四國志   作:丸亀導師

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天命 3

 

西暦一九二年、春。

 

大漢帝国を覆っていた分厚い暗雲を、二つの巨大な雷鳴が同時に引き裂いた。

 

奇跡か、あるいは歴史の必然たる偶然か。遠く離れた二つの地で、天下の命運を握る二人の「巨星」が、時を同じくしてその命を散らしたのである。

 

一つは、冀州の南端。

 

名門・四世三公の威光を傘に着て、反董卓連合の盟主として天下に号令した袁紹本初の死である。

 

彼は、己が政治の駒として利用しようとした公孫瓚の「白馬義従」に野戦で徹底的に蹂躙され、逃げ込んだ先の城では、同盟者であったはずの曹操に裏切りの矢を射掛けられた。

 

前後を完全に塞がれた袁紹は、名門の矜持も何もかもを剥ぎ取られ、泥と血に塗れた名も無き荒野の中で、無数の槍に貫かれて絶命した。

 

そしてもう一つは、西の古都・長安。

洛陽を灰燼に帰し、皇帝を鳥籠に閉じ込め、恐怖と暴虐の限りを尽くした魔王・董卓仲穎の暗殺である。

 

絶対的な恐怖で長安を支配していたはずの魔獣は、己の最側近であり、天下無双の刃であった養子・呂布の裏切りによって、その命を絶たれた。

 

幼き献帝の気高き矜持に心を打たれた老臣・王允の仕掛けた「連環の計」が、見事に呂布の獣の心を縛り付け、董卓の肥え太った喉笛を掻き切らせたのである。

東の盟主と、西の魔王。

 

二つの巨大な悪意と野心が同時に砕け散った報せは、まるで大地そのものが震えるような凄まじい衝撃波となって、全土の諸侯の元へと木霊(こだま)していった。

 

その木霊を、天下で最も間の抜けた顔で聞き届けた男がいた。

南陽の豪奢な庁舎で、今日も女官を侍らせて酒杯を傾けていた袁術である。

 

「……な、なんだと? 董卓が死んだ? それに……本初までもが、死んだだと!?」

 

報告に駆け込んできた伝令の言葉に、袁術は持っていた玉の杯を取り落とし、床に美しい音を立てて砕け散らせた。

 

「は、はい! 長安では呂布将軍が董卓を討ち、北では公孫瓚と曹操の軍が袁紹様を挟み撃ちにして、その首を討ち取ったとのことです!」

 

袁術の脳髄に、衝撃と、そしてそれを上回る「歓喜」が駆け巡った。

憎き董卓が消えた。そして何より、目の上のたんこぶであり、袁家の家督を巡って憎み合っていた腹違いの兄・袁紹が死んだのだ。

 

「ふ、ふはははっ! 天は私に味方した! これで四世三公の名門・袁家を束ねる正統なる当主は、この私ただ一人となったのだ! 董卓が死に、長安も混乱の極みにある今、私がこの南陽から号令を掛ければ、天下は私の足元に平伏するぞ!」

 

袁術は狂ったように笑い声を上げたが、ふと、伝令の言葉のある部分に引っかかりを覚えた。

 

「……待て。今、曹操が袁紹を挟み撃ちにしたと言ったか? 曹操は、袁紹の同盟者だったはずだぞ」

 

「はっ。曹操は劉虞様の『逆賊・袁紹を討て』という檄文に応じ、大義に従って袁紹を裏切り、公孫瓚と共にこれを討ち果たしたとのことにございます」

 

その報告を聞いた袁術の頭の中で、極めて「自分本位な解釈」がカチリと音を立てて組み上がった。

 

(なるほど! 曹操の奴め、袁紹の旗色が悪いと見るや、慌てて劉虞の尻馬に乗って恩を売りに行ったというわけか。相変わらず風見鶏のような小賢しい真似を!)

 

袁術は、曹操の背後にいる班稀や荀彧といった極上の頭脳が描いた「合法的簒奪」の恐るべき真意を、欠片ほども理解できていなかった。

 

彼の目には、曹操が「ただの長いものに巻かれただけの小役人」にしか映っていなかったのである。

 

「よし! ならば、ちょうど良い。曹操はもともと、私に従うべき格下の男だ。私が名門の正統として、曹操に命令書(上意)を下してやろう」

 

袁術は上機嫌で筆を執った。

 

「『曹孟徳よ、よくぞ我が憎き偽者(袁紹)を討ってくれた。その功を賞してやる。ついては、貴様が押さえている冀州の南半分の領土は、袁家の正統であるこの私に速やかに引き渡せ』……とな。これで、私は一兵も動かすことなく、巨大な領土を手に入れることができる!」

 

袁術は、己の「名門の威光」さえあれば、曹操が恐れ入って領土を献上してくると本気で信じ込んでいた。彼がどれほど致命的に現実を見誤っているか、周囲の家臣たちはただ絶望の眼差しで見つめることしかできなかった。

 

だが、袁術のその身の程知らずな命令書が南陽を出立した頃。

北の大地では、すでに「戦後処理」が、極めて厳格かつ合法的な手続きの下に完了しようとしていた。

 

―――

 

幽州の(けい)

 

大漢の権威を背負う劉虞は、逆賊・袁紹を討ち果たした二人の将に対し、正式な論功行賞を行っていた。

 

「公孫瓚、ならびに曹操よ。お前たちの忠義と勇猛な働きにより、冀州を脅かす逆賊は討たれ、大漢の法は守られた。……よって、主を失った冀州の統治を、お前たち二人に任せるものとする」

 

劉虞の裁定は、極めて公平であった。

冀州の「北半分(青州の境界まで)」は、実際に最前線で血を流し、袁紹の主力を粉砕した公孫瓚の管理下に置かれた。

 

そして、袁紹の退路を断ち、南の城を制圧して被害の拡大を防いだ曹操には、冀州の「南半分」の統治権が正式に認められたのである。

 

東郡の陣屋で、劉虞からの正式な『印綬』を受け取った曹操は、声を立てずに深く、深く笑った。

 

「……これで、文句のつけようがない。我が領土は、大漢帝国の正当なる法の下に、東郡と冀州の南半分を合わせた巨大なものとなった」

 

曹操の隣で、班稀が整然と積まれた木簡の束(冀州の人口と兵糧の目録)を小刀で整えながら、淡々と口を開いた。

 

「大豊作ですな、明公。一兵の血も流さず、袁紹が蓄えていた三年分の兵糧と、数万の武器、そして冀州の豊かな民草をすべて『合法的』に手に入れました。……これで、私が計画している完全なる兵站網の構築が、数年は前倒しで実現可能になります」

 

「唯才(班稀)よ、お前の描いた絵図の通りになったな。荀彧、戯志才の二人も大儀であった」

 

曹操は三人の極上の頭脳を見渡し、満足げに頷いた。

 

大義を掲げ(荀彧)、敵の虚を突き(戯志才)、一切の証拠を残さず利益を回収する(班稀)。

 

この三つの歯車が噛み合った時、曹操の軍は天下の誰よりも早く、そして狡猾に「戦後の果実」を貪り食う化け物へと進化していたのである。

 

「……申し上げます。南陽の袁術より、明公宛てに急使が参っております」

 

陣屋の空気が緩んだその時、伝令が足早に入ってきた。

曹操が片眉を上げると、伝令は袁術からの横柄な命令書を恭しく差し出した。

曹操はそれを開き、一読すると……。

 

「……っ、ふ、ふはははははっ!!」

 

腹の底から、堪えきれない大爆笑を爆発させた。

 

「見ろ、文若(荀彧)。袁術の奴、『袁家の正統である俺に、その領土をよこせ』と言ってきたぞ! 自分の足元で何が起きているかも分からぬまま、まだ洛陽の御曹司気分でいるらしい!」

 

荀彧は書状を受け取ると、呆れたように小さく息を吐いた。

 

「……愚かな。もはや天下は、血筋や名声だけで動くような時代ではありません。そのような妄言、一顧の価値もございませんな」

 

「その通りだ」

 

曹操は笑い涙を拭いながら、伝令に向かって冷酷に言い放った。

 

「使者を追い返せ。そして袁術にはこう伝えよ。『私は大漢の朝廷と、劉虞様の命によってこの冀州の地を任された官軍である。一介の南陽太守に過ぎぬ貴様の指図を受ける謂れはない。……口を開けて待っていれば餌が落ちてくると思うな、無能者め』とな!」

 

数日後。

追い返された使者から曹操の返答を聞いた袁術は、雷に打たれたように南陽の玉座にへたり込んだ。

 

「ば、馬鹿な……。曹操め、劉虞の勅命を盾にして、完全にあの領土を自分のものにしおったのか……!」

 

袁術の脳裏に、家臣たちが血を吐くように訴えていた言葉が蘇った。

 

『今こそ、千載一遇の好機にございます! 曹操の領地に殴り込みをかければ、容易に東郡を奪い取ることができます!』

 

もしあの時、自分が酒杯を置き、軍を動かしていれば。

曹操の腹黒い簒奪を阻止し、自分が冀州の南半分を手に入れて、天下の覇者へと名乗りを上げるだけの余地があった。

だが、遅すぎた。

 

気がついた時には、北は海の向こうを見据えて強大な防衛線を築き上げた公孫瓚の「白馬」が睨みを利かせ、南は合法的な大義名分と圧倒的な兵站を手に入れた曹操の「漆黒の軍勢」が、盤石の地盤を築き上げていた。

もはや、袁術が彼らの間に割って入り、領土を掠め取るような「出る幕」は、この中原のどこにも残されていなかったのである。

 

「あ、ああ……私が……私が真の王になるはずだったのに……っ!!」

 

両巨星が落ち、天下の構図が劇的に塗り替えられた激動の季節。

時代に取り残され、自らの暗愚さによって最大の好機をドブに捨てた男の滑稽で惨めな絶叫だけが、南陽の空しく広い庁舎の中に、誰にも届くことなく響き渡っていた。

 

―――

 

一方董卓を失った長安にて

 

後世の歴史書——『三国志演義』や『後漢書』において、呂布奉先という男は、己の欲望と利益のために主君を次々と裏切る「不義理の極み」「稀代の悪党」として描かれることが多い。

 

養父であった丁原を殺して董卓に寝返り、その董卓をも王允の甘言に乗せられて暗殺した。天下無双の武力を持ちながら、誰からも信用されず、獣のように生きて死んだ男だと。

 

確かに、彼にはそう評されても仕方のない粗暴さと、短絡的な一面があった。

 

しかし、彼の本質は「狡猾な悪人」ではなかった。

 

むしろ逆である。呂布という男の精神は、あまりにも「純粋で、何者にも染まりやすかった(騙されやすかった)」のだ。

武を極めることしか知らずに育った彼は、善悪の基準や政治の裏表を理解する知性を持ち合わせていなかった。彼の心は、まるで一枚の巨大な『白紙』であった。

 

だからこそ、最初に仕えた丁原が、政治的野心から董卓に理不尽な嘘や謀略を仕掛けた際、呂布は董卓側から「お前の主は漢室を乱す奸臣だ」と吹き込まれれば、それをあっさりと信じ込み、正義のつもりで丁原を斬ってしまった。

 

董卓に「お前を真の息子として頼りにしている」と金銀財宝を与えられれば、それを絶対的な『信頼』だと信じ込み、狂気めいた暴虐の手先として大真面目に長安の血の弾圧を担った。

 

そして、王允から「大漢を救うために董卓を討て」と涙ながらに説かれれば、今度は自分が国を救う英雄になれると信じ込み、養父である董卓の喉笛を掻き切ったのである。

 

他者の言葉に染まり、言われるがままに武器を振るってきた、哀れで強力な殺戮の道具。

それが、呂布という男の真実の姿であった。

 

だが。

 

そんな何者にも染まりやすい空っぽの獣の心に、生涯でただ一度だけ、「誰から命令されたわけでもない、己自身の魂から湧き上がった、絶対的な忠義の炎」が宿ったことがあった。

それは、董卓の暗殺をそそのかした王允に向けられたものではない。

 

長安の凍てつく冬の夜。己のような血塗られた獣に対し、何一つ見返りを求めることなく、ただ「大漢の将軍が凍えるのを見過ごせない」という純粋な慈悲をもって、一枚の温かな外套を差し出してくれた一人の少年。

 

絶望的な鳥籠(軟禁)の中にありながら、決して心を折らず、大漢の天子としての気高き矜持を保ち続けた第十四代皇帝——献帝・劉協。

 

「……俺は、あの御方のためにだけ、この(ほこ)を振るう」

 

それが、白紙であった呂布の心に初めて刻み込まれた、決して消えることのない極彩色の『自我』であった。

 

西暦一九二年。

董卓の死後、長安の権力を掌握した司徒・王允は、致命的な失策を犯していた。

 

彼は「董卓の残党(西涼軍)を一切許さず、すべて処刑する」という苛烈な方針を打ち出し、西涼軍の将であった李傕(りかく)や|郭汜《かくし)らの降伏を頑なに拒絶してしまったのである。

 

追い詰められ、命の危険を感じた李傕たちは、生き残るためにヤケクソの反乱を起こした。

 

「どうせ殺されるなら、長安を攻め落として王允を殺し、董卓様の仇を討つ!」

 

彼らは十万を超える西涼の大軍を糾合し、怒涛の勢いで長安の都へと殺到したのである。

 

「敵襲! 李傕、郭汜の反乱軍、その数十万以上! すでに長安の城門に迫っております!」

 

伝令の絶叫が、未央宮に響き渡った。

 

「な、なんだと!? なぜ残党どもがこれほどの兵を……!」

 

王允は顔面を蒼白にさせた。彼は董卓を暗殺すれば天下が平定されると思い込んでおり、残党たちの持つ「窮鼠猫を噛む」絶望的な軍事力を完全に見誤っていたのだ。

 

長安の城壁の外は、見渡す限りの反乱軍の松明で赤黒く染まっていた。

その絶望的な大群を前にして。

たった一人、長安の正門に仁王立ちし、赤兎馬(せきとば)の背で巨大な方天画戟(ほうてんがげき)を構え、鬼神の如き闘気を放っている男がいた。

 

無双の飛将・呂布である。

 

「来い、西涼の豚ども!! この呂布奉先がここにいる限り、長安の門は一歩たりとも通さんッ!!」

 

呂布の咆哮が、十万の反乱軍の怒号を掻き消して夜空に轟いた。

 

「呂、呂布だ! 裏切り者の呂布が出たぞ!」

 

「恐れるな! 奴は一人、こちらは十万だ! 押し潰せェッ!!」

 

李傕の号令と共に、西涼軍の兵士たちが黒い波となって城門へと殺到する。

しかし、呂布はたった一騎でその波に突っ込んでいった。

方天画戟が竜巻のように振るわれるたび、重武装の兵士たちが紙くずのように空高く舞い上がり、赤兎馬が(いなな)くたびに敵の陣形が粉砕される。

 

「オラァァァッ!! まとめて地獄へ落ちろォッ!!」

 

返り血で全身を真紅に染めながら、呂布は狂ったように笑い、戟を振るい続けた。

彼の背後で指揮を執っていた王允は、その鬼神のごとき戦いぶりを見て、感動の涙を流していた。

 

(おお……! 呂布よ、お前は我が大漢を救う真の英雄だ! 私の計略に応え、この国の正義を守るために命を懸けて戦ってくれているのだな!)

 

王允はそう信じて疑わなかった。

だが、呂布の心の中には、王允の姿など一塵も存在していなかった。

 

『大漢の正義』だの『逆賊の討伐』だのといった、高尚な理念などどうでもよかった。

 

(……この門を破られれば、反乱軍は宮中に雪崩れ込む。そうなれば、必ずあの御方(皇帝)の身に危険が及ぶ)

 

呂布は、方天画戟で敵の頭を叩き割りながら、懐の奥底に大切にしまい込まれている「あの夜の外套」の温もりを感じていた。

 

(王允のジジイがどうなろうと知ったことか! だが、あの方だけは……俺を『大漢の将軍』と呼び、人としての温もりをくれたあの小さな皇帝だけは、この俺が、この命に代えても守り抜くッ!!)

 

呂布がこれほどまでに果敢に、一歩も退かずに戦い続けていたのは、ただ純粋に、一人の少年の平穏を守るためだけであった。

 

しかし、現実の戦場は個人の武勇の限界を容赦なく露呈させる。

 

「呂布の正面を避けろ! 別の門から城壁を登れ! 奴を包囲しろ!」

 

李傕と郭汜は、呂布と正面から打ち合う愚を避け、圧倒的な兵力差を活かして長安の城壁の至る所から兵を雪崩れ込ませた。

 

「チィッ……! 卑怯な真似を!」

 

呂布がどれほど無双の武力を誇ろうとも、彼には分身の術は使えない。一つの門を完璧に守り抜いている間に、手薄な別の城壁が次々と破られ、反乱軍が長安の市街へと侵入を開始してしまったのである。

あちこちで火の手が上がり、女子供の悲鳴が長安の夜空に響き渡る。

 

かつて董卓が洛陽を焼き払ったのと同じ地獄が、今度は長安で繰り返されようとしていた。

 

「防げん……! 敵の数が多すぎる!」

 

呂布の配下の兵たちも次々と討ち死にし、ついに長安の防衛線は完全に決壊した。

 

「呂布将軍! もはやこれまでです! 城を捨て、お逃げくだされ!」

 

副将の張遼(ちょうりょう)が、血まみれになって馬を寄せて叫んだ。

 

「……逃げるだと? 冗談ではない!」

 

呂布は方天画戟についた血を振り払い、城門ではなく、炎に包まれつつある未央宮の奥深く——献帝のいる方角へと赤兎馬の首を向けた。

 

「俺は、陛下を救い出す! 陛下をお連れして、長安から脱出するのだ!!」

 

「なりませぬ!」

 

張遼が必死に呂布の手綱にすがりついた。

 

「冷静になってくだされ、将軍! 今の長安は反乱軍で埋め尽くされています。将軍お一人ならば赤兎馬で突破できましょうが、幼い陛下をお連れしての強行突破など、確実に乱戦の中で陛下を死なせることになりますぞ!」

 

「……っ!!」

 

張遼の痛烈な正論に、呂布はギリッと奥歯を噛み砕くほどに食い縛った。

 

自分がここで無理に天子を連れ出せば、李傕たちは血眼になって追ってくる。矢の雨が降り注ぐ中、馬上で幼子を守り切る保証は、天下無双の呂布にすら不可能であった。

 

さらに言えば、今の李傕たちにとって献帝は「董卓の仇」ではない。彼らが殺したいのは首謀者の王允と実行犯の呂布であり、大義名分(お飾り)として必要な天子自身を、反乱軍が自ら進んで殺す理由はなかったのだ。

 

(俺がそばにいること自体が……あの方を最大の危険に晒すことになるのか)

 

呂布は、己が「呪われた裏切り者」であることを、ここに来てかつてないほどの絶望と共に自覚した。

自分が近づけば、あの方に火の粉が降りかかる。

 

「……呂布将軍! ここは私が引き受けよう!」

 

未央宮の階段の上。

炎を背にして、剣を抜いた王允が立っていた。彼は、己の失策がこの地獄を招いたことを悟り、死の覚悟を決めていた。

 

「私は逃げん。大漢の司徒として、この未央宮で賊どもを迎え撃ち、天子の御盾となる! 将軍は囲みを突破し、関東の諸侯に援軍を求めよ!」

 

王允は、己の命と引き換えに献帝を守ることを宣言したのだ。

呂布は、階段の上に立つ王允越しに、その奥の寝所をじっと見つめた。

もしかすると、あの方は今もあの薄暗い部屋で、外の狂騒に怯えることなく、静かに書物を読んでいるのかもしれない。

 

「……王允。貴様の腐った謀略は反吐が出るほど嫌いだが。……あの方を守るというその覚悟だけは、認めてやる」

 

呂布は、赤兎馬の上で、未央宮の奥へ向かって深く、深く頭を下げた。

 

『陛下。……どうか、御無事で。この呂布、必ずや力をつけ、いつの日か必ず、貴方様をこの泥沼からお救い出しに参ります』

 

心の中で血の涙を流しながら誓いを立てると、呂布は顔を上げ、修羅の顔に戻った。

 

「張遼! 退路を開くぞ! 俺の背中から離れるなッ!!」

 

「ははっ!!」

 

呂布は赤兎馬の腹を蹴り、長安を埋め尽くす十万の西涼軍に向かって、再び単騎で突撃を開始した。

それは、勝利のための突撃ではない。ただ己の命を繋ぎ、いつか必ずあの方のもとへ帰るための、悲しくも凄絶な「血路を開く」ための戦いであった。

 

「退けェッ! 呂布が来るぞッ!!」

 

「奴に近づくな! 串刺しにされるぞ!」

 

赤兎馬と方天画戟の組み合わせは、まさに歩く災害であった。

李傕や郭汜の軍勢は、長安を制圧するという目的を達成しつつあったため、あえて死に物狂いで突っ込んでくる無双の獣を命がけで止めることを躊躇した。

 

結果として、呂布と数十騎の側近たちは、十万の包囲網に大穴を開け、長安の東へと見事に落ち延びることに成功したのである。

燃え盛る長安の都を背にして。

 

呂布は馬を止め、振り返った。

中原の群雄たちが、己の野心や、法という名の大義名分を振りかざして領土を奪い合っている中。

 

ただ一人、「己自身の魂の救済」のためだけに戦い、そして敗れ去った天下最強の武将。

彼は、懐から少し煤けた毛皮の外套を取り出し、それを顔に押し当てた。

 

たとえ、長安に取り残された献帝が、「呂布は自分を捨てて逃げた卑怯者だ」と恨んでいるとしても構わない。

天下のすべてが、自分を裏切り者の獣と罵ろうとも構わない。

この胸の中にある温もりだけは、誰に騙されたわけでもない、純粋で真実の『忠義』なのだから。

 

「……待っていてくだされ、陛下。この呂布奉先、必ずや……必ずや……!」

 

董卓という巨大な軛(くびき)から解放された大漢帝国は、李傕ら反乱軍による長安の再占拠という、さらなる混沌の底へと沈んでいった。

 

東へ逃れる呂布の孤独な背中には、天下の覇権を争う群雄たちとは全く質の異なる、不器用で、悲しいほどに純粋な一筋の「忠義の炎」が、静かに燃え続けていた。

 

―――

 

長安において、無双の飛将・呂布がたった一人で十万の西涼軍に抗い、血まみれになって逃亡の路へと就いたのと同じ頃。

 

大漢帝国の南、揚州(ようしゅう)に属する長江北岸の都市・江都(こうと)において、一人の若者が静かに、しかし熱烈な熱気を帯びてその名を轟かせ始めていた。 

 

江東の猛虎と謳われた亡き孫堅の長男——孫策伯符。この時、十七歳である。

 

「おお、孫郎(そんろう)(孫策の尊称)様! 本日も見事な手合わせでございました!」

 

「孫郎様、どうかこの果物をお受け取りくだされ!」

 

江都の街を歩けば、道行く人々が皆、足を止めて彼に歓声を送った。

 

孫堅の死後、孫策は母や幼い弟たち一族を連れてこの江都へと移り住んでいた。父譲りの類まれなる武勇と、誰もが目を奪われるほどの眉目秀麗な容姿。そして何より、身分や老若男女を問わず誰に対しても快活に接し、心を開かせるその異常なまでの「人たらし」は、瞬く間に江都の若者たちや名士の心を鷲掴みにしていた。

 

「あはは、ありがとう。みんなも仕事に精を出してくれよ!」

 

孫策は爽やかな笑顔で手を振り、民衆に応える。

しかし、その陽気で快活な笑顔の裏側で、若き虎の瞳は常に極めて冷徹な「現実」を見据えていた。

 

(……親父殿の残した旧軍は、今や完全に袁術の胃袋の中に呑み込まれている。あそこから兵を剥がして取り戻すのは、今の俺の力では至難の業だ)

 

孫堅が率いていた屈強な江東の兵たちは、孫堅の死後、軍の維持ができなくなり、袁術の傘下へと吸収されてしまっていた。

多くの者は「袁術様の下で功を立て、いずれ父君の軍を取り戻せば良い」と孫策に忠告した。だが、孫策は袁術という男の底の浅さと、その嫉妬深さを正確に見抜いていた。あの男の下にいる限り、孫軍の完全な独立など永遠に許されはしない。

 

(誰かの力を借りて立ち上がるのではない。俺自身の力で、初から『新たな孫家の軍』を創り上げなければならないのだ)

 

そのために必要なのは、ただ槍を振るう腕力ではない。

人を養い、武器を揃え、軍を動かすための「圧倒的な財力」と「情報」である。

 

孫策は、名士や武人との交流だけでなく、江都に出入りする多くの商人や町人たちと積極的に交わり、彼らからスポンサーとしての支援を取り付けていた。

 

彼は武一辺倒の粗暴な男ではない。商人たちの宴席に顔を出しては、巧みな話術で彼らの懐に飛び込み、どの地方でどの品がいくらで売れるのか、長江の水位はどう変化するのか、といった「生きた経済感覚と物流の知識」を貪欲に吸収し続けていたのである。

 

さらに、様々な文学や書物にも触れ、己の知性を徹底的に磨き上げていた。

 

「孫郎様。あなた様のその向学心と、我ら商人に対する偏見のなさには、感服いたすばかりです。あなた様がいつか兵を挙げる日には、我ら江都の商人がこぞって資金を援助いたしましょう」

 

豪商の一人が、酒を注ぎながら孫策に熱い視線を送る。

 

「ありがとう。皆の支援があれば、これほど心強いことはない。……ところで、最近街で少し変わった商人の噂を聞くのだが」

 

孫策が水を向けると、豪商は少し声を潜めた。

 

「ああ……『辰砂売り』の連中のことですか。確かに、あいつらは少し気味が悪いですな」

 

豪商の言葉によれば、その商人たちは中原では貴重とされる極上の辰砂や、見たこともないほど粒の揃った美しい真珠を専門に扱っているという。

 

彼らは「我らの品は、古くは()の時代から宮廷に献上されている秘薬である」と嘯き、実際に洛陽の宦官や、各地の太守といった権力者の屋敷に深く入り込んでいるらしい。

 

「嘘か誠か分かりませんが、彼らは我々のような一般の商人とは全く違う『見えない道(ルート)』を持っているようです。……あまり深く関わらぬ方がよろしいかと」

 

「見えない道、か」

 

孫策の目に、強い好奇心の光が宿った。

 

(楚の時代から、などというのは胡散臭いホラ話だろう。だが、実際に各地の豪族や太守と太いパイプを持っているのは事実らしい。……今の俺に最も足りないのは、その『中原の暗部を知るための情報網』だ)

 

孫策は、豪商に無理を言い、その「辰砂売り」と接触する機会を設けてもらうよう頼み込んだのである。

 

数日後。

江都の路地裏にある、目立たない茶楼の一室。

紹介者の商人(豪商の手代)に連れられて孫策が部屋に入ると、そこには質素だが仕立ての良い衣を着た、中年の男が一人で茶を啜っていた。

 

「お初にお目にかかります、孫郎様。……江東の若き虎とお見受けするには、いささか穏やかすぎる御尊顔ですな」

 

男は、完璧な漢語でそう言って、恭しく拱手した。

一見すると、どこにでもいる中原の商人の姿である。

しかし、孫策の鋭い観察眼は、男の顔の形状——頬骨の高さや、目の奥に宿る無機質な光、そして微細な骨格の違いから、この男が「中原の人間とは少し違う(異邦の血が混ざっている)」ことを即座に見抜いていた。

 

(……こいつ、漢の人間ではない。北方や西方の異民族でもないな。独特の『冷たさ』がある)

 

孫策は内心の警戒を一切表に出さず、持ち前の人懐っこい笑顔を満面に浮かべて男の対面に座った。

 

「はははっ、よく言われるよ! 虎の子にしては牙が足りないってな。……今日は、あんたの商売の話を聞きたくてね。俺はこれから、江東で大きく網を張ろうと思っているんだ。あんたたちが扱う『辰砂』ってのは、どこへ持っていけば一番高く売れるんだ?」

 

孫策は、あくまで「商売の儲け話に興味がある若者」を演じながら、男の素性と力量を探り始めた。

 

男は、茶杯を置き、孫策の瞳をじっと見つめ返した。

 

「孫郎様。ご冗談を。あなた様が求めておられるのは、辰砂を売って得る『銭』などではないでしょう」

 

「……ほう?」

 

「我が商会は、洛陽から長安、そして冀州から揚州に至るまで、あらゆる権力者の懐に『薬』を届けております。……薬を届けるということは、すなわち、彼らの寝所の近くまで立ち入ることができるということ。病の重さ、抱える悩み、そして『誰と誰が手を結ぼうとしているか』という寝言まで、我々の耳には入ってくるのです」

 

男は、ニヤリと笑った。

それは、商人の笑みではなく、明らかに「諜報員」のそれであった。

 

もちろん、孫策はこの男が東の海の果てにある『日本国』の工作員であり、中原を内部から腐らせるためのシステムの一部であることなど知る由もない。

だが、男が提供しようとしているものの価値は、痛いほどに理解できた。

 

「……なるほど。あんたたちは、物を売っているんじゃない。『耳と目』を売っているというわけか」

 

孫策の顔から、少年の陽気な笑顔が消え、猛虎の鋭い眼光が剥き出しになった。

 

「ご名答にございます、孫郎様」

 

大和国の工作員である商人は、内心で舌を巻いていた。

 

(この若者、ただの武将の(せがれ)ではない。こちらの情報網(システム)の真価を一瞬で理解し、それを己の覇業にどう組み込むかをすでに計算している。……曹操や公孫瓚に匹敵する、極めて危険な『器』だ)

 

商人は、懐から一葉の木簡を取り出し、卓の上に置いた。

 

「我々は商人です。ですから、我々の持つ『情報』は、すべて売り物にございます。……孫郎様。あなた様が今後、江東で軍を興し、中原の覇権争いに加わろうとするのであれば。確かな情報が命綱となるはず。十分な『報奨』を頂けるのであれば、我々の耳目を、あなた様のために動かしてもよろしい」

 

「報奨とは、金か?」

 

「金、絹、あるいは……あなた様がいずれ手にするであろう『領土での自由な商いの権利』など、様々にございます」

 

それは、悪魔の契約であった。

中原の裏社会に張り巡らされた巨大な情報網を利用できる代わりに、彼らという「得体の知れない存在」を己の懐深くに入り込ませることになる。

 

もし父・孫堅がこの場にいれば、「出所の分からぬ輩の力など借りん!」と一喝して席を立っていただろう。

 

だが、孫策は父とは違う。

 

彼は、父が洛陽を焼き払った董卓軍の残虐さに直面し、そして死の直前に語った「東の海から来る見えざる脅威」という言葉を、その魂の奥底に刻み込んでいる。

 

(親父殿は、純粋すぎた。正義と武勇だけで突っ走り、最後には謀略の前に命を落とした。……俺は、同じ轍は踏まない)

 

孫策は、袁術という狡猾な男の支配下から抜け出し、全くのゼロから軍を創り上げるためには、綺麗事など言っていられないことを知っていた。

 

どれほど汚い水であろうと、毒が混じっていようと、それを飲み干して自らの血肉(力)に変えなければ、江東を平定することなどできない。ひいては、父が遺した『東の脅威に対する備え』を果たすことなど不可能なのだ。

 

「……いいだろう」

 

孫策は、卓の上の木簡を自らの手で引き寄せた。

 

「あんたたちが、どれほどの情報を持っているのか。お手並み拝見といこう。……俺が相応の対価(銭)を用意すれば、袁術の陣営の動きや、江東の豪族たちの弱み、すべて俺の耳に入れてくれるんだな?」

 

「もちろんにございます。……良き商いになりそうですな、孫郎様」

 

商人は、恭しく深く頭を下げた。

大和国からすれば、この若き虎に情報を与え、彼を利用して江東を混乱させ・意図的に制御するための「投資」のつもりであった。

 

しかし、孫策もまた、彼らの情報網を極限までしゃぶり尽くし、いずれは彼ら自身の正体をも暴き出してやろうという、底知れぬ野心をその眼光に秘めていた。

 

 

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