四國志   作:丸亀導師

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日出処の天子 終

 

黄海の荒波を越え、日本国の使節団を乗せた船団は無事に九州へと到達した。そこから瀬戸内の波を滑るように進み、大和の心臓部へ至る水路、鵜川(うかわ)(現在の淀川水系)へと入る。

 

遡上用の平底の川舟へと乗り移り、幾重にも連なる水路を抜け、ついに長岡京の威容が彼らの眼前に広がった。白と黒の直線で構成された、一切の無駄を持たぬ水都。その見慣れた理の風景は、数日間、血と泥に塗れた中原の地獄を見てきた使者たちの心に、深い安堵をもたらしていた。

 

大内裏へ到着するや否や、使者たちに大王(天皇)からの(みことのり)が下った。

 

「衣を改めるに及ばず。そのまま謁見の間へ参れ」

 

通常であれば、他国の血や泥という「穢れ」を落とさずに現人神の前に出るなどあり得ないことである。しかし、この特例こそが、彼らが成し遂げた任の重さを物語っていた。

 

十名の代表者が、大極殿の冷たい石の床に平伏する。

その衣は潮風に痛み、黄巾の徒の返り血が黒く染み付いていたが、彼らの背筋は鋼のように伸びていた。

御簾の奥から、大王の清らかに落ち着いた、細くとも空間の隅々にまで真っ直ぐに響き渡る声が降り注いだ。

 

「遠き海を越え、我らが国の理を(ごかん)に示せし働き、見事である」

 

一切の感情の揺らぎを持たぬその声による労いの言葉と共に、冠位を持つ者には一階級上の昇叙が、無冠の武官たちには新たな冠位が授けられた。

 

さらに、褒章として莫大な富が下賜された。大和国の貨幣は、下から銅、銀、金と続くが、その頂点に立つのは「翡翠(ひすい)の勾玉」である。近年の高度な研磨の技により、一つの強固な翡翠の原石から同じ大きさの玉を複数削り出すことが可能となり、これに国家が厳密な価値を付与することで、至高の貨幣として流通し始めていた。彼らには、その最高位の翡翠が惜しみなく与えられた。

 

「次なる任に備え、各々身を休めよ」

 

その言葉を合図に、使者たちは深く一礼し、己の家路へと就いた。

 

朝堂院での公式な政(まつりごと)を終えると、大王は玉座を立ち、官僚たちが立ち入ることのできる朝堂院からさらに奥まった、より私的な空間である「内裏(だいり)」へと下った。

 

白木の廊下を抜け、限られたごく僅かな者しか立ち入ることのできない一室。そこには、極めて簡素な造りの座と、大陸の情勢を示す大掛かりな盤面が置かれていた。

 

その部屋で静かに待っていたのは、一人の男であった。

大王の同母弟にして、万世一系の血脈を継ぐ「太子《たいし》」。そして、政のすべてを実質的に統括する右大臣である。

 

左大臣ではなく、あえて右大臣の座に就いているのは、彼が文字通り大王の「懐刀(ふところがたな)」であり、鞘の中にあり外敵の脅威あらば抜き身となり直接切裂くと言う役割を担っていた。

 

姉である大王が静かに上座に腰を下ろすと、弟たる右大臣は手元にあった算木を置き、ゆっくりと面を上げた。

窓の外では、長岡京の黒い瓦屋根に夕陽が反射し、鋭い千木(ちぎ)の影を長く伸ばしていた。

 

大極殿での謁見の間を支配していた、あの人間離れした静謐な冷たさが、大王の全身からふっと抜け落ちた。彼女は重い肩の荷を下ろすかのように小さく息を吐き、姿勢をわずかに崩した。

 

「あー……酷く肩が凝ったわ。使者たちのあの張り詰めた顔を見ていると、こちらまで息が詰まりそうだった。なあ、広庭(ひろにわ)。もうここにはお前と私しかいないのだ。少しは寛いだらどうだ?」

 

大王・和那比売(わなのひめ)は、先ほどまでの現人神としての威厳をどこかに置き忘れてきたかのように、年相応の、どこか甘えるような砕けた口調で弟に語りかけた。それは、神の座に縛り付けられた彼女が、一日のうちで唯一「ただの人間」に戻れる時間であった。

 

しかし、弟である右大臣・広庭皇子(ひろにわのみこ)の態度は、姉の柔らかな声を受けても微塵も揺らがなかった。彼は姿勢を正し、床に手をついて、張り詰めた糸のような儀礼的な話し言葉で返した。 

 

「畏れ多きことにございます、大王(おおきみ)。いかに人払いをした私室とはいえ、御身は天照の血を引く現人神。臣下たる私が、みだりに姿勢を崩し、不敬を働くことなど許されませぬ。」

 

その木で鼻を括ったような返答に、和那比売はあからさまに唇を尖らせ、深い溜息をついた。

 

「……またそれか。お前は本当に、つまらない男になったな。昔はもっと、よく笑って私の後ろを走り回っていたのに。その算木と同じで、カチャカチャと理屈ばかり並べて……少しは姉の言うことを聞いてくれてもいいだろうに」

 

残念そうに愚痴をこぼす和那比売を前にしても、広庭の表情の筋肉はピクリとも動かなかった。彼は姉の文句を風のように聞き流すと、袂から新しい竹簡を取り出し、冷徹な官僚としての眼差しで姉を見据えた。

 

「大王。過ぎた昔語りよりも、今は未来の算段をいたしましょう。洛陽より戻りし使者の報告と、これからの大和の舵取りについて、急ぎ御裁可を仰ぎたき儀がございます」

 

「……わかったよ。言ってみなさい」 

 

和那比売は諦めたように肩をすくめ、しかしその瞳には、弟の知謀に対する絶対的な信頼の光を宿して応じた。

 

「第一に。我が国の国号ならびに、御身の呼称についてにございます。洛陽にて『天子』を名乗った以上、もはや中原の皇帝に(おもね)る必要は一切ございませぬ。つきましては、これより大王の呼称を改め、『天皇』と書き記し、これを『てんのう』とお読みいただきたく存じます」

 

「てんのう……」

 

和那比売はその響きを口の中で転がした。

 

「左様でございます」と広庭は淡々と続ける。「漢の皇帝が『天の子』を名乗るなら、我らは『天の皇(すめらぎ)』を名乗る。地の王を意味する『大王』のままでは、いずれ奴らが送り込んでくるであろう使者に、無用な優越感を与えかねませぬ。我らは名実ともに、大陸とは異なる理の頂点に立つのでございます。

次に国号におきましては、日出処『日本』と書き記し、此れを『ひのもと』或いは各国に沿い『にほん』とお読みいただきたく存じます。」

 

「なるほど、それはいい。採用しよう。それで? 『いずれ奴らが送り込んでくる使者』とは?」

 

広庭は算木を盤面の上でカチャリと動かした。

 

「我が国の使者が洛陽で金印を拒絶し、手ぶらで帰還したという事実は、漢の朝廷に巨大な屈辱と疑念を植え付けました。彼らとて、ただ黙って引き下がるわけにはいきませぬ。遠からず、必ず我が国へ使者を送ってくるでしょう。我らが真に強大な国であるか、それともただ虚勢を張るだけの蛮族であるかを見定めるために」 

 

「面倒なことだ。東萊の海で追い払ってやればよいのではないか?」

 

「否。その時は、大内裏の門を大きく開き、大仰なほど懐広く迎え入れてやるのです。これこそが、最大の意趣返しにございます」

 

広庭の冷たい瞳の奥で、鋭い刃がギラリと光った。

 

「使者には、我が国の国力をつつみ隠さず見せつけてやりましょう。この長岡京の理にかなった水路も、任那から運ばれる無尽蔵の鉄も、五百万を数える民の数も、そしてあの黒き安宅の船団も。すべてを白日の下に晒し、彼らのちっぽけな中華思想を根底からへし折るのです。同時に、その圧倒的な力を見せられた使者がどう動くか……その知力と胆力をもって、漢の、いや中原の『今の底力』を推し量る算盤の石として用いるのです」

 

圧倒的な力を見せつけることで戦意を喪失させ、同時に相手の器を測る。和那比売は、弟が描いたその血の通わない、しかし完璧な外交戦略に背筋が粟立つような頼もしさを感じていた。

 

「……恐ろしい男だ、お前は。洛陽の帝も、とんだ相手の尾を踏んだものだな」

 

「恐ろしきは、理を忘れ感情に流される人間の愚かさにございます」

 

広庭は少しも自惚れることなく、盤面から視線を外さずに言葉を継いだ。

 

「使者が訪れる頃、おそらく大陸の情勢は劇的に変化しております。……あの黄色い頭巾の暴徒たちが起こした乱は、長くは続かぬでしょう。(ごかん)の正規軍のみならず、各地の有力者が私兵を率いて討伐に乗り出しているからです。遠からず乱は鎮圧され、中原の地は一時の平穏を取り戻したかのように見えるはずです」

 

「ならば、(かん)は息を吹き返すのか?」

 

「いいえ。逆です」

 

広庭の指先が、盤面の中央——洛陽を示す位置の算木を弾き飛ばした。

 

「乱を鎮めるために、(ごかん)の朝廷は地方の将軍や豪族たちに軍事の全権を委ねました。それはつまり、自らがもはや天下を統べる力を持たないと、白日の下に晒したも同然。一見して平穏を取り戻したように見えても、各地の将軍たちの心の中には『強大な武力』と『野心』という力が、留まるところを知らずに蓄積されていきます。その膨れ上がった圧力は、決して消えることはありません」

 

広庭の声は、まるで数十年後の未来をすでに見てきたかのように、確信に満ちていた。

 

「限界まで圧縮された力は、必ずどこかで破裂します。それは黄巾の乱など比較にならぬほどの、巨大な爆発となって(ごかん)という国そのものを内側から完全に破壊するでしょう。我らはその爆発の波を対岸から眺めながら、飛んできた破片——優秀な人材と技術——を、ただ拾い集めればよいのです」

 

長きにわたる大陸の破滅。幾千万の血が流れるであろう未来を、広庭はただの「計算結果」として淡々と語り終えた。

部屋には、しばらくの間、夕風が白木の柱を撫でる音だけが響いていた。

和那比売は、目の前に座る弟の顔をじっと見つめた。国家を護るためとはいえ、ここまで冷徹に物事を見透かす彼が、時折酷く遠い存在に思えることがあった。

 

「……承知した。広庭、お前のその算段に、一片の狂いもないことはよく分かっている」

 

和那比売は小さく笑い、困ったような目で弟を見た。

 

「だからこそ……頼むから、私と二人きりの時くらいは、そんな鎧のような堅苦しい言葉で話さないでおくれよ。お前が完璧であればあるほど、姉である私が、なんだかとても不甲斐ない者に思えてくるじゃないか」

 

それは大王(天皇)としての言葉ではなく、一人の姉としての切実な本音であった。

広庭はわずかに目を伏せたが、すぐに面を上げると、相変わらず表情を崩さぬまま、恭しく頭を下げた。

 

「畏れ多きお言葉。なれど、私は大王の右大臣にして、帝国の懐刀。いかなる時も理を忘れず、大和の掟に従うことこそが、私の存在意義にございます。……御心に添えず、申し訳ございませぬ」

 

「……ふふ、本当に強情な弟だ」

 

和那比売はそれ以上何も言わず、ただ夕陽に染まる長岡京の景色へと視線を移した。

 

洛陽に東の海の使者が現れ、大内裏の威容を地に落としてから、およそ半年の月日が流れていた。

大和国の右大臣・広庭皇子が盤上で弾き出した通り、中原を赤黒く染め上げた「黄巾の乱」の猛火は、急速にその勢いを失いつつあった。

 

太平道の教祖・張角が病に倒れ、指導者を失った暴徒たちは、烏合の衆と化して各地で各個撃破されていった。後漢の朝廷は、これを「天の加護と皇帝の徳による大勝利」と称賛し、洛陽の宮城には表面上の平静と、安堵の空気が戻っていた。

 

だが、その平穏が「偽りのもの」であることは、少しでも大局を見る目を持つ者であれば誰の目にも明らかであった。

 

乱を鎮めるため、朝廷は地方の豪族や将軍たちに軍事の全権を委ねてしまった。彼らは討伐の功を盾にして己の私兵を肥え太らせ、自らの領地で王のように振る舞い始めている。漢という巨大な龍は、もはや己の手足すら満足に動かせず、ただ静かに死の時を待つばかりの老体と化していたのである。

その「偽りの平穏」を自らの手で切り開き、一躍天下にその名を轟かせた男がいた。

 

曹操孟徳である。

 

彼は洛陽の周囲を転戦し、徹底した用兵で幾万もの賊徒を平定した。その戦ぶりは情を挟む隙がなく、漢の威光に刃向かう者には一切の容赦を見せなかった。朝廷は彼を「漢の忠臣」と手放しで讃え、洛陽への帰還後、彼に済南国(さいなんこく)太守(たいしゅ)という重任を与えた。

 

血と泥に塗れた戦衣を脱ぎ、新たな印綬を帯びた曹操は、任地へ赴く前に幾つかの残務を片付けるため、洛陽の中心部に広大な敷地を構える父・曹嵩(そうすう)の邸宅へと足を運んだ。

曹嵩の邸宅は、大和の白と黒の禁欲的な都とは対極にある、富と権力の結晶であった。

 

朱塗りの太い柱、見事な彫刻が施された梁、そして西域から運ばれた極彩色の絨毯。かつて莫大な財を投じて太尉(たいい)という軍の最高位まで買い取った父の屋敷には、中華全土から集められた金銀財宝が溢れ返っていた。

曹操がこの屋敷を訪れたのには、父への挨拶という表向きの理由のほかに、誰にも語らぬ「真の目的」があった。

 

「おお、孟徳。よくぞ戻った。済南の太守とは、見事な出世ではないか」

 

奥の客間でくつろいでいた曹嵩は、息子を見るなり相好を崩した。その恰幅の良い体には、上質な絹の衣が纏われ、指先には眩いばかりの宝石が光っている。

 

「父上のご威光あってのことにございます」

 

曹操は恭しく頭を下げた後、上座の傍らに腰を下ろした。

 

親子はしばらくの間、朝廷の腐敗や宦官たちの動向、そして済南での統治の算段について言葉を交わした。曹操は父の俗物的な一面を熟知していたが、同時に、この父が持つ「物の価値を見極める眼」——中華のあらゆる富に触れてきた豪商としての審美眼を、誰よりも高く評価していた。

 

頃合いを見計らい、曹操は静かに口を開いた。

 

「父上。本日は、父上の持つその眼力に頼りたき儀がございまして、参りました」

 

「ほう? そなたが私に物の目利きを頼むとは珍しい。黄巾の賊どもから、何か珍しい宝でも巻き上げたか?」

 

「いえ、中原の品ではございませぬ」

 

曹操は懐に手を入れると、小さな絹の布包みを取り出した。

布が解かれ、卓の上に一つの石が転がり出る。

それは、東萊の地で大和の使節団が残していった、あの翡翠の勾玉(まがたま)であった。

 

「……此れと、父上がお持ちの(ぎょく)とを、比べてはみられませぬか」

 

曹操の言葉に、曹嵩は怪訝な顔をした。

 

「なんだ、これは。いびつな形をした石ではないか。どれ……」

 

曹嵩は目を細め、その勾玉を手にとって光にかざした。

その瞬間、百戦錬磨の宝飾の目利きである曹嵩の顔から、微かな笑みが消え失せた。

 

「なんだ、この石は……」

 

曹嵩は無言のまま立ち上がり、部屋の奥にある重厚な宝物庫へと向かった。そして、厳重な漆塗りの箱を抱えて戻ってくると、中から一つ、見事な細工が施された丸い玉佩(ぎょくはい)を取り出した。

 

「孟徳、よく見るがいい。中華において至高とされる玉は、和田(ホータン)より産出されるこのような石だ」

 

曹嵩が卓に置いたのは、最高級の「羊脂玉(ようしぎょく)」であった。

その名の通り、羊の脂のようにねっとりとした温かみのある白色。表面は滑らかで、光を当てると半透明に透き通り、まるで赤子の肌に触れているかのような柔らかな感触がある。中華の思想において、(ぎょく)とは「君子の徳」を象徴するものであり、その温もりと柔らかさこそが貴ばれてきた。

 

後の世で「軟玉(ネフライト)」と呼ばれるものである。

 

それに対し、曹操が持ち込んだ大和の勾玉は、全く異質な存在感を放っていた。

 

乳白色の地の中に、鮮烈な緑色の線が幾筋も走っている。光にかざしても全く透き通ることのない無透明な石。しかし、その表面は曹嵩の持つ羊脂玉を遥かに凌ぐ、水を張った鏡のように「鋭利な光沢」を放っていた。それは温かみとは無縁の、氷のように冷たく、そして恐ろしいほどに硬質な輝きであった。

 

後の世で「硬玉(ジェダイト)」と呼ばれる、中華には存在しない鉱物である。

 

「どこで手に入れた、これを」

 

曹嵩の声が、微かに震えていた。

 

「東萊の海にございます。洛陽を騒がせた、東夷の使者が用いていた品と聞き及んでおります」

 

「東夷だと……?」

 

曹嵩は信じられないというように、大和の勾玉と自らの羊脂玉を見比べた。

当時の漢王朝において、東夷の島国といえば、泥の器を使い、獣の骨を身につける未開の地という認識が常識であった。だが、目の前にある石は、その常識を根底から破壊するものだった。

 

「孟徳よ。中華の玉は、その温もりを貴ぶ。故に、このような冷たく、光を通さぬ石は、我らの美意識には合致せぬ」

 

曹嵩は玉の鑑定家としての意地を見せるように言ったが、その指先は勾玉の鋭い光沢から離れることができなかった。

 

「だがな……」曹嵩は息を呑んだ。

 

「私が驚いているのは、この石の色や形ではない。この『光沢』と、この『孔(あな)』だ」

 

曹嵩は、勾玉の上部に穿たれた、紐を通すための小さな孔を指差した。

 

「中華の玉は、砂と水を使い、長い時間をかけて磨き上げる。それでも、ここまでの玻璃のような鋭い光沢を出すことはできぬ。なぜなら、この東夷の石は……我らの玉よりも、遥かに『硬い』からだ」

 

曹嵩は小刀を抜き、自らの羊脂玉の端を軽く引っ掻いた。微かに白い粉が吹く。

次に、同じ力で大和の勾玉の表面を引っ掻いた。

キィィン、という嫌な音が鳴り、小刀の刃先の方がわずかに丸く潰れた。勾玉の表面には、傷一つついていない。

 

「お分かりか、孟徳。この石は、鋼の刃すら受け付けぬほどの硬さを持っている」

 

曹嵩は、恐怖を見るような目で勾玉の孔を見つめた。

 

「石を削り、孔を穿つには、その石よりも硬い砂や(きり)を用いねばならぬ。この途方もなく硬い石を、ここまで滑らかに磨き上げ、寸分の狂いもなく円形の孔を穿ち抜く……。いったい、いかなる道具を用いれば、このような真似ができるというのだ」

 

その言葉に、曹操の背筋に冷たい汗が伝った。

 

「我が漢王朝の宮廷に抱えられた最高の玉作り(職人)を集めても、この硬い石に孔を開けるには数ヶ月の時を要するであろう。いや、途中で石が割れるやもしれん」

 

曹嵩は重い溜息をついた。

 

「孟徳。お前は、これを東夷の使者が『用いていた』と言ったな」

 

「はい。彼らはこれを、我らが使う銅銭や金銀と同じように、取引きの対価として商人へ渡したと」

 

「……馬鹿な」

 

曹嵩は呆然と呟いた。

 

「これほどの異常な細工を施した宝玉を、あろうことか『貨幣』として惜しげもなく切り捨てる国が存在するというのか……? それはつまり、この硬い石を自在に切り出し、磨き、孔を穿つだけの途方もない技術と道具を、彼らが『日常のもの』として持っているという(あかし)ではないか!」

 

曹操は無言のまま、卓の上の勾玉を見つめた。

乳白色に緑の線が走るその冷たい輝きは、まるで東の海からこちらを見つめる、感情を持たぬ竜の目のようであった。

大和の使者が洛陽で見せたと言う、一切の情を交えない恐るべき統率力。

 

浅瀬を苦もなく乗り越え、何百という漢の矢を弾き返したと言う、白と黒の船団。

そして今、父の口から語られた、漢の工芸技術を遥かに凌駕する「石を穿つ力」。

曹操の中で、それまで点在していた不気味な情報が、一本の太い線となって繋がり始めた。

 

(……この国は、ただの蛮族ではない。漢のように過去の栄華や徳という曖昧なものにすがる国でもない。彼らは、鋼よりも硬い石を削り出す『理』と『算術』を完全に掌握し、それを国家の隅々にまで張り巡らせているのだ)

 

曹操は、洛陽で霊帝が震えながら金印を渡そうとし、それを冷酷に拒絶されたという顛末を思い出していた。

漢の朝廷は、あの使者たちの無礼に怒り狂った。だが、その怒りすら、東の海の国から見れば「計算通りの反応」に過ぎなかったのではないか。

 

(彼らは、この玉のように硬く、冷たい。我らが血を流して領土を奪い合っている間に、彼らは海の向こうでこの技術を磨き、我らの内乱を高みから見物している。そして、中原が完全に疲弊しきった時……彼らはこの硬い刃を、我らの喉元に突きつけてくるに違いない)

 

「……父上。やはり、漢は終わりです」

 

曹操は、静かに、しかし断固たる声で言い放った。

曹嵩は驚いて息子を見たが、曹操の眼底には、先ほどまでの「忠臣」の仮面は微塵も残っていなかった。そこにあったのは、迫り来る途方もない外敵を見据え、自らが中原の覇者となってそれを迎え撃たねばならないという、氷のような覚悟であった。

 

「皇帝の徳など、この小さな石の硬さの前に砕け散る幻に過ぎませぬ。このまま地方の将軍たちが小競り合いを続ければ、遠からず中原は、あの海の彼方の国にすべてを飲み込まれるでしょう」

 

曹操は勾玉を再び布に包み、懐深くへとしまった。

 

「私は済南へ参ります。そこで兵を練り、法を敷き、理を以て国を治める術を完成させねばなりませぬ。東の海からやってくる『真の敵』に、対抗し得る国を創るために」

 

曹嵩は、これ以上何も言うことができなかった。息子の背中が、すでに一つの巨大な時代の終わりと、新たな乱世の始まりを背負っているように見えたからである。

 

東の果て、長岡京の奥深くで右大臣・広庭皇子が弾いた算盤の音は、海を越え、曹操孟徳という稀代の英傑の心に、決して消えることのない「恐怖」と「警戒」という名の火種を確実に植え付けたのであった。

 

 

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