老虎・劉虞が己の命と引き換えに放った血文字の檄文は、中原の西、荒涼たる西涼の地にも確実に届いていた。
この地を支配する二大軍閥、馬騰と韓遂は、直ちに軍を東へ向け、曹操の背後を脅かすべく動き出した。
無論、彼らを突き動かしたのは、漢室を思う純粋な「義心」などではない。むき出しの『下心』であった。
「劉虞の言葉が真実ならば、我々が曹操を討つ『官軍』となり、曹操こそが『賊軍』となる。……つまり、大義名分を掲げて、豊かな中原の領地を攻め放題、奪い放題というわけだ」
許の都には本物の天子がいる。天子を取るか、劉虞の遺した大義名分を取るか。馬騰と韓遂は、より自分たちの「旨味(領土拡大)」の大きい後者を選んだのである。
だが、中原を統べる覇王・曹操が、この西の野犬どもの動きを予期せぬはずがなかった。
曹操が東の徐州へ主力を向ける中、馬騰・韓遂の進軍ルートには、彼らを迎え撃つべく強固な防衛線がすでに敷かれていた。
曹操が西の守将として派遣した男、
皇甫酈が率いていたのは、曹操の正規軍だけではない。彼の周囲には、関中一帯の小勢力や、かつては反乱軍であった「元・黄巾軍」の生き残りなど、数多くの者たちが自発的に集結し、盾として立ち塞がっていた。
彼らを糾合させたのは、他でもない『曹操の安定した統治への憧れと尊崇』である。
略奪を繰り返す西涼の軍閥がなだれ込んでくるより、法と兵站を重んじ、屯田によって民に食を持たせる曹操の支配下で生きる方が遥かに良い。その現実的な判断が、彼らを曹操側へとつかせたのだ。
軍勢の数は、馬騰・韓遂の連合軍が「六」に対し、皇甫酈の防衛軍が「四」。
数では西涼軍が勝っていたが、己の生活基盤を守らんとする防衛軍の士気は高く、戦線は完全に膠着し、血みどろの一進一退の攻防が開始されたのであった。
一方、東の主戦場。
劉備と曹操の軍勢は、徐州の玄関口であり、交通と兵站の絶対的な要衝である『
彭城は、分厚い城壁と深い堀を備えた、一見すれば極めて堅牢な城郭都市である。
圧倒的な兵力差を持つ曹操軍は、当然ながら「劉備は彭城に立てこもり、亀のように守りを固めるだろう」と睨んで、攻城兵器と包囲の準備を進めていた。
しかし。曹操の予測に反し、彭城の重い城門が大きく開かれた。
劉備は、自らの全軍を率いて城を出て、曹操軍の眼前に広がる『平野』へと堂々と陣を敷いたのである。
「……城を捨てるだと? 狂ったか、劉備」
陣幕からその光景を見た曹操は、微かに眉をひそめた。
だが、劉備の直感は、軍略の理を超えた『真の最上作』を正確に導き出していた。
確かに彭城は堅城だが、それは「いずれ外から援軍が来る」という前提があって初めて機能する。北の公孫瓚が動けない(と劉備は思っている)以上、援軍は永遠に来ない。
そんな状態で籠城すればどうなるか。
曹操の得意とする徹底的な兵糧攻め、あるいは水攻めを受ければ、城壁は脆く崩れ、水に浸かった兵糧は無惨に腐り果てる。
そして何より、城内に閉じ込められた民衆は地獄の苦しみを味わい、やがて飢えと恐怖によって「人心」が完全に離れてしまう。
(曹操は、勝つためならば城の民を虐殺することも決して躊躇わない男だ……!)
徐州の市井の人々は、かつて曹操が父の仇討ちと称してこの地で無差別虐殺を行おうとした際、劉備が身を挺してそれを止めてくれた恩を決して忘れていない。彼らを守り抜くことこそが、劉備の『大義』である。
民の住む街を戦火で焼くわけにはいかない。民を飢えさせるわけにはいかない。
であるならば、背水の陣となろうとも、城の外に軍を展開し、敵を城に一歩も近づけさせない戦いを選ぶほかに道はなかったのである。
平野を埋め尽くす曹操の大軍勢と、それを迎え撃つ劉備の軍勢。
両軍が一定の距離を保ち、ジリジリとした神経を削るような睨み合いが続く中。曹操は、馬上で敵陣の布陣を観察し、ある種の『強烈な違和感』を覚えていた。
(……おかしい。兵の数が圧倒的に足りていないにも関わらず、敵軍の戦意が異常なまでに高い)
曹操は、自らの緻密な兵站と数の暴力を見せつければ、劉備軍の末端の兵たちは恐怖に駆られて逃げ出すか、士気が崩壊すると計算していた。
しかし、劉備の兵たちは一歩も退かず、未知の東方から仕入れた精巧な強弩を構え、殺気をみなぎらせている。
そして曹操の目を何よりも引いたのは、敵軍の右翼に高く掲げられた二つの旗であった。
仁徳を示す『劉』の旗。
そして、それに並び立つように翻る、かつて中原を恐怖の底に陥れた鬼神の文字――『呂』の旗である。
「并州の騎兵どもか。劉備が呂布の残党を匿っていることは知っていたが……」
曹操は目を細めた。
呂布という絶対的な求心力を失った裏切り者の集団が、あそこまで一糸乱れぬ統制を保ち、劉備の軍と完全に団結しているなど、曹操の計算の外であった。
(張遼や高順といった猛将たちがいるのは分かる。だが、あの気位の高い并州の獣どもを、一体『誰』がここまで完璧に束ね上げているというのだ……?)
曹操の鋭い眼光をもってしても、その答えには決して辿り着けなかった。
無理もない。并州騎兵の先頭に立ち、父譲りの無双の肉体と薙刀を構えて全軍を鼓舞しているのが、未だ年端もいかない呂布の娘、『呂綏』という名の「女将」であるなどと、合理主義の塊である曹操には夢にも思わないことだからである。
息の詰まるような対陣が数日続いた。
劉備は動かない。曹操もまた、東の強弩の射程と并州騎兵の突撃を警戒し、容易には攻め手を見出せずにいた。
その静寂を破ったのは、許の都から昼夜を問わず駆け込んできた一騎の早馬であった。
「申し上げます!! 北方より、幽州の公孫瓚が全騎兵を率いて南下! 我が軍の背後を突く構えを見せております!!」
劉虞の死の嘆願を受け入れた公孫瓚が、ついに動いたのである。
「……なるほど。西の馬騰に続き、北の公孫瓚もか。老虎の遺した策が、我が軍の包囲網をジリジリと狭めてきているというわけだ」
曹操は、早馬の報告を聞き、自らの喉元に冷たい刃が突きつけられつつあることを正確に理解した。
もしこのまま彭城で劉備と睨み合いを続ければ、背後から公孫瓚の白馬義従に補給線をズタズタに引き裂かれ、曹操軍は中原の平野で完全に孤立して飢え死にする。
「……ならば、腹を決めるまでよ」
曹操は、腰の
「北の公孫瓚は、留守を預かる戯志才の知略と命の炎が、必ずや足止めしてくれよう。……我らが為すべきはただ一つ。公孫瓚の刃が我が軍の背に届くよりも早く、目の前の徐州を完全に叩き潰すことのみ!!」
前方の劉備、後方の公孫瓚。
二つの巨大な軍事力に挟撃される形となった曹操であったが、彼は退くことを選ばなかった。死地に残してきた病の天才軍師に背後を完全に任せ、己の全兵力と殺意のすべてを、眼前に布陣する劉備の軍勢へと解き放つ決断を下したのである。
「全軍、前進!! 彭城の平野を血で染め上げ、偽りの皇叔の首を我が足元に転がせ!!」
西暦一九九年。
彭城の平原において、曹操軍の圧倒的な歩兵と突撃部隊が、大地を揺るがす咆哮と共に、ついに劉備の防衛線へと猛烈な雪崩を打って襲い掛かった。徐州の存亡を懸けた大決戦の火蓋が、いままさに切って落とされたのである。
―――
曹操軍:
【実数】 約 50,000 〜 60,000 人
内訳:精鋭歩兵・弓兵 40,000、騎兵(青州兵・中軍騎兵など) 10,000以上。
西(馬騰)と北(公孫瓚)に対する防衛戦力を残しつつも、中原の動員力を限界まで引き出した、当時の単一作戦としては最大級の遠征軍。班稀の完璧な兵站システムにより、この大軍が「飢えることなく」前線に張り付いていること自体が最大の脅威。
【演義風の公称数】 「三十万の大軍」
「天子の詔を奉じた官軍三十万、彭城の野を埋め尽くす」と号し、徐州の民や敵兵の戦意を物理的・心理的に圧殺するためのハッタリの数字。
曹操軍の戦術:『波状粉砕と、猛獣の絞め殺し』
曹操の基本方針は「力による圧殺と早期決着」です。背後(公孫瓚)の脅威が迫っているため、被害を度外視してでも劉備の陣形を最短時間で粉砕する戦術をとります。
圧倒的物量による波状攻撃(ウェーブ)
強弩による死の雨(キルゾーン)を想定した上で、歩兵部隊を分厚く何重にも配置し、第一陣が壊滅しても間髪入れずに第二陣、第三陣を突撃させます。「矢の数よりも、押し寄せる兵の数の方が多い」という状況を作り出し、劉備軍の防衛陣形を物理的な重さで押し潰します。
大盾部隊(装甲)の突貫
許で生産された分厚い大盾を持たせた重装歩兵を最前線に置き、被害を吸収させながら強引に距離を詰めます。一度でも乱戦(白兵戦)に持ち込めば、数の有利が圧倒的に活きるためです。
精鋭騎兵(虎豹騎の原型)による両翼の封じ込め
劉備軍に并州騎兵がいることは曹操も警戒しているため、曹仁や夏侯惇に率いさせた曹操軍の精鋭騎兵を自軍の両翼に展開します。并州騎兵がカウンターに出た際、数に物を言わせてこれを包み込み、機動力を奪って絞め殺す(無力化する)腹積もりです。
劉備軍:背水の陣と無双の遺産
【実数】 約 15,000 〜 18,000 人
内訳:徐州の正規歩兵・民兵 12,000、并州騎兵(呂布の残党) 3,000〜4,000。
総兵力では曹操軍の3分の1以下。しかし、大飢饉を生き抜き劉備の仁徳に報いようとする士気の高い歩兵と、天下最強と謳われた并州の騎兵部隊を完全に統合しているため、実戦における「練度と密度」は極めて高い。
【演義風の公称数】 「十万の義兵」
「徐州の民がこぞって皇叔のために立ち上がり、十万の壁となって曹操を阻む」と称される。防衛側が自らの正当性と決死の覚悟を示すための数字。
劉備軍の戦術:『防衛方陣と、東洋の死の雨』
劉備軍の基本方針は「迎撃とカウンター」です。数の暴力に対して正面からぶつかることは避け、極限まで引き付けてからの致命的な打撃を狙います。
強弩の弾幕形成
日本から購入した「規格が完全に統一された東の矢」と強弩を前列に集中配備。中原の粗悪な矢とは異なり、射程・貫通力・命中精度が異常に高いため、曹操軍の重装歩兵の盾や鎧すらも容赦なく貫く「死の雨」を降らせ、平原の中央に絶対的なキルゾーンを構築します。
背水の陣による重装方陣(ファランクス)
関羽を中核とし、彭城を背にして一歩も退かない密集陣形を組みます。民を守るという絶対の目的があるため、兵の士気は崩壊せず、曹操軍の波状攻撃を盾と長槍の壁で受け止めます。
并州騎兵による側面蹂躙(カウンター)
戦線が膠着し、曹操軍の歩兵陣形が強弩の雨で乱れたその一瞬の隙を突き、両翼に隠していた張遼・高順・呂綏の率いる并州騎兵を解き放ちます。狙うは曹操軍の側面、あるいは本陣の曹操の首一つ。
―――
徐州の要衝・彭城の城外に広がる平原は、おびただしい数の命がすり潰される、凄惨な血の泥濘と化していた。
「構えよッ! 引き付けろ……今だ、放てェッ!!」
劉備軍の陣形の中央から、無数の強弩が恐るべき唸り声を上げて一斉に解き放たれる。
東の果て、極東の国家から密かに持ち込まれた「規格化された矢」は、その異常なまでの命中精度と貫通力をもって、曹操軍が誇る重装歩兵の分厚い大盾を次々と紙切れのように貫いていった。
「ぐわぁぁっ!」
「た、盾ごと腕が……ッ! 怯むな、前へ出ろ! 止まれば後ろから踏み潰されるぞ!」
曹操軍の兵たちは、死の雨が降り注ぐ絶対的なキルゾーンに踏み込みながらも、その足を決して止めなかった。
覇王・曹操が敷いた戦術は、極めて冷酷かつ単純な『波状攻撃』である。
第一陣が矢に射抜かれて全滅しようとも、間髪を入れずに第二陣、第三陣の歩兵を突撃させる。強弩の装填が間に合わない僅かな隙間を、自軍の兵の『命の量』で埋め尽くし、強引に劉備軍の第一列へと肉薄したのである。
ガガガァンッ!!
盾と盾、槍と鉾が激突する、凄まじい金属音が平原に響き渡る。
「オラァァァッ! 曹操の犬ども、俺の蛇矛の錆にしてやる!」
張飛が、黒馬を駆りながら巨大な蛇矛を振り回し、群がる曹操軍の重装歩兵を十数人まとめて吹き飛ばす。
その反対の翼では、関羽が冷徹な表情で青龍偃月刀を振るい、近づく者すべてを血の霧へと変えていた。
さらに、戦線の膠着を狙って曹操軍の歩兵部隊が密集したその瞬間。
「……并州の狼たちよ、親父の無念を今ここで晴らすぞ! 蹂躙せよッ!!」
若き女将・呂綏の甲高い、しかし鬼神の如き号令と共に、隠されていた并州騎兵が劉備軍の両翼から凄まじい速度で牙を剥いた。
張遼、高順といった百戦錬磨の猛将に率いられた騎兵の突撃は、曹操軍の側面を深く抉り、重装方陣を内部から引き裂いてい
。
「……見事だ。数で圧倒的に劣りながら、我が軍の精鋭をここまで押し留めるとは」
自陣の奥深く、馬上で戦況を俯瞰していた曹操は、血の海と化していく平原を見つめながら、その目に見えない『敵の強靭さ』に舌を巻いていた。
ただの烏合の衆ではない。劉備という神輿を中心に、徐州の民兵、関羽・張飛の武力、そして呂布の遺産が、一つの強固な意志をもって完全に結びついている。
「だが、お前たちのその『意志』を、圧倒的な『暴力』で叩き折らねば、我が覇道はここでついえる。……夏侯惇、
曹操の容赦のない全軍突撃の号令により、戦場はさらなる混沌と殺戮の渦へと叩き込まれていったのである。
開戦から数刻。
太陽が西に傾きかける頃、ついに戦局は決定的な動きを見せた。
いかに劉備軍の強弩が優れ、関羽や張飛が一騎当千の働きを見せようとも。いかに呂綏と并州騎兵が死物狂いで駆け回ろうとも。
曹操が中原の全土からかき集めた「五万を超える正規軍」の絶対的な物量の前には、一万数千の劉備軍は徐々に、しかし確実に削り落とされていったのである。
「……兄者! これ以上は無理だ! 前線の兵たちが持ちこたえられねェ!」
血まみれになった張飛が、馬を飛ばして劉備の本陣へと駆け込んでくる。
「殿! 曹操の騎兵部隊が、我が軍の右翼を完全に包囲しつつあります! このままでは本陣が孤立し、総崩れとなります!」
張遼もまた、焦燥の表情で撤退を具申した。
劉備は、唇から血が滲(にじ)むほど強く歯を食い縛った。
眼前の平原には、数え切れないほどの自軍の兵たちが倒れ、それでもなお曹操の軍勢は黒い津波のように押し寄せてくる。彭城を守り抜くという大義は、もはや物理的な限界を迎えていた。
「……退くぞ」
劉備は、血の涙を流さんばかりの悲痛な声で号令を下した。
「全軍、彭城には戻らず、このまま後方へと撤退せよ! 殿は私が務める! 一人でも多くの兵を連れて、南へ落ち延びるのだ!!」
彭城の城門を背にしていた劉備軍は、城の中へ逃げ込むのではなく、城を完全に放棄して南の街道へと組織的な撤退を開始した。
関羽と張飛、そして并州騎兵が死に物狂いで曹操の追撃部隊を跳ね返し、強弩の最後の矢束を放って足止めをする中、劉備の軍勢はボロボロになりながらも、決して『壊滅』することなく、戦場からジリジリと退いていったのである。
「……追え! 劉備の首を絶対に逃すな!!」
曹操の陣営から激しい追撃の命令が下る。
しかし、その時。曹操の元へ、北の冀州から早馬が飛び込んできた。
『急報!! 幽州の公孫瓚軍・三万の騎兵が、我が方の防衛線を突破せんと猛攻撃を開始!! 留守を預かる戯志才様より、至急の援軍要請にございます!!』
「……ッ!!」
曹操は、追撃の号令を口にしかけたまま、ギリッと奥歯を鳴らして沈黙した。
劉備は逃げた。だが、今ここで無理に劉備を深追いし、軍の陣形を崩して南下すれば、間違いなく北から公孫瓚の騎兵に背後を食い破られ、新帝都・許が陥落する。
「……全軍、停止! 追撃を打ち切れ。彭城の入城をもって、この戦を我が軍の勝利とする!」
平原を制圧し、彭城という要衝を手に入れた。
戦術的に見れば、この戦いは間違いなく『曹操軍の圧倒的な勝利』である。劉備は手痛い被害を受け、這々の体で逃げ出していったのだ。
だが。
馬上で血塗られた平原を見渡す曹操の顔に、勝利の歓喜は一切なかった。
(……負けたのは、私の方かもしれんな)
曹操は内心で、冷たい敗北感を噛み締めていた。
彼が東征において真に求めていたのは、「彭城という土地」ではない。『劉備という男の命』と、『彼に付き従う軍勢の完全な殲滅(であった。
土地など、後からいくらでも奪い返せる。だが、あの異常なまでの求心力を持つ劉備という人間の『芯』をここで叩き折ることができなかったことは、曹操の覇道にとって、取り返しのつかない致命的な『取りこぼし』であった。
結果として。
この彭城での曹操の「追撃断念」こそが、劉備に体制を立て直し、徐州からジリジリと軍を南下させて移動するための『決定的な時間』を与えることとなる。
逃げ延びた劉備が、やがて南の地で諸葛亮らと出会い、江東の孫権と結びついて曹操に牙を剥く。
まさにこの瞬間こそが、後世の歴史家が記す『三國鼎立の萌芽が、完全に確定した瞬間』だったのである。
追撃を断念した曹操は、一旦部隊を後退させて隊列を整え直し、彭城には数千の守備隊を残すのみとして、主力を引き連れて北の公孫瓚を迎撃すべく軍を反転させた。
一方、主を失った彭城の城内。
堅牢な城壁の内側に隠れ、震えながら戦の結末を待っていた市井の民衆たちは、劉備軍が敗走し、曹操軍が城へ入城してきたと聞いて、深い絶望と恐怖に包まれた。
「……ああ、終わりだ。かつてこの徐州の民を皆殺しにしようとした、あの悪魔の曹操軍がやって来たのだ。俺たちは皆、首を刎ねられるか、生き埋めにされるに違いない……」
民たちは家の中に閉じこもり、来るべき虐殺の瞬間に備えて祈り続けた。
しかし。数日が経過しても、城内で略奪の火の手が上がることも、民が広場に引きずり出されて惨殺されることもなかった。
入城した数千の曹操軍の守備隊は、厳格な軍律によって統制されており、民の財を奪うことも、女を犯すこともなく、ただ淡々と城の防衛設備の修繕と治安維持を行っていたのである。
「……えっ? 殺されないのか?」
「曹操の軍は、我々から何も奪わないぞ……?」
民衆たちの間に、拍子抜けしたような、しかし心底からの安堵の溜息が広がっていった。
曹操とて、無意味に虐殺を好む狂人ではない。
かつての徐州大虐殺は、父を殺された私怨と、敵の兵站を物理的に破壊するという極端な戦略に基づくものであった。
だが今は違う。背後には公孫瓚が迫り、西には馬騰がいる。これ以上、徐州の地で無用な恨みを買い、民の反乱を招いて治安維持に兵力を割くような余裕は、今の曹操軍には一切なかったのである。
班稀の計算に基づく「最も効率的な統治」。それこそが、曹操軍が彭城の民を虐殺しなかった最大の理由であった。
また、南へ逃れた劉備軍にとっても、これはある意味で幸いであった。
「城を奪い返すために、再び彭城を攻撃する」という選択肢は、兵糧と備蓄を失った今の劉備軍には物理的に不可能である。
しかし、城内の民が虐殺されず、無事に生き延びているという事実を知った劉備は、深い安堵の涙を流し、「今はこれ以上、民を戦火に巻き込むべきではない」と、己を納得させてさらなる南下を決断することができたのである。
彭城での血戦が終わったその頃。
視点を北へと移せば、そこには曹操の背後(冀州)を猛烈な勢いで攻め立てる、公孫瓚率いる三万の『白馬義従』の姿があった。
「ええいッ! またしても城の門が固く閉ざされておるわ! 臆病風に吹かれたか、曹操の犬どもめ!」
公孫瓚は、冀州南部の拠点群の前に陣を敷き、馬上から忌々しげに舌打ちをした。
彼の狙いは、劉備を救うために曹操軍の背後を荒らし回り、敵の主力を引き剥がすことである。そのためには、野戦で敵を徹底的に打ち破り、その圧倒的な機動力を見せつける必要があった。
だが、公孫瓚の苛烈な挑発に対しても、曹操の拠点を守る守備隊は、一切城から討って出ようとはしなかった。
「……ゴホッ、ゴホッ! 焦るな。絶対に、城から出てはなりませんぞ」
冀州の防衛司令部。
病によって青白い顔をした天才軍師・戯志才は、血の混じった痰を吐き出しながら、冷徹に防衛の指揮を執っていた。
「公孫瓚の騎兵は、平原においては天下無双。我々が野戦に持ち込まれれば、瞬く間にすり潰されます。
……ですが、いかに優れた騎兵であろうと、分厚い城壁を飛び越えることはできません」
戯志才の戦術は、極めてシンプルかつ嫌らしいものであった。
公孫瓚の進軍ルート上にあるすべての城塞の門を固く閉ざし、周囲の兵糧をすべて城内に運び込む「堅壁清野」を徹底。
公孫瓚が挑発しようが、罵声を浴びせようが、ただひたすらに亀のように首を引っ込め、絶対に平原での戦い(野戦)に応じない。
公孫瓚にとって、これは最も苦しい展開であった。
騎兵では城を攻め落とせない。かといって、城を無視してさらに奥地(許の都)へと進軍しようとすれば、無傷の城塞群が自軍の背後に残り、完全に補給線を絶たれて『包囲殲滅』される危険性が極めて高い。
「おのれ、戯志才……! 病に伏せていると聞いていたが、なんという強固な『亀の甲羅』を築きおったか!」
公孫瓚は、城から引きずり出すつもりの敵が全く動かないのを見て、苦汁を舐める思いであった。
戯志才は、己の命の炎を燃やしながら、公孫瓚の「攻撃のベクトル」を上手く逸らし、決定的な被害を出すことなく、ただひたすらに時間を稼いでいたのである。
あとは、彭城で劉備を退けた曹操の主力が帰還するのを待つだけ。
曹操の本軍が戻ってくれば、城に立てこもる防衛軍と、背後から迫る曹操軍とで、公孫瓚の騎兵を完全に『挟み撃ち』にする算段であった。
「……このままでは、ジリ貧だ」
進軍の足が完全に止まり、冀州の城塞群の前で無為な時間を過ごす公孫瓚の心に、激しい『焦燥感』が渦巻いていた。
南の彭城からの情報によれば、劉備はすでに曹操との決戦に敗れ、南へと落ち延びたという。
劉虞の最後の願いである「劉備の救出」に間に合わなかった。そして今、自分は曹操の軍師の防衛線に阻まれ、身動きが取れなくなっている。
さらに悪いことに、彼が留守を預けてきた幽州の内部でも、劉和を支持する残党たちが不穏な動きを見せ始めているという報告が届いていた。
このままここで時間を浪費し、曹操の本軍が戻ってくれば、いかに白馬義従といえども、地の利を失った敵陣のど真ん中で勝機を見出すことは難しい。
「……ならば」
公孫瓚の脳裏に、一つの『決断』が閃いた。
「我が軍の機動力を活かし、軍を二つに分ける!」
公孫瓚は、幕僚たちを集めて自らの策を告げた。
「俺は残りの主力を率いて、このまま幽州へと反転し、一時的に防衛線を再構築する。……しかし、ただ逃げ帰るのではない。我が誇る『白馬義従』の精鋭、その半分(一万騎)を切り離し、曹操の包囲網を大外から迂回させて……南へ逃れた劉備の元へと送り届ける!!」
「なっ……お待ちください、公孫瓚様!」
幕僚の一人が、血相を変えて進み出た。
「我が軍の最大の武器は、三万の騎兵の『圧倒的な集中力と衝撃力』にございます! ここで最強の矛である白馬義従を割いてしまえば、曹操の本軍が迫った際、対抗する術を失ってしまいますぞ!」
「分かっている!!」
公孫瓚は、幕僚の言葉を大音声で怒鳴りつけた。
「だが、ここで全軍を連れて俺が北へ逃げ帰れば、劉備はどうなる!? あの男は、武器も兵糧も失い、追撃を受ければ間違いなく南の地で野垂れ死ぬ! ……劉虞様は、俺にあの男を救えと嘆願されたのだ。俺の最強の騎兵を劉備の元へ送り届け、彼の南下を助けることこそが、俺にできる最後の『義』なのだ!!」
公孫瓚の目には、猛将としての冷徹な戦術眼ではなく、己の誇りと恩義に殉じようとする『悲壮な決意』が宿っていた。
かくして。
公孫瓚は、己の全戦力の中核である白馬義従の一部を完全に切り離し、包囲網の隙間を縫って遥か南の劉備の元へと向かわせた。そして自らは、残された戦力を率いて、苦しくも北の幽州へと撤退を開始したのである。
この時、公孫瓚が下した「軍を分ける」という決断。
それは、彼自身の運命と、大漢帝国の未来を決定づける、最も重大な『分水嶺』であった。
純粋な「戦術的視点」から見れば。
幕僚が指摘した通り、これは紛れもない『愚策中の愚策』であった。
もし公孫瓚がここで白馬義従を一切分断せず、三万の騎兵を完全な状態で保持したまま幽州へ撤退し、防衛を固めていれば。
後に必ず起こるであろう「曹操との北方の総決戦(史実における易京の戦い、あるいは官渡に類する大戦)」において、彼は数の上でも、騎兵の圧倒的な衝撃力でも、曹操軍と互角以上に渡り合うことができたはずなのである。
軍を分割したことで自らの戦力を決定的に削いでしまった公孫瓚は、この後、幽州に迫る曹操の大軍の前にジリ貧の戦いを強いられ、やがて悲劇的な最期を遂げる運命を決定づけてしまった。
しかし。
後世の歴史家たち、あるいは遥か極東で盤面を俯瞰している日本の広庭たちの「戦略的視点」から見れば。
この公孫瓚の愚策こそが、中原の歴史を最も面白く、かつ複雑に引き伸ばした『無意識の慧眼』であったと評価されるのである。
なぜなら。公孫瓚が身を削って送り届けた「白馬の精鋭騎兵」が合流したことによって。
彭城で敗れ、裸同然で南へと逃げ延びようとしていた劉備の軍勢は、奇跡的な『機動力と突破力』を手に入れることとなったからだ。
曹操の厳しい追撃網を白馬の騎兵が切り裂き、劉備はついに中原の枠組みを抜け出し、遥か南方の荊州、そして江東の孫権勢力と結びつくための過酷な旅路を生き延びることができたのである。
もし公孫瓚が軍を分けていなければ、劉備は南下する前に曹操軍に追いつかれ、その命を絶たれていた可能性が高い。
公孫瓚が自らの勝利(戦術)を捨てて劉備に軍を分け与えたからこそ。中原を圧倒的な力で統一しようとした曹操の覇道は再び阻まれ、劉備、曹操、そして江東の孫家による『三國鼎立』という、途方もない長期の戦乱(バランス)の時代が、完全にその幕を開けることとなったのだ。
数多の英傑たちがそれぞれの正義と野心、そして冷徹な算段をぶつけ合ったこの年の中原は。
一人の猛将が義のために下した愚直な決断によって、誰にも予測し得ない『全く新しい歴史のうねり』へと、その舵を大きく切ったのであった。