西暦一九三年、一月一日(太陰暦)
大漢帝国が血と泥の抗争に明け暮れていた中原の大地に、突如として『決定的な凶兆』が舞い降りた。
その日、空には雲一つなかった。
しかし、夕暮れが近づくにつれ、西の空から異常な冷気が這い寄ってきた。
遥か西方のヨーロッパから、中東、インド、そして東アジアの東端に至るまで、ユーラシア大陸の広大な範囲において、何百万、何千万という人々が空を見上げ、一様に絶望の悲鳴を上げて地に平伏した。
——『
それも、ただ太陽が隠れるのではない。
夕焼けに赤く染まり始めた太陽が、まるで巨大な見えない何者かの
完全に闇に包まれる皆既日食よりも、それはある意味でひどく不気味で、恐ろしい光景であった。
半分だけ欠け、薄暗い血のような光を放つその天体は、まるで『天が、怒りと悲しみをもって穢れた大地を覗き込む巨大な一つ眼』のように見えたのだ。
董卓の暴政、黄巾の乱から続く終わりの見えない戦乱、そして略奪と飢餓。
すでに苛烈な統治と無数の災難によって極限まで追い詰められていた大漢の民草たちは、この恐るべき天体現象を前にして、完全に心を折られた。
「ああっ……天が、天が我らを見張っておられる!」
「漢(かん)の帝国は……もう、終わりなのだ……!」
人々は地に伏して泣き叫んだ。
中原において、日蝕とは「皇帝の不徳」と「国家の滅亡」を暗示する最悪の凶兆である。
東の海の彼方で、この同じ現象を「地球の大きさを測るための絶好の定規」として歓喜しながら観測している狂気的な大王がいることなど知る由もなく。中原の大地は、絶対的な恐怖と絶望の底へと沈み込んでいった。
その「天の眼」を、最も悲痛な思いで見つめていた少年がいた。
長安の未央宮。李傕ら反乱軍によって再び分厚い鳥籠の中に閉じ込められた第十四代皇帝——献帝・劉協である。
「……やはり、起こったか」
夕暮れの空。
宮中の宦官や臣下たちは、昼間になっても日蝕が始まらなかったため、「天文方の計算違いであろう」「日蝕など起こらないのかもしれない」と安堵の息を漏らしていた。
しかし、その希望は夕暮れと共に無惨に打ち砕かれた。西の空で、赤く染まった太陽が、まるで病に侵されたようにどす黒く欠けていくのを、劉協は窓辺から静かに見つめていた。
「陛下! 窓辺からお離れ下され! 天の怒りに触れまする!」
老臣たちがパニックに陥り、床に額をこすりつけて泣き喚いている。
だが、劉協は逃げることなく、その欠けた太陽を真っ直ぐに見据え、小さな両拳を血が滲むほどに固く握りしめていた。
(……ああ、天よ。貴方様は、この泥にまみれた大漢の大地を見て、泣いておられるのですね)
劉協の胸を支配していたのは、恐怖ではなく、身が引き裂かれるような『申し訳なさ』であった。
日蝕は、皇帝の不徳によって起こる。
長安の民が飢え、洛陽が灰になり、中原のあちこちで戦火が絶えないのは、すべて天子である己の「政(まつりごと)」が至らないせいなのだと。幼き皇帝は、そのあまりにも純粋すぎる魂ゆえに、天下のすべての不幸を「己の罪」として深く、深く心に刻み込んでいた。
だが、それは完全なる間違いである。
長安が地獄と化したのも、民が苦しんでいるのも、決して彼のせいなどではない。幼い彼を
劉協は、むしろ最も気高く、誰よりも民を想う「真の天子」の資質を持っていた。
しかし、その聡明さと純粋さが、彼自身をどこまでも
「私の徳が足りぬゆえに、天が怒り、民が苦しむ……。私はなんと罪深き皇帝か」
欠けゆく夕陽に照らされた少年の横顔には、誰にも代わることのできない、絶望的なまでの孤独と自責の念が浮かんでいた。
―――
長安の天子が己を責め続けていたのと同じ時刻。
河内の練兵場で、赤兎馬の傍らに立つ呂布奉先もまた、空を赤く染める「天の
「……天が、泣いている」
呂布は、方天画戟の柄が軋むほど強く握りしめた。
彼の目には、その天体現象が「漢の滅亡」などという安い言葉には見えなかった。あの欠けた太陽の赤は、長安の鳥籠の中でただ一人、己を責めて血の涙を流しているであろう「幼き皇帝の悲痛な心そのもの」に思えてならなかったのだ。
「あの方のせいではない……! 陛下は誰よりも気高く、誰よりも大漢を憂いておられる。悪いのはあの方ではない!!」
呂布の怒号が、冬の練兵場に響き渡った。
天を怒らせ、あの方にこれほどの悲しみを背負わせている真の元凶。それは、己の領土欲のために皇帝の
「袁術、曹操、公孫瓚……そして李傕の豚ども。貴様らのような欲に塗れた者たちが、陛下の正しい政を邪魔しているから、天が怒っているのだ! 待っておいでください、陛下。この呂布が必ずや、あの方を苦しめる悪しき者たちを、一人残らずこの戟で叩き斬ってご覧に入れます!」
己自身の絶対的な忠義を見つけた獣の殺意は、天の凶兆を前にして、より一層研ぎ澄まされた。
―――
一方で。
中原最大の軍事要塞と化した東郡の城壁の上から、全く同じ太陽を見上げている男がいた。
曹操孟徳である。
「……見事なものだな。まさか、元日の夕暮れにこれほどの凶兆が天に描かれるとは」
曹操の横で、荀彧が顔面を蒼白にさせ、戯志才が薄気味悪い笑いを漏らし、班稀が無機質に空を見上げている。
曹操の瞳には、恐怖も、皇帝への同情も一切なかった。
そこにあったのは、極めて冷徹な「時代に対する確信」だけであった。
「もはや、疑いようもない」
曹操は、深紅の外套を風に翻し、欠けた太陽に向かって静かに言い放った。
「あの天の眼は、誰かを責めているのではない。ただ物理的な『終わり』を告げているのだ。四百年続いた大漢帝国の天命は、今日、この瞬間をもって完全に尽きた。……漢の時代は終わったのだ」
曹操にとって、この日蝕は「新しい器(秩序)」を自らの手で創り上げるための、天からの正式な『許可証』に等しかった。皇帝の権威など、もはや利用するための看板に過ぎない。時代は完全に、次なる段階へと移行したのである。
―――
同じ空の下、北方の幽州と青州を治める二人の男もまた、天を仰いでいた。
幽州牧・劉虞は、祭壇に平伏し、天に向かって深く祈りを捧げていた。
「おお、天よ……。どうか怒りをお鎮め下され。漢がここまで愚かしく、血に塗れてしまったのは、天子の御言葉を聞かぬ愚か者たちが中原に蔓延っているせいにございます……!」
そして青州の地で、泥にまみれて民と共に開墾作業をしていた劉備玄徳も、鍬の手を止めて空を見上げていた。
隣では、関羽が青龍偃月刀を地に突き立てて目を伏せ、張飛が「不吉な空だぜ」と唾を吐いている。
「……嘆かわしいことだ」
劉備は、深く息を吐いた。
「天子様は長安で苦しんでおられるというのに、諸侯は己の領土を広げることしか頭にない。皇帝の正しき御言葉に耳を貸さぬ愚か者たちが、この大地を腐らせ、天を悲しませているのだ。……私に、もっと力があれば」
劉備の胸の内に燃えるのは、漢室への絶対的な忠誠と、私欲に走る諸侯への静かで重い『義憤』であった。
―――
その諸侯の中で、最も私欲と傲慢にまみれた男は、南陽の庁舎でこの天体ショーを目撃していた。
袁術公路である。
「ひぃっ……! な、なんだあの空は! 太陽が食われているではないか!」
空が暗くなり始めた時、袁術は恐怖のあまり酒杯を取り落とし、女官の影に隠れてガタガタと震え上がった。
しかし、彼の根底にある異常なまでの「名門の自尊心」と「誇大妄想」は、この絶対的な恐怖すらも、自分に都合の良いように捻じ曲げてしまった。
「そ、そうだ……! 見ろ、太陽が沈んでいく! つまり、漢の帝国は終わるのだ!」
袁術は震える足で立ち上がり、目を血走らせて天を指差した。
「漢が終われば、次はどうなる? 決まっている! 四世三公の名門であり、この天下で最も高貴な血を引く私……この袁公路こそが、天命を受けて『次の王』となるのだ!! あの天の現象は、漢の滅亡と、私への禅譲を促す吉兆なのだ!!」
恐怖の反動から来る、完全なる狂気。
袁術の脳内では、すでに自分が玉座に座り、天下の群雄が己の足元に平伏する幻影が完成していた。曹操も、公孫瓚も、呂布も、すべて自分の家臣になる運命なのだと、彼は本気で狂信し始めていた。
―――
「……狂っているな」
袁術が南陽で狂喜乱舞していた頃。
長江の北岸、江都の街の片隅で、若き猛虎・孫策伯符もまた、赤く欠けた太陽を見上げていた。
彼の周囲には、日本国が放った異界の耳目(商人たち)がもたらした、中原の最新の情報が散乱している。袁紹の死、曹操の台頭、そして袁術の相変わらずの暗愚な振る舞い。
孫策は、袁術に取り上げられた父・孫堅の軍を取り戻し、江東に自らの覇業を打ち立てるための緻密な計画の「総仕上げ」に入っていた。その第一歩は、己の牙を完全に隠し、あの傲慢な袁術の下へあえて頭を下げに行き、彼を完膚なきまでに『欺く』ことである。
「天が怒っている? 漢の寿命が尽きた? ……笑わせるな」
孫策は、欄干に寄りかかり、欠けた太陽に向かって冷たく吐き捨てた。
彼の心にあるのは、呂布や劉備のような漢室への純粋な忠誠でもなければ、袁術のような妄想でもない。
「天が国を滅ぼすのではない。袁術のような、分不相応な欲にまみれた醜い権力者どもが、自らの手で国を食い破り、民を地獄に突き落としているだけだ」
孫策の脳裏に、かつて洛陽で見た董卓の残虐な炎と、無残に殺されていった無辜の民の姿がフラッシュバックする。
己の野心のために平然と他者を踏みにじり、大義名分を盾にして国を食い物にする貪欲な豚ども。彼らこそが、大漢を滅ぼそうとする真の『病巣』である。
「見ていろ、親父殿。俺は、あの袁術という豚を徹底的に騙し抜き、利用し尽くし、最後にはその腹を掻き捌いてやる」
孫策の瞳には、若さに似合わぬ底知れぬ憎悪と、氷のように冷徹な知性が宿っていた。
「そして俺自身の手で、あんな欲にまみれた連中が二度と手出しできない、完全なる俺の国を創り上げてみせる」
夕暮れの空に浮かんだ「天の
しかし、中原の群雄たちの心に映ったその影の形は、あまりにも多様であった。
純粋な自責、燃え上がる義憤と忠誠、冷徹な確信、狂気めいた傲慢、そして氷のような憎悪。
欠けた太陽は、時代が完全に後戻りできない破滅の淵へと足を踏み入れたことを告げると共に、彼らの内なる「怪物」を、かつてないほどに巨大に、そして鮮明に膨張させていった。
―――
中原の大地が「漢の滅亡」という幻影に怯え、群雄たちが欠けゆく太陽を前にそれぞれの野心と絶望をたぎらせていたのと全く同じ時。
海を隔てた東方の島国——日本国においては、全く異質の、異常なまでの「緊張感」と「熱気」が列島全体を包み込んでいた。
それは戦の緊張ではない。国家の総力を挙げた巨大な知的プロジェクト——「全国同時日蝕観測」の成否を分ける、極限の緊張感であった。
大和国には、長岡京の大内裏を中心として、列島の隅々に至るまで、行政と軍事を統括する『府』が設置されている。
北の果て、極寒の最前線である「渡島府」。
東北の要衝であり、蝦夷との境界を管理する「陸奥府」。
関東平野の広大な農地と水系を束ねる「常陸府」と「武蔵府」。
日本海側の豪雪地帯にして、大陸からの玄関口の一つである「越前府」。
建国以来の高度な祭祀と天文学を受け継ぎ、精神的支柱となる「伊勢府」。
古くからの製鉄技術と神話の地を治める「出雲府」。
四国の海上交通と塩の生産を担う「讃岐府」。
西の防衛と外交の最大拠点にして、強力な水軍を擁する**「大宰府」。
さらには海を越え、半島の南端に楔を打ち込む「任那鎮守府」。
そして、はるか南の海の彼方、独自の文化を持つ「琉球府」。
これら全国のすべての府の庁舎、およびその最高地点に設置された『天文観測所』には、大内裏から派遣された最高位の天文博士たちと、極限まで精度を高められた精巧な水時計、そして大量の麻紙と測量器具が配備されていた。
彼らにとって最大の懸念は「天候」であった。
どれほど完璧な計算と準備を整えようとも、雲一つに遮られれば、その地点での観測データは完全に失われる。特に北の越前や陸奥、渡島などは、例年であれば深い雪雲に覆い隠される時期である。
しかし、この年は奇跡が起きていた。
全国的に異常なまでの『乾季』に見舞われており、例年よりも遥かに降雪が少なく、空気は極度に乾燥し、見渡す限りの
「天が、我々の観測を祝福している……!」
天文に冠する者たちにとって、これほど興奮すべき舞台はなかった。彼らは瞬きすら惜しむように、計算木を握りしめ、西の空を見つめていた。
一方、各地の府の周辺に暮らす一般の民衆たちもまた、奇妙な好奇心と共に空を見上げていた。
数ヶ月前から、大和国の各地には大内裏より奇妙な『お触れ』が立て札として掲げられていたのである。
『来る新年の元日、夕暮れ時において、天の理により太陽がその身を削られる現象が起こる。これは日本国の
中原であれば「天の怒りだ」とパニックになる現象も、日本国においては事前に「国家が予測し、保証した天体ショー」として民に知らされていたのだ。
待ち人たちは、そのお触れの内容に半信半疑ながらも興味を見出し、仕事を早めに切り上げては、広場や丘の上に集まり、日よけのために薄く墨を塗った硝子の破片や、水を張った盆を用意して、その時を待っていた。
そして……ついに、時が来た。
「……欠け始めたぞ!」
「おおおっ……! 本当にお触れの通りだ!」
夕暮れに差し掛かるかどうかのタイミング。
空を赤く染め始めていた太陽の右下から、まるで黒い墨が滲むように、徐々に、しかし確実に光が陰り始めたのだ。
気温がスッと下がり、夕暮れとは違う、ひどく不気味で冷たい薄闇が大和の列島を覆い始める。しかし民衆の間に悲鳴はない。彼らはただ、国家の予測が寸分違わず的中したという事実に、底知れぬ畏怖と感嘆の声を漏らすのみであった。
だが、この大和の精神がまだ完全に浸透しきっていない辺境の地——南の琉球や、北の渡島においては、全く異なる光景が繰り広げられていた。
はるか南の島、琉球府。
この地の土着の民たちは、まだまだ精霊信仰や迷信深く、自然の猛威を神の怒りとして強く恐れる文化を持っていた。
「ああっ……てぃだ(太陽)が死んでいく!」
「神様がお怒りだ! 我々の罪をお許しください!」
琉球の民たちは、薄暗くなっていく空を前にパニックを起こし、広場に身を投げ出してガタガタと震え、必死に祈りの歌を歌い始めた。
しかし、その彼らの頭上、琉球府の天文観測所では、大内裏から派遣された天文博士たちが、信じられないほどの冷徹さで作業に没頭していた。
「よし! 食の開始時刻、漏刻の目盛りを記録せよ!」
「角度は三十五度! 太陽の左下から月が侵入している。琉球における最大食分は五割と予測!」
「観測筒を固定しろ! 決して動かすな!」
太陽が死にゆくというこの世の終わりのような光景を前にして、彼らは一切の恐怖を見せず、ただひたすらに麻紙に幾何学の図形を書き殴り、目盛りを読み上げている。
祈りを捧げていた琉球の民たちは、ふと顔を上げ、その観測所の異様な光景に目を奪われた。
太陽を喰らう魔物を前にして、一切怯むことなく、むしろ目をギラギラと輝かせて天の神々に定規を当てようとしている奇妙な衣の男たち。
「あ、あれは……人間ではない。神の御業を恐れぬ、御使いたちだ……!」
「彼らが、てぃだ(太陽)を呼び戻すための儀式をしているのだ!」
琉球の民たちは、日蝕の恐怖を忘れ、今度は天文博士たちに向かって、まるで生き神様でも見るかのように深くひれ伏し、熱烈な崇拝の祈りを捧げ始めたのである。
「お、おい……。なんか下の人たちが、こっちに向かって拝み始めたぞ?」
「気にするな! 水時計の確認が先だ! 記録を間違えれば、長岡の大王様に首を物理的に刎ねられるぞ! 神の怒りより大王様の計算式の方がよっぽど恐ろしいわ!」
天文博士たちは、思わぬ土着民からの狂信的な崇拝に困惑しながらも、観測の狂騒の中に没入していった。
全く同じ現象が、北の果て、渡島府や陸奥府の元蝦夷たちの間でも起きていた。
狩猟をなりわいとし、自然の神々を畏怖する北の民たちもまた、欠けていく太陽に恐怖し、毛皮の衣を被って震えていた。
だが、彼らの目にも、雪原に立てられた観測所で、凍える手で筆を握り、嬉々として太陽の形を書き写している役人たちの姿が映った。
「カムイが光を奪っているというのに、大和の役人たちは笑っている……」
「あれが、大和の強さ……神の力すらも紙の上に縛り付けるというのか」
北の民たちもまた、大和国の底知れぬ「知の暴力」と「神を恐れぬ姿勢」に完全なる畏怖を抱き、天文観測所の周囲を囲むようにして、震えながら平伏していた。
中原では「天の怒り」として絶望を生んだ日蝕が、日本の辺境においては皮肉にも「日本国の圧倒的な力への信仰と服従」をより強固なものとする結果を生み出していたのである。
そして、その全ての観測の起点であり、巨大な頭脳の中枢である長岡京・大内裏。
「素晴らしい……! はははっ、素晴らしいぞ広庭!! 計算通りだ!」
薄暗くなった内裏の中庭で、豪奢な装束をかなぐり捨てた天皇——和那比売が、巨大な渾天儀にすがりつくようにして、歓喜の絶叫を上げていた。
彼女の目は、中原の
「姉上、落ち着いてください! 筒がずれます!」
弟の広庭が必死に彼女の袖を引っ張るが、和那比売の興奮は最高潮に達していた。
「落ち着いていられるか! 見ろ、この長岡京の空では、太陽の『右側』が欠けている! だが、南の琉球では『左下』が、北の渡島では『右下』が欠けて見えているはずだ!」
和那比売は、庭に広げられた巨大な麻紙の上に、小刀でガリガリと凄まじい速度で線を引いていく。
「大地は
和那比売は、欠けた太陽に向かって両手を広げ、天を抱きしめるようなポーズをとった。
「その膨大な記録を一つに重ね合わせた時! 我々はこの大和の列島の長さを底辺とし、遥か彼方の月を頂点とする『巨大な三角形』を完全に描き出すことができるのだ!!」
周囲に控える老齢の天文博士たちもまた、大王のその狂気に当てられたように、目を血走らせ、
「食の最大時刻、記録しました!!」
「おおっ! 素晴らしい! この数字だ、この数字こそが
中原の曹操が「漢の終わり」を悟り、呂布が「群雄への殺意」を燃やし、袁術が「自らの即位」を妄想した同じ空の下。
極東の列島では、大王と天才学者たちが、純粋な数学と天文学の快楽に脳髄を焼かれながら、宇宙の大きさを測り切るという人類未踏の学問的祭典に、完全に理性を吹き飛ばして大興奮していたのである。
「さあ、月よ! 太陽よ! 決して逃がしはしないぞ!」
和那比売の楽しげな高笑いが、黄昏の長岡京に響き渡る。
恐怖と絶望に沈む大陸とはあまりにも対極的な、知への渇望と歓喜の狂騒。
大和国は、この日蝕観測という国家的事業を通じて、その「冷徹なるシステム」と「狂気的なまでの学力」を、列島の隅々の民にまで完全に浸透させ、次なる時代へと向かうための巨大なエネルギーを、大地の下で静かに、しかし爆発的に蓄積し終えたのであった。
さて………
西暦一九三年、極東の日本列島が日蝕の狂騒に包まれていたその時。
長岡京の大内裏で、大王・和那比売が空を見上げて震わせた「知の歓喜」は、決して彼女ひとりの孤独な感情ではなかった。
その純粋なる狂気と興奮は、悠久の時と数万里の空間を飛び越え、ある一人の偉大なる先人の魂と、寸分違わぬ共鳴を果たしていたのである。
時を遡ることおよそ四百年。
紀元前三世紀の地中海。トラキア地方に近いエーゲ海に浮かぶ、サモス島。
燦々と降り注ぐ陽光と、紺碧の海に囲まれたこの美しい島に、一人の天才天文学者がいた。
彼の手には、大和の天文博士たちが握っていたのと同じ、円と直線を引くための簡素な定規と、天体の角度を測るための原始的な観測儀が握られていた。
男の名は、『アリスタルコス』。
後に人類の歴史において、ニコラウス・コペルニクスが地動説を提唱するより遥か千八百年も前に、「地球は太陽の周りを回っている」という宇宙の真理(太陽中心説)に初めて到達することになる、古代ギリシャ最高の頭脳である。
「……見えろ。見えろ……っ! 来た!!」
かつて、サモス島のアリスタルコスもまた、空を見上げて全く同じように目をギラギラと輝かせ、狂喜の声を上げていた。
彼が見上げていたのは、太陽と月が織りなすもう一つの奇跡の幾何学——『月蝕(げっしょく)』、あるいは月がちょうど半月(弦月)になる瞬間の天体現象であった。
当時のギリシャでは、天は神々の領域であり、
しかし、アリスタルコスの眼に映る宇宙は、神々の気まぐれな箱庭などではなかった。それは、完璧な『幾何学』によって構成された、途方もなく巨大な物理空間であった。
彼はパピルスの巻物を広げ、夢中で図形を書き殴った。
和那比売が麻紙の上に地球と月と太陽の三角形を描いたように、アリスタルコスもまた、自らの脳内に巨大な三角形を構築していた。
「月がちょうど半分に欠けて見える時。我々の立つ『地球』と『月』、そして『太陽』は、宇宙空間において完璧な直角三角形を形成するはずだ!」
彼は、
肉眼と原始的な器具での観測ゆえに、彼が弾き出した「太陽は月よりも十八倍から二十倍遠く、その直径も二十倍大きい」という数値は、現代の真実(直径約109倍)からは誤差があった。
しかし、その『理屈』は完璧であった。
月蝕の際に月面に落ちる地球の影の大きさ。半月になる瞬間の角度。
それらの観測データから、アリスタルコスは一つの恐るべき、そして美しすぎる結論を導き出したのである。
「……計算が正しければ。太陽は、我々の住むこの地球よりも、絶望的なまでに巨大な天体ということになる」
アリスタルコスは、パピルスの上に描かれた小さな地球と、巨大な太陽の図を見比べ、全身の産毛が総毛立つような戦慄と、爆発的な歓喜を同時に味わった。
「これほど巨大な『
その瞬間、アリスタルコスが感じたのは、神々への冒涜という罪悪感などではなかった。
ただひたすらに、純粋な「真理に触れた」という至上の快楽であった。
「はは……はははははっ! そういうことか! そういうことだったのか、
彼は、サモス島の乾いた風の中で、天に向かって両手を広げた。
当時のギリシャの哲学者たち(例えばストア派のクレアンテスなど)は、アリスタルコスのこの地動説を聞いて「宇宙の中心たる大地を動かすとは、神への不敬である」と激しく彼を弾劾した。
彼の先進的すぎる理論は、当時の社会には全く受け入れられず、異端の妄想として歴史の闇に埋もれていく運命にあった。
だが、アリスタルコス自身は、周囲の無理解など一切気にしていなかった。
誰に理解されなくとも良い。自分だけが、このパピルスの上で、神々すら知らない「宇宙の本当の姿」を計算式で丸裸にしてやったのだから。その知的興奮は、孤独な天才にとって何物にも代えがたい報酬であった。
——そして。
そのアリスタルコスが紀元前のサモス島で放った歓喜の高笑いは、四百年の時を越え、極東の列島で天を見上げる和那比売の狂騒と、完璧にリンクしていた。
「素晴らしい……! はははっ、素晴らしいぞ!! 計算通りだ!」
長岡京の大内裏。
和那比売は、渾天儀にすがりつきながら、欠けていく太陽に魅入られていた。
彼女もまた、アリスタルコスと同じ孤独な天才であった。日本国という巨大な国家の頂点に立ちながら、彼女の魂の帰る場所は、権力や政治の中ではなく、紙の上に描かれた『幾何学』の中にしかなかった。
「見ろ、広庭! 太陽が喰われているのではない。ただ二つの球体が、軌道上で交差しているだけだ! 宇宙の尺度を、我々はこの三千余里の列島という『定規』を使って、完全に実測してやるのだ!!」
アリスタルコスは、己の頭脳という『点』で宇宙を測った。
しかし彼には、それを実証するための巨大な国家組織も、全国同時に観測を行えるだけの通信網も、正確な水時計を各地に配備する力もなかった。
ゆえに、彼の真理は一度、歴史の中で眠りについた。
だが、和那比売にはそれがあった。
日本国という、統制された国家。
彼女の異常なまでの知的好奇心を満たすためだけに、数万の官僚が動き、全国の府に水時計が配備され、辺境の琉球や渡島にまで天文博士が派遣されるという、人類史上かつてない「国家規模での天体観測網」。
アリスタルコスがパピルスの前で流した歓喜の涙と。
和那比売が麻紙の前で見開いた、狂気的なまでの眼差し。
ヨーロッパと極東。
紀元前と西暦一九三年。
空間と時間を完全に隔てられた二人の偉大なる天文学者は、この日蝕という宇宙の瞬きを通じて、同じ真理の糸で強く結ばれていたのである。
中原の群雄たちが「漢の滅亡だ」と騒ぎ立て、己の領土欲のために血みどろの殺し合いを続けている中。
和那比売の耳には、そんな俗世の悲鳴など一切届いていなかった。
彼女の耳の奥に響いていたのは、時を越えてエーゲ海の風に乗って届く、先人アリスタルコスの「もっと測れ、宇宙を暴け」という知的な熱狂だけであった。
「さあ、見せてみろ
夕暮れの長岡京。
欠けゆく太陽の薄闇の中で、二人の魂が交錯した極東の天文観測所は、人類の知性が神の領域へと肉薄する、凄まじい熱量と歓喜に包まれ続けていたのである。