漢水の河畔において、無敵を誇った荊州水軍は、上陸のわずかな隙を突かれた圧倒的な蹂躙劇の前に、文字通り木端微塵に粉砕された。
血と泥にまみれながらも、一方的な大勝に歓喜の雄叫びを上げる兵士たち。だが、その先陣を駆け抜けた関羽、張飛、そして呂綏ら劉備軍の猛将たちの胸の内に去来していたのは、勝利の余韻よりも、ある種の『強烈な衝撃』であった。
実のところ、つい数週間前まで、彼ら古参の武将たちは、水鏡の学舎からやってきた諸葛亮や龐統といった『智将たち』の価値を、それほど高く評価してはいなかった。
「……兄者が礼を尽くしてまで迎えた連中だ。大事にすりゃあいいさ。だがな、戦場ってのは机の上の理屈じゃ動かねえ。結局、最後にモノを言うのは俺たちのこの腕っぷしよ」
張飛が酒を飲みながらそう豪語していたように、戦場で泥に塗れ、血を流して劉備の危機を幾度も救ってきたのは、他ならぬ彼ら武人である。
主君である劉備が彼ら若い学士たちの加入を涙を流して喜んでいることは分かっていたが、武将たちの本音としては「あんな線の細い若造たちに、戦場での実戦の何が分かるというのだ」という、武人ゆえの強烈な自負と軽視が根底にあったのである。
しかし、この樊城の渡河における一戦を経験した瞬間。
武将たちの彼らに対する評価は、根底から完全に『裏返った』。
「……背筋が寒くなるぜ。本当に、あの鳳雛と名乗る男の言った『寸分違わぬ通りの光景』になった」
愛馬の上で青龍偃月刀の血を拭いながら、関羽が低く唸った。
指示された伏兵の配置。敵が最も油断する時間帯。そして、上陸部隊の陣形が最も崩れ、前にも後ろにも進めなくなるという『完璧なタイミング』での奇襲。
言うは易いが、実際の戦場でこれほど大規模な軍をピタリと息を潜めさせ、敵の動きに合わせて完璧な秒数で奇襲を成功させるなど、至難の業である。一歩間違えれば、逆に伏兵を見破られて艦砲射撃の的になっていた。
だが、学士たちの描いた盤面には、一つの狂いもなかった。
彼らはただ武力に頼るのではなく、「敵の心理状態」から「地形の死角」、「朝霧の濃さ」に至るまで、戦場のすべての事象を計算し尽くし、勝利を『確定』させてから、武将たちを解き放ったのだ。
「頭を使うってのは、ここまで恐ろしいことなのか……。俺たちが無茶をして百人を斬り伏せるより、あいつらの言う通りに動くだけで、一万の敵が勝手に崩れていきやがった」
張飛が、信じられないものを見るように、対岸へ逃げていく蔡瑁の船団を見つめていた。
今回の戦を完璧な成功に導いた直接の要因は、間違いなく関羽や呂綏たちの圧倒的な『武勇』である。
しかし、彼ら武人が何よりも感嘆したのは、軍師たちが「自分たちの武勇を最大限に活かすため、極めて無理のない、それぞれの『人柄(適性)』に完全に合致した采配を振るっていた」という事実であった。
張飛の配置:天地を揺るがす大声を持つ彼を、奇襲の合図(大咆哮)と同時に最も敵の密集する中央へ突撃させる。
関羽の配置:誇り高く、冷静な判断力を持つ彼に、退路を断とうとする敵の別働隊を完璧に抑え込ませる『不動の要』を任せる。
呂綏の配置:飛将の血を引き、細かい駆け引きを好まない純粋な破壊力の化身である彼女を、『初撃の突破口(一番槍)』として最も速度の出る先頭に配置する。
諸葛亮や龐統は、ただ将の頭数を数えて駒として配置したのではない。
短い期間の中で、彼ら武人たちの性格、戦い方の癖、そして「何を得意とし、何を苦手とするか」を完璧に見抜いていた。だからこそ、武将たちは何の迷いもストレスもなく、ただ己の最も得意な戦い方を爆発させるだけで、戦局が自動的に勝利へと向かうようになっていたのである。
「……ふっ、大した若造たちだ。私に一番槍を任せ、『あとは何も考えず、好きに薙ぎ払ってくだされば良い』と言い切ったあの自信。……完全に、我々の扱いを理解している」
呂綏が、満足そうに鼻を鳴らした。
「……これで、我らはもはや『ただの豪傑の寄せ集め』ではないな」
関羽が、昇り始めた秋の朝日を眩しそうに見上げながら、静かに、しかし深い確信を持って言った。
劉備という、天下の民を惹きつける底知れぬ巨大な『器』。
関羽、張飛、趙雲、呂綏らが誇る、天下無双の『圧倒的な武勇』。
そして今、そこへ諸葛亮や龐統たちによる、大局を支配し武勇を何倍にも増幅させる『神算鬼謀』と、比企景明が支える『完璧な算段』が加わった。
それぞれの持つ強烈な個性が、決して反発することなく、互いの欠点を補い合いながら一つの巨大な龍となって天へ昇ろうとしている。
武将たちが軍師の智謀を心から認め、軍師たちが武将の力を完璧に活かし切る。
襄陽軍を打ち破ったこの樊城の朝焼けの中で、長年の中原の放浪を経て、ついに無敵の陣容を誇る『劉備軍』という一つの巨大な軍事機構が、完全なる形となって『完成』した瞬間であった。
―――
中原の覇王・曹操が居を構える許昌の宮廷に、南方の荊州からもたらされた一報は、あまりにも間の抜けた、そして絶望的に「遅すぎる」ものであった。
「……劉表が病に倒れ、長男の劉琦が新野の劉備の下へ出奔しただと? なぜこのような重大な報告が、今頃になって届くのだ!!」
玉座に座る曹操は、叩きつけられた竹簡を前に、凄まじい怒声を響かせた。
荊州内部での後継者争いの勃発。それは、長年南方の要衝として立ち塞がっていた巨大な壁が、自らひび割れたことを意味する。曹操にとって、これほど付け入る隙のある絶好の好機はなかった。
しかし、この報告が曹操の耳に入ったのは、皮肉にも――蔡瑁率いる襄陽の討伐軍が、樊城の渡河において劉備軍の凄まじい奇襲を受け、完全に粉砕された『まさにその日』のことであったのだ。当然、許昌の曹操がその事実(蔡瑁の敗北)を知る由もない。
「ええい、好機だ! 直ちに夏侯惇、曹仁に命じよ! 先陣を率いて南下し、荊州の混乱に乗じて一気に新野を飲み込み、襄陽まで駆け抜けよ!!」
曹操が総毛立つような覇気を放ち、剣の柄に手をかけたその時である。
「――お待ちくだされ、殿。今は動くべき時ではありませぬ」
静かに、しかし絶対的な重みを持ってその号令を押し留めたのは、筆頭軍師たる荀彧であった。
「何だと……? 荀彧、この絶好の機を逃せと申すか!」
「左様です。秋の収穫は終わりましたが、南方への大規模な遠征に向けた兵站の構築は、まだ三割も終わっておりません。それに、この情報の『遅れ』そのものが不自然すぎます。敵方の軍師が、意図して我々の目を塞いでいたと見るべきでしょう。ここで急ぎ軍を出せば、敵の罠に自ら飛び込むことになります」
荀彧の進言は、国家の理と大局に根ざした、極めて正論であった。
そして、その荀彧の横から、もう一人の男が一歩前に出た。完璧なる数字と算段を司る男、班稀である。
「荀彧殿の仰る通りです、殿。私の計算によれば、今から急造の軍を南下させても、補給線が伸び切る
班稀の言葉は、氷のように冷徹であった。
二人の最高峰の頭脳が、完璧な論理と数字をもって、曹操の「直感と覇気」を正面から否定したのである。
「…………ッ」
曹操は、ギリッと奥歯を噛み締めた。
頭では分かっている。彼らの言うことが軍略として一〇〇パーセント正しいことは、天下の覇王である曹操自身が一番よく理解していた。
だが、ここ最近の曹操は、この『二人の正論』を、ひどく疎ましく感じるようになっていた。
荀彧の説く『大漢の理と兵站』、そして班稀がもたらす『極東の無機質な算段』。
彼らの頭脳は曹操の覇道を支える最強の武器であるはずなのだが、同時に、そのあまりにも完璧すぎる論理が、曹操自身の野望と直感を縛り付ける『見えない雁字搦めの鎖』のように思えてならなかったのだ。
「……相分かった。出兵は見送る。兵站の構築を急がせよ」
曹操は忌々しげに舌打ちをし、苛立ちを隠せないまま軍議の席を立った。
この時の曹操はまだ知らなかった。彼ら天才たちの制止がなければ、曹操の先陣は、勢いに乗る劉備軍と伏龍・鳳雛の完璧な迎撃の前に、手痛い敗北を喫していたであろうという事実を。
曹操が出兵を思い留まってから、わずか数日後のことである。
許昌の宮廷に、今度は風を切り裂くような速度で、信じがたい急報がもたらされた。
「も、申し上げます!! 南方より急報!! 荊州水軍を率いる蔡瑁の数万の大軍が、樊城の渡河において劉備軍の奇襲を受け……たった一日で、完全に粉砕されました!!」
「……は?」
玉座の曹操だけでなく、控えていた荀彧も、班稀も、その場にいたすべての武将たちが我が耳を疑った。
「馬鹿なことを言うな! 蔡瑁の水軍は十万近い規模だぞ! 対する劉備軍は新野一県の数千に過ぎん。それが一日で粉砕されただと!?」
「事実でございます! 刘備軍は上陸の隙を突き、并州騎兵による凄まじい突撃を敢行! 蔡瑁軍は陣形を組む間もなく大混乱に陥り、大半が漢水の藻屑と消えました!」
曹操の目が、驚愕に見開かれた。
だが、報告はそれだけでは終わらなかった。
「さらに! 劉備軍は戦勝の勢いそのままに、長男・劉琦様を御旗に掲げて南下を開始! 襄陽の周囲の豪族たちは、事前に流されていた離間の噂と圧倒的な武威の前に戦意を喪失し、次々と劉琦様に寝返っております! 荊州は今、破竹の勢いで劉備軍によって平定されつつあります!!」
ドサッ。
冷徹を極める班稀の手から、記録用の木簡が滑り落ちた。
荀彧の筆も、和紙の上で完全に止まっていた。
「……数日、だと?」
班稀が、信じられないものを見るように呟いた。
彼ら天才軍師たちも、劉備に諸葛亮や龐統といった水鏡の学士たちが加わったことは掴んでいた。
だが、いくら天才が揃おうと、長年蔡氏が牛耳ってきた巨大な荊州の地盤を覆すには、最低でも数ヶ月、あるいは数年の血みどろの内戦が必要になると計算していたのだ。
それが、事前の徹底的な『離間の計(情報戦)』による地盤の軟弱化と、それを一撃で叩き割る関羽や張飛たちの『常絶する武勇』が見事に噛み合ったことで、歴史上のいかなる計算式にも当てはまらない、**『たった数日での荊州全土の完全掌握』**という奇跡を引き起こしてしまったのである。
劉琦という絶対的な「正統性」の御旗。
諸葛亮たちの「完璧な頭脳」。
関羽たちの「圧倒的な武勇」。
「……化けたな。あの
曹操は、玉座に深く沈み込み、冷や汗を流しながら、南方で誕生した『完全なる強敵(劉備軍)』の存在に、武者震いにも似た底知れぬ恐怖を抱いていた。
一方、その頃。
劉備軍の快進撃によって、荊州の様相は完全に一変していた。
「ひぃっ……! 来るな、殺される、殺されるゥ!!」
夜の闇の中、泥まみれになりながら北へ向かって必死に逃げ惑う惨めな一行があった。
劉表の次男であり、蔡瑁らに担ぎ上げられていた傀儡の君主、劉琮である。
樊城での絶望的な大敗北の報が襄陽に届いた瞬間、蔡氏の権力は音を立てて崩壊した。
もはや劉琦軍の侵攻を食い止める力はなく、周囲の豪族たちは保身のために次々と劉琮と蔡氏を見捨てて寝返っていった。
蔡瑁や蒯越といった首謀者たちは、責任のなすりつけ合いの果てに逃亡を図るか、あるいは寝返った者たちに捕縛されるという末路を辿っていた。
そして、最も哀れであったのは、ただ神輿として担がれていただけの劉琮である。
「おのれ劉琮! 貴様が兄君を差し置いて欲をかいたせいで、我らまで破滅だ!」と、昨日までへつらっていた側近たちから命を狙われる始末。
這う這うの体で襄陽を抜け出した劉琮は、数名の忠臣に抱えられながら、荊州の北境へと逃げ延びるしかなかった。
だが、彼には向かうべき場所などどこにもない。南は孫権の領土、東は長江。そして荊州全土は兄・劉琦を奉じる劉備の手に落ちようとしている。
「……若君。もはや、我らがお縋りできる場所は、天下にただ一つしかございませぬ」
供の者が、血を吐くような思いで指差したその先。
あろうことか、劉琮が逃げ込んだ先は、かつて父・劉表が国を挙げて防ぎ続けていた最大の仮想敵国。
中原の覇王・曹操の陣営であった。
かつての荊州の主の跡継ぎは、すべてを失い、ボロ布を纏った哀れな亡命者として、曹操の足元へと文字通り這いずるようにして命乞いをするという、あまりにも皮肉で無惨な結末を迎えたのであった。
荊州が劉備の手によって凄まじい速度で平定されていくその大激震は、長江の下流、江東の地を支配する『孫呉』の陣営にも、極めて大きな衝撃を与えていた。
「……何だと!? 荊州の蔡瑁が敗れ、劉備が劉琦を擁して全土を掌握しつつあるだと!?」
柴桑(さいそう)の軍議の間にて。
若き江東の主・孫権は、届けられた報告書を握り潰さんばかりに力み、隣に立つ美貌の天才軍師・周瑜の顔を見た。
「公瑾(周瑜)! なぜだ! 荊州が内部崩壊を起こしていたというのなら、なぜ我が軍はそれに乗じて西へ攻め上らなかったのだ! 荊州を手に入れなければ、我ら江東の守りは常に中原からの脅威に晒されるのであろう!?」
孫権の苛立ちは尤もであった。
長江という天然の要害を最大の武器とする孫呉にとって、その上流である荊州を押さえることは、国家存亡の絶対条件(天下二分計)である。
劉表が倒れ、内乱が起きていたこの期間は、本来であれば呉軍が荊州を掠め取る絶好の機会であったのだ。
だが、周瑜は、その美しい顔を苦痛と焦燥に歪め、ギリッと唇から血が滲むほどに歯を食いしばっていた。
「……分かっております、我が君。私とて、今すぐ全軍を率いて荊州へ攻め込みたい。ですが……今の我らには、『動きたくとも、動けぬ理由』があるではありませんか」
周瑜の悲痛な声に、孫権はハッと息を呑み、力なく玉座に座り込んだ。
そう。この西暦二百五年の秋において、孫呉の国内は、外征など到底不可能なほどにボロボロの火の車であったのだ。
数年前に先代の孫策が暗殺された後遺症は、未だに尾を引いていた。孫権という若き君主を戴いたばかりの呉では、江東の地元豪族たちの権力闘争が絶えず、さらに追い打ちをかけるように、山岳地帯の異民族である『
国内をまとめ上げ、反乱を鎮圧し、足元を固めるための普請と内政に、周瑜をはじめとする呉の全戦力は完全に釘付けにされていた。
「……おのれ、劉備め。我らが国内の火消しに追われている一瞬の隙を突き、あの『天下の要衝』をやすやすと奪い去りおったか……!」
周瑜は、卓の上に広げられた巨大な中華の地図を、憎々しげに睨みつけた。
天才ゆえに、今この瞬間がどれほど決定的な分岐点であるかが、痛いほどによく分かる。だからこそ、動けない自らの陣営の状況が、身を焼き尽くすほどに悔しかったのである。
「孔明、龐統……。水鏡の学士たちが、あの劉備という巨大な器に収まった。もはや彼らは、我らが見下していた『根無し草の客将』ではない。中原の曹操にも匹敵する、恐るべき『第三の龍』が誕生したのだ」
曹操が足枷に苛立ち、周瑜が身動きの取れぬ国内に歯噛みする中。
ただ一国、見事な采配と圧倒的な武勇の融合を果たした劉備軍だけが、荊州という巨大な盤面を完全に掌握し、来たるべき三国鼎立の時代へ向けて、その雄大な産声を上げたのであった。
―――
諸葛亮や龐統ら天才たちの暗躍と、劉備軍の圧倒的な武威によって荊州がわずか数日で平定されたという大激震は、険しい山々を越え、西の『益州』へと確実にもたらされていた。
「……信じられぬ速度だな。あの巨大な蔡氏の軍勢が、こうも呆気なく瓦解するとは。劉備玄徳、そして水鏡の学士たち……恐るべき手腕よ」
成都の宮廷にて。
益州牧である劉璋は、届けられた報告書を読み終え、感嘆とも畏怖ともつかない深い溜息を漏らした。
かつては暗愚と嗤われ、周囲の脅威に怯えるばかりであった劉璋だが、今の彼の顔には、一州を治める君主としての堂々たる落ち着きと風格が備わっている。
「ええ。情報の遮断から内部工作、そして武力の行使に至るまで、一切の無駄がない完璧な盤面制御です。……彼らの陣営には、よほど大局と算段を見通せる『恐るべき軍師』が複数人、同時に機能していると見るべきでしょう」
劉璋の傍らで、うず高く積まれた木簡の束に筆を走らせながら、官僚の一人である班竣が淡々と応じた。
荊州の凄まじい動乱の報を聞いても、彼ら益州の首脳陣に焦りや動揺は一切なかった。彼らは今、他国の権力闘争などに構っている暇はないほど、自国内の『圧倒的な開発と内政』に全力を傾けていたからである。
街道の整備、水利工事の拡大、そして民への再分配。
班竣の緻密な計算式によって無駄を徹底的に省かれた益州の国庫は潤い、街には活気が溢れ、まさに『理想郷』への階段を確実な足取りで上り続けていた。隣の領土がどれほど血なまぐさい騒乱の果てに安定しようとも、彼らにとっては「ただ静観する」というのが、最も理にかなった選択であった。
「……時に、班竣よ。豪族たちの中には『荊州が混乱し、劉備が地盤を固めきらぬ今こそ、東へ兵を出して領土を掠め取るべきだ』と息巻いている者もいるが」
「棄却いたします。計算をするまでもない愚策です」
劉璋の問いに、班竣は筆を止めることすらなく即答した。
「我が益州は、四方を険しい山脈と激流に囲まれた天然の要害。……すなわち『護るに易く、攻めるに難き土地』です。防衛においては一の兵で十の敵を防げますが、逆にこちらから打って出る場合、兵糧の輸送コストは平地の十倍以上に跳ね上がります」
班竣は、理路整然と「地理的要因」の現実を突きつけた。
長江を遡る、あるいは三峡の険しい山道を越えて荊州へ軍を進めることは不可能ではない。だが、仮に荊州の一部を掠め取ることができたとしても、その領土を『維持』することは絶望的に困難である。
伸び切った補給線は常に途絶の危険に晒され、得られる税収よりも、駐留軍を維持するための費用のほうが遥かに高くつく。
「我々が荊州に手を出すということは、分厚い亀の甲羅から、わざわざ柔らかい首を外へ長く伸ばして『斬ってください』と言っているようなものです。……そのような不採算な事業に、我が益州の民の血税と命を費やすわけにはいきません」
「うむ。お前の言う通りだ。他国の領土など、我らには不要よ」
班竣の冷徹な算段に、劉璋も深く頷き、東への野心を抱く豪族たちの意見を完全に封殺したのである。
だが、益州が東(荊州)へ軍を向けない理由は、単なる「地理的な不採算」だけではなかった。
さらに巨大で、直接的な『北の脅威』の存在があったからである。
「……それに、我々はついに、曹操の中原と『領を接してしまった』のですからね」
班竣が地図の北方を指差した。そこにあるのは、益州の北の玄関口である『
少し前まで、この漢中は
本来の歴史であれば、劉璋は張魯を憎むあまり、人質として預かっていた張魯の母や弟を処刑し、取り返しのつかない血みどろの戦争へと突入するはずであった。
しかし、この世界線において、算段と徳の統治に目覚めた劉璋は、全く逆の行動をとったのである。
『無益な血を流す必要はない。彼らもまた、我らと同じ大漢の民である』
劉璋は、人質となっていた張魯の家族に丁重な扱いを施し、なんと無傷のまま漢中へと『返還』したのだ。
さらに、劉璋が益州全土に敷いた「義舎(無料の宿や炊き出し所)」の整備や、民を飢えさせない完璧な善政の噂は、張魯の元へも届いていた。
宗教的なカリスマで民を救おうとしていた張魯は、劉璋のその『底知れぬ徳』と『完璧な実務による民の救済』を目の当たりにし、さらには家族を無事に返還されたことで、完全に毒気を抜かれてしまった。
『……我が教えなどなくとも、劉璋様はすでに益州を極楽浄土へと変えておられる。私などより、遥かに天の理に適ったお方だ』
かくして、張魯は自らの武力を収め、狂信を捨てて、形式的ではあるが正式に『益州への帰順(属国となること)』を誓ったのである。
これにより、益州の内部対立は完全に消滅した。
だが、漢中が益州の一部として組み込まれたということは、同時に『曹操が支配する中原の領土と、益州の国境が直接触れ合うこと』を意味していた。
中原を制覇しつつある曹操からすれば、この益州の現状は極めて『苛立たしい』ものであった。
ただでさえ攻め込むのが困難な天険の要害が、内部の反乱分子を平和裏に取り込み、圧倒的な経済力で一つにまとまり、南西の角に巨大な岩のように居座っているのである。
曹操の軍師である荀彧や班稀の目から見ても、「迂闊に手を出せば、膨大な兵力と時間を削り取られる泥沼の土地」として、最上級の警戒対象となっていた。
「……今、我々が荊州の劉備と事を構えればどうなるか。それは予感や直感などではなく、絶対的な『計算式』として明白です」
班竣は、地図の上に置かれた二つの駒を指でなぞりながら、静かな声で言った。
「劉備軍と我々が国境で争い、互いの兵力と物資を疲弊させた瞬間。……曹操は必ず、一切の躊躇なく南下を開始し、隙だらけになった荊州と益州を同時に飲み込むでしょう。確実に、二国が共倒れになります」
もし今、益州が自らの欲をかいて動けば、すべては中原の覇王の胃袋に収まる。
逆に言えば、益州と荊州がそれぞれ自国を固め、曹操に対して「睨み」を効かせ続けている限り、曹操もおいそれとは南下できない『巨大な膠着状態』が生まれるのだ。
「故に、我らは動きません。荊州が劉備の手によって強力な防波堤となるのであれば、むしろ喜ばしいこと。我らはこの山に囲まれた箱庭で、ただひたすらに民を富ませ、国力を蓄えるのみです」
「うむ。曹操とて、民の笑顔と満ちた蔵までは奪えまい。我らは我らの戦いを続けるとしよう」
荊州が修羅の血によって新たな時代を切り開く中。その隣国である益州は、極東から持ち込まれた冷徹な計算式と、一人の君主の温かな徳政によって、中原の覇王すら容易には手を出せぬ『難攻不落の理想郷』として、静かに、しかし強烈な存在感を放ち始めていた。
―――
西暦二百五年の末。
中原において、劉備が荊州(けいしゅう)を平定したという確定的な情報が、海を越えて日本国の政治の中枢『大内裏』へと到達していた。
冷たい冬の空気が張り詰める大極殿の奥。
最高権力者である天皇・和那比売の御前において、国家の心臓部たる太政官の首脳陣が集い、大陸の情勢を処理するための重要な会議が開かれていた。
広大な卓の上に広げられた中華の巨大な地図。
そこに置かれた木製の駒は、今や複雑に砕け散っていた群雄割拠の時代を終え、はっきりと『四つの大きな塊』として色分けされていた。
一、圧倒的な力で中原と北方を支配する覇王・曹操の【魏漢】。
二、長江の天然の要害を盾に、江東に割拠する虎・孫権の【呉】。
三、山脈に守られ、班竣の算段で富国強兵を極める・劉璋の【益州】。
四、そして、突如として荊州を呑み込み、中華の「へそ」に陣取った・劉備の【荊州同盟】。
「……見事なものですね。黄巾の乱から数十年、泥沼のように混沌としていた大陸の勢力図が、ついに四つの極として明確な境界線を引きました」
静かに地図を見下ろしながら、和那比売が感情の読めない声で呟く。
「ええ。左様でございます、陛下」
その隣で、無数の木簡と報告書を捌きながら深く頷いたのは、大和国の経済と諜報のすべてを掌握する右大臣・広庭であった。
この御前会議には、左大臣をはじめとする太政官の長官たちも列席し、大陸の激変をどう評価すべきか、息を潜めて最高首脳の言葉を待っていた。
「中原が四つに割れたこと。……これは、我が大和国にとっては完全に『想定の範囲内』であり、むしろ喜ばしい事態と言えます」
広庭が、集まった長官たちに向けて、極めて冷徹な分析を口にした。
「喜ばしい、と申されますと? 曹操だけでなく、劉備や孫権といった巨大な力を持つ勢力が国境を接して睨み合っているのです。大陸の緊張状態は、かつてなく高まっているのでは?」
一人の官僚が尋ねると、広庭は薄く笑った。
「軍事的な緊張は高まっています。しかし、経済の視点から見れば、『無秩序な混沌よりも、境界線のある対立構造の方が、遥かに干渉が効く』のです」
広庭は地図の上を扇子でなぞった。
「群雄が入り乱れ、野盗が跋扈していた時代は、物流の安全が確保できず、商人の立ち回る隙が少なかった。しかし今、四つの勢力はそれぞれ『国家』としての体裁を整え、国境線に数十万の正規軍を張り付けています。……大軍を維持するためには、莫大な兵糧と、鉄と、塩が必要です」
広庭の言う通りであった。
四つの勢力が互いに経済封鎖(禁輸措置)を行えば行うほど、国境を越えて物資を運べる『第三者の物流網』――すなわち、景明が口火を切り、大和国が密かに大陸全土に張り巡らせた「影の商人たち」の価値が、跳ね上がるのである。
「曹操には足りない南の米を高く売り、孫権には北の馬と鉄を流す。劉備には兵站の不足を補う裏の物流を提供し、益州からは利益を吸い上げる。……彼らが国境を引いて対立し続けてくれる限り、我が国の商人は彼らの『需要と供給の歪み』に付け込み、中華の富を永遠に大和へと吸い上げ続けることができるのです」
その冷酷極まりない国家の算段に、太政官の長官たちは背筋に冷たいものを感じながらも、ただただ感嘆の息を漏らすしかなかった。
「……広庭の申す通り、現状は我が国の読み通りに推移し、莫大な利益をもたらしています」
和那比売が、卓の上の四つの駒を見据えながら言葉を継いだ。
「しかし、問題はここからです。この四つの巨大な塊……放っておけば、いずれ必ず『一つ』にまとまろうと動く。特に曹操の力は、他の三つを合わせたものに匹敵するほどに強大です」
もしも、曹操が荊州を抜き、江東を焼き払い、益州を呑み込んで中華を完全に統一してしまったらどうなるか。
内乱を終え、強大な力を持て余した統一国家の矛先は、間違いなく海の向こう――すなわち、朝鮮半島やこの大和国へと向けられることになる。
「我が大和の絶対国防と繁栄のためには、中華が統一されることは絶対に避けねばなりません。……果たして、この四つの対立構造を、どれほど長きに渡って『延命』させられるか。それが、今後の我々の鍵となります」
和那比売の言葉に、場は重い沈黙に包まれた。
自然の理に任せれば、強者が弱者を喰らう。それを外部から干渉し、強者の足を引っぱり、弱者に塩を送り、永遠に終わらない『泥沼の均衡状態』を人工的に維持し続ける。それは、並大抵の謀略と経済操作で成し遂げられる業ではなかった。
「――曹操が動く前に、南の三勢力(呉・荊州・益州)に『曹操という共通の脅威』を正しく認識させ、決して彼ら同士で致命的な潰し合いをさせないこと。……それが、延命の第一手と考えます」
その時、沈黙を破って涼やかな声が響いた。
和那比売の甥であり、すでに政務の多くを引き継いでいる次期天皇・稚足彦である。
「劉備は曹操と決して相容れません。孫権もまた、降伏すれば江東の独立を失う。彼らは今、互いの領土を巡って疑心暗鬼になっていますが、大和の商人たちを通じて『曹操の強大さ』を誇張して伝え、南に強固な防衛同盟を組ませるように誘導すべきです」
稚足彦は、皇太子としての圧倒的な大局観をもって、見事な方針を示した。
そして、その稚足彦の言葉が終わるか終わらないかのうちに。
「兄上の仰る通りです。しかし、ただ同盟を組ませるだけでは、いずれ曹操の物量に押し潰されます」
凛とした、しかしどこか広庭に似た冷徹な響きを持つ若い声が続いた。
今回、この最高会議に『初めての参加』を許された若き親王。稚足彦の異母弟であり、広庭の後継者として『次期右大臣』の座を約束されている少年、
「久仁彦。お前なら、どう盤面をいじる?」
和那比売が目を細めて促すと、久仁彦は深く一礼し、地図の上に自らの手をかざした。
「兵站の首根っこを握ることです。曹操が南下するための大軍を動かせば、必ず中原の物価が異常な変動を起こします。その兆候を察知した段階で、我が国の商人網を使い、中原の『塩』と『鉄』の流通を意図的に滞らせます。逆に、劉備や孫権の陣営には、裏の経路から安価で武具を流す」
久仁彦の目は、まだ少年でありながら、大陸の群雄たちを完全に「盤上の数字」としてしか見ていなかった。
「中華の連中は、大義や名分、武勇で戦が決まると思っていますが……戦の本質は『物資(リソース)の削り合い』です。我々が商流の蛇口を開け閉めするだけで、彼らの進軍速度は意図的に遅らせることが可能。……曹操が勝てそうになれば兵站を枯らし、劉備が負けそうになれば物資を注ぐ。これを繰り返せば、彼らは永遠に決着のつかない戦場に縛り付けられます」
そのあまりにも冷酷で、完璧な経済統制による『戦争の管理(コントロール)』の提案。
広庭は、己が育て上げた若き後継者のその言葉を聞き、口元を隠して静かに、しかし心底嬉しそうに笑った。
「……見事な算段です、久仁彦。我が意を得たり、というところですね」
「恐れ入ります、広庭様」
稚足彦と久仁彦。
大局を俯瞰し国家の道筋を定める兄と、冷徹な数字と謀略で実務を回す弟。
中原の英傑たちが自らの理想と野望に命を燃やし、四つの国境で血を流し合っているその遥か東の島国で。
大和の若き双璧たちは、中華という巨大な盤面をいかにして「永遠の停滞」に縛り付けるか、氷のように冷たく、極めて静かなる『侵略』の算段を練り上げていた。