計 6
西暦一九五年、冬の足音が近づく頃。
李傕と郭汜の凄惨な内戦が続く長安を脱出し、険しい
だが、そこには彼らが夢にまで見た「大漢帝国の華やかな中心」の姿は、欠片も残されていなかった。
かつて董卓が火を放ち、灰燼に帰した洛陽の都は、数年の歳月を経て完全に「死の廃墟」と化していた。焼け落ちた宮殿の跡には背丈ほどの雑草が生い茂り、崩れた石畳の路上には、野犬や烏に食い荒らされた流民の白骨死体が無数に転がっている。
「これが……我が大漢の、都だというのか」
ボロボロの衣服を纏った劉協は、荒れ果てた南宮の跡地に立ち尽くし、絶望に唇を噛んだ。
長安を脱出する際につき従っていた数百の官僚や女官たちも、飢えと疲労で完全に極限状態に達していた。
洛陽には、彼らを迎え入れる太守も、備蓄された食糧も一切なかった。焼け残った壁の隙間に身を寄せ合い、冷たい風を凌ぐのが精一杯である。数日が経過すると、禄な食べ物を口にしていない官僚たちは、ついに正気を失い始めた。
そして、皇帝の足元で、大漢帝国の尊厳を決定的に打ち砕く「最悪の事態」が発生する。
「肉だ……肉を寄越せ……!」
「離せ! それは俺が見つけた肉だ!」
夜の闇の中、狂乱した元・高官たちが争う音。
彼らが獣のように奪い合っていたのは、野犬の肉でも、死んだ馬の肉でもない。飢えと寒さで息絶えた、つい昨日まで隣で大義を語り合っていた同僚の官吏の『人肉』であった。
「やめよ……! やめぬか!!」
劉協は涙を流して彼らを止めようとしたが、飢餓という絶対的な暴力の前に、天子の言葉は何の力も持たなかった。
かつて儒教の教えを尊び、礼節を重んじていた大漢の頭脳たちは、もはや理性を失っただの「共喰いをする亡者」へと成り果てていたのである。
洛陽が完全な地獄に飲み込まれようとしていたその時。
北方の河内郡に陣取っていた太守・張楊が、天子の洛陽帰還の報を聞きつけ、決死の覚悟で軍勢と食糧を率いて洛陽へと駆けつけてきた。
「陛下! お労しや! この張楊、遅参いたしましたこと、万死に値いたします!」
張楊は、瓦礫の玉座に座る劉協の前に平伏し、涙を流した。
彼はすぐさま配下の兵を動かし、洛陽の荒れ地に急造の宮殿(といっても、竹と泥を編んだ粗末な小屋に過ぎないが)を拵え、持ち込んだ粟や稗、そして干し肉を皇帝と官僚たちに振る舞った。
張楊の献身により、官僚たちの共喰いは辛くも収まり、洛陽には仮初の平穏が訪れた。
「張楊よ、そなたの忠義、決して忘れぬ」
劉協は、温かい粟の粥を口にしながら、張楊の手を固く握った。
だが、幼き天子の双眸には、冷酷な現実を見据える諦観の色が混じっていた。
(張楊は忠臣だ。だが、彼には中原の覇者たちと渡り合うだけの絶対的な軍事力も、兵站もない。……彼が運んできた食糧が尽きれば、我々はまたあの地獄へ逆戻りする。この平穏は、決して長くは続かない)
劉協の予感は、残酷なまでに正確であった。
天子が洛陽という「舞台」の中央に姿を現した以上、天下の猛獣たちがその極上の獲物を放っておくはずがなかったのである。
数日後の昼下がり。
洛陽の東、
地鳴りのような行軍の足音と共に、幾千もの黒い軍旗が風に翻る。
旗印には『曹』の文字。
兗州の地盤を固め、完全な情報統制の網を敷きながら、中原の誰よりも早く天子の元へ到達すべく強行軍を重ねてきた覇王・曹操の軍勢であった。
「間に合ったか。……天子は私が頂く!」
馬上から洛陽の廃墟を見下ろし、曹操は野心に満ちた笑みを浮かべた。
だが、曹操が自らの完全な勝利を確信した、まさにその直後。
曹操の軍師である荀彧が、血相を変えて馬を走らせてきた。
「明公! 洛陽の南、宛へと続く街道より、所属不明の一軍が猛烈な速度でこちらへ向かってきます! 全軍、完全な騎兵の突撃陣形です!」
「なんだと!? 幽州の公孫瓚か!? いや、情報網は完璧に遮断したはずだ!」
曹操が南の地平線に目を凝らすと、そこには赤土を蹴り立てて迫る、真っ赤な炎のような軍勢の姿があった。
先頭を駆けるのは、常識外れの巨躯を誇る紅の駿馬に跨り、
「……りょ、呂布!? なぜあの獣がここにいる!!」
曹操の顔から、余裕の笑みが完全に消え去った。
江東の孫策が放った「匿名の密書」を受け取り、南陽から一睡もせずに駆け抜けてきた天下無双の飛将・呂布奉先である。
「おおおおおッ!! 陛下ァァ!! この呂布奉先、お迎えに上がりましたぞ!!」
呂布の地鳴りのような咆哮が、洛陽の空気を震わせた。
東から迫る曹操。
南から迫る呂布。
奇しくも、互いの動きを全く予期していなかった両軍は、洛陽の廃墟を挟み込むような形で、同時刻に到着を果たしてしまったのである。
洛陽の郊外で睨み合う、二つの軍勢。
その規模と実態は、誰の目から見ても「極端な非対称」であった。
―――
【兗州牧・曹操軍】
後漢書・演義風の公称:約三十万
(青州兵を中心とする、中原を覆い尽くす天下最大の黒雲)
実際の動員数:約二万
(大飢饉の影響と神速の行軍速度を両立させた限界値。しかし、班稀の完璧な計算によって兵站と装備が完全に整えられた、精鋭中の精鋭部隊)
【飛将・呂布軍】
後漢書・演義風の公称(誇張された軍数):約五万**
(袁術を討ち、南陽・豫州を制圧した天下無双の大軍団)
現実の実数(実際の動員数):約三千
(南陽の備蓄ゼロ状態から、歩兵と輜重部隊を完全に切り捨て、張遼・高順らと共に寝食を忘れて駆けつけた、極限の疲労状態にある并州の純粋騎兵のみ)
―――
軍の規模、兵の疲労度、そして何より背後に連なる「食糧(兵站)の荷馬車」の数。
圧倒的に曹操の軍勢の方が整っており、力強く、そして「豊か」であった。
「曹操殿が来られたぞ!」
「あちらには、班稀殿が取り仕切る莫大な兵糧がある! 助かったのだ!」
洛陽の廃墟からその様子を見ていた官僚たちは、一斉に曹操の陣営へと雪崩を打って駆け出した。彼らは、呂布という「忠義だけで駆けつけてきた男」の姿など目にも入っていなかった。
「ふん。やはり人間は、飯を食わせてくれる者の元へ集まるものだ」
曹操は、擦り寄ってくる官僚たちに粥を振る舞いながら、冷ややかな視線を送った。
だが、ただ一人。大漢の天子である劉協だけは、自らの足で廃墟の前に立ち、東の曹操と南の呂布、両方の陣営に向けて等しく深く頭を下げた。
「曹孟徳。そして呂奉先。……共に、この荒れ果てた洛陽まで私を救いに来てくれたこと、大漢の天子として深く感謝する」
劉協は、兵数の
「へ、陛下……! ありがたきお言葉!」
呂布は、泥だらけの赤兎馬から飛び降り、遠く離れた天子に向かって地に額を擦りつけて感涙した。
しかし、周囲の官僚たちは、劉協のその態度を完全に無視した。
「陛下! 何を仰られますか! 呂布は恩義ある者を次々と殺した裏切りの獣! しかも、あのようなわずかな手勢で、しかも腹を空かせた部隊に我々を守りきれるはずがありませぬ!」
「曹操様こそが、大漢を復興させる唯一の
所詮、人は獣である。
大義名分や純粋な忠義など、空腹の前では何の役にも立たない。食い物があり、より多くの暴力を持つ者に阿り、すがりつくのが、哀しいかな人間の道理であった。
呂布は、地に額を擦りつけたまま、その官僚たちの醜い罵声を黙って聞いていた。
(構わん。他の連中が俺をどう罵ろうと……俺の主である陛下だけは、俺の忠義を分かってくださっている。それだけで、俺がここへ駆けつけた意味はあったのだ)
洛陽を挟み込んだ両軍の睨み合いは、数日に及んだ。
その間に、曹操は圧倒的な物量と食糧の配給によって、長安の官僚たちと張楊を完全に自らの陣営へと取り込み、事実上、献帝の身柄を
「さて、邪魔な野犬を追い払うとするか」
曹操は、自らの優位を完全に確立した上で、洛陽の郊外、両軍が対峙する平原のド真ん中に豪華な天幕を張らせ、呂布との『会談の席』を設けた。
天幕の中央には、極上の美酒と肉が並べられた卓が置かれている。
曹操は上座にどっしりと腰を下ろし、余裕の笑みを浮かべて杯を傾けていた。
そこへ、方天画戟を背負った呂布が、張遼と高順の二人だけを伴って、重い足取りで天幕の中へと入ってきた。
「よく来たな、奉先殿。袁術を討ったその武勇、見事であったぞ。さあ、まずは一杯どうだ」
曹操は、親しげな声で呂布に酒を勧めた。
呂布は無言で卓の前に座り、出された杯を見つめたが、口はつけなかった。
「……単刀直入に言おう、呂布」
曹操は、杯を置き、覇王の冷徹な眼差しで呂布を射抜いた。
「今の貴様に、私と戦うだけの力はない。兵数も、兵站も、そして天子からの信頼も、すでにすべて私の手の中にある。
だが、私は貴様のその『天下無双の武』を高く評価している。……どうだ。これまでの遺恨は水に流し、私に降らぬか?
私に仕えれば、大漢の将軍としての地位も、望むだけの領地も、そして兵たちに腹いっぱい食わせるだけの兵糧も、すべて与えてやろう」
曹操の提示した条件は、破格であった。
呂布がこのまま逆らえば、三千の騎兵ごと完全にすり潰されるのは目に見えている。降伏すれば、彼と部下たちの命は保証され、大漢の正規軍として厚遇される。
軍略的にも、政治的にも、呂布が取るべき道は「曹操への臣従」一択であった。
張遼も高順も、主君の決断を固唾(かたず)を呑んで見守っていた。
だが。
呂布は、曹操の提示した条件の良さなど、全く聞いていなかった。
彼はただ、薄暗い天幕の中で、『曹操の眼』を、じっと見つめ続けていたのである。
(……この眼だ)
呂布の胸の奥で、かつて彼を縛り付けていた鎖の記憶が蘇る。
丁原は、呂布の武力を己の出世のための道具として使い潰そうとした。
董卓は、呂布の武力を己の欲望を守るための番犬として飼い慣らそうとした。
王允は、呂布の武力を政敵を排除するための暗殺の刃として利用した。
そして今、目の前にいる曹操の眼。
天子を保護し、大義名分を語り、大漢の忠臣として振る舞うこの男の瞳の奥には。
(……同じだ。こいつも、丁原や董卓と同じ眼をしている。
こいつは、献帝陛下を敬ってなどいない。大漢を救おうとも思っていない。……ただ、己の野心を満たし、天下を支配するための『極上の道具(玉璽)』として、陛下を利用しようとしているだけだ。
そして、俺のことも、その覇道を切り開くための『都合の良い刃』としてしか見ていない)
呂布は、懐に忍ばせていた、あの長安の凍てつく夜に幼き天子から賜った「焦げた毛皮の外套」を、服の上からそっと撫でた。
『……生きて、私を迎えに来てくれ。奉先』
あの時、涙を流しながらそう言ってくれた少年の瞳だけが。
呂布の人生において、唯一、彼を「道具」ではなく「一人の人間」として頼り、愛してくれた、本物の輝きであった。
「……断る」
呂布の口から出た言葉は、低く、しかし絶対に揺るがぬ岩のような響きを持っていた。
「なんだと?」
曹操の眉が、ピクリと動いた。
「領地も、兵糧も、将軍の地位もいらん」
呂布はゆっくりと立ち上がり、背中の包帯を巻き直した方天画戟を手に取った。
「曹操。貴様は賢い。そして俺よりも遥かに強い軍勢を持っている。……だが、俺は貴様のその『野心に塗れた腐った眼』が気に入らん。
貴様は陛下を道具として見ている。そんな奴の軍門に降り、尻尾を振って生き長らえたところで、俺の魂はまた『空っぽの獣』に逆戻りするだけだ」
呂布は、天幕の入り口に向かって歩き出し、振り返りざまに曹操を鋭く睨みつけた。
「俺の主は、大漢の天子ただ一人。……その天子を私欲で囲い込もうとする貴様は、俺にとって叩き斬るべき『敵』でしかない!」
「……正気か、呂布」
曹操は、怒りよりもむしろ、理解不能なものを見るような冷ややかな声を出した。
「腹を空かせた三千の騎兵で、私の二万の精鋭に正面から挑むというのか。それは武勇ではない、ただの自殺だ。貴様だけでなく、貴様を慕う部下たちまで無駄死にさせる気か」
「死ぬのは俺一人で十分だ。張遼たちには、戦いが始まったらすぐに陣を引いて逃げろと命令してある。……俺はただ、貴様のその傲慢な面に、一矢報いてから死んでやるだけのことよ!」
呂布は天幕を蹴り破り、外で待機していた赤兎馬に飛び乗った。
「聞いたな、曹孟徳! 貴様がどれほど大義名分を語ろうと、この呂布奉先だけは、貴様を『陛下を騙す逆賊』として地の果てまで呪ってやる! さあ、陣に戻って防具を着けろ! 戦の始まりだァァァッ!!」
天を裂くような呂布の咆哮が、洛陽の平原に響き渡った。
「……愚か者め」
天幕に一人残された曹操は、冷めた目で自らの杯の酒を一気にあおり、静かに立ち上がった。
「忠義に目覚めた獣など、戦場では最も扱いやすい
洛陽の郊外、飢餓と瓦礫の都を背にして。
大漢の天子を己の覇道に組み込まんとする『究極の冷徹』と。
ただ一つの純粋な忠義のために、圧倒的な絶望の数へと単騎で挑みかかる『哀しき無双』。
決して交わることのなかった二つの生き様が、ついに血で血を洗う最終決戦の火蓋を、静かに、そして苛烈に切って落とした。
曹操の野心に満ちた誘いを一蹴し、天幕を蹴り破って己の陣へと帰還した呂布奉先。
赤兎馬を駆って洛陽の郊外に敷かれた粗末な自陣に戻ると、そこには見慣れた一つの軍勢が駐留していた。
「……張楊殿か」
洛陽の廃都に天子が帰還したと聞き、己の備蓄をすべて投げ打って食糧を運び込んできた河内郡(かだいぐん)の太守・張楊。
彼とその部下たちは、献帝(けんてい)と官僚たちへの食糧支援を終え、河内へと帰還する途上で、呂布の陣に立ち寄っていたのである。
呂布の視線は、張楊の陣に並べられた「大量の荷車」へと向けられた。
その荷車には、もはや積荷はほとんど残されていなかった。空になった木箱と、わずかな藁だけが風に揺れている。
その空っぽの荷車の群れが、張楊が己の領地の余力をすべて削り、大漢の天子を救うために無私の忠誠を捧げたという事実を、何よりも雄弁に、そして悠然と呂布に語りかけていた。
張楊は、泥だらけの甲冑を脱ぎ捨てて歩いてくる呂布の姿を認めると、静かに歩み寄った。
「……奉先よ。曹操の陣へ出向いていたと聞いた。その顔を見れば、交渉の結果など聞くまでもないな」
張楊と呂布の付き合いは長い。彼らは共に北方の并州の出身であり、かつて丁原の下で共に戦場を駆けた旧知の仲であった。
董卓に降った呂布を世間が裏切り者と罵る中、長安を追われた呂布を河内に匿ってくれたのも、この張楊である。
張楊は、呂布の瞳の奥に燃える「凄絶なまでの死の覚悟」を、一瞬で見抜いていた。
「曹操の奴は、己の野心のために天子を囲い込もうとしている。あいつの眼は、かつて俺を道具として使おうとした連中と全く同じだった」
呂布は、張楊の隣に立ち、東の空を睨みつけながら言った。
「そうか。お前は、もはや迷いはないのだな」
「ああ。俺の主は、長安の凍てつく夜に、俺を『奉先』と呼んでくれた陛下だけだ。……あの逆賊の豚に降るくらいなら、ここで刺し違えて死んだ方がマシだ」
二人の間に、重く、しかしどこか清々しい沈黙が降りた。
「……奉先。お前のその忠義は立派だが、一つだけ妙なことがあるとは思わんか」
張楊は、周囲を見渡し、声を落として言った。
「妙なこと?」
「北の動きだ」
張楊は、自らの顎髭を撫でながら、確信に満ちた声で語り始めた。
「天子様が長安を脱出し、この洛陽に入られた。これほどの歴史的な一大事、天下に轟かぬはずがない。
だが……なぜ、北の幽州にいる劉虞様や公孫瓚が、一切動く気配を見せないのだ? あの大漢の法の番人たる劉虞様が、陛下が洛陽で飢えに苦しんでおられると知って、白馬の騎兵を差し向けないなど、絶対にあり得ない」
呂布はハッとして、張楊の顔を見た。
「つまり……曹操が何かを仕組んだと?」
「大方、曹操の陣営が、北へ向かう情報の流れを物理的に完全に遮断したのだろう」
張楊は、曹操の底知れぬ恐ろしさに身震いするように言った。
「長安からの使者や流民をすべて捕らえ、劉虞様の耳に情報が入るのを意図的に遅らせているのだ。天子を自らの手の中に完全に収める、その既成事実を作り上げるまでの間にな。……連中の情報操作と兵站の計算は、もはや我々のような古い武将の常識が通用する次元にはない」
呂布はギリッと奥歯を噛み締めた。
「おのれ曹操……! どこまでも狡猾で、どこまでも計算ずくか!」
曹操はただの野心家ではない。盤面全体をコントロールし、確実に己の覇道を盤石にするための恐るべき知性と冷酷さを持ち合わせている。
三千の飢えた騎兵だけで、その完璧なシステムを打ち破ることなど、もはや不可能に近い。
「……張楊殿」
己の死が絶対的なものとなったことを改めて悟った呂布は、深く息を吐き出し、旧友に向かって真剣な眼差しを向けた。
「俺はどうなってもいい。だが、俺についてきてくれた張遼や高順、そして俺の妻と娘たちを、この洛陽で曹操の餌食にさせるわけにはいかん。……張楊殿、あんたの河内に、彼らを逃がしてはくれないか」
呂布の頼みに、張楊は苦しげに顔を歪め、首を横に振った。
「奉先。すまん。俺も連れて行ってやりたいが……今の俺の陣には、お前の部下たち三千を養うだけの兵糧は、もう一粒も残っていない。今の空の荷車を見たろう。我が領地の蓄えは、陛下のためにすべて吐き出してしまったのだ」
それは、紛れもない現実であった。
飢饉の只中において、三千の軍勢と家族を養うということは、それだけで一つの国家を傾かせるほどの重い負担となる。
「そう、か……」
呂布が絶望に目を伏せたその時。
「だが、彼らを任せられる『唯一の男』に心当たりがある」
張楊は、懐から筆と木簡を取り出した。
「東の徐州だ。現在、あそこには劉備玄徳という男が劉虞様の後ろ盾を得て徐州牧として赴任している。
あの男は、かつて徐州で曹操が行おうとした大虐殺を、身を挺して止めに入ったという。天下無双の『仁徳』を持つ男だ。劉備ならば、決して曹操に与することなく、お前の家族と部下たちを庇護し、養ってくれるはずだ」
張楊は、スラスラと木簡に推挙の言葉を書き連ねていく。
「それに、曹操が北への情報を遮断し、天子を私物化しようとしているというこの『真実』を、劉備を通じて劉虞様に伝えねばならん。お前の部下たちに、その伝令の役目を担わせるのだ」
「劉備……。かつて虎牢関で、関羽や張飛と共にこの俺と刃を交えた、あの男か」
呂布は、あの時の劉備の真っ直ぐな瞳を思い出し、小さく頷いた。
「張楊殿。恩に着る」
張楊が書き上げた書状をしっかりと受け取り、呂布は深く一礼した。
「奉先。……俺はお前を置いて、河内へ帰る。俺には俺の領民を守る義務があるからな。……許せよ」
張楊は、目を赤くして呂布の肩を強く叩いた。
「気にするな。あんたは俺のような獣とは違う、立派な太守だ。達者でな、張楊殿」
それが、并州の地を共に駆けた二人の旧友の、永遠の今生の別れとなった。
その夜。
呂布は自らの天幕に、張遼と高順、そして妻の厳氏と二人の娘を呼び寄せた。
「……明日の朝、お前たちはこの陣を捨て、東の徐州へ向かえ」
呂布の唐突な命令に、張遼も高順も目を見開いた。
「将軍! いけません、我々も最後まで将軍と共に戦います!」
「陥陣営(かんじんえい)は、一歩も退きませぬぞ!」
しかし、呂布は二人の言葉を強い怒声で遮った。
「黙れ! これは命令だ! お前たちがここで俺と一緒に死んで、一体誰が厳氏と娘たちを守るというのだ!」
呂布は、張楊から託された書状を張遼の胸に押し付けた。
「徐州の劉備を頼れ。そして、曹操の正体と、洛陽の真実を天下に伝えろ。……お前たちは、こんなところで死んでいい命ではない。生きて、いつか大漢を正しい姿に戻すために、その命を使え」
「将軍……っ!」
張遼と高順は、呂布の決死の覚悟と、彼らへの深い愛情を前に、声を上げて男泣きに泣き崩れた。
そして。呂布はゆっくりと、己の妻である厳氏に向き直った。
「……厳氏よ」
かつては己を尻に敷き、厳しい言葉で道を正してくれた妻の顔を見つめ、呂布の瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。
「俺は、本当に不甲斐ない男だった。お前には苦労ばかりかけ、長安では置いて逃げ、そして今度もまた……お前と娘たちを残して、死に場所へ赴こうとしている。……本当に、すまない」
天下無双の鬼神が、床に膝をつき、愛する家族の前で子どものように涙を流して詫びた。
しかし、厳氏は泣き崩れることはなかった。
彼女は、瞳にいっぱいの涙を浮かべながらも、決してそれをこぼすまいと毅然として立ち尽くし、そして、震える手で呂布の頬を優しく包み込んだ。
「……謝らないでください、あなた。
あなたは、ただの獣から、大漢の天子を己の命に代えても守り抜こうとする、誰よりも立派な『本物の忠臣』へと立派に成長なされたのですから」
厳氏は、気高く、美しい微笑みを浮かべた。
「私は、天下無双の飛将であり、大漢の忠臣である呂布奉先の妻であったことを、生涯の誇りといたします。……あなたの残したこの子たちは、私が必ず、立派に育て上げてみせます。どうか、後顧の憂いなく、あなたの『芯』を貫き通してきてください」
「厳氏……! おお、厳氏……!」
呂布は、妻の温かい手を握りしめ、二人の娘を強く強く抱きしめた。
それは、裏切りの獣と呼ばれた男が、人生の最後に見つけた、何よりも尊く、愛おしい『真実の温もり』であった。
翌日の朝。
洛陽の空は、雲一つない、息を呑むほどに蒼く透き通った冬晴れであった。
呂布の三千の軍勢は、張遼と高順に率いられ、厳氏と娘たちを乗せた馬車を守りながら、曹操軍の包囲の隙間を縫うようにして、静かに東の徐州へと向けて出発していった。
呂布は、彼らの姿が見えなくなるまで、丘の上からずっと見送っていた。
「……行ったか。これでいい」
呂布は、方天画戟を深く地面に突き立て、傍らで静かに鼻を鳴らす赤兎馬の首を優しく撫でた。
「残ったのは、俺とお前の『二人』だけだな、赤兎」
ブルルルッ、と赤兎馬が主の言葉に応えるようにいななく。
地鳴りが響き始めた。
洛陽の平原の向こうから、地平線を黒く塗りつぶすような巨大な軍勢が、地を揺るがしながら迫ってくる。
その数、二万。
班稀の計算によって統率され、荀彧の軍略によって隙一つなく布陣された、兗州の覇王・曹操が誇る最強にして無慈悲な軍団である。
先陣の将である夏侯惇や夏侯淵、そして曹仁らが、前線に立ち塞がる「たった一騎」の姿を見て、怪訝な顔をした。
「なんだ? 呂布の軍勢の姿がないぞ。奴一人だけか?」
「怯えて部下たちは逃げ散ったか。所詮はその程度の男よ」
曹操軍の兵士たちの嘲笑と、巨大な殺気が、呂布一人に向かって集束していく。
二万の軍勢が発する圧力は、それだけで人の精神を狂わせるほどの絶望的な重さを持っていた。
『二万 対 一』。
戦いの結果など、火を見るよりも明らかであった。
どんなに天下無双の武将であろうとも、数千の矢を浴び、無数の槍に突かれれば、必ず死ぬ。それは、物理法則という名の絶対の真理である。
呂布は、迫り来る二万の絶望を前にして、静かに天を仰ぎ見た。
いつもよりも高く、果てしなく蒼く透き通った空。
「……綺麗な空だ」
呂布は、自らの死を完全に直感していた。
だが、その心に恐怖は一切なかった。丁原の元にいた頃の出世欲も、董卓の元にいた頃の金と女への執着も、今の彼には微塵も残っていない。
ただ、長安の空の下で彼を待っている、あの孤独な少年の顔だけが、胸の奥で温かく光り輝いていた。
己の命を賭してでも守り抜きたいと願った、絶対的な光。
『……生きて、私を迎えに来てくれ。奉先』
「……陛下。申し訳ありません。どうやら、約束は果たせそうにありません」
呂布は、そっと目を閉じ、小さく謝罪の言葉を呟いた。
だが、すぐに目を見開き、その瞳に「天下無双の鬼神」としての究極の闘志を燃え上がらせた。
「だが! あの逆賊の豚どもに、陛下の御身に指一本触れさせることだけは、俺の命に代えても絶対に阻止してみせる!!」
「行くぞ、赤兎ォッ!!」
呂布が叫び、手綱を引いた瞬間。
赤兎馬は、いまだかつて見せたことのないほどの凄まじい脚力で大地を蹴り上げ、紅の流星のごとく前方に躍り出た。
呂布の巨躯と、赤兎馬の巨躯。戦場を駆け抜け続けた二つの魂が、完全に溶け合い、『人馬一体』の巨大な獣の姿となって具現化する。
「な、なんだあの速度は!?」
曹操軍の先陣が、驚愕の声を上げた。
「放てェッ! 矢を放てェッ!!」
夏侯惇の号令と共に、数千の強弩から一斉に黒い矢の雨が降り注ぐ。
しかし、呂布は速度を一切落とさなかった。
「オオオォォォォッ!!」
咆哮と共に振るわれた方天画戟が、空気を切り裂く竜巻を巻き起こし、降り注ぐ矢の雨を次々と弾き飛ばし、粉砕していく。
そして。
ドンッ!! という凄まじい衝撃音と共に。
たった一騎の紅い流星が、二万の軍勢の分厚い盾の壁(陣形)のド真ん中へと、正面から激突した。
「ぐわああっ!?」
「ひ、ひぃぃっ! 化け物だァッ!!」
激突した瞬間の破壊力は、人間のそれとは次元が違った。
方天画戟が一閃するたびに、十数人の兵士が盾ごと紙屑のように宙に舞い上がり、鮮血が蒼い空へと噴き上がる。赤兎馬の蹄が、曹操軍の兵士たちを容赦なく踏み砕いていく。
「怯むな! 相手はたった一人だ! 取り囲んで槍で突け!」
曹仁が叫び、四方八方から無数の槍が呂布へと突き出される。
だが、死の恐怖を完全に捨て去った呂布の武勇は、まさに神の領域に達していた。
槍の切先が己の甲冑を掠め、肉を切り裂こうとも、彼は一切の痛みを無視して戟を振るい続けた。曹操の中央本陣、ただ一つの絶対的な目標へと向かって、血しぶきを浴びながら猛然と突き進んでいく。
その姿は、凄惨でありながら、息を呑むほどに美しかった。
己のすべての罪と後悔を精算し、ただ一つの忠義のために命を燃やし尽くす、ひとりの不器用な男の究極の証明。
「……呂布奉先」
遠く安全な本陣からその常軌を逸した突撃を見つめていた曹操でさえ、その圧倒的な武の躍動と、死を恐れぬ狂気的なまでの忠義の姿に、思わず言葉を失い、背筋に冷たい戦慄(を覚えた。
二万の軍勢という巨大な黒い海を、たった一筋の紅い軌跡が、真っ二つに切り裂きながら進んでいく。
洛陽の平原は、たった一騎の猛将によって阿鼻叫喚の渦に巻き込まれていた。
「怯むな! 殺せ! 槍を突き出せェッ!!」
夏侯惇が血走った目で叫び、曹操軍の精鋭たちが幾重にも重なって波のように押し寄せる。
だが、呂布奉先の振るう方天画戟は、死地にあってなお、かつてないほどの冴えと破壊力を放っていた。
一閃するごとに十の命が散り、赤兎馬が地を蹴るたびに盾の壁が紙屑のように粉砕される。
しかし、いかに天下無双の鬼神であろうとも、生身の肉体であることに変わりはない。二万という圧倒的な質量の前では、完全に攻撃を躱し切ることなど不可能であった。
ドスッ!
「ぐぅっ……!」
死角から突き出された一本の長槍が、呂布の脇腹の甲冑を貫き、深く肉に食い込んだ。
呂布は痛みに顔を歪めるどころか、獰猛な笑みを浮かべ、その槍の柄を左手で掴み取ると、力任せに引き寄せ、突き出した兵士ごと戟で両断した。
「まだまだァッ!! 曹操の首を獲るまでは、倒れんぞォォォッ!!」
雨あられと降り注ぐ矢が、呂布の肩に、背に、そして腿(もも)に次々と突き刺さる。
乱戦の中で振るわれる刀が、彼の腕を斬り裂き、赤兎馬の美しい紅の馬体を赤黒い鮮血で染め上げていく。
矢傷、槍傷、刀傷。
すでに呂布の体には、常人であれば十度は死んでいるほどの無数の傷が刻まれていた。彼が纏っていた鎧は原型を留めないほどに砕け散り、全身に何十本もの矢が突き刺さったその姿は、まるで血塗られた異形の針鼠のようであった。
それでも、呂布は止まらない。
傷を負えば負うほど、その瞳に宿る闘志は凄絶な光を増し、死兵となった彼が放つ覇気は、周囲の曹操軍の兵士たちを恐怖で後ずさりさせていた。
「ば、化け物だ……!」
「あれだけの傷を負って、なぜまだ戟が振れるのだ!」
彼を突き動かしているのは、もはや肉体の力ではない。
長安の凍てつく夜に誓った、たった一つの純粋な『忠義』という名の、強靭な魂の炎であった。
「……赤兎よ」
呂布は、血を吐きながら、愛馬の首をポンと叩いた。
赤兎馬もまた、無数の矢を浴び、数え切れないほどの槍傷を負っていた。すでにその呼吸は限界を超え、四肢の筋肉はズタズタに引き裂かれている。
「ブルルルォォォッ……!!」
だが、赤兎馬は決して主を振り落とさなかった。主の命の炎が燃え尽きようとしているのを理解したかのように、最後の力を振り絞り、曹操の本陣に向けて最高速の跳躍を見せた。
「呂布ゥゥゥッ!!」
前方に立ち塞がった夏侯淵が、渾身の力を込めて大刀を振り下ろす。
「どけェェェッ!!」
呂布の方天画戟が、それを下からカチ上げる。
凄まじい鋼の衝突音。夏侯淵の腕は痺れ、大刀が宙高く弾き飛ばされた。
その隙を抜け、ついに曹操のいる本陣の数十歩手前まで肉薄した、その瞬間。
ブチィッ……!!
赤兎馬の強靭な心臓が、ついに限界を迎え、破裂音と共に沈黙した。
「ヒィィィン……ッ!」
赤兎馬は、前足を大きく折り曲げ、主を背に乗せたまま、ズザァァァッと大地を削りながら崩れ落ちた。
「赤兎ォッ!!」
呂布は、崩れゆく愛馬から跳躍し、己の足で大地に立った。
だが、その瞬間。彼の全身の筋肉もまた、限界の先へと達し、完全に断裂した。
「がはっ……!!」
大量の血を吐き、呂布は膝から崩れ落ちそうになる。
だが。彼は最後の力を振り絞り、己の肉体よりも重く長い方天画戟の石突きを、洛陽の乾いた大地に深く突き立てた。
その柄を両手で固く握りしめ、体を支える。
「……おお、おおお……」
呂布は、膝をつくことを良しとしなかった。
全身から血を流し、無数の矢を浴び、目はすでに光を失いつつあったが。
彼は戟を杖にして、仁王立ちのまま、曹操の本陣を……いや、その向こうにある長安の空を、しっかりと見据えていた。
「……陛下……」
その言葉を最後に。
天下無双の鬼神、呂布奉先は、息絶えた。
だが、その体は決して地に倒れ伏すことはなかった。
戟を支えに立ち往生を遂げたその姿は、血に塗れ、満身創痍でありながらも、神々しいまでの威厳と誇りに満ちていた。
誰の目から見ても、それは逆賊の最期などではない。大漢の忠臣として、己のすべてを捧げ尽くした『正しく天下無双に相応しい姿』であった。
数万の曹操軍の兵士たちが、誰一人として動けず、その立ち往生した巨躯を前にして、水を打ったように静まり返った。
「……終わったか」
安全な本陣の天幕の前で、曹操は静かに息を吐いた。
その瞳には、かつての恩人を殺した裏切り者への侮蔑はない。己の命を賭して大軍に挑んできた、一人の純粋な武将に対する畏敬の念が、確かに宿っていた。
そして、その曹操の背後。
常に冷徹な数字と計算式だけで物事を測り、兵站の盤面を支配してきた男——班稀が、静かにその光景を見つめていた。
班稀にとって、呂布の行動は「極まりない愚行」であった。
勝率ゼロの戦い。自軍の崩壊。兵站の無視。数式に当てはめれば、これほど無価値で無意味な死はない。
(だが……)
班稀は、懐から竹簡と筆を取り出した。
彼が記すのは、曹操軍の公式な記録(史書)の原案となるものである。
本来であれば、曹操の覇道を正当化するため、ここに散った男のことは『己の欲望のために天子を奪おうとし、曹操様の正義の刃によって討たれた逆賊の獣』と書き記すのが、政治的な「最適解」であった。
しかし、班稀は、戟を突き立てて立ち往生するあの男の姿を見て、己の中の「計算式」が完全に機能不全を起こしているのを感じていた。
いかなる論理も、いかなる数字も、あの男が最期に見せた気高い魂の輝きを、否定することはできなかったのだ。
「……数字では測れぬ『真理』が、確かにこの世には存在するということか……。」
班稀は、誰に聞こえるでもなく小さく呟くと、墨を含ませた筆を竹簡の上に滑らせた。
そこには、彼という冷血な算術士には似つかわしくない、しかし、歴史の真実を永遠に刻み込むための一文が、極めて力強い筆致で書き連ねられた。
『建安の初め。洛陽の平原において、天下無双の将、力尽きて地に伏す』
班稀は、筆を一度止め、立ち往生する呂布の姿をもう一度その目に焼き付けると、最後の一行をきっぱりと書き上げた。
『真の忠臣・呂布はこの洛陽にて眠る』
裏切りの獣と天下から蔑(さげす)まれた男は、その人生の最期の瞬間に、ただ一つの絶対的な忠義を貫き通し、洛陽の荒野に静かに眠りについたのである。