西暦二百六年の初頭。
中原において曹操が強大な覇権を握り、南方では劉備が荊州を電光石火の如く平定していた頃。中華の激動から遠く離れた北東の果て、遼東の地においても、一つの巨大な権力の移行が静かに、しかし確実に行われていた。
長きにわたり遼東に独立政権を築き上げ、自らを「遼東侯・平州牧」と称して事実上の独立国を維持してきた英傑・公孫度が、その老いと病から、ついに第一線を退くことを決意したのである。
彼が自らの後継者として家督と全権を譲り渡したのは、嫡男である
公孫康は、父の築き上げた遺産をただ守るだけの凡庸な二代目ではなかった。
彼の眼光は鋭く、中華の情勢を冷徹に見極める確かな軍略の才を備えていた。家督を継いだ彼が真っ先に直面したのは、「いかにしてこの
「……南の曹操は、今はまだ南方に気を取られている。だが、中原が統一されれば、あの覇王の鉾先は必ずこの遼東へと向けられる」
襄平の居城にて、公孫康は巨大な東アジアの地図を見下ろしながら、重臣たちに語った。
「曹操が動く前に、我らは背後の憂いを完全に断ち切らねばならない。すなわち、北方の強国・高句麗の息の根を止め、朝鮮半島北部を完全に我ら『燕』の支配下に置くのだ」
折しも、高句麗の内部では、先王の死に伴う王位継承戦争(山上王と抜奇の争い)という、国を真っ二つに割る致命的な内乱が勃発していた。
公孫康にとって、これ以上ない絶好の好機である。彼は高句麗の継承戦争へ武力介入し、意に沿う者を傀儡(かいらい)として据えるか、あるいは国そのものを物理的に解体することを決意した。
だが、この北の大遠征を盤石なものとするためには、どうしても『背後の安全』、すなわち朝鮮半島南部に強大な影響力を持つ『もう一つの帝国』との外交交渉が不可欠であった。
「……海を渡り、日本国へと使者を送れ」
公孫康のその命令に、遼東の重臣たちは一瞬顔を見合わせた。
現在、朝鮮半島の南部は、大和国の強力な軍事力と経済力によって実質的な支配下に置かれている。鉄資源の供給地として、大和は半島南部に強固な要塞と兵站線を構築しており、その軍事力は公孫康とて正面からぶつかることを躊躇うほどに強大かつ不気味なものであった。
「日本の天皇に、こう伝えるのだ。
我ら燕は、日本国が朝鮮半島南部を領有しているという既得権益を、完全に承認し、一切の不可侵を誓う。……その代わり、半島北部の帰属権は、すべて我ら燕の物として確定させることに同意せよ、と」
それは、半島を南北で分割統治し、互いの不可侵を確約するという、極めて現実的で合理的な『境界線の策定』であった。
「さらに、だ。日本国に対し、この度の高句麗討伐への『軍事参加(共同出兵)』を打診せよ」
「若君! それは危険ではありませぬか?」
重臣の一人が慌てて進み出た。
「大和国のような得体の知れない強国を、半島北部の戦線にまで引き込めば、高句麗を滅ぼした後に、そのまま北部まで居座られかねませんぞ!」
公孫康は、冷ややかに鼻を鳴らした。
「馬鹿め、日本国がそのような非合理な真似をするはずがなかろう。奴らは狂信的な略奪者ではない。極めて緻密な『算段』で動く商人であり、官僚の国だ」
公孫康は、大和国の本質をある程度見抜いていた。
「半島北部の険しい山岳地帯や、凍てつく高句麗の土地に、大和の欲しがるような資源はない。奴らが一番恐れているのは、我々燕と高句麗が結託して半島南部の鉄山を脅かすことだ。
……我々から『共に高句麗を叩き、北の脅威を取り除こうではないか』と誘えば、奴らは南部の安全保障をタダで確約されるのだから、決して悪い話ではないはずだ」
西暦二百六年の春。
公孫康の野望を乗せた燕の使節団は、荒波を越えて極東の巨大な島国へと向かった。
それは、大和国の中枢『大内裏(だいだいり)』において、かつてない規模の激烈な論争と、巨大な地政学的野望を呼び覚ますこととなるのである。
―――
日本国の首都。巨大な機構と法が支配する大内裏の中心、大極殿。
燕からの使者が持ち込んだ『半島分割と高句麗共同討伐』の打診は、すぐさま最高首脳陣である太政官の会議へと掛けられた。
玉座には天皇・和那比売。
その両脇には、次期天皇である皇太子・稚足彦と、太政官の最高会議に名を連ねる若き親王・
卓を囲むのは、左大臣をはじめとする各省の長官たち、そして大和の頭脳たる右大臣・広庭(ひろにわ)である。
「……燕の若造、なかなか足元を見た交渉をしてきますね」
燕の提案書を読み終えた広庭が、表情一つ変えずに呟いた。
「我々の南部支配を認め、北の脅威である高句麗を削ってくれるという点においては、大和の安全保障に完全に合致する。だが、それに我が国の軍を付き合わせるというのは、少々虫が良すぎる。……我々が血と金を出して、燕の領土拡大を手伝ってやる義理はありません」
広庭の言う通りであった。
高句麗は山岳に囲まれた極めて防御力の高い軍事国家であり、その兵は騎射に優れ、精強である。そこへ大和の軍を深入りさせれば、莫大な兵站の消費を強いられるばかりか、最悪の場合は高句麗との『全面戦争』という出口のない泥沼に引きずり込まれる危険性すらあった。
大和の基本方針である「費用対効果」からすれば、この打診への軍事参加は『否(却下)』とするのが妥当であった。
だが、この広庭の「軍事参加は見送るべき」という方針に対し、真っ向から異を唱えた省庁があった。
大和国の軍事を統括する『兵部省』の長官である。
「右大臣殿の危惧は尤も。高句麗との全面戦争など、我が省とて御免被る。……しかし、この軍事介入、条件付きであれば『極めて大きな価値』を生み出すと具申いたします」
歴戦の武将でもある兵部卿は、分厚い手で卓を叩き、熱を帯びた声で語った。
「我が日本国はの蝦夷の討伐や朝鮮の併合とを終えて以来、十年間にわたり大規模な実戦を経験しておりません。国内の反乱は制度によって未然に防がれ、半島南部の駐留軍も、ただ砦を守るだけの『警備兵』と化しつつあります。……これは、軍事組織としては非常に危険な『腐敗と弱体化』の兆候です」
兵部省が恐れていたのは、平和という名の緩みであった。
どれほど優れた鉄の武器を持ち、どれほど完璧な兵站を構築しようとも、実際にそれを極限の戦場で運用する「経験」が失われれば、軍隊はただの張り子となる。
「中原では今、曹操や劉備が血で血を洗う実戦の中で、凄まじい速度で戦術と武具を進化させております。対して我が軍は、大陸の強大な『重装騎兵』や、高句麗のような『山岳機動兵』に対する実戦の戦訓が全く足りておりません!」
兵部卿は、和那比売と稚足彦に向かって深く頭を下げた。
「故に! 大軍を派遣する必要はありませぬ。精鋭の『二千』。わずか二千の部隊だけで構いません。燕の軍に随伴するという名目で半島北部へ派遣し、大陸の最新の騎兵戦術や攻城戦の戦訓を収集するための『戦訓の獲得』を行わせていただきたい! これは、将来中原の覇者と激突する日が来た時のための、かけがえのない財産となります!」
利益や領土の獲得ではなく、純粋な『戦訓の獲得』を目的とした局地的な派兵。
日本国らしい、極めて実利的で冷徹な軍事介入の提案であった。
兵部省の提案により、会議の空気が少しずつ変わり始めた。
「二千の局地派遣であれば、兵站への負担も小さく、高句麗と全面戦争になるリスクも回避できるのではないか」という声が、左大臣側の官僚たちからも上がり始めたのである。
だが、この会議の場を真の意味で一変させたのは、これまで黙って議論を聞いていた若き親王・久仁彦の一言であった。
「――兵部省の『戦訓の獲得』には賛同します。しかし、たかだか実戦経験を得るためだけに、我々の貴重な兵と兵站を消費するのは、いささか『安上がり』というものです。……せっかく北へ軍を動かすのであれば、我が国はこれに乗じて、『遥か北方の
「……何だと?」
久仁彦の突拍子もない提案に、大極殿の空気が一瞬にして凍りついた。広庭すらも、目を細めて自らの後継者の顔をまじまじと見つめた。
「……すなわち、高句麗のさらに北、挹婁や粛慎と呼ばれる狩猟民族たちが住む、極寒の未開の地ではないか。あんな不毛な土地に影響力を持って、何の意味があるというのだ?」
左大臣が、呆れたように反論した。
久仁彦は、卓の上に広げられた地図の、最も北東の端(極東の沿海州地域)を指差した。
「不毛に見えるのは、中原の尺度で測るからです。あの地域は、良質な『毛皮』、船の建材となる『巨大な針葉樹』、そして何よりも……中原の動乱を完全に迂回して、我が国の裏日本へと直接繋がる『北の海洋交易路』の最重要拠点となります」
久仁彦の目は、十年先ではなく、百年先の「日本帝国の完全なる自立経済圏」を見据えていた。
「我が国が直接あのような寒冷地を『統治』する必要はありません。
軍を駐留させれば凍え死ぬだけです。
……我々がやるべきは、燕の軍勢が高句麗を叩き潰して北方に巨大な空白地帯が生まれた瞬間に、その鄙びの部族たちに接触し、大和の鉄器と技術を与え、我々の『
それは、武力による領土の拡大ではない。
日本国の持つ圧倒的な文化と経済のシステムを未開の地に浸透させ、事実上の経済的属国を作り上げるという『文化と理の侵略』であった。
「そこに日本式の文化圏を確立できれば、我々は燕や高句麗の頭越しに大陸の北方資源を独占し、さらには燕に対する強烈な『背後の牽制』として機能させることができる。……兵部省の二千の兵は、戦訓を得た後、その『最初の商館』を建設するための護衛と測量部隊として機能させるのです」
久仁彦の語った『北方文化圏の確立』。
それは、会議の席にいた左大臣や文官たちの度肝を抜く、あまりにも壮大で、そして魅惑的な地政学の絵図であった。大和の血を流さず、システムだけで北の果てを支配する。誰もがその策の美しさに息を呑んだ。
だが。
「――棄却する。それは絵に描いた餅にも劣る、致命的な『妄想』だ」
その魅惑的な絵図を、氷のように冷たく、極めて容赦のない言葉で一刀両断にした男がいた。
久仁彦の師であり、大和国の経済と兵站のすべてを計算し尽くしてきた怪物、右大臣・広庭である。
「右大臣殿……。妄想とは、いささか言葉が過ぎるのでは……」
左大臣が取りなそうとするが、広庭の目は冷徹な光を放って久仁彦を射抜いていた。
「久仁彦。お前は地図の上で線を引くことの快感に酔っているだけだ。……あの北方の海の冬の荒れ方を計算に入れたか? 沿海州に商館を建て、影響力を維持するためには、定期的な物資の輸送船団を最低でも年に数回は往復させねばならない。そのための『輸送数』はどれほどになる?」
広庭は、手元にある算木を弾くことすらなく、即座に絶望的な数字を突きつけた。
「我が日本国の輸送船の八割は、現在、中原からの富の吸い上げと、半島南部からの鉄の輸送で限界まで稼働している。お前の言う『百年先の利益』のために、現在の確実な利益を生んでいる航路から船を割き、嵐の危険が高い北の海へ振り向けるなど、『費用対効果』の観点から絶対に許容できない大赤字だ!」
広庭の哲学は、徹底的な『兵站と現在の数字』の遵守である。
軍を動かし、拠点を維持するためのコストが、得られる利益(毛皮や将来の牽制力)を上回るのであれば、いかに戦略的に美しかろうと、それは「国家を傾ける悪手」であると断じたのだ。
「二千の派兵で戦訓を得ることには合意しよう。だが、その二千は高句麗と一度刃を交えたら、即座に南へ撤退させろ。北への深入りと、拠点の建設は一切認めん。我々の守備範囲は、半島南部までだ!」
広庭のその絶対的な「兵站の壁」を前に、並の官僚であれば完全に論破され、沈黙するしかなかっただろう。
しかし、広庭の
「――右大臣殿の計算は完璧です。現在の『十年の帳簿』で見れば、北への進出は間違いなく赤字でしょう。……しかし、私は『百年の帳簿』の話をしているのです」
久仁彦は、立ち上がり、広庭を真っ直ぐに見据えた。
「広庭様は『現在稼働している船を割くのは無駄だ』と仰られた。ならば、『船そのものを新しく造らせれば良い』だけのことではありませんか?」
「……何?」
「越の国から東北にかけての裏日本には、未開発の広大な森と、鉄製農具によって豊かになりつつある労働力が余っています。挹婁との交易という『明確な需要と目的』を与えることで、裏日本の豪族たちに大規模な造船所を建設させ、日本海を渡る新たな航海術を国家主導で育成するのです」
久仁彦の主張は、単なる地政学ではなく、『外への進出を起爆剤とした、国内の巨大な公共投資と技術革新』であった。
「兵站が足りないから行かないのではありません。行くために、兵站の『枠』そのものを巨大化させるのです!
これにより、我が国の海運力は現在の倍以上に膨れ上がり、中原のいかなる水軍も及ばない絶対的な海洋帝国が完成します」
久仁彦は、さらに語気を強めた。
「目先の鉄や金だけが資産ではありません。あの極寒の北の大地に、日本の度量衡を使い、日本の言葉で商取引を行う『見えない文化圏』が存在すること。
それは、曹操や燕といった大陸の覇者たちに『日本国には北からも首根っこを掴まれる』という計り知れない恐怖と心理的重圧を与える、最大級の『資産』となるのです! この二千の兵は、そのための安い『投資』です!」
「詭弁だ、久仁彦!」
広庭が、卓を強く叩いた。彼がこれほどまでに感情を露にするのは、極めて珍しいことであった。
「不確実な百年のために、国家の現在の血肉を削るなど、博打に過ぎん! 燕の思惑に乗せられ、泥沼に足を踏み入れるつもりか!」
「博打ではありません! これは『日本国の生存圏』を確定させるための、最後で最大の盤面です! ここで縮こまれば、我々は永遠に半島南部の小さな鉄山にしがみつく、大陸の顔色をうかがうだけの小国に成り下がります!」
久仁彦もまた、一歩も引かずに叫び返した。
『兵站(計算された確実な現実)』を絶対とする広庭と。
『理(システムと文化による地政学的な未来)』を絶対とする久仁彦。
大内裏の大極殿は、日本国を牽引する新旧の二つの巨大な哲学が、火花を散らして正面から激突する闘技場と化していた。
左大臣も、兵部卿も、そのあまりにも高度で、国家の根幹を揺るがす恐るべき論争の前に、口を挟むことすらできず、ただ圧倒されて息を呑むばかりであった。
凄まじい緊迫感に包まれた御前会議。
果てしなく続くかと思われた広庭と久仁彦の論争を、静かな、しかし凛とした声が制した。
「――二人とも、そこまでにしなさい。双方の言い分は、痛いほどによく分かりました」
次期天皇・稚足彦である。
彼は、父である広庭の冷徹な計算も、異母弟である久仁彦の壮大な未来図も、すべてを等しく自らの中に飲み込み、咀嚼していた。
「広庭の言う『兵站の限界と、泥沼化の恐れ』は、国家の存亡に関わる絶対の真理です。……しかし、久仁彦の言う『北の海洋航路の開拓と、文化圏の確立』という未来図もまた、我が大和が真の帝国へと脱皮するためには、避けては通れない道です。」
稚足彦は、玉座に座る和那比売へと視線を向け、深く一礼した。
「陛下。私の考えを、具申してもよろしいでしょうか」
「ええ。言うてみなさい、稚足彦」
和那比売が、静かに頷く。
「燕の提案(半島分割と共同出兵)は、基本的には受諾します。ただし、我が方からの軍事介入は、兵部省の求める通り『厳選された二千の兵のみ』と定めます」
稚足彦は、広庭と久仁彦の双方を見るように視線を巡らせた。
「高句麗との戦場において、この二千の兵には一切の『領土的野心』を禁じます。彼らの目的はあくまで、大陸の最新の騎兵戦術や攻城兵器を体験し、その対策を大和へと持ち帰る『戦訓の獲得』のみに特化させます。これが、広庭の危惧する泥沼化を防ぐための絶対条件です」
そこまで語ると、稚足彦は久仁彦の方へと向き直った。
「しかし、高句麗の軍が燕によって打ち破られ、戦線が崩壊したその瞬間に。……この二千の兵は、戦場を離脱し、さらに北の挹婁の地…、へと進軍します」
「皇太子殿下! それでは兵站が……!」
広庭が声を上げるが、稚足彦はそれを手で制した。
「広庭。お前の心配する通り、陸路で補給線を伸ばすのは自殺行為です。……だからこそ、この二千の兵への補給は、久仁彦が提案した『裏日本からの日本海の海上輸送』のみで行います」
稚足彦は、見事な折衷案――いや、双方の強みを極限まで引き出す『高難易度の算段』を提示したのである。
「久仁彦。お前に、越の国の造船と、日本海の航路開拓の全権を与えます。お前自身の力で、広庭が『不可能』と断じた兵站線を、北の海に構築してみせなさい。……それができたなら、沿海州に大和の『商館』を築くことを許可します」
「……ッ! 御意に!」
久仁彦は、目を輝かせて深く平伏した。
「そしてち……広庭。お前には、この前代未聞の北洋航路と、二千の兵の動きが、現在の国家予算(南の鉄や中原との交易)に一切の悪影響を及ぼさぬよう、全体の算段を完璧に操ってしてもらいます。……お前の計算能力がなければ、この国家の成長痛を乗り切ることはできません」
「……はっ。やれやれ、次期大王は、私の寿命を縮めるのがお好きなようだ」
広庭は、深々とため息をつきながらも、どこか頼もしく成長した息子の裁定に、口元に微かな笑みを浮かべて平伏した。
「見事な捌きです、稚足彦」
一部始終を見守っていた天皇・和那比売が、静かに立ち上がり、威厳に満ちた声で最終的な『決裁』を下した。
「燕の使者には、こう伝えなさい。半島北部の統治権は燕に認める。我らも二千の精鋭をもって、高句麗討伐に助太刀しよう、と。……ただし、高句麗より北の海における『交易の独占権』は、我が日本国が恒久的に保有することを、この出兵の絶対条件とする、と」
公孫康の提案を逆手に取り、軍事的な深入りを避けながら、戦訓という果実と、北方の巨大な地政学的アンカー(影響力)だけを掠め取る。
日本国らしい、冷酷で計算高い、恐るべき外交答弁であった。
「兵部省よ。出兵の準備を急ぎなさい。我が国が数十年ぶりに、大陸の土を踏む時が来ました。……中原の覇者たちに、大和の『牙の鋭さ』を、少しばかり見せつけてやりなさい」
「ははっ!! 兵部省の総力を挙げ、大和の武威と算段の恐ろしさを、大陸の騎兵どもに骨の髄まで刻み込んでご覧に入れます!!」
兵部卿が、武者震いしながら床に額を擦り付けた。
激しい論争の末に『二千の派兵と、北方ルートの開拓』という国策が決定した、御前会議の直後。
大極殿の奥深く、天皇・和那比売の私室に、右大臣・広庭が召し出されていた。
「……やれやれ。姉上も、人がお悪い。あの場で稚足彦の折衷案に飛び乗り、私にすべての帳尻合わせを押し付けるとは」
先程までの冷徹な冷血漢の仮面を脱ぎ捨て、広庭は深い疲労と共にため息をついた。二人きりの私室であるため、そこには最高権力者と臣下ではなく、かつて共に大和のシステムを創り上げた『姉と弟』の気安い空気が流れていた。
和那比売は、御簾を上げ、苦笑する弟に向かって優雅に微笑んだ。
「そう文句を言うものではありませんよ、広庭。お前とて、内心ではあの決定に喜んでいたのでしょう?」
「……ええ。悔しいですが、認めざるを得ません。まさか、私があのような形で手玉に取られるとは、予想だにしておりませんでしたから」
広庭にとって、次期天皇である皇太子・稚足彦と、次期右大臣となる予定の親王・久仁彦は、他ならぬ『自らの実の息子たち』である。
血の繋がりで言えば和那比売にとっては甥にあたるが、彼らは姉である天皇と、国の裏枠を支える広庭自身という『大和の双璧』の座を、そのまま継ぐべき存在として育てられてきた。
広庭は、自分の頭脳がどれほど常軌を逸した『天才』であるかを自覚している。
だからこそ、彼ら息子たちには、自分と同じような「冷酷な計算機」になることを強いてきた。だが、今日の会議で見せた彼らの姿は、広庭の計算式を遥かに超えて飛躍していたのである。
和那比売には、一つの密かな、そして為政者としての少しばかり『嫌らしい意地悪な考え』があった。
それは、自らの甥っ子たちに、『いつか、あの完璧すぎる父親を打倒し、乗り越えてほしい』という願望である。
広庭は、間違いなく百年に一人の『天才』である。
複雑な国家予算から大陸の物流まで、すべてをたった一人の頭脳で弾き出し、最適解を導き出すことができる。
対して、稚足彦と久仁彦は、極めて優秀ではあるが、あくまで努力と学習によって磨き上げられた『秀才』であった。一個の演算能力や冷徹さにおいて、彼らが広庭という絶対的な天才に単独で勝つことは不可能である。
(……一人の天才がすべてを背負う国は、その天才が死んだ時に脆く崩れ去る。だからこそ、秀才である彼らが『一人の天才』を乗り越えるためには、どうすれば良いか)
和那比売の出した答え。それは、「互いに手を取り合い、それぞれの強みを組み合わせて、一人では不可能な『盤面』そのものを創り上げること」であった。
今日の会議がまさにそれであった。
久仁彦が「北方の文化圏設立」という壮大で実現困難な大風呂敷を広げ、広庭の『兵站』という絶対的な壁に激突する。
そこへ、大局を見渡す稚足彦が絶妙なタイミングで入り込み、久仁彦のビジョンを活かしつつ、広庭の計算能力を「帳尻合わせ」として強制的に組み込むという『完璧な折衷案』を提示した。
兄弟が完全に役割を分担し、阿吽の呼吸で『天才・広庭』を逃げ場のない論理の檻へと追い詰めたのだ。
「……見事な連携でした。稚足彦が兄として大局を握り、弟の久仁彦が泥臭い盤面をいじる。発案そのものは私の指図ではありませんでしたが、あの子たちが自ら考え、お前を綺麗に手玉に取った姿を見た時……私は、心底嬉しかったのですよ」
和那比売は、扇子で口元を隠しながら、嬉々とした声で笑った。
「……息子たちの成長は、父親として誇らしいものです。しかし、姉上」
広庭は、苦笑いを浮かべながらも、その瞳に厳しい親としての光を宿した。
「あの海に、無から航路を開拓し、造船し、二千の兵の兵站を維持する……。机上の論理では可能でも、実際に現場を動かせば、どれほどの血と汗と『絶望的な苦労』が伴うか。それを、あいつらはまだ本当に肌で理解してはいない」
「ええ。分かっていますとも」
和那比売の目から、先程までの優しい叔母としての光が消え、日本国を統べる『冷酷な大王』の眼光へと戻った。
和那比売が、あえて彼らの無茶な提案(ウラジオストク構想と裏日本ルートの開拓)を承認した最大の理由。
それは、彼らに「自分たちの力で父を言い負かした」という自信を持たせるためだけではない。むしろ、『言葉だけで盤面を動かした気になっている若者たちに、現実の泥沼を味わわせるため』であった。
「あの二人は、あまりにも賢すぎる。だからこそ、ここで『自分の策はすべて上手くいく』という万能感(過剰な自信)を持たせることは、将来の国を危うくします」
和那比売は、冷たい声で断言した。
「だからこそ、私は彼らに、あえて最も困難で、血反吐を吐くような『四苦八苦する道』を選ばせたのです。……冬の日本海の荒波、裏日本の豪族たちの反発、造船の失敗、兵站の遅れ。それらすべての現実の重圧を、久仁彦には直接背負わせる。そして稚足彦には、その責任を君主として負わせる」
それは、ただの罰ではない。
天才・広庭がこれまで一人で人知れず背負い続けてきた「国家を動かすという絶対的な重圧と孤独」を、秀才である彼らが真の意味で理解し、乗り越えるための『試練』であった。
「泣き言を言って、お前に助けを求めてきても、決して手を貸してはなりませんよ、広庭。……あの子たちが本当に、我ら二人の座を継ぐに足る『帝国の双璧』となれるかどうか。この北方の海が、彼らの試金石となります」
「……御意。獅子は我が子を
中原の覇権争いという表舞台の裏側で、極東の帝国は、次世代の若き秀才たちを『真の支配者』へと鍛え上げるため、猛烈な吹雪と荒波が待ち受ける北方の海という、冷酷極まりない「教育の盤面」へと彼らを放り込んだのであった。
―――
大内裏の大極殿にて、大和国の最高首脳陣が極東の地政学と百年の未来を巡って火花を散らしていた、まさにその同じ日のことである。
厳粛なる大内裏の城壁の外。
広大に広がる市街地である『長岡京』の目抜き通りでは、政治の重苦しい空気など一切関係ないと言わんばかりの、ちょっとした『お祭り騒ぎ』が巻き起こっていた。
「おい、見ろよあれ!」
「嘘だろう……!? なんて大きさだ、山の神でも退治してきたのか!?」
「前王様だ! 前王のヤマトタケル様が、お山から帰ってこられたぞォーッ!!」
通りを埋め尽くす民衆たちが、道を空けながら歓声を上げ、あるいは恐怖に腰を抜かしている。
その視線の先。長岡から少し離れた滋賀の『伊吹山』の方面から、ズシン、ズシンと地響きを立てながら都の大路を闊歩してくる、一人の途方もない巨漢の姿があった。
和那比売と広庭の父であり、かつて大和を武力で平定した生きる伝説。
「がっはっは! どけいどけい! 血で道が汚れるぞ!」
身の丈七尺(2m10cm)に近い筋骨隆々の巨躯を揺らし、大和健は豪快に笑いながら歩を進めていた。老いてなお、その肉体には少しの衰えも見られず、凄まじい覇気と生命力が全身から立ち上っている。
だが、民衆が驚愕していたのは、大和健の巨体だけではない。
彼が、太い丸太のような右腕で無造作に掴み、肩に担ぎ上げている『獲物』の異常さであった。
それは、雪のように真っ白な剛毛に覆われた、超巨大な猪の『生首』であった。
「な、なんだあの大きさは……!」
駆けつけた衛兵たちも、思わず槍を取り落とすほどの規格外の体躯である。
切り落とされた頭部だけで、優に60〜70センチはある。そこから逆算される全身の体長は、間違いなく2.2メートルを優に超えるであろう、まさに『化け物』と呼ぶにふさわしい大猪であった。
しかし、『規格外の暴力の化身』である彼にとって、神話の化け物など、ただの少し歯応えのある狩りの獲物でしかなかったのである。
「おう、ご苦労! 大内裏に戻ったぞ。和那比売や広庭はいるか?」
大内裏の門に辿り着いた大和健は、出迎えた兵部省の役人たちに向かって、ドサリと巨大な白猪の首を放り投げた。
地響きと共に転がった化け物の首に、役人たちは悲鳴を上げて後ずさる。
「さ、前王様……ッ! い、一体どこへ行かれておられたのですか!? お供も連れず、数日前から行方が知れず、都中を探し回っていたのですよ!」
「ん? ああ、すまんすまん。ちと『土産』を獲りにな」
大和健は、浴びた猪の返り血を無造作に手で拭いながら、悪びれもせずに笑った。
彼が突如として単身で山へ向かった動機。
それは数日前、彼が大内裏の廊下を散歩していた時のことである。兵部省の役人たちが
「滋賀の伊吹山周辺で、見たこともない巨大な獣が出没し、民の田畑を荒らし回って困っている。討伐隊を組むにも、普通の兵では歯が立たない」
と頭を抱えながら報告し合っているのを、偶然『横聞き』したのだ。
『ほう。民が困っているのか。それに、並の兵では歯が立たぬ巨大な獣……。最近、体が鈍っていたところだ。ちょうどいい運動になるな』
ただそれだけの理由である。
彼は誰に許可を取ることもなく、護衛を連れることもなく、愛用の巨大な大太刀一本だけを肩に担いで、フラリと伊吹山へと出かけてしまったのである。
そして、山を荒らす巨大な白猪と遭遇するや否や、真正面から殴り合い、その巨体を一刀の元に斬り伏せ、「丸ごとは重くて面倒だから」と首だけを切り落として、長岡京まで担いで帰ってきたのだ。
「さあ、見事な猪肉だ! 兵部省の奴らで解体して、牡丹鍋にでもして民に振る舞ってやれ!」
「は、ははぁーッ!!」
あまりの規格外の行動に、役人たちはただ平伏して震えることしかできなかった。
日本国が誇る緻密なシステムや、広庭たちの冷徹な算段など、この男の前ではまるで意味をなさない。圧倒的な、純粋すぎる『個の暴力』。それが、大和健という男の本質であった。
そして、この騒ぎを大極殿の窓から見下ろしていた和那比売と稚足彦は、呆れ果てて深くため息をついた。
「……あれが、先代の王の姿ですよ、稚足彦。国がどれだけ法と算段で整備されようと、あの圧倒的な武威の前では理屈など吹き飛びます」
和那比売が、こめかみを揉みながら呟く。
「ええ……。叔母上が以前仰っていた、日置王(比企景明)が姿を消した時の父上の言葉……『斬ってやった』という一言。あの巨大な猪の首を軽々と持ち上げている姿を見ると、本当に叔父上を一刀両断にしてしまったのではないかという『真実味』が増して、恐ろしくなりますね」
聡明な稚足彦も、眼下で豪快に笑う巨漢の祖父を見て、思わず背筋を冷たくした。
血と泥にまみれ、圧倒的な暴力を撒き散らしていた大和健であったが、大内裏の奥にある自らの宮へと戻ると、その纏っていた空気は打って変わった。
湯浴みをして獣の血と汗を綺麗に洗い流すと、侍女たちに命じて、いつものように最上級の絹で仕立てられた『官服』へと身を包む。
そして、山籠もりで生えていた顎の無精髭を小刀で綺麗に剃り落とし、乱れた髪を整えさせた。
衣服と身なりを整えた彼の姿は、先程までの「荒ぶる神」のような狂暴さは微塵もなく、極東の島国を統べるにふさわしい、堂々たる威厳と風格を備えた『立派な前王』そのものであった。
身支度を終えた大和健が、和那比売や広庭等の子ら――すなわち彼にとっての『孫たち』が集う庭園へと足を踏み入れた時である。
「おお! 皆、息災にしておったか!」
その第一声と共に、彼が常に無意識に発散している、凡人であれば息が詰まるような『巨大な威圧感と殺気』は、霧が晴れるように完全に解き放たれ、消え去った。
そこに立っていたのは、戦場の鬼神でもなく、恐ろしい暴君でもない。目尻をこれでもかと下げ、孫たちの姿に相好を崩す、ただの『立派な好々爺』であった。
「あ、お爺様だ! お爺様がお帰りになったぞ!」
「お爺様、お山で大きな猪を退治したというのは本当ですか!?」
無邪気に駆け寄ってくる幼い孫たちを前に、大和健は「がっはっは!」と腹の底から笑い、身の丈七尺の巨体を屈めて、彼らを太い腕でふわりと抱き上げた。
「ああ、本当だとも! 牙がこれほどもあってな、そりゃあ恐ろしい化け物だったが、この爺がゲンコツ一発で大人しくさせてやったわ!」
「すごい! お爺様は世界で一番強いのですね!」
孫たちから向けられるキラキラとした尊敬の眼差しに、大和健は上機嫌で相槌を打ち、目の中に入れても痛くないといった様子で頬ずりをした。
特に、血気盛んな男児の孫たちを相手取る時の大和健は、本当に楽しそうであった。
彼は庭の片隅に置かれていた木剣を手に取ると、自ら率先して孫たちの遊び相手(武術の指南役)を買って出た。
「さあ、かかってこい! 足幅が狭いぞ、腰をしっかり落とせ!」
「ええーいッ!」
幼い孫たちが、小さな木剣を一生懸命に振り回して大和健に打ち込んでいく。
大和健は、戦場で見せるような神速の動きや怪力は完璧に封印し、孫たちの打ち込みを「ほう、良い筋だ!」「鋭いぞ!」と褒めちぎりながら、優しく木剣で受け止めていた。
彼の剣術は、命のやり取りの中で培われた究極の殺人剣であるはずなのだが、孫を相手にする時だけは、いかにして相手を怪我させず、楽しく剣を振らせるかという『究極の遊戯』へと見事に昇華されていたのである。
転んで泣きそうになる孫がいれば、すぐに木剣を放り出して抱きしめ、頭を撫でて励ます。その温かく包み込むような優しさは、大極殿で冷徹な算段を練っている現在の首脳陣たちには決して真似のできない、大和健特有の『圧倒的な器の大きさ』であった。
「……本当に、信じられませんね。先程まで伊吹山の神獣を真っ二つにしていた男と、同一人物とは」
回廊の陰からその光景を眺めていた和那比売が、呆れ半分、安堵半分の溜息を漏らした。
「ええ。ですが、我々としてはありがたい限りです。父上があのように穏やかに隠居生活を楽しんでくださっているからこそ、我々は後顧の憂いなく、国政と大陸への謀略に専念できるのですから」
隣に立つ広庭も、目を細めて頷いた。
かつて、大和国を統一するために誰よりも血まみれになり、蝦夷との苛烈な戦場を駆け抜けた若き日の大和健。
彼が流した血と暴力の土台の上に、和那比売たちのそして今、稚足彦や久仁彦といった次代の若者たちが、さらなる帝国への飛躍を遂げようとしている。
自らの役目を終えた巨大な老王は、面倒な政や大陸の権力闘争など、賢い子供や孫たちにすべて丸投げし、己は好きな時に化け物を狩り、可愛い孫たちに剣を教えながら日向ぼっこをする。
大陸の中原で、曹操や劉備が己の寿命を削りながら天下の覇権を巡って血反吐を吐いている一方で。
この極東の島国には、すべてを成し遂げ、一切のしがらみから解放された一人の老王が、この世の春とばかりに『最高に満ち足りた隠居生活』を、骨の髄まで満喫し尽くしているのであった。