西暦二百三年。
荊州の最前線である新野を預かる劉備の元へ、ついに曹操軍が本格的な討伐の軍を差し向けた。夏侯惇と李典が率いる精鋭部隊である。
これに対し、劉備は自陣を焼き払って退却を装い、敵を狭い谷間へと誘い込むという見事な伏兵戦術に出た。世に言う『
「今だ! 伏兵、打って出よ! 曹操の軍を焼き尽くせ!!」
火計が成功し、大混乱に陥る夏侯惇の軍勢に対し、劉備軍の猛将たちが一斉に牙を剥いた。
公孫瓚の遺産である『白馬義従』が凄まじい突撃を敢行する中、その純白の騎兵たちに全く引けを取らない、圧倒的な武威を放ちながら敵陣を蹂躙する一陣の風があった。
「そこを退けぇッ!!」
巨大な薙刀を風車のように振り回し、次々と曹操軍の兵を吹き飛ばしていく女将。
天下無双と恐れられた『飛将』呂布の血を引く愛娘、呂綏である。
この時、彼女は数えで十九歳。
武将としての最盛期を迎えつつある彼女の身体は、中原の成人男性の平均を遥かに凌駕していた。身長およそ七尺五寸(約175センチ弱)と立派な体格を持つ劉備と並んでも、彼よりさらに「拳一つ分(約10センチ)」は大きい。
かつて身長七尺三寸(約223センチ)という巨体で天下を震え上がらせた父・呂布の血(遺伝)は、この娘の肉体にも規格外の恩恵を与えていた。彼女の繰り出す一撃は重く、そして速い。彼女が率いる并州騎兵は、白馬義従と共にこの博望坡の戦いで最大の功労を挙げる猛将ぶりを遺憾なく発揮したのである。
大勝利を収め、意気揚々と新野の城へと凱旋した劉備軍。
だが、戦場では鬼神のごとき働きを見せる呂綏にも、年頃の娘としての「別の戦い」が待っていた。
「……綏や。今日もまた、縁談の使いが断りを入れてきましたよ……」
新野の屋敷の奥。呂綏の母である厳氏が、卓に突っ伏してホロホロと涙を流していた。
十九歳という年齢は、この時代においてはとうに婚姻を済ませていなければならない歳である。母としては可愛い娘に早く良き夫を見つけてやりたいと、荊州の文官や豪農に何度も縁談を持ちかけていた。
だが、いざ見合いの場となると、男たちは皆、自分より頭一つ分以上もデカい呂綏の巨体と、戦場で曹操軍を血祭りにあげているという武名を前にして、完全に恐れをなし、尻尾を巻いて逃げ出してしまうのだ。
「ごめんなさいね……。妹は普通の背丈に産んでやれたのに、お前ばかりがこんなに大きく……。母の力が足りないばかりに、お前に普通の幸せをあげられない……」
「母上。謝ることなどありません。私は父上から貰ったこの身体を、誇りに思っていますから」
呂綏は、泣き崩れる母の華奢な肩を、大きくて武骨な手で優しく抱き寄せた。
彼女が大きかったのは、身体の背丈だけではない。その『心の器』もまた、並外れて大きかったのである。
(……それに、婚姻をしたところで、戦場で私より弱いような男を夫にして、何が楽しいというのだ)
それが呂綏の偽らざる本音であった。
とはいえ、母がこれほどまでに心を痛め、涙を流して頼み込んでくるのであれば、相手が多少貧弱な男であろうと、渋々受けて立とうという度量も持ち合わせている。
ただ、その「渋々」にすら届く前に、男たちの方が勝手に逃げ出してしまうのだから、彼女としてもどうしようもなかった。
博望坡での戦いを終え、呂綏が率いる并州騎兵部隊は、戦死者や負傷者で空いた穴を埋めるため、新野の街で新たな志願兵の募兵を行っていた。
「並べ! 身体の強健な者から順に試験を行う! 我らが女将・呂綏様の部隊は、中途半端な覚悟の者は……ん?」
募兵を取り仕切っていた并州の古参兵が、列の中に並ぶ『奇妙な男』を見て眉をひそめた。
中原の者ではないような身なり。歳は三十代の後半。無精髭を蓄え、どこか飄々とした空気を纏う、風来坊のような男。
先頃、荊州の丘の上で握り飯を食いながら戦場を眺めていた日本国の出奔王族、比企景明であった。
「……おい、そこのあんた。見ない顔だが、どこの生まれだ? 何故、この并州騎兵を志願した?」
「俺か? 俺はただの旅の者だ。少しばかり武芸の心得があるんでね、飯の種にでもしようかと思ってな。……それに」
景明は、ニヤリと笑って募兵の陣幕の奥を指差した。
「あそこにいる『デカいお嬢さん』の戦いぶりが、丘の上から見ていて一番面白かったんでね。どうせ命を張るなら、あんな上官の元が良いと思ってな」
「貴様ッ! 我らが呂綏様を侮辱するか!」
激昂した古参兵が槍の石突きで殴りかかろうとした瞬間。
陣幕の奥から、ズシン、ズシンと重い足音を響かせて、巨大な影が姿を現した。
「騒々しいぞ。何事だ」
赤兎馬のように赤い戦装束に身を包んだ、呂綏その人である。
「申し訳ありません、呂綏様! この無礼な志願兵が、貴女様のことを……」
「下がれ。私が直接見極める」
呂綏は、古参兵を手で制し、景明の目の前へと歩み寄った。
中原の男たちは、呂綏がこの距離まで近づいて見下ろすと、大抵が威圧感に耐えきれずに目を逸らすか、後ずさる。
しかし、景明は微動だにしなかった。
それどころか、面白そうに目を細めて、彼女の顔を真っ直ぐに見つめ返してきたのである。
景明の身長は、日本国の尺にして六尺(約180センチ)。当時の基準からすれば、かなりの長身である。
とはいえ、全盛期には七尺(約210センチ)という人間離れした巨体を誇った日本国の前王・大和健を兄に持つ景明にとって、大きな人間に対して威圧感を感じるような生半可な神経は持ち合わせていない。
一方の呂綏は、劉備よりも拳一つ分大きい(約185センチ前後)。
つまり、大女である呂綏の目線からして、景明は「ほとんど自分と目線が同じ高さ(わずかに自分が見下ろす程度)の男」であった。
「……ほう。私と真っ直ぐに目を合わせる男は、久しぶりだ。名前は?」
「比企景明、ただの風来坊だ。馬の扱いにはちょっとばかり自信がある。あんたの隊に入れてくれないか、女将どの」
言葉の端々に、一切の恐怖も媚びもない。
呂綏は、この六尺の風来坊の瞳の奥に、戦場を幾度も潜り抜けてきた野獣のような気配と、それ以上に『何者にも縛られていない底知れぬ余裕』を感じ取った。
(……面白い男だ。中原の貧弱な文官たちとは、骨の髄から違う匂いがする)
呂綏の大きな口元に、好戦的で獰猛な笑みが浮かぶ。
「良いだろう、景明とやら! 私の部隊の馬は暴れ馬ばかりだぞ。せいぜい振り落とされて、馬に食われないようにするんだな!」
「はっはっは! 違えねえ。振り落とされねえように、必死でしがみつかせてもらうさ!」
日本国からすべてを投げ捨てて出奔した『極東の王族』と、飛将の血を受け継ぐ『中原の規格外の愛娘』。
国家の思惑も、群雄の覇権も全く関係のないところで、奇妙で運命的な交差が、今まさに産声を上げたのであった。
―――
博望坡の戦いでの勝利により、新野の劉備軍の士気は天を衝くほどに高まっていた。
関羽、張飛、趙雲といった古参の猛将に加え、公孫瓚の遺した白馬義従の将たち、そして鬼神の娘・呂綏(りょすい)率いる并州騎兵。武辺者たちの顔ぶれだけを見れば、間違いなく天下最強の布陣である。
しかし、陣容が肥え太り、新野に集まる難民や商人たちが増えれば増えるほど、劉備軍は深刻な『内政官不足』という致命的な弱点を露呈し始めていた。
武将たちは戦場では一騎当千の働きをするが、兵糧の算段や帳簿の管理となると、途端に頭を抱えてしまう。
若き女将である呂綏もまた、いつか来るであろう嫁入りのために母・厳氏から様々な学問を叩き込まれた勤勉な娘であったが、複雑怪奇に絡み合う数万の軍の兵站を回すには、流石に若さと経験が不足していた。
「……くっ、なぜ麦の消費量と、市場から買い上げた兵糧の数が合わないのだ……!」
夜更けの陣舎。呂綏が山のように積まれた竹簡を前にウンウンと唸っていると、彼女の部隊に新入りとして加わったばかりの風来坊、比企景明が、欠伸をしながら入ってきた。
「なんだ、女将どの。まだそんな泥縄みたいな帳簿の付け方をしてるのか。貸してみな」
「あっ、こら! 勝手に触るな!」
呂綏の制止も聞かず、景明は筆を取ると、竹簡の束をパラパラと素早くめくり始めた。
そして、中原の者には理解できない奇妙な記号を次々と書き込み、あっという間に収支の計算を合わせてしまったのである。
「ほら、終わったぞ。右の倉の麦が三百石足りないのは、先月の輸送の時に雨でカビさせた分を帳簿から引いていないからだ。……まったく、中原の計算式ってのは無駄が多くていけねえ」
「な……っ」
呂綏は目を丸くした。劉備軍の武将たちが何日も頭を抱えていた政務の山を、この飄々とした無精髭の男が、一瞬にして片付けてしまったのである。
無理もない。彼は大和国の基礎を築いた前王の末弟。来るべき将来、大王を補佐する最高位の皇族としての英才教育を骨の髄まで叩き込まれた男である。
息苦しくて国から逃げ出したとはいえ、彼にとって一領主の内政など、子供の算数遊びにも等しいものであった。
景明の有能さは、政務だけにとどまらなかった。
「ほおお! 新入りにしては、なかなかやるじゃねえか!」
「はっはっは! 張飛殿の蛇矛、流石に重いな!」
練兵場において、関羽や張飛といった天下の豪傑と手合わせをした際にも、景明はその卓越した腕前を見せつけた。
彼が扱うのは中原の武術とは少し異なる、大和国の兵装である『長大な手槍』を用いた馬上槍術であった。
体系化したその合理的な突きと馬の操り方は、中原の武将たちから見れば「我流」に映ったが、その威力と洗練された動きは、関羽たちをして「こいつは間違いなく使い手だ」と唸らせるに十分であった。
政務は完璧にこなし、腕も立つ。少し歳下のこの風来坊は、またたく間に劉備軍の中で一目置かれる存在となっていった。
しかし。そんな完全無欠に見える景明にも、一転して『致命的な無能』を晒す場面があった。
それは、劉備の陣舎で客人を招いて酒宴が開かれた時のことである。
「さあ、景明殿。今日は月も美しい。一首、見事な漢詩をご披露願いたい」
文官の一人がそう振ると、景明はポカンと口を開け、頭を掻きむしった。
「かんし? ああ、孔子だの老子だのが書いた詩のことか。悪いが、一文字も覚えてねえよ」
「な、なんという……! 儒教の経典や
「知るかよ。詩を読めば麦が育つのか? 昔の偉人の言葉を暗記すれば、兵の胃袋が満たされるのか? 帳簿と数字の理さえ分かっていれば、国は回るんだよ」
悪びれもせず言い放つ景明に、中原の文官たちは顔を真っ赤にして怒り出した。
大和国の教育システムにおいて、漢詩や儒教といった「感情や道徳の学問」は非効率なものとして排除され、徹底的な実学(数学、土木、農術、神道教養)のみが叩き込まれる。そのため、景明には中原の知識階級が最も重んじる『教養』がスッポリと抜け落ちていたのである。
「……ったく。あいつら、漢詩の一つも読めないからって、人を見下しやがって」
翌日の昼下がり。
陣舎の片隅で、景明はうんざりした顔で机に向かい、山積みの竹簡に筆を入れていた。
「文句を言わないの。貴方が計算をやってくれるおかげで、私の部隊だけでなく、劉備様の本陣の兵站まで助かっているのだから」
呂綏が、苦笑しながら景明に茶を差し出す。巨体の女将と、飄々とした風来坊。凸凹な二人であったが、気の置けない主従(あるいは相棒)として、奇妙なほど息が合っていた。
「……だがなぁ、女将どの。俺は鳥のように自由に生きたくて旅をしてるんだ。なんでこんな田舎の城で、他人の国の帳簿をチマチマと計算する羽目になってるんだよ。これじゃあ、故郷にいた時とやってることが変わらねえ」
景明は、筆を机の上に放り投げ、大きく伸びをして天井を仰いだ。
「あーあ、草臥れた。こんな面倒くさい机仕事なんて、この近くに住んでる『水鏡(すいきょう)』っていう老師にでもやらせりゃ良いのになぁ……」
「……水鏡、だと?」
その時である。
陣舎の入り口に、一人の男が立っていた。
視察のために部隊の陣舎を回っていた、劉備玄徳その人である。
劉備は、景明の愚痴を聞き逃さなかった。
彼は足早に景明の机に歩み寄り、その肩をガシッと掴んだ。
「景明殿。今、なんと言った? 水鏡という老師が、この近くに住んでいるのか?」
劉備の目には、深刻な内政官不足を解消するための『賢人』を求める、飢えたような渇望の光が宿っていた。
「お、おう。劉備の旦那。……ああ、水鏡・司馬徽(しばき)のことか。襄陽の郊外、ここからそう遠くない村で私塾を開いてる爺さんだよ」
景明は、少し驚きながらもあっさりと答えた。彼にとっては、数日前に丘の上から「大和の工作員たちが冷や汗をかきながら逃げ出してきた私塾」として記憶に残っている程度の知識である。
「司馬徽……水鏡先生か。景明殿から見て、その御仁はどれほどの才を持っているのだ?」
劉備が身を乗り出して尋ねる。
「さあな。俺は直接会ったわけじゃねえが……」
景明は、ニヤリと笑って顎をさすった。
「ただ、『天下のあらゆる打算と算段で雁字搦にしようとする連中』が、あの爺さんの瞳に見透かされて、尻尾を巻いて逃げ出すくらいには、底知れねえ本物の賢人ってことだけは確かだぜ」
極東の工作員を単身で退けた男。
その事実を遠回しに告げた景明の言葉は、劉備の心に強烈な稲妻を落とした。
(……この有能な景明殿が、そこまで高く評価する老師。それほどの賢人が、こんなすぐ近くに隠棲していたとは!)
「……礼を言うぞ、景明殿! 呂綏、お前もよくこの者を拾ってくれた!」
劉備は、歓喜に顔を輝かせると、すぐさま関羽と張飛を呼ぶために陣舎を飛び出していった。
机に取り残された景明は、「やれやれ」と肩をすくめ、再び筆を拾い上げた。
―――
秋が深まり、冬の足音がすぐそこまで近づいてきた頃。
劉備軍が駐屯する新野の城下は、凍てつくような夜の冷気に包まれていた。
澄み切った夜空には、見事な満月が浮かんでいる。
城の近く、周囲の喧騒から少し離れた月がよく見える小高い丘に、比企景明は一人で腰を下ろしていた。
彼の手元には、手先の器用さを活かして木材から設えた簡素な『三方の膳』が置かれている。
その上には、近くの野で刈り取ってきたススキが飾られ、新野の民から分けてもらった餅米を自ら
景明は、居住まいを正すと、月に向かって深々と頭を下げ、静かに、しかしピンと澄んだ音で『パン、パン』と二度、柏手(かしわで)を打った。
彼のこの姿を見れば、中原の者たちは奇異の目を向けるだろう。
そして、大和国という国家を、「算段と法だけの冷徹な国」だと誤解している者たちもまた、王族である彼がこれほどまでに『信心深い』ことに驚くかもしれない。
だが、景明は知っている。
大和国は、決して一部の官僚が創り出した無機質なシステムなどではない。紀元前六百六十年、初代・神武大王の御代から連綿と途切れることなく続いてきた、古き神々の国である。
中原の厳しい儒教的価値観や覇権争いの視点から見れば、自然の理を重んじ、余計な感傷を排して「大御宝」を生かすことだけを最優先する大和の姿は、ひどく『冷徹』に映るのだろう。
しかし、その本質は冷血でも何でもない。ただ、海に囲まれた島国が外の脅威や大自然の猛威から『生き残るため』に、八百万の神々と共に導き出した「最適解の姿」に過ぎないのだ。
(……死と隣り合わせのこんな大陸の真ん中にいると、どうにも故郷の神様が恋しくなるな)
景明は、目を閉じて月の神に祈りを捧げながら、一人静かに息を吐き出した。
「――おい。こんな寒空の下で、一人で何をしている」
不意に背後から声をかけられ、景明が目を開けると、そこには并州騎兵の女将・呂綏が立っていた。
陣舎での事務作業や、練兵場での手合わせを通じて、二人はすっかり『気安く話し合う相棒』のような関係になっていた。
だが、今夜の呂綏は、普段の血生臭い鎧姿とは打って変わって、ゆったりとした平服を纏っていた。
「……おや。女将どの」
景明は、少しばかり目を丸くした。
湯浴みを済ませたばかりなのだろう。彼女の長い髪はしっとりと濡れており、夜風に揺れるたびに、微かな石鹸(日本国から流れてきた品)の香りが漂ってくる。
身長は自分よりも高く、戦場では鬼神のごとき武威を誇る大女であるが、月明かりに照らされたその濡れた髪と、火照りを残す白い肌は、どこかハッとするほど艶やかで、年相応の娘らしい女性美に溢れていた。
「風邪を引くぞ、髪が濡れたままだ」
「……これくらい、平気だ。并州の寒さに比べればどうということはない」
呂綏は少し照れくさそうに顔を背けると、景明の目の前にある奇妙な膳と、先ほどの彼の動作を指差した。
「それよりも、お前だ。先ほど手を叩いていただろう。何をしていて、コレは何だ? 草と……白い饅頭か?」
「饅頭じゃねえよ、餅だ。今日は月が綺麗だからな、故郷の作法で『月見』をしてたのさ」
景明は、徳利から酒を盃に注ぎながら、呂綏に説明した。
「この膳も、ススキも、餅も、俺の故郷じゃ『月の神様』への供物なんだよ。実りの秋を感謝し、神様と一緒に酒を飲むためのな」
「ほう。異国の作法とは奇妙なものだな。手をパンパンと鳴らすのが、神への挨拶なのか?」
「ああ。八百万の神様を呼ぶための、大事な音さ」
呂綏は、ふむと顎に手を当てて、夜空に浮かぶ丸い月を見上げた。
中原の人間である彼女にとって、月の神といえば、あの有名な神話の登場人物である。
「なるほど。お前も『
嫦娥とは、中原の神話において、夫から不死の薬を盗んで月に逃げ、ヒキガエル(あるいは美しき仙女)になったとされる『月の女神』である。
「じょうが? なんだそりゃ」
「知らないのか? 月に住むという、美しき女神のことだ」
呂綏が呆れたように言うと、景明は怪訝(けげん)そうな顔をして、ヒラヒラと手を振った。
「いやいや、違うぞ女将どの。うちの故郷の月の神様は、女じゃない。『男』だ。名を
「は? 月が、男だと?」
呂綏は、信じられないものを見るように目を丸くした。
中原の陰陽思想において、太陽は『陽(男)』であり、月は『陰(女)』であるというのが絶対の常識である。月が男の神であるなどという概念は、彼女の頭には全く存在しなかった。
「ああ。ちなみに太陽の神様(天照大御神)が『女』で、一番偉い長姉だな」
「なっ……! 太陽が女で、月が男!? 全く逆ではないか! お前の国の神話はどうなっているのだ!」
「俺に言われてもな。神代の昔からそう決まってるんだよ」
景明は、ククッと肩を揺らして笑った。
「まったく、理解に苦しむ国だ。月が男などと……風情もない」
呂綏はブツブツと文句を言いながらも、景明の隣にどっこいしょと胡座をかいて座り込んだ。濡れた髪から、微かな水滴が景明の肩へと落ちる。
「まあ、男だろうが女だろうが、月が綺麗で酒が美味いことに変わりはねえよ。飲むか?」
景明が空いているもう一つの盃を差し出すと、呂綏は無言でそれを受け取り、景明に酒を注がせた。
「……嫦娥だろうが、ツクヨミだろうが、どうでもいい。戦の前の酒は美味いからな」
呂綏は、クイッと一息に盃を干した。
中原の常識に縛られない巨体の女将と、日本の重圧から逃げ出した自由な風来坊。
信じる神話も、育った文化も、男と女の役割すらも全く噛み合わない二人であったが、不思議と二人の間を流れる空気は、穏やかで心地の良いものであった。
「どうだ、美味いか?」
「ああ。少しばかり、冷えるがな」
新野の夜空の下で、皇族の身分を捨てた男と鬼神の娘は、言葉の端々ですれ違いながらも、静かに一つの盃を酌み交わし、ただ同じ美しい月を見上げていた。
数日後のことである。
少数の護衛のみを連れて襄陽方面へと出向いていた劉備が、ひどく晴れやかな顔つきで新野の城へと帰還した。
「皆、聞いてくれ! 景明殿の言った通りであった。あの司馬徽という老師は、まさに底知れぬ見識を持つ本物の賢人だ!」
陣舎に主要な将たちを集めた劉備は、興奮冷めやらぬ様子で事の顛末を語り始めた。
荊州の片隅にポツンとある私塾を訪ねた劉備は、そこで『水鏡』と呼ばれる大賢人とついに面会を果たした。
新野に来て日も浅く、確固たる地盤も情報網も持っていなかった劉備からすれば、荊州中の知識人や若き俊英たちを束ねる司馬徽との繋がりを得たことは、まさに「念願叶ったり」の大きな成果であった。
「私塾には、将来を嘱望される若き門下生たちが大勢いてな。彼らもまた、私という人間がどのようなものかを見定める良い機会だと思ってくれたようだ。酒を酌み交わし、天下の情勢を大いに語り合い……互いに、大変良い間柄になることができた」
劉備は、ホッと安堵の息を吐きながら相好を崩した。
これまで武力(関羽、張飛、趙雲、白馬義従、呂綏の并州騎兵)ばかりが突出していた劉備軍にとって、文官の不足は死活問題である。しかし今回、門下生の幾人かと面識を作り、顔を売ることができた。
彼らが将来、仕官先としてこの新野を選んでくれるかもしれないという希望が、劉備の肩の荷を少しばかり軽くしていたのである。
「……へえ。そりゃあ良かったな、劉備の旦那」
部屋の隅で、相変わらず竹簡の計算書と格闘していた景明が、筆を休めて声をかけた。
自分の何気ない愚痴から主君がこれほど喜んでいるのだから、部下としては誇らしい気分になっても良いはずである。だが、景明の長年培ってきた『風来坊としての直感』が、チリチリと微かな警鐘を鳴らしていた。
「……なあ、旦那。一つ聞いていいか?」
「なんだ、景明殿。貴方のおかげで道が開けたのだ、何でも聞いてくれ」
景明は、少しだけ声のトーンを落とし、探るように尋ねた。
「その、水鏡の爺さんによ。『誰から自分のことを聞いたのか』とか、そういう野暮なことは聞かれなかったか?」
劉備は、一点の曇りもない、極めて清々しい笑顔で力強く頷いた。
「うむ! もちろん聞かれたぞ。水鏡先生が『将軍は、辺境の私のような老いぼれを、誰からお聞きになられたのですか』と問うのでな。私は正しく答えておいた」
「……なんて、答えたんだ?」
「『我が陣営に新しく加わった、比企景明という極めて有能な男からの強い推薦である』と、ありのままにだ! 先生も『ほう、景明殿ですか。それは面白い』と、大変興味深そうに頷いておられたぞ!」
「………………」
景明は、持っていた筆をパキリとへし折った。
(や、やらかしやがった……ッ!! この真面目すぎる大将は!!)
景明の背筋を、一気に冷や汗が伝い落ちた。
大和国が誇る恐るべき引き抜き工作員たちが、ただ視線を交えただけで冷や汗を流して逃げ出したほどの、人を見透かす怪物のごとき大賢人・司馬徽。
その司馬徽の視点に立ってみれば、どうだろうか。
先日、東の海の向こうの国家の手先が自分を訪ねてきた。そして数日後、劉備がやってきて『帳簿の付け方を完全に理解し、私塾の存在を知っている見慣れぬ男』の名前を出したのだ。
(あの底知れねえ爺さんのことだ。絶対に『線』を繋げやがった……! 俺が、ただの中原の人間じゃないってことにな!)
正体が完全にバレたわけではないかもしれない。しかし、少なくとも水鏡という『知の怪物』に、比企景明という名前と存在を、強烈にマーキングされてしまったことは疑いようがなかった。
「……どうしたのだ、景明殿? 顔色が悪いぞ」
「い、いや。何でもねえよ。劉備の旦那が嬉しそうで、俺も感極まっちまっただけさ……」
景明は、引きつった笑いを浮かべながら、顔を引きつらせた。
自由に生きたくて、息苦しい大和国から逃げ出してきたというのに。よりにもよって、中原で最も『面倒くさい情報網の中心』に、自ら名前を売り飛ばされる形になってしまったのだ。
(……くっそ、仕官先を間違えたかもしれねえ)
今すぐ荷物をまとめて逃げ出そうか。景明の頭の片隅に、そんな考えがよぎる。
だが、視線を横に向けると、彼が投げ出した計算の続きを、巨体の女将・呂綏が不器用な手つきで手伝おうとして、顔に墨をくっつけている姿があった。
「……おい、女将どの。そこ、桁が一つ間違ってるぞ」
「むっ、うるさい。お前が急に止まるから私がやってやっているのだ」
景明は、小さくため息をついた。
こんな不器用で、しかし真っ直ぐな連中を放り出して逃げるのは、どうにも寝覚めが悪い。それに、水鏡という老人がどれほどの腹積もりを持っていようと、自分はあの神代から続く大和国の、元皇位継承者である。ただの隠居ジジイの探りに怯えて逃げ出すようなヤワな精神は持ち合わせていない。
「……まあいい。なるようになれだ」
景明は、折れた筆を捨てて新しい筆を手に取ると、再び机に向かい合った。
天下の賢人に目をつけられた厄介さを心の奥底へと飲み込み、この新野という激動の最前線で、最後まで付き合ってやろうと『腹をくくった』のである。