西暦一九三年、冬。
中原で群雄たちが血塗られた覇権争いを繰り広げ、東の海で大和国が宇宙の理を測っていた頃。
はるか西の辺境、険しい山々に守られた天然の要害・益州(えきしゅう)においても、一つの勢力がもがき苦しんでいた。
かつて漢室の宗室として名を馳せ、この地に独立王国を築き上げようと野心を燃やした益州牧——劉焉である。(※史実の劉焉)
彼はこの年、自らの本拠地を
しかし、その新天地での門出は、決して希望に満ちたものではなかった。むしろ、彼の周囲には暗く重い絶望の影が立ち込めていたのである。
「……おお、我が子たちよ……! 何故、私よりも先に逝ってしまったのだ……!」
成都の庁舎の奥深くで、老いた劉焉は力なく咽び泣いていた。
長安の朝廷に留め置かれていた長男の
さらに、度重なる落雷による火災などの不運が連続して彼の陣営を襲い、劉焉の心身は、相次ぐ心痛と絶望によって急速に蝕まれていった。
それでも、劉焉は益州での完全な独立の夢を諦めきれずにいた。
だが、致命的な問題があった。軍事的な防衛線こそ険しい山々が機能していたが、広大な益州を統治し、国を豊かにし、独自の国家体制を整えるための『官吏の絶対数』が、決定的に不足していたのである。
「武将だけでは国は造れん……! この広大な地を治め、税を取り立て、法を敷くための優秀な頭脳が必要だ。誰か、誰かおらんのか!」
焦燥に駆られた劉焉は、成都を中心とする周辺地域に向け、大規模な「求人(招賢)」の布告を出した。
戦乱を逃れて中原から益州へと避難してきていた元官僚やその親族、さらにはこの地で士官を望むあらゆる在野の才を、身分を問わず呼び集めようとしたのである。
劉焉の布告は、成都の市井に潜んでいた一人の青年の耳にも届いた。
青年の名は、班竣。
中原最大の要塞を築き上げた曹操軍において、すべての兵站と物流を冷徹な数字で支配する天才・班稀の、実の弟であった。
「……ついに、表に出る時が来たか」
班竣は、質素な家屋の窓から成都の庁舎を見上げ、静かに呟いた。
彼の背後には、幼い子供たちの手を引く、ひとりの物静かな女性が控えている。
彼女たちは、他でもない。兄・班稀の奥方(妻)と、その子息たちであった。
「義弟殿。本当に、よろしいのですか? 我々を養うために、貴方まで危険な官吏の道へ進むなど……」
兄嫁が、申し訳なさそうに声をかける。
「義姉上。どうかお気になさらず」
班竣は、優しく、しかし確固たる決意を込めて首を振った。
「兄上は、我が班家において最も偉大なる頭脳でした。今や今生の別れとなってしまいましたが……兄上の遺した『形見』である貴女方と甥っ子たちを、路頭に迷わせるわけにはいきません。私が必ず、この身を盾にしても守り抜きます」
班竣の目は、兄への深い尊敬と、家族への愛情に満ちていた。
彼が士官を決意した理由は、己の立身出世や権力欲などでは決してない。
兄の残した家族に、安全で豊かな暮らしを保証するための「地位と財」が何よりも必要だったからだ。
そして、彼の手元には、もう一つの極めて重要な『形見』があった。
「それに……兄上が失踪する前に私に託していった、この『遺稿』。これを、ただの屑として歴史の闇に葬り去ることは、弟として絶対に許せません」
班竣が大切に抱え込んでいる竹簡の束。
そこには、班稀が東の果てで叩き込まれた極限の「数字の理」や、「兵站学」「統計学」といった、この時代の常識を数百年は先取りした恐るべき知性が、無機質な文字でびっしりと書き残されていた。
「この知識をこの世に具現化させ、後世に残す。それこそが、兄上に対する私の最大の供養であり、使命なのです」
かくして、班竣は兄の遺稿を懐に忍ばせ、劉焉が設けた登用試験の門を叩いたのである。
数日後。
成都の庁舎において、劉焉の重臣たちによる厳しい登用試験が行われていた。
集まった者たちは、経書の解釈や、詩の美しさ、あるいは大義名分といった「精神論」を熱弁し、自らの優秀さをアピールしていた。
その中で、班竣の解答は、他の受験者たちとは完全に異質な光を放っていた。
「……なんだ、この解答は?」
試験官を務めていた劉焉の重臣が、班竣の提出した木簡を見て目を丸くした。
「益州全域の農地の面積と、直近十年の気候変動から割り出した『今後の収穫予測』……? さらには、成都から前線への兵糧輸送にかかる日数と、人員の損耗率を完全に数式化しているだと?」
呼ばれて進み出た班竣は、
「国を治めるのは、詩の美しさでも、大義の叫びでもございません。蔵にある麦の数と、それを運ぶ荷車の回転率です。私は、その『算』において、誰よりも精確にこの益州を管理してみせましょう」
班竣の能力。
それは、兄である班稀の持つ『狂気的なまでの計算能力』に比べれば、いくらか常識の範疇に収まるものであった。
彼は兄のように、戦場を見渡した瞬間に数万の兵の消費量を暗算で弾き出すようなバケモノではない。
しかし、その論理的な思考力と、物事をすべて「数字とシステム」に置き換えて整理する能力は、明らかに当時の一般的な官吏を遥かに凌駕(りょうが)していた。
何より、彼には兄が遺した『遺稿』という絶対的な武器がある。
試験官たちが意地悪く投げかける複雑な税の計算や、水害時の復興予算の割り出しといった難問を、班竣は手元の算木を弾きながら、涼しい顔で軽々と、そして一寸の狂いもなく踏破していったのである。
「おお……! 素晴らしい! これぞ、これぞ私が求めていた『本物の才』だ!!」
最終試験の場に顔を出した劉焉は、班竣が組み上げた完璧な「益州の兵站・内政」の図面を見て、息子を失った悲しみも忘れるほどに大興奮し、歓喜の声を上げた。
「班竣と申したな! 貴様のような有能な男が、なぜ今まで市井に埋もれていたのだ! 今すぐ、私の軍の兵站と内政を取り仕切る要職に就け!
「ありがたき幸せに存じます、劉焉様。……ですが、私には守るべき身内がおります。どうか、彼らが安全に暮らせる屋敷と、十分な護衛を賜りたく存じます」
「安いものだ! すぐに手配してやる!」
こうして。
兄の家族を守るため、そして兄の遺した知恵をこの世に証明するために立ち上がった弟・班竣は、劉焉の絶望的なまでに不足していた行政の穴を見事に埋める「最高の官吏」として、その姿を歴史の表舞台に現したのである
中原では兄の班稀が曹操の覇業を支える『血液(兵站)』として極限の冷徹さを振るい、西の益州では弟の班竣が劉焉の独立王国を支える『骨格(内政)』としてその才を遺憾なく発揮し始めていた。
中原の激動とは切り離された西の辺境で。
一人の心優しき異才が、斜陽に向かいつつあった益州の運命を、どれほど長く、そして強固に支え続けることになるのか。
この時の劉焉はまだ、自分が手に入れたその若者の頭脳が、後に益州を難攻不落の要塞国家へと作り変える『極上の歯車』であることを、完全には理解していなかった。
西暦一九四年。
中原の大地を治める群雄たちは、年が明けても一向に降る気配を見せない鉛色の空を見上げ、一様に絶望の吐息を漏らしていた。
二年続けての少雪、そして雨不足。
それはすなわち、春の雪解け水による土壌の潤いが完全に絶たれることを意味していた。前年の大干ばつで備蓄を食いつぶしていた大漢帝国の民にとって、この二度目の渇きは、文字通りの『大飢饉(』という名の死神となって、容赦なく中原全土に襲い掛かったのである。
もはや、覇権を巡って大軍を動かし、華々しい戦を展開するような余裕は、どの陣営にも残されていなかった。
兵士に食わせる飯がない。軍馬に与えるまぐさすらない。
街道には飢えに苦しむ流民の骸が累々と連なり、野犬ですら痩せこけて倒れるという、まさに地獄絵図がどこまでも広がっていた。
しかし、そのような極限状態にあっても、人間の業(ごう)というものは容易には消え去らない。
「長安を落とせ! 李傕どもが溜め込んでいる穀物を奪い取るのだ!」
西涼の辺境を拠点としていた
だが、これは大義名分を掲げた華麗な政変などではない。彼ら自身もまた、西の辺境での深刻な飢餓に耐えかね、「餌場」を求めて長安の備蓄庫へと群がっただけの、悲壮で泥臭い暴動に過ぎなかった。
漢中方面での騒乱こそ少なかったものの、天子を擁する長安の都は、飢えた獣たちがわずかな残飯を奪い合って殺し合う、凄惨な檻と化していたのである。
「……全軍に触れを出せ。これより徐州(じょしゅう)へ再侵攻し、残った残党どもを完全に根絶やしにする」
兗州の濮陽城。
昨年の秋、徐州牧・陶謙を討ち、一族郎党を惨殺することで父の仇を討った曹操であったが、彼の胸の奥底に燻る暗黒の殺意は、未だ完全に消え去ってはいなかった。
徐州の民衆への虐殺こそ踏みとどまったものの、今こそ軍を動かし、主を失って混乱する徐州の領土を完全に己の支配下に組み込もうと企図したのである。
だが、その号令は、彼の覇業を支える二つの知性によって、またしても強硬に引き留められることとなった。
「お待ちください、明公! 今、軍を動かすことだけは絶対になりませぬ!」
王佐の才・荀彧が進み出た。
「昨年の戦火と、この大飢饉により、徐州の民は極限の飢餓状態にあります。そのような場所へ、我が軍が兵糧を食いつぶしながら侵攻したところで、得られるものは『食い扶持を失った何百万もの難民』という巨大な負債だけです!」
さらに、兵站を司る班稀が、冷徹な数字の論理で曹操の前に立ち塞がった。
「飢餓に陥った人間は、もはや恐怖や痛みを論理で理解する生物ではありません。獣よりも恐ろしい『死兵』と化します。
我が軍が攻め込めば、彼らは曹操様の軍勢を『自分たちの肉を喰らいに来た悪鬼』、あるいは『殺してでも奪うべき食糧庫』として認識するでしょう。武器を持たぬ農民であっても、数百万の死兵が我を忘れて噛みついてくれば、我が軍の精鋭とて被害は免れません。……割に合わぬ戦です」
班稀の言葉には、戦場の狂気を数字で演算した冷酷な真実があった。
飢餓という極限状態において、敵を追い詰めることは、自ら狂犬の群れの中に飛び込むようなものである。
「……ちっ。分かった、出兵は取りやめる」
曹操は舌打ちをし、忌々しげに剣を床に突き立てて出兵を断念した。
そして、曹操が徐州への野心を一時的に引っ込めたその空白を縫うように、北方の覇者・劉虞が動いた。
「陶謙が死に、主を失った徐州の民が飢えに苦しんでいる。これを見過ごすわけにはいかぬ。……劉備玄徳よ。お前が徐州に入り、あの地を治めよ」
劉虞は、劉備を正式に『徐州牧』に任命したのである。
長安にいる献帝からの正式な詔勅を得たわけではない。しかし、大漢の正統を自負する劉虞からの絶大な信頼と後押しは、混乱の極みにあった徐州の民にとって、暗闇に差し込む一筋の光であった。
「この劉備玄徳。劉虞様のご期待に背かず、必ずや徐州の民を飢えからお救いしてみせます!」
劉備は、曹操がもたらした血の恐怖と、飢饉による絶望に沈む徐州の地へ、侵略者としてではなく「庇護者」として足を踏み入れた。曹操の武力による蹂躙を逃れた徐州は、劉備の「徳」と劉虞の「大義」によって、かろうじてその命脈を保つこととなったのである。
中原の北部や内陸が飢餓地獄に陥っている中。
長江の南、孫策と周瑜が詭弁と神速の用兵によって奪い取った江東の地だけは、少しばかり様相が異なっていた。
「……さすがは長江の恵みだ。雨が降らずとも、巨大な川の水脈と網の目のような水路のおかげで、稲もなんとか育っているし、魚も捕れる。飢饉の痛手も最小限で済んでいるな」
曲阿の庁舎で、孫策は届けられた兵糧の目録を見て、胸を撫で下ろしていた。
豊かな水資源に恵まれた江東は、大干ばつの影響を比較的受けにくく、孫策が新たに手に入れた領土の地盤固めを進めるには、最高の環境であるように思われた。
だが、隣で大量の木簡に目を通していた周瑜の顔色は、決して明るくはなかった。
「伯符。水と食糧があるのは事実だが……我々はその恵みを、自分たちだけで独占できる状況にはないようだ」
「どういうことだ、公瑾?」
周瑜は、重いため息と共に木簡を卓に投げ出した。
「北の中原から、数え切れないほどの『流民』が、飯と水を求めて長江を渡り、この江東に雪崩れ込んできている。その数、日に数千、いや数万規模だ」
「な、なんだと!?」
江東が豊かであるという噂は、商人や難民の口伝てに、あっという間に飢えた中原に広まっていたのである。
戦火と飢えから逃れるため、大挙して押し寄せる流民の群れ。彼らは江東の市井に溢れ返り、路上に座り込み、粥を求めて治安を急速に悪化させつつあった。
「俺の槍で敵の軍勢を追い払うことはできるが……飢えた民草を槍で突き殺すわけにはいかんぞ! そんなことをすれば、江東の民心まで離れてしまう!」
孫策は頭を抱えた。
「その通りだ。ここで流民を救済し、彼らを江東の労働力として組み込むことができれば、我が軍の力は飛躍的に増大する。しかし、対応を誤れば、江東の蓄えまで食いつぶされて共倒れになる」
周瑜は、自らの美しい顔を歪めながら算木を弾いた。
「伯符、君は治安維持と流民の暴動警戒に兵を回してくれ。私は、商人たちを総動員して急ごしらえの難民収容所と、配給の段取りを組む。……全く、国を治めるというのは、戦場で敵の首を獲るよりも遥かに骨が折れる作業だよ」
若き猛虎と天才軍師は、華々しい戦いではなく、皮肉にも「押し寄せる流民をいかに養い、処理するか」という、泥臭く過酷な内政課題に四苦八苦しながら、必死に江東の地盤を固め続けていたのである。
一方、袁術を討ち取り、南陽と豫州の一部を己の新たな地盤とした飛将・呂布の陣営は、中原の飢饉の直撃を真正面から受けていた。
もともと袁術の暴政によって備蓄が空になっていた南陽である。
そこに二年連続の干ばつが重なり、いかに最強の武将である呂布が領主になったところで、無い麦を天から降らせることはできなかった。
「……また、これか」
薄暗い天幕の中。
呂布は、自らの前に置かれた粗末な椀を見つめ、深い溜息をついた。
椀の中に盛られているのは、米でも麦でもない。荒れ地でもかろうじて育つ、粟と稗をドロドロに煮込んだ、雑穀の粥であった。
「厳氏よ。……いくらなんでも、毎日毎日、粟と稗ばかりでは力が出ん。俺は天下無双の呂布だぞ。少しぐらい、白く精製された麦の餅を食ってもバチは当たらんのではないか?」
呂布は、傍らで繕い物をしている妻の厳氏に向かって、すがるような視線を向けた。
だが、厳氏の反応は氷のように冷たかった。
「何を甘えたことを言っているのです、あなた」
厳氏は手を止め、夫を鋭い眼光で睨み据えた。
「外を見てみなさい。張遼殿も、高順殿も、そして数万の兵たちも、皆あなたと同じこの粟と稗を啜って、飢えと必死に戦っているのですよ。
大将であるあなたが、自分だけこっそりと白い麦を食らうような真似をすれば、兵たちの心は一瞬で離れます。……陛下の御ためと言いながら、己の食欲すら我慢できないのですか!」
「うっ……!」
『陛下の御ため』という、呂布の心に刺さった絶対的な芯を突かれ、飛将はぐうの音も出なくなった。
「わ、分かった。俺が悪かった。……粟でも稗でも、ありがたく頂くとする」
呂布は、巨体を丸く縮こまらせ、木のスプーンで粗末な粥を無言で口に運び始めた。
「それで良いのです。兵たちと同じ苦しみを味わうことで、彼らはあなたを『真の主君』として信頼するのですから」
厳氏は、少しだけ口元を綻ばせ、再び繕い物に視線を落とした。
かつては金銀財宝と美酒美食に囲まれ、欲望のままに生きていた呂布奉先。
それが今や、妻の叱責に頭を下げ、部下たちと共に泥水のような雑穀を啜りながら、長安へ向かうための刃を静かに研ぎ澄ませている。
その情けなくも不器用な姿は、不思議と陣営の中に奇妙な結束力(一体感)を生み出していたのである。
だが、この年の「真の地獄」は、干ばつによる飢饉だけでは終わらなかった。
西暦一九四年、夏。
水不足によって生態系の均衡が完全に崩壊した中原の大地に、天災の究極の姿とも言える『最悪の悪夢』が飛来した。
「……明公! 北西の空から、巨大な黒い雲がこちらに向かってきます!」
濮陽城の物見櫓から、絶望に満ちた報告が曹操の耳に届いた。
「雲だと? 雨が降るのか!」
曹操が急いで外に出ると、空は確かに真っ黒に染まり、太陽の光が遮られていた。だが、それは雨雲ではなかった。
空を覆い尽くしているのは、何億、何十億という数の『
「い、
羽音の轟音と共に、凄まじい密度のバッタの群れが、兗州の平野に降り注いだ。
彼らは、干ばつに耐えてかろうじて実をつけようとしていた麦の穂を、草の葉を、そして木々の樹皮に至るまで、大地にある「緑色のもの」を、まるで巨大なヤスリで削り取るように、文字通り根こそぎ食い尽くしていった。
「おのれ……! おのれェェェッ!!」
曹操は城壁の上で、天に向かって剣を振り回し、血を吐くような咆哮を上げた。
己の知略と武力でどれほど完璧な要塞を築き上げようとも、この圧倒的な生物の暴力の前には、一切の刃が通用しない。ただ、なす術もなく己の国力が削り取られていくのを見ていることしかできなかった。
「……終わりだ。この蝗害で残りの農作物が全滅すれば、我が軍も餓死を免れん」
曹操が、膝から崩れ落ちそうになったその時。
「明公。絶望するには及びません」
無機質な声と共に、兵站長官の班稀が、奇妙なものを載せた盆を持って曹操の前に現れた。
盆の上には、薪の火で香ばしく炙られ、塩を振られた『大量のバッタ』が山盛りにされていた。
「な、なんだそれは! 気でも狂ったか、班稀!」
「狂ってなどおりません。極めて合理的な『兵站の計算』です」
班稀は、炙られたバッタを一匹つまみ、躊躇なく自らの口に放り込んでバリバリと噛み砕いた。
「大干ばつによって農作物が失われた代わりに、天は我々に、この莫大な量の『極上の血肉の糧』を空から降らせてくれたのです。
麦がないのなら、これを食えばいい。捕獲も容易で、火を通せば毒もありません。……我が軍の兵士たちに網を持たせ、飛蝗をすべて捕らえさせなさい。これらを炙り、あるいは茹でて乾燥させれば、秋を越えるための立派な兵糧となります」
班稀の提案は、中原の常識からすれば狂気の沙汰であった。
しかし、その傍らから、荀彧が進み出て、深く頭を下げて曹操に直訴した。
「班稀の申す通りです、明公! 虫を食らうなど、普段であれば野蛮の極み。しかし、今は大漢の民が飢えで命を落としている未曾有の危機にございます!」
荀彧の目は、燃えるような正義と王道の光を放っていた。
「この飛蝗を食糧とする知識を、我が軍だけで独占してはなりませぬ。ただちに触れを出し、兗州のみならず、徐州、豫州、ひいては中原全域の民に向けて『飛蝗は食える。天からの恵みである』と大々的に伝播させるのです!!」
「なんだと……? 敵の領地の民にまで、生き延びる知恵を教えろというのか?」
曹操は驚愕した。
「然り! 大漢の民を救うことこそが、真の覇道への礎です!
明公がこの飢饉と蝗害から天下の民を救う『救済の知識』を分け与えれば……天下の人々は、明公のことをただの恐ろしい覇者ではなく、『命を救ってくれた大いなる善人』として、その徳を永遠に讃えることでしょう!」
敵の民を餓死させるのではなく、あえて生かすことで、己の政治的覇権(絶対的な支持)を確立する。
荀彧の提示したその途方もないスケールの「王道の政治利用」に、曹操の脳裏で、何かが激しくスパークした。
「……くっ。くくくっ……あーっはっはっはっ!!」
曹操は、顔を覆って大爆笑した。
徐州で虐殺を行おうとした冷血の魔王が、今度は天下の民に「虫の食い方」を教えて回る救世主となるというのか。これほど滑稽で、これほど極上の権謀術数があるだろうか。
「見事だ、文若! そして班稀よ! 貴様らのその狂った知恵と正義、私が買い取ろう!」
曹操は、盆の上にあったバッタを一掴み取り、一気に口の中に放り込んで噛み砕いた。
「悪くない味だ! 全軍に命ず! 空を覆うこの黒い雲を、我々の手で残らず喰い尽くせ! そして早馬を放ち、天下のすべての飢えた民に、この曹孟徳が『天の恵みの食らい方』を教えてやるのだと触れ回れェッ!!」
西暦一九四年、夏。
中原を絶望の底に叩き落とした蝗害は。
日本国の冷徹な数字の理と、大漢の王道が、覇王・曹操の野心という巨大な器の中で完全に融合したことにより。
奇跡的な「食糧危機の解決策」であると同時に、曹操という男の政治的威信を天下に轟かせる、究極の『宣伝の宴』へと変貌を遂げた。
この年の秋口。
中原を覆い尽くした飛蝗の群れは、曹操の軍勢と、彼の触れに従った民衆たちの必死の「捕食」によって、徐々にその数を減らしつつあった。
飢餓の絶望を、虫を食らうという狂気と合理性で乗り越えようとする曹操の『
しかし、李傕ら西涼の荒くれ者たちが実権を握り、腐敗と暴力が蔓延る長安の宮廷において、この報せは極めて冷ややかに、そして嘲笑をもって受け止められた。
「……ふははっ! 曹操の奴め、ついに飢えで狂ったか! 民に虫を食えなどと触れ回るとはな!」
「あのような気味の悪い羽虫を口に入れるなど、下賎な農民か、正気を失った獣のすることよ。我ら高貴なる朝廷の臣が口にするものなどではないわ!」
豪華な装飾が施された未央宮の広間。
朝廷の重臣たちや宦官たちは、見せしめとして運ばれてきた「火で炙られた飛蝗」が盛られた盆を遠巻きに眺め、扇で顔を覆って気味悪がった。
長安の都もまた飢えに苦しんでいるというのに、権力の中枢にいる彼らだけは、李傕が不当に溜め込んだ穀物を食らい、飢餓の現実から完全に目を背けていたのである。
「さあさあ、こんな汚らわしい虫の死骸は、さっさと捨ててしまえ。宮廷が穢れるわ」
重臣の一人が、盆を床に払い落とそうとした、その時であった。
「……待て。それを捨てることは許さぬ」
静かに、しかし決して逆らうことのできない凜とした声が、玉座から響き渡った。
第十四代皇帝、献帝・劉協である。
「へ、陛下……?」
臣下たちが戸惑う中、まだ幼さの残る天子は、玉座からゆっくりと立ち上がり、重臣たちが気味悪がって囲んでいた盆の前へと歩み寄った。
「陛下! いけませぬ、そのような汚らわしい物に近づいては!」
「曹操の戯言にございます! 帝のお目に触れるような代物では……」
臣下たちの制止を、劉協は静かな手振りで退けた。
彼の目は、盆に盛られた黒焦げの虫を、決して汚物として見てはいなかった。
「……中原の民は今、空を覆うこの虫の群れによって麦を奪われ、生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされているのだな」
劉協は、盆の上に手を伸ばし、親指ほどもある炙られた飛蝗を、その細く白い指で一つ摘み上げた。
「へ、陛下ッ! 何をなさるおつもりで!?」
「おやめください! 帝の御身に障りまする!」
周囲の悲鳴に近い制止を他所に。
劉協は、一切の躊躇なく、その飛蝗を己の口に運び、前歯で力強く噛み砕いたのである。
パリッ、サクッ……。
静まり返った宮廷に、天子が虫の甲殻を咀嚼する、生々しい音が響き渡った。
李傕の配下たちも、古参の重臣たちも、信じられないものを見るような目で、目を丸くして固まっていた。
劉協は、少しだけ眉をひそめながらも、それをしっかりと飲み込み、臣下たちに向かって毅然として言い放った。
「……味は、決して美味なるものではない。だが、飢えを凌ぎ、命を繋ぐには十分な血肉の糧である」
劉協の瞳には、長安の鳥籠に閉じ込められている己の無力さへの悔しさと、それでも決して失われることのない『大漢の天子としての絶対的な
「民が飢えに苦しみ、生き延びるためにこの虫を食らって泥水を啜(すす)っているというのに。天下の父たる私が、どうしてこれを気味悪いと拒絶できようか!
……帝とは、いかなる苦難の時も、民の手本にならねばならぬのだ」
その言葉に、広間にいたすべての者が息を呑み、そして恥じ入るように床に平伏した。
曹操が政治的な思惑で広めた飛蝗食を、天子である劉協は、どこまでも純粋な「民への愛と責任」として自らの血肉に取り込んだのである。
大漢帝国の権威が地に墜ち、武力のみが支配する乱世にあって。
この幼き皇帝の魂の気高さだけは、どれほどの泥にまみれようとも、決して穢されることなく純白の光を放ち続けていた。
長安の天子が悲壮な決意と共に虫を食らっていた頃。
大飢饉と蝗害によって地獄と化した中原から遠く離れた北東の果て、公孫度が治める遼東半島には、全く別の空気が流れていた。
「殿! またしても中原より、流民の群れが国境を越えてまいりました!」
「ほう、で、今回は何人だ?」
「およそ五千! その中には、洛陽や長安から逃れてきた高名な学者や、元朝廷の官僚たちの姿が多数確認されております!」
報告を聞いた公孫度は、立派な髭を撫でながら、文字通り『嬉しい悲鳴』を上げていた。
「ははははっ! 素晴らしい! これでまた我が遼東の頭脳が豊かになるわ!」
大干ばつも、空を黒く染めた飛蝗の群れも、この冷涼で独自の生態系を持つ遼東半島までは到達しなかった。
戦火もなく、気候も安定し、食糧も豊富にある。その噂を聞きつけた中原の人々は、地獄から逃れるようにして、大挙してこの北東の辺境へと押し寄せていたのである。
特に公孫度を喜ばせたのは、ただの農民だけでなく、大漢帝国の頭脳とも言うべき『知識人』たちが、己の身と書物だけを頼りに、続々とこの地に亡命してきたことであった。
「曹操も袁術も、己の領土を広げることばかりに
公孫度は、彼ら知識人に屋敷と
中原の激動が、皮肉にも辺境の地である遼東に、国家を運営するための極上の「頭脳」を無償で供給する結果となっていたのである。
そしてこの年、公孫度はただ流民を受け入れるだけではなく、その軍事力をもって強かに領土を拡大していた。
「殿、楽浪郡の太守より、降伏の使者が参りました。我が軍の威容と、豊富な兵糧の前に、戦意を喪失したようです」
「良し! 一滴の血も流さずに済んだな」
遼東半島のさらに東、朝鮮半島の北部に位置する楽浪郡。
ここもまた飢饉の被害を免れた豊かな土地であったが、中央の庇護を失って孤立していた。
公孫度はこの好機を逃さず、圧倒的な物量と軍事力で威圧し、あっさりと自らの手中に収めたのである。
これにより、公孫度の勢力は遼東半島から朝鮮半島の北半分を完全に支配下に置く、巨大な独立国家の様相を呈し始めていた。
しかし、公孫度の視線は、征服した楽浪郡のさらに「南」へと向けられていた。
楽浪郡の南端、大河である
そこには、大漢帝国の領土ではなく、海を越えて半島南部に楔を打ち込んだ異界の勢力——日本国の直轄地(任那鎮守府など)が、静かに、しかし不気味なほどの秩序をもって広がっていたのである。
公孫度は、かつて青州の東端で、公孫瓚と共に「海から来る見えざる怪物」の気配を感じ取り、冷や汗を流した男である。
彼は、己の南に接することとなったこの強大な隣人に対し、いかに対処すべきか、慎重に思考を巡らせた。
「……武力で日本国の領地に手を出すのは、下策中の下策だ。奴らの持つ技術と兵站の底知れなさは、中原の群雄の比ではない」
公孫度は、書斎の机に広げた地図の『漢江』の線を、筆の先でなぞった。
「ならば、敵対するのではなく……。互いの境界を明確にし、利益を共有する『隣国』としての関係を築くべきだ。……大漢の皇帝を通す必要はない。私自身が、遼東の王として、日本の天皇と直接言葉を交わすのだ」
数日後。
漢江の南岸に築かれた日本国の最前線の防衛拠点に、一艘の小舟が白旗を掲げて接近してきた。
「……北の公孫度より、使者だと?」
日本国の地方官は、もたらされた木簡の親書を受け取り、その内容に目を丸くした。
『遼東および半島北部を統べる公孫度が、南の地を治める日本国の統治者に敬意を表し、提案する。
我らは共に、この過酷な飢饉の年を乗り越え、民を安寧に導いている。無用の争いをする理由はどこにもない。
……つきましては。両国の境界である漢江に、互いの技術と資金を出し合い、『巨大な橋』を架けようではないか。
この橋は、互いの不可侵を約する境界の印であると同時に、豊かな物資と知識をやり取りするための、交易の要となろう』
それは、長安の朝廷を完全に無視した、公孫度という一地方軍閥による「日本国への独自の外交打診」であった。
日本国の地方官は、この親書の持つ政治的な意味の重さに、小さく息を呑んだ。
「橋を架ける、か。……表向きは交易と不可侵の提案だが、裏を返せば『我々には橋を架けるだけの技術と資金があり、いつでも川を渡る準備ができるのだぞ』という、公孫度からの牽制もある」
公孫度という男は、中原の群雄のようにただ血の気が多いだけの武将ではない。
彼は日本国の底知れぬ力を正確に恐れ、だからこそ、壁を築いて引き籠もるのではなく、あえて「橋」という物理的な接点を設けることで、互いの腹を探り合い、共存の道を模索しようとしたのである。
「ただちに、この親書を早船で長岡京の大内裏へ送れ! 大王(天皇)様と、大内裏の博士たちに判断を仰ぐのだ!」
中原が飛蝗と飢えの狂気に包まれ、長安の天子が悲壮な決意で虫を咀嚼していた同じ年。
東アジアの北東部においては、飢饉を逃れた遼東の独立王と、天災すらも数字で喰らい尽くす極東のシステム国家が、大河を挟んで「橋」という名の極めて高度な外交的盤上遊戯を、静かに開始しようとしていたのである。