西暦一九三年、春。
前代未聞の天体現象(日蝕)が人々の心に絶望の影を落とした直後、中原の大地は、文字通りの「死の季節」を迎えようとしていた。
雨が、一滴も降らないのである。
冬の間に雪が少なかったことは、大陸の農業にとっては致命的な水不足を意味していた。春になっても雨雲は湧かず、大地はひび割れ、種を蒔くべき田畑は砂埃を上げる荒野と化していた。
いわゆる「
この容赦のない天災は、群雄たちが抱える兵糧庫の底を無慈悲に暴き出した。
最も深刻な打撃を受けたのは、大漢帝国の南部、豊かなはずの南陽を治める袁術の陣営であった。
「……飯がないだと? この
南陽の庁舎で、袁術は空の杯を床に叩きつけて激怒していた。
本来、南陽は中華でも有数の穀倉地帯である。しかし、袁術は自らの「名門の威光」を飾るために、常日頃から豪奢な宴を開き、無意味に巨大な宮殿を造営し、備蓄すべき穀物を湯水のように浪費し尽くしていたのだ。
そこへ来て、この大干ばつである。
春先の
「主君! このままでは我が軍は戦わずして餓死いたします! どこかから、至急食糧を調達しなければ……!」
家臣たちが血相を変えて訴える中、袁術の血走った目に、ある一つの「巨大な獲物」の姿が浮かび上がった。
北に隣接する兗州——曹操の領地である。
「……曹操。あの宦官の孫の小童め。聞けば奴は、我が憎き兄(袁紹)から三年分の兵糧をそっくり奪い取り、蔵に腐るほど麦を溜め込んでいるというではないか」
袁術は、飢えと嫉妬で濁った目をギラつかせた。
「大漢の天命は、この袁家にあるのだ。下賤の者が蓄えた糧は、正統なる王であるこの私が没収してやるのが筋というもの。……全軍に告ぐ! これより兗州へ侵攻し、曹操の蔵をすべて叩き割れ!! 麦を奪い、あの生意気な小童の首を刎ねよ!」
動機は、天下の覇権でも大義名分でもない。
ただ純粋な「物資不足の困窮」と「略奪」のため。
大義なき暴徒と化した数十万の袁術軍が、飢えという最悪の狂気を原動力にして、曹操の治める兗州へと怒涛の進軍を開始したのである。
「……南陽の袁術が、全軍を挙げて国境を越えてきました。その数、およそ二十万。文字通りのイナゴの群れです」
東郡の陣屋。
兵站を管理する班稀からの報告に、曹操は忌々しげに舌打ちをした。
「飢えた豚どもが、人の家の蔵を漁りに来たか。……だが、時期が悪すぎるぞ」
曹操の表情は険しかった。
彼は袁紹から奪った南冀州の領土と兵糧を消化し、荀彧の進言で「屯田」を開始したばかりである。賊を農民として定着させ、国力を飛躍的に高める完璧なシステムであったが、それは「秋の収穫」を終えて初めて真の完成を見る性質のものだ。
今は春。種を蒔き、農地を開拓している最も不安定な時期である。
ここで巨大な戦乱が兗州の平野に持ち込まれれば、せっかくの屯田は踏み荒らされ、曹操の覇業の土台は根底から崩れ去ってしまう。未だ袁紹の広大な領域を飲み込んだばかりで、軍の再編も完璧には終わっていない曹操にとって、二十万という「数の暴力」はあまりにも荷が重かった。
「……打って出るな。前線を下げ、城と堅牢な砦に兵を籠らせよ」
曹操は、全軍に対して極めて冷静な「絶対防戦」の戦術を命じた。
「戯志才、陣形を『受け』に特化させろ。敵の主力がぶつかってくる正面の防御を幾重にも分厚くし、相手の猛攻を徹底的に受け流すのだ。こちらから隙を見せてはならん」
「御意。……飢えた獣は最初の一噛みこそ恐ろしいですが、持久力はありません。城壁の守りを固め、わざと攻めさせて体力を削り取りましょう」
前線の軍師・戯志才は、曹操の意図を即座に理解し、兗州の国境地帯に鉄壁の防衛線を構築した。
それは、正面からの圧力を強固な歩兵の盾と城壁で受け止め、敵が攻めあぐねて態勢を崩した瞬間に、隙間から強烈な反撃を打ち込むという、極めて高度で忍耐を要求される陣形であった。
「班稀。お前は防衛線への矢と兵糧の供給を死守しろ。……袁術の狙いは我々の兵糧だ。一粒の麦たりとも、奴らの手に渡すな」
「はっ。すべての補給物資は城塞の内側に収容し、外の畑や村はすでに空(から)にしてあります」
曹操軍は、亀のように手足を引っ込め、袁術の大軍を迎え撃つ態勢を整えた。
しかし、相手は腐っても四世三公の名門・袁氏が動かす大軍である。
「飯を奪えェッ!!」
飢えに狂った袁術軍の兵士たちは、死すら恐れぬ狂気で城壁に取り付き、曹操軍の分厚い防衛線を力任せに押し込み始めた。
「防げ! 盾を離すな! 熱湯を浴びせろ!」
最前線では、昼夜を問わぬ凄惨な防衛戦が繰り広げられた。曹操軍の将兵がどれほど完璧に攻撃を受け流そうとも、倒しても倒しても湧いてくる飢えた大軍の重圧は、徐々に曹操の堅牢な陣形を軋ませていったのである。
曹操が兗州で苦しい防衛戦を強いられていたその報せは、北方の覇者となった幽州牧・劉虞の耳にも、早馬によって届けられていた。
「なんという……なんという言語道断な振る舞いか!!」
幽州の薊。
報告を聞いた劉虞は、かつて袁紹が冀州を脅かした時以上に、顔を真っ赤にして激怒していた。
「この未曾有の大干ばつにより、大漢の民が苦しんでいるというのに! 自らの無策で民を飢えさせたばかりか、その腹いせに、大漢に忠誠を誓い、屯田で民を救おうと奮闘している曹操の領地を不当に侵略するなど……! 袁術、お前という男は、そこまで腐り果てたか!!」
劉虞の目から見れば、事の善悪は明白であった。
曹操は(その裏にどれほどの狡猾な計算があろうとも)表向きは「袁紹という逆賊を討ち、劉虞の命に従って南冀州を正しく統治している忠臣」である。
その忠臣の領地を、己の食糧難という身勝手極まりない理由で侵略し、さらなる戦火を広げようとしている袁術は、もはや董卓にも劣る極悪非道の国賊に他ならなかった。
「……捨て置けぬ。曹操がここで倒れれば、中原は再び果てしない略奪と混沌の泥沼に沈む。大漢の法と秩序を守るため、ただちに曹操への『援軍』を差し向ける!」
劉虞は、傍らに控えていた二人の将を振り返った。
「公孫瓚! そして劉備玄徳よ! お前たちに命ずる。ただちに精鋭を率いて南下し、曹操を背後から喰い破ろうとしている逆賊・袁術の軍勢を叩き潰せ!」
「はっ!!」
大漢帝国の正当な権威者からの、混じり気のない「正義の命」。
本来であれば、己の領土防衛(海の要塞化)に忙殺されている公孫瓚が、他人の領地の救援などに兵を出す理由はない。しかし、この世界線の公孫瓚は極めて冷徹なリアリストであった。
(……袁術が兗州を飲み込めば、いずれ厄介な大勢力となって我が青州の南を脅かすことになる。それに、恩を売っておけば、曹操も当面は我が領土に手出しはできまい。海への防備を完璧にするためにも、ここは袁術という煩い蠅を叩き落としておくのが最善か)
公孫瓚は、即座に援軍の派遣を了承した。
一方、劉備の心境は公孫瓚のような打算とは無縁であった。
「袁術……己の贅沢で民を飢えさせ、他国から奪おうなどと、決して許されることではない! 曹操殿の領地で苦しむ民たちを、一刻も早くお救いせねば!」
劉備の胸には、大漢を乱す者への純粋な義憤の炎が燃え盛っていた。
関羽が青龍偃月刀を撫で、張飛が「ようやく出番だぜ!」と蛇矛を振り回して吠える。
袁術の身勝手な侵攻は、皮肉にも「曹操という巨大な防波堤」と、「公孫瓚・劉備という最強の矛」を、完全に一体化させる結果を生み出してしまったのである。
兗州の国境。
袁術軍の猛攻は、開戦から一ヶ月が経過してもなお続いていた。
「押し潰せ! 曹操の陣を破れば、中に飯が唸るほどあるぞ!!」
袁術の将・
「……明公。そろそろ、前線の兵たちの体力が限界に達します。このまま受け続けるのは危険かと」
戯志才が、血の気の引いた顔で進言する。
「分かっている」
曹操は、血走った目で北の空を睨みつけていた。
「私は、ただ無策に耐え忍んでいたわけではない。耐えて、耐えて、袁術の軍勢が完全に前掛かりになり、背後の警戒を怠る『この瞬間』を待っていたのだ」
ドォォォォォン……ッ!!
その時。
大地の底から響き渡るような、地鳴りが兗州の戦場を揺るがした。
袁術軍の兵士たちが、攻撃の手を止めて振り返る。
北の地平線。
巻き上がる巨大な土煙の中から姿を現したのは、天の大義を背負い、純白の波となって押し寄せる「白馬義従」の圧倒的な大軍勢であった。
「な、なんだあの騎兵は!? なぜ、公孫瓚の軍がこんな所に!!」
袁術軍の将兵たちは、パニックに陥った。
目の前の堅牢な城壁を崩すことしか頭になかった彼らの無防備な背中に向かって、北方の覇者が放った最強の騎兵部隊が、まさに死神の鎌のように振り下ろされようとしていたのである。
「今だ!! 逆賊の背を討てェッ!!」
先陣を切る劉備の双股剣が閃き、関羽と張飛が鬼神のごとき咆哮を上げて、袁術軍の背後へと猛然と突え入る。
「……来たか。劉虞様の勅命、見事に機能したようだな」
城壁の上で、曹操はニヤリと凶悪な笑みを浮かべた。自ら劉虞に救援を要請し、この完璧な「挟撃」の盤面を作り上げたのは、他ならぬ曹操自身の政治力であった。
「全軍、反撃に転じよ!! 門を開き、背後を突かれて浮き足立った袁術の豚どもを、一匹残らず平野ですり潰せ!!」
曹操の号令と共に、これまでひたすら攻撃を耐え忍んできた兗州の防衛線が、一気に「反転」した。
城門が開き、鬱憤を溜め込んでいた曹操軍の精鋭たちが、怒涛の勢いで押し返していく。
南の狂帝が引き起こした渇きの春の戦いは。
曹操の極限まで計算された「受け」と、北から疾風のごとく現れた公孫瓚・劉備という「究極の反撃」によって、袁術軍を絶対的な絶望の挟み撃ちへと叩き落としたのである。
兗州の荒野で袁術の二十万の大軍が、曹操の鉄壁の防陣と公孫瓚・劉備の白馬部隊による完璧な挟撃に遭い、文字通り「粉砕」されたという報せは、中原のどの諸侯よりも早く、江都にいる孫策の元へと届けられた。
日本国の工作員である「辰砂売り」の商人たちが構築した、長江流域を網羅する非合法の諜報網。その情報伝達の速度は、すでに大漢帝国の早馬の限界を遥かに超えていたのである。
「……負けた、だと? あの二十万の大軍が、たった一ヶ月で完全に崩壊したというのか!」
密室で報告の木簡を読み終えた孫策は、驚愕のあまり卓を強く叩いた。
袁術が兵法に暗い愚か者であることは百も承知であった。だが、あれほどの圧倒的な物量があれば、曹操とて防戦一方で身動きが取れなくなり、戦線は膠着するだろうと踏んでいたのだ。
北方の覇者である公孫瓚が、遠く離れた兗州まで凄まじい速度で介入してくるなど、孫策の読みを完全に超える事態であった。
「ちっ……! 曹操め、どれほど強かに立ち回っているのだ。それに、あの白馬の軍勢……親父殿が言っていた『化物』どもは、確実に北で力を蓄えている」
だが、孫策が焦燥感を募らせている最大の理由は、中原の勢力図の激変そのものではなかった。
彼自身の「直近の計画」が、この袁術の大敗によって根底から覆されようとしていたからである。
孫策は、この江都の地で商人や名士から資金を集めながら、長江を渡って南——揚州刺史である
江東を平定し、自らの完全な独立王国を築くための第一歩。しかし、新兵ばかりの孫策の軍勢だけで、堅牢な曲阿を攻め落とすのは難しい。そのためには、どうしても「袁術の下にある幾許かの軍勢と物資」を、巧みな言葉で借り受ける必要があったのだ。
「袁術がこれほどの大敗を喫したとなれば、奴は恐怖で完全に閉じこもり、一兵たりとも手放そうとはしないはずだ。……これでは、曲阿へ攻め入るための戦力が足りん。俺の独立計画は、ここで完全に頓挫してしまうぞ」
頭を抱える孫策。
その時、部屋の扉が静かに開き、涼やかな声が響き渡った。
「焦ることはないよ、伯符。盤面がひっくり返ったのなら、ひっくり返った裏側を使って戦えばいいだけのことだ」
現れたのは、孫策と同い年の美しい青年であった。
透き通るような白い肌に、知性と自信に満ち溢れた涼やかな瞳。江東の若者たちが孫策の武勇に熱狂するのと同じほどの熱量で、その類まれなる美貌と音楽の才能、そして底知れぬ軍略の才を称賛する男。
孫策の無二の親友であり、己の覇業に引き入れた最高の知嚢——周瑜である。
「公瑾! しかし、袁術が負けたんだぞ。奴の軍は壊滅状態だ。曲阿へ向かうための兵を借りるどころの騒ぎではない。俺たちの江東平定の絵図が……」
「破綻した、と言いたいのだろう? 逆だよ、伯符。この状況は、我々にとって『天が与えし千載一遇の好機』だ」
周瑜は、優雅な所作で孫策の対面に座り、卓の上に置かれた諜報の木簡を指先で弾いた。
「袁術が勝って兗州を飲み込んでいれば、奴はますます傲慢になり、江東にいる我々への干渉を強めただろう。兵を貸してくれたとしても、必ず鬱陶しい監視の将を何人もつけてきたはずだ。だが、今は違う。……袁術の誇る主力の軍勢は、曹操と公孫瓚の手によって綺麗に『掃除』されたのだからね」
「掃除されたって……兵がいなければ戦えんのは俺たちも同じだぞ!」
「ふふっ。伯符、君は商人たちから情報を買うことには長けてきたが、まだ戦場の『内訳』を見る目が少し足りないようだ」
周瑜は、持っていた扇子で、木簡の一文をトンと叩いた。
「この袁術軍の戦死者と敗走者の名簿を、よく見てごらん。……『誰がいない』かな?」
孫策は眉をひそめ、周瑜に言われるがまま、商人たちが書き記した詳細な部隊の配置と損害報告に目を通した。
前線で曹操軍に突撃し、白馬の挟撃を受けて壊滅した袁術の主力部隊。
指揮を執っていた紀霊(きれい)ら袁術子飼いの将たちは、命からがら逃げ帰っているが、その配下の兵たちは文字通り挽肉となっている。
「……ん? 待てよ」
孫策の目が、ある一点でピタリと止まった。
「程普……黄蓋……韓当……。親父殿の配下だった宿将たちの名が、前線の名簿のどこにもない……?」
「その通りだ」
周瑜は満足げに頷いた。
「偶然か、あるいは袁術の狭量さゆえの必然か。今回の兗州侵攻において、袁術は君のお父上である孫堅将軍の残党——かつての孫軍の精鋭たちを、一兵たりとも出陣させていなかったのだよ」
「な、なんだと!?」
孫策は立ち上がり、目を丸くした。
事実であった。
袁術は、孫堅の配下であった歴戦の猛将たちを「手柄を立てさせれば、いずれ孫策の下へ結集して反乱を起こすかもしれない」と常に警戒し、疎んじていた。
そのため、今回の「曹操の兵糧を奪う」という美味しい戦において、彼らを意図的に前線から外し、南陽の留守番や、後方の無意味な治安維持といった閑職に縛り付けていたのである。
結果として。
袁術の軍勢が曹操と公孫瓚の凄まじい暴力によってすり潰される中、かつて天下の諸侯を震え上がらせた『孫軍の歴戦の猛者たち』は、一人の欠落も、一滴の血を流すこともなく、無傷のまま後方に温存されていたのである。
「親父殿の部下たちが……無事だったのか!」
孫策の目に、歓喜の炎が灯った。
「袁術の嫉妬深さが、皮肉にも君の『牙』を完璧な状態で守り抜いてくれたというわけだ。まさに天の配剤だよ」
周瑜は涼やかに笑いながら、扇子をパチンと閉じた。
「だが、公瑾。彼らが無事だとしても、袁術が彼らを俺に返してくれるはずがない。むしろ、自分の軍が壊滅した今、残された親父殿の軍を絶対に手放そうとはしないはずだ」
「普通に頼めば、そうだろうね。だから『脅す』のさ。……大義名分という見えない刃を使ってね」
周瑜の瞳の奥に、ぞっとするような冷徹な知略の光が宿った。
「今の袁術は、曹操の反撃と、背後に迫るかもしれない白馬の恐怖でパニック状態に陥っている。南陽でガタガタと震えながら、誰かが自分を守ってくれることを必死で祈っているはずだ。
……そこに、君が行くんだよ、伯符。そしてこう言うんだ。
『逆賊・曹操が南下してくる前に、私が父の旧兵を率いて長江を渡り、曲阿の劉繇を討って、袁術様のための安全な後背地(江東)を確保してご覧に入れます。私に、その先陣をお任せください!』……とね」
孫策は、ハッとして息を呑んだ。
「なるほど……! 袁術は今、南陽が曹操に攻め込まれた時の『逃げ道』を喉から手が出るほど欲している。俺が『袁術様のために江東を平定して安全地帯を作ります』と言えば、奴は自分の保身のために、喜んで親父殿の軍を俺に預けるということか!」
「その通り。君は袁術の忠臣という仮面を被ったまま、合法的に父親の軍勢を取り戻すことができる。そして、一度兵を率いて長江を渡ってしまえば……」
「……あとはこっちのモノだ。曲阿を落とし、江東を制圧したその瞬間、袁術との鎖を完全に断ち切り、俺は独立する!」
孫策の顔に、獰猛な虎の笑みが浮かんだ。
商人たちの情報網(大和の耳目)によって得た最速の凶報。
そして、袁術の暗愚さが生み出した「奇跡の不在」。
すべてのピースが、周瑜という類まれなる知能によって組み合わされ、孫策が鎖を引きちぎるための『完璧な口実』へと変換されたのである。
「行こう、公瑾。袁術という豚を騙し、親父殿の軍を取り戻しに行くぞ。……江東の空に、もう一度『孫』の旗を翻す時だ!」
兗州における大敗の報せにより、南陽の庁舎は重苦しい絶望とパニックに包まれていた。
「おのれ曹操……! おのれ公孫瓚……ッ! 奴ら、この私を、四世三公の正統なる王を挟み撃ちにするとは……卑怯なり!」
袁術は、恐怖に顔を引き攣らせながら玉座の上で爪を噛んでいた。
自慢の二十万の大軍は完全にすり潰され、手元に残っているのは南陽の守備隊と、意図的に後方へ留め置いていた孫堅(そんけん)の旧軍のみである。
もしこのまま曹操や劉備が南下してくれば、南陽はひとたまりもない。
そこへ、江都にいたはずの孫策が、単騎で駆け込んできた。
「袁術様! 兗州でのご不運、誠に無念にございます! しかし、今こそ次なる手を打たねばなりませぬ!」
孫策は床に額をこすりつけ、悲痛な声で叫んだ。
「次なる手だと? 私にどうしろというのだ!」
「曹操や北の軍勢が迫る前に、安全な後背地を確保するのです。南の長江を越えた江東の地……あそこは豊かで、天険に守られております。現在、あそこには朝廷から派遣された揚州刺史・劉繇がふんぞり返っておりますが、奴は戦を知らぬ書生に過ぎません」
孫策は顔を上げ、決死の表情を作って言い放った。
「私に、父・孫堅の旧軍をお預けください! 私が先陣を切って長江を渡り、劉繇を追い落とし、袁術様が安全に再起を図るための『絶対的な拠点(江東)』を切り開いてご覧に入れます!」
袁術は、孫策の言葉にハッとした。
彼にとって、江東は「逃げ道」として最高に魅力的な場所であった。しかも、劉繇は長安の朝廷(李傕らが実権を握っている)から派遣された男。大漢の正統な長官ではあるが、すでに自分が天下の王になる気でいる袁術からすれば、目障りな敵でしかなかった。
(……ちょうど良い。孫堅の残党どもは持て余していたところだ。この若造を先兵にして江東を切り取らせ、成功すれば私がそこへ移ればいい。失敗して孫策が死ねば、それはそれで面倒の種が消えるだけのこと)
袁術の暗愚で自己中心的な計算は、孫策と周瑜(しゅうゆ)の描いた盤面(トラップ)に、見事なまでにすっぽりと嵌まり込んだ。
「よ、よし! 伯符(孫策)、お前のその忠義、見事である! お前に父の旧軍をすべて預ける! ただちに長江を渡り、私のために江東を平定せよ!」
「ははっ!! この孫伯符、御恩に報いるため、必ずや劉繇の首を獲ってご覧に入れます!」
孫策は再び深く頭を下げた。
その顔の死角で、若き虎の唇が、抑えきれない歓喜と冷酷な嘲笑で三日月のように吊り上がっていたことを、袁術は全く気づいていなかった。
数日後。
孫策は、長年にわたり袁術の元で飼い殺しにされていた程普、黄蓋、韓当ら、父・孫堅の歴戦の猛将たちと涙の再会を果たした。
「若君……! 大きくなられましたな! 我ら、この日をどれほど待ちわびたことか!」
「親父殿の誇り高き牙たちよ。待たせたな。これより我らは、袁術という豚の鎖を引きちぎり、真の孫軍として天下に覇を唱えるぞ!」
数千の精鋭と共に、孫策の軍は長江を渡る。
旗印は、未だ「袁」のままである。
船上で長江の風を受けながら、孫策は隣に立つ周瑜に声をかけた。
「公瑾。親父殿の軍は取り戻した。あとは曲阿(きょくあ)に陣取る劉繇をぶっ飛ばすだけだ。……だが、俺たちが劉繇を討てば、天下の連中から『正当な揚州刺史を不当に侵略した逆賊』として扱われるのではないか? 劉虞のような大義名分を重んじるジジイが黙っていまい」
孫策の懸念は、極めて正確な政治的嗅覚であった。
しかし、周瑜は涼しげな顔で扇子を広げた。
「その通りだ。大漢の法に照らし合わせれば、劉繇は正義であり、我々は不法な侵略者だ。……だが、伯符。だからこそ、我々は今『袁術の部下』として動いているのではないか」
「どういうことだ?」
「劉繇を攻め落とす。その軍事行動のすべての罪状と悪名は、指示を出した『袁術』に叩きつけるのだよ」
周瑜は、冷徹な微笑を浮かべて説明した。
「我々は曲阿を神速で落とす。そして、劉繇を追い出したその瞬間に、袁術に対して反旗を翻すのだ。
『我らは袁術の命令で劉繇殿を攻撃させられたが、袁術の非道な野心を知り、大漢への忠義に目覚めた。ゆえに袁術と決別し、この江東の地を、逆賊・袁術から守るための防波堤として一時的に保護する!』……と宣言するのさ」
「……!」
孫策は鳥肌が立つほどの衝撃を受けた。
「分かるかい? これで我々は『正当な長官を追い出した侵略者』から、『袁術の魔の手から江東の民を救った解放者』へと、一瞬にして立場が逆転する。劉繇が弱かったから、我々が代わりに江東を守ってやるのだという仕掛けだ」
罪と悪名はすべて狂帝・袁術に押し付け、自分たちはその袁術に逆らった「大義の味方」として振る舞う。
これこそが、周瑜の仕組んだ『大義のロンダリング(洗浄)』であった。
大漢の秩序を重んじる劉虞や劉備でさえ、袁術から離反し、袁術と戦う姿勢を見せる孫策を「完全な逆賊」として討伐する大義名分を見失うことになる。
「最高だ、公瑾! 恐ろしい男だぜ、お前は!」
「君が戦に勝たなければ絵に描いた餅だよ。劉繇の軍は数万、こちらは数千。しかも、短期決戦で落とさなければ、この大義は成功しない。……勝てるかい?」
「誰にモノを言っている。俺は、江東の猛虎の倅(せがれ)だぞ」
孫策は、愛用の長槍を手に取り、対岸の曲阿を獰猛な目で見据えた。
曲阿の城では、揚州刺史・劉繇が数万の軍勢を集め、防衛の構えを見せていた。
劉繇自身は学問に秀でた立派な人物であったが、実戦の経験は乏しく、配下の将たち(張英や樊能など)も寄せ集めで連携が取れていなかった。
さらに、孫策の手には、日本国が放った「辰砂売り」から買い取った『完璧な情報』が握られていた。
「劉繇の陣は、
孫策は、工作員からの情報を元に、周瑜と共に完璧な「電撃戦」の絵図を描いた。
正攻法で数万の大軍とぶつかるのではなく、敵の布陣の「継ぎ目」だけを、凄まじい速度と破壊力でピンポイントに貫くのである。
「親父殿の牙たちよ! 見せてやれ! 孫軍の本当の恐ろしさを!」
孫策率いる数千の軍勢は、長江を渡るや否や、休む間もなく牛渚の砦へと突撃を開始した。
それは、まさに一陣の暴風であった。
先陣を切る孫策の槍が、敵の盾ごと兵士を吹き飛ばし、黄蓋や程普といった老練な猛将たちが、一切の無駄のない動きで敵の指揮官を次々と討ち取っていた。
「な、なんだこの速度は! 敵は数千のはずだぞ!」
「防ぎきれん! 張英将軍の部隊はまだ援護に来ないのか!」
劉繇軍の将たちはパニックに陥った。
味方の救援を待とうにも、将同士の連携が取れていないため、互いに様子を見合っている間に、孫策の部隊に各個撃破されてしまったのである。
わずか数日。
曲阿を守るための前線基地は、孫策の神速の用兵と圧倒的な個人の武勇の前に、呆気なく壊滅した。
「ひぃっ……! ば、馬鹿な! 袁術の手先ごときに、我が大漢の正規軍が敗れるなど……!」
前線の崩壊を聞いた劉繇は、恐怖のあまり城を捨て、豫章(よしょう)へと逃亡を開始した。
戦を知らぬ文官の悲しさか。彼は城で籠城して時を稼ぐという選択すらできず、自ら兵を散らしてしまったのである。
曲阿の城は、ほとんど無傷のまま、孫策の手に落ちた。
戦死者も少なく、江東の民が戦火に巻き込まれることも最小限に抑えられた、あまりにも見事すぎる「完全勝利」であった。
曲阿の城内に入城した孫策は、息つく暇もなく、周瑜の描いた「第二の作戦」を直ちに実行に移した。
「全軍に告ぐ! 城内に掲げられている『袁』の旗をすべて引きずり下ろせ! 一枚残らず焼き捨てろ!!」
孫策の怒号に、兵士たちは驚きながらも袁術の軍旗に火を放った。
そして孫策は、江東の有力な名士たちや、降伏してきた劉繇の兵士たちを城の広場に集め、彼らの前で高らかに宣言した。
「江東の民よ、よく聞け! 我らは南陽の袁術から、『揚州刺史・劉繇を討て』という理不尽な命令を受けてこの地にやって来た。
しかし! 我らは長江を渡る道中、袁術が皇帝の玉座を狙い、大漢を滅ぼそうとしているという『確かな逆心』を知った! さらに、袁術の兵たちがこの江東で略奪を働こうとしていることもな!」
孫策は、一切の嘘偽りなく(あるいは見事な演技で)、血を吐くような正義の怒りを込めて叫んだ。
「劉繇殿は立派な刺史であった。だが、悲しいかな、彼にはこの豊かな江東を袁術の魔の手から守り切るだけの『武力』がなかった! 現に、我々数千の軍勢にさえ、城を捨てて逃げ出さざるを得なかったではないか!
このままでは、江東は袁術という逆賊の餌食となる。
……ゆえに! この孫伯符、亡き父・孫堅の誇りにかけて、大漢の逆賊・袁術と完全に決別する!!」
広場が、どよめきに包まれた。
「袁術を裏切るというのか!?」
「いや、裏切りではない。大漢への忠義だ!」
「劉繇殿が戻られるか、朝廷から新たな長官が派遣されるその日まで! この江東の地は、我々『孫軍』が、袁術の牙から命がけで保護し、お守りする! 我らは侵略者ではない。江東の民と、大漢の秩序を守るための『盾』となるのだ!!」
それは、完全なる「詭弁」である。
劉繇を追い出したのは他ならぬ孫策であり、江東を我が物にしようとしているのも孫策である。
だが、その見え透いた詭弁を「絶対的な正義(真実)」として民衆に錯覚させるだけの、圧倒的なカリスマと、袁術という巨大な『悪役』の存在があった。
「孫郎(孫策)様……! なんという御立派なお覚悟!」
「我ら江東の民、あなた様について行きますぞ!」
若き英雄の正義の宣言に、曲阿の民衆や名士たちは熱狂的な歓声を上げた。
中原で大義名分を重んじる劉虞や劉備の耳にこの宣言が届けば、彼らとて「袁術と決別し、江東を守ると宣言した孫策」を、頭ごなしに逆賊として討伐することはできなくなる。
「……見事な演説だ、伯符。これで我々の『罪』はすべて南陽の豚(袁術)が背負い、我々は正義の軍としてこの地に根を下ろすことができる」
城壁の上からその熱狂を見下ろしながら、周瑜は静かに扇子を煽った。
「ああ。お前の絵図のおかげだ、公瑾。……これで、ようやく第一歩だ」
孫策は、燃え落ちる袁術の旗を冷たい目で見つめた。
長江の南では、袁術という見栄っ張りの愚者を踏み台にして、自らの罪を完全に洗い流した若き猛虎が、大漢帝国の最も豊かな土地(江東)を、完全に己の顎に咥え込んだのである。
中原の化け物たちに対抗しうる「第三の勢力」が、ここに産声を上げた瞬間であった。