西暦一九九年。
長く不気味な沈黙を保っていた中原の情勢は、ついに巨大なうねりを伴って動き始めた。
天子を擁し、新帝都・許で莫大な国力を蓄えきった覇王・曹操が、ついに牙を剥き、その矛先を東——すなわち劉備の治める徐州へと向け始めたのである。
「……またしても、国境付近で曹操軍の示威行動があったか」
徐州の庁舎にて、劉備は重い溜息を吐き出しながら報告書を机に置いた。
本格的な侵攻ではない。しかし、国境には日増しに曹操軍の精鋭が集結し、まるで巨大な万力が徐州という小国をジリジリと締め上げるような、息の詰まる圧力が掛けられ続けていた。
劉虞という強大な後ろ盾が機能不全に陥った今、劉備の立場は極めて孤立していた。
関羽、張飛という無双の義弟がおり、さらに呂布の遺児である呂綏や并州の精鋭騎兵を抱え込んでいるとはいえ、圧倒的な物量と大義名分を持つ曹操の軍勢を正面から防ぎきることは不可能に近い。
劉備にとって唯一の救いにして、一縷の望み。
それは、北方の幽州において強大な軍事力を持つ兄弟子、公孫瓚が、未だ自分との同盟関係(味方)を維持してくれているという、ただその一点のみであった。
「いざとなれば、公孫瓚殿の騎兵が北から曹操の背後を突いてくれる」。
その可能性だけが、曹操の全軍が徐州へ雪崩れ込むのを辛うじて抑止しているはずだったのだ。
しかし、その劉備の細い希望の糸すらも、内側から呆気なく断ち切られる時が迫っていた。
幽州の庁舎の奥深く、重い薬の匂いが立ち込める病室。
心臓の病に倒れ、すっかり痩せ細って寝たきりとなった老虎・劉虞は、激しく咳き込みながら、枕元に立つ息子・*劉和に向かって必死に言葉を絞り出していた。
「……や、やめよ、劉和。公孫瓚の軍を、お前が直接動かそうなどと……。あれは、劇薬だ。お前では、決して御しきれん……!」
かつて北方を束ね上げた名君の眼力は、病床にあってもなお、事の真理を正確に見抜いていた。
しかし、大漢の宗室としての血筋だけを受け継ぎ、才覚を受け継がなかった凡庸な後継者・劉和の耳には、老いた父の忠告は全く届いていなかった。
「父上。どうかご安静に。後のことは、すべてこの私にお任せください」
劉和は、自信に満ちた(しかし中身の伴わない)笑みを浮かべて、父の言葉を軽々しく遮った。
前年の会談において、曹操から「大漢の北方を支え得る柱は貴方様しかいない」と甘言を注ぎ込まれた劉和は、すっかりその気になっていた。自分が天下を動かしているのだという、致命的な錯覚に陥っていたのである。
「私は大漢の宗室。……私の命令で公孫瓚の騎兵を動かし、徐州の劉備も従え、私がこの大漢を守ってみせます。曹操殿も、私を頼りにしておられるのですから」
「ち、違う……! 曹操は、お前を……お前たちを争わせるために……!」
劉虞が血を吐くような声で制止するのも聞かず、劉和は「では、政務がありますゆえ」と、さっさと病室を後にしてしまった。
乱世という過酷な海において、劉和はあまりにも純粋培養された「普通の貴族」に過ぎなかった。曹操の仕掛けた見えない猛毒に完全に踊らされ、自らが乗っている船の底に穴を空けようとしていることに、彼は微塵も気づいていなかったのである。
その数日後。
劉和は、公孫瓚に対して、彼が手塩にかけて育て上げた最強の精鋭騎兵部隊『白馬義従(はくばぎじゅう)』の指揮権を、自分に引き渡すよう要求する使者を送った。
「北方の軍権はすべて自分が統括する」という、曹操にそそのかされたがゆえの、あまりにも軽率で致命的な悪手であった。
この要求を聞いた瞬間、公孫瓚の中で張り詰めていた「忍耐の糸」が、完全に、そして無残にブチ切れた。
「……あの親の七光りの青二才が。ついに俺の牙まで奪おうというのか!!」
公孫瓚は、使者の目の前で書状をビリビリと引き裂き、腰の剣を床に叩きつけた。
公孫瓚は長年、北方の異民族と血みどろの戦いを繰り広げ、己の実力一つでいまの地位を築き上げた誇り高き猛将である。偉大なる劉虞の下に就くことには納得していたが、戦の「い」の字も知らない凡庸な劉和に、己の命より大切な騎兵を奪われることなど、絶対に受け入れられるはずがなかった。
「ええい、もう我慢ならん!! 劉和は曹操の毒に当てられ、完全に狂った! これ以上あいつの下についていれば、我々幽州の軍は曹操に無抵抗で飲み込まれるだけだ!」
公孫瓚の決断は、軍人らしく極めて迅速かつ苛烈であった。
彼は直ちに己の直属部隊を率いて幽州の庁舎を急襲。劉和に付き従う文官や護衛たちを瞬く間に制圧すると、抵抗すらできずに腰を抜かしている劉和を捕縛し、幽州の城の一角へ**完全に幽閉**してしまったのである。
それは、鮮やかなクーデターであった。
驚くべきことに、この公孫瓚の反逆に対して、幽州の民衆や軍の将兵たちはほとんど反対の声を上げなかった。
彼らもまた、肌で感じていたのだ。迫り来る曹操の脅威を前にして、あの頼りない劉和が上に立つよりも、圧倒的な武力と実績を持つ公孫瓚が直接全軍を指揮した方が、はるかに生存確率が高いということを。
大漢の宗室たる劉和が幽閉されたことで、北方の軍は「公孫瓚の形」へと完全に染まり上がった。
しかしそれは同時に、劉虞が築き上げてきた『漢室の正統(大義名分)』という最大の盾を、公孫瓚が自らの手でへし折ってしまったことを意味していた。
「……フッ。クックックック……!」
新帝都・許の巨大な執務室。
北方の間者から「公孫瓚が劉和を幽閉した」という急報を受け取った曹操は、木簡を手にしたまま、肩を震わせて低く、ひどく邪悪な笑い声を漏らした。
「見事だ。実に見事な自滅ぶりよ。私の撒いた毒が、寸分の狂いもなく北方の絆を腐らせ、あいつらの手で勝手に暴発しおったわ!」
曹操の脳裏に描いていた最善の盤面が、まさに現実のものとなった瞬間であった。
劉虞という巨大な重石は病に倒れ、その息子は公孫瓚に幽閉された。公孫瓚は力こそあれど、大漢の宗室を幽閉したという事実によって「朝敵」に等しい扱いとなり、もはや天下の大義名分を失った単なる反乱軍に成り下がった。
そして何より。
北方が内乱状態(機能不全)に陥ったことで、徐州の劉備の背中を守っていた「北からの援軍の可能性」が、完全に消滅したのである。
「好機だ。これ以上の機は、今後十年間は訪れまい」
曹操は笑いを収め、極寒の吹雪のような冷徹な覇王の眼光を取り戻した。
「全軍に布告せよ!! これより我が軍は、天子様の御旗の下、東の徐州を不当に占拠する逆賊・劉備を討伐する! 徐州を平らげた後は、休むことなく軍を北へ返し、主君に刃を向けた不届き者、公孫瓚を滅ぼす!!」
曹操の凄まじい号令が、帝都に響き渡る。
班稀(はんき)が蓄え続けた莫大な兵糧と、荀彧(じゅんいく)が整えた完璧な後方支援。そして、中原全土を飲み込まんとする曹操の圧倒的な武力。
劉和の致命的な愚行によって北方の盾が完全に引き裂かれたその日。
孤立無援となった劉備が待つ徐州へ向けて、中原の歴史を決定づける曹操の『苛烈なる東征』が、ついにその重厚な幕をこじ開けたのであった。
新帝都・許の宮中において、大漢の天子である献帝の御名の下に、中華全土を震撼させる『一枚の詔』が大々的に発布された。
言うまでもなく、その文面を起草し、天子の印を捺させたのは、中原の覇王・曹操である。
詔の内容は、北方の内乱を完全に「己の戦争の口実」として正当化する、極めて冷酷かつ完璧な論理で構成されていた。
『大漢の宗室たる劉和を不当に幽閉し、北方を私物化せんとする公孫瓚は、許されざる逆賊である。
また、その逆賊・公孫瓚と結託し、徐州を不法に占拠し続ける劉備もまた、大漢に弓引く同罪の者である。
丞相・曹操孟徳は、直ちに兵を挙げて徐州を解放し、しかる後に幽州の逆賊を討て。幽州ならびに徐州の兵は、速やかに鉾を収め、あるいは寝返って逆賊を討ち果たせ』
これは単なる宣戦布告ではない。
劉備と公孫瓚の頭上に、「朝敵」という絶対的な烙印を押す行為であった。
この詔が発布された瞬間、曹操の軍勢は単なる侵略者から『正義の官軍』へと昇華され、劉備は天下の誰もが討ち取ってよい『悪の権化』へと突き落とされたのである。
いよいよ、曹操の全軍が徐州をすり潰すための、巨大な軍事行動が開始されようとしていた。
許の軍議の場は、凄まじい熱気に包まれていた。
夏侯惇や曹仁ら猛将たちが血気に逸る中、激しく咳き込みながらも、軍の先頭に立とうとする一人の軍師の姿があった。
曹操の覇業を初期から支え続けてきた天才軍師、戯志才である。
「……ゴホッ、ゴホッ! 殿。この徐州侵攻、必ずや私を軍師として同行させてくだされ。劉備はただの将にあらず、関羽・張飛という刃を抱える厄介な男。……私の計略をもって、最小の被害で徐州の城門を開かせてみせます……ッ!」
青白い顔で進み出る戯志才であったが、その身体が『重篤な病』に深く蝕まれていることは、誰の目にも明らかであった。息をするたびに胸から異音が漏れ、足元すらおぼつかない状態である。
「戯志才よ。お前の忠義は痛いほど分かっている。だが、その体で軍旅の過酷な行軍に耐えられるはずがなかろう」
曹操は、顔をしかめて彼を制止しようとした。
それでもなお引き下がろうとしない戯志才の前に、二人の男がスッと立ち塞がった。
王佐の才・荀彧と、冷血なる兵站長官・班稀である。
「志才、おやめなさい。貴方の知略が比類なきものであることは百も承知です。しかし、今の貴方が戦場に出れば、敵の矢よりも先に己の病魔に倒れてしまう。それは曹操軍にとって取り返しのつかない損失です」
荀彧が、友を案じる悲痛な声で静かに諭す。
その横で、班稀は一切の感情を交えず、冷徹な『数字の論理』を突きつけた。
「戯志才殿。貴方が陣中で倒れた場合、後送のための護衛部隊、貴重な薬湯の浪費、そして何より全軍の士気低下による『進軍の遅滞』が計算上避けられません。徐州攻略の要は『速度』。貴方の同行は、我が軍の兵站と作戦行動において、明確な『足手まとい』となります」
「ぐ……っ、班稀、貴様という男は……!」
あまりにも冷酷な、しかし一切の反論を許さない正論。
戯志才はギリッと奥歯を噛み締めたが、やがて力なくその場に崩れ落ちた。自分の身体が限界であることを、誰よりも彼自身が一番よく理解していたのである。
「……分かり、ました。この戯志才、留守の許を死に物狂いで護り抜いてみせます。……どうか殿、必ずやご武運を」
己の寿命が尽きる前に、主君の覇業を見届けたいという執念。それを押し殺し、戯志才は許の留守居役として残ることとなった。
一方、曹操からの絶望的な「詔」の知らせを受けた徐州の庁舎は、重苦しい空気に沈み込んでいた。
「大漢の忠臣として生きてきた兄者が、朝敵だと!? ふざけるな、曹操の野郎、天子様を操って好き勝手書きやがって!」
張飛が怒りで蛇矛を床に叩きつける。
「益徳の言う通りだ。だが……天下の民は詔を信じる。我らは今や、完全に孤立無援の逆賊として扱われている。そして、目前には曹操の大軍……。兵糧も、矢玉も、すべてが圧倒的に足りない」
関羽が、丹鳳眼を細めて重々しく呟いた。
劉備は、自らの頭を抱え込んだ。
義兄である公孫瓚がクーデターを起こし、彼もまた逆賊とされた今、北からの援軍は絶対にやってこない。背に腹は代えられない極限の窮地であった。
そんな時である。
まるで、劉備が完全に包囲され、喉から手が出るほど物資を欲しているこの『絶望の瞬間』を、あらかじめ見透かして待っていたかのように。
徐州の城に、とある商人たちの一団が面会を求めてきたのである。
「……何? 東から来た商人だと?」
劉備は、怪訝な顔で彼らを庁舎の広間へと通した。
商人たちは、中原の者とは少し違う、簡素だが機能的な衣服を身に纏っていた。
彼らは恭しく頭を下げると、持参した長箱の蓋をパカリと開けてみせた。
「我々は東の果てより参った商人にございます。劉備様が物資にお困りとお見受けし、良質な武器と幾許かの兵糧を売り込みに参じました」
箱の中に整然と並べられていたのは、見事な仕上がりの『強弩と、無数の矢』であった。
「これは……」
関羽が思わず身を乗り出し、一本の矢を手に取った。
値段を聞けば、決して暴利をむさぼるような高い値段ではなく、かといって怪しむほど安い値段でもない。極めて「妥当な相場」であった。
だが、その『弩用の矢の品質』は、劉備たちの常識を覆すほどに異常なものであった。
「兄者、この矢……鏃の鉄の純度が、中原で出回っているものとまるで違うぞ! しかも、矢柄の太さと重心が、恐ろしいまでに寸分違わず完全に揃えられている!」
関羽の驚愕の声に、張飛も矢を奪い取ってしげしげと眺めた。
「本当だぜ。矢羽の切り込み方一つ取っても、全部同じ形だ。……こんな精巧な矢束、曹操軍の精鋭だって持ってねェぞ!」
重さと空気抵抗が完全に均一化された、大量生産の概念すら匂わせる極上の矢。
これならば、兵士の腕の良し悪しに関わらず、恐るべき命中精度と装甲貫通力を発揮することができる。まさに、少数の兵で曹操の大軍を城壁から迎え撃つための『完璧な防衛兵器』であった。
なぜ、東から来たという正体不明の商人たちが、これほど高度な技術で作られた矢を、適正価格でわざわざ持ち込んできたのか。
相手の素性も目的も全く分からない。しかし、断崖絶壁に立たされた劉備に、それを拒むという選択肢は存在しなかった。
「……背に腹は代えられん。言い値で買おう。すべての矢と物資を、我が軍に譲ってくれ」
劉備は、その商談を即座に受諾した。
海を隔てた遥か東方。極東の国家(日本国)が放った諜報と物流の触手が、中原のパワーバランスをミリ単位で調整するかのように、孤立した劉備の陣営へと『影の支援』を流し込んだ瞬間であった。
迫り来る曹操の絶対的な大軍勢。
迎え撃つ徐州軍の手には、未知なる東方の技術で作られた、恐るべき殺傷能力を持つ鋭き矢が握られていた。
―――
幽州の庁舎の奥深く。薬と死の匂いが立ち込める薄暗い病室に、重い足音が響いた。
実力行使によって幽州の全軍を掌握し、今やこの城の実質的な支配者となった猛将・公孫瓚である。
「……劉虞様。お召しにより、推参いたしました」
公孫瓚は、寝台の横に片膝をつき、深く頭を下げた。
彼は劉和という凡庸な後継者には牙を剥き、情け容赦なく幽閉した。だが、かつて北方を力と徳でまとめ上げた年長者であり、何より己が仕えた主君である劉虞に対しては、一切の不敬を働こうとはしなかった。
寝台に横たわる劉虞の姿は、あまりにも痛々しかった。
かつて大漢の法の番人として威厳に満ちていた面影は消え失せ、心臓の病によって枯れ枝のように痩せ細り、ただ荒い呼吸を繰り返している。
(……寝たきりの老人を害して権力を固めるなど、武人のやることではない)
公孫瓚の胸中にあったのは、野心や警戒ではなく、ただ純粋な『憐れみ』と、老いたる英雄への敬意であった。
「……来てくれたか、公孫瓚よ。すまないな」
劉虞は、窪んだ眼窩の奥で微かに瞳を動かし、掠れた声で語り始めた。
「劉和の馬鹿な振る舞い……心底、すまないと思っている。私の身体が不甲斐ないばかりに……いや、それ以上に、あやつの教育を根本から間違ってしまった。私が、この手で大漢の北方を腐らせたのだ……。これを恥じずして、何としようか」
「劉虞様、ご自愛くだされ。過ぎた事を悔やんでも、病が重くなるだけです」
公孫瓚は、慰めの言葉をかけるが、劉虞は静かに首を横に振った。
「……公孫瓚よ。私はな、玄徳のことが、本当に好きだったのだ」
劉虞の口から出たのは、遠く離れた徐州で孤立している皇叔・劉備への、痛切なまでの思いであった。
「あやつは、我が息子よりも遥かに出来が良かった。武勇に優れているだけではない。常に周囲の物事から目を離さず、民や兵たちへ細やかな気配りができる、本当に『出来た男』であった。……もし、私にあのような息子がいたならば。我が幽州が、このような無惨な結末を迎えることは決してなかっただろうに」
劉虞の目から、一筋の濁った涙が伝い落ちた。
そして、老いたる主は、震える枯れ枝のような手を伸ばし、公孫瓚の屈強な腕を力なく掴んだ。
「公孫瓚。これはお前の旧主としての『命令』ではない。死にゆく老いぼれの、生涯最後の『嘆願』だ」
「……何なりと」
「どうか、玄徳の徐州への援軍に赴いてやってはくれないか」
劉虞は、咳き込みながらも必死に訴えかけた。
「私の肌が、ひしひしと感じている。曹操の軍勢は、今まさに大軍をもって徐州へと向かっているはずだ。……今から出陣したところで、徐州での戦闘には間に合わんかもしれん。だが、北から曹操の『後背(背後)』を猛烈に突くことはできるはずだ。……玄徳を、あの素晴らしい男を、死なせないでやってくれ!」
劉虞の血を吐くような嘆願を聞き、公孫瓚は沈黙した。
彼の脳内で、猛将としての極めて冷静な軍事演算が駆け巡る。
(……俺の率いる精鋭騎兵『白馬義従(はくばぎじゅう)』は、平原での野戦において天下に敵はいない。曹操軍の歩兵どもなど、平野で蹴散らす自信はある)
しかし。徐州へ向けて南下するということは、曹操の強固な防衛線である『冀州南部』の拠点群を突破しなければならないことを意味する。
騎兵は平野でこそ無敵だが、城壁に囲まれた攻城戦においては全く役に立たない。堅牢な城塞を次々と攻略していくには、騎兵中心の幽州軍ではあまりにも荷が重かった。
(それに……内憂もある。俺が全軍を率いて出陣した時、果たして後ろ髪を引かれずに戦えるか?)
劉和を幽閉したことで、表面上は公孫瓚の命令に従っているが、幽州の内部にはまだ劉和に味方する者や、公孫瓚に敵対心を抱く旧勢力が少なからず潜んでいる。
もし自分が幽州に居座って防衛戦に徹しようとすれば、彼らは内側から反乱を起こし、曹操軍を幽州の城内へ『手引き』することは火を見るより明らかであった。
(……ならば。ジリ貧の籠城戦を選ぶより、こちらから討って出て、曹操の喉元へ刃を突きつける方が、軍略として正しい)
公孫瓚は、腹を決めた。
出陣して圧倒的な武威を示し続ければ、幽州内部の裏切り者どもも迂闊には動けない。それに、曹操の背後を脅かせば、徐州に向かっている曹操の主力を引き剥がすことができ、義弟である劉備を救うことにも繋がる。
「……劉虞様の御心、確かに承りました」
公孫瓚は、劉虞の手を力強く握り返した。
「幽州の守りは、我が弟に任せます。……この公孫瓚、全騎兵を率いて直ちに出陣し、曹操の背後を食い破ってみせましょう。玄徳の首、決して曹操には渡しません」
「……おお。ありがとう……ありがとう、公孫瓚よ……!」
劉虞は、安堵の表情を浮かべ、寝台に深く沈み込んだ。
公孫瓚が力強い足取りで病室を後にし、直ちに「全騎兵の南下」の号令を幽州の城に響かせ始めた頃。
病室に一人残された劉虞は、傍らに控えていた最も信頼の置ける側近を枕元へと呼ばわった。
「……書状をしたためよ。宛先は東の遼東。燕を治める、公孫度殿だ」
「はっ。いかなる内容にいたしましょうか」
劉虞が紡ぎ出した言葉は、大漢の幽州牧としての威厳をかなぐり捨てた、民を救うためだけの『完全なる白旗(降伏文書)』に近いものであった。
「一つ。我が幽州は、公孫度殿の領地に対して、今後一切の軍事行動を起こさぬと誓う。
二つ。これから起こる戦火から逃れようとする『幽州の領民』の受け入れを、どうかお願いしたい。
そして三つ。……我が幽州と燕の境界である『
側近は、その内容に息を呑んだ。
それは実質的に、幽州の東半分を無血で公孫度の燕に割譲し、領民の保護を丸投げするということであった。
「……よろしいのですか。これでは、幽州が滅びることを前提としているように思えますが」
「……滅びるさ。私には、この戦の顛末(てんまつ)がはっきりと見えている」
劉虞は、虚ろな目で天井を見上げた。
義に厚い公孫瓚は、劉備を救うために出陣した。しかし、曹操の底知れぬ軍略と、荀彧・班稀らが構築した圧倒的な兵站システムの前に、騎兵の突撃だけで勝利を収めることなど不可能である。
劉備は徐州で曹操の大軍にすり潰され、公孫瓚もまた、冀州の防衛線で泥沼の戦いに引きずり込まれ、やがて敗れ去るだろう。
大漢を支えようとした者たちは、もうすぐ皆、曹操の覇道という巨大な歯車に挽き潰されて消え去るのだ。
「私ができる最後の仕事は……漢室の体面を守ることではない。一人でも多くの民を、戦火の届かぬ『東の安全圏』へと逃がしてやることだけなのだ」
曹操の東征という巨大な嵐が吹き荒れる中、病床の老虎・劉虞は、己の死と北方の滅亡を正確に予見しながら、静かに、そして密かに民を逃す事を考えた。
しかし
「……だが。曹操の好きにはさせぬ。大漢の誇りを、あの奸賊の泥靴で踏みにじらせてなるものか……ッ!」
幽州の薄暗い病室。
公孫度へ宛てた「東への退路」を確保する密書を側近に託した後、死の淵にある老虎・劉虞は、自らの命の灯火を燃やし尽くすかのような、最後の恐るべき執念を見せた。
彼は、残された僅かな力を振り絞り、自らの指先を噛み切った。
そして、溢れ出る血を筆に含ませ、白絹の上に幾枚もの『檄文』を書き殴り始めたのである。
それは、大漢の正統たる幽州牧としての絶対の威信を懸けた、曹操追討の呼びかけであった。
『許の曹操は天子様を不当に囲い込み、偽りの詔をもって忠臣を逆賊に仕立て上げている。我が子・劉和や公孫瓚の争いも、すべては奴の放った猛毒によるもの。
天下の諸侯よ、目を覚ませ。曹操の大軍が徐州の劉備を飲み込めば、次に食い殺されるのは貴公らである。今こそ立ち上がり、曹操の背を討て。漢室の真の賊を滅ぼせ』
血で綴られたその文字は、もはや美しい書とは呼べなかった。しかし、そこには大漢を愛し、次世代を憂うひとりの老将の『凄絶な呪いと祈り』が込められていた。
「これを……天下の、あらゆる軍閥に届けよ。一人でも多く……曹操の足首を掴むのだ……!」
劉虞は最後の檄文を書き終えると同時に、血塗られた筆を取り落とし、ついにその意識を深い闇の中へと沈めていった。
しかし、現実的な軍事戦略の視点から見れば、この劉虞の決死の行動は『無駄に終わる』はずであった。
なぜなら、曹操陣営には班稀という極限の合理主義者がおり、彼が敷いた情報統制と物理的な関所の封鎖は、中原において完璧な機能を発揮していたからだ。
曹操が「東征」の軍を起こした以上、許から徐州、幽州に至るすべての街道は曹操の息のかかった兵によって厳重に監視されており、劉虞の使者が南や西の諸侯のもとへ辿り着くことなど、確率的に不可能であった。
だが。
ここで、中原の理屈を根底から覆す、『盤外からの見えざる手』が介入する。
「……北の老虎が、面白いものを遺したようですね」
幽州の城下に潜伏していた、簡素な身なりをした商人たち――『辰砂売り』である。
彼らは、劉虞の側近が密かに城外へ放とうとしていた決死の使者たちと接触し、その血文字の檄文を、自らの荷の中へと隠し入れた。
彼らは、中原の関所を通らない。
日本の(大内裏)から伸びる巨大な物流システム――すなわち、海や長江、黄河の裏面を利用した『独自の密輸航路』を用いて、凄まじい速度で大陸中を移動する術を持っていた。
日本国の算段は極めて冷徹である。
『ここで曹操が劉備を容易くすり潰し、一気に中原を統一してしまえば、巨大化した覇王の目は早急に我々(海)へと向いてしまう。中原の諸侯には、互いに血を流し合い、可能な限り長く争い続けてもらわねばならない』
その冷酷なシステム維持の論理と、劉虞の最期の執念が、奇跡的に合致したのである。
辰砂売りたちは、班稀の敷いた鉄壁の包囲網を嘲笑うかのように水路と裏道を駆け抜け、曹操の監視の届かない場所から、次々と天下の諸侯のもとへ「劉虞の血書」をバラ撒いていった。
「…………っ!!」
新帝都・許の執務室において。
留守を預かっていた班稀は、各方面に放っていた間者からの報告書を読み、かつてないほどの『戦慄(せんりつ)』に襲われていた。
(馬鹿な。あり得ない。……劉虞の檄文が、長安の残党、益州の劉焉、さらには江東の孫策の元にまで『同時に』届いているだと!?)
班稀の計算では、劉虞の使者は絶対に国境を越えられないはずであった。関所の記録にも、怪しい者の通行は一切残されていない。
まるで、手紙が幽州から空へ飛び立ち、各地へ雨のように降り注いだとしか思えない、物理法則を無視した現象。
だが、班稀の極限の脳は、ただ一つの『正解』に即座に行き着いていた。
(……あの連中だ。日本国の間者、『辰砂売り』が、意図的にこの情報を運んだのだ!)
盤面を完全にコントロールしていると信じていた班稀にとって、それは自身の計算システムを根底からハッキングされたに等しい、屈辱的な完全敗北であった。
今すぐ辰砂売りを捕縛し、この情報漏洩を曹操に報告すべきか。
「……いや。駄目だ。動けない」
班稀は、ギリッと奥歯を噛み締め、木簡を握り潰した。
以前の算段通り、今ここで日本の諜報網を摘発すれば、東の巨大な虎が中原の経済と物流を本格的に破壊しにかかってくる。徐州へ全軍を向けている曹操の背中が、日本国によって物理的に切断される危険性があった。
(……連中は『手を出せば刺す』という無言の脅しを、この檄文の配達で私に突きつけてきているのだ。……見事だ。この盤外の化け物どもめ)
最も有能な算術士である班稀は、この致命的な情報漏洩を知りながらも、己の主君の覇道を守るため、血を吐くような思いで『沈黙』を強制されることとなった。
かくして。
班稀の沈黙と、見えざる手(辰砂売り)の暗躍により、劉虞の血文字の檄文は、曹操の思惑を完全に無視して各地の軍閥の心に強烈な火を放った。
江東の庁舎では、孫策がその血書を読み、獰猛な笑みを浮かべていた。
「……面白い。北の老虎の最後の咆哮か。曹操が徐州で手間取るようなら、俺の水軍で許の喉元を食い破ってやるのも一興だな」
西涼に割拠する馬騰や韓遂も、長安の向こうで不穏な動きを見せ始める。
そして、曹操の背後へと進軍を開始した公孫瓚の白馬義従の足取りも、劉虞の決死の思いを知ったことで、より一層の悲壮な覚悟と速度を帯びていた。