西暦二百四年の春。
長きにわたり北方の覇権を争い、血で血を洗う死闘を繰り広げてきた曹操と公孫瓚の戦いに、ついに決定的な終止符が打たれた。
満を持して進軍した曹操の猛攻の前に、公孫瓚の根城であった易京の要塞はついに陥落。炎上する城の中で徹底抗戦を続けていた公孫瓚は、ついに生け捕りにされ、曹操の前に引き据えられたのである。
時を同じくして、幽州のもう一人の実力者であった劉和は、曹操が擁する天子・劉協に対して正式に恭順する旨を記した上表文を送った。
その文面には、自らの忠誠を誓う言葉と共に、公孫瓚、そして彼と結託して北方に刃を向けた劉備の『罪状』がこれでもかと連ねられていた。曹操の政治的包囲網は、見事に機能したのである。
「……公孫瓚よ。貴様の武勇には敬意を表するが、天子に逆らった罪は万死に値する。中原に見せしめとするため、極刑に処す」
曹操の冷徹な命令により、かつて最強の騎兵軍団『白馬義従』を率いて北方を震え上がらせた白馬将軍・公孫瓚は、広場にて無惨なる磔刑に処されることとなった。
四肢を太い釘で貫かれ、血だるまになりながらも、公孫瓚の闘志は微塵も折れてはいなかった。
彼は、自らの処刑を遠巻きに見物し、勝者の曹操軍に媚びるように無邪気な歓声を上げている愚かな群衆たちを見下ろし、最期の力を振り絞って絶叫した。
「お前たちはただ無邪気に笑うが、国は悪党に従って滅びゆく! 俺の肉体はここで砕かれようとも、流れる血がこの国の滅亡の扉を開くだろうッ!!」
『
血を吐きながら天を呪うように叫んだその壮絶な絶命の言葉は、その場にいた者たちの背筋を凍らせた。
曹操の陣幕にて、この一連の言葉を寸分違わず木簡に書き留めていた男がいる。
曹操の軍師であり、冷徹なる兵站の頭脳、**班稀(はんき)**である。彼は極端なまでに感情を排した筆運びで、公孫瓚の最期の叫びを克明に記録し、後にこの言葉を四字の熟語としてまとめ上げた。
――『徒笑従奸(としょうじゅうかん)』。
迫り来る自らの滅亡に気づかず、ただ無邪気に笑いながら、邪悪な指導者(奸雄)の後を追って破滅へと向かっていく愚かな群衆、あるいは国家のありようを指す言葉として、中原の歴史に深く刻み込まれることとなる。
それから数日後。
公孫瓚の壮絶な死と、その最期の呪詛を記した報せは、遠く離れた荊州の最前線・新野の城にいる劉備の元へと届けられた。
「……公孫瓚殿……!! おお、何という無惨な……ッ!!」
書簡を読み終えた劉備は、その場に泣き崩れ、床を血が滲むほどに叩きつけた。
学生時代からの無二の親友であり、己の破滅を悟りながらも最強の矛を劉備に託してくれた恩人。その男が、悪党と罵る曹操の手によって嬲り殺しにされたのだ。
「おのれえええッ、曹操め!! よくも俺たちの恩人を! 兄者、今すぐ軍を出そう! 曹操の首をねじ切って、公孫瓚殿の墓前に供えてやる!!」
張飛が蛇矛を振り回して吠え、関羽もまた、髭を震わせて怒りに目を血走らせている。公孫瓚の遺産である白馬義従の将兵たちに至っては、今にも北へ向かって飛び出しかねない暴発寸前の殺気を放っていた。
新野の陣舎は、悲しみと曹操への底知れぬ憎悪の炎で、完全に焼き尽くされようとしていた。
だが、熱狂的な怒りが渦巻くその空間において。
たった一人だけ、完全に冷め切った視線でこの光景を眺めている男がいた。
日本国の出奔王族にして、劉備軍の客将・比企景明である。
中原の義理人情のしがらみなど一切持たない彼にとって、公孫瓚の死は完全に『他人事』であった。そして何より、彼は主君である劉備に対しても、一切の遠慮というものを持っていなかった。
「……おいおい。皆して頭に血を上らせてどうするんだよ」
景明は、耳を塞ぎたくなるような怒号の中で、飄々とした声で水を差した。
「少しは冷静になれよ。曹操が強えから公孫瓚が負けて死んだ。ただそれだけのことだろうが。
ここで熱くなって北へ飛び出したところで、曹操の罠にハマって死人の数が増えるだけだぜ。……死んだ人間は、いくら怒ったところで生き返りゃしねえよ」
正論であった。極めて軍事的に正しい、日本国らしい合理的な判断である。
しかし、劉備たちが悲しみに暮れているこの瞬間に吐く言葉としては、あまりにも配慮に欠け、無神経に過ぎた。
「貴様ッ……!!!」
景明が言い終わるか終わらないかの瞬間。
彼の真横から、凄まじい風切り音と共に『丸太のような拳』が顔面目掛けて振り下ろされた。
「おっとォ!?」
景明は、動物的な反射神経でギリギリのところで首を捻り、その拳を躱した。
拳が空を切り、陣舎の太い柱にめり込んで「メシャッ」という恐ろしい破壊音を立てる。
殴りかかってきたのは、巨体の女将・呂綏であった。
彼女は公孫瓚と直接会ったことはない。だが、同じ北方の空の下で武を競い、戦い抜いた立派な将軍であることは知っていた。彼女からすれば、景明のその冷え切った合理主義の言葉は、命を燃やして戦った武人に対する『侮辱』にしか聞こえなかったのである。
「……次避ければ、殺すぞ、景明」
彼女の瞳は、父である天下無双の飛将・呂布を彷彿とさせる、純度百パーセントの『殺意』に満ちていた。手加減など一切ない、激怒の形相である。
「わ、悪かったよ女将どの! 俺の口が過ぎた! だから薙刀に手を伸ばすのはやめろ!」
景明が両手を上げて後ずさる。
「ええい、許さん! そのひねくれた首、もぎ取ってやる!!」
「うおぉっ!? 待て、待てって!!」
狭い陣舎の中で、大女である呂綏が本気で景明を殺そうと暴れ回り、それを景明が必死に躱して逃げ回るという、怒りと悲しみの場に全くそぐわない大騒動が巻き起こった。
「ばかっ、机を投げるな! 帳簿が台無しになっちまうだろ!」
「うるさい! 貴様のような血の通っていない男は、この場で私が成敗してやる!」
ガシャァン!! と音を立てて備品が破壊されていく。
そのあまりにもドタバタとした騒ぎを前にして。
「……ええい、二人とも! そこまでだ、やめぬかッ!!」
劉備の怒声が、陣舎に響き渡った。
ハッと我に返った呂綏が動きを止め、景明が安堵の息を吐く。
劉備は、二人の騒ぎを見ているうちに、先ほどまで頭を支配していた『曹操への盲目的な怒り』が、急激に冷えていくのを感じていた。
(……そうだ。景明殿の言い方は腹が立つが、理はその通りだ。今、我らが怒りに任せて新野を空ければ、荊州はたちまち曹操の毒牙にかかる)
呂綏の直情的な大暴れ(乱心)が、結果的に劉備の視界を覆っていた憎悪の
「……景明殿、すまない。貴方の言う通りだ。怒りで我を忘れて兵を動かすなど、将の器ではない。……呂綏、お前も鉾(ほこ)を収めよ。景明殿は我らを止めるために、あえて嫌われ役を買って出たのだ」
「いや、そこまで考えて言ったわけじゃ……」
「黙れ、景明。まだ腹の虫が治まらん」
劉備が何とか場を収める中、景明は冷や汗を拭いながら、呂綏の殺気の残る瞳から目を逸らした。
公孫瓚の死という巨大な喪失は、中原の群雄たちの運命をさらに過酷なものへと押し上げていく。しかしこの新野の陣営においては、極東の風来坊と鬼神の娘の凸凹なやり取りが、劉備を辛うじて『破滅の縁』から繋ぎ止めていた。
公孫瓚の敗北と死、そして幽州の平定という決定的な報せは、北方の新野のみならず、遥か南、長江の向こうで三呉を統治する孫権の陣営にも、極めて重苦しい緊張をもたらしていた。
建業の宮廷において、若き主君・孫権は、集められた武将や文官たちを前に沈痛な面持ちで口を開いた。
「……ついに、曹操が北の憂いを完全に断ち切ったか。あの公孫瓚を屠り、十数万の精鋭が背後を気にすることなく動かせるようになったということだ」
軍師であり、江東軍の事実上の最高司令官である周瑜は、冷静な顔を崩さないまま、冷たく光る瞳で卓上の地図を見据えていた。
「いかにも。袁紹、公孫瓚と、北の障壁はすべて消え去りました。次に覇王・曹操がその貪欲な矛先を向けるのは、間違いなくこの豊かな長江の南……我ら江東の地です」
曹操の南下は、もはや「可能性」ではなく「時間の問題」である。
周瑜はただちに水軍の再編と増強を命じ、長江の要所要所に強固な防衛網を敷き直す作業を急ピッチで進めていった。江東の国力すべてを挙げて、来るべき中原の覇王との決戦に備えなければならない。
だが、周瑜の頭を悩ませている『脅威』は、北の曹操軍だけではなかった。
緊迫する軍議から少し離れた、長江の下流に位置する『銭唐県』の港。
かつて周瑜が苦渋の決断をもって日本国に『無害通航』を認めたこの港において、極東の島国との正式な交易が、静かに、しかし確実な足音を立てて始まっていた。
「さあさあ! 異国の珍品にございますぞ! 江東の旦那方、ぜひとも一度お手に取ってご覧くだされ!」
日本国の外洋船から下ろされた品々は、中原の商人や有力者たちの目を釘付けにするには十分すぎるほど魅力的であった。
特に人気を集めたのは、以下の品々である。
『不思議な泡の出る石(石鹸)』。
(呂綏が新野で使っていたものと同じである)。
動物の脂と灰から作られたこの硬い石は、水で擦ると滑らかな泡を立て、汚れと臭いを瞬時に落とす。香料を混ぜ込んだ高級品は、江東の貴族の妻や娘たちの間でまたたく間に流行した。
『良質な鹿革』と『
日本の牧で獲られた鹿の革は、甲冑の裏地などに最適であったが、呉の商人たちを最も驚かせたのは、『美智』と呼ばれる海棲哺乳類(ニホンアシカ)の革であった。
日本国において、ミチは牧畜が不可能であり、乱獲を防ぐために公儀の厳格な管理の下で狩猟される極めて希少な品である。
その滑らかで水に強く、驚くほど丈夫な革は、中原のどんな動物の皮とも異なる手触りを持ち、高級な鞘や装飾品として法外な値で取引された。
そして、極めつけは『干し海鼠(なまこ)』である。
日本国の渡島(函館)などで獲れたナマコを茹でて乾燥させたこの珍味を、日本の商人たちが「長寿と滋養強壮の薬膳」として売り込んだところ、江東の有力者たちにバカ受けしたのだ。
水で戻して煮込んだその独特の食感は、呉の美食家たちの舌を唸らせ、宴席の高級食材として飛ぶように売れていった。
大和国の商人たちは、自国の珍品を売り払って得た莫大な銭を用いて、今度は中原の『特定の品々』を的確に買い占めていった。
「おお、これは見事な青き器だ。我が国では作れぬ色合い。……これにあるだけ、すべて船に積んでくれ」
彼らが最も欲したのは、長江流域の特産である『青磁』である。
日本国の陶工の技術は極めて高いが、日本の土は
そのため、釉薬を用いた美しい青緑色を放つ呉の青磁は、日本の貴族たちにとって、喉から手が出るほど欲しい美術・実用品であった。
さらに、この頃に長江流域で密かな嗜好品として広まりつつあった『茶(ちゃ)』の葉や、西方(シルクロード方面)から流れてきた珍しい香料や絨毯なども、日本の商人たちは貪欲に買い集めていく。(なお、小さな硝子製品などは、大和の公儀工廠ですでに自作できるため、彼らは見向きもしなかった)。
大和国の買い付けは、「自国にないもの」と「自国で作るよりも買った方がコストが安いもの」を徹底的にリサーチした、極めて合理的な『吸い上げ』の行動であった。
「……どうやら、異国の商人たちは約束を守り、長江の『無害通航』を破る気配はないようです。港の税収も、これまでにないほどの潤いを見せております」
建業の宮廷にて、文官から銭唐の交易報告を受けた周瑜は、微かに眉間を揉みほぐした。
交易が始まってまだ日が浅いため、その規模は小規模な船団が数ヶ月に一度やって来る程度のものでしかない。
しかし、大和国が落としていく金と物資は、曹操の南下に備えて軍備を拡張しなければならない現在の孫家にとって、喉から手が出るほどありがたい『特効薬』であった。
だが、周瑜の天才的な戦術眼と政治感覚は、この特効薬が同時に『猛毒』を含んでいることを敏感に感じ取っていた。
(……連中は、ただ商いをしているだけではない。我々の市場の構造、物流の速度、そして有力者たちの『欲』を、確実に測っている)
不思議な泡の出る石や、ミチの革。それらに魅了された江東の貴族たちは、すでに「大和の船が来るのを待ちわびる」ようになりつつある。もし大和国が明日、「商いをやめる」と言えば、江東の経済は少なからず混乱を来たすだろう。
武力ではなく、ただ静かに、気付かれないほどのペースで『経済の依存』を植え付けていく極東の算段。
(曹操の武の脅威か、大和の経済という見えざる脅威か。……どちらにせよ、我が江東の未来は、薄氷を踏むよりも危うい)
大陸の軍事的な均衡が崩れ去ろうとするその真横で。
日本国という外圧は、焦ることなく、ただ静かに、長江の豊かな水を己の根に吸い上げるための『管』を、その深奥へと伸ばし始めていた。
―――
西暦二百四年の半ば。
曹操が北方の憂いを絶ち、その巨大な軍事力がいつ南下を始めるかと中原中が息を潜める中。荊州の主である劉表の心に渦巻いていたのは、曹操への恐怖だけではなかった。
「……また、新野の民が玄徳を讃えているというのか。……あの余所者が、私の荊州で」
襄陽の豪奢な宮廷にて、劉表は苛立ちと共に盃を煽った。
曹操の南下を防ぐための「北の盾」として、自ら進んで客将に迎え入れたはずの劉備。しかし、その劉備の放つ異常なまでの『求心力』は、今や劉表自身の足元を脅かすほどの熱量を持っていた。
新野の市井の人々は、劉備の裏表のない仁政と人柄に完全に心を開き、彼のためなら命も惜しまないと公言してはばからない。さらには、荊州の知識人層の頂点に立つ『水鏡』こと司馬徽やその門下生たちすらもが、劉備という男に強い興味を抱き、彼の側に立とうとしている。
(玄徳め……。同じ劉姓でありながら、私には決して手に入らぬものを、あの男はすべて持っていく。民の心も、賢人の知恵も、強き武将たちの絶対の忠誠も……!)
劉表の心に、どす黒い『訝しみ』と『嫉妬』が根を張っていく。
自らは広大な領地と莫大な富を持ちながら、心の底から慕ってくれる者は少ない。すべてを持っているはずの自分が、根無し草の劉備に対して「奪われるのではないか」という恐怖を抱き始めていたのである。
劉表の猜疑心に呼応するように、荊州を古くから牛耳る
「劉備殿は確かに戦上手かもしれんが、所詮は流浪の余所者だ」
「我が荊州の豊かな土に根を張られては堪らん。下手に力を持たれる前に、劉表様を動かして追い出すべきだ」
彼ら地元の豪族にとって、劉備は自分たちの既得権益を脅かす不快なノイズに過ぎない。
本来であれば、ここで新野の文官が襄陽に赴き、豪族たちに贈り物をし、巧みな弁舌で関係を構築する『外交』が必要不可欠であった。
だが、劉備の陣営にはそれができる者が極端に不足していた。
関羽は誇り高く、俗物的な豪族を鼻で笑って相手にしない。
張飛は論外である。
呂綏ら并州の将も戦場しか知らない。
劉備本人の人柄は良くとも、清廉すぎて泥に塗れた政治的根回しには不向きであった。
「……不ずい。このままでは曹操が来る前に、荊州の内部から我々は孤立し、兵糧の供給を絶たれて自滅するぞ」
新野の陣舎で、数少ない文官たちが頭を抱える。
武力は天下無双であっても、政治的外交能力が致命的に低い。それが、この時期の劉備軍の最大の弱点であった。
そんな中、劉備軍の中でただ一人、この致命的な政治的孤立をフワリと飛び越えていく奇妙な男がいた。
鬼神の娘・呂綏の部隊に所属する新入りの風来坊、比企景明である。
「おお! 景明殿、よくぞ参られた! さあさあ、こちらへ!」
「はっはっは。旦那方、今日は手土産に、ちいとばかり珍しい酒と、西域の干し肉を持ってきたぜ」
襄陽の高級な料亭や、豪族たちの開く夜の宴席。
本来であれば、劉備軍の武将など絶対に呼ばれないような「荊州の既得権益層の集まり」に、景明はどこからともなくふらりと現れ、我が物顔で上座の近くに座り込んでいたのである。
彼は漢詩こそ一文字も知らないが、日本国の大内裏で最高位の『帝王学と交渉術』を骨の髄まで叩き込まれた本物の王族である。
「相手の自尊心をどう満たすか」
「どのような距離感で接すれば、貴族が気を許すか」。
そうした人間の業と権力の力学を、彼は息をするのと同じくらい自然に理解していた。
「いやあ、劉備の旦那も困ったもんでね。戦しか知らねえ不器用な男だから、旦那方みたいな『本当の荊州の重鎮』への挨拶の仕方も分からねえんですよ」
「はっはっは! 違いねえ。玄徳殿は武辺者だからな。いや、景明殿のような話の分かる男が新野にいてくれて助かるわ」
景明は、絶妙なバランスで劉備を下げつつ、豪族たちのプライドをくすぐる。
彼自身が持つ、どこか底知れぬ気品と、飄々とした風来坊の顔。その二面性が豪族たちを奇妙に惹きつけ、「劉備は気に食わんが、この景明という男の顔に免じて、少し大目に見てやるか」という空気を、宴席の中で見事に作り上げていった。
「……おい、景明。お前、最近夜な夜な陣舎を抜け出して、襄陽の豪族どもの館に入り浸っているそうだな」
ある日の練兵の合間。
部下である景明の不可解な行動を耳にした呂綏が、巨大な薙刀を肩に担いだまま、胡乱な目で彼を問い詰めた。
「あの薄汚い狸どものところへ行って、お前は一体何をやっているのだ? まさか、我々を裏切って情報を売っているわけではあるまいな」
呂綏にとって、腹の底を見せない豪族などは叩き斬るべき敵に等しい。そんな連中と酒を飲んでヘラヘラと笑っている景明の行動が、真っ直ぐな彼女にはどうしても理解できなかった。
すると、景明は首の後ろで手を組み、澄み切った秋空を見上げながら、面倒くさそうに笑った。
「裏切る? 馬鹿言え、んな面倒なことするかよ。俺はただ、あの狸どもと一緒に美味い酒を飲んで、適当に機嫌を取ってやってるだけさ」
「機嫌を取るだと? 我ら并州の誇り高き騎兵が、あんな軟弱者どもにへつらう必要があるのか!」
怒気を孕む呂綏に対し、景明は肩をすくめ、ピシャリと告げた。
「あのなぁ、女将どの。世の中ってのは、馬で突撃して槍を振り回すだけで勝てるほど単純じゃねえんだよ。
……関羽や張飛の旦那みたいに、戦場で敵をぶっ飛ばすのが役目の奴もいれば、裏で泥水をすすって、味方の背中に刃が突き立たねえように立ち回るのが役目の奴もいる」
景明は、呂綏の大きな顔を見上げ、ニヤリと片方の口角を上げた。
「人には人の役回りってやつがあるんだ、そこんとこ覚えておけよ?」
その言葉に、呂綏はハッと息を呑んだ。
飘々とした態度の裏側に隠された、大局を俯瞰(ふかん)する圧倒的な視野。彼が夜な夜な豪族の元へ通っているのは、新野を孤立させないための、誰にも頼まれていない『命懸けの裏回し』であったのだ。
「……お前、そこまで考えて……」
「ま、俺は酒がタダで飲めるから行ってるだけだけどな!」
景明がケラケラと笑って誤魔化すと、呂綏は呆れたように大きなため息をつき、「好きにしろ」とだけ言って背を向けた。しかし、その背中には微かな信頼の念が滲んでいた。
景明の暗躍は、確実な成果を上げ始めていた。
「……新野の劉備陣営だが、まあ、あれですな。意外と話の通じる連中もいるようです」
「うむ。曹操が来るのであれば、彼らのような猛犬を先陣に立たせるのも悪くない。今すぐ追い出す必要もあるまい」
襄陽の宮廷において、劉備を危険視し、排除しようとしていた豪族たちの声は、景明の徹底した根回しによって日を追うごとにトーンダウンしていった。
劉表の抱く猜疑心そのものを消し去ることまではできないが、少なくとも「荊州全体が劉備を敵視する」という最悪の政治的孤立は、極東から来た一人の出奔王族の『役回り』によって、間一髪で回避されたのである。
武力に偏重した新野の陣営において、比企景明という男の存在は、中原の歴史の歯車を潤滑に回す、極めて異質で、そして不可欠なピースへと変わりつつあった。
―――
――それは、今から二十年前。西暦一八四年の、とある夜のことであった。
大和国の中枢、巨大な法と算段の城である『大内裏』から、一人の青年が漆黒の闇の中へと飛び出した。
息を荒げ、背中に一振りの太刀だけを背負い、一直線に境界の川を目指して駆け抜ける。後に比企景明と名乗ることになる、若き日の日置王であった。
(……くそっ、しまった。馬で逃げれば良かった!)
背後から、地響きのような『馬の蹄の音』が猛烈な速度で迫ってくるのが聞こえた。
今さら後悔してももう遅い。息苦しい皇位継承と、完全に規格化されていた国から逃げ出すため、衝動的に飛び出してしまったのが運の尽きであった。
蹄の音は次第に大きくなり、ついに青年の背中を捉えんとする距離まで肉薄した。
逃げ切れない。そう悟った青年は、たたらを踏んで急激にブレーキをかけ、土を蹴り上げて振り向くと同時に、思い切り太刀を抜き放った。
馬上の追手目掛けて、全身のバネと遠心力を乗せた、必殺の抜刀撃である。
ガァァァァンッッ!!!
暗闇に、火花と強烈な金属音が鳴り響いた。
しかし、斬り伏せられたのは青年の側であった。まるで巨大な城壁に激突したかのように、青年の身体は吹き飛ばされ、宙を舞った。
青年は空中で一瞬身体を丸め、背中から勢いを殺すように後方へと一回転して、かろうじて受け身を取った。
「……っ、ぐあ……ッ!」
両腕の骨が砕けたかと思うほどの、強烈な痺れと激痛が腕に残っている。
青年は、歯を食いしばりながら眼前に対して再び太刀を構え直した。
視線の先。
土煙を上げて立ち止まった名馬から、一人の『巨漢』がドスリと重い音を立てて降り立った。
その男の姿を見た瞬間、青年の心臓は絶望で凍りついた。
身長七尺(約210センチ)を超えようかという、人間離れした圧倒的な体躯。
そしてその巨漢は、刃渡り四尺六寸(約140センチ・全長185センチ)はあるかと思えるほどの大太刀を、まるで木の枝でも扱うかのように『片手で肩に担ぐ』という、異様で独特な構えを取っていた。
それは、大和国の武の頂点であり、青年の実の兄でもある当時大王の座を明け渡したばかりの、前王・大和健の姿であったろうか。
巨大な壁のように立ちはだかるその男の背後から、雲が晴れて冷たい月光が差し込んだ。
逆光に照らし出されたその巨漢のシルエットは、正しく『鬼神もかくや』と言わんばかりの恐ろしい姿であり、青年の太刀を持つ手をカタカタと震え上がらせるには十分すぎるほどの、絶対的な暴力の権化であった――。
「……っ!!」
景明は、ビクッと身体を跳ねさせ、猛烈な勢いで目を開けた。
「……はぁ、はぁ、はぁ……ッ」
荒い息を吐きながら周囲を見渡すと、そこは西暦二〇四年の荊州、新野の陣舎であった。
どうやら、襄陽の豪族たちの館を回るという『裏回し』の一仕事を終えた後、机に突っ伏して仮眠をとっている間に、深い眠りに落ちてしまっていたらしい。
「……ヒデェ夢だ……」
景明は、額にべっとりと浮かんだ冷たい汗を、手の甲で乱暴に拭い去った。
心臓がまだ早鐘のように鳴っている。ただの夢だというのに、太刀を受けた両腕が今もジンジンと痺れているような錯覚すら覚えた。
(……出奔した、あの日の夢か。まったく、二十年も前のことだってのに、あの時の『化け物』の威圧感だけは、骨の髄までこびりついてやがる)
あの大立ち回りの後。
鬼神のごとき巨漢に完全に叩き伏せられ、死(あるいは捕縛)を覚悟した景明であったが、驚くべきことに、その追手は彼を殺すことも捕まえることもせず、ただ静かに太刀を収めて『見逃してくれた』のである。
なぜ見逃されたのか。兄からの最後の情けだったのか、それとも別の意図があったのかは分からない。だが、あの時見逃してもらえたことが幸いして、今の「自由な風来坊」としての自分があることだけは確かであった。
「……おい。どうした、ひどく魘(うな)されていたぞ」
不意に、頭上から影が落ちた。
顔を上げると、そこには巨体の女将・呂綏が立っていた。
手には温かい茶の入った椀を持っており、彼女はそれを静かに景明の机の上に置いた。
普段は「生意気な風来坊め」と景明に対して憎まれ口を叩くか、怒って追い回している呂綏であったが、今の彼女の表情には、隠しきれない『心配』の色が浮かんでいた。
いつも飄々と薄ら笑いを浮かべている景明が、顔を真っ青にして脂汗を流し、苦しそうに唸り声を上げていたのだ。流石の彼女も驚いたに違いない。
「……悪い、女将どの。ちいとばかり、昔の嫌な夢を見ただけだ」
景明は、努めていつものような軽い調子を作って笑い、茶の椀を手に取った。
「嫌な夢、だと? 貴様でも怯えるようなことがあるのか。……よほど恐ろしい敵にでも追われる夢か?」
「まあ、そんなとこだ。そいつは俺よりデカくて、バカみたいに重い刀を片手でブン回す、とんでもねえ『
景明がそこまで言いかけて、目の前の呂綏の顔を見上げた。
呂綏の身長は劉備よりも高く、手には巨大な薙刀を軽々と扱うほどの膂力を持っている。
……ある意味では、夢に出てきたあの「巨漢」と似たような属性を持つ存在である。
だが。
冷たい月光を背負って立っていたあの無機質で恐ろしい鬼神と、今、不器用な手つきで温かい茶を差し出してくれている目の前の真っ直ぐな大女とでは、纏っている空気が根本的に違っていた。
「……なんだ。私の顔に何かついているか?」
訝しげに首を傾げる呂綏を見て、景明はふっと肩の力を抜き、ようやく心からの笑みをこぼした。
「いや。……うちの女将どのは、夢に出てきた鬼神なんかより、ずっと優しくて器がでけえな、と思っただけさ」
「な、何を馬鹿なことを言っているのだ! 疲れて頭がおかしくなったか!」
突然の称賛に顔を真っ赤にして怒鳴る呂綏を見て、景明の心に巣食っていた二十年前の悪夢の冷えは、温かい茶と共にじんわりと溶けて消えていったのであった。