西暦二百五年。
新野の空の下で永遠を誓い合った比企景明と呂綏の婚儀は、無事に幕を閉じた。
そして婚儀の後、二人の間には中原の常識からはかけ離れた、一つの極めて特異な『取り決め』が交わされていた。
それは、
互いの姓名に「序列」をつけない(どちらの家が上であるかを定めない)
というものである。
つまり、景明が呂家を乗っ取るわけでもなく、逆に呂綏が比企家の下に入るわけでもない、完全な『対等の夫婦』としての在り方であった。
この画期的な取り決めは、新野の街で呂綏から人生相談を受けた、諸葛亮ら学舎の若き知識人たちからの『入れ知恵』であった。
元来、中原を支配する儒教の価値観とは、強烈な『男尊女卑』を基本としている。例外中の例外を除けば、女が男の家へと嫁ぎ、その婚家に尽くすのが「自然なる理」とされていた。
しかし、今回の二人のように「武門の名家(飛将・呂布の血統)を背負う女」と「家を持たぬ根無し草の男」が結ばれる場合、その逆の現象が起きる。
この逆が成立した時、男に対する世間からの風当たりは、想像を絶するほど極端に強いものとなるのである。
中原には『
貧しさや家の事情から、妻の家へと嫁いだ(入り婿となった)男を指す言葉であるが、この時代において彼らの扱いは悲惨を極めた。
家の財産権を持たされず、奴隷のように扱われ、戦が起きれば真っ先に最前線の矢面に立たされる「使い捨ての駒」とされることも珍しくなかったのである。
遠く極東の日本から出奔し、その王族という出自を完全に隠している景明は、中原の戸籍上では完全な『根無し草』である。「比企」という名字こそ名乗ってはいるが、中原においては珍しいことこの上なく、後ろ盾など何一つない。
そんな彼が呂家にそのまま入り婿となれば、世間から「飛将の威光にすがりついた卑しき贅婿」として、いわれのない侮蔑を浴びることは火を見るより明らかであった。
「……私の夫が、無知な俗物どもに後ろ指を指されるなど、絶対に許さん。お前が私を護るのではなく、共に背中を預け合うと言ったのだ。ならば家格も対等でなければ筋が通らん」
呂綏は、諸葛亮からその懸念(贅婿の扱い)を聞かされた時、怒りと共にそう断言した。
景明自身は「俺は他人にどう思われようが痛くも痒くもねえよ」と笑っていたが、妻となった呂綏のその不器用で真っ直ぐな気遣いと愛情を無下にする彼ではない。
かくして、極東の風来坊と鬼神の娘は、中原の儒教のしがらみを軽やかに飛び越え、互いを一個の人間として尊重し合う『対等の契り』を結んだのである。
そして、この二人の特異な婚儀の風景は、思わぬところで『中華の歴史を根本から動かす巨大なうねり』を生み出していた。
「うっ……ううっ……。あの得体の知れない景明殿が、見事に身を固めるとは……! 呂綏、幸せになるのだぞ! 景明殿、呂綏を泣かせたら、私が許さんからな!」
「あははっ! 劉備の旦那、酔っ払って泣き上戸になってるぜ!」
宴の席において。
一軍の将であり、荊州の最前線を預かる主君・劉備玄徳が、一介の部下の婚姻に大々的に参加し、我が事のように涙を流してボロボロに泣き崩れていた。
関羽や張飛もまた、大口を開けて笑いながら新郎新婦に酒を注いで回っている。
さらに、陣舎の外では。
「劉備様のお身内の、大柄な女将殿が嫁に行かれたそうだ!」
「いつも街の警護をしてくださる方だ。さあ、少ないがこれは祝いの品だ!」
「末永くお幸せにな!」
新野の街人たちが、自発的に陣舎の周りに集まり、粗末ながらも心のこもった祝いの品を持ち寄って、劉備軍の慶事を心から祝福していたのである。
その光景を、陣舎の片隅から静かに、しかし衝撃をもって見つめている者たちがいた。
徐庶、石韜、孟建、崔州平、そして諸葛亮。
司馬徽の学舎からやってきた、五人の若き天才たちである。
「……信じられるか。たかが一介の部下の婚儀だぞ。それに主君がここまで心を砕き、民衆がこれほどまでに熱狂して祝福するなど……」
徐庶が、信じられないものを見るように呟いた。
曹操の陣営であれば、厳格な法と軍紀のもと、このような君臣の垣根を越えた私的な情の交わりはあり得ない。劉表や孫権の宮廷でも、身分と格式がすべてを支配している。
しかし、この新野にはそれがない。
あるのは、損得勘定を抜きにした圧倒的なまでの『人の温もり(仁徳)』と、それに惹きつけられて集まった強固な『絆』であった。
「……見抜きましたよ」
諸葛亮が、羽扇を静かに握りしめながら、熱を帯びた瞳で劉備の姿を見つめた。
「劉備という男が、何故これほどまでに民や将に好かれ、恐るべき求心力を持っているのか。あの御仁は、他者の喜びを自らの喜びにし、他者の悲しみを自らの悲しみとすることができる『器』そのものだ」
だが、と。諸葛亮は鋭く目を細めた。
「しかし、あの陣営の戦い方や政務を見るに、致命的に足りていないものがある。あの器に入り切るほどの『水』を導くための、緻密な算段と大局を動かす理です」
「……ああ。足りないのは、間違いないな」
崔州平が、ニヤリと笑って隣の仲間たちの顔を見渡した。
「ならば、孔明。お前はどうする?」
諸葛亮は、羽扇をパチンと閉じ、揺るぎない声で答えた。
「――あの男を、支えたくなりました。我々が、あの器を満たす『水』となるのです」
その言葉に、残る四人も深く頷いた。
誰か一人が仕官するのではない。学舎で天下を論じ合ってきた五人の若き天才たちが、「自分たちのような者(頭脳)こそが、この愛すべき不器用な陣営には必要だ」と、同時に、そして強烈に自覚した瞬間であった。
西暦二百五年。
極東の風来坊と鬼神の娘が結んだささやかな対等の契りが、新野という街の持つ『温かさ』を可視化させ、それを目の当たりにした荊州の最高峰の頭脳たちを一気に突き動かした。
後に「三顧の礼」と呼ばれる歴史的イベントを待たずして、諸葛亮をはじめとする巨大な才能の集団が、自らの意思で劉備の元へと歩み寄ろうとしている。
ここに、中華の歴史の歯車は、本来の軌道を大きく外れ、全く新たな激動の時代へと向かって凄まじい音を立てて回り始めた。
―――
西暦二百五年の初春。
比企景明と呂綏の婚儀から数週間後、荊州の知識人層を揺るがす特大の「激震」が走った。
水鏡・司馬徽の学舎に集っていた最高峰の頭脳たち――諸葛亮、徐庶、石韜、孟建、崔州平の五名が、連れ立って劉備の元へ下り、正式に仕官を果たしたのである。
彼らは本来、荊州の主である劉表か、あるいは中原の覇王・曹操、江東の孫権といった巨大な勢力から引く手あまたの存在であった。
それが、城を一つ間借りしているだけの「客将」に過ぎない劉備の元へ、一人ではなく五人揃って身を投じたのだ。新野の陣営は、弱点であった「内政と外交の頭脳」を一気に、それも最高純度で手に入れることとなった。
だが、この規格外の朗報は、時の風に乗って南の襄陽へと届き、一人の男の心に致命的な『毒』を回すこととなる。
「……馬鹿な。水鏡の秘蔵っ子たちが、皆あの余所者の元へ行っただと……!?」
襄陽の宮廷にて、報告を受けた劉表は、手にした玉の盃を床に叩きつけて粉々に砕いた。
長年荊州を治め、豊かな富と巨大な軍事力を持つ自分には、決してなびかなかった若き天才たち。それが、根無し草の劉備にはいとも簡単に膝を屈した。
もはや、劉表にとって劉備は「曹操を防ぐための便利な番犬」などではなかった。荊州の民の心を奪い、天下の奇才を根こそぎ奪っていく、自らの足元を食い破る『最大の危険分子』へと変わっていたのである。
(玄徳め……。客将の分際で、私が欲するものを次々と奪っていく。このままでは、荊州の主の座すら簒奪されかねん……!)
嫉妬と恐怖に駆られた劉表の目は、完全に血走っていた。
彼は側近たちを集め、劉備を新野から追い出す、あるいは処罰するための『大義名分』を狂ったように命じ始めたのである。軍規違反はないか、税の横領はないか、曹操と内通している証拠はないか。
かつて「八俊」と讃えられた名士の面影はそこにはなく、ただ己の保身に執着する老いぼれた権力者の姿だけが、そこにはあった。
その父の醜悪な姿を、御簾の陰から冷ややかな、そして深い『嫌悪』の目で見つめている青年がいた。
劉表の長男、
(……父上は、どうかしてしまわれた。大漢の宗室としての誇りも忘れ、ただ己の嫉妬で優秀な将を陥れようとなさるとは)
劉琦は、本来であれば荊州の後継者となるべき長男であったが、後妻である蔡(さい)夫人やその一族から疎まれ、宮廷内で孤立を深めていた。それゆえに、権力闘争の醜さを誰よりも肌で感じており、父・劉表の行おうとしている『恩を仇で返すような誅殺計画』に、生理的な吐き気すら催していた。
(客将でありながら、民に慕われ、天下の奇才たちがこぞって仕えようとする男。……劉備玄徳とは、一体いかなる人物なのか。私のこの目で、確かめねばなるまい)
劉琦は、すぐさま行動を起こした。
彼は父や蔡氏の息のかかっていない、自らが動かせる直属の軍勢を密かにまとめ上げた。
そして「曹操軍の南下に備え、最前線である新野県の防衛状況を視察する」という、誰にも反論できない大義名分を掲げ、軍を率いて襄陽を出立したのである。
新野へ向かう彼の胸中にあったのは、父への反発と、劉備という底知れぬ魅力を持つ男への強烈な好奇心、そして「あわよくば、自分もその器の恩恵に与りたい」という、孤立した青年なりの切実な願いであった。
一方で、襄陽の宮廷に残されたもう一人の息子――次男の
「兄上は、あのような余所者に肩入れするために北へ向かったか。……愚かな」
劉琮は、母である蔡夫人の寵愛を受け、荊州の有力豪族たちに担ぎ上げられている存在である。
彼は、父・劉表が劉備に対して抱いている「恐怖」と「排除の意思」を、極めて正しい判断であると肯定していた。
「父上の言う通りだ。劉備は危険すぎる。我ら荊州の安寧を脅かす獅子身中の虫は、早急に駆除せねばならない」
劉琮は、父の意思を尊重し、それを実行に移すべく、
西暦二百五年の春。
劉備の陣営が「最高の頭脳」を得て歓喜に沸くその裏側で、荊州の巨大な土台は、嫉妬に狂う父と、相反する道を歩み始めた二人の兄弟によって、修復不可能なほどに真っ二つに割れようとしていた。
―――
長男・劉琦が自らの直属の軍を率いて、襄陽を出立し新野の劉備の元へ向かった。
その凶報は、荊州の主・劉表にとって、曹操の南下すら上回るほどの強烈な精神的打撃となった。
「なぜだ……! なぜ、琦はあのような余所者の元へ下ったのだ!!」
襄陽の宮廷に、劉表の悲痛な叫びが響き渡った。
後妻である蔡氏の一族に疎まれていたとはいえ、劉表にとって劉琦は血を分けた長男である。自分がこれほどまでに劉備を危険視し、排除しようと思い悩んでいたというのに、その愛しい我が子が、あろうことか『最大の危険分子』と手を結ぶために軍を動かしたのだ。
その事実がもたらす事態の深刻さ――すなわち「荊州の完全なる分裂」という結末に、老いた劉表の思考は全く追いつかなかった。
「父上! しっかりなさいませ! 兄上は劉備という賊の甘言に誑されたのです! 今すぐ私に軍を預けてくだされば、新野へ向かい、兄上を連れ戻し劉備の首を刎ねてみせます!」
次男の劉琮が、激昂しながら父の寝所に詰め寄り、必死に発破をかける。
しかし、劉表の瞳は虚ろに宙を彷徨うばかりであった。
「琦を、討つ……? 馬鹿な、実の息子同士で血を流せというのか。そんなこと、できるはずが……ああ、頭が、割れるように……ッ!」
実の息子への情と、権力を維持しなければならないという重圧。完全に板挟みとなった劉表は、そのまま胸をかきむしり、糸が切れたようにその場に崩れ落ちた。
これが、長きにわたり荊州に平和をもたらしてきた『八俊』の最後にして最大の過ち――決断の先送りであった。劉表はそのまま重い病に伏し、二度と政務の場に立つことはできなくなってしまったのである。
劉表が病に倒れたことで、襄陽の宮廷は完全に機能不全に陥った。
そして、劉琮を擁立して荊州を我が物にしようと企んでいた蔡瑁ら有力豪族たちの目論見にも、狂いが生じ始めていた。
「……ええい! 劉琦の若君が動いたことで、
豪族たちの密室の会議で、蔡瑁が苛立たしげに卓を叩く。
劉備という余所者を排除するという点においては、荊州の豪族たちの意見は一致していた。しかし、そこに『正統なる長男・劉琦』が結びついてしまったことで、事態は極めて複雑になったのである。
儒教の価値観において、長男の相続権は絶対である。
もし劉琮の軍が新野へ攻め込み、劉琦と刃を交えることになれば、それは「弟が兄を討つ」という最悪の『逆賊の振る舞い』となってしまう。古くから荊州に土着する豪族や文官たちの中には、「劉備は憎いが、正当な後継者である劉琦様を弑(しい)逆することには賛同できない」と、劉琮派から距離を置き始める者たちが次々と現れたのである。
新野の劉備陣営には、諸葛亮ら水鏡の最高峰の頭脳たちが揃っている。彼らが「大義名分は劉琦様にある」と喧伝すれば、荊州の世論は一気に真っ二つに割れる。どちらに味方すべきか、豪族たちは天秤を揺らしながら固唾を呑んで事態を見守っていた。
だが、蔡氏をはじめとする『荊州の既得権益』の頂点に立つ者たちにとって、ここで手をこまねいているわけにはいかなかった。
「このまま劉琦様と劉備が結託し、父君である劉表様の跡を継ぐようなことになれば……我々の権益はすべて剥奪される。最悪の場合、一族もろとも処断されるだろう」
謀臣・
極東から来た風来坊が、夜な夜な豪族たちの元へ通い、巧妙に根回しをしていたおかげで、一時は劉備への警戒が薄らいでいた時期もあった。
しかし、劉備が水鏡の学士たちを手に入れ、あまつさえ長男の劉琦まで取り込んだ今となっては、景明の外交工作など吹き飛ぶほどの『直接的な脅威』へと変貌してしまっていたのだ。
「……表立って軍を動かし、劉琦様と戦うのは下策だ。だが、新野の『劉備の首』さえ物理的に落としてしまえば、劉琦様も後ろ盾を失い、大人しく我々に屈するはずだ」
蔡瑁の目に、暗い殺意が宿った。
大義名分が通用しないのであれば、闇に紛れて暗殺するか、あるいは宴に誘い出して謀殺するか。
既得権益の守護者たちは、表の政治の舞台から水面下の『泥沼の暗闘』へと、その戦術を大きく切り替えようとしていた。
―――
西暦二百五年の夏。
荊州は、まとわりつくような高温と多湿に見舞われていた。
風通しの悪い襄陽の密室で、蔡瑁らが汗をかきながら暗殺の計画を練っているその様は、まるで極東・日本に伝わる特有の調味料の作り方を彷彿とさせた。
――『味噌』である。
大豆と麹、そして塩を混ぜ合わせ、巨大な樽の中に密閉する。その上に重い石を乗せ、暗く風通しの悪い場所に長期間放置する。
そうすることで、内部の菌がゆっくりと、しかし確実に繁殖し、ドロドロとした暗褐色へと姿を変えながら、独特の濃厚な匂いと旨味を醸成していくのだ。
劉表という重石のもとで。
劉琦の出奔という『塩』と、水鏡の学士という『麹』が混ざり合い、既得権益という名の大豆が、夏の暑さの中で静かに、そして確実にドロドロと腐敗と発酵を繰り返していく。
決して表には出ないが、確実に樽の中で膨張していく殺意と陰謀のガス。
比企景明や諸葛亮といった新野の頭脳たちは、南から漂ってくるこの『不気味に発酵する味噌の匂い』を、すでに敏感に嗅ぎ取っていた。
曹操との決戦を前にして、劉備軍はまず、この息の詰まるような荊州の『発酵した泥沼』を、生き残りを懸けて泳ぎ切らねばならなくなったのである。
―――
西暦二百五年の夏。
襄陽の泥沼から逃れるようにして軍を率い、最前線である新野県へと辿り着いた長男・劉琦を、劉備は陣舎の門を大きく開け放って、極めて快く歓迎した。
「よくぞ参られた、琦殿! 道中、さぞや不安であったろう。だがもう安心だ、この新野には貴方を害する者など一人もおりはしない!」
劉備は、長旅と精神的な疲労で顔を青ざめさせている劉琦の手を固く握り締め、心からの労いの言葉をかけた。
宮廷内で孤立し、継母の蔡氏や取り巻きの豪族たちから常に冷ややかな敵意を向けられてきた劉琦にとって、劉備のその裏表のない温もりと、関羽や趙雲といった猛将たちが自分を『正当な跡継ぎ』として丁重に迎えてくれる空気は、涙が出るほどに安らぐものであった。
「……玄徳(げんとく)殿。私の身勝手な訪問を許していただき、感謝の念に堪えませぬ」
劉琦は、深く頭を下げ、ようやく張り詰めていた緊張の糸を解いたのであった。
だが。
君主同士が温かい絆を結び、宴の準備に沸き立つ陣舎の裏側で。新しく劉備軍に加わったばかりの諸葛亮ら水鏡の学士たちと、比企景明の顔は、一様に渋く曇っていた。
「……厄介なことになりましたね」
諸葛亮が、羽扇で口元を隠しながら低く呟く。
徐庶もまた、眉間を揉みほぐしながら深く頷いた。
「ああ。大義名分が転がり込んできたのは良いが、時期が早すぎる。それに、襄陽の蔡瑁たちに『我々を討つ口実』を自ら与えてしまったようなものだ」
彼ら頭脳集団の計算は冷徹である。
現状、劉備の軍は一騎当千の精鋭揃いではあるが、あくまで新野一県を治める客将の私兵に過ぎない。もし襄陽の蔡氏らが完全に敵に回り、荊州全土の正規軍と水軍を動かして新野を包囲してくれば、兵力差は絶望的となる。
野戦で一度や二度勝つことはできても、兵糧と物資の差でジリ貧となり、『長期戦となれば確実に敗北(自滅)する』というのが、彼らが出した絶対的な結論であった。
軍議の席。
諸葛亮や徐庶から、現在の致命的な兵力差と「襄陽から討伐軍(あるいは暗殺者)が向けられる可能性が極めて高い」という報告を受けた劉備と諸将は、重い沈黙に包まれた。
「……私の、軽率な行動のせいだ。私が新野へ逃げてきたことで、玄徳殿や皆様に、取り返しのつかないご迷惑をおかけしてしまった」
事の重大さに気づいた劉琦は、青ざめた顔で立ち上がり、劉備たちに向かって深く頭を下げて非礼を詫びた。
「いや、琦殿が頭を下げることではない! そもそも荊州の正統な主は貴方なのだ。我らが貴方をお守りするのは当然のこと!」
張飛が慌ててフォローを入れ、劉備も大きく頷いた。
しかし、劉琦はまだどこか「信じられない」といった表情で、かぶりを振った。
「だが……。いくら蔡氏が私を憎んでいるとはいえ、まさか身内(弟の劉琮)や荊州の臣下たちが、大義もなく本当に反乱のような真似(軍を向けること)を起こすだろうか? 私が直接父上や琮に文を送り、誤解を解けば、血を流さずに収まるのではないだろうか……」
宮廷の暗闘には怯えていたものの、根が優しく育ちの良い劉琦は、「最終的には血の繋がりや忠義が勝つはずだ」という、一縷の希望を捨てきれずにいたのである。
「――あー。悪いが若様、そりゃあちいとばかり『考えが甘すぎる』ってモンだ」
その時。
部屋の隅の柱に背を預けていた景明が、腕を組んだまま、冷水をぶっかけるような言葉を放った。
「け、景明殿。甘い、とは?」
「そのままの意味さ。若様は、この荊州って土地が『誰のモノ』だと思ってる?」
景明は、ゆっくりと歩み出ると、卓の上に広げられた荊州の地図を指先でコンコンと叩いた。
「地図の上じゃあ、ここは劉家の領地に見えるだろうさ。だがな、実質的にこの豊かな土地と税を握ってんのは、劉表の旦那じゃない。……襄陽の中央にどっかりと腰を下ろしている、蔡氏や蒯氏といった『巨大な豪族ども』のモノなんだよ」
日本という、完全に中央集権化された国家の元王族である景明の目から見れば、後漢の地方統治の脆弱さは一目瞭然であった。
君主は、あくまで巨大な力を持つ地元豪族の神輿に乗せられているに過ぎない。
「戦になった場合、俺が夜な夜な酒を飲んで顔を繋いでおいた『地方の小豪族たち』は、義理立てしてこっちに味方してくれるだろう。だが、中央の連中がどう出るかは全く話が違う」
景明は、劉琦の目を真っ直ぐに見据えて言い切った。
「あいつらは、劉家への忠誠で動いてるんじゃない。自分たちの『既得権益』を守るために動いてるんだ。若様が次期当主になれば、自分たちの権力が削られる。だから、大義名分だろうが血の繋がりだろうが踏み躙って、確実に若様と俺たちを『物理的』に消しにかかってくる。……それが、この荊州の現実ってもんさ」
景明の容赦のない、しかし的確すぎる分析に、劉琦は血の気を失って言葉を失った。
諸葛亮もまた、景明の言葉を補足するように静かに頷く。
「景明殿の仰る通りです。もはや対話や文で解決する段階は過ぎました。……我々は今、曹操の南下を背後に控えながら、身内という名の『最大の敵』に包囲されているのです」
「身内という名の敵に包囲されている……か。ならば、その包囲網そのものを内側から食い破らせてやれば良いだけの事」
諸葛亮と比企景明が、新野の置かれた絶望的な現状を端的に言い表し、重苦しい空気が陣舎を包み込んだその直後。
水鏡の学舎から劉備に仕官した学士たちの列から、一人の男が大きく一歩前へと進み出た。
濃い眉に、どこか飄々(ひょうひょう)としながらも鋭い眼光を隠し持つ男。
諸葛亮が『臥龍』と呼ばれるのに対し、水鏡から『鳳雛』という二つ名を与えられたもう一人の天才、
「劉備殿。真正面からぶつかれば、我々は物量の差で押し潰される。だが、襄陽の連中とて一枚岩ではない。私に一軍の采配……いや、この計略のすべてを一任していただきたい」
龐統は、百戦錬磨の将である劉備を決して見下すわけでも、逆に過剰にへりくだるわけでもなく。ただ淡々と、しかし絶対の自信を持って自らの計略の全容を語り始めた。
龐統が語った計略は、非常に緻密かつ陰湿なものであったが、その核となる部分は極めてシンプルであった。
すなわち、『離間の計(敵の内部に不和の種を蒔き、同士討ちを誘う策)』である。
蔡瑁ら蔡氏一族と、蒯越ら他の豪族たちの間に流れる微かな不協和音。そして、劉琮を担ぎ上げている武将たちの中に潜む「長男を差し置いて権力を握ることへの後ろめたさ」。
龐統はそれらの感情の隙間に的確に楔を打ち込み、襄陽の陣営を内部から疑心暗鬼に陥れ、自壊させるというのだ。
「……なるほど。要するに、敵の足並みを乱して勝手に喧嘩させるのだな。相分かった」
劉備は、龐統の語る掻い摘んだ説明を聞き、その策の恐ろしさと有効性を十分に理解した。
だが、陣舎の半分を占める者たちの頭上には、巨大な『?』マークが浮かんでいた。
「……おう、関羽の兄貴。今の話、分かったか?」
「う、うむ。敵が勝手に混乱するから、その隙を突いて斬り込めば良いということだろう……多分」
「なんだ? 槍をどこに突き出せばいいのだ、景明?」
張飛が髭をいじり、関羽が腕を組んで知ったかぶりをし、呂綏に至っては完全に思考を放棄して隣の景明に答えを求めていた。劉備軍の古くからの武人(フルカブ)たちには、複雑な心理戦の構造など、何となくしか理解できなかったのである。
しかし、武将たちが首を傾げる一方で。
諸葛亮や徐庶といった学士たち、そして大和国の算段を持つ景明は、「なるほど、あの商家の物流網を使って偽の情報を流すのか」「見事な盤面だ」と、すっかり納得した顔で深く頷き合っていた。
(……私には到底思いつかぬ策だ。そして、私自身が動くよりも、彼らに任せた方が遥かに上手くやるのだろう)
劉備は、龐統のそのあまりにも切れ味の鋭い計略を聞き、少しだけ背筋を冷たいものが流れるのを感じた。
仁義を重んじる劉備にとって、騙し討ちや離間の計といった裏工作は、本質的には好むところではない。
しかし、景明が語った通り、今は綺麗事を言っていられる状況ではないのだ。
劉備は、「彼らの才に泥仕事を任せるのだ」と、己の心に無理矢理に納得をつけ、一つ大きく息を吐いた。
そして劉備は、上座で顔を強張らせている若君・劉琦へと静かに向き直った。
「……琦殿。龐統の策を用いれば、我々は襄陽の包囲を凌ぎ、逆転の目を見出すことができるでしょう」
劉備の瞳は、どこまでも真剣であった。
「ですが、これはただの戦ではありません。この策を進めれば、貴方は弟君である劉琮殿と、そして父君の築き上げた襄陽の臣たちと、決定的に血で血を洗う『骨肉の争い』を繰り広げることになります。……退路は完全に断たれる。それでも、よろしいのですな?」
あくまでこの戦の主役は、新野の客将である劉備ではなく、荊州の長男である劉琦である。
すべては劉琦の決断次第。身内と戦う覚悟があるか。その最も重い問いを、劉備は真っ直ぐに突きつけた。
劉琦は、ギリッと唇を噛み締めた。
つい先程まで、「対話で解決できないだろうか」と甘い希望を抱いていた青年である。弟と殺し合う未来など、考えただけでも恐ろしく、吐き気がした。
だが、彼の脳裏に、景明が突きつけた冷酷な言葉が蘇る。
『連中は、確実に若様を物理的に消しにかかってくる』
自分がここで決断を下さなければ、己の命が奪われるだけではない。自分を信じて匿(かくま)ってくれた劉備や、新野の罪なき民衆までが、蔡氏の軍勢によって無惨に踏みにじられることになるのだ。
(……私は、荊州の跡取りだ。ならば、父の残した荊州を正しき道に戻すため、泥を被らねばならない!)
劉琦は、膝の上で震えていた拳を固く握りしめ、顔を上げた。
その瞳からは、先程までの怯えと甘さは消え去り、腹をくくった為政者としての光が宿っていた。
「……玄徳殿。私は、覚悟を決めました」
劉琦は立ち上がり、自らの腰に下げていた『印綬(いんじゅ・軍を動かすための権限の証)』を外し、それを両手で恭しく劉備へと差し出した。
「襄陽の奸臣どもを討ち、荊州を正しき姿に戻すため。私・劉琦の持つすべての軍権を、貴方に移譲いたします。……どうかこの愚かな私に代わり、新野の軍を、そして我らの命を導いていただきたい!」
その言葉と行動は、新野の陣営が「劉表の客将」という立場から完全に独立し、荊州の正統な主の代理として『襄陽政府』に対する宣戦布告を行ったことを意味していた。
「……そのご決断、確かに承りました。この劉備玄徳、粉骨砕身の覚悟でお応えいたしましょう」
劉備が印綬を力強く受け取ると、陣舎の空気が一気に引き締まった。
龐統がニヤリと笑い、諸葛亮が羽扇を静かに揺らす。景明と呂綏もまた、いよいよ始まる泥沼の生存競争に向けて、互いの背中を預け合うように視線を交わした。