急 終
西暦二百六年の冬。
中原の覇王・曹操が居を構える許昌の宮廷に、遥か北東の遼東から、高句麗討伐に関する報告書が届けられた。
「……公孫康が、高句麗の主力軍を粉砕し、首都を陥落させただと?」
玉座で竹簡を読み下す曹操の顔には、喜怒哀楽のいずれともつかぬ、極めて険しい皺が刻まれていた。
公孫康が王位継承の乱に乗じて高句麗を討つこと自体は、曹操の予測の範囲内である。曹操が不可解に感じたのは、その『異常に早すぎる決着』と、報告書の末尾に添えられた曖昧な一文であった。
『……此度の戦勝、海より来たりし倭の軍勢二千の奇策に負うところ大なり。奴ら、高句麗が丸都城に籠る前に、奇妙なる手立てをもって敵の退路を断ち、これを一網打尽にせり』
「二千、だと?」
曹操は、竹簡を卓に放り投げた。
「高句麗の軍は二万を超えていたはずだ。いかに燕の数万が正面から圧をかけていたとはいえ、たった二千の別働隊が、地の利を知り尽くした山の民の退路を完全に塞ぎ、一網打尽にするなど物理的に不可能だ。……荀彧、郭嘉。お前たちはこの『奇策』の正体が何だと見る?」
曹操の呼びかけに、中原最高峰の頭脳を誇る軍師たちが顔を見合わせた。
「……奇襲による足止め、でしょうか。しかし、死に物狂いで退却する二万の軍を二千で塞げば、一瞬で踏み潰されます」
荀彧が、顎に手を当てて首を傾げる。
「夜襲で火を放ち、混乱させたか。あるいは山道を崩して物理的に塞いだか。……いずれにせよ、公孫康がわざわざ『奇妙なる手立て』とぼかして報告してくるあたり、よほど我々の常識から外れた戦術だったと推測されます」
郭嘉もまた、情報の少なさに結論を出せずにいた。
「ええい、机上の空論を並べても埒が明かん!」
曹操は苛立たしげに手を振り、一人の男を御前へと進み出させた。
「班稀よ。かつてあの得体の知れない島国へ渡り、奴らの内情をその目で見てきたお前ならば、この不可解な戦術の正体が分かるのではないか?」
中原における兵站と算段の最高責任者である班稀。
彼は、曹操の問いに対し、表情一つ変えずに一礼すると、卓の上の地図を見下ろした。
「……報告書の行間と、私が彼の国で見た『絶対的な合理性』から推測するに。……倭の軍勢は、決して自らの血肉を壁にして敵を塞いだのではありません」
班稀は、国内城から丸都城へと続く山道を指でなぞった。
「奴らは、高句麗軍が平地を放棄し、山へ逃げ込むことを完全に先読みしていた。そして、敵が撤退を開始する前に退路へと先回りし……そこで、敵の輜重を奪い、それを建材として『強固な砦』を瞬時に築き上げたのです」
「……なっ!? 敵の兵糧で、砦を築くだと?」
周囲の軍師たちが、驚愕に息を呑んだ。
「はい。木材や土嚢だけでなく、横倒しにした荷車や米俵のすべてを『壁』として転用する。それならば、わずか二千の兵でも、狭い山道を完全に塞ぐ要塞を数時間で構築できます。……敵の退路を物理的に遮断し、前方の燕軍と挟み撃ちにしてすり潰す。完全なる『鉄床戦術』です」
班稀の冷徹な解説に、軍議の場は水を打ったような静寂に包まれた。
現場の兵士が臨機応変に防壁を作ることはある。だが、それを国家の正規の『戦術』として最初から組み込み、敵の資産を利用して城を建てるという、あまりにも冷酷でシステマチックな発想。
「……恐ろしい連中だ。戦場を、ただの土木作業と数字の計算のように処理している」
郭嘉が、冷や汗を拭いながら呟いた。
「殿、そして諸将の皆様。……以前、殿にはお話ししたことがありますが、この機に、皆様にも改めてお伝えしておくべき事実がございます」
班稀は、曹操に向かって深く一礼した後、周囲の軍師たちを見回した。
「私がかつて、倭国の都である大内裏を訪れた時のことです。私は彼らの首脳陣から、国家の中枢にある『巨大な蔵書庫(図書館)』への立ち入りを許されました」
班稀の目が、当時の圧倒的な光景を思い出し、微かに熱を帯びる。
「そこには、大和国の歴史や算段だけでなく……我が中原から流出したであろう、莫大な量の書物が収められていました。しかも、です。その中には、現在の漢の宮廷の書庫にすら残っていない、遥かに古い言い回し(古代文字)で記された『兵法書』が、無数に存在していたのです」
「漢の書庫にもない、古代の兵法書だと……?」
荀彧が、信じられないというように目を見開いた。
度重なる戦乱や、かつての秦の始皇帝による焚書坑儒によって、中原ではすでに多くの歴史書や兵法書が『失伝』している。
だが、海によって外界の戦乱から隔絶され、独自の巨大なシステムを維持してきた極東の島国には、はるか昔に渡来人たちが持ち込んだ『失われた古代の叡智』が、灰にならずに手付かずのまま保存されていたのである。
「……恥ずかしながら」
班稀は、自嘲するように少しだけ目を伏せた。
「当時の私は、ただ数字と兵站を弾き出すだけの『単なる文官』に過ぎませんでした。古代の言い回しが難解であったこともあり、そこに記されていた失伝した兵法の『真の恐ろしさ』を、深くは理解できていなかったのです」
班稀は、顔を上げ、曹操を真っ直ぐに見据えた。
「しかし、今の高句麗の戦果を聞き、点と点が完全に繋がりました。……孫子や呉子といった、我々が日常的に用いている兵法は、長年の群雄たちの独自の解釈や、属人的な『勘』が混ざり込んでしまっている。……ですが、倭国は違います」
班稀の言葉は、許昌の冷たい空気をさらに凍てつかせた。
「彼らは、あの蔵書に眠る純粋な古代の兵法を、一切の感情や英雄気取りを排し、ただひたすらに『算段と数字』として現代の軍隊に落とし込んでいるのです。
一人の天才の閃きに頼るのではなく、将から末端の兵に至るまで、すべての軍が『理』の通りに動き、理の通りに城を建て、理の通りに敵を殺す」
大和国の戦術は、決して彼らが独自に生み出した奇を
それは、かつて中原の古代の賢人たちが思い描きながらも、人間の感情や欲によって実現できなかった『究極の合理戦争』を、極東の島国が数百年かけて培養し、完成させた姿だったのである。
「……」
曹操は、何も言わずにただ玉座の肘掛けを強く握りしめていた。
南の劉備が伏龍・鳳雛を得て巨大な龍へと化けたことすら、中原の覇権争いの枠内に収まる『人の業』である。
だが、あの東の海に鎮座する得体の知れない帝国は、中原がとうの昔に失った古代の真理を飲み込み、完全に血の通っていない『怪物』として、確実に対岸へとその冷たい牙を剥き始めていた。
班稀が語った『極東の島国は、中原が失伝した古代の純粋兵法をシステムとして運用している』というあまりにも常軌を逸した推論に、集まった中原の天才たちは、深い沈黙と共に「半信半疑」の表情を浮かべていた。
「……班稀殿の推測は、筋が通っています。ですが」
郭嘉が、腕を組みながら静かに口を開いた。
「国というものは、結局のところ『人』の集まりです。将には功名心があり、兵には恐怖や欲望がある。それら人間の業を完全に切り捨てて、ただ古代の兵法書通りに動く『無機質な軍隊』など、本当にこの世に存在するのでしょうか? いささか、あの島国を過大評価しすぎでは……」
郭嘉や荀彧といった錚々たる知恵者たちにとって、班稀の言葉は理屈としては理解できても、彼らがこれまで見てきた人間の血生臭い歴史とはあまりにもかけ離れており、にわかには信じがたいものであった。
だが。
「――いや。班稀の言う通りだ。あの国は、我々の常識で測れるような相手ではない」
彼らの疑念を断ち切ったのは、玉座に深く沈み込んでいた覇王・曹操の、ひどく重く、確信に満ちた低い声であった。
曹操は、ゆっくりと懐に手を入れると、大切に布で包まれた『ある一つの品』を取り出し、卓の上へと静かに置いた。
「……殿、それは?」
荀彧が目を細める。
曹操が取り出したのは、鈍い光を放つ、奇妙な形をした一つの石であった。
まるで『魂の形』を象ったかのように、滑らかな曲線を描いて先端が細く尖り、上部には紐を通すための精巧な穴が穿たれている。
一見すると中原の玉にも似ているが、その硬度と深い色合いは明らかに異なり、底知れぬ妖しい魅力を放っていた。極東の島国で『勾玉』と呼ばれる装身具である。
「これは、かつてあの島国からやってきた使者たちが、買付の代金の代わりとして、洛陽の都に置いていったものだ」
曹操は、その魂の石を指の腹で静かに撫でた。
『日出処の天子、書を日没する処の天子に致す――』
かつて、当時の幽帝が治めていた大漢帝国の宮廷に、突如として届けられたあの傲慢極まりない国書。
この勾玉は、その書をもたらした得体の知れない異国の者たちが、中原の物資を買い漁るために残していった『莫大な富』の一つであった。
曹操の脳裏に、数十年も前の、血生臭い若き日の記憶が蘇る。
当時、中原は『黄巾の乱』という未曾有の大反乱の炎に包まれていた。
曹操もまた、大漢帝国の将として、泥まみれになりながら黄巾賊の討伐のために戦野を駆け回っていた時期である。
そんな最中、彼の陣幕に「洛陽の宮廷に、東の果ての海を越えてきた無礼な使者が現れ、途方もない硬度の石と引き換えに物資を買い漁っている」という信じがたい報せが届いたのだ。
『……なんだと? 大漢帝国が反乱で揺れているこの隙を突き、海を越えて富を貪る者がいるというのか』
当時の若き曹操は、本能的な『悪寒』を感じ取った。
彼は、黄巾賊の残敵掃討という重要な任務を部下の夏侯惇たちに丸投げすると、単騎で血眼になって洛陽の都へと馬を飛ばしたのである。
己の出世や目先の軍功よりも、一刻も早く、この『東の異物』の正体を自分自身の目で確かめなければならないという、覇王としての恐るべき直感が彼を突き動かしていた。
だが、曹操が洛陽に辿り着いた時、すでに使者たちの姿はなかった。残されていたのは、彼らが取引で置いていった、この『魂を象った石』だけであった。
「その時、私は洛陽にいた我が父の元へ、この石を持ち込んだのだ」
曹操は、卓の上の勾玉を見つめながら、懐かしさと畏怖の混じった声で語り続けた。
曹操の父である曹嵩は、莫大な財力を背景に大尉にまで上り詰めた男である。武の才はなかったが、物の価値を見極める算段と審美眼においては、天下に並ぶ者がいないほどの「実利の亡者」であった。
『……孟徳よ。お前はこれが、ただの珍しい石ころに見えるか?』
父・曹嵩は、その石を日に透かしながら、震える声で若き曹操に問いかけた。
『違う。……この石は、我が中原のいかなる名工の刃(小刀)でも、決して傷一つつかぬほどの「異常な硬度」を持っている。それを、これほどまでに滑らかな魂の形に削り出し、真っ直ぐに穴を開けるなど……我が国には存在しない、未知の研磨技術と途方もない労力が必要なのだ』
曹嵩の言葉は、曹操の背筋を凍らせた。
『こんな恐ろしい技術の結晶を、ただの「買い物の代金」としてポンと置いていく国が、東の海にあるのだ。……孟徳。あの島国には、我々の想像を絶する富と、人を人とも思わぬ冷徹な技術が根付いている。決して、侮ってはならんぞ』
曹操が自らの目で確かめ、そして父・曹嵩がその審美眼で『絶対的な脅威』として見定めた、東の帝国の遺物。
「……郭嘉よ。荀彧よ」
曹操は、勾玉を懐へと丁寧にしまい直すと、歴戦の軍師たちを鋭い眼光で射抜いた。
「班稀の言葉は、妄想でも誇張でもない。この石一つを取っても、奴らが我々の常識の外側にある『完全な計算と技術の怪物』であることは証明されている。……高句麗は、数で負けたのではない。」
許昌の宮廷は、もはや誰も班稀の言葉を疑う者はいなかった。
中原の覇権を握ろうとする曹操陣営の首脳陣は、この時初めて、海を越えた遥か東方に潜む『日本国』という存在を、単なる異民族ではなく、自分たちの存亡を脅かしかねない『真なる同格の怪物』として、深く脳裏に刻み込むこととなった。
―――
長江の河口から少し南に下った地に位置する呉の港町・杭州は、かつてないほどの凄まじい活気と熱狂に包まれていた。
この港が急速に発展を遂げている最大の理由は、海を隔てた東の巨大な島国――日本国との『公式な交易』が本格化し始めたためである。
日本国の商船団は、卓越した航海術を駆使し、台湾の裏側(太平洋岸の宜蘭・ぎらん周辺)から黒潮の激しい海流に逆らって日本列島を行き来するという、中原の常識では考えられない過酷な外洋航路を開拓していた。
そして彼らは、南方(東南アジア方面)からの珍しい香木や香辛料、琉球(りゅうきゅう)の真珠などを運ぶための『巨大な中継貿易拠点』として、この呉の杭州を大いに利用し始めたのである。
「おおっ! 今日も大和の巨大な船が入ってきたぞ!」
「絹と陶磁器を用意しろ! 奴らは南方からの珍品を山のように積んでいる、言い値で買い取れ!」
杭州の港には、呉の商人だけでなく、遠く交州や長江中流域からも一攫千金を狙う者たちが殺到していた。
大和国がもたらす未知の富と、彼らが持ち込む『精巧な鉄器』や『美しい漆器』は飛ぶように売れ、粗末な漁村に過ぎなかった杭州は、いよいよもって巨大な経済を回す『都市』としての体裁を整え始めていた。
そんな活気に沸く杭州の港で、ある日、ちょっとし「お祭り騒ぎ」が起きた。
港を仕切る呉の商人たちが、大和国の公式な商船団から積み荷を買い付けようとした時のことである。大和の商人たちが提示してきた卸値(おろしね)が、普段よりも『わずかに安く(割引されて)』設定されていたのだ。
「……日本の旦那。こりゃあ、どういう風の吹き回しだい? あんたたちが、理由もなく値を下げるなんて珍しいじゃないか」
呉の商人が、胡散臭そうに、しかし喜びを隠しきれない顔で尋ねた。
日本の商人(実態は日本国の特務官僚)は、柔和な笑みを浮かべて、極めてあっさりとこう答えたのである。
『ああ、実はおめでたいことがありましてね。我が大和国が、北の燕国と共に、高句麗という国を征伐することに見事成功したのです。……今日はその戦勝祝いとして、特別に安くさせていただいております。ささ、遠慮なく買っていってください』
「高句麗の征伐の、戦勝祝い……?」
呉の商人たちは顔を見合わせた。
彼らにとって、高句麗という国は遥か北方の果ての出来事であり、自分たちの商売には全く関係のない話である。「よく分からんが、安くなるなら大歓迎だ!」と、彼らは大喜びで大和の物資を買い漁った。
しかし。
この『祝賀の値下げ』という名目でばら撒かれた情報(事実)は、港に潜む呉の密偵たちを通じて、すぐさま江東の首脳陣がいる柴桑(さいそう)の宮廷へと届けられることとなる。
それは、大和国が意図して呉の首脳陣へと叩きつけた、極めて洗練された『心理的な脅威』であった。
「……日本の商船が、高句麗征伐の戦勝祝いで積み荷を値引きして売っている、だと?」
柴桑の宮廷にて。
報告を受けた若き呉の主・孫権(そんけん)は、手元の竹簡を訝しげに見つめ、首を傾げた。
孫権は現在、山岳地帯で反乱を繰り返す山越の鎮圧と、江東内部の地盤固めに忙殺されている。彼にとっての脅威は北の曹操と西の劉備あり、それよりさらに遥か北方に位置する国のことなど、知識としては知っていても、実感としては全く湧かなかったのである。
「公瑾よ。その『高句麗』という国は、果たしてどのような相手なのだ? 我ら江東の山越のように、毛皮を着た未開の蛮族の集まりか?」
孫権が、隣に控える美貌の軍師・周瑜に問いかけた。
「日本国がそのような蛮族の村を一つ二つ焼き払ったからといって、なぜわざわざ我が国との交易で値引きまでして『戦勝』をひけらかす必要があるのだ? 意図が読めん」
しかし、孫権のその軽い問いに対し。
周瑜の美しい顔は、まるで幽鬼を見たかのように青ざめ、その双眸には隠しきれない『深い戦慄』が宿っていた。
「……我が君。高句麗は、決して未開の蛮族などではありません。我が国の山越などとは、比較するのも烏滸がましいほどの……凶悪極まりない、超軍事国家です」
周瑜は、乾いた唇を舐め、絞り出すような声で語り始めた。
「彼らは峻険な山岳地帯に巨大な石の城壁を築き、あの強大だった前漢の帝国軍ですら、完全な征服を諦めたほどの絶対的な防衛力を誇ります。さらに……彼らが擁しているのは、人と馬を分厚い鉄の鱗で覆った『重装鉄騎兵』。中原の平野部ですら無類の強さを誇る、大陸最強の物理的な暴力の塊です」
「て、鉄騎兵だと? あの山の中に引き籠もっている連中が、そのような高度な武力を持っているというのか?」
孫権の顔色が変わった。
「はい。曹操ですら、容易には手を出せぬほどの軍事力です。……それを、大和国は『燕と共に征伐した』と言い放ち、あまつさえ南方の我々に対して『戦勝祝い』などというふざけた理由で、商売の値引きをしているのです」
周瑜は、ギリッと血が滲むほどに奥歯を噛み締めた。
大和国がこの『値下げ』を通して、呉に対して何を突きつけてきたのか。天才である周瑜には、痛いほどによく分かっていた。
「我が君。大和国という怪物の恐ろしさは、武力そのものだけではありません。彼らは今……遥か北の極寒の地で、鉄騎兵を擁する高句麗を相手に大戦争を行いながら。同時に、真逆の南方である我々の杭州に巨大な商船団を送り込み、余裕の笑みで値引きをするほどの『圧倒的な兵站』を持っているということです」
「なっ……!?」
孫権は、雷に打たれたように玉座から腰を浮かせた。
戦争とは、国家の血肉を削る行為である。北で大軍を動かしていれば、通常、南での経済活動は停滞するか、物資が不足して価格が高騰するはずなのだ。
それを、大和国は『値下げ』した。
それはすなわち、我日本国にとって、大陸最強の鉄騎兵を滅ぼす遠征など、国庫の端金を払う程度の『ちょっとしたお出かけ』に過ぎない」という、絶望的なほどの国力の差を見せつけるための、最高に洗練された『威圧』であった。
「……背筋が凍ります。あの東の島国は、我々が山越の反乱一つに四苦八苦している間に、すでに大陸の北と南を同時に鷲掴みにできるほどの、途方もない『算段の帝国』へと進化しているのです。」
江東の虎と若き天才軍師は、海を越えて届いた『祝賀の値下げ』という名の刃を喉元に突きつけられ、自分たちが想像を絶する巨大なシステム(怪物)と同じ盤面に立たされているという現実に、ただただ冷たい汗を流すことしかできなかった。
―――
劉備が驚異的な速度で荊州を平定してから、数ヶ月。
戦火の爪痕も癒え、新たな活気を取り戻しつつある江陵の巨大な商館にて、比企景明は一人、山のように積まれた品々を鋭い目で品定めしていた。
劉備軍の兵站と裏の工作をすべて取り仕切る彼が、わざわざ自ら市井の商館へ足を運んでいるのには、極めて私的で、しかし彼にとっては軍事にも勝る重要な理由があった。
「……肉を受け付けない、か。あれほど
景明は、独り言のように小さく呟いた。
最近、彼のパートナーであり、戦場では鬼神の如き強さを誇る并州騎兵の長・呂綏の具合が、どうにも良くないのだ。
熱があるわけでも、傷を負ったわけでもない。ただ、常に気だるげであり、普段ならば山盛りの肉を平らげる彼女が、「脂っこいものは見たくもない。妙に、酸っぱいものが食べたい。柑橘系の果実がいい」と、柄にもなく力ない声で要求してきたのである。
(身体の変調……。まあ、理由は推して知るべし、か)
景明は、口元に微かな笑みを浮かべた。
戦場を駆ける修羅であろうと、人の子を身に宿せば母体は変化する。
彼女のその「妙な偏食と体調不良」を前にして、景明の『完璧な兵站管理』の対象は、軍の十万の兵糧から「一人の女将の胃袋」へと完全に切り替わっていた。
「その辺の酸っぱいだけの果実を食わせるわけにはいかない。滋養に効き、なおかつ極上のものを厳選してやらねばな」
景明が足を運んだのは、商館の中でも最も奥まった、特別に高価な品が取引される区画であった。
そこには、景明が構築した『辰砂売りの一団』とは別の、見慣れぬ商人たちが店を広げていた。長江の河口、はるか東の海を越えて『日本国』からやってきた商人たちである。
「……いらっしゃいませ。旦那、お目が高い。これらはすべて、東の海の果てより運び込んだ極上の品でさぁ」
大和の商人たちは、愛想笑いを浮かべながらも、目の前に立つ景明という男に対して、内心で『強烈な警戒と違和感』を抱いていた。
(……この男、何者だ? 着ている服は上等な漢の絹だが、立ち振る舞いや歩き方の重心が、漢の人間(中原の者)とは全く違う。それに、品物を検める時のあの手つき……まるで、我々の国の『役人』のようだ)
大和の商人たちは、景明から放たれる隠しきれない「同郷」の匂いを敏感に感じ取っていた。
しかし、彼らもまた算段で動く商人である。『この男、漢の人間ではないかもしれないが……深く触れないでおこう。金払いの良い上客であることには変わりない』と、互いに素性を探り合うような野暮な真似は避け、あくまで特上の客として丁重に扱った。
「頼んでおいた例の品。……届いているか?」
景明が、懐から純度の高い銀の粒を卓に置くと、商人たちの顔がパッと明るくなった。
「へえ、お待ちしておりました! ご所望の品、確かに取り寄せましたぜ!」
商人たちが恭しく桐の箱を開けると、そこには鮮やかな橙色をした、乾燥した果実が美しく並べられていた。
「大和国より取り寄せました、『橘』の乾燥の実にございます。中原の柑橘よりも小ぶりですが、その分、香りと酸味がギュッと凝縮されており、古くから不老長寿の霊薬としても珍重されている極上の品です」
景明は、一つ手に取り、香りを嗅いだ。
爽やかな、それでいて頭の芯がすっきりとするような強烈な柑橘の香りが鼻を抜ける。
「……悪くない。これならば、今のあいつの胃の腑にも収まるだろう」
景明は満足げに頷いた。
「それと、もう一つ。特別注文の品でさぁ」
商人が奥から運び出してきたのは、土の入った大きな鉢に植えられた『橘の苗木』であった。
乾燥した実だけでは、いずれ食べ尽くしてしまう。景明は、荊州の気候ならば柑橘類が育つと計算し、大和から生きた苗木ごと取り寄せたのである。
「根を傷めずによく運んでくれた。これなら、屋敷の庭に植えれば数年後には実をつけるだろう」
(……数年後には、親になった呂綏と、俺の子供が、庭でこの実をもいで食うことになるわけだ)
景明の脳裏に、戦場からは最も遠い、ひどく平和で温かな算段が思い浮かんでいた。
景明が、橘の箱と苗木を受け取り、商館を後にしようとした時のことである。
「いやあ、旦那には特別に安くしておきやしたよ。何せ、我らの国にとっても、今はちょっとした『お祝い事』の最中なものでしてね」
大和の商人が、銀の粒を数えながら上機嫌で口を滑らせた。
「……祝い事、だと?」
景明の足が止まる。大和国の祝い事など、中原の人間には本来関係のない話である。
「へえ。実は先日、我が日本が、北の燕という国と共に、高句麗という国を攻め滅ぼしましてね。……いやはや、これで朝鮮半島は、北は燕、南と東の海は我が国という形で、スッキリと縄張りが確立されたってわけですわ。商売の道も広がるってもんで!」
「――高句麗が、滅びただと?」
景明の目が、一瞬にして見開かれた。
先程まで、呂綏の体調や橘の栽培について考えていた「良き夫」としての顔は完全に消え失せ、彼の瞳に、かつて大和国を裏から操っていた『最高峰の戦略家』としての冷徹な光が宿った。
(……燕と大和が組んだ? いや、公孫康が持ちかけ、大和がそれに乗る形で『戦訓』と『北の海の支配権』を掠め取ったと見るべきか。あの広庭や和那比売が、ただ働きをするはずがない)
景明の脳内に、巨大な東アジアの地図がパッと広がる。
そして、その地図の北東部分にあった「高句麗」という巨大な壁がボロボロと崩れ落ち、代わりに「燕の領土」と「大和国の強固な海洋支配権」という新たな境界線が、鮮明な色をもって『書き換えられていく』のが見えた。
(……中原の覇者たちが身内の縄張り争いに夢中になっている隙に、背後の巨大な火種を消し去り、極東の絶対防衛線を完全に確立させたか)
あの国にはもう自分はいない。
だが、自分も基礎の一つとなった『大和の構造』は、自分が去った後も狂うことなく機能し続け、むしろ次世代の若者たちの手によって、さらに恐ろしい怪物へと成長しているのだ。
「……ふっ」
景明は、橘の苗木を抱えたまま、誰にともなく短く笑い声を漏らした。
「どうやら、俺の教え子たちは、俺が思っていた以上に優秀に育っているらしい。……曹操も、うかうかしてはいられんぞ」
極上の橘の香りが漂う荊州の空の下。
一人の中年男の脳内だけで、中原のいかなる天才軍師たちよりも早く、極東の地政学がもたらす『来るべき世界の形』が、完全にアップデートされた瞬間であった。