四國志   作:丸亀導師

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天命 5

 

西暦一九二年、夏。

魔王・董卓の死と、それに続く李傕ら西涼軍の反乱によって、古都・長安は再び阿鼻叫喚の煉獄と化していた。

その紅蓮の炎に包まれた城門から、十万の反乱軍を方天画戟ただ一本で切り裂き、文字通り血の海を渡って脱出を果たした一団があった。

 

天下無双の飛将・呂布奉先と、彼に付き従う張遼(ちょうりょう)高順(こうじゅん)をはじめとする数十騎の精鋭たちである。

 

「……追手は、撒いたか」

 

函谷関(かんこくかん)を抜け、中原の荒野へと足を踏み入れた呂布は、血と脂にまみれた赤兎馬の首筋を撫でながら、低く呟いた。

 

「はっ。李傕の軍勢は長安の制圧と略奪に夢中で、我らを追う気配はございません」

 

副将の張遼が、血路を開いた疲労に肩を上下させながら答える。

本来の歴史(正史)であれば、長安を追われたこの時の呂布は、己の武力と名声を高く買ってくれる「次なる主君」を求めて、あてどない流浪の旅に出る。 

最初に関東の盟主である袁術を頼り、傲慢な彼と反りが合わずに見限られ、次に北方の覇者となった袁紹の下へと身を寄せる。己の圧倒的な暴力を売り物にしながら、天下の群雄たちの間をコウモリのように渡り歩くのが、この飛将の運命であった。

 

しかし、この世界線において、呂布の目の前にはその「逃げ道」が完全に消滅していた。

 

北で覇を唱えていたはずの袁紹は、公孫瓚と曹操の挟撃に遭い、すでにこの世の人間ではない。

 

南陽にふんぞり返っている袁術は、時代遅れの名門の血筋に酔いしれ、天下の情勢すら読めずに酒に溺れる暗愚である。あのような豚に頭を下げたところで、己の牙が腐るだけだ。

 

「将軍。いかがなされますか。中原は今、曹操や公孫瓚といった新たな化け物たちが地盤を固めつつあります。我ら数十騎のみでは、どこへ行こうと警戒され、あるいは討伐の対象となりましょう」

 

張遼の懸念はもっともであった。董卓を暗殺したとはいえ、呂布がかつて洛陽や長安で振るった暴力の記憶は、天下の諸侯に深く刻み込まれている。「裏切り者の獣」を喜んで迎え入れる者など、この中原には一人もいない。

だが、呂布の顔に、迷いや絶望の色は微塵もなかった。

 

「……河内(かだい)へ向かう。あそこには、かつて并州(へいしゅう)で共に戦った旧知の仲、張楊(ちょうよう)がいる。奴ならば、俺たちを匿うだけの度胸はあるはずだ」

 

呂布は、赤兎馬の腹を蹴り、迷いなき眼差しで東へと向かって駆け出した。

彼には、新たな主君を見つけて出世をしたいという野心も、領土を奪って王になりたいという欲望も、すでに綺麗さっぱり消え失せていた。

 

彼が今、生き延びなければならない理由は、ただ一つしか存在しなかったのである。

 

河内郡(かだいぐん)の治所。

 

河内太守・張楊(ちょうよう)字を稚叔(ちしゅく)は、突然数十騎の供だけを連れて現れた呂布を前に、目を丸くして驚愕していた。

 

「奉先(呂布)よ……! 生きておったか! 長安で李傕どもに包囲され、討ち死にしたとばかり……!」

 

張楊は、呂布と同じく北方の并州出身であり、かつて丁原(ていげん)の下で共に武を競い合った旧知の仲であった。

 

「稚叔(張楊)。厄介をかける。李傕の追手が来るやもしれんが、少しの間、俺と部下たちをここに置いてはくれまいか」

 

呂布は、方天画戟を傍らに置き、深く頭を下げた。

張楊は息を呑んだ。

長安を制圧した李傕は、董卓の仇である呂布の首に莫大な懸賞金を掛け、天下にお触れを出している。呂布を匿うということは、長安の軍事政権を完全に敵に回すことを意味する。政治的に考えれば、即座に呂布の首を刎ねて長安に送り届けるのが正解であった。

 

だが、張楊は義に厚い男であった。

 

「……馬鹿を言うな。俺とお前の仲ではないか。李傕が束になってかかってこようと、この張楊、お前を売り飛ばすような真似は絶対にせん!」

 

張楊は呂布の手を固く握り締め、彼と兵たちを自らの陣営へと温かく迎え入れたのである。

その日の夜。

張楊は呂布を労うため、豪奢な宴を開き、美酒と女官たちを用意した。

 

かつての呂布であれば、これらを大声で笑って受け入れ、酒を浴びるように飲み、己の武勇を自慢げに語り明かしたはずである。張楊の記憶の中にある呂布奉先とは、底なしの欲望と暴力衝動で動く、単純で扱いやすい獣であった。

しかし。

 

宴席のド真ん中に座る呂布は、出された酒の杯に一切口をつけず、女官たちを遠ざけ、ただ黙然と姿勢を正して座っていたのである。

 

「どうした、奉先。酒が不味いか? それとも、長安での疲れが残っているのか?」

 

張楊が心配そうに尋ねると、呂布は静かに首を振った。

 

「すまん、稚叔。酒は飲まん。……俺の五体が酒で鈍れば、あの方をお救いする時に、槍の狙いが狂うからな」

 

「あの方……?」

 

張楊は怪訝な顔をした。女の話だろうかと推測したが、呂布のその澄み切った、まるで修行僧のように研ぎ澄まされた冷たい瞳を見て、ゾッと背筋が寒くなるのを感じた。

 

これは、自分の知っている呂布ではない。

 

金にも、酒にも、女にも、名誉にすら一切の興味を示さない。

己の腹の中にある「たった一つの異常な熱」を燃やし続けるためだけに、己の肉体と精神のすべてを極限まで律している。かつての暴れ馬は、その魂の根源に「絶対的な芯」を通したことで、触れるだけで斬れるような『妖刀』へと変貌を遂げていたのだ。

 

翌日から、河内の陣営における呂布の生活は、周囲の将兵たちを戦慄させるものであった。

 

「甘いッ!! そんな槍で、敵の鎧が抜けるか!!」

 

「オォォォッ!!」

 

朝霧が立ち込める練兵場。

上半身裸になった呂布は、重さ数十斤に及ぶ方天画戟を、まるで木の枝のように軽々と、しかし恐るべき破壊力と速度で振り回していた。

相手をしているのは、彼の最も信頼する副将・高順(こうじゅん)率いる精鋭部隊——後に「陥陣営(かんじんえい)」と恐れられることになる、重武装の歩兵たちである。

 

ガァァンッ!!

 

呂布の一撃が、高順の構える分厚い大盾を粉砕し、彼を数歩後ろへと吹き飛ばした。

 

「……見事な一撃です、将軍。以前よりも、戟に『無駄』が一切ございません」

 

土にまみれた高順が、息を整えながら感嘆の声を漏らした。

かつての呂布の戦い方は、己の天賦の膂力(りょりょく)と才能に任せた、暴力の塊のような荒々しいものであった。だが、今の彼の武は違う。

 

一振り、一振りが、確実に「敵の命を最短距離で刈り取る」ための極限の理にかなっている。感情に任せて槍を振り回すのではなく、己の肉体を『完璧な殺戮の機械』へと昇華させるための、恐ろしいほどの自己鍛錬。

 

「……足りん。まだ足りんのだ」

 

呂布は、全身から滝のような汗を流しながら、空を睨みつけた。

十万の西涼軍を突破したとはいえ、長安からあの方(皇帝)を無傷で救い出すには、今の武力では足りない。城壁を越え、無数の矢の雨を掻い潜り、あの方を背に庇いながら、一滴の血も流させずに敵陣を突破する。

そんな人間離れした芸当を成し遂げるためには、己の武と、相棒である赤兎馬の機動力を、神の領域にまで引き上げねばならない。

 

『ブルゥルルルッ!!』

 

主のその異常なまでの気迫と意志を感じ取ったかのように、繋がれていた赤兎馬もまた、嘶きながら己の蹄で大地を激しく蹴り上げ、闘気を漲らせていた。

 

「将軍。……よろしいのですか」

 

傍らで見守っていた張遼が、手拭いを差し出しながら静かに問うた。

「曹操は袁紹の領土を飲み込んで巨大化し、公孫瓚は北で盤石の構えを築いております。天下の群雄が領土を奪い合って大きくなっていく中、我らはこの河内で、ただただ槍を振るっているだけ。……それでは、天下を獲ることはできませぬぞ」

 

張遼の言葉は、武将として当然の野心であった。

だが、呂布は汗を拭いながら、フッと短く笑った。

 

「天下だと? 文遠(張遼の字)。天下などという泥にまみれた代物、欲しければ曹操や公孫瓚にくれてやればいい。俺には何の価値もない」

 

呂布は、方天画戟の刃に映る己の顔を見つめた。

 

「俺は、群雄どものように『領土』を広げるために牙を研いでいるのではない。……俺がこの牙を極限まで研ぎ澄ますのは、いつか長安の分厚い城壁を食い破り、あの方をこの背中に乗せて、飛ぶためだ」

 

張遼と高順は、息を呑んだ。

主君である呂布が、本気で、このたった数十騎の手勢だけで、長安の十万の反乱軍から「天子を誘拐する」という狂気の沙汰を成し遂げようとしていることを、痛いほどに理解したからだ。

 

夜。

張楊の陣営の片隅に与えられた質素な天幕の中で、呂布は一人、胡坐をかいて座っていた。

彼の膝の上には、少し煤け、血の跡が染み付いた『一枚の毛皮の外套』が大事に広げられている。

 

長安の凍てつく冬の夜、己のような裏切り者の獣に対し、幼き献帝が自らその小さな手で差し出してくれた、何よりの宝物であった。

呂布は、ごつごつとした血まみれの手で、その毛皮をそっと撫でた。

 

(……今頃、あの方はどうしておられるだろうか)

 

目を閉じれば、長安の未央宮の幻影が脳裏に浮かぶ。

王允は死んだ。董卓の残党である李傕と郭汜が長安を完全に支配し、献帝は再び、いや以前よりもさらに過酷な「鳥籠」の中に閉じ込められているはずだ。

 

野蛮な西涼の荒くれ者たちが、あの気高き幼子を足蹴にし、董卓の復讐とばかりに無理難題を押し付けている光景を想像するだけで、呂布の腸は千切れるほどの怒りと殺意で煮えくり返った。

 

(俺は……白紙の獣だった)

 

呂布は、これまでの己の半生を静かに振り返る。

丁原に育てられ、董卓に金で買われ、王允の言葉に踊らされた。誰かに何かを言われれば、それが己の正義だと信じ込み、言われるがままに人を殺してきた。中身が空っぽだったからこそ、他人の悪意や謀略に容易く染まり、天下から「裏切り者」の烙印を押された。

 

だが、あの方だけは違った。

 

あの方だけは、呂布という男を「誰かの所有物(道具)」や「恐怖の対象」としてではなく、ただ純粋に、一人の『大漢の将軍』として、人としての温もりを与えてくれた。

打算も、恐怖も、謀略もない。ただ、凍える者を思いやる純白の慈悲。

 

その温もりに触れた瞬間、呂布の空っぽだった魂に、初めて「己自身の意志」が宿ったのだ。

 

(天下のすべてが俺を蔑み、利用し、裏切り者と罵ろうとも構わない。俺が獣であることに変わりはないのだから。……だが、俺はもう、誰の言葉にも染まらん。俺のこの命は、俺自身の意志で、あの方の盾となるためにのみ使う!)

 

呂布は、毛皮の外套を顔に押し当て、その温もりを己の血肉の奥深くにまで刻み込んだ。

 

この孤独な流浪の果てに、たとえ自分が長安で無数の矢に貫かれ、全身を切り刻まれて死ぬことになろうとも。あの方をあの鳥籠から大空へと解き放つことができるのなら、俺の生涯は、最高の光に包まれて完結する。

 

それは、大漢帝国という泥沼の乱世において。

権力欲や大義名分といった計算高い理由で動く群雄たちの中にあって、唯一、狂気的なまでに純粋で、美しく、そして悲しい「絶対的な忠義」の形であった。

 

 

 

西暦一九二年、秋。

 

中原の大地では、次なる嵐に向けた覇権の地固めが、凄まじい速度で進行していた。

 

東郡では曹操が屯田制と圧倒的な兵站によって中原最大の要塞を築き上げ、北では公孫瓚と公孫度が海からの脅威に備えて冷戦を繰り広げ、江東では若き孫策が情報網を駆使して自らの軍を創り上げようと蠢いている。

 

そして海の向こうでは、とある国家プロジェクトに向けて、冷徹にその歯車を回していた。

 

天下の役者たちが、それぞれの巨大な盤面を動かしているその裏側で。

河内の片隅に潜伏する飛将は、ただ一人、己の肉体という『究極の刃』を研ぎ澄ますことだけに全霊を傾けていた。

 

「……待っていてくだされ、陛下。この呂布奉先、必ずや……必ずや、お迎えに上がります」

 

世界が彼を敗残兵と侮り、その存在を忘れかけようとしていた時。

孤独な獣は、その身の内に誰よりも熱く、そして純白の誓いを燃やし続けながら、長安へ向けて飛翔するための「その時」を、爪を研ぎながら静かに待ち続けていたのである。

 

 

 

同じ頃

西暦一九二年、夏。

長江の北岸に位置する揚州(ようしゅう)の要衝・江都(こうと)

 

この活気あふれる商業都市において、孫堅(そんけん)の遺児である若き虎・孫策伯符は、まるで魔法のような手腕で自らの勢力を急拡大させていた。

 

「孫郎様! 先日ご助言いただいた通り、徐州方面の麦を買い占めておいたところ、価格が三倍に跳ね上がりました! おかげで莫大な利益が!」

 

「いやあ、孫郎様が『北で大きな戦が起きる』と予言された時は半信半疑でしたが……まさか本当に袁紹様が敗死なされるとは!」

 

江都の有力な豪族や大商人たちが、孫策の滞在する屋敷に次々と貢物と資金を運び込み、彼を神のごとく崇め立てていた。

彼らが驚愕するのも無理はない。孫策のもとには、中原のどんな諸侯よりも早く、そして恐ろしいほど正確な「天下の最新情報」が届けられていたからだ。

 

袁紹の死。曹操の合法的簒奪。董卓の暗殺。呂布の逃亡。

これら天下を揺るがす大事件の全貌を、孫策は他の誰よりも早く把握していた。そして、その情報が一般の商人や役人の耳に届く前の「数日間の日差」を最大限に利用し、相場の変動を読み切り、豪族たちに有利な取引を持ちかけることで、莫大な資金を爆発的に増やし続けていたのである。

 

彼にその「視えない武器(情報)」を提供していたのは、先日接触した『辰砂(しんしゃ)売りの商人』——すなわち、日本国が中原に放った工作員たちであった。

 

(……すさまじい情報網だ。こいつらは、洛陽から長安、冀州の果てまで、あらゆる権力者の寝所に耳を持っている)

 

孫策は、運び込まれた大量の銭と絹の山を見下ろしながら、背筋に冷たいものが走るのを感じていた。

工作員たちは、孫策を「江東を混乱させるための手駒」として利用するつもりで、彼に極上の情報を売り渡している。孫策もそれを承知の上で、あえて彼らの情報網をしゃぶり尽くし、袁術から独立するための「自軍の資金と兵糧」へと錬金し続けていた。

これは、互いの腹の底を探り合う、極めて危険な綱渡りであった。

 

そんなある夜。

孫策は、江都で最も古くから商いを営む、一人の老商人から酒の席に招かれていた。

老商人は孫策の類まれなる才覚に惚れ込んでおり、彼に江東の様々な裏話や地誌を語って聞かせるのを好んでいた。

 

「孫郎様。近頃、あなた様が『あの辰砂売りの連中』と懇意になさっているという噂を耳にいたしました」

 

老商人は、周囲に人がいないことを確認すると、声を潜めて切り出した。

 

「ああ、彼らの情報には助けられている。……何か問題があるか?」

 

孫策が杯を傾けながら問うと、老商人は渋い顔をして首を振った。

 

「問題というわけではございませぬが……我ら東海の民の間には、古くは()の時代から、あの商人たちに関する『奇妙な伝承』が語り継がれているのです」

 

老商人の語る伝承は、孫策の好奇心を強く刺激した。

曰く、あの商人たちは中原では採れない極上の辰砂(水銀)を、東の海の彼方にある『倭』という島国から持ち込み、古くから宮廷や豪族を相手に莫大な富を築いてきた。

そこまでは良い。だが、本当に奇妙なのはその「在り方」だというのだ。

 

「孫郎様。どれほど巨大な商会であっても、商売をする以上、必ず『本拠地』や『巨大な蔵』をどこかの大都市に構えるものです。しかし……あの辰砂売りの連中には、この中華のどこを探しても、『それらしい本拠地』が一切存在しないのです」

 

「本拠地がない?」

 

孫策の目が、スッと細められた。

 

「はい。彼らはどこからともなく湧いて出て、極上の品を売り、莫大な金や中原の情報を集めると……まるで煙のように、どこへともなく消えてしまう。洛陽にも、長安にも、この江都にすら、彼らの中心となる根城はない。……連中はまるで、この中華の外側に『本当の帰る場所』を持っている幽鬼のようなのです」

 

老商人は、酒杯を持つ手を微かに震わせながら言った。

その言葉を聞いた瞬間。

孫策の脳裏に、かつて洛陽の焼け跡で父・孫堅が血を吐くように語った言葉が、雷鳴のようにフラッシュバックした。

 

『この大漢帝国の足元には……すでに得体の知れない化け物が、音もなく巣食っているのかもしれん。……伯符。東の海を、警戒しろ』

 

(……なるほど。そういうことか)

 

孫策の全身の産毛が逆立った。

あの、少し顔の骨格が違う商人たち。中原の常識を凌駕する異常な情報伝達速度。そして、中華のどこにも存在しない本拠地。

点と点が、一本の冷たい線となって繋がった。

 

(あの辰砂売りの連中は、単なる商人などではない。東の海……あの『倭』と呼ばれる未開の島国とやらこそが、連中の真の本拠地なのだ。猿の島国などというのは真っ赤な嘘だ。奴らは、国家ぐるみでこの中原の毛細血管に潜り込み、大漢帝国のすべてを監視し、内側から操ろうとしている『異界の耳目(諜報部隊)』に他ならない!)

 

孫策は、口元を手で覆い、漏れ出そうになる笑いを必死に押し殺した。

恐怖ではない。それは、父を苦しめ、この乱世の裏で糸を引いている「見えざる敵の正体」の尻尾を、ついに己の力で掴み取ったという、狂暴なまでの歓喜であった。

 

己の相手にしている存在の真のスケールを悟った孫策は、いよいよ本格的な「江東平定」に向けて動き出した。

そのための最強の相棒を呼び寄せるべく、彼は集めた莫大な資金と情報を手土産に、(じょ)県にいるかつての無二の親友の下へと向かった。

 

周瑜(しゅうゆ)、字を公瑾(こうきん)

孫策と同い年であり、容姿端麗にして、大漢帝国の古典から兵法、音楽に至るまであらゆる知識に精通する、江東最高の天才肌の青年である。

 

「伯符(孫策)! よく来たな。江都での暴れぶり、この舒の地にも轟いているぞ」

 

再会した二人は、幼き日のように固く抱き合った。

周瑜は孫策の顔を見ると、その瞳の奥に宿る「以前とは全く違う、研ぎ澄まされた光」にすぐに気がついた。

孫策は、人払いをさせた屋敷の奥の部屋で、周瑜の前に一枚の巨大な地図と、おびただしい数の木簡を広げた。

 

「公瑾。俺は、袁術の下にいる親父殿の旧軍を取り戻すことを諦めた。……俺は、俺自身の手で、この江東に新たな国を創る」

 

周瑜は、孫策の広げた情報に目を通し、その内容の正確さと最新さに息を呑んだ。

 

「伯符、これは……。袁紹の死の顛末、曹操の東郡での動き、長安の暴動。どれもまだ、世間には出回っていないはずの極秘情報ばかりではないか。一体どうやってこれほどの耳目を?」

 

「東の海の幽鬼たちから買い取ったのさ。あいつらは、俺を上手く利用して江東を荒らさせようとしている。……だから俺は、逆に連中の情報と資金をしゃぶり尽くし、江東を完全に平定してやるつもりだ」

 

孫策がこれまでに掴んだ「大和国(日本)」の諜報網の推測を語ると、周瑜の美しい顔が、戦慄と興奮に染まっていった。

 

「……なるほど。伯符、お前の言う通りだ。中原の群雄どもは、洛陽や長安の玉座に座ることしか考えていない。だが、この天下の真の脅威は、あの東の海の向こうに息を潜めている国家だ。奴らが海を渡ってきた時、バラバラの群雄たちでは絶対に太刀打ちできない」

 

周瑜は、地図の上の「長江」を指差した。

 

「我々が成すべきことは、単なる領土争いではない。この長江という巨大な天然の堀より南……『江東』の全域を完全に一つにまとめ上げ、来るべき海からの脅威を迎え撃つための、強大にして独立した『水軍国家』を創り上げることだ!」

 

孫策の直感的な野心と、周瑜の天才的な大局観が、完璧な形で噛み合った瞬間であった。

 

 

二人は夜を徹して、江東を切り取るための「具体的な戦略図」を組み上げていった。

 

「まずは、南陽で酒に溺れている袁術の目を欺く必要がある」

 

周瑜が算木を置きながら言う。

 

「袁術は今、袁紹が死んで有頂天になっている。だが、彼には中原へ打って出るだけの度胸も兵站もない。……伯符、お前は袁術の元へ行き、表面上は恭しく従う振りをしろ。そして『江東の曲阿(きょくあ)にいる揚州刺史の劉繇(りゅうよう))が、袁術様の背後を脅かそうとしている。私が討伐して参りましょう』と進言するのだ」

 

「なるほど。袁術の猜疑心を煽り、『袁術のために戦う』という名目で、堂々と軍を南へ動かす口実を作るわけだな」

 

「その通りだ。袁術は喜んでお前にいくばくかの兵を貸すだろう。お前はそれを呼び水にし、この江都で集めた資金を使って、俺と共に新たな兵を大々的に募集する。……中原の戦乱から逃れてきた民や、お前の武名を慕う江東の若者たちが、必ず大挙して集まってくるはずだ」

 

周瑜の目は、すでに数万の軍勢が長江を渡る光景を鮮明に描き出していた。

 

「劉繇を討ち、曲阿を落とす。そこを足場にして、江東の豪族たちを各個撃破し、あるいは懐柔して呑み込んでいく。袁術が我々の強大化に気づいた時には、すでに江東は完全に我らの手の中にあり、手出し不可能な状態になっているという寸法だ」

 

「完璧だ。……さすがは俺の公瑾だ!」

 

孫策は、震えるほどの興奮を覚え、周瑜の肩をバンと叩いた。

親父殿(孫堅)が遺した、東の脅威への警戒。

大和の工作員たちとの、毒を喰らわば皿までの冷徹な契約。

そして、無二の親友と共に描いた、江東平定の青写真。

これらすべての準備が整い、若き虎がいよいよ長江の水を血に染めるための大号令を発する時は、もう目前に迫っていた。

 

 

西暦一九二年、秋。

江都の港で、長江の雄大な流れを見つめる二人の若者の姿があった。

 

「いくぞ、公瑾。この長江の南をすべて俺たちの庭にし、強大な水軍を造り上げる。……あの東の海のバケモノどもが、牙を剥いてやって来る日にな」

 

「ああ。奴らがどれほど冷徹なシステムを持っていようと、我々二人の知恵と炎で、必ずやその船を海の底へと沈めてみせよう」

 

孫策の背後では、彼に情報を売り、彼をコントロールしていると信じ込んでいる「辰砂売りの商人」たちが、不気味な笑みを浮かべてその姿を遠巻きに見つめていた。

 

だが、彼らは気づいていない。

 

自分たちが手懐けたつもりのこの若き猛虎が、すでに自分たちの正体と目的を見抜き、将来的に自分たちの首を食い破るための「牙」として、自分たちを利用しているという恐るべき事実に。

中原の群雄たちが泥の中で争う中。

 

江東の地において、大和国という究極の外的要因によって覚醒した孫策と周瑜の「双璧」が、いよいよその歴史的な覇道へと力強く足を踏み出そうとしていた。

 

 

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