不見 終
西暦二百五年の初頭。
新野の城下に劉備から充てがわれた呂家の屋敷にて。并州騎兵を束ねる女将・呂綏は、母である厳氏と二人きりで向かい合って座っていた。
「……」
「……」
部屋には重苦しい沈黙が漂っている。
母の厳氏は、かつてないほど真剣な顔つきで、娘の顔を真っ直ぐに見据えていた。対する呂綏は、自分がなぜ突然このように畏まって呼ばれたのか、全く思い当たる節がなく、居心地悪そうに巨大な身体を小さく丸めていた。
(軍の規律でも破ったか? いや、昨日の練兵は完璧だった。それとも、またどこぞの文官からの縁談話か……?)
呂綏が頭の中で必死に言い訳を考えていた、その時である。
母・厳氏は、静かに、しかし有無を言わさぬ迫力で口を開いた。
「――綏や。お前は、あの得体の知れない景明とかいう男のことが、好きなのだな?」
「………………は?」
呂綏の目が、ぐるり、ぐるりと一周回った。
そしてピタリと止まると、その見開かれた瞳孔が一気に収縮し、耳の先から首筋に至るまで、ドッとマグマのような朱色が広がっていった。
「な、な、なな、何をッ!? は、母上!? 突然何を言い出すかと思えば……ッ!!」
顔を真っ赤にして立ち上がろうとする娘を見て、厳氏は「はぁ」と、地の底から響くような深く、深い溜息を吐いた。
「とぼけても無駄ですよ。近頃のお前ときたら、口を開けば決まってあの男の話ばかりではないですか」
「そ、それは! あいつが劉備様の陣営でやたらと鼻持ちならない真似をするから、監視のために……!」
「『景明の奴がまた酒を奢らせやがった』『景明の奴が帳簿を直してくれた』『景明の奴が夜中に抜け出している』……。お前の妹も私も、毎日毎日あの男の話ばかり聞かされて、正直うんざりしているのです。どうにかしなさい」
ピシャリと言い放たれ、呂綏は言葉に詰まり、その場にヘナヘナと座り込んだ。
彼女には、本当に『自覚』がなかったのである。
父・呂布に似て戦場を駆けることしか知らず、血と汗の匂いの中で生きてきた大女。彼女の人生において『色恋』などという甘っちょろい病を患った経験は、これまで一度たりとも存在しなかった。
いつも飄々(ひょうひょう)として自分のペースを崩さず、自分を大女と恐れることもなく真っ直ぐに目を見てくるあの風来坊。彼を目で追ってしまう理由が、胸の奥が妙にざわつくこの感情が、『恋』なのだということに、彼女自身が全く気づいていなかったのである。
なお、後漢という時代は儒教の縛りが強くなりつつあるものの、意外にも『恋愛婚』がまだまだ多く見られる時代であった。戦乱の世において、自らの伴侶を己の意思で選ぶ気風は、武門の家では珍しいことではない。
厳氏は、茹でダコのように赤くなったままフリーズしている娘を見て、クスリと優しく微笑んだ。
「……亡きお父様が生きておられたら、可愛いお前にあのような得体の知れない風来坊が近づいたと知れば、方天画戟で真っ二つに斬り伏せようとしたことでしょうね」
母の言葉に、呂綏はビクッと肩を揺らした。確かに、あの父ならば問答無用で景明をミンチにしかねない。
「ですが、人の好みは人それぞれです。お前が普通の男には見向きもせず、あのような不思議な男に惹かれたというのなら……母は、受け入れましょう」
厳氏は、すでに『二人の仲は決定事項(事が終わっている)』かのような口ぶりで、静かに頷いた。娘の幸せを願う母として、相手が誰であれ、この不器用な大女が初めて心を開いた男を否定するつもりはなかったのである。
母から『恋』という概念を真正面から突きつけられた翌日。
呂綏は、完全に調子を狂わせていた。
「……うん? どうした、女将。今日の太刀筋はひどく鈍いぞ。昼飯でも食いそびれたか?」
練兵場において。蛇矛を軽く構えながら、張飛が怪訝そうに首を傾げた。
普段の呂綏であれば、関羽や張飛といった天下の豪傑を相手にしても、互角以上に渡り合うほどの猛烈な気迫と力を見せる。しかし、今日の彼女の薙刀は空を切り、足捌きもどこかおぼつかない。
「っ……! うるさい! もう一合だ!」
「やめておけ、呂綏殿。怪我をするぞ」
見かねた関羽が、青龍偃月刀を地に突き立てて静かに言った。
「貴殿の刃には、今、ひどい『雑念』が混じっている。戦場に心ここにあらずの状態で立つのは、武人として下の下だ。今日は頭を冷やした方が良い」
関羽のその容赦のない、しかし的確な指摘に、呂綏は顔をカアッと赤くし、逃げるように武器を置いて練兵場の隅へと歩き去った。
(どうすればいい……! 私は、どうすればいいのだ!)
陣舎の裏の木陰に座り込み、頭を抱えてウンウンと唸る。
『あの男のことが好きなのだな』という母の言葉が、頭の中で何度もエコー(反響)しては、胸の奥を激しく波打たせていた。今まで気安く悪態をつき合っていた相手を、急に『そういう対象』として意識してしまい、どう顔を合わせれば良いのか全く分からなくなってしまったのである。
「――おい。どうしたんだよ、女将どの。世の終わりみたいな顔して」
不意に、頭上からのんきな声が降ってきた。
ビクッとして顔を上げると、そこには、よりにもよって今一番顔を見たくなかった相手――比企景明が立っていた。
「ひゃっ!? あ、お、お前……! な、何故ここに!」
「何故って、俺の配属先はあんたの部隊だからな。……張飛の旦那たちに絞られて、落ち込んでるのか?」
景明は、巨大な身体を縮こまらせて挙動不審になっている呂綏を、少しばかり心配そうな瞳で見下ろしていた。
普段は「うるさい風来坊め!」と怒鳴り散らしてくる彼女が、今日はやけに大人しい。顔色もどこか熱に浮かされたように赤い。
政務や外交では天才的な立ち回りを見せる大和の元王族であったが、彼もまた、目の前の武骨で純情な大女が『自分への恋煩いで大パニックを起こしている』ことなど、夢にも思っていないのであった。
「顔が赤いぞ。風邪でも引いたのか? ほら、水でも飲めよ」
景明は、腰に下げていた水筒を無造作に呂綏へと差し出した。
その何気ない気遣いと、無防備に向けられる真っ直ぐな視線が、呂綏の頭の許容量をさらに限界へと追い込んでいくのであった。
―――
「……ええい、一体誰に相談すれば良いのだ!」
比企景明から差し出された水筒から逃げるように陣舎を飛び出した呂綏は、新野の街をあてもなく彷徨っていた。
周囲を見渡せば、劉備(りゅうび)が統治を始めてからというもの、新野の街は以前とは見違えるほど活気に満ち溢れている。商人たちの威勢の良い声が飛び交い、道行く民衆の顔は明るく、口々に「劉備様のおかげだ」と主君を讃える声が聞こえてくる。
だが、今の呂綏にとって、そんな街の喧騒はどうでも良かった。
彼女の頭の中は、先ほどの景明の顔と、母から突きつけられた『お前はあの男が好きなのだな』という言葉で完全に占拠されている。
誰かに教えを乞おうにも、この後漢の時代、特に武家や名家の間では「政略結婚」が基本である。
「自分が惹かれた男にどう接すれば良いか」などという個人的で軟弱な悩みを、張飛や関羽といった武骨なオッサンたちに相談できるはずもない。
(学だ。こういう未知の事態を解決するために、人は学問を修めるのではないのか……!)
完全に方向性を間違えた思考に陥った呂綏は、ふと街の片隅にある『学舎』の建物を発見し、藁にもすがる思いでその門をくぐったのである。
学舎の中は静かで、数人の書生たちが書物を広げていた。
その中で、部屋の奥に陣取る『五人の若き知識人たち』の集団が、ひと際異彩を放っていた。
彼らは単なる書生ではない。
いずれも水鏡・司馬徽の私塾で天下の情勢を論じ合う、荊州最高峰の若き頭脳たちである。彼らは、司馬徽が高く評価した「劉備」という男が、実際に市井でどのような統治を行っているのかをその目で確かめるため、連れ立って新野まで視察に訪れていたのだ。
「……なるほど。劉備殿の法は厳格ではないが、民の心を掴む『情』の使い方が見事だ」
「うむ。しかし、兵站と税の動きには、どこか極めて合理的な『異質の算段』が混じっているような気配がするな。……孔明、お前はどう見る?」
彼らが天下の形勢について熱く語り合っていた、まさにその時である。
「たのもぉーッ!!」
ズシン! と学舎の床を揺らす重い足音と共に、身の丈7尺(約185センチ)に近い、軍装姿の巨大な女将が猛然と押し入ってきた。
「な、なんだお主は!?」
驚く徐庶たちを他所に、呂綏は五人の前にドカッと胡座をかいて座り込んだ。
「お前たち、見たところひどく頭の良さそうな顔をしているな。……少し、私の『病』についての相談に乗れ!」
顔も知らない、だが間違いなく「頭が良さそう」という理由だけで、呂綏は五人の知識人を捕まえて自らの症状を語り始めた。
「……というわけだ。ある男の顔を見ると心臓が早鐘のように鳴り、薙刀の太刀筋はブレ、夜も眠れん! これは一体、どういう陣形を組めば打破できるのだ!?」
「…………」
天下の情勢や兵法について語り合っていた徐庶や崔州平たちは、ぽかんと口を開けた。
目の前の鬼神のごとき大女が、顔を真っ赤にしながら必死に語っているのは、軍事でも内政でもない。ただの『強烈な恋煩い』であった。
「ぷっ……くくくっ!」
「いや、陣形で打破できるものではなかろう。それは……はっはっは!」
石韜や孟建が堪えきれずに吹き出す。彼らは優秀な知識人であるがゆえに、この時代において「政略」の絡まない純粋な恋の悩みなど、どう答えて良いか分からず、ただ苦笑するしかなかった。
「笑うな! 私は真剣なのだ!」
呂綏が床を叩いて威嚇した時。
「――笑い事ではありませんよ。人の情理というものは、時に国家の趨勢よりも難解なものですから」
静かに羽扇を揺らしながら、一人の男が一歩前に進み出た。諸葛亮である。
諸葛亮は、呂綏の巨大な威圧感に少しも動じることなく、涼やかな瞳で彼女を見据えた。
この五人の中で、彼だけが唯一の『既婚者』であり、さらにはこの後漢の時代において極めて珍しい『純粋な恋愛婚』を貫いた男であった。
諸葛亮の妻・
さらにこの世界線の彼は、すでに愛妻との間に子を授かり、家族を深く愛する『若き父』でもあった。だからこそ、呂綏の不器用な恋心を笑うことはしなかった。
「……貴女は、その御仁の『どこ』に惹かれたのですか?」
諸葛亮の静かな問いに、呂綏は怯みながらも答えた。
「ど、どこって……。あいつは私の身体の大きさを恐れない。いつも飄々としているくせに、誰も見ていないところで泥水をすするような裏仕事をしている。……腹立たしい男だが、その、器が……大きい」
「なるほど」
諸葛亮は優しく微笑み、羽扇をピタリと止めた。
「世間の物差しではなく、貴女自身の目で見つけた『その者だけの美徳』に惹かれた。……それは、この乱世において極めて尊く、得難いものです。私が妻を娶った時と同じだ」
天下の臥龍は、恋に迷う大女に対し、理路整然と、しかし深い実感を持って説いた。
「貴女は武の道に生きる方とお見受けする。ならば、兵法を用いる必要はありません。恋もまた、一つの戦場。相手が腹の底を見せない曲者であるならば、なおのこと……貴女自身の持つ『最大の武器』で切り込むべきです」
「私の、最大の武器……?」
「ええ。すなわち、『真っ直ぐな誠実さ』です。小細工など捨てて、正面からその想いを叩きつけなさい。貴女が認めた器の大きな男であるならば、その一撃、必ず正面から受け止めてくれるはずです」
諸葛亮のその言葉は、迷霧を切り裂く一筋の光のように、呂綏の心にスッと落ちた。
「……真っ直ぐ、叩きつける。……そうか。それで良かったのだな」
呂綏の顔から迷いが消え、武将としての本来の精悍な顔つきが戻る。彼女は勢いよく立ち上がると、五人の知識人たちに向かって深く、深く一礼した。
「名も知らぬ軍師殿! 感謝する! 霧が晴れたぞ!」
ドタドタドタッ! と、入ってきた時以上の凄まじい勢いで、呂綏は学舎を飛び出していった。
嵐が去った後のような静寂の中、徐庶たちが呆気にとられた顔で諸葛亮を見る。
「……孔明よ。お前、いつの間に恋愛の指南までできるようになったのだ?」
「ははは。学問も恋も、本質を見極める『理』は同じですよ。……さて、劉備殿の市井の視察に戻りましょうか」
極東の風来坊に恋をした鬼神の娘の背中を、後の大軍師・諸葛亮が(本人も知らぬ間に)力強く後押しした、奇妙で爽やかな新野の昼下がりであった。
「景明ッ!! どこだ!!」
諸葛亮の学舎を飛び出した呂綏は、新野の陣舎の裏手へと一直線に駆け込んでいった。
恋の駆け引きなどという高度な戦術は、彼女の辞書には存在しない。天才軍師の『真っ直ぐに叩きつけよ』という助言に従い、彼女は一切の後先を考えず、己の感情という巨大な鉾を真っ向から突き刺すことだけを決意していた。
ただ一つ、彼女が配慮したことといえば、『場所の選定』だけであった。
「……おう、女将どの。どうしたんだ、猪みたいに鼻息を荒くして」
陣舎の裏手、武器庫の影の静かな場所。
そこには、愛馬の手入れをしながらサボっている比企景明の姿があった。周囲に張飛や関羽といった、からかってきそうなオッサンたちの気配はない。
もし景明が断った場合、彼が周囲に冷やかされずにスッと逃げられるようにという、不器用な大女なりの『退路を残す良心』であった。
呂綏は、景明の数歩手前でピタリと止まると、両の拳を固く握りしめ、顔を夕焼けのように真っ赤に染めながら、ド直球で怒鳴った。
「私は! お前のことが好きだ、景明!! ずっと私の側で、その飄々とした顔を見せていろ!!」
「………………は?」
馬の嘶きだけが聞こえる静寂の中。
流石の風来坊も、馬を撫でていた手を完全に止め、目を真ん丸に見開いて硬直した。
「……お、おいおい。冗談だろ、女将どの。悪ふざけにしては……」
「冗談でこんなに顔を赤くして叫ぶ馬鹿がいるか!! 本気だ!!」
呂綏の凄まじい気迫に、景明は頭を掻きむしった。
中原の政略的な絡め手であればいくらでも躱せる景明であったが、この一点の曇りもない『純度百パーセントの真っ直ぐな感情』を前にしては、いかなる外交術も無力であった。
景明は、視線を落とし、少しの間、真剣な顔で黙り込んだ。
そして、ゆっくりと首を横に振った。
「……すまねえ。嬉しいが、その話は受けられねえよ」
「……ッ!」
呂綏の心臓が、ドクンと嫌な音を立てた。
フラれた。真っ直ぐにぶつかって、真正面から弾き返された。覚悟はしていたものの、胸の奥がギリッと締め付けられるような痛みが走る。
「……何故だ。やはり、私が女にしては『大きすぎる』からか……? それとも、戦場ばかりで色気がないからか……」
呂綏が、大柄な身体を縮こまらせて、今にも泣き出しそうな声で問うと、景明は慌ててそれを否定した。
「馬鹿野郎、違う! お前がデカいからとか、そういうことじゃねえよ! お前はそのままで十分立派だし、綺麗だ」
「な、綺麗……っ!? な、ならば何故だ!」
景明は、困ったように眉を下げ、自らの生い立ちに根ざす深い事情をポツリとこぼした。
「……俺の、出自の問題だよ。俺はただの風来坊に見えるだろうが、色々と面倒な過去を引きずっててな。いつ、どんな厄介事が追いかけてくるか分からねえ身分なんだ」
景明は、暗に「大内裏の追手」や「大和の理」という万が一の事態を危惧していた。
そして彼は、自らの腰に差した太刀に手をやり、自嘲気味に笑った。
「それに……俺は、『弱い』からな」
「弱い、だと?」
「ああ。俺の知ってる『本物の化け物(兄・大和健)』や、お前の親父さん(呂布)なんかに比べりゃ、俺の腕なんて児戯に等しい。張飛の旦那や関羽の旦那にも、真っ向勝負じゃ少しばかり劣る。……いざって時に、お前を『護ってやれるか』、不安なんだよ」
それは、中原の儒教的価値観とは全く異なる、大和国特有の価値観であった。
大和の神道において、女性とは命を産み出す清らかな存在(太陽神・天照大御神の体現)であり、決して穢れた存在ではない。だからこそ、日本の男にとって「女を護り抜くこと」は絶対的な矜持であり、責任であった。
「俺は、お前を背負って安全な場所に隠してやれるほどの力はない。……だから、すまねえ」
自らの武力不足と、彼女を危険に巻き込むかもしれないという不安。
それが、景明が呂綏の告白を断ろうとした、たった一つの、しかし彼にとっては極めて重大な理由であった。
その景明の真剣な告白を聞いて。
呂綏は、ポカンと口を開け、数秒間、瞬きを繰り返した。
そして。
「――っ、ふ……あはははははっ!! わっはっはっはっはっ!!!」
陣舎の裏手に、カラスが飛び立つほどの、腹の底から響き渡る凄まじい大爆笑が響き渡った。
「な、なんだよ! 人が真面目に話してるってのに……!」
「あはははっ! ひぃ、腹が……! くくくっ、馬鹿か、お前は!!」
呂綏は、目尻に涙を浮かべるほど笑い転げた後、ビシッと景明に指を突きつけた。
「いいか、景明! よく聞け! 私は天下無双の飛将・呂布の血を引く娘、この并州騎兵を束ねる女将・呂綏だぞ! 私が誰かの後ろに隠れて『護られる』だと!? 笑わせるな!!」
呂綏は、景明の胸倉をグイッと引き寄せ、その顔を自分と同じ高さまで持ち上げた。
「護ってやらなくていい! もし厄介事がお前を追ってくるなら、私がこの薙刀でまとめて叩き斬ってやる! お前は私の背中を護れ! 私がお前の前を切り拓いてやる!……それの、何が不満だ!!」
それは、庇護を求めるか弱き乙女の言葉では断じてない。
共に戦場を駆け抜け、互いの背中を預け合う『最強の相棒』としての、魂からの咆哮であった。
「…………」
そのあまりにも豪快で、雄々しく、そして太陽のように明るい器の大きさを至近距離で見せつけられ。
景明は、毒気を抜かれたようにぽかんとした後――やがて、フッと肩の力を抜いて、心底可笑しそうに笑い出した。
「ははっ……。違いねえ。お前を背中に隠すなんて、土台無理な話だったな」
景明は、両手を上げて「降参だ」というポーズをとった。
「ああ、分かったよ。俺の負けだ。……護れねえなら、せめてお前の背中に刃が立たねえように、死ぬ気で横を走らせてもらうとするか」
「うむ! 最初からそう言えば良いのだ!」
呂綏は、満面の笑みを浮かべて景明の肩をバンバンと叩いた。
景明は少しむせせた。
鬼神の娘のド直球な告白と、風来坊の陥落から数日後。
二人の関係が定まるや否や、事態は信じられないほどの『トントン拍子』で進んでいった。
「さあ、急ぎなさい! 酒の手配はできたか? 豚を潰せ、新野の民にも振る舞うのだ!」
「綏や、紅がはみ出ていますよ。じっとしていなさい」
陣舎の奥では、呂綏の母・厳氏が、まるで何ヶ月も前からこの日を待ち構えていたかのような見事な采配を振るい、あっという間に婚儀の準備を整えてしまったのである。
「母上、いくら何でも早すぎはしないか!?」と戸惑う娘をよそに、結納から何から、形式的な手順は超高速で消化された。まるで『あの風来坊が逃げ出さないうちに、外堀を完全に埋めてしまえ』とでも言うような、見事な陣立てであった。
そして、時は夕暮れ。
赤々と染まる新野の空の下、劉備軍の陣営にて、盛大な祝宴の幕が上がった。
血生臭い戦いが続く中原において、身内の、それも前線で命を張る猛将の慶事である。
主君である劉備をはじめ、関羽、張飛、趙雲、さらには学舎から招かれた諸葛亮らお歴々が列席し、陣営全体が久しぶりの明るい熱気に包まれていた。
「ううっ……うおおぉんっ!! 我らが、我らが女将殿が……ッ!!」
「あんなに小さかったお嬢が、こんな立派な花嫁姿に……!」
宴の席の片隅で、誰よりも大声で号泣していたのは、呂綏が率いる并州騎兵の屈強な荒くれ者たちであった。
彼らは、飛将・呂布が存命であった頃から呂家に仕え、幼い頃から呂綏の成長を見守ってきた古参の兵たちである。
戦場では鬼神のように敵を撫で斬りにする大女が、今日ばかりは美しい紅色の花嫁衣裳に身を包み、少し恥ずかしそうに伏し目がちに座っている。その晴れ姿を見て、歴戦の猛者たちが子供のように鼻水をすすって泣いていた。
「……おいおい。張飛の旦那ならともかく、あのゴリラみたいに強面の并州の連中が揃いも揃って泣いてるたぁ、壮観だな」
新郎の席に座る比企景明は、手元の盃を傾けながら、苦笑交じりに呟いた。
彼自身も、普段の薄汚れた旅装束から一新し、劉備から祝いとして贈られた真新しい上質な絹の衣を纏っている。無精髭は綺麗に剃り落とされ、その顔立ちは、かつて大和国の宮廷で帝王学を修めた『王族』としての本来の気品を、隠しきれないほどに放っていた。
後漢の婚儀において、本来であれば新郎の側から、新婦の家へ莫大な結納品や『贈り物(宝飾品や絹織物)』が贈られるのが習わしである。
しかし、景明は身一つで海を渡ってきた出奔王族であり、今はただの客将に過ぎない。しかもこれほど急に決まった婚儀であるため、高価な品を用意する時間も金も、彼には全くなかった。
「……景明殿」
宴が盛り上がる中、劉備が少し心配そうな顔で声をかけた。
「準備の期間がなかったとはいえ、厳氏殿に何も示しがつかぬのでは、貴方の肩身が狭かろう。私が金を出そうか?」
「お気遣い痛み入るぜ、劉備の旦那。……でも、大丈夫だ。俺なりの『手土産』は、ちゃんと持ってきてる」
景明はそう言うと、懐からゴソゴソと一枚の『木簡』を取り出した。
そして、盃の飛び交う騒噪を手で制し、静かに立ち上がった。
「皆の衆、ちいとばかり静粛に頼む! 結納の品なんて気の利いたもんはねえが、代わりに……俺の故郷の『祝いの言葉』を、俺の妻になるこの女に贈らせてもらうぜ」
かつて「漢詩など一文字も知らねえ」と言い放った景明が、詩を詠むというのである。
劉備も、諸葛亮ら文官たちも、そして花嫁の呂綏も、驚きと共に静かに耳を傾けた。
景明は、木簡を開き、良く通る澄んだ声で、中原の詩(五言絶句や七言律詩)とは全く異なる、五・七・五・七・七の奇妙な調べを朗々と詠み上げた。
『わが君は 千代に八千代に さざれ石の 巌(いわお)となりて 苔のむすまで』
詠み終えた瞬間。
宴の席には、ぽかんとした静寂が落ちた。
中原の知識人たちからすれば、韻の踏み方も文字の並びも全く法則に当てはまらない、聞いたこともない異国の調べであった。関羽は髭を撫でて首を傾げ、張飛に至っては「なんだそりゃ、呪文か?」と目を白黒させている。
「……景明。それは、どういう意味なのだ?」
呂綏が、不安そうに自分を見上げて問うた。
景明は、木簡をパタンと閉じ、ニヤリと笑って全員を見渡した。
「俺の故郷に伝わる古い
景明は、真っ直ぐに呂綏の目を見て説明を始めた。
「小さな石ころが、長い長い年月をかけて固まり合い、やがて巨大な岩の塊になる。
そして、その巨大な岩に、青々とした苔がびっしりと生え揃うまで。
……千代に八千代に、つまり『永遠とも呼べるほどの長い時間』、お前の命が健やかに続き、俺たちの絆が岩のように決して揺るがず、栄えますように、って意味だ」
その真意を聞いた瞬間。
不思議な調べに首を傾げていた中原の者たちの顔色が一変した。
「おお……!! 小さな石が寄り集まり、苔生すほどの巨大な岩となるまで、永遠の繁栄と不変の絆を願うと……! 何という雄大で、美しい比喩か!!」
文学を解する諸葛亮や徐庶たちが、感嘆の声を上げて膝を打った。
漢詩の形式とは違えど、その言葉に込められた『悠久の時を願う情景の美しさ』は、万国共通で知識人たちの胸を強く打つものであった。
「はっはっは! 良い詩じゃねえか、景明! 金や絹より、よっぽど気が利いてるぜ!!」
張飛が豪快に笑って盃を高く掲げ、関羽も「見事な祝詞だ」と深く頷いた。
「永遠の、岩……」
呂綏は、その詩の意味を何度も口の中で反芻し、やがて、その目からポロポロと大粒の涙をこぼした。
「……馬鹿者。ただの風来坊のくせに、格好をつけるな……」
「ははっ、俺なりの精一杯の見栄さ。受け取ってくれるか?」
「ああ……! 勿論だ!」
泣き笑いの顔で木簡を胸に抱きしめる呂綏と、それを見守る景明。血で血を洗う中原の最前線において、極東の島国から持ち込まれた一つの『千代の祝詞』が、大女と風来坊の奇妙で温かい絆を、さざれ石が巌となるように、永遠のものとして固く結びつけたのであった。
―――
中原の新野で、出奔した風来坊と鬼神の娘が永遠を誓う奇妙な婚儀を挙げていたのと同じ頃。
遥か東の海を隔てた極東の島国、日本国の政治の中枢である『大内裏』においても、新たな年が明けていた。
厳かな神務が執り行われ、新年の祭祀が無事に終わりを迎えると、巨大な算段と法のシステムである大和国の官僚機構は、今年も息つく暇もなく慌ただしく稼働を始めていた。
「……ふぅ。今年の春の作付け予測と、各国の鉄製農具の配分計画はこれでよし、と」
執務室にて、山のように積まれた木簡と和紙の束を処理しながら、現在の日本国を統べる天皇・和那比売が、微かに安堵の息を吐いた。
「見事な捌きです、叔母上。事前の算段が完璧に整っているため、物流に一分の狂いも生じておりません」
隣の机で、彼女を補佐するように政務をこなしている若者が、涼やかな声で応じた。
和那比売の甥であり、次期天皇として帝王学を学んでいる稚足彦である。
「お前が優秀だからですよ、稚足彦。手取り足取り教えるつもりでしたが、もう私が口を出すことはほとんどありませんね」
和那比売は、目を細めて甥の横顔を見つめた。
ここ数年の間に、次期大王たる稚足彦は、和那比売や広庭が構築した冷徹な合理システムを完璧に吸収し、実践できるようになっていた。
和那比売は、自らの抱える膨大な仕事量が、この頼もしい甥に引き継がれて少しずつ減っていくことに、君主として、そして叔母として深い満足と喜びを覚えていた。
政務が一段落し、温かい茶で一息ついていた時のことである。
和那比売は、ふと、茶をすする稚足彦の所作や、そのどこか飄々とした空気感を見て、不意にある人物の姿を思い出した。
「……稚足彦。こうしてお前の顔を見ていると、まるで、私の叔父である『あの人』を見ているような気分になります」
「叔父上、ですか?」
聡明な稚足彦は、和那比売が「あの人」と口にした瞬間に、それが誰のことを指しているのか直ぐに気が付いた。
大内裏の公式な記録においては『病により急逝した』として処理されている、前王・大和健の末弟。
日置王――比企景明のことである。
「ええ。とても、優秀な男でした。私にとっては叔父にあたりますが、年齢はそれほど離れておらず、まるで兄妹のように育ちましたから……。幼い頃は、堅苦しい宮廷を抜け出して、よく遊び相手になってもらったものです」
冷徹な女王として君臨する和那比売の顔に、珍しく『ひとりの娘』としての柔らかく、しみじみとした感傷が浮かんでいた。
規格化された息苦しいシステムの中で、日置王だけは常に風のように自由であった。彼がもし大内裏に残っていれば、間違いなく日本国を支える最高の頭脳の一人になっていただろう。だが、彼は自らその運命を拒絶したのである。
「しかし……叔父上は、叔母上が即位された頃に、忽然と姿を消されたと言いましたが…、公式には病死となっておりますが」
稚足彦が、探るように声を潜めて尋ねる。
「ええ。ある夜、ふっつりと大内裏からいなくなりました。……私は当時、父上が何かを知っているに違いないと確信し、執務室に怒鳴り込んで問い詰めたのです」
和那比売は、茶碗を卓に置き、二十年前の『あの夜』の出来事を回想した。
激高して問い詰める娘に対し、前王である大和健は、玉座に深く腰掛けたまま、極めて冷酷に、そして感情の読めないたった一言だけを返したのだという。
『――斬ってやった』
その一言だけである。
稚足彦は、それを聞いて思わず息を呑んだ。
前王・大和健。
彼がどれほどの『化け物』であったかは、大内裏の者であれば誰もが知っている。身の丈七尺を超える(約210センチ)巨躯を持ち、大和が平定される以前の蝦夷との苛烈な戦場において、自ら最前線に立ち、身の丈ほどもある大太刀を片手で軽々と振り回して大暴れしたという、生きる鬼神である。
今でこそ戦が終わり、表立って刀を振るうことはなくなったが、その武威と圧倒的な暴力は、老いてなお少しも衰えてはいなかった。
「……もしも、父上が本当に日置を『斬って捨てた』と言うのであれば。あの武威から逃れられる者などおりません。間違いなく、もう生きてはおらぬでしょう」
和那比売は、どこか諦観の混じった声で静かに言った。
「ですが……」
和那比売は、窓の外、西の空(大陸の方角)を見つめながら、ポツリと呟いた。
「父上が、本当に実の弟をその手で殺したのか。それとも、あの『斬ってやった』という言葉には、別の意味が隠されていたのか。……果たして、話の真実はいったい何なのでしょうね?」
彼女は、自らの甥に対して、答えの出ない問いを静かに投げかけた。
国家の頂点に立つ彼女であっても、巨大な父の心の奥底と、風のように消えた叔父の生死だけは、未だに割り出すことのできない『謎』のままであった。
「……いつか、分かる日が来るのかもしれませんね。真実というものは、思わぬところから流れてくるものですから」
稚足彦もまた、西の空を見つめながら、静かに答えた。
大内裏の奥深くで、日本の最高権力者たちが「すでにこの世にはいないかもしれない」と悼み、その真実を思い悩んでいる、まさにその時。
当の本人である日置王(比企景明)は、中原の最前線・新野の城下において、身の丈七尺近い飛将の娘を嫁に貰い、張飛や関羽と肩を組んで美味い酒を煽りながら、
「わっはっは! 荊州の酒は最高だな!」
と、誰よりも自由に、そして無邪気に大笑いをしているのであった。
故に今は