大内裏での御前会議において、高句麗討伐への「二千の局地派兵」と「北方交易路の開拓」という国策が決定した直後。
大和国の軍事を司る『兵部省』は、ただちに猛烈な活気と緊張感に包まれていた。
「いいか! この度の遠征は、領土の拡大が目的ではない。大陸の最新の軍略と騎兵の戦術をその身で体験し、生きた戦訓(データ)を持ち帰るための極めて重要な実戦任務である!」
兵部卿の号令のもと、各部隊の指揮官たちが目まぐるしく動き回る。
現在、大和国が有する正規の常備軍は『十万』。巨大なシステムと徹底した兵站によって維持されているこの十万の中から、今回はわずか『二千』という極小の枠に絞って兵を選抜しなければならない。
選ばれるのは、大和軍の中でも特に技量と生存能力に長け、そして未知の戦場(極寒の北の大地と、大陸の騎兵戦)に対する適応力を持つ、文字通りの『精鋭中の精鋭』であった。
数日の厳しい選抜を経て、港に集結した二千の部隊の陣容は、大和国の兵器体系の「見本市」とも呼べる、極めてバランスの取れた、しかし殺傷力に特化した構成となっていた。
大盾兵(三百)および長槍歩兵(三百):
軍の最前列を担う『動く城壁』。巨大な鉄張りの大盾を構えて敵の突撃を受け止め、その隙間から長大な槍を突き出す。高句麗の誇る山岳騎兵の突進を、平地において完全に物理停止させるための「要(かなめ)」である。
弩兵(六百)および大弓兵(三百):
二千の陣容のうち、ほぼ半分を占める遠距離打撃力。圧倒的な貫通力と面制圧力を誇る弩(いしゆみ)兵が敵の装甲を撃ち抜き、大和特有の長大な和弓(大弓)を持つ部隊が、曲射による雨のような矢を敵の頭上に降らせる。
床弩兵(百):
攻城戦や対重装騎兵用に持ち込まれた、巨大な据え置き型の機械弓(バリスタ)。これを運用する技術兵たち。
重装弓騎兵(四百):
今回、兵部省が最も戦訓を得たいと望んでいる部隊。馬にも人にも鉄の甲冑を着せ、機動力と防御力を両立させた上で馬上から弓を射る。大陸の騎兵戦術に、大和の重装騎兵がどこまで通用するかを試すための「実験部隊」としての側面が強かった。
そして、これら二千の戦闘部隊を完璧に稼働させるため、広庭や久仁彦の算段によって極限まで効率化された『輜重隊』が後方に随伴する。
「船の準備は整ったか! 糧食は干し飯と塩漬けの肉、それに北の寒さに耐えるための酒を多めに積め!」
波止場では、精鋭二千と大量の物資、そして四百の軍馬を乗せるための大型輸送船団が、冬の気配が近づく北の海を渡るための出港準備を急ピッチで進めていた。
一方、その大和国の決定を、海を隔てた遼東の地で受け取った燕の君主・公孫康の反応は、極めて冷静かつ満足げなものであった。
「……ほう。大和国の派兵は、わずか『二千』か。それに加え、半島北部の領有を我らに認める代わりとして、『朝鮮東岸の海』における実質的な支配権と交易権を寄越せ、と」
公孫康は、大和国からの返書を読み、ニヤリと笑みを深めた。
「御館様。たった二千の援軍など、高句麗戦の足しにもなりません! その上、東の海を連中に勝手に支配されるなど、条件が悪すぎるのではありませぬか!?」
不満を露わにする重臣に対し、公孫康は首を横に振った。
「戦とは数だけではない。私が欲しかったのは、南部の覇者である大和国が『我ら燕に味方し、高句麗に刃を向けた』という、絶対的な【政治的事実】なのだ」
公孫康の狙いは明白であった。
大和国が数万の大軍を率いて半島北部へ上がってくれば、高句麗を滅ぼした後に今度は燕と大和が領土を巡って激突することになる。それは燕にとっても望まない泥沼である。
「たった二千の兵であれば、戦後に領土を奪われる心配もない。その上、大和国が東の海から圧力をかけてくれれば、高句麗は南と東にも兵を割かねばならず、完全に包囲されることになる。……海の支配権など、今の我らには不要なもの。安い代償で、背後の安全と完璧な包囲網が手に入ったのだ」
公孫康は、日本国の「戦訓を得て、海を支配する」という極めて実利的な思惑を正確に読み取り、互いの利益が完全に合致したことを確信した。彼は大和国へ深い感謝の使者を送ると同時に、自らの陣営の総力を挙げて行動を開始した。
「背後の憂いは完全に断たれた。これより、我ら燕の全兵力を以て、高句麗を物理的に粉砕する!」
西暦二百六年の秋深し。
公孫康は、王位継承戦争で国を二つに割って争っている高句麗の内部へと、凄まじい軍事的圧力をかけ始めた。
西からは、公孫康率いる燕の精鋭数万が国境を圧迫する。
そして南東の海からは、姿は見えずとも、半島南部を支配する大和国の精鋭二千が、不気味な沈黙と共に牙を研いで迫り来る。
「……高句麗の山上王よ。お前たちの兄弟喧嘩の隙を突き、我々が貴様らの国を終わらせてやろう」
中原の激動から遠く離れた極北の地で。
燕の野望と大和の算段が複雑に交差しながら、極東における新たな軍事バランスを決定づける『高句麗討伐戦』の幕が、いよいよ切って落とされようとしていた。
―――
西暦二百六年の初冬。
極東の情勢を決定づける高句麗の地は、凄まじい内乱によって、国そのものが真っ二つに引き裂かれていた。
事の発端は、先王の崩御に伴う王位継承問題である。
本来であれば、先王のすぐ下の弟である
「おのれ延優! そして于氏め! 長幼の序を無視し、正当な王位を簒奪するとは断じて許さん!!」
激怒した抜奇は、自らの支持者を集めて反乱を起こしたが、山上王が擁する首都・国内城の堅固な防りの前に敗北。
行き場を失った抜奇は、あろうことか一族の敵であるはずの遼東の公孫康の元へと逃げ込み、「どうか私に兵を貸していただきたい! 延優を討ち、私を王位に就けてくれれば、高句麗は燕に絶対の忠誠を誓おう!」と泣きついたのである。
公孫康にとって、これほど都合の良い展開はなかった。
「よかろう。正当なる王位継承者たる抜奇殿を、我ら燕の武力をもって玉座へ戻して差し上げよう」
かくして、高句麗の元王子・抜奇は、燕の軍勢と、そして背後から迫る『日本国』の精鋭と肩を並べ、自らの祖国へ刃を向ける先兵として機能することとなったのである。
高句麗の首都・国内城を巡る決戦において、両陣営の戦力は以下のように分断・集結していた。
【燕・抜奇・大和 連合軍:約四万二千】
燕(公孫康)本軍:三万
公孫康が派遣した遼東の精鋭。平地での機動力に優れる軽騎兵と、強固な重装歩兵からなる大陸の正規軍。
抜奇の反乱軍:一万
山上王に反発し、抜奇に従った高句麗の兵たち。山岳地形を知り尽くしているため、燕軍の道案内および『前衛(盾役)』として先頭に立たされる。
日本精鋭部隊:二千
兵部省から選抜された特務部隊。大盾・長槍歩兵、弩兵、重装弓騎兵など、大陸の戦術を打倒・分析することに特化した構成。彼らは燕本軍とは合流せず、東の海岸線から上陸し、東から首都を圧迫する別働隊として動いていた。
【高句麗防衛軍:約二万五千】
首都防衛軍:二万五千
山上王に忠誠を誓う高句麗の正規軍。総兵力では連合軍に劣るが、彼らにはそれを補って余りある二つの強みがあった。
一つは、高句麗の
そしてもう一つは、当時東アジア最強と謳われた、馬にも人にも分厚い鉄甲を纏わせた『重装鉄騎兵(総軍の約三千)』の存在である。
山上王は、この絶望的な防衛戦の総大将として、もう一人の弟であり、高句麗屈指の猛将である
いつ、どこで激突するか。
戦場に選ばれたのは、西暦二百六年の初冬。雪がちらつき始め、極寒の風が吹き荒れる『
―――
高句麗の首都・国内城は、鴨緑江の中流域、四方を険しい山々に囲まれた盆地に位置する天然の要塞である。
燕の三万の軍勢と抜奇の一万の反乱軍が国内城に迫るためには、どうしてもこの鴨緑江沿いの狭く険しい山道(渓谷)を行軍しなければならない。
「……燕の奴らめ。いかに数が多かろうと、この細い渓谷では大軍の利は活かせん。我が祖国の険しい山々が、奴らの墓標となるだろう」
高句麗の総大将・罽須は、凍てつく渓谷を見下ろす高台に陣を敷き、眼下を進軍してくる連合軍を冷徹に見下ろしていた。
罽須の作戦は明確である。
狭い渓谷に敵を誘い込み、前進も後退もできなくなったところで、高所から矢の雨を降らせる。そして、敵の陣形が崩れ、疲労の極みに達した瞬間に、温存しておいた伝家の宝刀『重装鉄騎兵』を斜面から一気に突撃させ、敵軍を物理的に粉砕するというものであった。
「抜奇の兄上……。異民族を祖国に引き入れ、玉座を欲したその罪、この罽須の鉄騎をもって雪いでご覧に入れましょう」
―――
一方、燕の本軍から遠く離れ、東の山腹(首都の側面)に陣を張っていた日本国の二千の精鋭部隊。
彼らは、高句麗軍と燕軍の主力同士が激突する鴨緑江の渓谷から、あえて少し距離を置いた『抜け道』のような高台に布陣していた。
「……見えますぞ。あれが、高句麗が誇る『鉄騎』。人と馬が、完全に鉄の鎧に覆われております」
凍てつく風の中、大和の指揮官は、眼下の谷底に隠されている高句麗軍の切り札を確認し、息を呑んだ。
「報告通りだ。中原の軽騎兵とはワケが違う。あれほどの鉄の塊が山を駆け下りて突撃してくれば、並の歩兵の陣など一瞬で紙くずのように吹き飛ぶだろう」
大和の部隊にとって、この戦いの最大の目的は「高句麗を滅ぼすこと」ではなく、「あの重装鉄騎兵の突撃を、日本の兵器体系でどうやって完全に停止させ、殺すか」という『生きた戦訓』を得ることである。
「各隊、配置に付け!」
指揮官の冷徹な命令が下る。
日本の二千の兵たちは、氷点下の寒さの中で微動だにせず、大盾を構え、巨大な床弩の弦を引き絞った。彼らの目には、恐怖も、そして高句麗や燕に対する憎しみもない。
ただ、目の前の敵を「解析すべき巨大な鉄の獣」として見据える、無機質で恐るべき猟師の目が光っていた。
鴨緑江を見下ろす高台の斜面にて。
燕と高句麗の主力軍が激突の時を迎えんとする中、日本国の重装弓騎兵たちは、冷たい風の中で静かに陣を整え、各々の乗騎に馬具と装甲を素早く結びつけていた。
高句麗の重装鉄騎兵が、人と馬の全身を分厚い『鉄の板と鎖』で覆っているのに対し、大和の重装騎馬の鎧は、まったく異なる思想と材質によって造り上げられていた。
鹿革をベースに、膠と麻紐で竹の小札を幾重にも編み込み、その表面を大和特有の『漆』で分厚く塗り固めたものである。
見た目こそ黒光りして重厚に見えるが、実際には鉄の鎧とは比較にならないほど『軽量』であった。
なぜ、彼らは鉄を使わなかったのか。
それは大和の軍事が弾き出した、極めて冷徹な「割り切り」の産物であった。
大和の誇る強弓の威力をもってすれば、いかに薄い鉄板を張ろうとも、至近距離から射抜かれれば容易く貫徹(かんてつ)されてしまう。ならば、機動力を殺してまで中途半端な鉄を着込む意味はない。
「至近距離での攻撃は機動力で躱し、装甲はあくまで遠距離からの矢を弾き落とすためだけのものと割り切る」
それが、軽量かつ強靭な漆塗りの竹甲冑を生み出した、大和国独自の合理的な兵器思想であった。
「……よし。漆のヒビもない。膠の締め具合も良好だ」
騎兵たちは、自らの相棒である馬の首元に軽く触れて落ち着かせながら、自らの武器の最終確認を行っていた。
手には、己の身の丈よりも遥かに長い、合成弓の極致とも言える『大弓』。そして腰には、反りの入った強靭な鋼の『太刀』が吊るされている。
彼らは大和の鍛冶技術と兵站の粋を集めたその武具を撫でながら、眼下の谷底に隠されている高句麗の切り札――重装鉄騎兵の陣容を、高台から冷ややかに観察していた。
「おい、見たかよ。あの高句麗の鉄騎兵を」
「ああ。馬の頭から尻まで、隙間なく鉄の鱗で覆ってやがる。乗り手の甲冑も合わせれば、とんでもない重量になるぞ」
大和の騎兵たちの間で、眼下の「鉄の塊」に対する率直な感想が交わされ始めた。
だが、彼らの口から出た言葉は、東アジア最強と謳われる鉄騎兵に対する『恐怖』でも『畏敬』でもなかった。
「……全くだ。高句麗の馬は、本当に可哀想にな」
一人の古参の騎兵が、深い溜息をつきながら呟いた。
「あの分厚い鉄の重さを背負わされたまま、この足場の悪い雪山の斜面を駆け下りるというのだろう? ただでさえ馬は繊細な生き物だ。あんな無茶な重量を背負わされれば、さぞかし息は上がり、足腰に凄まじい負担がかかっているはずだ」
「ああ。いくら名馬を揃えようと、あれではすぐに疲労困憊(ひろうこんぱい)だろう。馬の命を削って走らせるような、無骨で不格好な戦術だ」
日本の騎兵たちは、馬を単なる乗り物ではなく、己の命を預ける『相棒』として共に暮らしてきた者たちである。だからこそ、高句麗の重装鉄騎兵を見た彼らの第一印象は、敵に対する脅威ではなく、過積載で酷使される『敵の馬に対する強烈な同情』であった。
「……あれだけ重い甲冑を着せていれば、馬は方向転換すらまともにできまい。真っ直ぐ突っ込むことしかできない『哀れな鉄の猪』だ」
馬への哀れみと、冷徹な戦術的分析。
それらが頭の中で見事に合致した時、大和の重装弓騎兵たちは、ごく自然に『一つの結論(狩りの方法)』へと達した。
「つまり、俺たちが馬鹿正直に、あの分厚い鉄の装甲を正面から射抜いてやる必要はどこにもないということだ」
部隊を率いる指揮官が、大弓の弦をギリッと引き絞りながら、獰猛な猟師の笑みを浮かべた。
「あの鉄獣の最大の弱点は、過剰な重量を支え、今にも悲鳴を上げようとしている『馬の足腰』だ。……泥に足を取られた瞬間、あるいは斜面で体勢を崩した瞬間。そこを狙い、馬の脚と関節に矢を集中させろ」
「御意」
騎兵たちが、一斉に低く答える。
「自重を支えきれず、勝手につんのめって転倒すれば、あの鉄の塊は二度と起き上がることはできない。後は、落馬して身動きの取れなくなった乗り手の隙間を、太刀で貫いて楽にしてやればいい。……馬の足腰を突く。それが、あの哀れな鉄の獣に対する『最上の介錯』だ」
極東の島国からやってきた二千の精鋭たち。
彼らは、巨大な鉄の脅威を前にしても決して怯むことなく、己の軽量な漆の鎧と大弓の特性を完璧に理解し、敵の『物理的な限界』を的確に突くという、恐ろしくも理にかなった戦術を導き出していた。
鴨緑江の渓谷に、燕軍の鬨の声が響き渡る。
高句麗の重装鉄騎兵が、大地を揺るがして突撃を開始するその時を。大和の狩人たちは、漆黒の軽鎧に身を包み、弓に矢を番えたまま、冷酷な静寂をもって待ち構えていた。
―――
鴨緑江の渓谷を埋め尽くす、燕と高句麗反乱軍の連合大軍勢。
その中央に設営された燕の本陣、巨大な天幕の中には、燕の屈強な将軍たちに混じって、異質な空気を纏う数名の男たちの姿があった。
日本国から派遣された『連絡員(軍師)』たちである。
彼らは、独自の二千の精鋭部隊と燕軍本隊との間の意思疎通を図る連絡将校としての役割を担っていたが、同時に、燕の君主・公孫康から、ある種の『監視対象』としても扱われていた。
公孫康は、海を支配する未知の強国である大和国が、実際の戦場においてどのような軍略を用いるのか、強い興味と警戒を抱いていた。「大和の軍師がいかなる戦術を口にし、その二千がどう動くか、克明に記録して報告せよ」という密命が、燕の将軍たちには下されていたのである。
天幕の中央には、首都・国内城周辺の精巧な地形図が広げられていた。
「我が燕の基本方針は、圧倒的な数による『正面突破』である。
燕の将軍が、指揮棒で地図上の国内城を力強く叩き、力攻めによる短期決戦の基本戦術を説明した。
そして彼は、チラリと視線を横に向け、大和国の連絡員たちに向かって、わざとらしく、しかし強い興味本位を含んだ声で問いかけた。
「……さて。我々の戦い方は以上の通りだ。して、大和国の軍師殿。貴国が誇る精鋭『二千』は、この戦においてどのような奇手を使われるおつもりかな? 我らの側面に付き従うのか、それとも後方で高見の見物と洒落込むのか?」
天幕にいる燕の諸将の視線が、一斉に極東の軍師たちに注がれた。
燕の将軍たちの値踏みするような視線を受けながら。
大和の連絡員は、顔色一つ変えずに歩み出ると、燕の将軍が叩いた『国内城』から、さらに奥の山中にあるもう一つの城へと、スッと指を滑らせた。
「……燕の将軍閣下。お言葉ですが、高句麗軍は、その国内城では『決して決戦を行いません』」
「何だと?」
燕の将軍が眉をひそめる。
「我が大和国もまた、国土の大部分が峻険(な山々に覆われた『山岳の国』であります。故に、同じ山岳を領土とする高句麗の将が何を考え、どう動くか、手に取るように理解できるのです」
連絡員は、平地にある国内城と、背後の山岳地帯を指差しながら、理路整然と説明を始めた。
「彼らのような山の民にとって、平野部の城は平時の政務の場に過ぎず、大軍を迎え撃つ防衛拠点としては不適格です。
前哨戦が始まれば、高句麗軍は必ず国内城を早期に『放棄』し、軍と物資を背後の山岳要塞……すなわち『
丸都城。国内城の北に位置する、極めて険しい山城である。
山岳の防衛戦術において、平地で無駄な損害を出すことを避け、山に引き籠もって敵の兵糧が尽きるのを待つ長期間の『籠城戦・ゲリラ戦』に持ち込むことは、大和国の蝦夷討伐の歴史においても散々経験してきた、最も厄介で基本となる定石であった。
「高句麗軍が丸都城へ逃げ込み、長期の籠城戦になれば、遠征軍である燕の兵站は必ず疲弊します。……ですから、彼らに『山へ逃げ込む時間』を与えてはならないのです」
大和の連絡員は、極めて淡々とした声で、恐るべき布陣の種明かしをした。
「我が日本の二千の部隊は、すでに国内城から丸都城へと至る『撤退の退路のすぐ近く』に、先回りして布陣を終えております」
「な、何……!? いつからそこに!」
燕の将軍が、驚愕に目を見開いた。
「燕の本軍は、どうか予定通り、圧倒的な武威をもって国内城へ向けて正面から進軍してください。……その圧力に耐えかねた高句麗軍が、計画通りに丸都城へ撤退しようと後背を見せた瞬間。我ら大和の二千が、その退路を完全に塞ぎ、側面から強襲を掛けます」
それは、燕の数万の大軍を『ハンマー』とし、大和の二千の精鋭を『鉄床』に見立てて、逃げ場を失った高句麗軍をすり潰すという、極めて合理的で冷酷な『挟撃の策』であった。
「……なるほど。大和の軍師殿。貴国は初めから、高句麗の退路を断ち切るために別働隊として動いていたというわけか」
燕の将軍は、冷や汗を流しながら、この極東の島国から来た者たちの『地形と敵の心理を完全に読み切る算段の恐ろしさ』を、身をもって理解した。
公孫康への記録用として用意された竹簡には、「大和の戦術は極めて論理的であり、敵の思考を先読みして罠を張る山岳戦の玄人である」という一文が、震える筆跡で刻まれることとなる。
山岳国家同士の、盤面の読み合い。
燕軍の力押しという単純な戦術に、大和の緻密な『蓋(ふた)』が組み合わさった時。高句麗の総大将・
鴨緑江の渓谷地帯において、ついに両軍の激突を告げる凄まじい銅鑼と太鼓の音が響き渡った。
「進め! 数の利はこちらにある! 一気に押し潰せェッ!!」
燕の将軍の号令のもと、抜奇の反乱軍を前衛とした数万の歩兵が、谷を埋め尽くす怒涛の波となって高句麗軍の陣地へと押し寄せる。
高句麗軍もまた、地の利を活かして矢の雨を降らせ、岩を落として必死の防戦を試みるが、四万を超える連合軍の『絶対的な物量』の暴力の前に、前線の防衛線は徐々に削り取られ、後退を余儀なくされていた。
「……やはり、歩兵同士のぶつかり合いでは燕に分があるか。だが、我が祖国の山を容易く抜けると思うなよ!」
高句麗の総大将・罽須(けいしゅ)は、本陣から血みどろの激戦を見下ろしながら、自らの傍らに控える『最強の矛』へと右手を振り下ろした。
「出よ、鉄騎兵! 燕の雑兵どもを塵芥の如く踏み潰せ!!」
ゴゴゴゴゴゴ……ッ!!
大地の底から鳴り響くような重低音と共に、高句麗が誇る数千の『重装鉄騎兵』が、山の斜面から雪崩を打って燕軍の側面へと突撃を開始した。
馬の顔面から足元までを覆う分厚い鉄の鱗。乗り手もまた全身に重甲冑を纏った、完全なる『動く鉄の城』である。
「ひぃっ……!? て、鉄の化け物だァッ!」
圧倒的な重量と速度を持った鉄獣の群れが、燕の歩兵の陣列へと容赦なく激突する。
槍で突こうが刀で斬ろうが、分厚い鉄の装甲は火花を散らすだけで全く刃が通らない。燕の兵士たちは悲鳴を上げる間もなく、巨大な蹄と鉄の塊に跳ね飛ばされ、次々と無惨に蹂躙されていった。
「怯むな! 槍衾を作れ! 奴らを止めるのだ!」
燕の将校たちが怒号を飛ばし、自らの血と肉を削りながら、決死の防衛線を構築する。
数は燕が勝るが、高句麗の鉄騎兵による突撃の威力は凄まじく、燕軍に甚大な『出血』を強いるという、まさに地獄の様相を呈していた。
渓谷の最前線が、阿鼻叫喚の殺し合いに支配されていたその頃。
激戦地から少し離れた後方の山道では、高句麗の軍事計画の『要』とも言える重要な作業が、密かに、しかし大規模に行われていた。
「急げ! 前線が燕軍を引き付けている間に、国内城の兵糧と武具を、すべて山上の丸都城へと運び上げるのだ!」
高句麗の輜重隊である。
日本の連絡員が予見した通り、高句麗は平地にある国内城での決戦を放棄し、長期の籠城戦に備えて、膨大な物資と人員を堅固な山岳要塞である『丸都城』へと大急ぎで移送していたのである。
何百台という荷車に積まれた米、矢の束、そして武器。
それらが連なる輸送の列は、高句麗の生命線そのものであった。しかし、前線での激戦に戦力(特に精強な兵)を極限までつぎ込んでいたため、この長大な輜重隊を護衛する兵力は、極端に手薄な状態となっていた。
「前線からは、我が軍の鉄騎が燕軍を蹴散らしているという報告が来ている。安心しろ、この山道まで敵の刃が届くことはあり得ん!」
護衛の将は、油断しきった顔で部下たちを急かしていた。
――しかし。
彼らは知らなかった。自分たちの喉元に、極東の島国から来た『冷徹な猟犬たち』が、すでに牙を剥いて息を潜めていたことを。
「……獲物が列を成した。予定通り、退路を断ち切る」
国内城と丸都城を繋ぐ山道を見下ろす高台の茂みの中。
漆黒の軽鎧に身を包んだ大和国の重装弓騎兵たちが、大弓の弦を限界まで引き絞った。
「放てッ!!」
指揮官の冷酷な号令と共に、冬の空気を引き裂いて、何百という矢が空を覆い尽くした。
「なっ……!? ぐあああっ!!」
「敵襲!? どこからだ、ぐはっ!」
高台から降り注いだ大和の長弓の矢は、恐るべき威力をもって、無防備な高句麗の輸送兵たちを次々と貫き倒した。
しかし、大和軍の攻撃はそれだけでは終わらない。
「第一陣、突撃!!」
漆の装甲を纏った大和の重装弓騎兵四百が、山腹から猛烈な速度で『雪崩(なだれ)』のように山道へと突入したのである。彼らは上から精確な射撃を行い、逃げ惑う護衛の兵を太刀で一刀両断に斬り捨てていく。
「陣を組め! 迎撃しろ!」
生き残った高句麗の護衛兵が慌てて槍を構えるが、彼らの絶望はそこからが本番であった。
騎兵の強襲によって陣形を完全に破壊された彼らの目の前に、今度は『巨大な動く壁』が姿を現したのだ。
「前進――! 盾を構えよ!」
大和の『大盾・長槍歩兵』三百が、隙間なく巨大な鉄張りの盾を並べ、その間から無数の長槍を突き出しながら、地鳴りを立てて押し寄せてきたのである。
そして、その絶対的な盾の壁の後方からは。
「弩兵、射て!!」
ビュンッ!! ビュンッ!!
日本特有の機械弓と長弓から放たれる、凄まじい貫通力を持った矢の豪雨が、斜め上から絶え間なく降り注ぐ。
重装騎兵による強襲で陣を乱され。
大盾と槍の壁で物理的に押し潰され。
後方からの圧倒的な投射兵器によって面制圧される。
それらはすべて、大和国の兵部省が緻密に計算し尽くした『対歩兵・殲滅の基本』であった。
手薄な輜重隊に抵抗する術など残されているはずもなく、大混乱に陥った高句麗の輸送部隊は、文字通り瞬く間に『全滅』へと追いやられた。
一方、数キロ離れた前線の鴨緑江では。
高句麗の総大将・罽須や前線の兵士たちは、目前の燕軍との死闘が発する凄まじい怒号と殺鳴に気を取られ、自分たちの背後(生命線)が完全に壊滅したことに、誰一人として気が付いてはいなかった。
「……残敵の掃討、完了しました。逃亡者は皆無です」
血に染まった太刀を振り払い、大和の副将が短く報告を上げる。
「よし。ただちに次の段階へと移行する!」
日本の指揮官は、山道に延々と連なる、高句麗から分捕った無数の荷車と莫大な物資を見回した。
大和国からやってきた二千の精鋭部隊には、ただ敵を殺すだけではない、もう一つの恐るべき『軍事的役割』が与えられていた。すなわち、彼らは全員が兵站と土木作業に精通した『戦闘工兵』でもあったのだ。
「敵の荷車をすべて横倒しにしろ! 車輪を外し、それを土台として組み上げ、周囲の木を伐採して杭を打ち込め! 奪った土嚢と兵糧の袋で隙間を完全に塞げ!!」
「ははっ!!」
大和の兵士たちは、先程まで血なまぐさい殺戮を行っていたとは思えないほどの手際と組織力で、奪い取ったばかりの高句麗の物資を『建材』として転用し始めた。
それは、日本の最も得意とする『敵の資産を利用した、究極のコストダウン』であった。
倒された荷車が強固なバリケードとなり、木材と土嚢が瞬く間に厚い防壁を形成していく。
わずか数時間のうちに。
国内城から丸都城へと至るただ一本の生命線のど真ん中に、巨大な床弩を据え付けた、異形の『日本式の簡易砦』が完成してしまったのである。
「……これで『鉄床』は完成だ」
大和の指揮官は、完成した強固な砦の防壁を撫でながら、前線の鴨緑江の方向を冷ややかに見据えた。
燕軍との激戦の果てに。
いずれ高句麗軍は疲弊し、計画通りに丸都城へと撤退しようとするだろう。
しかし、彼らがボロボロになって背後を振り返った時、そこにあるはずの『安全な逃げ道』は存在しない。代わりに彼らを待ち受けているのは、奪った自国の兵糧で腹を満たし、無傷のまま矢を番えて待ち構える、極東の二千の精鋭が籠る『絶望の砦』なのだ。
鴨緑江の渓谷で燕の主力軍に十分な出血を強いたと判断した高句麗の君主・山上は、ついに冷徹なる次の一手を下した。
「もはや平地での防衛は不要。これより全軍を退かせ、難攻不落の山岳要塞・丸都城へと入城する!」
山上王の指揮のもと、高句麗の主力軍は国内城をあっさりと放棄し、わずかな殿だけを残して、背後の山道へと悠々と軍を引き返し始めた。
彼らの顔に敗北の悲壮感はない。むしろ、「燕の馬鹿どもを雪深い山中へと誘い込み、兵糧攻めにしてやる」という、山岳民族特有のサディスティックな優越感すら漂っていた。事前に大量の兵站を丸都城へ移送させておいたことも、彼らの余裕を裏打ちしていた。
だが、山上王はまだ気づいていなかった。
自らの完璧な撤退計画を支えるはずの『兵站という名の歯車』が、すでに極東の猟犬たちによって完全に粉砕されていたという事実に。
「……陛下! 前方の山道に、見たこともない『砦』が築かれています!!」
丸都城へと続く細い山道を登っていた前衛部隊が、血相を変えて山上王の本陣へと駆け戻ってきた。
「砦だと? 莫迦な、我らの補給路のど真ん中ではないか。いつの間に誰がそんなものを……っ!?」
山上王が自ら馬を進め、前方の視界が開けた瞬間。彼の心臓は、氷を押し付けられたかのように激しく縮み上がった。
つい先日まで何の手付かずだった一本道の真ん中に、自軍の荷車を横倒しにし、丸太と土嚢を複雑に組み上げた『異形の砦』が、まるで巨大な栓のように山道を完全に塞いでいたのである。
そして、その砦の上に翻(ひるがえ)っているのは、燕の旗ではない。
海を隔てた遥か彼方、半島南部に不気味な勢力を張り巡らせている極東の島国――『倭人』の軍旗であった。
「な、ぜだ……。なぜ、南の海にいるはずの倭人の軍隊が、我らの背後にいる!?」
愕然とする山上王の脳裏を、ある一つの致命的な事実が稲妻のように駆け巡った。
前方には、逃げ道を塞ぐ未知の倭人の砦。
後方には、今まさに追撃の足音を響かせている数万の燕軍。
左右は、冬の雪に閉ざされた切り立った崖と峻険な山脈。
(我々は……燕を誘い込んでいたのではない最初から、完全に『袋の鼠』にされていたのだ……!!)
「落とせェッ!! 何としてもあの砦を打ち砕き、丸都城への道をこじ開けろォッ!!」
生き残るための唯一の道は、前方の倭人の砦を踏み潰すことのみ。山上王は、顔面を蒼白にしながら、数万の高句麗軍に絶叫とも呼べる突撃命令を下した。
だが、それこそが日本国の『戦闘工兵』が最も得意とする土俵であった。
日本国が築き上げる野戦砦の恐ろしさは、恒久的な巨大城郭ではなく、「少数の人間で十倍の敵を相手取り、ひと月(短期)であれば絶対に落ちない」という、極限まで計算され尽くした『短期的な堅牢さ』にある。
狭い山道という地形を利用し、敵の正面突破しか許さない構造。
高句麗軍が怒涛のように押し寄せても、砦の隙間からは大盾と長槍による無慈悲な刺突が命を刈り取り、高台からは弩と長弓が、十字砲火の死角なき弾幕を形成する。
「ぐあああっ! 矢が、見えないところから……っ!」
「怯むな! 相手はたかだか数千、数で押し潰――ぎゃああっ!」
死体が山となっても、砦はビクともしない。
大和の二千の精鋭は、感情を完全に排した機械のように、ただ淡々と接近する敵を処理していく。彼らにとってこの防衛戦は、大陸の山岳兵の突撃力と士気の限界を測るための、冷徹な『データ収集作業』に過ぎなかったのである。
砦の前で高句麗軍が虚しく血を流し、貴重な時間をすり減らしていたその背後で。
ついに『最悪の絶望』の足音が、地鳴りとなって押し寄せてきた。
「……後方に敵影!! 燕軍です!! 国内城を抜けた燕の主力数万が、我々の背後に迫っています!!」
国内城には、山上王の命令でごく少数の殿しか残されていなかった。当然、城の防衛力は無きに等しく、公孫康率いる燕の大軍は、何の苦労もなく国内城を占拠。そのまま雪崩を打って山道へと突入してきたのである。
これこそが、大和の連絡員が燕の陣幕で口にした『鉄床戦術』の完成であった。
逃げ場を失った二万の高句麗軍。
彼らの前門には、大和の二千の精鋭が築き上げた『絶対に抜けない鉄の盾(砦)』。
そして後門には、公孫康が率いる『数万の分厚い槍』。
「殺せ! 一人も逃すな! 高句麗の息の根をここで完全に止めるのだ!!」
燕軍が、背後を見せている高句麗軍の無防備な背中へと、容赦なく襲い掛かる。
「ぎぃやあああああっ!!」
「助けてくれ! 後ろから、前からも……っ! どこへ逃げればいいんだ!!」
そこから先の光景は、戦いと呼ぶことすらおこがましい、ただの『悲惨な大虐殺』であった。
密集した山道で前後から完全に挟み撃ちにされた高句麗軍は、陣形を展開することもできず、同士討ちと恐慌状態に陥りながら、ただすり潰されていくしかなかった。
誇り高き鉄騎兵も、機動力を失った狭い山道ではただの鉄の棺桶と化し、燕の槍と大和の矢の前に無惨に引き剥がされていく。
「……おお、先祖よ。我ら高句麗の栄光が……こんな、得体の知れぬ罠の中で……っ」
血と臓物が雪を赤く染め上げる地獄の底で。山上王は、四方から降り注ぐ矢の雨を浴びながら、絶望の涙と共に己の王国の終焉を悟った。
日本国の冷徹なる算段と、燕の圧倒的な武力が見事に噛み合ったこの『丸都城防衛戦』により。北方の強国であった高句麗の主力軍は、文字通り地図上から「すり潰される」という、あまりにも凄惨で無慈悲な結末を迎えることとなったのである。