四國志   作:丸亀導師

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天命 4

 

西暦一九二年、夏。

兗州の東郡、治所である濮陽(ぼくよう)の巨大な兵糧庫の前で、曹操孟徳は腹の底から湧き上がるような高笑いを響かせていた。

 

「ふははははっ! 見よ、この麦の山を! 袁紹の奴め、自らが食うこともできずに死んでいくとは、これほど上質な喜劇が他にあるか!」

 

曹操の目の前には、文字通り小山のように積み上げられた穀物の袋と、鈍い光を放つ武具の束が延々と連なっていた。

界橋の戦いの裏で、公孫瓚との挟撃という形をとりながら、一切の血を流すことなく合法的に奪い取った「冀州南半分の領土」と、そこに蓄えられていた「三年分」にも及ぶ莫大な兵糧である。

 

乱世において、領土の広さは強さの絶対条件ではない。真の強さとは「どれだけの兵を飢えさせずに養えるか」という一点に尽きる。

 

その意味で、袁紹から丸ごと奪い取ったこの巨大な『胃袋』は、流浪の軍に過ぎなかった曹操軍を、一躍中原の覇権を争う大軍閥へと押し上げるだけの起爆剤であった。

しかし、曹操はただ喜びに酔いしれるような暗愚ではない。

手に入れた膨大な果実は、胃袋に詰め込んだだけでは意味がない。それを完全に消化し、己の血肉に変換しなければ、いずれ腹を壊して自滅する。

 

曹操は、傍らに控える三人の男たち——荀彧、戯志才、班稀へと振り返った。

 

「さて、極上の兵糧は手に入った。次はこれを元手にして、我が東郡の喉元に突き刺さったままの小骨を、跡形もなく消し去る作業に入るぞ」

 

曹操の言う「小骨」とは、かつて黄巾の乱から派生し、太行山脈(たいこうさんみゃく)を拠点に数十万の規模にまで膨れ上がっていた巨大な賊軍——「黒山軍」の残党であった。

 

彼らは飢えに苦しむ農民の集まりでありながら、その数の暴力と地の利を活かし、幾度となく曹操の領地を脅かしてきた厄介な存在である。

 

「袁紹から奪った三年分の兵糧を、すべてこの戦いに投資する。……戯志才、班稀、荀彧。貴様ら三人の知恵をフル稼働させ、この黒山軍を一人残らず我が『血肉』へと変えてみせよ!」

「ははっ!!」

 

三つの極上の頭脳が、一斉に首を垂れた。

ここから、中原の歴史上類を見ない、軍略・兵站・内政が三位一体となった「完璧な消化作業」が幕を開ける。

 

戦端を開いたのは、曹操軍の総参謀にして前線の軍師、戯志才であった。

 

「……賊どもめ。数が多ければ勝てるとでも思っているのか。烏合の衆の首など、紐で繋がれた団子のようなものだ。一つ引っ張ればすべて崩れる」

 

薄暗い陣幕の中で、病的に青白い顔をした戯志才は、戦場の地図を指でなぞりながら冷酷な笑みを浮かべていた。

彼が指揮する曹操軍の動きは、これまでの重厚な大軍の激突とは全く異なっていた。数十万を号する黒山軍に対し、戯志才はあえて軍を細かく分割し、正面からの衝突を徹底的に避けたのである。  

 

「敵の主力には、精鋭の騎兵を当てて『逃げの戦闘』を繰り返させろ。追撃して陣形が伸び切ったところを、夜陰に乗じて横っ腹から火計で炙り出せ」

 

戯志才の戦術は、血も凍るほどに正確で、そして陰湿であった。

彼は敵の「兵糧庫」や「指揮官のいる本陣」といった急所のみを、少数精鋭の奇襲部隊で執拗に狙い撃ちにした。黒山軍の将が陣を張れば、その日の夜には必ず水が絶たれ、あるいは風下から猛毒の煙を焚き染められた。

 

「ぎゃあっ! 敵襲だ! どこから来た!?」 

 

「将軍が討たれたぞ! 逃げろ、陣を捨てろ!」

 

黒山軍は、見えない刃に手足を切り刻まれるような恐怖に陥った。

大軍であればあるほど、指揮系統が一度麻痺すれば、その統率は一瞬にしてパニックへと変わる。戯志才は、彼らの「数の利」を逆手に取り、同士討ちや恐怖による逃亡を誘発させ、黒山軍をいくつもの小さな集団へと物理的に分断・孤立させていったのである。 

 

「素晴らしい……見事な戦術だ。これほど血を流さずに敵を切り刻むとは」

 

前線で剣を振るう将軍たちでさえ、戯志才のその恐るべき用兵術に背筋を凍らせた。

だが、戯志才自身は咳き込みながら、血の混じった痰を吐き捨ててこう呟いていた。

 

「俺の策が活きるのは、後ろで班稀の野郎が、絶対に矢と飯を途切れさせないからだ。……気味の悪いほどの補給線だぜ、まったく」

 

戯志才によって分断され、山あいの谷や盆地へと追い詰められた黒山軍の残党たち。

彼らは「曹操軍の猛攻をやり過ごし、山に籠もっていればいずれ敵は兵糧が尽きて退却する」と考えていた。彼ら自身がこれまで官軍を相手に用いてきた、最も得意とする持久戦術である。

だが、彼らを待ち受けていたのは、曹操軍の撤退ではなく、音もなく首に巻き付く『透明な真綿』であった。

 

「……第三谷を封鎖完了。第五街道の伏兵も配置につきました」

 

「よろしい。これで、黒山軍の生存確率は完全に無となった」

 

後方の兵站基地。

そこでは、班稀が巨大な算盤を弾きながら、東の国で叩き込まれた極限の数字の理を、中原の大地に展開させていた。

 

「敵の残存兵力はおよそ十万。一日あたりに必要な穀物の量は、最低でもこれだけ必要だ。彼らが逃げ込んだ山域に自生する草の根や木の実を計算しても、十日後には確実に飢餓状態に陥る」

 

班稀の引いた包囲網は、単なる兵士の壁ではない。「物流の完全遮断」であった。

彼は袁紹から奪った莫大な兵糧を湯水のように使い、周辺の村々の食糧をあらかじめすべて「適正価格で買い占め」、黒山軍が略奪できるものを物理的にゼロにした。さらに、山の水脈の上流に陣取り、水を堰き止めた。

 

「戦争とは、刃で肉を斬ることではない。胃袋への供給線を断ち、相手の肉体を維持する『理』を崩壊させることだ」 

 

班稀は、感情の消え失せた冷徹な目で計算結果を木簡に記す。

包囲された黒山軍は、最初は勇ましく出撃してきたが、やがて武器を振るう力も失い、草の根をかじり、泥を啜り、ついには仲間同士で食料を奪い合う地獄絵図へと変貌していった。

彼らは、曹操の兵と戦っていたのではない。班稀という男の脳内に構築された『冷酷な数字の檻』の中で、ただ餓死するのを待つだけの実験動物に成り下がっていたのである。

 

「降伏だ……! 頼む、飯を食わせてくれ……! なんでもする、命だけは助けてくれぇっ!!」

 

半月後。

飢えと絶望に完全に心を折られた数万の黒山軍が、次々と武器を捨て、虚ろな目で曹操軍の陣門へと投降してきたのである。 

 

数万に膨れ上がった投降兵たち。彼らは骨と皮ばかりに痩せこけ、地面に這いつくばって飯を乞うていた。  

 

「さて、どうする? 孟徳」

 

戯志才が、冷たい目で彼らを見下ろしながら曹操に問うた。

 

「こいつら全員に飯を食わせれば、いくら袁紹から奪った兵糧があるとはいえ、いずれ底をつく。反乱の芽を摘むためにも、ここで半分ほど穴埋めにして殺しておくのが兵法の定石だが?」

 

中原の常識からすれば、それは正論であった。養いきれない捕虜は、殺すしかない。

だが、曹操がその非情な決断を下そうとしたその時。

 

「お待ちください、明公!! 断じて、そのような凶行は許されません!」

 

大漢の正統なる徳と法を重んじる王佐の才、荀彧文若が、毅然とした態度で曹操の前に立ち塞がった。

 

「彼らは元々、大漢の善良なる農民です! 董卓や腐敗した役人たちのせいで畑を奪われ、飢えに耐えかねて賊に身を落としたに過ぎません。彼らを殺せば、天の理に背き、民心は二度と曹操様の下へは戻りませぬ!」 

 

「ならばどうする、文若。彼らをただ養い続けろと言うのか?」 

 

曹操が問うと、荀彧は深く一礼し、自らが温め続けていた『究極の国家再建案』を口にした。

 

「『屯田』の法を敷くのです」

 

荀彧の目は、静かに、しかし力強く燃えていた。

 

「袁紹殿から奪い取った三年分の兵糧。これを、彼らにただ食わせるのではなく、『種籾』と『当面の食い扶持』として貸し与えます。

そして、この戦乱で主を失い、荒れ果てたままとなっている東郡や冀州南部の広大な農地。この土地を、彼ら投降兵に割り当て、軍の厳しい管理の下で強制的に田畑を耕させるのです」

 

それは、班稀が持ち込んだ東の理とも見事に合致する、極めて合理的な統治システムであった。

 

「収穫した麦の五割は軍が税として徴収し、残りの五割を彼らのものとする。法によって彼らを土地に縛り付け、逃亡を禁ずる代わりに、『必ず食っていける明日』を国家が保証するのです。

これを成せば、数万の厄介な賊軍は、曹操様の兵糧を無限に生み出す『無傷の農民』へと生まれ変わり、いざ戦となれば槍を持たせて『精強な予備兵』として使うこともできる。……これぞ、武力ではなく『法と寛容』によって国を造る王道にございます!」 

 

賊を殺すのではなく、農地の歯車として組み込む。

曹操は、荀彧のその途方もないスケールの政策に、全身の血が粟立つような衝撃を受けた。

 

「……見事だ、文若。お前のその真っ直ぐな理想は、我が軍の未来を照らす確かな光だ。……良し! 全軍に告ぐ! 投降兵は一人も殺すな! 彼らに鍬を与え、我が領土の土を耕させよ!!」 

 

曹操の号令により、死を覚悟していた黒山軍の残党たちは、涙を流して曹操の寛容に平伏した。

彼らは自ら進んで荒れ地を開墾し、水路を引き、曹操という絶対的な主君のために、己の血の滲むような労働を捧げることを誓ったのである。

 

 

 

西暦一九二年、秋。 

 

袁紹の死と董卓の暗殺からわずか半年の間に、曹操の治める東郡および冀州南部は、中原の他の群雄たちが想像もつかないほどの「異次元の変貌」を遂げていた。

 

見渡す限りの平野は、かつての賊軍たち(屯田兵)によって黄金色の麦畑へと姿を変え、風に揺れて豊かな実りを謳歌している。

街道には班稀の設計した規格化された荷車が絶え間なく行き交い、兵糧と鉄が血流のように領内を循環している。

そして前線には、戯志才の苛烈な訓練を受けた精強な兵士たちが、黒光りする甲冑を纏って一糸乱れぬ陣形を組んでいる。

 

「……揃ったな」 

 

濮陽の城壁の上。

曹操は、吹き抜ける秋風を全身に受けながら、眼下に広がる己の絶対的な領土を見下ろしていた。

戯志才の「軍略(刃)」。

班稀の「兵站(血液)」。

荀彧の「王道(骨格)」。

この三つの極星とも呼ぶべき知性が、曹操孟徳という底知れぬ器の中で完全に一つに融合した結果。

 

ここはもはや、単なる一地方の領地ではない。

 

反乱の火種は極限まで消し去られ、農民と兵士が一体となり、無限の兵糧と強大な武力を生み出し続ける、中原最大にして最強の『軍事国家』が完成したのである。

 

「袁紹よ、董卓よ。貴様らが古い時代と共に消え去ったこの大地を、私がこの足で踏み固めてやる。……待っていろ、天下の群雄ども。この曹孟徳の覇業は、ここからが真の始まりだ」

 

曹操の背後に翻る『曹』の巨大な軍旗が、秋の空高く、力強く舞い上がった。

大漢帝国の命脈が風前の灯火となる中、東の海から迫る見えざる理を無意識のうちに体内に取り込んだ中原の覇王が、ついにその完全なる牙を剥き出しにした瞬間であった。

 

 

 

 

同様に

西暦一九二年、夏。

界橋の荒野を赤く染め上げた死闘は、公孫瓚率いる「白馬義従」の歴史的な大勝利によって幕を閉じた。

 

「勝ったぞ! 逆賊・袁紹の軍は完全に粉砕された!」

 

「我ら白馬の前に、敵なしッ!!」

 

血にまみれた銀槍を天に掲げる公孫瓚の周囲で、数万の将兵たちが地を揺るがすような勝鬨を上げていた。

 

この勝利により、大漢帝国の北半分——冀州の北部から、東の海に面する青州(せいしゅう)に至る広大な領土が、完全に公孫瓚の支配下に置かれることとなったのである。

 

南では、同盟者という顔をした曹操が袁紹の南半分の領土をちゃっかりと掠め取っていたが、公孫瓚はそれに腹を立てることはなかった。

 

「曹操め、美味い汁を吸いおって。……だが、構わん。私の真の目的は、南の泥沼で領土を広げることではないのだからな」

 

公孫瓚は、歓喜に沸く将兵たちを背に、愛馬の首をゆっくりと「東」——すなわち、果てしなく広がる渤海と黄海の方角へと向けた。

 

彼が袁紹を討ち、この冀州北部と青州をどうしても手に入れねばならなかった理由。

それは、かつて彼が辺境の海で目撃した、あの恐るべき「一枚帆の異形の船」……東の海の彼方に息を潜める『日本国』という見えざる化け物に対する、絶対的な防衛線を構築するためであった。

 

「全軍に告ぐ! 勝利の宴は終わりだ。これより我らは軍を東へ進め、青州の沿岸部を完全に制圧する! 一寸の隙もなく、海を封鎖せよ!!」

 

中原の群雄たちが、洛陽や長安の覇権を巡って内陸部に目を向けている中。

北方の覇者となった公孫瓚だけは、ただ一人、誰も見向きもしない「虚無の海」に向かって、その強烈な殺気と軍事力を極限まで集中させようとしていたのである。

 

それからの公孫瓚の行動は、周囲の武将たちから見れば「狂気」あるいは「偏執」としか言いようのないものであった。

青州を平定するや否や、彼は内政や戦後処理を完全に後回しにし、莫大な人員と資金を沿岸部の『要塞化』へと全振りしたのである。

 

「木を切れ! 山の木をすべて切り出し、巨大な造船所を築け! あの海を渡ってきた異形の船を上回る、強固な軍船を百隻、いや千隻造るのだ!」

 

渤海から黄海へと続く長大な海岸線。

そこに、公孫瓚の命令によって次々と無骨な港塞(こうさい)が築き上げられていった。海を見下ろす断崖には、数十里(数十キロ)おきに巨大な石造りの物見櫓(烽火台)が立ち並び、昼夜を問わず厳重な監視の目が海上に光らされた。

 

「……伯珪様。いくらなんでも、海への備えに労力を割きすぎではございませぬか?」

 

古参の将軍が、疲労困憊した様子で進言した。

 

「今、我らの最大の脅威は南の曹操、あるいは長安の李傕ら反乱軍のはず。誰も攻めてこない何もない海に向かって、これほどの砦と船を造り続けるなど……兵たちも疲弊しきっております」

 

将軍の言葉はもっともであった。中原の常識からすれば、海から国を滅ぼすほどの大軍が攻めてくるなど、おとぎ話の類でしかないからだ。

だが、公孫瓚はその将軍の胸ぐらを恐るべき膂力で掴み上げ、血走った目で睨みつけた。

 

「誰も攻めてこない、だと? 貴様らには、あの静けさの異常さが分からんのかッ!」

 

公孫瓚の低い声が、波の音に混じって震えた。

 

「海の向こうには、我々の常識を完全に凌駕する技術と、冷徹な知性を持った『別の国』が存在しているのだ。奴らは、我々が内輪揉めで血を流し、疲弊し切るのを冷たい目で待っている。……奴らが海を渡ってきた時、この防波堤がなければ、大漢帝国は赤子のように首を刎ねられるのだぞ!!」

 

公孫瓚は将軍を突き飛ばし、潮風の吹き荒れる断崖の先端へと歩み出た。

 

「私は、幽州と青州のすべてを犠牲にしてでも、この海に鉄壁の鎖を掛ける。……それが、この公孫伯珪の生涯を懸けた使命だ」

 

白馬の猛将は、もはや他国を侵略する牙を捨てていた。

彼は、己の視た幻影に憑りつかれ、大漢帝国を守るための巨大な「門番」として、ただひたすらに東の海を睨み続ける孤独な修羅へと変貌を遂げていたのである。

 

しかし、公孫瓚が狂気的なまでに沿岸防衛にのめり込むことができるのには、一つの「絶対的な理由(前提)」が存在した。

戦火に蹂躙され、袁紹の重税によって荒れ果てた冀州北部と青州の『内政』。

 

数百万の民の怒りと飢えを鎮め、国家の土台を立て直すという、本来であれば最も困難で時間のかかる作業のすべてを、公孫瓚は「一人の男」に完全に丸投げ(一任)していたのである。

客将・劉備玄徳。

 

「玄徳。お前には平原(へいげん)の相に続き、この冀州と青州の民の慰撫(いぶ)をすべて任せる。お前の好きに治めてみせろ。俺は海を固めることに専念する」

 

公孫瓚からのその破格の権限委譲を受け、劉備はただ静かに深く頭を下げた。

 

劉備が足を踏み入れた青州の地は、凄惨たる有様であった。

戦乱で家を焼かれた流民たちが路上に溢れ、飢えから黄巾の残党に身を落とす者が後を絶たない。民の目には、為政者に対する深い絶望と不信感だけが宿っていた。

だが、劉備はその絶望の泥沼の中に、一切の躊躇なく足を踏み入れた。

 

「皆の者。辛かったであろう。……私には、気の利いた言葉も、莫大な富もない。だが、共に土を耕し、共に泣くことならばできる」

 

劉備は、豪華な長官の館に入ることを拒否し、自ら粗末な麻の衣を着て、泥にまみれながら民と共に焼け跡の瓦礫を片付け始めた。

配給の麦粥を煮る鍋があれば、自ら列の最後尾に並び、民と同じ器で同じ粥を啜った。

 

「劉玄徳様……。貴方様のようなお偉い方が、なぜ我らのような汚れた泥民(どろみん)と共に……」

 

「馬鹿なことを言うな。天の前にあっては、貴方も私も同じ大漢の民だ。共に生き抜こう」

 

劉備は、家族を失って泣き崩れる老婆の手を握り、自らもボロボロと大粒の涙を流して悲しみを分かち合った。

その劉備の背後には、鬼神のごとき武威を誇る関羽と張飛が、まるで門神のように控えている。

 

張飛が野盗や悪徳商人を容赦なく叩き潰して治安を回復し、関羽が厳格な法と軍紀を敷いて兵士の略奪を完全に防ぐ。そして、その武威の中心で、劉備という男の底知れぬ『徳』が、太陽のような温もりを放ち続けていた。

 

「この方だ……この方こそが、我らを救う真の君主だ!」

 

袁紹の死と戦乱で完全に荒廃し、誰もが心を閉ざしていた冀州と青州の民心は、劉備のその圧倒的な「仁徳」の前に、まるで春の雪解けのように瞬く間に平穏を取り戻していった。

わずか数ヶ月で、流民たちは自ら農地へと戻り、劉備のためにと鍬(くわ)を握り、驚異的な速度で領内の生産力が回復し始めたのである。

 

曹操が、班稀の兵站と荀彧の法という「冷徹な構造」によって国を再建したのとは対極の。

純粋な人間の感情と共感による、奇跡のような『徳の統治』。

 

「……玄徳よ。やはり俺の目に狂いはなかった。お前のその徳があれば、我が背後は盤石だ」

 

公孫瓚は、海を見据えながら劉備の報告を聞き、安堵の笑みを漏らした。

冷徹で偏執的な「鉄の盾(公孫瓚)」が外の脅威を完全に遮断し、その内側を、底知れぬ温もりを持つ「徳の心臓(劉備)」が癒やし、満たしていく。

 

この相反する二つの才能が完全に役割を分担したことで、北方の勢力は、中原において最も強固で、最も結束力の高い理想的な国家体制を築き上げていたのである。

 

 

しかし、公孫瓚が青州の沿岸部を制圧し、防衛線を東へ東へと押し広げていったその矢先。

青州の最も東の端、海に突き出た半島である『東莱(とうらい)』の地において、公孫瓚の白馬義従は、思わぬ軍勢と衝突することとなった。

 

「報告します! 東莱の港に、見知らぬ水軍が上陸し、すでに強固な陣地を構築しております! 掲げられている旗は……『公孫』!」

 

「なんだと? 私の軍ではないぞ」

 

公孫瓚は眉をひそめ、ただちに前線へと馬を走らせた。

東莱の地に陣取っていたのは、渤海を隔てた北東の辺境、遼東に独立王国を築き上げつつあった公孫度の軍勢であった。

 

彼らは劉虞の「袁紹討伐」の檄文を大義名分(建前)として利用し、海を渡ってこの青州の東端を占拠していたのだ。

 

「遼東の公孫度め。中原の混乱に乗じて、ここまで領土を広げようというのか。……小賢しい真似を!」

 

公孫瓚は、即座に白馬義従を展開し、公孫度の陣地へと圧力をかけた。

同じ「公孫」の姓を持つ(血縁関係はない)二人の猛将。

一触即発の事態。本来であれば、ここで血で血を洗う凄惨な領土争いが勃発するはずであった。

だが、陣形を整え、いざ開戦というその直前。

公孫瓚と、公孫度の軍を率いていた将軍は、互いの「陣の布き方」を見て、同時に強烈な違和感を覚えた。

 

「……待て。様子がおかしいぞ」

 

公孫瓚は、馬上から目を細めた。

公孫度の軍勢は、確かに東莱の地に上陸し、砦を築いている。

しかし、その砦に設置された弩や投石機、そして物見櫓の向きは、陸地側ではなく……すべて「東の海」の方角に向けて設置されていたのである。

 

それは、公孫瓚が青州の沿岸で狂ったように造り続けている防衛拠点と、全く同じ設計思想であった。

同じ頃、公孫度の陣営でも、将軍が息を呑んでいた。

 

「太守様の読み通りだ……。公孫瓚の軍は、我々を攻める気などない。奴らの騎兵の配置も、兵站の線も、すべて『海からの上陸』を迎え撃つための陣形だ」

 

その瞬間、両者の間に、言葉を交わさずとも伝わる、冷たい汗を伴った『強烈な相互理解』が生まれた。

 

(……貴様も、見たのか)

 

(……貴様も、恐れているのだな)

 

漢江以南を完全に制圧し、無音の要塞を築き上げている大和国の恐るべき姿を間近で感じ取っている遼東の王・公孫度。

そして、かつて渤海で風を切り裂く異形の船を目撃し、その背後にある巨大な知性に戦慄した白馬の将・公孫瓚。

彼らは、中原でただ二人だけ、「海から来る真の絶望(大和国)」の存在に気づき、それに備えるためだけに動いていた狂人たちであった。

 

公孫瓚は、ゆっくりと槍を下ろした。

 

「……攻撃中止だ。陣を下げよ」

 

「は? 伯珪様、よろしいのですか!? 奴らに東莱の地を奪われたままで!」

 

「構わん」

 

公孫瓚は、公孫度の陣地を見つめながら、不敵な笑みを浮かべた。

 

「奴らの目的も、我々と同じ『壁』になることだ。遼東の軍が東莱の海を塞いでくれるというのなら、これほど都合の良い防波堤はない。……無駄な血を流して壁を壊すような愚は犯さん」

 

かくして、青州の東端において。

公孫瓚と公孫度は、互いに不可侵の協定を結んだわけでもないのに、一切の戦闘を停止した。

二つの軍勢は、背中合わせになるようにして陣を構え、ただ黙々と、東の海へ向けて武器を研ぎ澄ませるという、奇妙で、そして極度に緊張感を孕んだ「冷戦」状態へと突入したのである。

 

西暦一九二年、秋。

中原の北方は、不思議な静けさに包まれていた。

南の東郡では、曹操が圧倒的な兵站と屯田制によって、反乱の火種を消し去った巨大な要塞を完成させている。

北の幽州・冀州・青州では、劉備の底知れぬ徳が民の傷を癒やし、公孫瓚と公孫度が、見えざる脅威に対する狂気的なまでの「防波堤」を海沿いに構築し終えていた。

 

群雄たちは皆、一時の殺し合いを止め、己の領土という巨大な刃を、極限まで研ぎ澄ましながら力を溜め込んでいる。

だが、彼らはまだ知らない。

その東の海の果て——彼らがどれほど堅牢な壁を築こうとも、それを嘲笑うかのように天空の理(ことわり)すらも定規で測り切ろうとしている、極東の巨大なシステム国家の真の姿を。

歴史の歯車は、次なる圧倒的な嵐に向けて、静かに、そして重々しく巻き上げられていたのである。

 

 

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尾張水神伝 ~SF世界の天使っぽい種族に転生したけどワープ事故で戦国時代の日本に漂着しました~(作者:Lavian)(オリジナル歴史/戦記)

セララ・シュトーレンは転生者だ。天使っぽい種族で魔法も使える。▼だけどワープ事故で戦国時代に漂着。▼困ってる人を助けたら神様と勘違いされてしまった。▼人々を助けていたら有名になり、尾張の殿様に呼ばれて……▼信長の友人として過ごす日々が始まった。


総合評価:2328/評価:8.11/連載:67話/更新日時:2026年07月11日(土) 21:20 小説情報


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