軍権が正式に劉備へと移譲された直後。
全権を任された龐統が真っ先に手を付けたのは、軍の再編でも武器の調達でもなく、比企景明が夜な夜な泥水をすする思いで構築してきた『荊州の小豪族たちの人脈録』の徹底的な洗い出しであった。
「……ほう。景明殿、貴殿はただ酒を飲んで回っていたわけではないのだな。襄陽(じょうよう)の中枢からは外れているが、物流の要所を握る者や、蔡(さい)氏に反発を抱いている者たちの名が、見事に網羅されている」
「ははっ、伊達に肝臓をすり減らしちゃいねえよ。で、この名簿が役に立つのか?」
龐統は、竹簡(ちくかん)の束を猛烈な速度で読み解きながら、ニヤリと陰湿な笑みを浮かべた。
「役に立つどころではない。極上の『毒』になる」
龐統は、景明の作ったリストの中から、次男・劉琮(りゅうそう)を担ぎ上げている蔡瑁(さいぼう)や蒯越(かいえつ)といった**『側近たちと縁の深い(近しい)人物』**を的確にピックアップしていった。
親戚関係にある小豪族、かつて恩を受けた文官、あるいは商取引で繋がっている商人。龐統の狙いは、襄陽の中枢そのものではなく、その周囲を固める「取り巻きたち」の間に疑心暗鬼の種を植え付けることであった。
「……よし。楔(くさび)を打ち込むべき『ひび割れ』は、すべて見繕った」
標的を絞り込んだ龐統は、軍議の席に控えていた諸葛亮(しょかつりょう)、徐庶(じょしょ)、崔州平(さいしゅうへい)ら水鏡の学士たちの方へと振り向いた。
そして、彼らに向かって、本当にただ**『二、三言』**だけ短い言葉を投げかけた。
「孔明は東の物流を。元直(徐庶)は西の流言を頼む。……州平たちは、蔡瑁の従兄弟の商いから手を付けろ。意味は分かるな?」
たったそれだけの、端的な指示である。
普通の文官であれば「何をどうすれば良いのだ?」と聞き返すところであるが、相手は荊州最高峰の頭脳集団である。
「ええ、十二分に」
諸葛亮が羽扇(うせん)で口元を隠して涼やかに微笑む。
「東の物資を滞らせて焦りを生み、西から『蔡氏が蒯氏を裏切る』という噂を流せば良いのだな。承知した」
徐庶もまた、龐統の意図を完璧に補完し、深く頷いた。
「よし、すぐにかかろう!」
彼らは、これ以上の説明など一切求めることなく、すぐさま陣舎を飛び出し、各々の持ち場(謀略の実行)へと散っていった。
天才同士にのみ通じる、恐るべき意思疎通の速度。それを見た劉備は、ただただ圧倒されて目を白黒させるばかりであった。
「さて」
裏工作の算段を終えた龐統は、今度は退屈そうに欠伸(あくび)を噛み殺している張飛(ちょうひ)や関羽(かんう)、そして呂綏(りょすい)といった武人たちの前へと歩み出た。
「猛将の皆様方には、少しばかり『派手な仕事』をお願いしたい。……明日から、新野の城外にて、軍の全容を挙げての大々的な**『軍事演習』**を行っていただきたいのです」
「演習だと?」
関羽が、立派な髭を撫でながら怪訝(けげん)そうに眉をひそめた。
「うむ。襄陽との決戦を控えた今、兵の練度を高めるのは当然だが……それよりも重要なのは、**『市井(しせい)の人々に、極めて分かりやすく見せつけること』**だ」
龐統は、わざと声を大にして言った。
「鬨(とき)の声を上げ、砂埃を天高く舞い上がらせ、我ら新野の軍が『今すぐにでも襄陽へ向けて全軍突撃する準備が整っている』と、誰の目にも明らかにしてください」
つまり、完全な『陽動(フェイント)』である。
新野の街中には、当然ながら襄陽から放たれた間者が多数潜り込んでいる。武将たちがド派手に武威を誇示して演習を行えば、間者たちは「劉備軍が正面からの武力衝突を企てている!」と勘違いし、襄陽へと報告に走る。
襄陽の蔡氏たちの目が『新野からの物理的な武力攻撃』に釘付けになっている間に、諸葛亮たちが水面下で仕掛ける『離間の計』の毒が、彼らの足元を静かに、そして致命的に蝕んでいくという算段であった。
「なるほど! 難しい計略は分からねえが、大暴れして敵をビビらせりゃあ良いんだな! それなら俺の十八番だ!!」
張飛が嬉しそうに蛇矛(だぼう)を振り回して立ち上がった。
「私も行こう。并州(へいしゅう)騎兵の突撃の恐ろしさ、襄陽の軟弱者どもに音だけで分からせてやる!」
呂綏もまた、巨大な薙刀(なぎなた)を肩に担ぎ、獰猛(どうもう)な笑みを浮かべた。彼女は景明と顔を見合わせ、「後方は任せたぞ」と力強く頷き合う。
翌日。
新野県の城外は、地鳴りのような軍靴の音と、天を衝くような鬨の声に包まれた。
「おお……! 劉備様の軍が動いているぞ!」
「見ろ、あの恐ろしい騎兵の突撃を! さすがは天下の精鋭だ!」
市井の民衆たちは、その圧倒的な武威を目の当たりにして熱狂し、喝采を浴びせた。
そして龐統の読み通り、民衆に混じって演習を見ていた襄陽の間者たちは、その凄まじい殺気と威容に顔を真っ青にして、すぐさま南へと早馬を走らせたのである。
表面上は今にも爆発しそうなほどの『武力』を見せつけながら、その裏側では天才たちの張り巡らす見えない『毒蜘蛛の糸』が襄陽の喉元へと伸びていく。新野の陣営は、史上類を見ないほどの完璧な役割分担のもと、巨大な一つの生き物として動き始めていた。
―――
新野の城外で、地を揺るがすような大軍事演習が行われてから数週間後。
南の襄陽にて、次男・劉琮を擁立して荊州の実権を握ろうとする蔡瑁や蒯越らの下へ、放っていた間者たちから慌ただしい報告が次々と舞い込んできた。
「申し上げます! 新野の劉備軍が、連日連夜、凄まじい規模の練兵を行っております! 関羽や張飛、并州騎兵も完全武装で陣形を組み、今にも南下を開始するかのような凄まじい気迫にございます!」
報告を聞いた蔡瑁は、鼻でふんと嗤った。
「馬鹿め。たかだか新野一県の兵力で、この襄陽に正面から挑んでこれるはずがなかろう。どうせ、劉琦の若君を擁して気が大きくなっているだけの、つまらぬ『虚仮威し』よ」
蒯越もまた、冷ややかに同調した。
「左様。野戦で無類の強さを誇ろうとも、物量の差はいかんともしがたい。我らが動かず、城門を閉ざして兵糧攻めにすればいずれ自滅する。放っておけば良い」
彼らは、新野の『物理的な軍事行動』に対しては、完全に高を括(っていた。
しかし、その慢心と油断こそが、龐統という天才軍師が仕掛けた第一の罠であったのだ。
武威による威嚇を「ただの脅し」と切り捨て、首脳陣が安堵の息を吐きかけた、まさにその時。
彼らの足元を根底から揺るがすような『真の攻撃』が、荊州の地方各地からもたらされ始めた。
「申し上げます! 南郡の小豪族たちが、密かに新野の劉琦様へ兵糧を送っているという噂が立っております!」
「蔡瑁様の側近である○○殿が、昨夜、劉備軍の使者と密会していたとの証言が……!」
「蒯越様の一族と取引のある商人が、襄陽の防衛図面を横流ししていると……!」
次から次へと上がってくるのは、武力衝突の報告ではない。
自分たちの陣営の足元を支える『側近や協力者たちの裏切りに関する、不吉な噂話』であった。
龐統の指示のもと、諸葛亮や徐庶、そして比企景明の築いた人脈網をフル活用して流された、極めて精巧で悪辣な
真実の中に一握りの嘘を混ぜ込んだその噂は、火に油を注いだように荊州全土へと一気に燃え広がっていった。
「……馬鹿な。これは我々を内部から崩壊させるための、敵の罠だ。明らかな『離間の計』ではないか!」
蒯越ら、知恵の回る一部の者たちは、これが新野の軍師たちが仕掛けた計略であることにすぐに気が付いた。
「惑わされるな! 些細な噂に踊らされて同士討ちをするなど、敵の思う壺だ!」と、必死に陣営を引き締めようとした。
だが。
蔡瑁をはじめとする『狭器の人間たち』に、一度植え付けられた疑念を理知的に振り払うことなど、到底不可能であった。
なぜなら、彼ら自身が、この陰謀が事実であってもおかしくないという『絶対的な後ろめたさ』を抱えていたからである。
元来、彼らが重んじているはずの儒教において、「正当な長男を差し置いて次男を擁立し、実権を握る」という行為は、決して褒められたものではない。
完全な『簒奪』であり、『不忠』である。
(我々自身が、大義名分を裏切って実権を握ろうとしているのだ。ならば、私の部下が私を裏切って、正当な跡継ぎである劉琦様に寝返ろうと考えるのも、当然の道理ではないか……?)
大義のないクーデターを起こしているという自覚そのものが、彼らの心から「他者を信じる」という基盤を完全に奪い去っていたのである。
さらに致命的であったのは、劉琮を擁立しているこの襄陽の豪族連合が、決して一枚岩の忠義で結ばれた組織ではなかったことだ。
彼らは元々、荊州の豊かな富と物流を巡って血みどろの争いを繰り広げてきた『商売敵』同士の寄せ集めに過ぎない。
利害が一致しているから一時的に手を結んでいるだけで、端から互いのことなど微塵も信頼していなかったのである。
「……蒯越よ。お前の配下の商人が新野と通じているという噂、火のない所に煙は立たんぞ。まさか、我ら蔡氏を売り飛ばす気ではないだろうな?」
蔡瑁が、血走った目で蒯越を睨みつける。
「何を馬鹿な! そういう貴殿の側近こそ、密かに劉琦様に鞍替えしようとしているのではないか!」
蒯越もまた、激昂して言い返す。
上層部が疑心暗鬼に陥れば、その空気は瞬く間に下部組織へと伝染する。
「あいつは新野の間者かもしれない」
「今のうちに劉琦様に寝返った方が保身になるのではないか」
襄陽の陣営は、劉備軍と一矢も交えることなく、急速に発酵する『猜疑心』という名の猛毒によって、その内部からドロドロに溶け崩れようとしていた。
―――
荊州内部で未曾有の権力闘争と猜疑心の嵐が吹き荒れている頃。
北の中原、曹操が覇を唱える許昌の宮廷に、その荊州の動乱の情報が届くまでには、大凡『ひと月』という異例の歳月が経過していた。
「……遅いな。それに、随分と『虫の良い』報告だ」
曹操の軍師である班稀は、届けられた竹簡の束に目を通しながら、氷のように冷たい瞳で呟いた。
報告によれば、「新野の劉備(りゅうび)軍が大々的な軍事演習を行っている」という事実こそ記載されているものの、最も重要なはずの『荊州の主・劉表が重病で倒れたこと』や、『長男である劉琦が新野へ出奔し、荊州が真っ二つに割れていること』などの決定的な情報が、なぜか見事に削り落とされていたのである。
まるで、巨大な何者かの手によって、曹操の軍事介入を遅らせるために都合良く情報が濾過されているかのような、極めて不自然な検閲の痕跡。
完全な算段と物流を司る班稀の嗅覚は、この情報網の裏に潜む『恐るべき情報統制のシステム』の存在を、微かに嗅ぎ取っていた。
なぜ、荊州の致命的な内乱の情報が、北の中原へと漏れ伝わらなかったのか。
それは、劉備陣営の全権を預かる鳳雛・龐統と、臥龍・諸葛亮らが、軍事的な陽動と並行して、完璧な『情報の関所』を敷いていたからである。
「……見事なものですね。我々が流した偽の噂は荊州中に瞬く間に広がる一方で、北の曹操へと向かう街道の商人の口は、完全に塞がれている」
新野の陣舎の奥深く。諸葛亮が羽扇を静かに揺らしながら、感嘆の息を漏らした。
彼ら水鏡の学士たちは、知略においては天下無双である。
しかし、物理的に広大な大陸を移動する商人や旅人の「口」をすべて塞ぎ、特定の情報だけを遅延・改竄するなどという神業は、彼ら自身の力だけで成し得るものではない。
その不可能を可能にしたのは、軍議の裏で比企景明が彼らに行った、『一つの大きな助言』であった。
数週間前のことである。
離間の計を画策する龐統に対し、景明は一枚の粗末な木簡を差し出し、こう言った。
『龐統の旦那。中原に情報が漏れるのを遅らせたいなら、この印を使っている商人たちの経路を使え』
景明が紹介したのは、荊州から中原にかけて、一見すると地味に、しかし極めて広範囲に物流網を築いている『とある商人組合』であった。
『こいつらは、中原の覇権争いや、荊州のドロドロした情勢なんぞには、絶対に流されねえ。金と「理」だけで動く、完全に独立した連中だ。こいつらの物流網に情報を噛ませれば、確実に狙った通りの遅延と改竄をやってのける。……俺の保証付きの、信用できる情報網さ』
日本という、情報と算段を極限までシステム化した国家の元王族である景明。彼が「信用できる」と太鼓判を押した商人たち。
それはつまり、彼らが単なる利益目的の商人などではなく、極東の島国から大陸へと浸透し、密かに根を張り巡らせている『日本国の情報工作員』たちであるという、暗黙の事実を示していた。
彼らにとって、曹操が勝とうが劉備が勝とうが知ったことではない。ただ、彼らの母国が定めたシステムの運用と、その特異な理にのみ従って動く、無機質で完璧な歯車たちであった。
龐統と諸葛亮は、その商人たちの手際があまりにも完璧で、血の通っていない機械のように正確であることを目の当たりにし、背筋に冷たいものを感じていた。
だが、景明がその商人たちを紹介した時。
普段は飄々と笑っている風来坊の顔から一切の笑みが消え、極めて重く、鋭い警告を発していたのを、彼らは忘れてはいなかった。
『いいか、孔明の旦那、龐統の旦那。……この商人たちのことは、絶対に「他言無用」だ。劉備の旦那にも、他の武将たちにも、口が裂けても話すな』
景明の声は、いつになく低く、凄みすら帯びていた。
『連中は、俺たちに味方しているわけじゃない。ただ「今は利害が一致したから」仕事を受けているだけだ。……ここ(新野)には姿を見せねえだろうがな、あいつらは、中原の常識が一切通用しない、あまりにも危険な連中でもあるんだ』
「……危険な、連中か」
龐統が、手元にある商人からの暗号化された報告書を見つめながら、ポツリと呟いた。
景明は、彼ら商人の奥底に潜む『絶対的な暴力』と『冷酷な排除のシステム』を知り尽くしている。
もしも劉備や張飛(ちょうひ)たちがこの存在を知り、彼らの正義感でこの闇のシステムに干渉しようとすれば、容赦なく「ノイズ」として消去(暗殺)される危険性があった。
だからこそ、景明は、毒を毒として割り切って使いこなせる『天才軍師たち』にのみ、この禁断の果実を手渡したのである。
「景明殿が背負っている背景……。あれは、曹操の背後の闇よりも、さらに深く冷たいものなのかもしれんな」
諸葛亮は、羽扇をパチンと閉じ、窓の外の西の空を静かに見つめた。
―――
西暦二百五年の秋。
新野の陣舎において、上座に座る劉備と劉琦の元には、毎日のように早馬が駆け込み、信じられないような報告が続々と舞い込んできた。
「申し上げます! 昨夜、
「申し上げます! 襄陽近郊の三つの豪族が、蔡瑁軍への兵糧供出を拒否! 劉琦様に忠誠を誓う使者が到着しております!」
次から次へと届くのは、昨日まで敵であったはずの者たちや、襄陽の蔡氏に従っていたはずの地方豪族たちが、雪崩を打って寝返ってくるという報告であった。
それはもはや、一つの軍事的な寝返りなどという生易しいものではない。荊州という巨大な地盤そのものが、地滑りを起こして劉備たちの足元へと流れ込んできているかのような、凄まじい大激変であった。
「な、なんと……。あの頑固な水軍の将までが我々に味方すると申すか!? しかも、あの蔡氏の身内の豪族まで……!」
「玄徳殿、これは夢ではないだろうか。私がいかに正当な跡継ぎとはいえ、これほどまでに人が集まってくるとは……!」
劉備と劉琦は、山のように積まれた降伏状と忠誠の誓いを前に、冷や汗を流しながら目を白黒させていた。彼らの常識や想像を遥かに超える速度で、勢力図が完全にひっくり返ろうとしていたのである。
その君主たちの狼狽ぶりを、陣舎の片隅で静かに見守っている者たちがいた。
鳳雛・龐統、臥龍・諸葛亮、そして徐庶ら、この未曾有の大寝返り劇を水面下で完全にコントロールしている『水鏡の学士たち』である。
「……ふむ。江夏の水軍は、想定よりも三日ほど決断が遅かったですね。少し脅しが足りなかったでしょうか」
諸葛亮が、羽扇を優雅に揺らしながら、まるで「今日の天気は曇りですね」とでも言うような、極めて涼しげで平然とした声で呟く。
「いや、上出来だろう。蔡氏の身内の豪族が寝返ったのは、私が流した『蒯氏が蔡氏を売る』という流言が決定打になったようだな。……まあ、この程度は『当然の帰結』よ」
龐統もまた、退屈そうに欠伸(あくび)を噛み殺しながら、さも初めからすべて見通していたかのような、底知れぬ軍師の風格を漂わせていた。
劉備や武将たちは、その彼らの冷静すぎる態度を見て、「やはり天才の考えることは次元が違う……!」と、さらに畏敬の念を深めていた。
――だが。
彼ら若き天才たちの『内心』は、全く違っていた。
(よっしゃあああ!! 完璧だ! 俺たちの描いた盤面通りに、連中が見事に踊ってやがる!!)
(やった、やったぞ! 書物で学んだ離間の計が、これほどまでに鮮やかに現実の盤面をひっくり返すとは! 痛快極まりない!)
彼らは、涼しげな顔の裏側で、手を取り合って小躍りしたいほどの『凄まじい歓喜と興奮』に打ち震えていたのである。
天下の奇才とはいえ、彼らもまだ若者である。自分たちの頭脳と、景明の提供した泥臭い人脈が見事に噛み合い、巨大な敵陣営を音を立てて崩壊させていくこの快感は、何物にも代えがたい麻薬のようなものであった。
「……(くっくっく、顔がニヤけそうだ。羽扇があって良かった)」
「……(玄徳殿がこっちを見ている。よし、ここは一つ、さらに達観した顔で頷いておこう)」
彼らは、自らが手掛けたこの恐るべき策謀の成功を心の中で爆発的に喜びながらも、必死に頬の筋肉を引き締め、『天下の軍師としてのクールな装い』を完璧に演じ切っていたのであった。
一方、天才たちの盤面の上で無惨に踊らされている南の襄陽では、致命的な崩壊の時を迎えていた。
「蒯越!! 貴様、やはり裏で新野と通じていたな! お前の息のかかった連中が、次々と劉琦の下へ寝返っているではないか!!」
「戯れ言を! 裏切っているのは蔡瑁、貴様の身内の豪族どもであろうが! 貴様の横暴についていけず、愛想を尽かしただけのことだ!!」
襄陽の宮廷は、もはや政務の場ではなく、醜い罵倒と責任のなすりつけ合いが響き渡る泥沼の闘技場と化していた。
次男・劉琮を担ぎ上げて実権を握ろうとした彼らであったが、日々届けられる『寝返り』の報告に、完全に理性を失っていたのである。
疑心暗鬼は限界を超え、陣営内での粛清や逮捕が相次いだ。それがさらに豪族たちの不信感を煽り、「明日は我が身だ。殺される前に新野へ逃げよう」という悪循環を加速させていた。
「……おのれ、おのれぇぇっ!!」
蔡瑁は、ギリッと血が出るほどに唇を噛み締めた。
軍議の卓に広げられた荊州の地図。そこに立てられた自軍の旗は、昨日から今日にかけて、目に見えてスルスルと減り続けている。
戦を一度もしていないのに、自軍の兵力と物資が、まるで穴の空いた袋から砂がこぼれ落ちるように、時と共に目減りしていくのだ。
打つ手が、ない。
離間の計だと分かっていても、蔓延った猜疑心を払拭する手段が、大義名分を持たない彼らには存在しなかった。
「……このままでは、戦わずして我々は干上がる」
血走った目で地図を睨みつけていた蔡瑁が、絞り出すような低い声で言った。
「劉琦め。新野に籠もり、卑劣な流言飛語で我々の力を削ぐ気か……! これ以上、時間をかけてはならん。待てば待つほど、我々の軍は溶けて無くなるのだ!」
蒯越も、もはや蔡瑁を罵倒するのをやめ、青ざめた顔で沈黙した。
新野の軍師たちの狙いが「時間稼ぎと内部崩壊」であることは明白であった。このまま籠城戦や兵糧攻めなどと悠長な構えをとっていれば、ひと月後には、襄陽の城門を開ける兵士すら一人もいなくなっているかもしれない。
完全なる『時間の問題』であることを悟った既得権益の守護者たちは、ついに、彼らが最も避けたかった最悪の選択肢を採らざるを得なくなった。
「全軍に号令を下せ!! これ以上の離反は許さん! 新野の街を包囲し、劉備と劉琦の首を物理的に叩き落とす!!」
蔡瑁は、逃げ出そうとする兵士たちを恐怖で縛り付け、現状でかき集められる限りの大軍勢を編成した。
それは、大義も士気もない、ただ「これ以上軍が減る前に決着をつける」という、窮鼠が猫を噛むような、悲壮で絶望的な『決戦』の合図であった。
鳳雛の仕掛けた毒によって自ら城壁を飛び出さざるを得なくなった襄陽の巨大な軍勢が、地鳴りを上げて北の新野へと刃を向けた。
―――
西暦二百五年の秋。
襄陽を出立した蔡瑁率いる荊州討伐軍の本隊は、北上して大河『漢水(かんすい)』の南岸へと到達した。
ここから大河を渡り、対岸の橋頭堡である『
「……見よ。我が荊州水軍の威容を。新野の田舎者どもなど、この船団の数を見ただけで震え上がるわ」
旗艦の甲板に立つ蔡瑁は、漢水の水面を埋め尽くす数百隻の軍船と、数万の兵を見渡して豪語した。
水上において、荊州水軍は絶対的な強者である。中原の騎兵がいかに強力であろうと、水の上を走ることはできない。彼らはこの長江・漢水水系において無敗を誇っていた。
だが、この渡河作戦において、彼らには一つだけ『致命的な急所』が存在する。
船から降りて、陸に上がる瞬間――『上陸地点での展開』である。
いかに無敵の水軍であろうと、兵士が船から細い板を渡って陸に降り、重い物資を運び出し、陸戦用の陣形を整えるまでの間は、完全に無防備でもたつくことになる。
もしこの『足に泥が絡みついている瞬間』に敵の強烈な奇襲を受ければ、軍は展開する前に大混乱に陥り、最悪の場合は大河へと叩き落とされて全滅する危険性があった。
「上陸の瞬間を狙う水際での奇襲。……劉備の軍師たちならば、必ずそこを突いてこようとするはずだ」
蔡瑁もまた、歴戦の将である。自軍の弱点など百も承知であった。
「関羽や張飛が伏兵として潜んでいるやもしれん。斥候を放て! 樊城周辺の葦原や森に、徹底的に火矢を撃ち込め!」
蔡瑁は上陸の前に、対岸に向けて執拗なまでの事前攻撃と偵察を行わせた。もし河を堰止めて水攻めにするような荒業を仕掛けられても察知できるよう、上流への警戒も怠らなかった。
だが、上陸予定地である樊城の沿岸部をいくら探索しても、敵の伏兵の姿は全く見当たらなかった。
それどころか、斥候から持ち込まれたのは、蔡瑁を安心させるに足る報告であった。
「申し上げます! 樊城の沿岸に敵影なし! ……しかし、遥か北方の新野の城門前には、猛烈な砂埃が舞い、劉備軍のすべての軍旗が立ち並んでおります!」
その報告を聞き、蔡瑁はニヤリと陰湿な笑みを浮かべた。
「はっはっは! 諸葛亮だか龐統だか知らんが、小賢しい書生どもの浅知恵よ! 伏兵の危険性を我々が警戒していると読み、水際での迎撃を諦めたのだ!」
蔡瑁の脳内では、完全に筋が通っていた。
『上陸の隙を突きたいが、蔡瑁は必ず警戒してくる。ならば、下手に水際に兵を潜ませて艦砲射撃の的にされるよりも、自軍の得意な平野部(新野の城外)に全軍を集結させ、上陸を終えた我々と野戦で決着をつけるつもりだ』
と。
「臆病な連中め。陸にさえ上がってしまえば、我々の物量が圧倒するのだ。全軍、樊城へ上陸を開始せよ!!」
蔡瑁の号令と共に、巨大な船団が次々と樊城の沿岸へと接舷し始めた。
兵士たちが板を下ろし、続々と陸地へと足を踏み入れ、武具や兵糧を下ろし始める。陣形はまだ組まれておらず、沿岸は無数の兵士たちでごった返し、もたついていた。
――だが、蔡瑁は知らなかった。
水際での迎撃を諦めて平野部に集結するという『常識的な判断』そのものが、鳳雛・龐統の仕掛けた『完全なる隠蔽の罠』であったということを。
新野の城門前に立ち並ぶ軍旗と砂埃は、数日前の演習の延長で陣を張っているだけの『
では、劉備軍の真の主力――すなわち、関羽、張飛、趙雲、そして呂綏率いる并州騎兵たちはどこにいたのか。
「……静かにしろ。馬の嘶(いなな)き一つ、絶対に漏らすなよ」
樊城の沿岸からわずかに内陸に入った、『極めて浅い窪地と、枯れ川の底』。
蔡瑁の船の甲板からは死角となり、なおかつ葦原よりも少し手前にあるその絶妙な窪みの中に、数千の『鉄騎』が、息を潜めて完全に同化していたのである。
騎兵の伏兵というものは、極めて困難である。
馬は敏感な生き物であり、大軍となれば必ず音や匂い、砂埃で察知される。
しかし、彼らは比企景明の徹底した兵站管理により、昨夜の暗闇に紛れてこの死角へと移動を完了させていた。
さらに、全軍の馬の口には『
蔡瑁が「水際」にばかり気を取られている隙に、水際からわずかに数歩下がった『見えない喉元』に、凶悪な牙が突きつけられていたのだ。
「……女将殿。敵の先陣が、完全に陸に上がりきりました。後続が船から降りようと、最も列が伸び切ってもたついております」
窪地の底で、并州騎兵の副将が呂綏に小声で耳打ちした。
「ああ、見えている」
呂綏は、巨大な薙刀を握りしめ、獰猛な笑みを浮かべた。
「龐統の旦那の言う通りだ。『敵が最も安心し、陣形が最も乱れる瞬間まで、死んでも待て』……。今が、その時だ」
そして彼女の隣には、青龍偃月刀を構えた関羽と、蛇矛を握る張飛が、まるで解き放たれるのを待つ猛獣のように、ギリッと歯を鳴らしていた。
「銅鑼を鳴らせ!! 奴らを漢水に叩き落とせェェッ!!」
張飛の天地を裂くような咆哮と共に、劉備軍の伏兵が一斉に牙を剥いた。
ガァァァァンッ!!
霧に包まれた窪地から、突如としてけたたましい銅鑼と太鼓の音が鳴り響く。
銜枚を解かれた数千の戦馬が、一斉に狂ったような嘶きを上げ、大地を揺るがして駆け上がった。
「な、なんだ!? どこから……っ!?」
船から降り、重い荷物を背負って沿岸でもたついていた襄陽の兵士たちは、霧の奥から突如として現れた『巨大な鉄の塊の群れ』を見て、悲鳴を上げる間もなく凍りついた。
「并州騎兵、推して参る!! 踏み潰せェッ!!」
先頭を駆けるのは、赤い軍装に身を包んだ鬼神の娘・呂綏。
彼女の放つ薙刀の凄まじい一閃が、前衛の兵士たちを盾ごと真っ二つに薙ぎ払った。それを合図に、中華最強の突撃力を誇る并州の狼たちが、完全に無防備な襄陽の水軍へと、文字通り『物理的な暴力の土石流』となって襲い掛かったのである。
「ぎゃあああっ!!」
「退け、退け!! 船に戻れェッ!!」
陣形も何もない。槍を構える余裕すらない。
圧倒的な騎兵の質量と速度の前に、上陸部隊は紙くずのように吹き飛ばされ、パニックを起こして後ろ(船の方)へと逃げようとした。
しかし、後ろからは後続の部隊が次々と船から降りてきているため、彼らは水際で完全に『大渋滞』を起こし、互いに押し合いへし合いとなって、次々と冷たい漢水の中へと転落していった。
「馬鹿な……!? 新野に集結していたはずでは! なぜあんな目と鼻の先に、あれほどの騎兵が隠れていたのだ!!」
旗艦の甲板で、蔡瑁は信じられない光景に目をひん剥き、絶叫した。
河を堰き止めるような時間のかかる荒業など必要ない。敵が自ら「最も弱い姿」を晒す上陸の瞬間まで息を殺し、最高速の騎兵で一瞬にして轢き潰す。
これこそが、水鏡の天才たちの冷徹な盤面制御と、圧倒的な『個の暴力』が完全に融合した、新星・劉備軍の恐るべき真の姿であった。
西暦二百五年の秋。樊城の渡河において、襄陽の巨大な水軍は、上陸の第一歩目にして、再起不能に近い致命的な大損害と大混乱を被(こうむ)ることとなったのである。