四國志   作:丸亀導師

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天命 6

 

西暦一九二年 十月

 

中原の大地が、董卓の暴政と群雄たちの果てしなき殺し合いによって赤黒い血に染まり、数百万の民が飢えと恐怖に泣き叫んでいた頃。

 

その凄惨な地獄から海を一つ隔てた極東の列島——日本国は、大陸の狂騒とは全く無関係な、不気味なほどの静寂と活気に包まれていた。

 

大陸の動乱を逃れ、命からがら粗末な船で海を渡ってきた流民や商人、あるいは職人たちは、日本の港(大宰府や各地の湊)に辿り着いた瞬間、自らが「全く別の理」に支配された世界に足を踏み入れたことを悟る。

 

彼らを待っていたのは、略奪する野盗でも、重税を取り立てる腐敗した役人でもなかった。

 

清の衣を着た整然たる文官たちと、帳簿、そして「戸籍」という名の巨大な管理システムであった。

 

「名前、年齢、出身地、そして『何ができるか(職能)』を申告せよ。偽りは許されない」

 

通訳を介して行われる審査は、冷徹なまでに事務的であった。

大和国は、豊かな技術や労働力を持つこれら大陸からの難民を、決して無下に追い返すことはしなかった。むしろ、国家の血肉として極めて効率的に吸収していったのである。

流民たちはまず、収容施設を兼ねた巨大な学舎(まなびや)へと送られた。

 

そこで彼らが最初に徹底的に叩き込まれるのは、「大和の言葉(和語)」と、漢字を解体して作られた「独自の文字(カタカナ・ひらがな)」の読み書きであった。

 

大漢帝国の複雑な漢字に比べ、音を表すだけのこの合理的な文字は、驚くべき速度で難民たちの頭脳に定着していく。言葉と文字を共有すること。それこそが、異分子を国家の歯車として作り変えるための最初の、そして最強の洗脳であった。

 

言葉を理解し、戸籍を与えられた者たちには、それぞれの職能に応じた仕事と土地が正確に割り振られていった。

 

鉄を打てる者は鍛冶の工房へ。

 

土を焼ける者は窯元へ。

 

農耕の知識を持つ者は、未だ人の少ない東国や北陸の荒野へと送られた。

 

彼らはそこで、あらかじめ国によって区画整理された土地を与えられ、大和の指導員と共に家々を建て、新たな田畑を拓いていった。

 

中原の流民たちが最も驚愕したのは、大和の農業や牧畜の極めて合理的な姿であった。

田畑の脇には、広大な牧場が計画的に造営されていた。そこには農耕の動力となる「牛」や、軍事・交通の要となる「馬」だけでなく、おびただしい数の「鹿」が組織的に飼育されていたのである。

 

「鹿を、家畜として飼うのか……?」

 

元・中原の農民が目を丸くして尋ねると、大和の役人は淡々と答えた。

 

「左様。鹿の肉は良質な糧となり、その皮は武具(甲冑や特殊な装甲)の素材として極めて有用である。角は薬や細工物に変わる。山で無秩序に狩るのではなく、牧場で管理・繁殖させるのが我が国の理である」

 

大陸の騒乱から逃れてきた彼らは、最初こそこの息苦しいほどの管理社会に戸惑った。しかし、飢えることなく、盗賊に怯えることもなく、働きさえすれば確実な対価と明日の命が保証されるこの「箱庭」の平穏に、やがて彼らは骨の髄まで浸かり、二度と血塗られた中原へ帰ろうとはしなくなっていったのである。

 

しかし、日本国のこの「受け入れの慈悲」は、あくまで自らの律令に従順な者に対してのみ向けられるものであった。

国家の理に楯突く者に対しては、一切の感情を排した絶対的な「消去」が実行される。

 

朝鮮半島南部——任那鎮守府の周辺において、日本の進出と法に抗い、反乱を企てた現地の部族たちへの処断は、その最たる例であった。

 

反乱に加担した成人男性は、その場で一人残らず首を刎ねられ、見せしめとして街道沿いに晒された。

 

残された若き女と、まだ幼い子どもたち。彼らは殺されはしなかったが、それ以上の残酷な「死」を与えられた。

 

彼女たちは船に乗せられ、玄界灘を渡り、大和国の奥深く——畿内から遠く離れた辺境の農村へと分散して送られたのである。

 

「お前たちの『過去の名』は、今日この日をもって大和の帳簿から抹消された。お前たちの部族の神も、歴史も、すべてこの海に沈んだと思え」

 

地方の役場に引き渡された彼女たちは、これまでの名を完全に剥奪された。

 

そして、無機質な事務手続きによって、日本風の新たな名と、戸籍上の新たな役割だけが与えられたのである。

過酷な強制労働や、惨たらしい虐待があったわけではない。

彼女たちは辺境の村で、農作業に従事し、糸を紡ぎ、やがて村の日本の男たちと結ばれ、子どもを産み育てることになる。周囲の村人たちも、彼女たちを「過去を消された者」として扱い、決して出自を口にすることはなかった。

 

それは、物理的な命を奪うことよりも遥かに冷酷な「存在の消滅」であった。

 

彼女たちの子は、大和の言葉しか知らず、大和の神を信じ、大和の民として育つ。

 

数十年後、かつて半島で楯突いた誇り高き部族の女たちは、誰にもその真の出自を語ることなく、地方の村の片隅で静かに老い、朽ち果てていく。

 

その血と肉は完全に大和の土となり、歴史の記憶から一滴の痕跡すら残さずに消え去るのだ。

 

抵抗する者は物理的に排除し、残された弱者は時間をかけて完全に「同化」する。

 

血を流すのは最初のひと振りだけ。あとは律令という名の強酸で、異分子を国家という巨大な胃袋の中で静かに消化していく。これが、日本国が誇る最も恐ろしく、最も効率的な侵略と統合のメカニズムであった。

 

 

―――

 

 

日本国の天文学寮(てんもんがくりょう)は、この当時としては、極めて正確な計算の下に、ある天体現象が列島を覆うことを予見し、全国に布告を出していた。

 

——『日蝕(にっしょく)』である。

 

中原(大漢帝国)において、日蝕とは「天の巨大な龍が太陽を食らう」現象であり、皇帝の不徳や国家の滅亡を暗示する最悪の『凶兆』として恐れられていた。日蝕が起きれば、皇帝は政務を止め、粗末な食事を取り、人々は空に向かって銅鑼(どら)や太鼓を打ち鳴らして太陽を吐き出させようと狂乱するのが常であった。

 

しかし、日本国の理においては、日蝕の意味合いは全く異なっている。

 

この国の高度な天文学は、日蝕が決して龍の仕業などではなく、月が太陽と地球の間に割り込むことによって生じる「天体の規則的な運行」であることをとうの昔に見抜いていた。

同時に、それは単なる冷たい物理現象ではなく、国家の根幹を成す神話と完全に融合されていたのである。

 

太陽(天照)が一度その光を失い(岩戸隠れ=死)、そして再び眩い光を取り戻す(岩戸開き=再生)。

 

日本の民にとって、日蝕とは不吉な滅びの予兆ではなく

 

世界が一度死を迎え、以前よりも清らかで力強く生まれ変わる「死と再生を冠する最も尊い儀式」であった。

 

人々は空を恐れるのではなく、来るべき太陽の再生の瞬間に向けて、己の魂と家を極限まで清浄に保つための鈴祓いに熱狂していたのである。

迷信による恐怖ではなく、宇宙の法則と神話的カタルシスを完璧に合致させた国家ぐるみの祭典。それこそが、大和国の日蝕であった。

 

その日蝕の到来を、国家の威信や宗教的な儀式としてではなく、全く別の「異常なほどの熱量」を持って待ちわびている人物がいた。

 

大内裏(だいだいり)の最奥。

通常であれば御簾(みす)に覆われ、静寂に包まれているはずの天皇の私室は、足の踏み場もないほどの異様な有様となっていた。

 

部屋の中央には、精巧な青銅製の渾天儀(こんてんぎ・天球儀)が鎮座し、床には天体の軌道を計算するための無数の算木と、幾何学の図形が描かれた和紙(初期の和紙・麻紙)を広げた。

が海のように散乱している。巨大な水時計(漏刻)が規則正しい水音を響かせ、壁には幾枚もの星座の運行図がピンで留められていた。

 

その星の海のような部屋の中心で、車座になり、小刀で自ら木簡に数式を刻み込んでいる一人の若い女性がいた。

彼女こそが、この巨大な国家の頂点に君臨する絶対的権威——天皇その人であった。

 

彼女は、権威の象徴としてただ玉座に座るだけの存在ではない。

彼女の頭脳は、日本国に存在するあらゆる学者や文官たちを凌駕する、希代の「天文学者(数学者)」であった。

彼女にとって、国家の政は有能な官僚機構が自動で回すルーティンワークに過ぎず、彼女の魂のすべては「宇宙という究極のシステムの解明」へと注がれていた。

 

「……。またそのような床に座り込んで。女官たちが困っておりましたよ」

 

呆れたような、しかしどこか温かみのある声と共に部屋に入ってきたのは、一人の青年であった。

天皇の弟であり、実質的な政務の調整役を担う皇族、広庭である。

 

「広庭か。……足元の紙を踏むなよ、そこは黄道(こうどう)の計算式だ」

 

天皇は顔を上げることもなく、手元の木簡に没頭したまま鋭く警告した。

広庭は苦笑しながら、算木と和紙の隙間を器用に縫って歩き、姉の傍らに腰を下ろした。

 

「来年の日蝕に向けて、天文学寮の長たちも大わらわです。各地の神社の祭祀の準備も整いつつあります。……姉上は、祭祀の段取りよりも、ご自身の『計算』の方が大事なようですが」

 

「祭祀は神祇官が滞りなく行うだろう。私が今やらねばならないのは、そんな形式的なことではない」

 

天皇は、ようやく手元の小刀を置き、血走った美しい双眸を輝かせて広庭を見た。

 

「広庭。私は、来年のこの日蝕の機会に……『地球(この大地)』と『月』、そして『太陽』の大きさと距離を、完全に測り切るつもりだ」

 

「……は?」

 

広庭は、姉が何を言っているのか一瞬理解できず、間抜けな声を出した。

 

「太陽と、月の大きさを……測る? 御冗談を。天の星をどうやって定規で測るというのですか。陰陽寮の星占いとは訳が違うのですよ?」

 

広庭は、政務や実務には長けていたが、姉ほどの異常な天文学の知識は持ち合わせていない。

天皇は、呆れたようにため息をつき、傍らにあった青銅の球体・渾天儀と、小さな二つの木の球を取り出した。

 

「―――よく聞け、広庭。日蝕とは、太陽と月と大地が完全に一直線に並ぶ奇跡の瞬間だ。この時、月の影が大地の表面を高速で移動していく」

 

天皇は、灯明(太陽)の前に木の球(月)を置き、青銅の球体(地球)に落ちる影の動きを実演して見せた。

 

「もし、この大和国の北の果て——渡島(北海道)と、南の果て——大宰府や任那鎮守府。さらに東西の端に観測所を設け、日蝕(月の影)が始まり、完全に太陽を隠し、そして終わるまでの『正確な時間』と『太陽の欠ける角度』を同時に観測し、記録を持ち寄ったらどうなる?」

 

広庭は、腕を組んで考え込んだ。

 

「……北の果てと南の果てでは、月を見る角度(視差)が異なります。当然、日蝕の欠け方や、影が落ちる時間にもズレが生じるはずです」

 

「その通りだ!」

 

天皇は身を乗り出し、広庭の肩をガシッと掴んだ。

 

「―――二つの観測点の間の『正確な距離』は、すでに我が国の測量隊が歩いて割り出している。その距離を底辺とし、各地からの太陽と月を見上げる角度のズレ(視差)を用いれば、三角法の計算によって、大地から月までの距離、そして月と太陽の絶対的な大きさが、寸分の狂いもなく数字として導き出されるのだ!」

 

それは、近代の天文学(エラトステネスの測量や、ハレーのパララックス観測)に匹敵する、極めて高度で壮大な幾何学的推論であった。

 

「我々が住むこの大地がどれほどの大きさの球体であり、月がどれほど遠くにあり、太陽がどれほど巨大な炎の塊であるのか。神話の言葉ではなく、冷徹な『数字』として宇宙の理を完全に暴き出す。……これこそが、来るべき日蝕における私の最大の目的だ!」

 

天皇の言葉には、狂気にも似た知の探求への熱が帯びていた。

広庭は、姉のその凄まじい発想のスケールに圧倒され、しばし言葉を失った。

 

「……なるほど。理論は分かりました、姉上。確かにそれは、我が国の知の頂点を極める偉業となるでしょう」

 

広庭は、静かに息を吐き、そして極めて現実的な「実務家」としての顔に戻った。

 

「ですが、姉上。その『同時観測』を成立させるためには、北の極寒の渡島から、南の任那に至るまで、同一の規格で作られた極めて精巧な水時計(漏刻)と、角度を測る観測儀式を運び込み、熟練の学者たちを数十人規模で派遣しなければなりません」

 

「分かっている。だから、準備を急がねばならんのだ」

 

「姉上……。」

 

広庭は、天皇の目を見据えて静かに言った。

 

「貴女様は、この日本国の頂点に立つ大王(天皇)です。しかし……我が国の理は、天皇の『個人の知的探求心』だけで、国家の予算や人員を勝手に動かせるようにはできておりません」

 

広庭の指摘は、日本国という国家の最も特殊で、最も強固な本質を突いていた。

 

董卓や曹操のような中原の権力者であれば、「俺がやりたいからやれ」の一言で何万という民を動かせる。しかし日本国は違う。

 

天皇という絶対的な権威が存在しながらも、実際の政務や国家予算の執行は、天皇の独裁(恣意)ではなく、大内裏(だいだいり)における太政官(だじょうかん)をはじめとする文官たちの「会議と合議」によって決定されるという、強固な官僚制によって縛られているのだ。

 

天皇個人の趣味(星の測量)のために、莫大な国家予算と人材を辺境に派遣する。それを実現するためには、大内裏の会議において、渋い顔をする大蔵省や民部省の役人たちを「論理」で納得させ、決裁の印をもぎ取らなければならないのである。

 

天皇は、弟のその指摘を聞いて不快になるどころか、むしろ口元に不敵な笑みを浮かべた。

 

「無論だ、広庭。私が法を破って無理を通せば、この美しい律令の理が崩れる。私は大内裏の文官どもを、権威ではなく『理屈』でねじ伏せるつもりだ」

 

天皇は、散らばっていた木簡をバサリとまとめ、広庭の胸に押し付けた。

 

「この測量が成功すれば、より正確な(こよみ)が完成し、農業の収穫量が飛躍的に増大し、外洋航海の精度が極限まで高まる。結果として、測量にかけた予算の百倍の富が国家に還元される……という『趣意書』だ。完璧に書き上げておいた」

 

広庭は、押し付けられた分厚い木簡の束を見て、思わず苦笑を漏らした。

 

「……すでに根回しの準備まで終わっておいででしたか。さすがは姉上です」

 

「お前は、これを明日の大内裏の朝議に提出し、文官どもを説き伏せろ。……良いか広庭、この日蝕は、宇宙の理に触れる千載一遇の好機なのだ。絶対に予算を分捕ってこい」

 

「はいはい。やれやれ、私の年末は、星の軌道よりも文官たちの渋面と格闘することになりそうですね」

 

広庭は肩をすくめながらも、姉の命運を懸けた木簡の束をしっかりと抱え直した。

 

「これを見よ、広庭」

 

大内裏の奥深く、星の軌道を示す算木が散乱する部屋の中で。

天皇——和那比売は、弟の前で一葉の巨大な和紙を広げた。

 

それは、大和国の全土、および海を隔てた大漢帝国や高句麗、そして任那を含む半島南部までが精緻に描き込まれた「最新の地図」であった。

 

 

【挿絵表示】

 

 

広庭は、その地図を一瞥して感嘆の息を漏らした。

地図の上には、等間隔に引かれた縦横の線(方眼)が張り巡らされており、単なる絵図ではなく「座標」として地形を把握する意図が明確に見て取れる。

 

西方の世界において、のちにクラウディオス・プトレマイオスが構築する地理学に匹敵する、極めて特異な精度を持った地図である。

北極星の高度観測に基づく「南北の距離(緯度)」に関しては恐ろしいほど正確であり、大和の列島がどのような角度で海に浮かんでいるかが克明に記されている。

 

ただし、時計(正確な経度測定技術)が未熟な時代であるため、「東西の距離(経度)」に関しては若干の間延びや誤差が含まれていたが、それでも当時の世界においては間違いなく最高峰の軍事・行政機密であった。

 

地図には、大和の国土だけでなく、黒潮や親潮に相当する海の道「温海導(おんかいどう)」「寒海導(かんかいどう)」までもが、船の航路として青い線で描き込まれている。

 

「……見事なものです。ここ数年の測量隊の成果が、すべてこの一枚に集約されているのですね」

 

「そうだ。任那鎮守府からの最新の測量結果も組み込んである。……だが、我が国がこの地図を手にするに至った『始まり』を、お前は覚えているか?」

 

和那比売の問いに、広庭は姿勢を正した。

 

「もちろんです。我が大和国の建国……今からおよそ八百余年前(紀元前六六〇年頃)にまで遡る、血と数字の歴史にございますね」

 

和那比売は、地図の上に置かれた青銅の文鎮を撫でながら、静かに頷いた。

 

日本国という律令国家。

その土台は、決して神の魔法や一人の絶対的な英雄によって一夜にして築かれたわけではなかった。  

 

 

―――

 

紀元前七〇〇年頃。

当時の日本列島には、大きく分けて三つの巨大な勢力鼎立(ていりつ)していた。

 

一つ目は、畿内(きない)を中心に四国にまで勢力を広げていた『在地集団』。

彼らは列島の最大勢力であり、精緻な祭祀(さいし)と青銅器の鋳造技術、そして何より星の運行を読み解く「高度な天文学と測量術」に長けていた。現在の天皇である和那比売の祖先にあたる集団である。

 

二つ目は、中国地方を中心とする『先進技術集団』。

彼らは古くから大陸より渡来してきた人々の末裔であり、列島においていち早く「製鉄」などの高度な工業技術を独占し、強固な勢力を築き上げていた。

 

三つ目は、北九州や壱岐を中心に活動する『海洋交易集団』。

彼らは、中華の地で春秋戦国時代という果てしない殺し合いが始まった際、その戦乱から逃れるようにして海を渡ってきた難民たちを中核としていた。外海との貿易によって莫大な富と最新の情報を蓄え、強力な水軍を擁する勢力であった。

 

この三つの勢力は、互いに異なる文化と強みを持ち、時には小競り合いを繰り返しながら牽制し合っていた。

 

しかし、彼らには共通する「絶対的な恐怖」があった。

 

『中華の地で燃え盛る戦火が、いつか必ず、この列島にも飛び火してくる』

 

中華の動乱から逃れてきた九州の集団がもたらす情報により、大陸の情勢は常に彼らに共有されていた。

大国同士が血で血を洗い、何十万という命が紙屑のように消えていく大陸の狂騒。もし、あの中華を統一した巨大な化け物が海を渡ってくれば、分断された三つの勢力など、赤子のように蹂躙されて終わる。

 

(……生き残るためには、我ら三つの勢力が手を携え、一つの強大な『国』を創り上げるしかない)

 

それが、彼らが出した結論であった。

 

しかし、連合(建国)への道のりは容易ではなかった。

 

中華の群雄たちであれば、ここで「桃園の誓い」のような感情的な義兄弟の契りを結んだり、血の滲むような政略結婚を繰り返すところだろう。

だが、極めて合理的な思考を持つこの列島の指導者たちは違った。

 

互いに全く素性の違う集団が、言葉や感情だけで信頼し合うことなど不可能である。裏切りを完全に防ぎ、一つの国家として機能するためには、「互いの手の内(国力)を、一寸の狂いもなく明かし合う」必要があったのだ。

 

「お互いの領土の広さはどれほどか」

 

「山からはどれだけの鉄が採れ、田からはどれだけの米が獲れるのか」

 

「川の長さは、海の深さはどうなっているのか」

 

それを証明するため、三つの勢力は互いの領地に己の『測量隊』を送り込み、一切の嘘偽りなく土地の大きさと資源を計測し、数字として記録し合った。

 

感情や言葉は嘘をつくが、大地に刻まれた『数字(寸法)』は絶対に嘘をつかな。

 

この「相互の測量と情報の共有」こそが、日本国における信頼の構築であり、国家成立の最大の儀式であったのだ。

 

これが、この国において測量術や数学が、単なる学問ではなく「国家の理そのもの」として異常なまでの進化を遂げた原点である。

 

さらに、当時の列島は環境的にも劇的な変化の只中にあった。

縄文海退(じょうもんかいたい)』である。

 

気候の寒冷化に伴い、海水面が徐々に下がり、昨日まで海であった場所に新たな泥の陸地が次々と姿を現していた時期なのだ。

 

「海が引き、新たな土地が生まれる。その土地が誰のものであり、どう利用するかを定めるためには、常に国土の形を『測り直し』続けなければならない」

 

日々変化し、広がり続ける国土を管理・支配するという行政上の絶対的な必要性が、大和の測量術と幾何学をさらに極限へと押し上げた。

 

結果として彼らは、個人の武勇や感情ではなく、国土を管理する「律令」という冷徹なシステムの下に完全に統合され、八百年の時を経て、現在の大和国という揺るぎない巨城を完成させたのである。

 

 

―――

 

「……八百年だ、広庭」

 

和那比売は、最新の地図の上に置いた手を、愛おしむように滑らせた。

 

「我が大和の祖先たちは、八百年の長きにわたり、泥にまみれ、山を越え、海を渡り、この大地の一寸一分を測り続けてきた。この方眼の線の一本一本には、名も無き測量官たちの汗と血が、国家の形として染み込んでいる。」

 

広庭もまた、厳粛な面持ちで地図を見つめた。

 

日本国がこれほどまでに強固であり、中原の動乱などどこ吹く風でいられるのは、彼らが自らの足元を、誰よりも正確な数字として把握しているからに他ならない。

 

「我々は、大地を測り尽くした。半島に進出し、中原の喉元にまで定規を当てた。……ならば、次なる我々の『測量』の対象は、もはや一つしかあるまい」

 

和那比売は、地図から顔を上げ、部屋の天井――その向こうにある冬の夜空へと視線を向けた。

その瞳には、建国から八百年分の知の探求心が、狂気にも似た光となって宿っていた。

 

「天だ」

 

和那比売の静かな声が、水時計の音に重なって響いた。

 

「月と、太陽。この世界を照らす神々の領域すらも、我々は『数字』としてこの手中に収める。……来年の日蝕は、単なる天体観測ではない。我が大和が、八百年の大地の測量を終え、ついに『宇宙の理』を測り始める、建国以来の偉大なる証明なのだ」

 

中原の群雄たちが、玉座という泥に塗れた椅子に座るために血を流している間に。

極東の大王は、玉座から立ち上がり、手にした定規と算木で、遙か三十八万キロ彼方の月と、一億五千万キロ彼方の太陽を捕らえようとしていた。

 

「……分かりました、姉上」

 

広庭は、姉のその果てしない野望の前に深く頭を下げた。

大地の測量から始まり、今や天をも定規で測ろうとするこの国の頂点に立つにふさわしい、恐るべき知の探求者。

 

「明日の朝議、太政官の文官どもを必ずや説き伏せてみせましょう。……我が国が八百年かけて磨き上げた測量の矛先を、来年の日蝕で、見事天に向けて突き立てようではありませんか」

 

「……というわけだ。広庭、明日の朝議、頼んだぞ」

 

和那比売の、建国八百年の歴史と宇宙の真理を紐付ける壮大で威厳に満ちた演説が終わった。

部屋には、水時計の規則正しい音だけが残る。

広庭は、姉のその神々しいまでの覇気と国家の理を背負った覚悟に、思わず深く頭を下げ……ようとした、その時である。

 

「あー……っ、肩が凝った!」

 

突如、和那比売は威厳もへったくれもない声を上げ、渾天儀(こんてんぎ)の横で思い切り両腕を伸ばして背伸びをした。さらにゴロリと床に転がり、散乱する和紙の上で大の字になる。

 

「広庭、今の演説はどうだった? なかなか壮大で、官僚どもの心を打つ『大義名分』に聞こえただろう? これならあの頭の固い大蔵省のジジイどもも、測量隊の予算に判を押さざるを得まい」

 

広庭は、深々と下げようとしていた頭を途中でピタリと止め、顔を引き攣らせた。

 

「……姉上。まさか、先ほどの建国八百年の測量の歴史云々というお話は」

 

「全部、建前(たてまえ)に決まっているだろう」

 

和那比売は、床に寝転がったままケラケラと笑った。

 

「地球と月の距離を測ったからといって、すぐさま米の収穫量が倍になるわけがない。航海術には役立つかもしれんが、それだって今ある星図で十分事足りている。……私がこの日蝕でどうしても星を測りたい理由は、ただ一つだ」

 

和那比売は、ゴロゴロと寝返りを打って弟を見上げた。

 

「毎年の決まりきった祭事に、いい加減飽き飽きしているからだ!」

 

「この、大罰当たりが……っ!」

 

広庭は思わず頭を抱えた。

国家の絶対的権威であり、神と人を繋ぐ最高祭祀王。それが彼女の立場である。

 

しかし、彼女の「本音」は、儀式の度に重い装束を着せられ、御簾の奥で何時間も身動き一つせずに同じ祝詞(のりと)を聞き続けるだけの退屈な日々に、完全に嫌気が差していたのである。

 

「春は種まきの祈り、秋は収穫の感謝。毎年毎年、寸分違わぬ同じことの繰り返しだ! 大和が完璧に回っているのは結構だが、大王の私までその歯車の一つとしてジッとしているのは退屈で死にそうになる!

……それに比べて、星の軌道や数学はどうだ? 常に新しい発見があり、計算すれば必ず未知の答えが返ってくる。これほど面白い『趣味』が他にあるか!」

 

広庭は深い溜息をついた。

この姉は、希代の天才天文学者であると同時に、自らの知的好奇心を満たすためならば、国家の予算も官僚機構も平然と騙くらかして利用する、ある意味で最もタチの悪い専制君主であった。

 

「……つまり、姉上はただ『日蝕の計算という最高の暇つぶし』をしたいがために、もっともらしい理屈を並べ立てて、国家ぐるみの測量計画を立ち上げようとしているのですね?」

 

「人聞きが悪いな。『知的探求』と言え。それに、官僚どもを納得させる大義名分を用意してやったのだから、何の問題もなかろう?」

 

和那比売は悪びれる様子もなく、床に散らばった紙の束をかき集め始めた。

 

「やれやれ……。こんな調子で、よく中原の流民たちに『絶対的な大王』として君臨できているものです」

 

広庭は苦笑しながら、姉が床に散らかした紙の束を拾い集めるのを手伝った。

その手の中に触れる紙の感触は、中原で使われている竹簡や木簡の重さとは異なり、また後世の絹のように滑らかな紙とも違う、独特のザラつきと強靭さを持っていた。

 

それは、日本国で独自に改良され始めた初期の和紙——『麻紙(まし)』であった。

 

大麻や苧麻(ちょま)の繊維を細かく砕き、水で()いて乾燥させたこの紙は、表面こそやや黄色味がかって粗いが、木簡のように嵩張らず、布のように破れにくい。

 

和那比売のように、凄まじい速度で小刀の先や筆を走らせ、図形や数式を幾重にも書き殴る者にとって、この丈夫な麻紙は、己の頭脳から溢れ出る計算を受け止める最高の媒質であった。 

 

「ほら、広庭。この紙の束も持って行け。日蝕の軌道計算の基礎記録だ。朝議で大蔵卿が予算を渋ったら、この分厚い束を奴の机に叩きつけて、『大王の神算を疑うか』と脅してやれ」

 

「脅しに使うには、随分と学術的な凶器ですね……」

 

広庭は、ずっしりと重い麻紙の束を受け取った。

その麻紙の表面には、月と太陽の軌道、そして地球の曲率を割り出すための、美しい幾何学の線と独自の数字が、まるで曼荼羅(まんだら)のようにびっしりと書き込まれていた。

 

動機はただの「飽き」と「趣味」かもしれない。しかし、この麻紙の上に展開されている思考の次元は、間違いなく当時の世界最高峰の知性そのものであった。

 

「……分かりました。姉上の『趣味』のため、一肌脱ぎましょう。ですが、観測の指揮はしっかりと執っていただきますよ。予算だけ取って、途中で飽きたなどとは言わせませんからね」

 

「分かっている! 今回ばかりは、絶対に飽きん。何しろ、相手は宇宙だからな!」

 

和那比売は、子どものように目を輝かせて渾天儀に抱きついた。

 

日本国

 

中原の群雄たちから見れば、一切の感情を持たず、冷徹な律令と測量によって領土を管理し、逆らう者を静かに消化していく「無機質なシステム国家」

 

しかし、その中枢である大内裏の奥深くでは、祭事に飽き飽きした大王が床に転がり、己の趣味のために官僚をどう言い包めるかを弟と結託して企むという、極めて人間臭く、呆れるほど呑気な日常が営まれていたのである。

 

「さあ、急げ広庭! 来年の日蝕まで、時間が足りんぞ!」

 

「急かすなと言っているでしょう。ああ、本当にこの姉は……」

 

中原の地獄から切り離された極東の箱庭で。

 

 

―――

 

西暦一九二年、十月。

 

大内裏における朝議の根回しに奔走していた広庭は、天文学寮の長からの詳細な計算報告書を受け取り、渋い顔をして姉・和那比売の私室へと足を踏み入れた。

 

「……姉上。どうやら、大蔵卿を説き伏せるための『大義名分』に、少々厄介な綻びが生じたようです」

 

広庭の言葉に、麻紙の束と睨み合っていた和那比売が顔を上げる。

 

「綻びだと? 軌道計算に狂いはないはずだが」

 

「軌道や日時の予測は完璧です。来年(一九三年)、確実に日蝕は起こります。……しかし、最大の問題はその『規模』です」

 

広庭は、報告書の木簡を卓の上に置いた。

 

「天文博士の精緻な再計算によれば、来年の日蝕において、太陽が完全に月に覆い隠されること——すなわち『皆既日食』には至らないとのこと。太陽は三日月のように削られるのみで、光が完全に失われることはありません。……いわゆる『部分日食』です」 

 

広庭は額を押さえた。

大蔵省の官僚たちから国家予算をもぎ取るための最大の売り文句は、「太陽が一度完全に死に、そして生まれ変わる神聖な儀式」という宗教的カタルシスであった。

 

しかし、「ちょっと太陽が欠けるだけです」となれば、官僚どもは「ならば各地方の村々に測量隊を派遣するほどの莫大な予算をかける必要はあるまい。畿内だけで観測すれば十分だ」と、間違いなく難色を示すだろう。

 

「完全に隠れないのでは、各地で同時に『闇に包まれた時間』を測ることもできません。測量計画としては致命的では……」

 

広庭がため息をつきかけた、その時である。

 

「くっ……ふふ、ふははははっ!」

 

和那比売は、落胆するどころか、麻紙を握りしめたまま歓喜に肩を震わせ、大声で笑い出したのだ。

 

「致命的? 馬鹿を言え、広庭。逆だ。……部分日食だからこそ、完璧なのだ!」

 

和那比売は弾かれたように立ち上がり、青銅の渾天儀をバンと叩いた。

 

「考えてもみろ。もし太陽が完全に隠れてしまえば、空は真っ暗になり、各地の観測者が『太陽と月のフチがどのように重なっているか』を正確に図形として描き出すことが極めて困難になる。だが、部分日食ならばどうだ?」

 

彼女は小刀を手に取り、麻紙の上に太陽を表す円を描き、その上に少しズラして月を表す円を重ねた。

 

「我々の住むこの大和国は、北の果てである渡島(おしま・函館周辺)から、南の任那、さらにはさらに南の琉球の島々に至るまで、およそ三千余里(数千キロメートル)という途方もない南北の長さを持っている」

 

和那比売の小刀が、麻紙の上の「北」と「南」の二点を指し示した。

 

「月という球体が、太陽の手前を横切る。……その時、北の渡島から見上げる月の角度と、南の果てから見上げる月の角度は、距離が離れている分だけ物理的に『ズレ』が生じる。

すなわち! 北の渡島で『太陽が右下から三割欠けた』と観測されている全く同じ時刻に、南の果てでは『太陽が右から五割欠けている』という、欠け方の明確な違いが観測されるのだ!」

 

広庭はハッとして、姉が描いた図形を覗き込んだ。

 

「……なるほど。完全に真っ暗にならないからこそ、太陽という巨大な円に対して、月が『どの角度で、どれだけ食い込んでいるか』という幾何学的な図形を、各地で正確に記録することができるのですね」

 

「その通りだ! 各地で同時に描かれた『太陽の欠けた図』を持ち寄り、そのズレの差分を重ね合わせれば……それはそのまま、大地と月と太陽を結ぶ巨大な三角形の角度を導き出す『完璧な定規』となる!」

 

和那比売の目は、もはや一国の王のそれではなく、極上のパズルを与えられた狂気的な学者のそれに変貌していた。

 

「真っ暗闇の時間を測るよりも、遥かに高度で、遥かに正確な幾何学の計算が要求される……! ああ、たまらん! これほどの難題、ただの皆既日食などでは決して味わえんぞ!」

 

「姉上の変態的なまでの数字への執着はよく分かりました」

 

広庭は呆れ半分、感心半分でため息をついた。

 

「しかし、そのためには、北と南で『全く同じ時刻』に空を見上げ、その欠け方を記録しなければなりません。少しでも刻(時間)がズレれば、月の動いた分だけ計算が狂います。……遠く離れた渡島と南の果てで、いかにして『同時』を保証するのですか?」

 

時計という概念がまだ水時計(漏刻)や日時計しかないこの時代、遠隔地での同時刻の計測は不可能に近い。

だが、和那比売はニヤリと笑った。

 

「だからこそ、『食の最大』と『食の終わり』を基準点にするのだ。各地の漏刻の精度を極限まで高め、太陽の形が変化する推移を連続して記録し続ければ、後から計算で時間のズレを補正できる。……そのための計算式は、私がすでに徹夜で組んでおいた」

 

和那比売は、傍らに積まれた麻紙の束の山をポンと叩いた。

 

「広庭。大内裏の官僚どもにはこう言え。

『来年の日蝕は、ただ闇に包まれるだけの単純なものではない。天の神々が、我が日本国の南北の広大さを試すために、あえて複雑な影を落とされるのだ。この影の形を全国規模で正確に記録し奉ることこそが、国家の威信をかけた最大の祭祀である』……とな」

 

言い訳(建前)のすり替えも見事なものであった。

 

「……承知いたしました」

 

広庭は、姉の恐るべき知力と執念に完全に降参し、深く頭を下げた。

 

「北は極寒の渡島。南は海の彼方。……この広大な大和の領土すべてを、天を測るための一本の『巨大な定規』として使うのですね」

 

「そうだ。中原の群雄どもが、狭い領土の奪い合いで泥に塗れている間に。我々はこの列島そのものを観測装置として用い、天の定規を手に入れる」

 

和那比売は、窓の外の青空を見上げた。

来年の空に現れるであろう「欠けた太陽」の姿を、彼女の脳内はすでに鮮明に描き出している。

 

「さあ、忙しくなるぞ広庭。全国の府へ通達を出し、最も優秀な算術使いと絵師を招集しろ。……歴史上、最も知的で、最も退屈しない『星の測量』の幕開けだ」

 

東の海の向こう側で、中華の歴史書には決して記されることのない、恐ろしくも壮大な『知の神話』が、着々と準備されつつあったのである。

 

 

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