。さすれば、そなたの一族にはこの任那の地で、漢のどのような最盛期よりも安定した暮らしを約束しよう」

 

男は、扶明のその私情を排した、しかし絶対的な自信に満ちた言葉に、震えながら平伏した。

 

 

男を退かせた後、扶明は窓の外に広がる任那の港を眺めた。

日は落ち、港には無数の松明が灯っている。その明かりの下で、大和の兵たちは一糸乱れぬ動きで、夜を徹して鉄の積み込みを続けていた。

扶明は懐から、大和から届いたばかりの文を取り出した。

そこには、大王(天皇)の決断と、右大臣が認めたあの国書の文言が記されていた。

 

『日出処の天子、書を日没する処の天子に致す——』

 

扶明の口元が、わずかに緩んだ。

 

「大陸が『英雄』という名の熱病に浮かされている間に、我らは冷ややかに海を(とざ)し、彼らの技術と人を吸い上げる。そして奴らが疲れ果てた頃、我らは揺るぎない理を以て、海を支配する」

 

彼は再び卓に戻り、算木を手にした。

今度の計算は、これまでのものより遥かに複雑であった。

それは、これから始まる「三国の争乱」を、いかにして大和の利益へと変換し、その期間をどれだけ引き延ばすかという、歴史そのものの計算であった。

 

「兵を動かす本は、算にあり」

 

扶明の声が、静かな部屋に響く。

任那の鉄山から聞こえる槌の音は、さながら迫りくる戦乱の時代を刻む、正確な時計の音のようであった。

大和という名の巨大な船は、今、荒れ狂う中原の海へと、静かに、しかし力強くその船首を向けたのである。

 

 

 

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