四國志   作:丸亀導師

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天命の章
天命


 

劉虞(りゅうぐ)は激怒した。

かの邪智暴虐(じゃちぼうぎゃく)なる者に、天の鉄槌を下さねばならぬと決意した。

 

幽州(ゆうしゅう)の治所である(けい)の庁舎。

普段は温厚篤実であり、荒ぶる異民族でさえもその徳と笑顔で包み込み、懐柔してきた大漢の宗室たる劉虞の顔は、今や修羅のごとく朱に染まり、わなわなと激しい怒りに打ち震えていた。

 

「言語道断……! 痴れ者が、断じて許されることではないッ!!」

 

劉虞が激しく卓を叩く音が、広間に雷鳴のように響き渡った。

彼の目の前の卓には、一通の竹簡が投げ出されている。それは、反董卓連合の盟主として名高い渤海太守(ぼっかいたいしゅ)・袁紹から、幽州の武の要である公孫瓚へと密かに宛てられた書状であった。

 

劉虞に、複雑な軍事の駆け引きや、戦場での細かな戦術は分からない。

 

しかし、大漢帝国の正統なる法と、君臣の義については誰よりも熟知しており、それを何よりも重んじていた。

 

「袁紹本初(ほんしょ)。四世三公の名門の血を引き、国賊・董卓を討つために義兵を挙げた男だとばかり思っていたが……その本性は、己の領土欲のために同胞を食い殺そうとする浅ましい獣に過ぎなかったか!」

 

劉協(献帝)が長安へ連れ去られた今、中原の秩序は崩壊しつつあった。

だが、それでもなお「冀州牧(きしゅうぼく)」という役職は、大漢帝国が正式に韓馥(かんふく)という人物に任命したものである。袁紹は単なる一太守、あるいは一将軍に過ぎない。

 

その一将軍が、あろうことか隣国の武将を(そそのか)し、結託して正当なる州の長官を軍事力で脅かし、冀州という巨大な領土を武力で奪い取ろうと持ちかけてきたのだ。

 

「己の主君にも等しい者を武力で脅かし、領地をかすめ取ろうなどと……それはもはや、董卓と同じ『反逆』に他ならぬ! 漢室を蔑ろにする極悪非道の振る舞いである!」

 

劉虞の怒号が、静まり返った広間にビリビリと反響した。

そして、その激怒する劉虞の御前で、静かに片膝をつき、恭しく頭を垂れている男がいた。

この謀略の書状を、自ら劉虞の元へと持参した白馬の将——公孫瓚伯珪であった。

 

時を少し遡る。

袁紹からの密書を受け取った時、公孫瓚は自らの陣屋でそれを読み、冷ややかな鼻で笑っていた。

書状の内容は、極めて甘美な誘惑であった。

 

『公孫将軍の無双の白馬義従をもって、北から冀州へ攻め込んでいただきたい。それに呼応して私も南から兵を動かす。小心者の韓馥は震え上がり、戦わずして我々に冀州を差し出すだろう。事を成した暁には、冀州の豊かな土地と財を、将軍と二分しようではないか』

 

正史における公孫瓚であれば、この提案に飛びついていた。

功を焦り、武の力で己の領地を拡大することにしか興味のなかったかつての彼ならば、「袁紹と共に冀州を奪えば、莫大な富と名声が手に入る」と短絡的に考え、喜んで全軍を南下させていただろう。

 

そして結果的に、公孫瓚の軍勢の恐ろしさにパニックを起こした韓馥が、あっさりと袁紹に冀州を明け渡してしまい、公孫瓚は利用されるだけ利用されて「梯子を外される」という最悪の結末を迎えるのだ。

 

袁紹は、公孫瓚を「武勇には優れるが、政治的思慮に欠ける単純な猛犬」と見下し、己が手を汚さずに冀州を手に入れるための『脅しの道具(囮)』として使おうとしていたのである。

 

だが。

 

東の海(日本)から迫る、得体の知れない「理」の脅威を肌で感じ取り、その強迫観念によって世界の見方を完全に変生させていた今の公孫瓚は、袁紹のその底の浅い罠など、とうの昔に見抜いていた。

 

(……馬鹿め。私が北から攻め込めば、怯えた韓馥は、同じ冀州内にいる貴様に泣きつき、貴様を「守り神」として冀州を譲り渡す算段だろう。私はただの悪役として利用され、貴様が漁夫の利を得る。……見え透いた三文芝居だ)

 

公孫瓚は、書状を投げ捨て、鋭い眼光を東の空へ向けた。

 

(四世三公の名門だか何だか知らんが、中原の泥の中でそんな小賢しい騙し合いをしている暇があると思っているのか。……海の向こうには、我々の常識を根本から覆す巨大な化け物が、音もなく息を潜めているのだぞ)

 

公孫瓚の目的は、単なる略奪や手柄ではない。

東の海からの侵略に対する「絶対的な防波堤」を構築するために、冀州や青州といった東の沿岸部を「己の完全なる支配下」に置くことである。

 

袁紹の小間使いになって冀州を半分割り当てられるなどという、不安定で中途半端な状況は、断じて許容できなかった。極めて現実的に、そして盤石に自らの地盤を固める必要があったのだ。

そのためには、冀州を「奪う」のではなく、「正当な理由で袁紹を排除し、合法的に制圧する」ための**絶対的な大義名分**が必要であった。

 

「……良いだろう、袁本初。貴様が私を政治の駒として利用しようというのなら。私は、貴様が絶対に逆らえない『大漢帝国の権威』を利用して、貴様を合法的にすり潰してやる」

 

公孫瓚は、即座に劉虞の下へと向かったのである。

 

「……劉虞様」

 

広間で激怒する劉虞に対し、公孫瓚はことさらに悲痛な表情を作り、深く頭を下げた。

 

「私は辺境で槍を振るうことしか知らぬ、不器用な武人にございます。袁紹の誘いを受けた時、最初は冀州の賊を討つための大義かとも思いました。……しかし、大漢の恩徳を何よりも重んじる劉虞様の御側で学ばせていただいているうちに、これが大漢の法を冒涜する『反逆の企て』であることに思い至ったのです」

 

公孫瓚の言葉に、劉虞はハッとして、そして深く頷いた。

 

「伯珪。お前はよくぞ、目先の欲に目が眩むことなく、私にこの書状を見せてくれた。……武に生きるお前が、法の重みを理解し、大漢への忠義を選んでくれたこと、私は幽州牧としてこれほど誇らしいことはない」

 

劉虞は、完全に公孫瓚を「忠臣」として信じ切っていた。

劉虞の目に映る公孫瓚は、かつての異民族を力任せに虐殺していた凶暴な男ではなく、劉備と共に己の徳治政策を支え、漢室の危機には己の利益を捨てて報告に上がる、立派な大漢の将軍であった。

 

「劉虞様」

 

公孫瓚は、さらに言葉を重ねる。

 

「袁紹は、私が誘いに乗らぬと分かれば、己の手勢だけで冀州を脅かすやもしれませぬ。韓馥殿は心優しい御方ですが、軍略には疎い。あのままでは、冀州は袁紹という邪悪な獣の胃袋に呑み込まれ、ひいてはこの幽州にまで魔の手が伸びてきましょう」

 

「させぬ! 断じて、そのような暴挙は許さん!」

 

劉虞は立ち上がり、腰の剣の柄を固く握りしめた。

軍事が分からぬ彼であったが、だからこそ「悪を討ち、正義を成す」という思想において、彼は誰よりも純粋で、そして一直線であった。

 

彼にとって、袁紹の企ては董卓の長安幽閉に次ぐ、大漢帝国への重大な挑戦に他ならなかった。

 

「伯珪よ! お前に、幽州牧たる私から正式な命を下す!」

 

劉虞は、大漢帝国の正統なる権威を背負った声で、高らかに宣言した。

 

「ただちに白馬義従を率い、全軍をもって南下せよ! 冀州を脅かす逆賊・袁紹に天の鉄槌を下し、韓馥を、そして冀州の民を救い出すのだ! これは大漢帝国の名の下に行われる、正義の戦いである!」

 

「はっ……!! この公孫伯珪、身命を賭して、逆賊・袁紹を討ち果たしてご覧に入れます!」

 

公孫瓚は、床に額をこすりつけながら、その顔の死角で、口元を三日月のようにつり上げていた。

 

(……見事だ。これで、すべてが完全に裏返った)

 

袁紹は、公孫瓚を「冀州を脅かす悪役」に仕立て上げようとしていた。

 

しかし、公孫瓚が劉虞に密書を暴露したことで、袁紹こそが「冀州を奪おうとする逆賊」となり、公孫瓚は「大漢帝国の正当な命令を受けて、冀州を救いに向かう官軍」へと完全に立場が逆転したのである。

 

最強の大義名分。

誰も文句のつけようのない、完璧な侵攻の理由。

公孫瓚は、一切の政治的隙を見せることなく、己の軍勢を合法的に南下させるための免罪符を手に入れたのであった。

 

数日後。

幽州の国境地帯に、地響きと共に数万の軍勢が集結していた。

見渡す限りの白馬に跨る精鋭騎兵——「白馬義従」。その先頭に立つ公孫瓚の銀の甲冑が、冬の太陽の光を反射して鋭く輝いている。

 

「伯珪兄。全軍の出立準備、整いました」

 

公孫瓚の傍らに馬を進めてきたのは、客将であり、劉虞からも厚い信頼を受けている劉備玄徳であった。その背後には、青龍偃月刀(せいりゅうえんげつとう)を携えた関羽と、蛇矛(だぼう)を肩に担いだ張飛が、静かに闘気を(みなぎ)らせて控えている。

 

「玄徳か。……お前たちの部隊は、我が軍の右翼を頼む。袁紹の首根っこを食い破る、鋭い牙となれ」

 

「はっ。劉虞様の勅命、そして兄上の覇業のため、この劉玄徳、一歩も退くつもりはございません」

 

劉備の瞳は、純粋な大義に燃えていた。

劉虞という尊敬すべき人格者から直接「逆賊を討て」と命じられた劉備にとって、この戦いは漢室を護るための絶対的な聖戦であった。

 

公孫瓚は、その劉備の純粋な瞳を見て、小さく頷いた。

 

(玄徳よ。お前のその真っ直ぐな義侠心は、我が軍の何よりの推進力となる。……だが、俺が見据えているのは、お前たちが見ているような綺麗な『漢室の復興』などではない)

 

公孫瓚は、馬の首を南——袁紹のいる冀州の方角へと向けた。

袁紹を討つ。それは単なる第一歩に過ぎない。

己を政治の駒として扱おうとした袁紹の傲慢な鼻っ柱をへし折り、その首を刎ね飛ばし、冀州と青州を我が物とする。

そうして東の沿岸部を完全に強固な要塞と化し、あの海を渡ってくるであろう『得体の知れない化け物』を、水際で完全に叩き潰す。

 

(待っていろ、袁本初。貴様の小賢しい謀略ごと、我が白馬の蹄で粉々に踏み砕いてやる!)

 

「全軍、出陣!! 逆賊・袁紹を討ち、冀州を救えッ!!」

 

公孫瓚の咆哮が冬の空気を震わせると同時に、数万の白馬が一斉にいななき、大地を揺らして南へと疾走を開始した。

 

本来の歴史において、功を焦った公孫瓚が袁紹の罠に掛かり、結果として泥沼の抗争へと突入するはずだった「界橋(かいきょう)の戦い」への道程。

 

しかしこの世界において、公孫瓚は東の脅威に対する強迫観念ゆえに極めて冷徹なリアリストへと変貌し、劉虞の激怒を完璧に計算して引き出し、「大漢帝国の正義の剣」という最強の鎧を纏って南下を始めたのである。

 

焦りを捨て、地盤を固め、法と権威を味方につけた白馬の将。

その圧倒的な軍勢が迫り来る報せを聞き、自らの計略が完全に裏目に出たことを知るであろう袁紹の恐怖の顔を想像しながら、公孫瓚は冷酷な笑みを浮かべて荒野を駆け抜けていった。

 

 

 

劉虞が発した「袁紹討伐」の檄文は、大漢帝国の正統なる権威を帯びた雷鳴のごとく、瞬く間に中原の各地へと飛馬によって拡散されていった。

 

『渤海太守・袁紹本初。漢室の恩に背き、己の野心のために隣国・冀州を武力で脅かし、これを強奪せんとする。その所業、国賊・董卓と何ら変わるところなし。天下の諸侯はただちに幽州の軍と呼応し、この逆賊に天の鉄槌を下せ』

 

皇族であり、天下の信望を一身に集める劉虞の言葉は、他の諸侯が発する単なる宣戦布告とは全く異なる「絶対的な大義名分(カード)」であった。

 

だが、この檄文が伝播する過程において、中原の地理的条件が、ある一つの決定的な政治的断絶を生み出していた。

南陽(なんよう)に陣取っていた、袁紹の従弟であり最大の政敵である袁術(えんじゅつ)である。

 

本来であれば、袁紹を憎悪している袁術はこの檄文に真っ先に飛びつき、南から袁紹を挟撃するはずであった。

 

しかし、劉虞の使者が南陽へと向かうルートは、他ならぬ袁紹の勢力圏と、その同盟者たちの領地によって物理的に遮断されていたのである。幽州からの密使は次々と捕らえられ、あるいは殺され、劉虞の正式な勅命が袁術の手元に届くことはなかった。

結果として、中原の諸侯の目には、奇妙な光景が映ることとなった。

 

大漢帝国の正統なる命令が下されているにもかかわらず、袁術は一切軍を動かさず、南陽で沈黙を守っている。

 

「袁術は、劉虞様の勅命を無視した」「結局は袁紹と同じ穴の(むじな)、漢室への忠義など欠片もない己の領土欲だけの男だ」

 

公孫瓚が意図した通り、あるいはそれ以上に、袁術は中原の政治的舞台において、その名声と正当性を致命的に失墜させることとなったのである。

 

一方、袁紹が遮断網を敷いていたにもかかわらず、劉虞の檄文は思わぬ抜け道を通り、ある男の手元へと正確に届けられていた。

冀州を経由し、南の兗州(えんしゅう)へと密かに送り届けられたその書状を受け取ったのは——新たに東郡太守(とうぐんたいしゅ)となった、曹操孟徳である。

 

袁紹を恐れる冀州の牧・韓馥の配下たちが、袁紹の包囲網に穴を開け、命がけで曹操の下へと助けを求めるように檄文を届けたのであった。

 

濮陽(ぼくよう)の庁舎。

劉虞の官印が押された分厚い竹簡を読み終えた曹操は、顔から表情を消し、静かに卓の上へとそれを置いた。

 

曹操の周囲には、三人の極上の頭脳——荀彧(じゅんいく)戯志才(ぎしさい)、そして班稀(はんき)が控えている。

 

「……厄介なことになったな」

 

曹操が低く呟く。

現在、中原の諸侯の誰もが「曹操は、袁紹の同盟者(あるいは傘下の将)である」と認識している。

 

曹操が東郡太守に任命されたのも、表向きは袁紹の推挙によるものだ。もし曹操がこの劉虞の檄文を無視し、袁紹に味方すれば、曹操もまた「漢室に弓引く逆賊」として、公孫瓚の白馬義従に討伐される正当な理由を与えてしまうことになる。

 

「明公」

 

真っ直ぐな大局の理想を掲げる荀彧が、静かに進み出た。

 

「この檄文には、大漢帝国の正統な大義がございます。袁紹殿の行いは法を蔑ろにする横暴。我らは朝廷の臣として、劉虞様の命に従い、袁紹殿との同盟を破棄して義兵を挙げるべきです」

 

「待て待て、荀彧殿」

 

血の匂いを好む前線の軍師・戯志才が、鼻で笑って横槍を入れた。

 

「大義は結構だが、現実を見ろ。我々は今、黒山(こくざん)軍の残党処理で兵を張り付けている真っ最中だ。ここで袁紹を敵に回せば、北の白馬と南の黄巾に挟まれ、せっかく手に入れた東郡の地盤が完全にすり潰されるぞ。大義のために死ぬのはご免だ」

 

正論と現実が真っ向からぶつかり合う。

曹操は腕を組み、顎を撫でながら、最後に沈黙を守っていた班稀へと視線を向けた。

 

「唯才。お前はどう見る?」

 

班稀は、卓の上に広げられた東郡と冀州の地図を指先でトントンと叩きながら、極めて冷徹な声で答えた。

 

「兵站の観点から申し上げますと……現状で袁紹と正面から戦端を開くことは『自殺行為』に他なりません。我が軍の蔵には、黒山軍を討伐するための麦しか用意しておらぬのです。袁紹の誇る冀州の強大な弩兵と戦うための備えは、矢一本、車一台たりともありませんよ」

 

班稀は、曹操の目を真っ直ぐに見据えた。

 

「ですが……荀彧殿の仰る『大義』を無碍にすることもまた、政治的自殺です。劉虞様の命に背けば、民心は離れ、我々が集めようとしている優秀な名士(めいし)たちも寄り付かなくなる。……ならば、取るべき道は一つしかありません」

 

「ほう。申してみよ」

 

「大義には『従う振り』をし、現実は『己の利益』のために動かすのです」

 

班稀の言葉に、戯志才の目がギラリと光り、荀彧が微かに眉をひそめた。

 

曹操は、班稀のその冷酷なまでに合理的な提案を聞き、腹の底から湧き上がるような低い笑い声を漏らした。

 

「……ふっ、ふはははっ! さすがは我が文勇(ぶんゆう)だ。私の腹の底を、見事に言語化してくれたわ」

 

曹操は自ら筆を執り、新しい竹簡を手元に引き寄せた。

 

「良いか、お前たち。私は袁紹と刺し違える気など毛頭ない。だが、劉虞様の命を無視するつもりもない。……これから私が公孫瓚へ送る書状こそが、我ら東郡が血を流さずに生き残り、かつ最大の利益を得るための『刃』となる」

 

曹操が凄まじい速度で書き上げた返書。

そこには、大漢への熱烈な忠義と、極めて巧妙な「遅延戦術」が同居していた。

 

『幽州牧・劉虞様、ならびに公孫将軍の漢室へのご忠義、この曹孟徳、感涙にむせぶ思いにございます。

 

私とて、今すぐにでも兵を率いて北上し、逆賊・袁紹の首を打ち落としたい。……しかしながら、現在我が東郡は、大漢の民を苦しめる黄巾の残党との死闘の真っ只中にあります。

 

ここで私が軍を北へ向ければ、残党は再び勢いを吹き返し、東郡の民は皆殺しにされましょう。民を見捨てることは、劉虞様の仁徳の教えにも反することと存じます。

ゆえに、今すぐの軍の派遣は叶いませぬ。

 

……しかし! 私とて手をこまねいているわけではございません。

 

私は全軍を以て、袁紹の南の退路(黄河の南岸)を完全に封鎖いたします。

 

袁紹が公孫将軍の白馬に恐れをなして南へ逃れようとした時、この曹孟徳の軍が鉄壁の盾となって、一兵たりとも逃しはしませぬ。そして、黒山軍の討伐が完了した暁には、必ずや大軍を率いて冀州へ駆けつけ、将軍と共に逆賊を討ち果たしましょう!』

 

書き上げられた書状を読み、戯志才は手を叩いて大笑いした。

 

「はははっ! こいつは傑作だ! 黒山軍にかこつけて正面衝突を避けつつ、『逃げ道を塞ぐ』という名目で、堂々と袁紹の領土の境界線に軍を進める口実を作り上げたわけだ!」

 

荀彧もまた、深く感息した。

 

「……見事な手腕です。劉虞様の命令(大義)には決して背かず、国を乱す黄巾を討つという正当性も保つ。公孫将軍も、曹操様が退路を断ってくれるのであれば、背後を気にせず安心して袁紹に攻めかかることができる。これならば、大漢の法に何一つ触れることなく、我らの兵を無傷で保つことができます」

 

班稀は、冷静に地図の上に算木を置いた。

 

「では、私はただちに『袁紹の退路を封鎖する』という名目で、黄河の南岸沿いに補給線を構築します。表向きは防衛陣地ですが……いつでも黄河を渡り、袁紹の領土(南の都市群)を『保護(占領)』できるだけの物資を、合法的に積み上げておきましょう」

 

これこそが、曹操の恐るべき奸計(かんけい)の真骨頂であった。

 

公孫瓚と袁紹という、北方の二大巨頭が死闘を繰り広げる。

袁紹は北の白馬義従の突撃を防ぐために、冀州の防衛力をすべて北方の界橋(かいきょう)方面へと集中せざるを得なくなる。

その結果、袁紹の領土の南側(曹操と接している国境地帯)は、手薄な空白地帯と化すのだ。

 

曹操は、公孫瓚に対して「袁紹が逃げないように南を塞ぎます」と宣言することで、堂々と大軍をその空白地帯に進駐させる正当な理由を手に入れた。

 

もし公孫瓚が袁紹を打ち破れば、曹操は「逆賊の残党を討伐する」という名目で、そのまま手薄になった袁紹の南半分の領土を合法的に一網打尽に呑み込むことができる。

 

もし戦いが泥沼化すれば、曹操は悠々と黒山軍の平定に集中し、東郡の地盤を盤石にしながら、両者が疲弊し切るのを高見の見物で待てば良い。

 

「袁紹よ。貴様は私を都合の良い同盟者だと思っていたようだが……私は、貴様が流した血の果実を、最も安全な場所から合法的にしゃぶり尽くさせてもらうぞ」

 

曹操は、竹簡にしっかりと自らの印を押し、使者に託して北へと飛馬を走らせた。

 

激怒する幽州の劉虞。

大義名分を得て苛烈に南下する公孫瓚。

そして、その大義の波紋を完璧に逆用し、自軍の兵を一人も傷つけることなく、合法的に最大の利益(領土)を掠め取ろうと口を開けて待つ、東郡の曹操。

 

西暦一九一年から一九二年にかけての冬。

 

中原の北方を舞台とした巨大な群雄たちの殺し合いは、武将たちの槍と剣の激突の裏側で、極限まで研ぎ澄まされた政治的計算と、大義という名の皮を被った底知れぬ悪意の盤面へと変貌を遂げていたのである。

 

―――

 

劉虞から発せられた『逆賊・袁紹討伐』の檄文は、渤海を越え、凍てつく北東の辺境——遼東の地にも正確に届けられていた。

襄平(じょうへい)の城。

 

分厚い毛皮の衣を纏い、玉座に深く腰を下ろした遼東太守・公孫度は、劉虞からの書状を読み終えると、冷たく鼻を鳴らした。

 

「……劉虞め。温厚な顔をして、ついに牙を剥いたか。公孫瓚という猛犬をけしかけて、袁紹を食い殺そうという腹積もりよな」

 

公孫度は、竹簡を卓の上に放り投げた。

中原の群雄たちは、大漢帝国の正義だの、逆賊討伐だのといった美しい言葉で己の領土欲を粉飾している。だが、辺境で独自の独立王国を築き上げようとしている公孫度から見れば、それらはすべて滑稽な茶番に過ぎなかった。

 

「太守様。いかがなされますか。我らも幽州の命に応じ、袁紹討伐の軍を動かしますか?」

 

配下の将が尋ねると、公孫度は口の端を吊り上げて獰猛に笑った。

 

「動かすとも。これほど都合の良い『大義名分』はない。……だが、公孫瓚のように正面から袁紹と泥仕合をするような愚は犯さん。我らは海を渡り、袁紹の背後——青州(せいしゅう)の東端に位置する半島へと軍を進める」

 

公孫度の指が、地図の上の海を越え、中原の東の突き当たりである「東莱(とうらい)」の地を指し示した。

 

「袁紹の背後を脅かすという名目で、中原の豊かな港と海路を我が遼東の支配下に置くのだ。劉虞には、そのように返書をしたためよ」

 

それは、曹操が「退路を断つ」という名目で合法的に領土をかすめ取ろうとしたのと全く同じ、極めて狡猾な戦略であった。

 

『幽州牧の命に従い、逆賊・袁紹の背後を海から牽制いたします』

 

公孫度は、大漢帝国の正統な大義を隠れ蓑にして、自らの巨大な水軍を動かし、中原の東の玄関口を力ずくで切り取りに掛かったのである。中原の動乱は、公孫度にとって、自らの独立王国(海洋帝国)を拡大するための絶好の追い風でしかなかった。

 

公孫度の野心は、海を越えた中原への介入だけには留まらなかった。

彼が真に目指しているのは、大漢帝国の枠組みから完全に脱却した「遼東の独立王」としての絶対的な覇権である。そのためには、背後を脅かす北方の異民族や周辺諸国を、徹底的な恐怖と武力で服従させる必要があった。

 

「中原の愚か者どもが殺し合っている間に、我らは北の憂いをすべて断つ!」

 

公孫度は、主力となる精鋭の騎馬隊と歩兵を東へ向けた。

標的は、遼東の東に広がる山岳地帯に強固な勢力を持つ国——高句麗(こうくり)、そして北の夫余(ふよ)烏桓(うがん)といった諸族である。

 

彼の軍事行動は、苛烈を極めた。

反抗する部族の長は容赦なく首を刎ね、その一族を奴隷として連れ去った。高句麗の都である国内城(こくないじょう)の喉元にまで軍を進め、圧倒的な武威を見せつけることで、彼らに莫大な貢物を強要し、大漢ではなく『遼東の公孫度』に対して臣従を誓わせたのだ。

 

「見よ。これが力の絶対的な差だ。我に逆らえば国が滅ぶと、骨の髄まで思い知らしてやる」

 

雪に覆われた山河を背景に、公孫度の軍旗がはためく。

中原の混乱を尻目に、公孫度は瞬く間に北東アジアの広大な領域を実効支配し、事実上の「巨大な軍事国家」を完成させつつあった。

大漢の太守という肩書はもはや飾りに過ぎない。彼は独自の印綬を作り、皇帝に準ずる権力を振るい始め、遼東の民や異民族たちは彼を畏怖と恐怖を込めて「遼東の王」と呼ぶようになっていた。

 

だが。

 

その絶頂期にある公孫度の心の中に、どうしても拭い去ることのできない、冷たく不気味な『しこり』が存在していた。

 

 

「……太守様。南の国境を警備している部隊や、逃れてきた商人たちから、奇妙な報告が相次いでおります」

 

高句麗への威圧を終え、襄平に帰還した公孫度の元に、情報収集を担う文官が青ざめた顔で報告に上がってきた。

 

「奇妙な報告だと? 三韓の土着民どもが、また小競り合いでも起こしているのか?」

 

「いえ、小競り合いなどという生易しいものではございません。……現在、我が国が直接支配する楽浪郡(らくろうぐん)のすぐ南。半島を横断する郁里河(うくりは・漢江)よりも南の地域から、『一切の流民や盗賊が姿を消した』というのです」

 

公孫度は、ピタリと動きを止めた。

 

「姿を消しただと? ……それはどういう意味だ。誰かが力で三韓の民を皆殺しにしたとでも言うのか?」

 

「違います。皆殺しにされたのであれば、死体や逃げ惑う難民が楽浪郡に押し寄せてくるはずです。ですが、漢江の南には、不気味なほどの『平穏』が広がっているのです」

 

文官は、震える手で一枚の簡素な地図を広げた。

報告によれば、漢江以南の地域には、中原のどの国も、高句麗も持っていないような「真っ直ぐに舗装された道」が何本も敷き詰められ始めているという。

 

点在していた土着の集落は完全に解体され、規則正しく区画整理された新たな町が建設されている。そこでは、大勢の人々が一切の争いを起こすことなく、無言で田畑を耕し、強固な城壁や港を築き続けている。

 

「商人たちの話によれば……彼らは独自の文字と法を持ち、少しでもその法に背いた者は、一切の情け容赦なく『首を刎ね』られるとのこと。反乱の火種すら生まれる余地のない、恐るべき統制が敷かれていると……!」

 

公孫度の脳裏に、かつて自らが使者として派遣した田英の、疲労困憊して帰還した際の報告が鮮明に蘇った。

 

『彼らは独自の高度な法と知性を持ち、一切の無駄なく軍を動かす、途方もない化け物です。……そして、進軍の限界線を西は郁里河(漢江)の南岸、東は東濊港までと言い切りました』

 

(……あの時の宣言通りか)

 

公孫度は、背筋に冷たい氷柱(つらら)を差し込まれたような悪寒を感じた。

彼らは本当に、漢江の南岸でピタリと歩みを止めた。そして、そこから北へは一歩も侵攻してこない代わりに、自らが引いた境界線の内側を、極限まで統制された『国家の出城』として、凄まじい速度で造り変えているのだ。

 

公孫度自身も、力と恐怖によって高句麗や異民族をねじ伏せ、強大な国を創り上げた自負がある。

しかし、彼が創り上げたのはあくまで「人間の恐怖と欲望」によって縛り付けられた、熱を帯びた支配である。もし公孫度が死に、その武威が消えれば、高句麗も異民族も再び反旗を翻すだろう。

 

だが、漢江の南に頭を出した『その勢力』は違う。

彼らの支配には、個人の熱や欲望が見えない。ただ、冷徹な法と、それを維持するための圧倒的な兵站、そして異分子を無機質にすり潰していく巨大な歯車があるだけだ。

 

中原の文化とも、辺境の異民族とも全く異なる、完全に異質な『別の理』で動く世界。

 

「……楽浪郡の守備隊には、絶対に漢江の南へは近づくなと厳命しておけ。相手を挑発するような真似は一切許さん」

 

公孫度は、低く、押し殺した声で命じた。

 

「太守様。ですが、あの正体不明の勢力をそのまま放置しておけば、いずれ楽浪郡、ひいてはこの遼東の喉元にまで巨大な刃を突きつけられることになります。今の我らの圧倒的な軍勢をもってすれば、漢江を越えて叩き潰すことも可能かと……!」

 

「馬鹿を言えッ!!」

 

公孫度の激しい一喝が、冷たい広間の空気を震わせた。

 

「貴様は、あの不気味さが分からんのか! 約定通り国境を守り、その内側を無音の要塞に変えつつある連中に、こちらから手を出せばどうなるか。……奴らは、一切の感情を交えることなく、計算し尽くされた殺意で我々を完全に『処理』しに来るぞ」

 

公孫度は、恐怖を隠すように玉座の肘掛けを強く握りしめた。

彼が海を渡って蓬莱郡を築き、北の高句麗を威圧して自らの王国を急拡大させている最大の理由。

それは己の野心のためだけではない。

 

半島の南半分を静かに、しかし確実に呑み込んでいくあの『日本』という見えざる大国に対し、少しでも己の国力と生存圏を分厚くしておかなければ、いずれ確実にすり潰されるという、動物的な直感(防衛本能)が働いていたからに他ならない。

 

「……中原の諸侯どもは、洛陽だ冀州だと、小さな泥の中で殺し合っているが良い」

 

公孫度は、南の空を見つめ、凍りつくような声で呟いた。

 

「真の恐怖は、すでに大漢帝国の足元にまで根を張っているのだ。私はこの遼東で、その化け物の侵食を防ぐための『絶対的な王』として君臨し続ける。……奴らが、その無機質な防波堤の中から出てこない限りはな」

 

中原が群雄たちの血気と大義名分で沸き返るその裏側で。

北の覇者・公孫度は、自らの圧倒的な武威の足元——漢江以南の地で静かに完成しつつある『異界の秩序』を前にして、誰にも知られることなく、深い戦慄と警戒の網を張り巡らせていたのである。

 

 

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