流転
西暦一九六年から一九八年にかけて。
長安の崩壊と献帝の許への遷都という、大漢帝国の根幹を揺るがす歴史的激震が走り抜けた後の中原は、まるで巨大な台風の目に入り込んだかのように、不気味なほどの静寂に包まれていた。
もちろん、中華の全土から完全に戦火が消え去ったわけではない。長江の南では孫策が江東の平定に向けて猛威を振るい、中原の辺境では行き場を失った小勢力や賊徒たちが、生き残りを賭けた小競り合いを繰り返していた。
しかし、中華の心臓部たる中原を睨み合う三大勢力——新帝都・許を本拠とする曹操、徐州を治める劉備、そして北方の幽州に君臨する老将・劉虞の支配する境界線においては、大規模な軍事衝突は一切起こらなかったのである。
「……動くな。今はまだ、その時ではない」
曹操は、血気にはやる配下の将たちを厳しく制し、軍を自領の防衛と内政のみに専念させていた。
これは決して、曹操が戦いを恐れたわけではない。北方に座す大漢の法の番人・劉虞という「巨大な重石」を前にして、曹操が極めて冷徹に『時を待っていた』からに他ならない。
下手に徐州の劉備へ手を出せば、劉備を庇護する劉虞が「朝敵討伐」の軍を南下させる口実を与えてしまう。公孫瓚の率いる白馬義従をはじめとする北方の精鋭騎兵は、いかに曹操軍といえども正面からぶつかれば甚大な被害を免れない。
ゆえに曹操は、自らは動かず、ひたすらに盤面を睨みつけながら、北の老いた虎が隙を見せるか、あるいはその寿命が尽きるのを、蛇のように静かに待ち続けていたのである。
大規模な戦が手控えられたこの二年間。
曹操の支配する許一帯は、目を見張るような速度で潤い、かつてない繁栄を謳歌し始めていた。
兵站長官・班稀が敷いた極めて合理的な屯田制や水路網の整備が功を奏したことも大きいが、それ以上に、この繁栄を根底で支えていたのは『献帝・劉協の存在』であった。
「天子様がおられる都へ行けば、飢えることはないそうだ!」
「大漢の朝廷は、曹操様のお力で正しく復興されたのだ!」
洛陽の地獄を乗り越え、自ら飛蝗を食らってでも民の範となろうとした若き天子。その真っ直ぐな気高さと『人徳』の噂は、曹操の巧みな情報操作も相まって天下に広く伝播していた。
戦乱と飢饉に疲れ果てていた商人や知識人、そして数多の流民たちが、「大漢の正統」と「平和」を求めて、こぞって許の都へと吸い寄せられてきたのである。
曹操は、周辺の小勢力や賊の討伐といった小競り合いには容赦なく軍を差し向け、治安を徹底的に維持した。
表向きは天子を敬う絶対の忠臣として振る舞いながら、その実、天子に集まる莫大な「人」と「物資」という蜜を、己の覇道という巨大な胃袋へと着実に流し込み、次なる大戦に向けた力を静かに、そして爆発的に蓄え続けていたのだ。
しかし、不気味なほどの均衡によって保たれていた偽りの平和は、西暦一九八年、唐突に、そしてあっけなく終わりを告げる。
事態を動かしたのは、軍略でも暗殺でもなく、誰にも等しく訪れる『肉体の限界』であった。
「……殿! 劉虞様! いかがなされました!!」
幽州の庁舎。
山積みにされた竹簡の束を前にしていた劉虞が、突如として自らの胸を激しく掻き毟り、苦悶の表情を浮かべて床に倒れ伏した。
「ぐっ……あ……胸が、割れるように……痛む……!」
六十代へと差し掛かっていた劉虞の身体を蝕んだもの。それは、現代で言うところの重度の心臓病(心筋梗塞、あるいは狭心症)であった。
無理からぬことである。
南では天子を囲い込んだ曹操が不気味な沈黙を保ち、東では公孫度と日本国が強大な「漢江大橋」を架けて未知の経済圏を築き上げている。
大漢の正統を守ろうとする生真面目な老将にとって、この数年間の精神的な重圧は、彼の老いた心臓の限界をとうに超えていたのだ。
急ぎ集められた医者たちの必死の治療により、劉虞は辛うじて一命を取り留めることには成功した。
しかし、病魔が彼の肉体に残した爪痕はあまりにも深かった。
「……すまん。……体が、動かん……」
数日後に意識を取り戻した劉虞であったが、自力で起き上がることすらできず、寝台に縛り付けられる身となってしまった。もはや、幽州や徐州を巻き込んだ巨大な政務や軍事を指揮するだけの体力も気力も、老虎の体には一切残されていなかったのである。
曹操が待ち望んでいた『決定的な隙』が、ついに北方に生まれた瞬間であった。
「父上……。どうか、ご安静に。後のことは、この
寝たきりとなった劉虞に代わり、幽州の家督と大漢の宗室としての重責を継いだのは、息子の劉和であった。
しかし、彼には致命的な欠点があった。良くも悪くも「普通の貴族の青年」に過ぎず、百戦錬磨の群雄たちを束ね上げるだけの、父・劉虞のような『圧倒的な威厳と才覚』が決定的に欠けていたのである。
この北方の政権交代という絶好の機を、許にいる曹操が見逃すはずがなかった。
「……時が来た。幽州のジジイが倒れた今、北方の連中は首を失った群れに過ぎん。一息に、連中の絆を食いちぎってやる」
曹操はただちに、天子の詔という絶対的な権威を利用し、一つの大がかりな罠を仕掛けた。
『天下の安寧と、北方の憂いを払うため、大漢の忠臣たる諸将を集め、今後の国政を語り合う会談の席を設ける』
として、新たな幽州の主である劉和、徐州の劉備、そして幽州でくすぶる猛将・公孫瓚らを、自らの勢力圏に近い境界の地へと呼び寄せたのである。
「天子様からの直々の呼び出しとあれば、応じぬわけにはいくまい……」
劉和は、父のような深い洞察力を持たぬまま、大義名分に従って会談の席へと向かってしまった。
そして、呂布の遺族を匿い、曹操への疑念を抱き続けていた劉備もまた、大漢の宗室である劉和が参加する以上、この会談を無視することはできなかった。
会談の席において。曹操は、その底知れぬ政治力と話術を極限まで振るい、北方の諸将の間に、目に見えない『猛毒』を次々と注ぎ込んでいった。
曹操はまず、上座に据えた劉和に対し、ことさら大げさに頭を下げ、甘言を
「劉和殿。偉大なる劉虞様が倒れられた今、大漢の北方を支え得る柱は貴方様しかおられませぬ。天子様も、貴方様の手腕に大いに期待しておられますぞ」
そう持ち上げながら、曹操は劉和の耳元で密かに囁く。
「しかし……心配なのは、徐州の劉備です。彼は自らを皇叔と称し、民からの人気を不当に集めております。このまま彼を野放しにすれば、いずれ貴方様の『大漢の宗室』としての地位を脅かし、乗っ取ろうとするやもしれませぬ」
凡庸な劉和の心に、「嫉妬」と「疑心」という小さな楔が打ち込まれた。
同時に、曹操は武骨な公孫瓚を別室に招き、全く別の毒を盛る。
「公孫瓚殿。貴方のような天下無双の猛将が、劉和のような青二才の下で飼い殺しにされているのは、あまりにも忍びない。……天子様にお口添えし、貴方様に幽州を独立して治めるだけの『強大な将軍位』を賜るよう手配いたしましょう。貴方には、己の力で北方を切り従える資格がある」
自らの実力を正当に評価されないことに長年不満を抱いていた公孫瓚の心に、「野心」と「増長」という火が点けられた。
そして劉備に対しては、徹底的に
結果は、火を見るよりも明らかであった。
会談が終わる頃には、かつて劉虞という巨大な柱の下で強固な絆を保っていた「北方・東方同盟」は、内部から完全に腐り落ちていた。
劉和は劉備を警戒して軍事的な連携を絶ち、公孫瓚は劉和の命令を完全に無視して独立の気配を見せ始める。
そして劉備は、曹操の描いた盤面の中で、己の頼るべき後ろ盾から完全に切り離され、孤立無援の徐州へと追いやられてしまったのである。
劉虞が病に倒れ、曹操の放った見えない毒刃が北方の諸将を切り裂いたこの年。
不気味な静寂は完全に破られ、大漢帝国の命運を左右する中原の覇権争いは、ついに取り返しのつかない『決定的な決裂』と、血で血を洗う全面戦争の幕開けへと、その歩みを大きく進めたのであった。
―――
「……駄目だ。どう転んでも、手詰まりにしか思えん」
徐州の庁舎。
執務机にうず高く積まれた木簡を前に、劉備玄徳は深い、ひどく重い溜息を漏らした。
曹操が仕掛けた「会談」という名の毒牙は、劉備の想像を遥かに超える早さで、北方の絆を完全に腐り落としていた。
幽州の新たな主となった劉和は、曹操の甘言に踊らされ、徐州の劉備を「漢室の宗室を騙り、己の地位を脅かす不届き者」として猛烈に警戒し始めていた。かつて劉虞が存命であった頃の、あの強固な後ろ盾は完全に消滅してしまったのである。
不幸中の幸いと言うべきか、兄弟子であり旧知の仲である猛将・公孫瓚との関係は、決定的な決裂には至っていなかった。
だが、その公孫瓚もまた、上司筋にあたる劉和からの命令を無視して独立の気配を強めており、北方は事実上の内乱状態に陥りつつある。
(劉和殿からの支援は絶たれ、西には天子様を擁して巨大化した曹操がいる。……我ら徐州は今、一歩でも足を踏み外せば真っ逆さまに落ちる、断崖絶壁の縁に立たされている状態だ)
いかにして、この絶望的な包囲網を打破すべきか。
劉備は無い頭を必死に振り絞り、木簡の地図に穴が開くほど睨みつけたが、名案など浮かぶはずもない。
「……ああっ、もう駄目だ! 俺は昔から、学問や小難しい理屈をこねるのは苦手なんだ!」
劉備はついに考えることを放棄し、乱暴に頭を掻き回して立ち上がった。
いくら机の前で唸っていても、状況が好転するわけではない。煮詰まった思考を吹き飛ばし、少しでも体を動かそうと、彼は庁舎の薄暗い執務室を抜け出し、陽の当たる中庭へと向かった。
「そこだァッ! 踏み込みが浅ェぞ、綏(すい)!!」
「はいッ! 張飛様!!」
中庭に出た劉備の耳に飛び込んできたのは、空気を切り裂く鋭い風切り音と、激しい木刀(あるいは刃引きした長柄)の衝突音であった。
見れば、義弟の張飛益徳が、巨大な蛇矛の柄を振り回し、ひとりの「年若い娘」と激しい打ち合いを行っている最中であった。
劉備は、その娘——洛陽から張遼らと共に逃れてきた呂布の長女、
彼女はこの年、数えで十三、四歳。未だ成長期の只中にあるはずの少女である。
しかし、その身長はすでに並の成人女性を優に超え、確かに劉備の耳にかかる程度にまで達していた。
(まだ年端もいかないというのに、あの体格……。呂布の血筋とは、これほどまでに侮れないものか)
劉備の目をさらに釘付けにしたのは、単なる身長(大きさ)ではない。彼女の放つ、常軌を逸した『身体の躍動』であった。
張飛の豪腕から繰り出される重い一撃を、呂綏は決して腕力で受け止めようとはしない。
打撃の瞬間、彼女のキュッと引き締まった強烈な大臀筋と、太ももの内転筋が爆発的に収縮し、大地に根を張ったかのような絶対的な踏み込みを生み出す。
そして、コルセットのように分厚く強靭な体幹(腹圧)を軸にして、極限まで脱力したなだらかな肩から、鞭のようにしなやかな腕が薙刀を振り抜く。
パァァァンッ!!
「おわっと!」
広背筋の巨大な遠心力を用いた呂綏の重い一閃が、張飛の巨体をわずかに後退させた。
力任せの剛剣ではない。極限まで無駄を削ぎ落とし、馬上の機動と長柄の遠心力を完全に制御するために最適化された、恐るべき『武の結晶』。
それは間違いなく、かつて虎牢関や洛陽で暴れ回った、あの天下無双の鬼神の姿の「純粋な残滓」であった。
「……二人とも、精が出るな」
劉備が声をかけると、激しく打ち合っていた二人はピタリと動きを止め、すぐさまこちらを振り返った。
「おう、兄者! 休んでていいのか?」
張飛が汗を拭いながら人懐っこく笑う。
その横で、呂綏は即座に薙刀の石突きを地面に立て、乱れた息を整える間もなく、背筋をピンと伸ばして劉備に向かって深く、そして極めて美しい作法で頭を下げた。
「劉備様。中庭を荒らしてしまい、申し訳ございません。……お見苦しいところをお見せいたしました」
静かで、凛とした声。
劉備は、その見事な礼節を前にして、いつも不思議な感覚に陥る。
(……果たして本当に、この娘があの呂布の娘なのだろうか?)
父親である呂布は、良くも悪くも己の感情と武勇のままに生きる粗暴な男であった。
しかし、目の前の少女は、荒々しいまでの圧倒的な武の才能を内に秘めながらも、その立ち振る舞いは大漢の由緒正しき貴族の令嬢となんら遜色がない。
母親である厳氏の、厳しくも愛情に満ちた躾が、いかに完璧に行き届いているかの証左であった。
「いや、構わんよ。……見事な太刀筋だった。益徳の攻撃を正面からいなすなど、大人でもそうそう出来るものではない」
「勿体なきお言葉。亡き父に恥じぬよう、鍛錬を重ねるのみにございます」
礼儀正しく控える呂綏の姿は、とても天下の「裏切りの獣」と呼ばれた男の血を引く者には見えなかった。
「……少し、愚痴を聞いてはくれないか」
劉備は、ポツリとそうこぼし、中庭の縁側にどっかりと腰を下ろした。
自分でもどうかしていると思った。天下の趨勢(すうせい)や、諸侯の陰謀渦巻く軍略の悩みを、猪突猛進な義弟と、まだ元服もしていない少女に相談したところで、画期的な解決策など返ってくるはずがない。
少し前に、徐州の財政と内政を取り仕切る富豪の文官・
まさに『猫の手も借りたい』状況。
しかし、劉備はただ、誰かにこの重圧を打ち明けたかったのである。
「今、徐州は完全に孤立している。曹操は天子様を盾にしてこちらを狙い、北の劉和殿は私を疑っている。……私はただ、この徐州の民を飢えさせず、平和に暮らさせたいだけなのに。大漢の忠臣として在りたいだけなのに、なぜこうも上手くいかないのか」
劉備の情けない吐露を、張飛も呂綏も、一切茶化すことなく真剣な顔で聞いていた。
「兄者……」
張飛は、ドスンと劉備の隣に座り込み、豪快に笑った。
「難しいことは分からねェ! だが、曹操だろうが劉和だろうが、兄者を傷つけようって奴が来たら、俺の蛇矛で片っ端からぶち抜いてやる! それだけだ!」
張飛の単純明快すぎる答えに、劉備は思わず苦笑した。
そして、呂綏もまた、劉備の前に進み出て、真っ直ぐな瞳で彼を見据えた。
「劉備様。私や母、そして張遼殿たち并州の残党を、天下の
少女の澄んだ瞳には、嘘偽りのない純粋な忠誠と感謝が宿っていた。
「私に、天下の軍略を解き明かす知恵はありません。……ですが、いざ戦となれば、私の振るうこの刃は、必ずや劉備様をお守りするための『最強の盾』となりましょう。父が、天子様を守るためにその命を散らしたように。……私の命もまた、劉備様のためにあると心得ております」
その堂々たる宣言。
知恵は返ってこなかった。打開策も出なかった。
しかし、劉備の胸の奥底には、木簡を睨んでいた時のような冷たい絶望とは違う、不思議なほどの『熱』がじんわりと広がっていくのを感じていた。
(……ああ。私は、なんて馬鹿なのだ)
劉備は、空を見上げ、ふっと肩の力を抜いた。
自分には、曹操のような絶大な権力もない。班稀のような完璧な兵站計算の能力もない。
しかし。
自分の周りには、義弟たちをはじめ、麋竺のような献身的な臣、そしてこの呂綏のような、純粋で真っ直ぐな心を持つ者たちが、己の損得を抜きにして『劉備玄徳』という人間を信頼し、その命を預けてくれている。
「……ありがとう、益徳、綏。おかげで、少し腹が決まったよ」
劉備は立ち上がり、二人に優しい笑みを向けた。
圧倒的な窮地に立たされてもなお、この温かなる『信頼』という名の武器だけは、曹操のいかなる謀略をもってしても決して奪うことはできない。
「道が塞がれているのなら、我らの信じる『王道』を真っ直ぐに突き進むまで。さあ、益徳! 私も少し体を動かしたくなった。相手をしてくれ!」
「おうっ! 兄者、手加減はしねェぞ!」
徐州の庁舎の断崖絶壁に立たされていた皇叔は、未だ幼き無双の蕾と、荒ぶる義弟がもたらしてくれた温かい信頼の光によって、再び前を向いて歩み出すための力を、確かに取り戻していたのである。
中原において、曹操が老いたる劉虞の隙を突き、北方の諸将の間に毒を撒き散らして膠着状態を意図的に作り出していた頃。
長江の南、広大な揚州の地においては、ひとりの若き猛虎が、その鋭い牙をもって着実に自らの『王国』を築き上げていた。
孫策伯符である。
「……良し。これで丹陽、呉、会稽の三郡は、完全に我ら孫家の支配下に入った。逆らう土豪どもはあらかた片付いたな」
曲阿の庁舎で、孫策は地図に朱色の筆で大きく丸を描き、満足げに頷いた。
いわゆる『
この地を完全に平定したことで、孫策の率いる江東軍は、いよいよ中原の群雄たちと肩を並べる、いや、それ以上の莫大な国力を手に入れたのである。
この孫策の目覚ましい快進撃の裏には、彼自身の圧倒的な武勇や、親友である天才軍師・周瑜の知略があったのは勿論だが。それと同等に、いやそれ以上に大きな役割を果たしていた『見えざる武器』が存在した。
『辰砂売り』――すなわち、海の向こうの異界が大陸に放っている、非合法の高度な情報諜報部隊である。
「辰砂売りのもたらす『北の情勢』の正確さは、相変わらず恐ろしいほどだ。曹操が情報統制を敷き、劉備や公孫瓚が身動きを取れなくなっていることまで、手に取るように分かる」
孫策は、辰砂売りから定期的に買い取っている暗号木簡を卓の上に放り投げた。
中原が情報遮断の泥沼に陥っている中、孫策だけは彼らの情報網を利用し、「北の脅威が当分はこちらに向かない」という確証を得ていた。だからこそ、背後を気にすることなく、全兵力を南の三呉平定に一点集中させることができたのである。
「北の化け物どもが牽制し合っている間に、我らはこの江東を鉄壁の要塞に作り変える。……公瑾よ、我々の描いた絵図面通りに事が進んでいるな」
「ええ、伯符。我々が長江の制水権を握っている限り、曹操の騎兵がいかに精強であろうと、南へ渡ることはできません」
傍らに控えていた周瑜も、涼やかな笑みを浮かべて頷いた。
しかし、その数日後。
江東の覇者として順風満帆に見えた若き虎の背筋を凍らせるような、奇妙で、そして極めて『不気味な噂』が、彼らの耳に届くこととなる。
現在で言うところの南京市。
当時は
ある日、孫策と周瑜は、身分を隠してこの秣陵の市場を視察に訪れていた。
活気に満ちた喧噪の中、胡座(あぐら)をかいて南海の珍しい香木や真珠を売り捌(さば)いていた南方の交易商人が、周囲の者たちに声を潜めて語る『ある噂話』が、二人の耳に飛び込んできた。
「……信じられないかもしれないが、本当の話だ。我々が交州から海伝いに北上してくる途中、大陸から少し南方に離れた『巨大な島(※現在の台湾)』の沖合を通った時のことさ」
商人の言葉に、孫策は足を止め、笠の奥の目を細めた。
「その島の『東側の沿岸』にな……。見たこともないような、奇妙な連中が居座っていたんだ」
「奇妙な連中? 現地の蛮族か、それとも海賊か?」と、客の一人が尋ねる。
「いや、違う。海賊なんてもんじゃない。連中、規律正しく統率されていて、見たこともないような真っ直ぐな刃を持ち、揃いの奇妙な鎧を着ていた。
……そして何より驚いたのは、連中、その島の東部に、石と泥を固めた『堅牢な砦』と、大きな船を何隻も停泊させられる『小さな港(軍港)』を、凄まじい速度で建築していたんだよ!」
商人は、身震いするように自らの腕をさすった。
「我々が今まで交易してきたどんな国の連中とも違う。あんな南の未開の島に、忽然とあんな要塞を築き上げるなんて……まるで、海から湧いて出た化け物軍団みたいだったぜ」
孫策と周瑜の二人は、顔を見合わせ、言葉を交わすことなく足早に市場の路地裏へと姿を消した。
「……聞いたか、公瑾。南の巨大な島に、砦と港を築いている『見たこともない民族』だと」
人目のない路地で、孫策は笠を脱ぎ捨て、鋭い眼光を放った
「ええ。単なる海賊や蛮族に、まともな築城技術や港湾設備を造る能力などありません。……組織化された、極めて高度な技術を持つ『国家規模の軍事勢力』が、あの南の島に進駐しているということです」
周瑜の美しい顔から、先程までの余裕の笑みが完全に消え去り、冷ややかな緊張感が張り付いていた。
「……だが、俺が警戒しているのはそこじゃない」
孫策は、ギリッと奥歯を噛み鳴らした。
「あの『辰砂売り』の連中だ」
中原の群雄たちの些細な動き、曹操の軍糧の配置から、公孫瓚の馬の数に至るまで、大陸のありとあらゆる情報を異常な精度でかき集め、孫策に売り捌いてきた辰砂売りの情報網。
「もし、南の島に全く未知の武装勢力が砦を築いているというのなら。あの目ざとい辰砂売りの連中が、それを察知していないはずがない。我々に『極上の情報』として、高値で売りつけてくるのが道理だ。
……だが、奴らはこの件に関して、ただの一言も、一切の情報を寄越さなかった」
なぜ、大陸全土を網羅する情報屋が、大陸のすぐ南で起きている異常事態について、完全に沈黙しているのか。
「……答えは一つしかねェ」
孫策の目に、猛獣が未知の天敵に遭遇した時のような、本能的な警戒の光が宿った。
「あの南の島に砦を築いている『見たこともない民族』こそが。……辰砂売りの連中の『本国』の軍勢そのものだからだ」
自らの軍事行動である以上、第三者(孫策)に情報を漏らすはずがない。
辰砂売りからの情報がない(沈黙している)という事実そのものが、逆説的に「あれは自分たちの勢力である」と、完璧に証明してしまっていたのである。
「……背筋が凍るような話だ」
周瑜は、路地の壁に手をつき、戦慄を隠せない声で呟いた。
「伯符(孫策)。我々は、彼らを『金を払えば使える便利な情報屋』程度に考えていた。だが、連中は我々に中原の情報を流して目線を北に向けさせながら、その裏で密かに、そして着実に……南の海から大陸へ向けて、自らの『軍事拠点』を近づけてきている」
周瑜は、懐から扇を取り出し、地面に即席の地図を描き始めた。
東の海に浮かぶ極東の島国(日本)。そこから南へと連なる琉球(沖縄)の島々。そして、噂のあった南の巨大な島(台湾)。
「……なぜ、彼らは大陸に近い西側ではなく、わざわざ島の『東部』に砦と港を築いたのか。それは、大陸の商人や我々江東の海軍から、自分たちの活動を隠すためだ。太平洋側(外海)を拠点にすれば、大陸側からは全く見えない」
周瑜の扇子が、東の海から南の島を通って、長江の河口付近へと弧を描くように動いた。
「連中は、中原の群雄たちが領土を奪い合って血を流している泥臭い戦には、全く興味がない。
彼らは、海の向こうから『点と点』を繋ぐようにして、島伝いに巨大な軍事と物流の網を構築し……気づいた時には、大陸の南半分の制海権を完全に握り潰すつもりなのだ」
「……曹操が『陸の怪物』なら、奴らは『海の怪物』というわけか」
孫策は、南の空を見上げ、深く息を吐いた。
北方の劉虞と曹操の動きばかりを警戒していたが、振り返れば、背後の海からは足音一つ立てずに、途方もなく巨大な軍事国家の『触手』が、音もなく江東の喉元へと伸びてきていたのだ。
「……面白い」
だが、孫策の顔に浮かんだのは、恐怖でも絶望でもなかった。
それは、自らの知略と武勇のすべてを懸けて戦うに足る、未知の強大な敵を前にした「若虎の歓喜の笑み」であった。
「曹操だろうが、海の向こうのバケモンだろうが関係ねェ。この江東の地を侵そうとする奴は、俺の槍と、俺の率いる水軍がことごとく水底に沈めてやる!」
孫策は、地面に描かれた周瑜の地図を、力強く足で踏み消した。
「公瑾! 我が江東の『水軍』の増強を急ぐぞ。長江の中を泳ぎ回るだけの船じゃ駄目だ。外海の荒波に耐え、あの南の島まで兵を運べるような、巨大な『海船』の建造に着手しろ!」
「……ええ、承知しました。彼らが大陸へ牙を剥くその前に、我々の方から海を渡り、その港を叩き潰せるだけの『力』を持たねばなりませんね」
中原が曹操の謀略によって不気味な嵐の前の静けさに包まれていたこの年。
江東の覇者
孫策だけが、市場の小さな噂話と、情報屋の『沈黙』という極めて高度なパズルのピースから、大陸の南から密かに迫り来る「極東の国家(日本国)」の恐るべき足音を正確に察知していた。
しかし…、事態はそれを許さなかった