四國志   作:丸亀導師

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天命 2

 

幽州牧・劉虞の放った大義名分の檄文が中原を駆け巡り、北の大地が白馬の蹄によって激震しようとしていたその頃。

大漢帝国の南部に位置する豊かな地、南陽(なんよう)の庁舎では、信じ難いほどの「平穏」と「無関心」が支配していた。

南陽を拠点とする群雄、袁術(えんじゅつ)、字を公路(こうろ)

 

四世三公の名門・袁家の嫡流を自負する彼は、煌びやかな絹の衣を纏い、豪華な宴席の中心で美しい女官たちに囲まれながら、悠然と美酒を傾けていた。

 

「袁紹の奴め、冀州で公孫瓚と睨み合っているそうではないか。庶子の分際で盟主などと気取るから、北の野蛮人に噛み付かれるのだ。……はははっ、いい気味だ。共倒れになれば、この私が真の袁家当主として天下を束ねてやろう」

 

袁術は、肉を頬張りながら下品に笑った。

彼の下には、劉虞からの「袁紹討伐」の正式な檄文は届いていなかった。袁紹の勢力圏によって物理的に遮断されていたからだ。

だが、それにしても彼の「眼」はあまりにも節穴であった。檄文がなくとも、北で数万規模の軍勢が激突しようとしている異常事態に対し、隣国を治める者としての最低限の危機感すら抱いていなかったのである。

 

「主君! お戯れはお控えくださりませ!」

 

宴席の空気を引き裂くように、袁術の配下である長史(ちょうし)楊弘(ようこう)と、猛将・紀霊(きれい)が進み出た。

 

「今こそ、千載一遇の好機にございます! 袁紹と公孫瓚が北で激突すれば、袁紹と同盟を結んでいる曹操も無傷ではいられません。聞けば曹操は、東郡で黄巾の残党の討伐にかまけているとのこと。……今、我が南陽の全軍をもって曹操の領地に殴り込みをかければ、容易に東郡を奪い取り、袁紹の南の防壁を完全に粉砕することができます!」

 

それは、戦略的に極めて真っ当な進言であった。

もしこの時、袁術が軍を動かし曹操の背後を突いていれば、曹操の「合法的に袁紹の南の領土を強奪する」という奸計は根底から崩れ去り、歴史は全く異なる方向へ転がっていただろう。

だが、袁術は不愉快そうに眉をひそめ、杯を卓に叩きつけた。

 

「ええい、五月蝿い! 曹操など、かつて洛陽で私の後ろを金魚のフンのようについて回っていた小者ではないか。

あんな宦官の孫の領地を攻め取って、何の名誉になるというのだ。第一、我が軍の兵糧は、長安へ向かうための備えである。下劣な輩の相手をして消耗させるわけにはいかん!」

 

「主君……っ! 今、天下の情勢が大きく動こうとしているのですぞ! ここで動かねば、我らは中原の覇権争いから完全に取り残されます!」

 

「黙れ! 私が袁家の正統なる後継者だぞ。名声も血筋も持たぬ田舎者どもが争っているのを、高みで見物してやるのが王者の余裕というものだ。下がれ、酒が不味くなる!」

 

臣下たちの必死の諫言(かんげん)は、袁術の肥大化した自尊心と暗愚さの前に、無惨にも叩き落とされた。

彼は、己の足元で巨大な地殻変動が起きていることを理解できず、自ら天下を獲るための最大の好機を、美酒と共に喉の奥へと流し込んでしまったのである。

 

袁術が南陽で酒に溺れている間。

彼が「小者」と侮った曹操は、東郡において神懸かり的な軍事行動を展開していた。

 

「……南陽の袁術は、全く動く気配がありません。どうやら、名門の自尊心が彼の目を完全に塞いでいるようです」

 

東郡の陣屋。

無数の木簡と算木に囲まれた班稀が、感情の消え失せた声で曹操に報告した。

 

「ふはははっ! 袁公路(袁術)め、相変わらずの阿呆ぶりよ! あの男が少しでも兵法を理解していれば、我々は黒山軍と袁術の挟み撃ちに遭い、この東郡を捨てて逃げ回らねばならぬところであったわ!」

 

曹操は愉快そうに笑い飛ばし、傍らの戯志才と荀彧も微かに安堵の息を漏らした。

 

曹操は「袁紹の退路を断つ」という名目で、黄河の南岸に軍を展開し、袁紹が公孫瓚に敗れた瞬間にその領土を掠め取る準備を進めていた。

 

しかし、それは同時に自軍の兵力を分散させる危険な賭けでもあった。もし袁術や他の諸侯に「曹操軍の主力がどこに、どれだけいるのか」を正確に把握されれば、手薄になった本拠地を突かれる恐れがあったのだ。

だが、曹操の軍の居場所と規模は、周辺の諸侯から「完全に見えなくなっていた」。

 

その奇跡的な隠蔽工作を成し遂げていたのが、班稀の構築した『兵站の魔術』である。

 

「荷車の規格をすべて統一させました。また、兵糧を運ぶ木箱もすべて同じ大きさに揃えてあります」

 

班稀は、卓の上の駒を動かしながら淡々と説明する。

 

「中原の軍隊は、兵の数に応じて荷車の数や大きさがバラバラであるため、車列の長さを見ればおおよその兵数が敵の斥候に悟られます。しかし、我が軍は(から)の荷車を大量に混ぜ、一定の速度、一定の間隔で、昼夜を問わず複数の街道を巡回させています。……遠目には、どこへ向かってどれだけの兵糧が動いているのか、絶対に計算できません」

 

さらに班稀は、軍の移動を夜間に限定させ、昼間は天幕の数を意図的に増やしたり減らしたりすることで、陣地の規模を偽装した。

兵士たちには無駄な篝火を禁じ、兵糧の炊き出しも、煙が出にくい乾燥した練り餌を支給することで、煙の量による兵数の推測すら不可能にした。

 

「なるほど」

 

戯志才が、感心したように舌を巻く。

 

「軍を隠すとは、森に伏せることばかりではないのだな。動き続ける兵糧の波の中に、本命の軍勢を木葉のように紛れ込ませる。これでは、袁術の斥候が百人いようと、我々が黄河の南岸に何万の兵を張り付けているか、絶対に悟れまい」

 

「ええ。これで、我々は誰にも背後を突かれることなく、袁紹と公孫瓚の殺し合いの結末を、特等席で眺めることができます」

 

班稀は、冷たい目で北の空を見つめた。

曹操軍は、完全に気配を消した透明な獣として、黄河の南岸で息を潜めた。

すべては、北の界橋(かいきょう)で繰り広げられる死闘の果てに転がり落ちてくる、巨大な果実(領土)を丸呑みにするために。

 

西暦一九一年、冬。

冀州の広大な平野を分断する清河(せいが)に架かる橋—界橋。

そこは、凍てつく風が吹き荒れる、見渡す限りの荒野であった。

その荒野を震わせるように、北から地平線を埋め尽くすほどの「純白の波」が押し寄せてきた。

 

公孫瓚率いる精鋭騎兵、『白馬義従』を中核とする数万の大軍である。

迎え撃つは、冀州の豊かな財力で武装を固めた袁紹軍。

その数もまた数万に及び、前衛には重装歩兵、後方には強大な破壊力を持つ弩兵が幾重にも陣形を組んで待ち構えていた。

 

「見よ! 逆賊・袁紹の陣を!」

 

公孫瓚は、愛馬である純白の駿馬に跨り、銀の長槍を天高く掲げた。

彼の背後には、劉虞から賜った大漢帝国の正統なる「官軍の御旗」が、冬の突風にバタバタと激しく煽られている。

 

「袁紹本初! 貴様は己の欲望のために大漢の法を冒涜し、この冀州を不当に奪い取らんとした! 我らは幽州牧・劉虞様の勅命を受け、天に代わって貴様の首を討ち取りに来た! 大義は、我ら白馬にありッ!!」

 

公孫瓚の咆哮が、数万の兵士たちの怒号となって戦場に響き渡る。

『大義』という名の目に見えない刃は、凄まじい威力を発揮した。

 

「俺たちは、逆賊なのか……? 大漢の官軍と戦わねばならないのか……」

 

袁紹軍の最前線に立つ兵士たちの間に、明確な動揺が走った。

彼らはもともと、韓馥(かんふく)から袁紹に強引に鞍替えさせられた冀州の兵たちである。己の主君が「正義」ではないかもしれないという疑念は、軍の士気を根底から腐らせる猛毒となる。

 

公孫瓚は、東の海の脅威を見据える冷徹なリアリストであるがゆえに、この「大義名分による精神攻撃」の威力を完璧に計算していた。

 

「敵は怯えている! 一気に蹂躙せよ! 我が白馬の蹄で、逆賊の陣を粉々に踏み砕け!!」

 

「「「おおおおおッ!!!」」」

 

公孫瓚の号令と共に、左右に展開していた五千の白馬義従が、地鳴りを上げて突撃を開始した。

それは、まさに雪崩(なだれ)であった。

訓練の行き届いた白馬の群れは、一糸乱れぬ動きで疾走し、馬上から凄まじい精度の騎射(弓による一斉射撃)を浴びせかける。

 

「ぎゃあっ!」

 

「ひぃっ、逃げろ! 槍が届かん!」

 

士気の低い袁紹軍の先鋒部隊は、白馬義従の圧倒的な速度と弓の雨の前に、文字通り一瞬で蹂躙された。重装歩兵の盾の隙間を縫って矢が突き刺さり、陣形は呆気なく崩壊し、兵士たちは悲鳴を上げて後方へと逃げ惑う。

 

「はははっ! 脆い! 脆すぎるわ! 袁紹、貴様の名門の威光など、我が白馬の前では紙屑同然よ!」

 

公孫瓚は勝利を確信し、本陣に猛然と突撃の指示を下し続けた。

だが。

その崩れゆく先鋒のさらに奥深く。

袁紹軍の陣形の中心に、微動だにせず、ただ不気味に沈黙を守り続けている『異様な一部隊』が存在していた。

 

「……引きつけよ。まだだ。騎兵の鼻息が聞こえるまで、決して動くな」

 

崩れ去る味方の兵士たちの悲鳴を背に受けながら、巨大な大盾の下に身を隠し、冷酷に命令を下している男がいた。

袁紹軍が誇る最高の戦術家であり、最強の将・麴義(きくぎ)である。

 

彼の指揮下にあるのは、わずか八百の精鋭歩兵と、その後ろに控える千の「強弩兵」であった。

涼州(りょうしゅう)に長く駐屯し、騎馬民族(異民族)との戦い方を骨の髄まで知り尽くしている麴義は、白馬義従の突撃力を少しも恐れていなかった。

 

騎兵の最大の武器は「勢い」である。そして、その勢いを最も確実に殺す方法は、至近距離からの絶対的な火力の集中に他ならない。

 

「今だッ!! 盾を外せ! 撃てェッ!!!」

 

白馬義従の先頭が、麴義の陣まで数十歩の距離に肉薄した、その瞬間。

麴義の怒号と共に、八百の歩兵が一斉に巨大な大盾を蹴り倒した。

 

「なっ……!?」

 

突撃していた白馬の将兵たちの目に映ったのは、身を伏せていた千の弩兵たちが、ギラギラと光る凶悪な矢尻を、己の喉元に向けて一斉に構えている光景であった。

 

——ビシュガァァァンッ!!!

 

空気を切り裂くというより、空気を破壊するような凄まじい破裂音が、界橋の荒野に響き渡った。

千の強弩から放たれた太い矢は、弓の矢とは比較にならない恐るべき貫通力と速度を持っていた。

 

「ぎぃやぁぁぁっ!!」

 

「馬が、馬があぁっ!!」

 

最前線を疾走していた白馬義従の兵士と馬が、まるで巨大な見えない壁に激突したかのように、次々と空中に吹き飛ばされ、血しぶきを上げて大地に叩きつけられた。

強弩の威力は、分厚い甲冑ごと人体を貫き、さらに背後の馬をも串刺しにするほどであった。

 

「怯むな! 次の矢を装填する前に踏み潰せ!」

 

騎兵の指揮官が叫ぶが、麴義の弩兵たちは千人が三つの隊に分かれ、絶え間なく交代しながら射撃(連続射撃)を行うという、極めて高度な訓練を受けていた。

 

第二射、第三射。

 

雨あられと降り注ぐ強弩の嵐の前に、天下無双を誇った白馬義従の突撃は完全にへし折られ、最前線にパニックと大混乱(一瞬の隙)が生み出された。

 

「今だ! 槍衾(やりぶすま)を作れ! 落ちた騎兵を突き殺せ!」

 

麴義の八百の精鋭歩兵が、混乱する白馬の中に突入し、長い槍で容赦なく馬の脚を払い、落馬した兵士の首を掻き切っていく。

 

(……馬鹿な。我が白馬義従が、正面から押し返されるだと!?)

 

後方の本陣で指揮を執っていた公孫瓚は、驚愕に目を見開いた。

正史における界橋の戦いでは、ここで公孫瓚の軍は完全にパニックに陥り、総崩れとなって大敗北を喫することになる。

 

しかし、この世界線には、絶対にそこにいるはずのない「一つの特異点」が存在していた。

 

「退くなッ!! 退く者はこの私が斬る!!」

 

大混乱に陥る前線に、一騎の猛将が雷のごとき怒号を上げて飛び込んできた。

公孫瓚の従弟(または実の弟とも言われる)——公孫越(こうそんえつ)である。

 

本来の歴史において、公孫越は前年(一九〇年)、袁術の救援に向かった陽城の戦いで、流れ矢に当たって既に戦死している。

しかし、この世界線の公孫瓚は東の脅威に備えて極めて現実的な判断を下し、袁術への救援を自ら数百の騎兵だけで済ませたため、公孫越を南陽へは派遣していなかった。

 

すなわち、彼は死の運命を回避し、公孫瓚の右腕としてこの界橋の戦場に生きて立っていたのである。

 

「陣形を立て直せ! 盾を持った歩兵を前に出し、弩の雨を防げ! 騎兵は左右に散開し、敵の側面を削り取れ!!」

 

公孫越は、身の危険を顧みずに最前線を駆け回り、逃げ惑う味方の兵士を叱咤し、見事な采配で崩れかけた陣形を瞬時に再構築していった。

彼の存在が、致命的な「死の連鎖」を断ち切った。

白馬義従は強弩の直撃を避けながら左右に広がり、麴義の部隊を逆に包囲するような形へと陣形を変化させたのである。

 

「……チッ。公孫瓚の陣に、あのように軍を立て直せる将がいたとは計算外だ」

 

麴義が忌々しげに舌打ちをした、その時。

公孫越が立て直した陣形の隙間から、これまで温存されていた『最悪の別働隊』が、麴義の横っ腹に向かって猛然と突撃を開始した。

 

関平(かんぺい)たちには負けられん! 兄者、ここは俺が一番槍をもらうぜ!!」

 

爆音のような大音声を張り上げ、漆黒の巨大な馬を駆って飛び出してきたのは、身の丈八尺を超える巨漢——張飛益徳であった。

その手には、巨大な蛇矛(だぼう)が握られている。

 

「益徳、抜け駆けは許さんぞ」

 

そのすぐ横を、長い髭を風になびかせた関羽が、冷気を纏った青龍偃月刀を構え、鬼神の如き速度で並走する。

 

そして、二人の猛将の中心には、双股剣を抜き放ち、静かに、しかし恐るべき闘気を放つ男——劉備の姿があった。

 

公孫瓚が切り札として右翼に配置していた、劉備三兄弟の別働隊である。

大義名分を重んじる彼らにとって、逆賊・袁紹の首を取ることは漢室への絶対的な忠義の証明。その士気は、天を衝くほどに高まっていた。

 

「なっ……!? どこから現れた!!」

 

麴義が驚愕して陣形を向けようとしたが、遅すぎた。

 

「オラァァァッ!!」

 

張飛の蛇矛が、竜巻のように振るわれた。

前方で構えていた弩兵の分厚い盾が、紙くずのように粉砕され、その後ろにいた数人の兵士がまとめて宙を舞う。

関羽の青龍偃月刀が閃き、敵の槍衾が一瞬にして根本から刈り取られる。

彼らは、単なる騎兵の突撃ではない。武の極致に達した「一個の暴力の塊」であった。

 

千の強弩も、再装填する時間がなければただの重い木の棒に過ぎない。

劉備三兄弟の信じられないほどの突破力は、麴義の誇る精鋭部隊の側面を、まるで熱したナイフで飴を切るように完全に切り裂き、蹂躙していったのである。

 

「防げ! なんとしても防げェッ!」

 

麴義が必死に叫ぶが、一度崩された陣形に、三兄弟の武威を止める術はなかった。

 

「大漢の逆賊に、この劉玄徳が天罰を下す!!」

 

劉備の放った一閃が、麴義の陣を統率していた大将旗を真っ二つに斬り裂いた。

 

「ば、馬鹿な……俺の陣が、完全に崩されただと……!」

 

最強を誇った麴義の部隊が総崩れとなったのを見て、後方で高見の見物をしていた袁紹の本陣に、絶望的なパニックが伝染した。

 

「敵襲! 公孫瓚の騎兵が、本陣に向かってきます!!」

 

「麴義将軍の部隊が壊滅しました!!」

 

「な、なんだと!? なぜ白馬を止められなかったのだ!!」

 

袁紹は、豪奢な天幕の中で顔面を蒼白にさせた。

彼が頼みとしていた最強の盾が砕け散った今、怒り狂う公孫瓚の白馬と、鬼神のごとき劉備三兄弟の刃から彼を守るものは、何も残されていなかった。

 

「ひぃっ……! 退け、退けェッ!! 冀州の城へ逃げ込むのだ!!」

 

四世三公の威厳も名誉もかなぐり捨て、袁紹は兜を投げ捨てて馬に飛び乗り、一目散に南へと敗走を開始した。

総大将が逃げ出した軍隊など、もはや烏合の衆である。袁紹軍は完全に瓦解し、界橋の荒野は、逃げ惑う敵兵を無慈悲に刈り取る白馬義従の狩場と化した。

 

「……勝った。勝ったぞッ!!」

 

血に染まった銀の長槍を天に掲げ、公孫瓚は腹の底から歓喜の咆哮を上げた。

正史の敗北を覆し、弟・公孫越の生存と、大義名分による士気の操作、そして劉備という劇薬を完璧に使いこなした結果の、完全なる大勝利であった。

 

西暦一九二年 春

界橋の戦いは、北方の覇権を懸けた死闘でありながら、公孫瓚の歴史的勝利によって幕を閉じた。

これにより、河北(黄河北)の力関係は完全に塗り替えられた。

 

袁紹は冀州の南半分へと追い詰められ、再起不能に近い大打撃を受けた。

 

そして公孫瓚は、冀州の北半分と青州を己の支配下に置き、東の海——『大和国』の侵攻に備えるための、巨大で強固な「絶対的防波堤」の構築に向けて、覇王のごとき歩みを始めることとなるのである。

 

だが、この公孫瓚の勝利の報せを聞き、最も邪悪な笑みを浮かべていたのは、当の公孫瓚本人ではなく。

 

南の黄河沿いで息を潜め、袁紹の領土が手薄になる瞬間を、今か今かと待ち構えていた東郡の曹操であったことを、この時の公孫瓚はまだ知る由もなかった。

 

 

界橋の荒野は、四世三公の威光が完全に地に堕ちた血の海と化していた。

 

最強の盾であった麴義の部隊が劉備三兄弟によって粉砕され、怒涛のように押し寄せる公孫瓚の白馬義従を前に、袁紹軍は完全な崩壊状態に陥っていた。

 

「退け! 退けェッ!! 南へ向かえ!」

 

大漢帝国の盟主を気取っていた袁紹本初の姿は、見る影もなかった。

 

豪奢な兜はとうに投げ捨てられ、煌びやかな鎧は泥と血にまみれ、顔は恐怖で土気色に染まっている。周囲を固める近衛兵たちも次々と背後から白馬の騎兵に射抜かれ、数を減らしていく。

 

(なぜだ……なぜ、この私がこんな目に遭わねばならんのだ!)

馬の腹を蹴りながら、袁紹は歯を食いしばった。

 

公孫瓚を唆し、冀州を己のものとする完璧な絵図を描いていたはずだった。それが、劉虞の激怒を買い、逆に「大漢の逆賊」という汚名を着せられ、圧倒的な武力の前に逃げ惑う羽目になるとは。

 

「主君! ご安心くだされ! あと数里南下すれば、我が冀州の南の防衛拠点たる城が見えてまいります!」

 

血まみれの側近が、馬を寄せて叫んだ。

 

「お、おお! そうだ、南の城だ!」

 

袁紹の目に、一筋の希望の光が差した。

彼にはまだ、南の城に蓄えられた兵糧と守備兵がある。城に入り、門を固く閉ざして籠城すれば、騎馬主体である公孫瓚の軍は攻めあぐねるはずだ。

 

さらに、その南の国境地帯には、同盟者である東郡太守・曹操が、「黒山軍を討伐しつつ、背後を固める」と約束して軍を展開してくれている。

 

曹操が援軍として駆けつけてくれれば、公孫瓚を挟み撃ちにして、この屈辱を晴らすことができる。

 

「急げ! 城はもう目と鼻の先だ! 曹孟徳の援軍も近くにいるはずだぞ!」

 

袁紹は、枯れ果てた喉から声を振り絞り、敗残兵たちを叱咤して南の城へと急いだ。

 

やがて、地平線の彼方に堅牢な城壁のシルエットが浮かび上がってきた。

袁紹は安堵のあまり、馬上で泣き崩れそうになった。

だが……。

 

城に近づくにつれ、袁紹はふと、えも言われぬ『強烈な違和感』に襲われた。

城門は固く閉ざされている。

それは良い。だが、城壁の上に立ち並んでいる兵士たちの鎧の形、そして何より、風に翻っている大量の軍旗の文様が、どう見ても冀州の軍のものではなかった。

 

「な、なんだ、あの旗は……。『曹』だと?」

 

袁紹は目を丸くした。

城の四方に掲げられているのは、黒地に白く『曹』の文字が染め抜かれた、東郡の軍旗であった。

 

「おおっ! 曹操様だ! 曹操様が、我が軍の危機を察知して、すでに城へ入って守りを固めてくださっていたのだ!」

 

側近の一人が歓喜の声を上げた。

袁紹もまた、その言葉に顔をぱっと明るくした。

 

「そうか! 孟徳の奴め、私が公孫瓚に押されていると聞き、いち早く駆けつけてくれたというわけか。ふはははっ、見直したぞ孟徳! さすがは私の幼馴染よ!」

 

曹操が、班稀(はんき)の完璧な偽装工作によって兵站を隠し、誰にも悟られずにこれほどの軍を移動させていたことなど、袁紹の頭には全く思い至らなかった。彼はただ「味方が城を取って待っていてくれた」と無邪気に喜んだのである。

 

「よし! 誰か、城門へ行け! 私が到着したと伝え、門を開けさせよ!」

 

袁紹の命を受け、一人の使者が馬を飛ばして城門の下へと向かった。

袁紹と数千の敗残兵は、安堵の息をつきながら、開門を待つために歩みを緩めた。

 

……しかし。

城門は、いつまで経っても開かなかった。

それどころか、しばらくして城門の方角から、耳をつんざくような絶叫と共に、先ほどの使者が馬にしがみつくようにして逃げ帰ってきたのである。

 

「主君……っ! ああ、ああっ……!!」

 

使者が馬から転げ落ちる。

袁紹は息を呑んだ。使者の顔は血に染まり、なんと『右の耳』が根元から無残に削ぎ落とされていたのだ。

 

「ど、どうした! 一体何があった! 曹操の兵に何者かと間違われたのか!?」

 

「ち、違います……っ! 城壁の上から矢を射掛けられ……そして、曹操軍の将が、私を捕らえて耳を削ぎ、こう言ったのです……!」

 

使者は、血の海となった顔を押さえながら、ガタガタと震える声で告げた。

 

「『我らは、逆賊・袁紹に開ける門など持っていない』……と!!」

 

「——な、に?」

 

袁紹の頭から、血の気が完全に引いた。

周囲の兵士たちも、絶望と混乱に顔を見合わせる。

 

「逆賊、だと? この私が? 孟徳の奴め、狂ったか!!」

 

袁紹は怒りに任せて馬を進め、城壁の矢の射程ギリギリの場所まで単騎で進み出た。

 

「曹操!! 曹孟徳はおるか!! 返事をしろッ!!」

 

袁紹の血を吐くような叫びが響き渡る。

すると、城壁の最も高い物見櫓(ものみやぐら)の奥から、一人の小柄な男が、数十人の屈強な盾兵に守られながらゆっくりと姿を現した。

冷たい風に深紅の外套を翻すその男こそ——曹操孟徳であった。

 

「孟徳!! 貴様、何の真似だ! 私の使者の耳を削ぎ、城を不法に占拠するなど……我々は同盟を結んだ仲ではないか! この卑怯者め!! 裏切り者め!!」

 

袁紹は、顔を真っ赤にして唾を飛ばし、曹操を口汚く罵った。

北からは公孫瓚が迫っている。ここで城に入れなければ、袁紹軍は完全に平野で孤立し、皆殺しにされる。その極限の恐怖が、袁紹の言葉を狂乱の域へと引き上げていた。

だが、城壁の上から見下ろす曹操の瞳には、一切の感情が存在していなかった。

哀れみも、怒りも、そして悪びれる様子すらもない。ただ、極めて冷徹な「大漢の官吏」としての顔だけがそこにあった。

 

「卑怯者? 裏切り者?」

 

曹操の声は、激昂するわけでもなく、静かに、しかし恐ろしいほど明確に袁紹の耳に届いた。

 

「言葉を慎め、袁本初。……私は、いつ貴様のような『大漢の逆賊』と同盟を結んだというのだ」

 

「ぎゃ、逆賊だと……!?」

 

「幽州牧・劉虞様より、天子の権威を代行する正式な檄文が下された。貴様が己の欲望のために冀州を奪い取り、大漢の法を冒涜したという罪状は、すでに天下の知るところだ。……この曹孟徳、天子の臣として、法に背く者に加担する謂れは一切ない」

 

曹操は、袖から一巻きの竹簡——劉虞から届いた檄文の写しを取り出し、眼下に広がる袁紹の敗残兵たちに見せつけるように掲げた。

 

「私はただ、漢室の意志を尊重したまでのことだ。北で国賊の討伐に励む公孫瓚将軍に代わり、賊の領土であったこの南の拠点を、大漢の法に則って『保護』した。……袁紹よ、貴様が法を破り、天下を裏切ったのだ。己の罪を、他人のせいにするな」

 

完璧な論理。完璧な大義名分。

荀彧が説いた大義を盾にし、班稀の兵站で気配を消し、戯志才の機動で城を無血占拠する。

曹操は、一切の悪手を打つことなく、一切の法を破ることなく、極めて「合法的」に袁紹の城と領土を奪い取ってみせたのである。

 

「き……きさまぁぁぁっ!!」

 

袁紹は、己が完全に政治と軍略の盤上で「利用され、捨てられた」ことをようやく理解し、絶望の叫びを上げた。

己が公孫瓚を政治の駒にしようとしたつもりが、公孫瓚と曹操という二つの強大な知力によって、骨の髄までしゃぶり尽くされていたのだ。

 

「主君!! 北から……北から土煙が!!」

 

曹操への怒りに打ち震える袁紹の耳に、この世の終わりを告げるような悲鳴が飛び込んできた。

振り返れば、界橋から追撃してきた公孫瓚の「白馬義従」が、地響きを立ててもうそこまで迫ってきていた。

先頭を走るのは、血に染まった銀槍を構える公孫瓚と、鬼神の如き殺気を放つ劉備、関羽、張飛の三兄弟である。

 

「逃がさんぞ、袁本初!! 貴様の首を、天の裁きとしてこの槍で貫いてやる!!」

 

公孫瓚の咆哮が、風に乗って響く。

 

「城を……城を攻め落とせ! 曹操を殺して中へ入れェッ!!」

 

袁紹はパニックに陥り、城壁の曹操に向かって剣を突きつけた。

だが、曹操は冷酷に手を振り下ろした。

 

「哀れな男よ。……放て」

 

曹操の合図と共に、城壁の上に身を隠していた数千の東郡の弓兵が一斉に立ち上がり、眼下に群がる袁紹軍に向けて、無慈悲な矢の雨を降らせた。

 

「ぎゃぁぁぁっ!」

 

「開けてくれ! 助けてくれぇっ!」

 

城壁からの矢の雨(曹操軍)と、背後からの白馬の突撃。

北と南。二つの完全に研ぎ澄まされた刃の間に挟み込まれた袁紹軍は、もはや軍隊の体を成していなかった。

 

前門の虎、後門の狼。

逃げ場を完全に失った兵士たちは、次々と矢に射抜かれ、あるいは白馬の蹄に踏み砕かれ、名門・袁紹の軍勢はまさに「文字通りの挽肉」となってすり潰されていったのである。

 

「ああ……あああ……!」

 

袁紹は、自慢の兵たちが己の目の前で惨殺されていく光景を前に、ついに精神が限界を迎え、剣を取り落とした。

 

「おのれ……曹操……公孫瓚……ッ!!」

 

血と絶望が支配する戦場のド真ん中で、城壁の上からすべてを見下ろしている曹操は、その冷酷な視線を、袁紹を蹂躙している公孫瓚の「白馬の軍勢」へと向けていた。

 

(……見事な突撃だ。公孫瓚、貴様は確かに恐るべき牙を持っている。だが、その牙が鋭ければ鋭いほど、私の盾は安全に大きくなっていく)

 

曹操は、隣に控える班稀へと静かに声をかけた。

 

「唯才(班稀)。この城の蔵には、どれほどの麦があった?」

 

「三年は戦えるだけの兵糧と、数万の武器が手つかずで残されておりました。……これらはすべて、我が東郡の正式な財産として帳簿に組み込まれました」

 

班稀が、感情を微塵も交えずに答える。

 

「良し。袁紹が死に絶えるまで、矢を射掛け続けよ。公孫瓚の手間を省いてやるのが、同盟者としての『誠意』というものだからな」

 

曹操の残酷な(わら)いが、秋の冷たい風に溶けていく。

 

界橋の戦いの真の勝者は、公孫瓚だけではなかった。

 

自らは一滴の血も流さず、正義と大義の衣を被りながら、かつての友の領土と命を平然と強奪してみせた男——曹操孟徳。

乱世の地獄は、単純な武力の衝突から、己の利益のために「法と大義」を冷徹にハッキングし合う、全く新しい次元の化け物たちの狂宴へと、確実にその段階を移行させていたのである。

 

 

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