西暦一九八年。
中原の群雄たちが曹操の仕掛けた冷酷な謀略の網の中で身動きを封じられ、重苦しい緊張感に包まれていた頃。海を隔てた極東の島国、日本国の大内裏においては、国家の次代を担う極めて華やかな儀式が執り行われていた。
百官が平伏して見守る中、薄絹の御簾の前に、ひとりの凛々しい少年が進み出た。
大蔵省の長官にして、この国の事実上の宰相である広庭皇子の長子――
「……これより、稚足彦に大人の証たる冠を授ける」
御簾の奥から響く、天皇・和那比売の透き通るような、しかし絶対的な威厳を帯びた声。
この日、数えで十五歳を迎えた稚足彦の『元服の儀』が、国家の最高行事として執り行われていた。髪を結い上げられ、大人の装束を身に纏った稚足彦は、深く頭を下げてその恩命を拝受した。
「元服の儀を終えた稚足彦には、これより直ちに大内裏へと上がり、私の『
神務の補佐。
それは単なる雑用ではない。和那比売が行う「神懸かり的な演算」と「国家の方向性を決定づける神託」の場に最も近い場所で立ち会い、次代の天皇としての帝王学を直に学ぶという、極めて重大なポストであった。
「ははっ。我が身命を賭して、大王を補佐し、この大和の国に尽くす所存にございます」
稚足彦は、淀みない見事な作法で誓いの言葉を述べた。
その姿は初々しくも堂々としており、列席する官僚たちは「おお、見事な若君だ」「広庭様の御嫡男なれば、さぞかし恐るべき神童であられよう」と、感嘆の吐息を漏らしていた。
しかし。
百官の最前列に座し、我が子の晴れ姿を誰よりも間近で見つめていた父親・広庭の心中は、周囲の祝賀ムードとは裏腹に、千々に乱れる『極度の胃痛と不安』によって完全に支配されていたのである。
(……大丈夫か? 本当に大丈夫なのか、アイツは)
現在三十歳となり、壮年期の脂が乗り切っている広庭は、顔には微塵も出さないものの、内心では我が子の元服を素直に祝う余裕など一切なかった。
広庭の目から見て。
いや、極端な合理主義と異常なまでの計算能力を持つ広庭の「狂った基準」から見て、長子である稚足彦は『決して出来が良い部類ではない』からである。
誤解のないように言えば、稚足彦は客観的に見て間違いなく『秀才』であった。
書物はよく読み、算術の成績も上位であり、何より真っ直ぐな気性を持つ真面目な努力家である。
だが、広庭にとっての「優秀」とは、努力して答えに辿り着くことではない。「一目見た瞬間に、盤面にあるすべての数字と最適解が、呼吸をするように自動で導き出される」という、一種の先天的な異常性のことなのだ。
(稚足彦は、努力家だ。だからこそ危うい。……アイツは、私や姉上のような『化け物』ではないのだ)
広庭は、御簾の奥に座す三十四歳の姉の気配を感じ、密かに冷や汗を流した。
和那比売の思考速度と論理構築は、広庭でさえ時折ついていくのがやっとの次元にある。稚足彦が、その和那比売の「神務」の補佐につくのだ。
『大王、それはつまり〇〇という事ですね』
などと普通の秀才が口を挟もうものなら、姉の冷徹な一瞥と、数式化された超絶な論破によって、我が子の精神が完全にへし折られてしまうのではないか。
(もし姉上と話が合わず、「使えない」と判断されれば、稚足彦の自尊心は粉々に砕け散るぞ……! ああっ、なぜ神務の補佐などという重責に!)
親としての過保護と、天才ゆえの「凡人への共感性の欠如」が入り混じり、広庭はひとり勝手に深刻な焦燥感に駆られていた。
儀式の後。広庭はたまらず、大内裏の奥にある私室へと足を運んだ。
そこには、十五年前に皇位を退き、現在は隠居して皇族や貴族の子弟たちの「教育係」を務めている、前天皇――
「おお、広庭か。よい元服の儀であったな。稚足彦の奴、立派に大人びて、
現在五十二歳となる仲哀は、柔和な笑みを浮かべて広庭を迎えた。
広庭と和那比売の実父であるこの男は、大内裏においては
仲哀が退位したのは、彼が三十八歳の時(西暦一八三年前後)であった。
その治世凡そ三年である。
当時の彼は働き盛りであり、決して暗愚でも病弱でもなかった。だが、彼は自らの実の娘と息子が持つ「異次元の才能」を目の当たりにした時、いの一番にこう言い放ったのである。
『ああ、こりゃ駄目だ。俺が国を取り仕切るより、この子たちに丸投げした方が、国が何百倍も上手く回るわ』
自分の権力欲よりも、国家の最適解を優先する。
ある意味で、和那比売や広庭の「無駄を極端に嫌う合理主義」の源流は、権力の座をあっさりと捨て去ったこの父親の『度量の広さ(あるいは諦めの良さ)』から受け継がれたものなのかもしれない。
退位後、仲哀は広庭が政務に就くまでの間、和那比売の神務の補佐を務めて実務を教え込んだ。そして現在は、孫である稚足彦の学問の師としても接していた。
「……父上」
広庭は、眉間を揉みながら仲哀の前に座った。
「稚足彦の成績についてですが。父上は『申し分ない、立派に神務の補佐が務まる』と姉上に上申されたとか。……失礼ながら、孫可愛さに、評価を曲げておられませんか?」
広庭の直球すぎる問い詰めに、仲哀は「はっはっは」と大口を開けて笑った。
「馬鹿を言え。お前たちのこの国において、情実で数字を曲げることがどれほど致命的か、私が一番よく知っておるわ。稚足彦の評価は、極めて正確なものだ」
「しかし! あいつは私のように、数字の裏にある物流の脈動を一瞬で読み取ることはできません。姉上の抽象的な神託を、瞬時に言語化する直感力もありません。あいつはただの……真面目なだけの普通の子供です。姉上の隣に立てば、必ず潰されます!」
悲痛な声で訴える息子に対し。
五十二歳の柔和な前王は、ふっと、かつて天下を治めた者としての『静かで深い瞳』を見せた。
「広庭よ。お前は数字と論理の極致だが、やはり『人』というものが分かっておらん」
仲哀は、茶を啜りながら静かに語った。
「お前や和那比売は、百年に一度の天才だ。だからこそ、この過酷な飢饉の時代を乗り越え、この列島に巨大な道や計を築き上げることができた。
……だが、天才の代が長く続けば、必ず国は息切れを起こす。常人は、天才の速度にはついていけないからだ」
広庭は、ハッとして言葉を失った。
「稚足彦は、天才ではない。だが、誰よりも他人の言葉に耳を傾け、努力し、そして『常人の歩む速度』を理解できる。……和那比売が求めているのは、自分の思考についてこられる『もう一人の化け物』ではないのだ。自分の突飛な神託を、凡人にも分かるように噛み砕き、橋渡しをしてくれる『堅実な努力家』なのだよ」
その頃。
大内裏の最奥、数え切れないほどの木簡と和紙の図面が広げられた執務室において。
三十四歳となった和那比売は、元服を終えて挨拶に訪れた稚足彦と、静かに向かい合っていた。
「稚足彦よ。これからお前には、私の神務の補佐として、多くの公文書の整理と、各地から上がる報告書の『要約』を任せる」
「はいっ。誠心誠意、務めさせていただきます」
緊張でガチガチになっている甥の姿を見て、和那比売の口元に、微かな、しかし確かに人間味のある柔らかな笑みがこぼれた。
和那比売は、すでにこの先の国家のタイムラインを、彼女の驚異的な演算脳によって完全に描き出していた。
(私のこの頭脳が最も冴え渡る期間は、長く見積もってもあと十五年。……五〇歳を迎える頃には、私はこの玉座を降り、次代へ譲らねばならない)
中原の曹操が六〇歳、七〇歳まで権力にしがみつくであろうこととは対照的に。和那比売は、自らの『脳の衰え』すらも計算に組み込み、すでに十五年後の「退位」の準備を始めているのである。
天才が創り上げた国を、凡人でも回せる永続的なシステムへと落とし込む。
そのために選ばれたのが、広庭の言うところの『出来の良くない普通の息子』――稚足彦であった。
「稚足彦」
和那比売は、手元の分厚い公文書の束を、ドンと甥の前に置いた。
「分からないことがあれば、一人で抱え込まずに、すぐに周囲の官僚に聞きなさい。お前の強みは、自分を天才だと勘違いしていない『謙虚さ』と、他者の知恵を借りることができる『実直さ』だ。……広庭の真似をして、一人で全てを計算しようなどとは思わなくてよい」
「……っ!」
稚足彦は、その言葉に目を見開いた。
彼は彼なりに、偉大すぎる父と伯母の影にプレッシャーを感じ、「自分も天才にならなければ」と焦っていたのだ。しかし、和那比売はそんな彼の心を完全に見透かし、そのままで良いのだと肯定してくれたのである。
「は、はい……っ! ありがとうございます、和那比売様!」
稚足彦の瞳から、不安の色が消え去り、真っ直ぐな決意の光が宿った。
「うむ。では早速、この漢江大橋の月次物流集を、明日までに三行に要約しておくように」
「えっ。あ、明日までに、この量を、ですか!?」
「できるな? お前は『努力家』なのだから」
容赦のない激務の要求に、稚足彦は青ざめながらも必死に木簡の束に食らいつき始めた。和那比売は、その背中を満足げに見つめながら、再び自らの演算の世界へと没入していった。
数時間後。
広庭が恐る恐る和那比売の執務室を覗き込むと、そこには、泣き言一つ言わずに木簡の山と格闘する稚足彦と、それを全く意に介さず己の仕事を進める姉の、妙に調和の取れた静寂な空間が存在していた。
「……父上の言う通り、私の取り越し苦労だったというわけか」
広庭は、廊下の壁に寄りかかり、ようやく深い安堵の溜息を吐き出した。
(天才ではない。しかし、だからこそ彼は、この大和の国を『人間の国』として繋いでいくための、最も重要な歯車となるのかもしれん)
中原において、劉和や公孫瓚らが次世代の主導権を巡って曹操の罠に落ち、疑心暗鬼と断絶に苦しんでいる裏側で。
極東の島国では、前王、現天皇、そして宰相という三つの世代が、互いの長所と短所を完全に理解し合い、十五年後という遥か先の未来を見据えながら、次世代への『バトンタッチ』の準備を、静かに、そして確実に行い始めていたのである。
―――
稚足彦の華やかな元服の儀が執り行われていた大内裏の一角。
居並ぶ高官や皇族たちの末席に、豪奢な大和の絹の装束を身に纏いながらも、どこか野性的な、凛とした冷たい美しさを放つひとりの女性が控えていた。
広庭皇子の側室であり、北方の蝦夷の出自を持つ女——於呂である。
彼女の傍らには、乳母に抱かれた幼い二人の子供の姿があった。
この数年の間に、於呂が広庭との間に儲けた「一人の男児」と「一人の女児」である。
蝦夷という異民族の血を引く側室の子であるため、彼らに大和国の皇位継承権は無きに等しい。しかし、広庭の血を引く立派な「皇族」として手厚く扱われ、何不自由ない健やかな成長を遂げていた。
(……稚足彦様、立派になられた。私の子たちも、いつかあのように逞しく育ってくれるだろうか)
於呂は、我が子たちの柔らかな頬をそっと撫でた。
政略の具として、あるいは人質として広庭の元へ嫁いできた身であったが、彼女は今の生活を不幸だとは思っていなかった。
夫である広庭は、蝦夷の出自を決して見下さず、極端なまでにフラットな「合理主義」をもって於呂を一個の人間として遇してくれた。情に流されることは少ないが、その冷徹なまでの公平さは、於呂にとって心地の良いものであった。
だが。
この大内裏という華やかな空間において、於呂にはどうしても「視界に入れることすら苦痛な存在」が、たった一人だけいたのである。
元服の儀を終え、和やかな空気に包まれる大広間。
広庭が、息子の稚足彦を伴って、上座に控えるひとりの初老の男の元へ挨拶に向かった。
前王仲哀。
大和の百官から深く敬愛され、孫の成長を細めた目で喜ぶ、
しかし、於呂はその男の顔を見た瞬間、無意識のうちに己の装束の袖をギリッと強く握りしめ、冷たい憎悪に瞳を揺らしていた。
大和の民にとっては、国を平和に導き、天才の子供たちに玉座を譲った度量の広い名君。
だが、北方の蝦夷である於呂たち一族にとって、あの男は決して許すことのできない、正真正銘の『仇』にして『恐怖の象徴』であった。
天皇に即位する以前。先王(父)の代において皇太子であった若き日の仲哀は、別の名で呼ばれていた。
その名こそ、蝦夷征討の総司令官——『
(……あの男が、私たちの故郷を奪ったのだ)
於呂の脳裏に、幼い頃に一族の長老たちから聞かされた、凄惨な記憶が蘇る。
ただ正面からの戦いだけならば、潔く退く事も叶うだろう。
実際、正面での戦いも幾度となく行われていた。
ヤマトタケルという、強大な個の力が戦場において奮われる事もあり、たった一振りの太刀の下に大人数名が胴分かれとなった事すらあったと言う。
だが、若き日の大和健の軍略は、武力による単純な制圧だけではなく、広庭にも通じる「極めて冷酷で合理的な殲滅戦」であった。
彼は蝦夷の軍勢をただ正面から討つのではなく、ジリジリと北の極寒の地へと追い立てた。
そして、蝦夷が逃げ込んだ本拠地である現在の青森周辺に、巨大で強固な軍事拠点を建造し、完全に物流と退路を封鎖したのである。
それは、武器を交えることすらせず、冬の寒さと飢えで異民族の命を真綿で首を絞めるように削り取っていく、悪魔のような『兵糧攻め』であった。
どれほどの蝦夷の戦士が、女が、子供が、大和健の築いた拠点の向こう側で、雪を啜りながら無念の死を遂げたことか。
於呂の血肉には、一族の悲鳴と憎悪が深く刻み込まれていたのである。
(広庭様は、面白い男だ。……だが、彼の中にも、あの『大和健の血』が流れている)
於呂は、孫に語りかける仲哀の笑顔と、その後ろで静かに控える夫・広庭の横顔を交互に見つめ、胸の奥に鉛のような重苦しさを覚えた。
広庭が数字と物流で国を支配するように、若き日の仲哀もまた、兵站と拠点で蝦夷を支配し、殺した。
その冷徹なまでの「大和の合理性」という系譜が、間違いなく親から子へと受け継がれていることを、於呂は肌で感じていたのである。
考えたくもないことだった。
愛する我が子たちにも、あの憎き大和健の血が流れているという残酷な事実。
もし自分が一人の蝦夷の女のままであったなら、懐剣を隠し持ち、あの好々爺の喉笛に食らいついていたかもしれない。
しかし、今の於呂は、蝦夷の戦士である前に『二人の子の母』であった。
自分がいまここで諍いを起こせば、せっかく大和の地で平穏に暮らしている我が子たちの未来が完全に閉ざされてしまう。子供たちを、自分の復讐心という呪いに巻き込むわけにはいかなかった。
「……ぶぅ」
腕の中で、男児が無邪気な声を上げて於呂の指を握りしめる。
その温かい小さな手の感触が、於呂の心に渦巻く黒い炎を、理性の底へと静かに押し留めてくれた。
「……父上。稚足彦へのお言葉、感謝いたします」
広庭が、仲哀との対話を終え、妻たちが控える席へと戻ってこようと踵を返した。
仲哀もまた、穏やかな笑みを浮かべながら、広庭の家族たちに声をかけようとこちらへ歩み寄ってくる。
その気配を察知した瞬間。
於呂は、乳母に目配せをして子供たちを預けると、誰の目にも留まらぬほど静かに、そして素早くその場からスッと立ち上がった。
「於呂?」
戻ってきた広庭が、離れていく側室の背中に気づいて微かに眉を動かす。
於呂は、広庭と、その後ろから来る仲哀の方を一度も振り返ることなく。深々と一礼だけをその場に残し、広間の奥へと続く回廊へと姿を消していった
それは、蝦夷の女である彼女に許された、『唯一の反心』であった。
夫である広庭が、あの前王と親しく言葉を交わす時、あるいは同じ空間で笑い合う時。於呂は「決してそこには同席しない」という沈黙のルールを己に課していたのだ。
広庭は、その於呂の後ろ姿を見て、追いかけたり、引き留めたりはしなかった。
広庭の極限の計算能力は、於呂の心の中にある『大和健への絶対に相容れぬ憎悪』と、『母としてのギリギリの理性』のバランスを、とうに正確に弾き出していたからである。
「……広庭よ、於呂はどうしたのだ? 孫の顔をもう少し見たかったのだが」
歩み寄ってきた仲哀が、不思議そうに尋ねる。
「……いえ。子供が少し風邪気味ゆえ、早めに休ませたのでしょう。お気になさらず」
広庭は、表情を変えずに淡々と嘘をつき、父の視線を逸らした。
大内裏を包む華やかな祝賀の空気の裏側。
そこには、合理主義の国家がいかに発展しようとも決して消し去ることのできない、征服された者たちの『血の誇り』と『拭い去れぬ因縁』が、確かな影となって静かに息づいていたのである。
―――
稚足彦の元服という、次世代への希望に満ちた祝賀の儀式から数日後。
日本国の中枢たる大内裏は、すでに一切の浮ついた空気を払拭し、極めて冷徹で機械的な「日常の政務」へと回帰していた。
天皇である和那比売が御簾の奥に座し、その前に大和の最高幹部たちが居並ぶ。
実務の最高責任者である右大臣・広庭、そして朝廷の権威を束ねる左大臣。さらには、軍事と諜報を総括する
「……申し上げます。大陸に潜伏させている我が国の諜報網『辰砂売り』より、緊急の報告が上がって参りました」
兵部卿の声は、普段の淡々とした報告とは異なり、微かに緊張を帯びていた。
広庭は、手元の木簡から視線を上げず、冷徹な声で先を促した。
「中原の曹操や劉虞の動きか? いや、それならば緊急を要するものではないはずだ。……南か?」
「御意。揚子江の南、三呉の地を瞬く間に平定しつつある若き猛将・孫策についてでございます」
兵部卿は、深く頭を下げたまま言葉を続けた。
「……孫策とその軍師である周瑜が、我々の『正体』に気づいた可能性が極めて高いとのことです」
その報告に、左大臣が白眉をピクリと動かした。
「正体に気づいただと? 辰砂売りが、拷問でも受けて情報を吐いたというのか?」
「いえ。彼らは情報を『漏らした』のではなく、情報を『出さなかった』ことによって看破されました」
兵部卿の報告を聞き、広庭は即座にそのロジックを理解し、ふっと鼻を鳴らした。
「なるほど。我々が南の島に築いている中継拠点と港の噂が、大陸の市場に流れたのだな。
……そして、天下のあらゆる情報を売り捌く辰砂売りが、自らの喉元に迫るその未知の軍事拠点の情報だけを『完全に黙殺した』。
その異常な沈黙から、孫策たちは南の勢力と情報屋が裏で繋がっている……すなわち、我々日本国の存在に気づいたというわけか」
広庭の極限の演算脳は、孫策と周瑜の思考プロセスを完全にトレースしていた。
「優秀だな。中原で領土の奪い合いに狂奔している群雄たちとは違い、江東の若虎は極めて広い視野を持っている。……それで、向こうの動きは?」
「孫策は、長江の河川用ではない、外海の荒波を渡るための『大型海船』の建造に密かに着手した模様。……間違いなく、我々の南方の拠点を、自らの水軍で叩き潰す腹積もりにございます。」
兵部卿の報告が場に落ちると、大内裏の空気が一段と冷え込んだ。
大和国が構築しているのは、列島から琉球、そして南方へと繋がる巨大な「海の物流システム」である。もし、江東という広大な水資源を持つ勢力が、本格的な海洋軍事国家へと舵を切り、我々の航路を脅かし始めれば、日本の経済的根幹が致命的な打撃を受けることとなる。
「……事ここに至っては、放置することはできませぬ」
兵部卿は、決死の覚悟で広庭、そして御簾の奥の和那比売に向かって上申した。
「孫策という男は、極めて危険です。あの若さで三呉を平定し、軍を一つにまとめる圧倒的な人望と、外海へ乗り出そうとする進取の気性。
このまま彼に数年の時間を与え、江東の国力を完全に掌握させれば、間違いなく我々日本にとって『最大の障壁』となります」
「つまり、完全に力をつけすぎる前に、物理的に『排除』したいということか」
広庭が、感情の全くこもらない声で確認した。
「はい。正面からの海戦に持ち込まれる前に。我々兵部省の抱える草の者(暗殺部隊)を動かし、孫策の命を奪う許可をいただきたく存じます。」
暗殺。
それは、大和の合理主義において、最も費用対効果の高い「戦争回避の手段」であった。
数万の兵を動かして軍船を沈め合うよりも、たったひとりの優秀な工作員によって敵国の心臓を止める方が、遥かに国力の浪費を防ぐことができる。
「……だが、相手は一国の主だ。しかも、武勇に優れ、常に屈強な護衛に囲まれている。暗殺の刃を届かせるのは容易ではないぞ」
左大臣が慎重な姿勢を見せる。
「勿論でございます。刺客を放っての強襲などという、成功率の低い愚策は用いません」
兵部卿は、冷酷な光を瞳に宿して答えた。
「これは『可及的速やかなる排除』を要する案件ではありますが、決して焦ってはなりません。……我々の関与が少しでも露見すれば、激怒した江東の軍勢が、それこそ死に物狂いで海を越えて攻めてくるでしょう。
ゆえに、病死か、あるいは現地勢力の怨恨によるものか。徹底的に自然を装い、痕跡を一切残さぬための『極めて綿密な計画』と『準備期間』が必要となります。……その作戦の立案と実行の全権を、どうか我々にお与えください」
沈黙が、大広間を支配した。
広庭は、脳内で孫策を生かしておいた場合の損失と、暗殺が成功した場合の利益、そして失敗した場合の最悪のシナリオを、凄まじい速度で天秤にかけていた。
やがて、御簾の奥から、静かな衣擦れの音が響いた。
「……広庭。お前の計算は?」
和那比売の澄んだ声が、弟へと問いかける。
「兵部卿の進言通りかと。孫策は、我々の想定する『盤面』にとって、予測不能な異物となり得ます。彼が外海用の艦隊を完成させる前に、その心臓を止めるのが最適解です」
広庭は、微塵の躊躇もなく断言した。
「よかろう」
天皇からの、絶対的な裁可が下った。
「兵部卿。孫策の暗殺を許可する。……ただし、絶対に我が日本の影を感じさせてはならない。大陸の毒や刃ではなく、誰も解明できぬ方法をもって、完全に『自然な死』を演出せよ」
「ははっ……! ありがたき幸せ。必ずや、完璧なる計画を練り上げ、決行いたします」
兵部卿は、その場に深く平伏した。
「期間は二年だ。それ以上は待てん。江東の若虎の息の根を止めよ」
和那比売の言葉は、氷のように冷たく、そして絶対的な「死の宣告」であった。
―――
日本国の大内裏において、江東の若虎・孫策を暗殺するための冷酷な砂時計が裏返された、まさに同じ頃。
海を隔てた中原の新帝都・許の奥深くでも、ひとりの男が、極東のシステム国家の放つ「見えざる影」の尻尾を、静かに、そして完全に無音のまま掴み取っていた。
曹操の覇道を支える最高の頭脳にして、冷血なる兵站長官・班稀である。
「……やはり、計算が合わん」
真夜中の執務室。班稀は、山のように積まれた古い竹簡(ちくかん)の束を前に、ただ一人で筆を走らせていた。
彼が読み解いていたのは、現在の軍事物資の帳簿ではない。かつて長安や洛陽の宮廷を牛耳っていた『十常侍をはじめとする宦官たちの、過去の裏取引の記録』であった。
洛陽を制圧し、献帝を許へ迎え入れた際、班稀は焼け残った宮廷の書庫から、これらの莫大な古い記録をすべて回収していた。歴史の裏に流れる「金の動き」を把握するためである。
その気の遠くなるような計算の過程で、班稀の数学的な直感が、ひとつの『極めて不自然な障り』を弾き出した。
後漢の末期から現在に至るまで、中華の全土において、不老不死の霊薬の原料、あるいは高級な顔料として高値で取引されている『辰砂』という真紅の石。
その流通経路と、それを扱う「辰砂売り」と呼ばれる謎の商人たちの動きが、どう計算しても「中原の経済法則」から逸脱していたのである。
「彼らの商いの記録には、明確な『仕入れの起点』が存在しない。まるで虚空から莫大な辰砂が湧き出しているかのようだ。……それに、彼らが辰砂を売って得た莫大な金の『行き先』が、中原のどこにも見当たらない」
班稀の冷徹な思考は、その不自然な数字の羅列から、極めて正確な『ひとつの真実』を導き出していた。
(……この辰砂売りという連中。単なる商人ではない。極めて高度に組織化された、他国の『諜報部隊』だ)
では、彼らの本国はどこか。
北の異民族か? いや、彼らにこれほど緻密な商業網を構築する知能はない。
西のシルクロードの彼方か? いや、それならば西涼付近に物資の偏りが出るはずだ。
「……東、か」
班稀は、執務室の窓から、暗闇に沈む東の空を見つめた。
東の果て、公孫度の燕と国境を接し、あの常識外れの『漢江大橋』を架けてみせた、かの東の果ての国家・日本国。
(辰砂売りの連中が、日本国の間者だと仮定すれば、すべての計算が完璧に符号する。彼らは辰砂という価値の高い石を中原にばら撒き、代わりに中原の『ありとあらゆる情報』を買い漁り、東の島国へと送っているのだ)
孫策が市場の噂から「直感」で日本の軍事拠点に気づいたとすれば。班稀は「過去の数字」という絶対的な証拠から、日本の張り巡らせた情報網の正体を、完全に論理的に看破したのである。
日本の諜報部隊が、中原に深く根を下ろしている。
この恐るべき事実を突き止めた班稀であったが、彼が取った行動は、極めて特異なものであった。
彼はこの事実を、誰にも言わなかった。
己の主君である曹操にも、庇護下にある献帝にも、ただの一言も報告しなかったのである。
表立った行動には一切移さず、ただ密かに過去の取引を遡るだけで、辰砂売りの商隊を捕らえようとも、監視をつけようともしなかった。
なぜか。
それは、班稀の脳内で瞬時に行われた「報復の演算」の結果が、あまりにも絶望的だったからである。
(もし今、私が曹操様にこの事実を報告し、中原の辰砂売りを一斉に摘発したとしよう。……間違いなく、日本国は『報復』に出る)
あの巨大な漢江大橋を架けるだけの土木技術。中原全体を監視する情報網。それらを統括している日本のトップ(広庭や和那比売)は、間違いなく自分と同等か、それ以上の『極限の合理主義者』であると班稀は確信していた。
(こちらの諜報網を潰されたとなれば、連中は躊躇なく、中原の経済を根底から破壊する手段に出るだろう。偽金の大量流入か、あるいは特定の物資の完全な買い占めか。最悪の場合、東の公孫度と結託し、漢江大橋を渡って無尽蔵の物量をもって我々の背後を突いてくる)
現在の曹操軍は、ようやく許の地で屯田を軌道に乗せ、大飢饉から立ち直りつつある「極めて脆弱な回復期」にある。ここで、底知れぬ力を持つ日本国と『見えない情報・経済の戦争』に突入すれば、曹操の覇道は北方の劉虞と激突する前に、内部から完全に瓦解する。
「……虎の尾を踏む事をせず、ただ虎穴の傍を覗き込む。深入りすれば死あるのみ」
班稀は、薄暗い部屋の中で一人、静かに呟いた。
相手は、未知の技術と底知れぬ兵站能力を持つ、海の向こうの巨大な虎である。
その虎が、現在の中原の争いに対して直接的な武力介入を行わず、ただ情報を集めるだけであるならば。
こちらから下手に尻尾を踏みつけ、その恐るべき牙を曹操陣営に向けさせるのは、あまりにも愚かな下策であった。
(連中の目的が何であれ、今は放置するしかない。日本国という存在を知りながら、あえて『知らないふり』を続ける。……であるならば、ただ傍観していたほうがまだ良い)
それが、天下で最も冷徹な算術士が導き出した、自己と国家を守るための『究極の結論』であった。
班稀は、机の上に広げていた宦官たちの古い帳簿をゆっくりと巻き戻し、紐で固く縛り上げた。そして、それを書庫の最も奥深い、誰も触れることのない木箱の中へと封印した。
かくして、日本の放った巨大な諜報網「辰砂売り」は、中原で唯一その正体に気づいた男の『意図的な沈黙』によって、誰にも暴かれることなく、その活動を悠然と継続することとなったのである。
それは、孫策のように自ら虎の尾を踏んで暗殺の対象となる道を回避した、班稀という男の底知れぬ生存本能の証明でもあった。