四國志   作:丸亀導師

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計 終

 

西暦一九五年、冬。

 

洛陽の荒野に、たった一騎で二万の軍勢に立ち向かう紅い流星を残し。張遼と高順に護衛された馬車は、乾いた土埃を上げながら、一路、東の徐州へと走り続けていた。

 

車内には、静寂だけが支配していた。

天下無双の飛将・呂布奉先の正妻である厳氏は、一切の涙を流すことなく、ただ毅然として前を見据えている。

そして、その母の隣で、まだ幼い妹の肩を抱き寄せながら、じっと揺れに耐えている一人の少女がいた。

 

呂布の長女である。

この年、数えで十三、四歳(現代の満年齢で十二〜十三歳頃)。

大漢の時代において、この年齢の少女はすでに子供ではない。やがて(こうがい)を挿し、成人の仲間入りを果たす、自我と観察眼をしっかりと備えた一人の女性であった。

 

(……お父様)

 

少女は、ガタガタと揺れる車窓から、遠ざかる西の空……洛陽のある方角を見つめていた。

彼女の胸の中には、世間が語る「裏切りの獣」という恐ろしい風聞とは全く違う、この数年間で劇的に変化していった『父・呂布奉先』の真実の姿が、鮮烈な記憶として焼き付いていた。

 

少女が物心ついた頃。父の姿は、ひたすらに『巨大で、恐ろしいもの』であった。

并州(へいしゅう)から洛陽、そして長安へと移り住む中で、父は丁原を殺し、董卓の養子となり、凄まじい立身出世を遂げていった。

 

当時の父が屋敷に帰ってくる時、その体からは常に「むせ返るような血の匂い」と、董卓から与えられた「俗悪な香や強い酒の匂い」が混ざり合って漂っていた。

 

『ほら、お前たちに土産だ。西域の絹と、黄金の細工物だぞ。喜べ』

 

父は、笑いながら宝物を放り投げてよこした。

だが、幼かった少女は、その父の笑顔がどこか空虚で、無理をしているように見えて恐ろしかった。

 

世間の人々が、父の後ろ指を指して「裏切りの獣」「恩知らずの狼」と囁き合っているのを、少女は知っていた。屋敷の使用人たちでさえ、父の機嫌を損ねて殺されることを恐れ、常に震えていた。

 

父の掌は、少女の顔をすっぽりと覆い隠してしまうほどに巨大で、分厚いタコだらけだった。

 

その手で頭を撫でられるたび、少女は

 

(いつか、この手で自分たちも殺されるのではないか)

 

という、得体の知れない恐怖を心の底に抱いていたのである。

 

そして、長安での李傕の反乱の夜。

燃え盛る都の混乱の中、父は自分たち家族を置いて、単騎で長安から逃亡した。

 

(ああ、やはりお父様は、自分の命が一番惜しいのだ。私たちは、捨てられたのだ)

 

その時、少女の中で『恐怖の対象』であった父は、『軽蔑の対象』へと変わろうとしていた。

 

しかし、その冷え切った認識は、河内郡の陣営で奇跡的な再会を果たした日に、完全に打ち砕かれることとなる。

 

『すまん……! 本当に、すまなかった!』

 

少女の目の前で。

天下の誰もが震え上がる無双の鬼神が、泥だらけの床に額を擦りつけ、母の厳氏に向かって、丸太のような巨体をちぢこまらせて必死に土下座をしていたのである。

 

『自分が悪いのに、部下に八つ当たりするんじゃありません!』

 

『ひぃっ! す、すまん……!』

 

母の鋭い叱責に、ビクッと肩を震わせる父。

その情けなくも滑稽な姿を見た瞬間。少女の心の中にあった「恐ろしい獣」の虚像は、音を立てて崩れ去った。

 

(……なんだ。お父様は、ただの『不器用な人』だったんだ)

 

少女は、思わず吹き出しそうになるのを必死に堪えた。

父は、冷酷な獣などではなかった。どうやって家族に愛情を表現すればいいのか分からず、董卓から与えられた金や絹を与えることでしか、父親としての役割を果たせなかっただけの、あまりにも人間臭く、社会性に欠けた男だったのだ。

 

長安で自分たちを置いて逃げたのも、見捨てたわけではない。ただ、その時の彼の頭の容量では「己が生き延びること」と「家族を守ること」を同時に計算することができなかっただけなのだと、少女は理屈ではなく直感で理解した。

 

そして、河内での再会以降、父の放つ『匂い』と『背中』は、決定的に変わり始めた。

 

『俺には、命に代えても守らねばならぬ御方がいるのだ』

 

ある夜、父は、大切そうに一枚の「焦げた毛皮の外套」を広げて見せた。

 

長安の凍てつく夜に、幼き天子(献帝)から赐ったというそのボロボロの外套に触れる父の指先は、かつて方天画戟を握りしめ、あるいは黄金の細工物を掴んでいた時の荒々しさとは無縁の、まるで壊れ物を扱うような『優しさ』に満ちていた。

 

南陽や豫州の地で、父はかつてのように贅沢をしようとはしなかった。

 

『兵たちと同じ苦しみを味わうのです』

 

という母の言葉に素直に従い、まずい粟や稗の粥を、大きな体を丸めて黙々と啜るようになった。

血と酒の匂いは消え、代わりに、泥と汗と、そして粗末な穀物の匂いがするようになった。

 

(でも……今のお父様の背中の方が、ずっと大きくて、格好いい)

 

少女の目から見て、この数年間の父の姿は、まるで『迷子が、ようやく自分の帰るべき家を見つけた』かのような、純粋な安定感に満ちていた。

 

天下の諸侯が「呂布は袁術の領地を奪った狼だ」とどれほど罵ろうとも。

少女には分かっていた。父は私欲で動いているのではない。ただ一つ、あの焦げた外套をくれた少年皇帝との約束を果たすためだけに、その強大な武力を『大義』という名の鞘に納める術を学んだのだ、と。

 

無軌道な獣から、確固たる主君を持った『本物の武将』へ。

十三歳という多感な少女の瞳は、父・呂布奉先という人間が、生涯で最も美しく、最も気高く成長していくその瞬間を、誰よりも間近で、鮮明に見届けていたのである。

 

そして、昨夜。

 

洛陽の陣で、父は自分たちを逃がす決断を下した。

それは、かつて長安で自分だけが逃げた時とは全く逆の。「自分が死地に残り、愛する家族と部下を逃がす」という、大いなる自己犠牲の決断であった。

 

『……生きて、いつか大漢を正しい姿に戻すために、その命を使え』

 

父のその言葉は、張遼たちだけでなく、背後で聞いていた少女の心にも深く突き刺さった。

 

別れの間際。

 

父は、少女とその妹の前に跪き、その巨大な両腕で、二人を強く、強く抱きしめた。

かつては恐ろしかった、分厚いタコだらけの巨大な掌。

しかし、背中を包み込むその手は、凍えるような洛陽の夜にあって、何よりも温かく、そして震えていた。

 

(お父様は、死ぬ気なのだ)

 

少女は、その腕の力強さから、父の『絶対の死の覚悟』を悟った。

だが、少女は泣かなかった。

母が気高く微笑んで父を送り出したのと同じように。彼女もまた、父のその覚悟を、涙で汚してはならないと本能で理解していたからだ。

 

『お父様』

 

少女は、抱きしめられながら、父の分厚い胸当てに顔を埋めて、小さな、しかしはっきりとした声で告げた。

 

『私は、大漢の忠臣である呂布奉先の娘であることを、何よりも誇りに思います。……どうか、お父様の道を、貫いてください』

 

その言葉を聞いた瞬間、父の腕の力が、一瞬だけ微かに強くなり、そして、嗚咽を堪えるような震えが伝わってきたのを、少女は生涯忘れることはないだろう。

 

「……お姉様?」

 

腕の中で眠っていた妹が、目を覚まして少女の顔を見上げた。

 

「なんでもないわ。……さあ、もう少しで徐州よ」

 

少女は、妹の頭を優しく撫で、そして隣に座る母・厳氏と視線を交わした。母の瞳の奥にも、同じ誇りの光が揺らめいている。

世間の歴史書たちは、きっと父のことを「二万の大軍にたった一騎で無謀な突撃を仕掛け、命を散らした哀れで愚かな男」と書き記すかもしれない。

あるいは、最後の最後まで「裏切りの末に自滅した獣」と嘲笑するかもしれない。

 

(でも、構わない)

 

少女は、車窓から西の空を仰ぎ見た。

あの高く、蒼く透き通った空の下で。父はきっと今頃、誰よりも雄々しく、誰よりも純粋な一人の武将として、己の武勇を天下に轟かせ、散っていったはずだ。

 

(私は知っている。お父様が、本当は誰よりも不器用で、誰よりも家族を愛し、そして誰よりも真っ直ぐに忠義を貫いた、最高の『人間』であったことを)

 

馬車は、冷たい冬の風を切り裂いて東へと進む。

十三歳の少女の瞳から、ついに一筋の涙がこぼれ落ちた。しかし、それは絶望の涙ではない。

 

天下無双の鬼神が命を懸けて守り抜き、この世に残した『気高き誇り(血)』を、これからの苛烈な乱世において、絶対に絶やさずに生き抜いてみせるという、大いなる決意の涙であった。

 

 

 

同じ頃

 

 

 

 

兗州の覇王・曹操による情報遮断の網は、極めて強固であった。

長安を脱出した献帝の行方も、洛陽の荒野で繰り広げられた激闘も、そして天下無双の飛将・呂布がたった一騎で二万の大軍に挑み、立ち往生を遂げたという歴史的悲劇も。徐州の地を治める劉備玄徳の耳には、いまだ一切届いていなかった。

 

だからこそ。

徐州の国境を守備していた哨戒部隊が、西の街道から猛烈な土埃を上げて迫り来る「所属不明の騎兵集団」を発見した時、彼らが感じたのは純粋な『恐怖と警戒』であった。

 

「……間違いない! 掲げられた旗印は『呂』! あの天下無双の裏切り者、呂布奉先の軍勢だ!」

 

「数は約三千! なぜ南陽にいるはずの猛獣が、この徐州へと向かってきているのだ!?」

 

早馬が次々と飛ばされ、徐州の庁舎に激震が走った。

劉備は直ちに義弟である関羽と張飛に命じ、徐州の西の境界に強固な防衛線を敷かせた。

 

無理からぬことであった。

 

劉備は、曹操の虐殺から徐州の民を救い、飢饉と蝗害に苦しむこの土地を、己の『仁徳』一つで必死にまとめ上げようとしている最中である。少ない備蓄を切り詰め、なんとか冬を越そうとしているこのデリケートな時期に、天下で最も危険で、いつ裏切るか分からない「飢えた狼の群れ」を、無条件で領内に入れるわけにはいかなかった。

 

「兄者、どういうことだ! 呂布の野郎、徐州の飯を奪いに来やがったのか!」

 

張飛が、丈八蛇矛を握りしめながら怒声を上げる。

 

「落ち着け、益徳。だが……確かに妙だ。事前の使者もなければ、いかなる要求も届いておらん。まるで、何かに追われるようにして東へ逃げてきたかのような……」

 

関羽は、美しい髭を撫でながら、前方に迫る土埃を鋭い眼光で睨みつけ。

 

徐州軍の防衛線は、極めて『非情』な陣形をとっていた。

数重にも並べられた大盾の壁。その後ろには、数千の強弩(きょうど)がギリギリと弦を引き絞られ、いつでも雨あられと矢を放てる態勢が整えられている。

 

相手が天下無双の呂布軍であろうとも、一歩でも徐州の地に無断で足を踏み入れれば、問答無用で射殺す。それだけの強烈な拒絶の意志が、劉備軍の陣形には込められていた。

 

嘘か誠か、事の真相は分からない。しかし、外から見れば、呂布という危険人物の軍勢を黙って通すことは、徐州の数百万の民の命を危険に晒すことと同義だったのである。

 

やがて、徐州軍の防衛線の前に、西から逃れてきた三千の騎兵集団が姿を現した。

 

「……止まれッ!!」

 

先頭を走っていた張遼が右手を高く挙げ、軍の足を止めさせた。

彼らの眼前には、太陽の光を反射してギラギラと光る、徐州軍の無数の矢の切先が向けられている。

 

「ちっ……! 徐州軍め、完全に戦の構えではないか!」

 

高順が、陥陣営の大盾を構え直しながら吐き捨てるように言った。

 

洛陽から駆け通しで逃れてきた并州の騎兵たちは、心身ともに限界を迎えていた。

何より彼らの心を苛んでいたのは、己の命に代えてしんがりを務め、あの蒼穹の下で散っていった主君・呂布を置いてきたという、深すぎる絶望と喪失感である。

 

主を失い、行き場を失った彼らは、まさに牙を折られた狼の群れであった。

 

「将軍は、この徐州の劉備を頼れと仰った……! だが、この厳戒態勢はどういうことだ。我々を招かれざる敵として認識しているぞ!」

 

張遼は、ギリッと奥歯を噛み締めた。

本来であれば、手前に使者を立てて事情を説明するべきであった。しかし、彼らは曹操の追撃を恐れて不眠不休で駆け抜けてきたため、そのような正式な手順を踏む余裕すら無かったのである。

 

「張遼殿! 徐州軍の殺気が膨れ上がっております! このままでは一方的に射たれますぞ!」

 

「ええい、やむを得ん! 我らも武器を取れ! 厳氏様とご息女の乗る馬車だけは、何としてもお守りするのだ!」

 

張遼が腰の剣に手をかけ、高順ら三千の騎兵が、絶望の中で最後の死力を振り絞ろうとした、その時であった。

 

「――お待ちなさい。剣を抜きなさんな」

 

張り詰めた糸のような戦場の空気を切り裂いたのは。

軍勢の中央、土埃にまみれた馬車の中から響いた、ひとりの女性の凛とした声であった。

 

馬車の御簾が上がり、中からゆっくりと姿を現したのは、呂布の正妻である厳氏であった。

彼女は、着飾ることもなく、洛陽の泥と埃に塗れた質素な衣服を身に纏っていたが。その瞳には、かつて洛陽で夫を送り出した時と同じ、決して折れることのない気高き『誇り』の炎が燃え盛っていた。

 

「厳氏様! お下がりください、ここは危険です!」

 

慌てて駆け寄る張遼を、厳氏は静かに手で制した。

 

「ここで私たちが武器を構えれば、劉備軍は容赦なく矢を放つでしょう。……それでは、あの人が何のために二万の軍勢の前に独り立ち塞がり、命を散らしたのか。その意味が全て無駄になってしまいます」

 

厳氏のその言葉に、張遼も高順も、ハッとして息を呑み、己の剣を握る手を止めた。

 

「張遼殿、高順殿」

 

厳氏は、懐から一通の木簡――河内の張楊から託された、劉備宛ての書状――を取り出し、両手でしっかりと抱え込んだ。

 

「あなたたち二人は、私と共に馬を降り、前へ出なさい。……これより、私が自ら先頭に立ち、劉備殿と直接お話をいたします。あなたたちは、私の両脇を固めなさい」

 

「な、なんと……!?」

 

張遼は己の耳を疑った。

 

「厳氏様! それはあまりにも危険すぎます! ましてや、女人が戦場の最前線に立ち、男がその後ろに控えるなど……大漢の礼法においても、前代未聞の異常事態。徐州軍がどう出るか分かりませぬ!」

 

儒教の教えが根強く残るこの時代において。軍事の交渉事の矢面に女性が立つなどということは、常識では絶対にあり得ない事であった。それはある種の侮辱と受け取られかねない行為ですらある。

 

しかし、厳氏の決意は岩のように微動だにしなかった。

 

「異常事態だからこそ、私が立つのです」

 

厳氏は、前方に並ぶ無数の矢の壁を見据え、真っ直ぐな声で言った。

 

「将のいない軍勢が、武装したまま境界に押し入れば、敵と見なされて当然。……ですが、未亡人となった女が、武器を持たずに書状を掲げて歩み出れば、あの『仁徳』で知られる劉備殿が、問答無用で矢を放つはずがありません。

それに……あの人の最期の想いを届けるのは、他でもない、妻である私の役目です」

 

その圧倒的なまでの覚悟を前にして、張遼と高順は、深く、深く頭を下げた。

 

「……御意。この命に代えましても、お供つかまつります」

 

徐州軍の陣営では、関羽と張飛が、前方の呂布軍の奇妙な動きに眉をひそめていた。

 

「おい、どういうことだ。あいつら、馬を降りたぞ」

 

張飛が目を丸くする。

徐州軍の弓兵たちが弦を引き絞る中。

三千の并州騎兵の群れの中から、三人の人影が、一切の武器を持たずに、ゆっくりと歩み出てきたのである。

 

「……なんだ、あれは」

 

関羽は、その光景を見て絶句した。

歩み出てきたのは、二人の屈強な武将――張遼と高順であった。

しかし、大漢帝国のいかなる戦の常識にも反して。

その二人の猛将は、まるで従者のように左右に一歩下がり、中央を歩く『ひとりの女性』を、恭しく護衛していたのである。

 

女性が先頭に立ち、男たちがその両脇を固める。

 

男尊女卑と礼法が支配するこの時代において、それはあまりにも異様で、あまりにも稀な、目を疑うような光景であった。

 

「女だと……? なぜ、戦場のド真ん中に女が出てくる!」

 

徐州軍の兵士たちの間に、どよめきと困惑が広がっていく。向けられていた無数の矢の切先が、そのあまりにも堂々とした女性の歩みに圧され、わずかに揺らぎ始めていた。

厳氏は、己に向けられた数千の殺気と弓矢の前を、ただの一度も歩みを止めることなく、毅然と進み続けた。

 

彼女の背中には、天下無双の夫から受け継いだ『誇り』が宿っている。死を恐れぬその気高さは、左右を固める張遼や高順の放つ武気すらも凌駕するほどの、圧倒的な威厳を放っていた。

 

やがて、矢の届く距離のギリギリの場所で立ち止まると。

厳氏は、徐州の陣営に向かって、静かに、しかし戦場全体に響き渡るような、透明で力強い声を張り上げた。

 

「私は、大漢の将軍・呂布奉先が妻、厳氏と申します!!」

 

その名乗りに、徐州軍は再び大きくどよめいた。呂布の妻が、なぜこのような最前線にいるのか。呂布本人はどうしたのか。

 

「我が夫、呂布奉先は……洛陽の地において、大漢の天子様を曹操の野心からお守りするため、たった一騎で二万の大軍に挑み、誇り高く散りました!!」

 

「な……っ!?」

 

関羽の目が、驚愕に見開かれた。

 

「ここにいる三千の兵は、夫が死の直前に『生きて大漢を正せ』と逃がした、遺された者たちにございます! 決して、徐州を侵すために参ったのではありません!

この手に持つは、河内の太守・張楊殿より、徐州牧・劉備殿へ宛てた書状! どうか、天下の仁徳と名高い劉備殿に、直接お目通りを願いたく存じます!!」

 

厳氏の言葉は、徐州軍の陣営に強烈な衝撃を与えた。

天下の裏切り者と呼ばれた呂布が、天子を守るために曹操と戦って死んだだと? しかも、その部下と未亡人が、劉備を頼って逃げてきたというのか。

 

情報が完全に遮断されていた徐州において、それはあまりにも突拍子もなく、にわかには信じがたい事実であった。

 

「兄者、罠かもしれねェぞ! 呂布の軍勢が、女を盾にして同情を引き、我らの隙を突こうって腹算用じゃねェのか!」

 

張飛が、油断なく蛇矛を構え直した。

関羽もまた、美しい眉を険しくひそめる。

 

「確かに、にわかには信じがたい話だ。だが……あの女の眼。そして、両脇を固める二人の将の、あの悲壮なまでの覚悟の気迫。……あれは、決して策を弄する者の姿ではない」

 

関羽の武人としての本能が、彼らの言葉が「真実」であることを告げていた。

どう対処すべきか、徐州軍の将兵たちが判断を保留し、沈黙が戦場を支配したその時。

 

「……弓を下ろせ」

 

静かに、しかし有無を言わせぬ絶対的な響きを持った声が、徐州軍の背後から掛けられた。

 

「兄者!」

 

「劉備様!」

 

徐州軍の分厚い盾の壁が、モーセの海のように左右に割れる。

その奥から、粗末な布の服を纏った一人の男が、いかなる護衛もつけず、ゆっくりと歩み出てきた。

大漢の皇叔(こうしゅく)にして、天下に王道を示す男。

 

劉備玄徳である。

 

「兄者! いけねェ、不用意に近づけば、あの両脇の猛将に首を獲られちまう!」

 

張飛が慌てて引き留めようとするが、劉備はそれを手で制した。

 

「益徳、よく見ろ。彼らは武器の柄から完全に手を離している。それに……あのような気高き覚悟を持った女性を、矢を向けたまま冷遇するなど、人として決してあってはならないことだ」

 

劉備は、自軍の陣形を完全に抜け出し、非武装のまま、厳氏たちの前へと歩み寄った。

女が先頭に立ち、男たちが脇を固めるという異様な光景。

 

しかし、劉備の瞳に映っていたのは、常識からの逸脱に対する嫌悪感などではなく。愛する夫の魂を絶やさぬために、命を懸けて戦場の最前線に立った一人の人間の、底知れぬ『強さと美しさ』に対する、純粋な敬意であった。

 

「……お待ちしておりました、呂布殿の奥方様」

 

劉備は、厳氏からわずかに数歩離れた場所で立ち止まると、両手を前で合わせ、深く、丁寧な一礼をした。

 

「私が、徐州牧・劉備玄徳にございます。……夫君の最期の御覚悟、そして、この徐州へと向かわれた皆様の真なる目的。この劉備が、しかと直接、お伺いいたしましょう」

 

曹操の謀略によって完全に情報が遮断された徐州の境界線において。

天下無双の鬼神の遺志を継いだ『未亡人』と、天下の仁徳を背負う『王道の主』。常識を打ち破る異例の邂逅が、中原の次なる巨大なうねりを生み出すための、運命の扉を静かに押し開いたのである。

 

 

西暦一九六年、春。

凄惨な共喰いが行われていた瓦礫の都・洛陽は、兗州の覇王・曹操の圧倒的な軍事力と、潤沢な兵糧によって、完全な「曹操の支配下」に置かれた。

 

呂布という最後の障害を物理的に粉砕した曹操は、もはや誰に気兼ねすることもなく、大漢の天子たる献帝を自らの庇護下へと収めた。

 

「……陛下。この洛陽は、もはや人が住むに堪えぬ廃墟にございます。防衛もままならず、百官を養うも生み出せませぬ」

 

曹操は、急造の天幕の中で、献帝に対して恭しく、しかし絶対的な圧力をもって進言した。

 

「我が領地である『許』の地は、干ばつや蝗害を乗り越え、豊かな屯田によって莫大な兵糧を蓄えております。どうか、速やかに我が勢力圏へと『遷都』なさいませ。この曹孟徳が、全霊をもって大漢の朝廷をお守りいたします」

 

それは、進言という名の「決定事項」であった。

周囲の官僚たちは、曹操の配給する麦粥に完全に胃袋を握られており、誰一人として異を唱える者はいない。献帝・劉協もまた、無言で頷くことしかできなかった。

 

洛陽の郊外で、たった一騎で二万の軍勢に立ち向かい、命を散らしたあの不器用な鬼神の姿を思い出しながら。天子は己の無力さを噛み締め、曹操の用意した豪奢な馬車へと乗り込んだ。

 

かくして。

 

大漢の朝廷は、曹操の絶対的な勢力圏である許(許昌)へと丸ごと移転した。

これにより曹操は、「天子を擁し、大義名分をもって天下に号令する」という、中原における『絶対的な政治的優位性』を完全に確立したのである。

 

 

 

一方、時を同じくして。

北方の幽州を治め、大漢の法の番人を自認する老将・劉虞の元に、徐州牧・劉備からの緊急の急使が駆け込んでいた。

 

「……なんだと? 呂布の妻が、徐州へ逃れてきただと?」

 

幽州の庁舎で、届けられた書状と報告を読み上げた劉虞は、己の目を疑った。

そこには、情報が完全に遮断されていた洛陽の真実が、赤裸々に記されていた。

 

李傕の反乱。長安からの天子の脱出。 

 

それを誰よりも早く察知し、情報網を遮断して洛陽へ急行した曹操の暗躍。

 

そして……あの天下の裏切り者と呼ばれた呂布奉先が、天子を曹操の野心から守るためだけに、単騎で二万の軍勢に特攻し、立ち往生を遂げたという信じがたい顛末。

 

徐州の劉備は、呂布の妻・厳氏と、河内太守・張楊からの書状を通じてこれらの事態を把握し、激しい義憤に駆られて劉虞へと報告してきたのである。

 

『劉虞様。曹操の野心は明白です。彼は天子様を己の道具とするため、意図的に北への情報を遮断し、我が徐州へも偽りの書状を送って目を欺きました。……今こそ、幽州と徐州の軍を合わせ、曹操を討ち、天子様を真の忠臣の手に取り戻すべきです!』

 

血を吐くような劉備の訴えであった。

通常であれば、漢室の正統を何よりも重んじる劉虞は、この曹操の「帝の私物化」と「姑息な情報統制」に対して激怒し、直ちに公孫瓚の精鋭騎兵を南下させていたはずであった。

 

しかし。

 

書状を持った手は微かに震え、劉虞の老いた顔には『深い迷い』の影が落ちていた。

 

「……劉備の言う通り、直ちに曹操討伐の軍を起こすべきか? いや、待て」

 

劉虞は、書状を卓の上に置き、重い溜息をついた。

彼の冷静すぎる、あるいは慎重すぎる頭脳が、この事態における『善悪の判断』を躊躇させていたのである。

劉虞の心には、いくつもの「恐ろしい疑念」が渦巻いていた。

 

第一の疑念。

 

「曹操は、本当に情報を『意図的』に遮断したのか?」

 

確かに、劉虞の元には洛陽の凶報が届かなかった。しかし、それは中原が飢饉と戦乱で大混乱に陥っていたからではないのか? 偶然、使者が野盗に襲われたり、飢えで倒れたりしただけではないのか? 曹操が意図的に天下の耳目を塞ぐなどという、神懸かった謀略が、果たして一個人に可能なのだろうか?

 

 

第二の疑念。

 

「呂布の妻の言葉は、本当に真実か?」

 

天下の誰もが知る「裏切りの獣」呂布。その妻や残党たちが、保身のために自分たちを美化し、曹操を悪者に仕立て上げるための『嘘』をついているのではないか? そもそも、呂布が己の命を捨てて天子を守るなどという美談自体が、あまりにも不自然ではないか。

 

 

そして最大の懸念。

 

もし曹操が本当に大漢の忠臣として振る舞い、天子もそれに納得している(ように外からは見える)状態の中で。自分が「呂布の妻の証言」だけを鵜呑みにして曹操を攻撃すれば。

それはすなわち、『幽州の劉虞が、天子のいる朝廷(曹操)に対して弓を引いた』という、最悪の構図に陥ってしまう危険性があったのだ。

 

「……判断できん。曹操が真の逆賊なのか、それとも呂布の残党が劉備を騙しているのか。私の審眼は、今、完全に曇ってしまっている」

 

そして、劉虞の決断を決定的に鈍らせ、彼を幽州の地に釘付けにしている『最大の要因』が、もう一つ存在した。

 

「殿! またしても、東の遼東方面へ、莫大な鉄と木材を積んだ商人の一団が国境を越えていきました!」

 

報告を聞くたびに、劉虞の胃の腑が重く沈み込む。

東の果てで自立を宣言した公孫度の『燕』。そして、彼らが海の向こうの異世界と共同で進めているという、正体不明の何か。

 

連日、幽州の横をすり抜けていく莫大な物資と難民の波は、もはや一地方軍閥の活動規模を遥かに超えていた。

劉虞の鋭い政治的嗅覚は、東の国境に「巨大な怪物が産声を上げようとしている」ことを正確に捉えていたのである。

 

(……もし今、私が曹操を討つために、公孫瓚の主力部隊を南へ向かわせれば。我が幽州の東側の防備は完全に手薄になる)

 

劉虞は、中原の地図の『許』と、東の『帯方郡』の二つの点を交互に見つめた。

 

(その隙を突いて、公孫度……いや、背後にいる『日本国』という未知の勢力が、莫大な物量をもって幽州へ牙を剥いてきたら、どうなる? 我々は、南と東から挟み撃ちにされ、完全に滅亡するのではないか?)

 

未知なる物流の動きへの恐怖が、老将の足を完全にすくませた。

結局、劉虞が下した結論は、為政者が迷った時に陥る最も典型的な悪手――『様子見(現状維持)』であった。

 

「……劉備には、こう伝えよ。

『事の真偽を見極めるには、あまりにも不確定な要素が多すぎる。天子がご無事である以上、みだりに軍を動かすことは、かえって天下の混乱を招く。今は各々、己の領地の守りを固め、時が来るのを待つべし』と」

 

これこそが、曹操の思惑の「完全なる勝利」であった。

情報統制によって時間を稼ぎ、さらには東方の異次元の物流がもたらす『違和感』すらも副次的な抑止力として働き、北の最大軍閥である劉虞を、見事に幽州の地に縛り付けたのである。

 

孤立した徐州の劉備は、呂布の残党を抱えたまま、巨大化していく曹操の覇権の隣で、息を潜めることしかできなくなってしまった。

 

 

―――

 

中原の群雄たちが、疑心暗鬼と情報の波に翻弄され、膠着状態に陥っていた頃。

彼らの運命を嘲笑うかのように、はるか東方の極東の境界線において、歴史的な巨大建造物がついにその全貌を現していた。

 

「……見事だ。これこそが、人間の知恵と技術の結晶よ」

 

朝鮮半島の中心を東西に流れる大河・漢江。その川幅二町六丁半(約2.5キロメートル)という絶望的な距離を、一本の巨大な『橋』が完全に結びつけていた。

 

『漢江大橋』の落成式である。

 

川の中央には、日本の最新技術である『混凝土』と割れ瓦によって築かれた強固な人工中洲(橋脚)がそびえ立ち、そこを中継地点として、大漢の誇る数百艘の木造船が太い鎖で繋がれた『舟橋』が、水面に美しい弧を描いて連なっている。

 

北岸の帯方郡には、分厚い版で築かれた「燕の北城」が睨みを効かせ、南岸の鎮守府には、水流を味方につけた入り組んだ「日本の水城」が威容を誇っている。

 

橋の中央、ちょうど両国の国境線となる人工中洲の広場において。

 

燕の君主である公孫度の名代として派遣された高官と、日本国の大内裏から派遣された官僚(外交使節)が、互いに恭しく一礼を交わした。

 

「我が燕の建国と、貴国との友好の証。ここに完成したこと、大いなる喜びに存ずる」

 

「我が日本国も、大陸の深き知恵と技術に深く敬意を表します。この橋が、千年にわたり両国に富をもたらすことを願いましょう」

 

表向きは、交易と不可侵を誓い合う、極めて友好的な落成の儀式であった。

橋の上を、さっそく燕からの鉄や毛皮を積んだ荷車と、日本からの海産物や精巧な工芸品を積んだ荷車が、すれ違いながら行き交い始める。莫大な経済の血流が、この巨大な動脈を通じて、東アジアの南北を循環し始めたのである。

 

しかし。

 

両国の代表の瞳の奥には、決して気を許さない『冷徹な計算』が潜んでいた。

 

(この橋が完成したということは……いつでも、我々の騎兵を南の日本国の領地へ直接雪崩れ込ませることができるということだ)

 

と、燕の高官は北城の城壁を見上げる。

 

(逆に言えば、我々日本国の精鋭部隊が、船に頼ることなく、いつでも陸路で大陸の喉元へ刃を突きつけられるということでもある)

 

と、日本の官僚は水城の堀を見つめる。

 

互いに、互いの陣地へ大軍を送り込む「道」を自らの手で作り上げたのだ。

牽制し合い、相手の出方を窺いながら。しかし、隣国としての莫大な経済的利益を手放すことはできず、決して武力衝突には発展させない『一定の距離感』を保ち続ける。

中原の群雄たちが「領土を奪うため」に血を流し合っている裏側で。

 

極東の燕と日本国は、「互いの利益を最大化するため」に、技術と経済による極めて高度な『盤上遊戯』の段階へと、すでに移行を完了させていた。

 

 

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