西暦二百六年の冬も終わりに近づき、中原に春の気配が漂い始めた頃。
許昌の宮廷において、天下の覇権を握る曹操は、ついに長江流域――すなわち南方の『荊州』へ向けた、大規模な軍事侵攻の決断を下した。
その引き金となったのは、病床にあった荊州の長・劉表の正式な『死』の報せと、長男の劉琦後継者として「荊州牧」の座に就いたという事実である。
すでに荊州の実権は、樊城の戦いで大勝を収めた劉備(りゅうび)と、その配下である水鏡の軍師たちの手によって完全に掌握されていた。
「……見よ。あの筵売りの大耳め、ついに本性を現しおったわ」
軍議の席で、曹操は薄暗い笑みを浮かべながら、高らかに宣言した。
「劉備は、正当な君主である劉表殿の死に乗じ、病弱な長男・劉琦を神輿として担ぎ上げた。……あれは正統な荊州政権などではない。劉備の強大な武力によって後ろから糸を引かれている、完全なる『傀儡政権』である!」
曹操の言葉は、中原を統べる大漢帝国の丞相としての、絶対的な『建前』の構築であった。
「我が大漢帝国は、武力によって君主を傀儡とし、州を私物化するような簒奪者を決して許しはしない! これより我が軍は、逆賊・劉備を討ち、劉琦を悪しき呪縛から解放するための『正義の戦』を行う!」
それは、いかに劉備軍が荊州内部で善政を敷こうとも、外部から「軍事政権による不当な支配」というレッテルを貼り、堂々と大軍を差し向けるための、完璧な宣戦布告であった。
大義名分は立った。次なる問題は、「どれだけの兵力を南下させるか」である。
本来、中原の大半を制覇した曹操の国力をもってすれば、三十万、あるいは五十万という途方もない大軍を号令することも不可能ではない。
しかし、今回の軍議において、曹操の頭脳である荀彧、郭嘉、そして班稀の三人は、極めて慎重な数字を弾き出していた。
「殿。南征への兵力ですが……『十五万』。これが、現在の我が軍が動かせる、絶対的な上限となります」
班稀が、冷徹な数字の書かれた竹簡を提示した。
「十五万、だと? いつもより少ないではないか」
曹操が眉をひそめる。
「背後の『憂い』があまりにも巨大すぎるからです」
班稀は、卓の上の地図の北東、遼東と極東の海を指差した。
「先日、高句麗を滅ぼした燕の公孫康。そして、その後ろ盾となっている得体の知れない日本国。……我々が南に全軍を向けた隙を突き、あの『計算された怪物たち』が北から中原の喉元へ牙を剥かないという保証は、どこにもありません」
荀彧もまた、深く頷いて言葉を継いだ。
「班稀殿の申す通りです。北方の国境(黄河以北)には、燕と日本の脅威を完全に封じ込めるための、重厚な防衛線を残しておく必要があります。
さらに西の馬騰や韓遂への警戒網も維持せねばなりません。……それら『絶対防衛の兵力』を差し引き、なおかつ南方の宛から荊州へと至る長い補給線を維持できる最大値。それが、十五万という数字なのです」
「なるほど……。あの島国が撒いた北方の火種が、我らの足を引っ張るというわけか。忌々しいことだ」
曹操は舌打ちをした。
高句麗討伐という出来事が、中原の覇王の首根っこを掴む「見えない足枷」として、見事に機能していたのである。
「しかし、ご安心を」
郭嘉が、不敵な笑みを浮かべて扇子を鳴らした。
「北を警戒して絞り込んだとはいえ、十五万です。烏合の衆ではなく、我ら中原の精鋭と完璧な兵站に支えられた十五万。……荊州の劉備を物理的にすり潰すには、あまりにも十分すぎる『絶望の数字』にございます」
この南征を政治的に完璧なものとするため、曹操陣営はもう一つの『強力な手駒』を軍に組み込んでいた。
「……さあ、顔を上げられよ。荊州の正統なる後継者殿」
曹操が声をかけると、軍議の末席でガタガタと震えていた一人の若者が、青ざめた顔で平伏した。
かつて樊城の戦いで蔡瑁らが敗北した際、命からがら襄陽から逃げ出し、曹操の元へと這いずり込んできた劉表の次男――劉琮である。
「そ、曹操様……っ! ど、どうか私めを荊州牧に……! 逆賊の劉備と兄を討ち果たし、私に荊州を返してくだされ……!」
這いつくばって命乞いと懇願を繰り返す劉琮の姿は、かつて十万の水軍を後ろ盾にしていた頃の威厳など微塵もなく、ただ哀れで惨めなものであった。
「無論だとも。亡き劉表殿も、聡明なお前に跡を継がせたかったに違いない。我が軍は、お前という『正統な君主』を襄陽の玉座へ戻すために進軍するのだ」
曹操は、顔には慈悲深き笑みを張り付けながら、その瞳の奥には氷のような冷酷さを宿していた。
当然のことながら、曹操が劉琮に実権を与える気など一ミリも存在しない。
劉琮の存在意義はただ一つ。曹操軍の陣立ての最前列に「劉琮の軍旗」を掲げることで、荊州内に残る旧劉表家臣団の戦意を削ぎ、内応を誘発させるための『使い捨ての道具』であった。
兄・劉琦を担ぎ上げ、軍事と善政で荊州を掌握した劉備。
弟・劉琮を自軍に組み込み、圧倒的な大義名分でそれを押し潰そうとする曹操。
荊州を巡る二つの巨大な『正義の建前』が、ついに正面から衝突しようとしていた。
西暦二百七年の春。
いまだ寒風の残る中原の大地を、大地そのものを軋ませるような凄まじい地鳴りが覆い尽くした。
「全軍、南下を開始せよ!! 目指すは新野、そして襄陽なり!!」
曹操の号令と共に、許昌を出立した軍勢の威容は、筆舌に尽くしがたいものであった。
黄巾賊のような流民の集まりではない。鋼の甲冑に身を固めた歩兵の列が地平線の彼方まで続き、精悍な騎兵が砂埃を上げて大地を駆ける。
その後方には、班稀の計算によって寸分の狂いもなく統制された、途方もない数の兵糧車と攻城兵器の列が、大河のように
その数、一十五万。
北の脅威を警戒し、限界まで絞り込まれた動員数であるにも関わらず、それは「硬い」という言葉すら生ぬるい、物理的な『鋼の土石流』であった。
前衛を率いるのは、夏侯惇、曹仁、といった一騎当千の猛将たち。
中軍には、曹操の恐るべき知略と、郭嘉や荀彧らの完璧な策謀。
「……来たか、中原の覇王め。十五万という、理不尽の塊が」
遥か南方の荊州において。
諸葛亮、龐統、関羽、張飛、そして裏から軍を支える比企景明。極東の算段と天才たちが集結した『新星・劉備軍』の首脳陣たちは、北の空を黒く染め上げる死の気配を肌で感じ取っていた。
いかなる奇策も、いかなる罠も、その圧倒的な質量の前には押し流されてしまうかもしれない。
三国鼎立の決定的な分水嶺となる、中華史上最大規模の激突――『長江の決戦(赤壁への前哨戦)』の幕が、十五万という絶望の足音と共に、ついに切って落とされたのである。
―――
中原の覇王・曹操が、ついに南征の大軍を起こしたという凶報は、疾風の如き速度で長江を渡り、荊州のみならず、その下流に位置する江東の『呉』の陣営にも凄まじい衝撃をもって到達した。
「……曹操の動員兵力、十五万だと!? 北の燕や大和国を警戒してなお、それほどの軍を動かせるというのか!」
江東の文官たちの間には、恐慌にも似たざわめきが広がっている。十五万という数字は、ただでさえ山越の反乱鎮圧に手一杯な現在の呉軍からすれば、文字通り「絶望的な暴力の津波」に他ならない。
「静まれ」
騒然とする軍議の間を、氷のように冷たく、しかし絶対的な威厳を持った一言が制した。
呉の最高司令官であり、天下に並び立つ美貌の天才軍師・周瑜である。
「取り乱すな。曹操の第一目標は我々ではない。長男の劉琦を奉じて荊州を掌握した、劉備の陣営だ。……我々はまず、隣国の動向を見極めねばならん」
周瑜は表面上こそ冷静を保っていたが、その胸の奥では激しい焦燥と計算が渦巻いていた。
曹操が荊州を飲み込めば、次は間違いなく江東へと牙を剥く。では、呉はどう動くべきか。曹操に降伏するか、それとも徹底抗戦か。
そんな周瑜の葛藤を嘲笑うかのように、一人の使者が柴桑の宮廷へと駆け込んできた。
「申し上げます! 荊州の劉備軍より、軍師・諸葛亮の使者が参りました! 周瑜大都督への『親書』を持参しております!」
周瑜は、眉をピクリと動かし、使者から受け取った竹簡の封を切った。
諸葛亮。伏龍と呼ばれ、わずか数日で巨大な荊州の勢力図を劉備の足元に書き換えてみせた、恐るべき同業者の名である。
書状の内容は、極めて流麗な文章で綴られていたが、要約すればたった一つの要求であった。
『中原より、曹操の十五万の大軍が迫っております。この国難に際し、
すなわち『孫劉同盟』の打診である。
読み終えた周瑜は、鼻でふっと冷笑を漏らした。
「……虫のいい話だ」
周瑜は、竹簡を卓の上に放り投げた。
「周都督。何と書かれておりましたか?」
側近の魯粛が尋ねると、周瑜は吐き捨てるように言った。
「共に曹操を討とう、だとさ。ふざけるな。曹操の鉾先が最初に向かっているのは荊州だ。なぜ我々が、劉備の盾となって江東の兵の血を流してやらねばならんのだ」
周瑜の軍略家としての本音を言えば。
本来であれば、曹操と劉備が荊州で血みどろの潰し合いをしている隙を突き、『背後から劉備の領土のいくつかを掻っ攫ってやりたい』というのが偽らざる願望であった。
他国が危機に陥っている時こそ、自国の領土をノーリスクで拡大する最大の好機である。同盟など結ばず、漁夫の利を得るのが乱世の定石だ。
だが。
周瑜が再び竹簡へと視線を落とした時、その美しい顔がギリッと歪んだ。
諸葛亮の書状の後半には、周瑜のその『野心』を完全に封殺する、恐るべき一文が添えられていたからである。
『……周都督におかれましては、我が領土を背後から狙うなどという下策は、決して採られないと確信しております。江東の内情を鑑みれば、到底そのような余力はないはずですから。
それに、もし今、貴軍が背後から我々を襲えば、荊州は防衛を諦め、無傷のまま曹操に降伏する道を選びましょう。……そうなれば、十五万の曹操軍に、十万の荊州水軍が加わった『二十五万の大軍』が、ただちに長江を下って貴国へと向かうことになりますが、よろしいか?』
「…………ッ!!」
周瑜は、無意識のうちに竹簡を握り潰さんばかりの力を込めていた。
(おのれ……っ! 諸葛亮め、完全にこちらの『足元』を見透かしていやがる!)
諸葛亮の言う通りであった。
周瑜自身が一番よく理解している。現在の呉には、山越の反乱鎮圧に兵を割かれており、荊州の領土を背後から掠め取るような余力など一切ない。
さらに、劉備軍は短期間で荊州を掌握し、鉄の結束を固めている。内部崩壊を待って領土を奪うという盤面は、とうの昔に消滅しているのだ。
諸葛亮の書状は、「我々を助けてくれ」という悲壮な哀願などでは断じてない。
「お前たちは我々を背後から撃つことは物理的に不可能だ。そして、我々を見殺しにすれば、次はお前たちが確実に滅びるのだぞ」という、極めて冷酷で高圧的な『事実の突きつけ』であった。
さらに書状は、周瑜の頭脳を逃げ場のない論理の檻へと追い詰めていく。
『……仮に、我が荊州が滅んだとしましょう。次に曹操は、どこを狙うか。
西の【益州(えきしゅう)】ですか? 否。益州は険しい山脈が天然の防壁となり、あの班竣という男が完璧な算段で国境を固めています。十五万もの大軍を山岳に送り込めば、曹操の兵站は必ず干上がります。
であるならば。山を越えるよりも、荊州の水軍を取り込み、長江の流れに乗って東(呉)へ下るのが、最も手っ取り早く、最も兵站の負担が少ない。……盤面を見れば、火を見るよりも明白でしょう』
「……っ」
周瑜は、卓の上の広大な中華の地図を見下ろした。
益州の山脈。荊州の平野。そして、長江という巨大な水路で直結している江東。
(……その通りだ。荊州が落ちれば、曹操軍の津波は、地形的にも兵站的にも、最も抵抗の少ない水路を伝って、真っ直ぐにこの江東へと流れ込んでくる)
「唇滅びて、歯寒し」という古いことわざがある。
荊州が唇であり、呉が歯である。劉備という防波堤が決壊した瞬間、呉の滅亡は『軍略の理』として確定してしまうのだ。
「……ふふ、ふふふっ! あははははっ!!」
突如として、周瑜は狂ったように笑い出した。
その顔には、自分と同じ高みにいる天才によって、自らの選択肢を完全に『同盟』の一つだけに絞り込まれてしまったことへの、猛烈な屈辱と、同時に極上の歓喜が入り混じっていた。
「どうしました、公瑾! 何かおかしなことでも書かれていたのか?」
孫権が怪訝(けげん)そうに尋ねる。
「……いえ。我が君」
周瑜は笑いを収めると、竹簡を置き、孫権に向かって深々と、しかし獲物を前にした虎のような獰猛な笑みを浮かべて一礼した。
「腹立たしいことに……荊州の伏龍の言う通りです。我々には、曹操に降るという道も、荊州を見殺しにするという道も残されてはおりません。我ら江東が生き残る道は、劉備と手を結び、あの十五万の軍勢を長江の藻屑(もくず)と変えることのみ」
周瑜は、振り返り、江東の文武の百官たちに向けて高らかに宣言した。
「これより、我が軍は総力を挙げて曹操を迎え撃つ! 使者を荊州へ送り返せ! 『江東の虎は、喜んで伏龍と共に中原の覇王を喰い殺そう』とな!!」
―――
中原の覇王・曹操が、十五万という途方もない大軍を率いて荊州へと南下を開始したという情報は、険しい山々を越え、西の極みである『益州』の成都にも、確実な絶望を伴って届いていた。
「……動員数、十五万。北方の燕と大和国への警戒網を残した上で、これだけの兵力を南の宛から一直線に送り込んでくるとは」
成都の宮廷にて。
益州牧である劉璋の右腕として、この山岳国家のすべての経済と内政を計算し尽くしている官僚・班竣は、広げられた中華の地図の上に置かれた大量の赤い駒を見下ろし、忌々しげに舌打ちをした。
「曹操は、本気で荊州の劉備を物理的にすり潰す気です。……我が君、これは我ら益州にとっても、決して『対岸の火事』では済まされぬ事態です」
班竣の言葉に、玉座の劉璋も深く頷き、険しい表情を見せた。
「分かっている、班竣。……もしこの戦で、劉備が敗れ、荊州が曹操の手に落ちれば。曹操は荊州の水軍を吸収し、長江の流れに乗って、次は間違いなく江東の孫権を飲み込む」
「左様です。そして、中原、荊州、江東のすべてを手中に収めた曹操が最後に向かうのは……」
班竣は、地図上の『益州』の周囲を、指でぐるりと円を描くようになぞった。
「四方を完全に包囲された、この益州です。曹操は険しい山を無理に攻め上るような愚は犯しません。国境を大軍で完全に封鎖し、塩と鉄の流通を止め、『真綿で首を絞めるように』、数年、十数年をかけて我々を緩やかに死へと追いやるでしょう」
班竣の読み解いた戦の潮流は、極めて正確であった。
曹操が荊州を抜いた瞬間、中華の盤面は曹操の「詰み(チェックメイト)」へと完全に傾く。つまり、『この戦で荊州が敗れた瞬間、益州の滅びる運命もまた決定される』のである。
「それだけは、何としても避けねばならない。……しかし、班竣よ」
劉璋は、深い溜息をつきながら、自国の数字が記された竹簡を見つめた。
「我が益州は、お前の算段と内政のおかげで、国庫は潤い、民は飢えることなく富んでいる。武器も兵糧も、山のように備蓄がある。……だが、『兵の数(動員力)』だけは、荊州や呉のようにはいかんのだ」
劉璋の言う通りであった。
いかに国を富ませ、経済を回そうとも、兵士となる若者が育つには十数年という『絶対的な時間』がかかる。
益州は長年閉鎖的な環境にあり、度重なる内乱で戸数を減らしていた時期もあった。現在の豊かな経済力に人口増加が追いつくには、まだ長い年月が必要なのだ。十五万の曹操軍に対し、数万の援軍を荊州へ派遣するなど、益州の国力を考えれば『自殺行為』に等しかった。
「兵が出せぬ以上、我らは座して荊州が滅びるのを待つしかないのか……?」
苦悩する劉璋。しかし、かつての暗愚な君主から、民を思い国を憂う名君へと成長を遂げた彼は、ただ怯えるだけの男ではなかった。
「……いや。兵が出せぬのなら、『兵站と物資』で劉備を支えれば良い」
劉璋が、ふと顔を上げて提案した。
「班竣。我が益州の有り余る『塩』と『鉄』、そして『兵糧』を、商人たちを通じて、密かに荊州の劉備陣営へと流せ。それも、通常ではあり得ないほどの『安値』でだ」
「……裏からの、兵站の肩代わりですか」
班竣の目が、大きく見開かれた。
「そうだ。曹操の十五万という圧倒的な物量を前に、荊州の兵糧は必ず底をつく。我らが物資の面で彼らを買い支え、曹操の出血を強いる『盾』として機能させ続けるのだ。表立って同盟を結べば曹操の標的となるが、商人の売買という形であれば言い逃れもできる」
それは、大和国の右大臣・広庭すらも唸らせるような、見事な地政学と経済を組み合わせた『大人の支援策』であった。
「……承知いたしました。直ちに、我が国が誇る物流網をフル稼働させ、長江を遡る形で荊州への物資の投げ売り(支援)を開始いたします」
班竣は、成長した主君の冷徹かつ的確な判断に深く頭を下げ、ただちにその算段の実行へと取り掛かったのである。
深夜。
宮廷での政務を終え、自らの屋敷へと戻った班竣は、薄暗い灯りの中で一人、筆と白木の木簡を前にして深く思い悩んでいた。
彼が取り仕切る『荊州への裏の物資支援』は、間違いなく曹操軍の兵站と正面から激突することになる。
そして、曹操軍の兵站と算段をすべて取り仕切っているのは、他でもない。
死んだはずの彼の実の兄であり、大和国から帰還した後に曹操の影の頭脳として暗躍している、班稀その人であった。
「……兄上。あなたは、あの時、獄中で死んだことになっていた。それが今や、のうのうと奸臣・曹操の下でその敏腕を振るい、我ら漢の忠臣たちを滅ぼそうとしている」
班竣の胸の奥底に、極めて人間臭い、どろどろとした『怨嗟』と『怒り』が沸き上がってくる。
大和国から日出処の天子の書を持ち帰り、その責任を問われて獄中死したとされていた兄・班稀。
兄が死んだ後、残された班稀の妻と、まだ幼かった息子は、後ろ盾を失い、路頭に迷う寸前であった。
『あなた……どうして、私たちを残して……っ』
泣き崩れる義姉と、何も分からずに無邪気に笑う甥っ子。
それを見捨てることができず、自らの出世や将来を投げ打って彼らを庇護し、混乱する中原から逃れるようにしてこの益州へと流れ着き、必死に彼らを養い育ててきたのは、弟である班竣(自分自身)であった。
「……私が、どれほどの苦労をして、あなたの妻を養い、あなたの息子を育ててきたと思っているのですか」
班竣は、ギリッと奥歯を噛み締めた。
兄は、己の理想や算段のために、家族という『人間』を完全に切り捨てたのだ。そして今、その人間を切り捨てた怪物が、十五万の大軍の兵站を操り、自分たちが必死に生き延びてきたこの益州をも真綿で締め上げようとしている。
(許せない。……兄の神のような頭脳に、一矢報いてやらねば、私の腹の虫が治まらん)
班竣は、筆にたっぷりと墨を含ませると、殺気すら帯びた手つきで、ある『一通の文』をしたため始めた。
『――兄上。何故貴方は、家族を放っておいて、自分勝手に生きているのか。
貴方が見捨てた妻と子は、この益州の地で、私が養い、育てております。
漢の忠臣として死んだはずの貴方が、曹操の狗として生き恥を晒し、あまつさえ自らの家族が住むこの西の地を滅ぼそうとしている。その冷血なる算段に、人の心は無いのか』
それは、天下の情勢など一切関係ない。
国を動かす官僚としてではなく、ただ一人、家族を背負わされた『弟』としての、血を吐くような恨みと怒りを込めた、極めて私的な文であった。
「この文を、商人の裏の経路を使い、曹操の陣営にいる班稀の元へ直接届けよ」
班竣は、書き上げた木簡を厳重に封印し、闇に紛れる密使へと託した。
それは、いかなる軍略や火計よりも深く、完璧な計算機である『班稀』という男の急所を的確に抉る、恐るべき一撃となるのである。
南下を続ける曹操の十五万の大軍。
その心臓部である中軍の天幕において、班稀は山のように積まれた竹簡と算木に囲まれ、不眠不休で兵站の計算を弾き出していた。
「新野までの輸送経路、第三部隊の糧食の消費速度が想定より二
感情を完全に排した、冷徹な機械のような指示が次々と飛び交う。
十五万という絶望的な質量を、滞りなく南へ進ませる。そのためには、班稀の頭脳が文字通り「秒単位」で計算を続けなければならないのだ。
そこへ、一人の下働き(商人に扮した裏の連絡係)が、目立たぬように班稀の傍らへと歩み寄り、一通の木簡をスッと卓の上に置いた。
「……班稀様。南方の商人経路より、極秘の書状が届いております」
「後回しだ。今は宛からの兵糧の到着時間を割り出している」
「しかし……。差出人は、『益州の、貴方様の弟君』からと」
「…………何?」
計算の海に沈んでいた班稀の手が、ピタリと止まった。
弟。班竣。
自分が大和国から帰還し、獄中死を偽装して曹操の影に潜ったあの日以来、完全に繋がりを絶っていた、過去の血縁。
班稀は、訝(いぶか)しげに木簡を手に取り、その封を切った。
そして、そこに記されていた見覚えのある弟の筆跡と、書かれている内容を目にした瞬間。
――ガタンッ!!
「……っ!!」
常に氷のように冷たく、いかなる緊急事態にも表情一つ変えなかった班稀が。
持っていた算木を床に落とし、椅子から腰を浮かせ、その完璧な鉄面皮を『激しい動揺』によって大きく歪ませたのである。
『――貴方が見捨てた妻と子は、この益州の地で、私が養い、育てております』
文面に刻まれたその一文が、班稀の脳内を雷のように打ち据えていた。
「……妻と、息子が……益州に、いる……だと?」
班稀は、文字通り『知らなかった』のである。
彼が獄中死を偽装して曹操の影に潜った時、彼は家族を危険に巻き込まぬよう、あえて一切の連絡を絶った。彼らは実家に帰るか、どこか安全な場所へ身を隠し、慎ましく生きているものだと、自分勝手な『計算』をして、過去を完全に切り捨てたつもりでいたのだ。
だが、現実は違った。
弟の班竣が、すべてを背負い込み、曹操の支配の及ばない遥か西の果て、益州へと彼らを連れて逃げ延びていたのだ。
そして自分は今、曹操の軍師として十五万の大軍の兵站を操り、劉備をすり潰し、その延長線上で『自分の妻と息子が生きている益州の首を、自らの手で締め上げようとしている』のである。
「…………ッ」
班稀は、ギリッと歯を食いしばり、震える手で木簡を握りしめた。
彼の頭脳は、国家の存亡や十五万の兵站という「マクロな数字」を弾き出すことにおいては、中華で右に出る者はいない。だが、その完璧な方程式の中に、突如として『自らの家族』という、最も人間的で、最も計算不可能な変数が放り込まれてしまったのだ。
『冷血なる算段に、人の心は無いのか』
弟からの怨嗟の言葉が、鋭い刃となって班稀の胸を何度も突き刺す。
「……私は、何のために……」
日本の『システム』に魅せられ、すべてを捨てて究極の合理を求めた男。
しかし、彼がどれだけ感情を殺そうとも、彼は日本国の怪物のような完全なる冷血漢にはなりきれない、血の通った一人の『父親』であり、『夫』であった。
「……班稀殿? いかがなされた? 兵糧の計算に、何か狂いでも生じたか?」
異変を察知した郭嘉が、怪訝そうに天幕の奥から声をかけてきた。
「……い、いえ。何でもありません。……少し、数字を見間違えただけです」
班稀は、慌てて木簡を袖口に隠し、無理やり無表情を作り直して算木を拾い上げた。
しかし、再び計算に戻ろうとする彼の手は、誰の目から見ても微かに、だが確かに『震えて』いた。
曹操の十五万の大軍が南下を開始し、中原から長江へと至る広大な兵站線が構築されつつあった、西暦二百七年の春の夜。
陣幕の中で揺れる蝋燭の灯りの下、大軍の心臓部たる兵站と算段を一人で統括する男・班稀は、山積みにされた軍務の木簡を脇に押しやり、一枚の真新しい帛に向かって、静かに筆を走らせていた。
宛先は、西の益州。
宛名は、彼と同じく極東の算段を身に付け、劉璋の下で益州を富ませている実の弟・班竣である。
『――長らく音信が途絶えていたこと、許してほしい。中原の戦乱が激しく、私にもどうすることもできなかったのだ。だが、お前のことを忘れたことなど、この数十年、ただの一度たりともなかった』
筆跡は整っているが、その文面は、普段の氷のように冷徹な班稀からは想像もつかないほどに『言い訳がましく、人間臭い』ものであった。
『お前が益州で成し遂げた内政の噂は、私の耳にも届いている。さすがは私の弟だと、誇らしく思っている。……どうだろうか。今の主を捨て、私と共に中原へ来ないか。曹操様はお前の才を必ず高く評価してくださる。兄弟で肩を並べ、共にこの天下の算段を回そうではないか』
建前としては、敵対するかもしれない勢力の優秀な官僚に対する、中原の覇王の陣営からの「引き抜き」の文である。
しかし、その文字の端々には、冷徹な算段など微塵も存在しない。ただひたすらに、長年離れ離れになっていた弟の身を案じ、その才を認め、共に生きたいと願う、不器用で深い『家族への情』だけが滲み出していた。
班稀は、筆の動きを止め、深く息を吐いた。
そして、文の末尾に、弟を中原へ誘う言葉を締めくくるための『最後の一文』を、震える筆先で書き連ねた。
『――信じてほしい。私は、あの金に群がる豚どもと同じになり果ててはいない』
それは、中原の他の誰が見ても、ただの比喩や謙遜の言葉にしか見えないだろう。
しかし、これこそが、この世で実の弟である班竣にしか絶対に解読できない、班稀の魂からの『暗号』であった。
――かつて、後漢の帝国が十常侍と呼ばれる腐敗した宦官たちによって食い物にされていた頃。
若き日の班稀は、没落しかけていた班氏の家門を守るため、自ら進んで泥を被り、私財を投げ打って彼ら宦官たちに媚びへつらい、賄賂を贈り続けた。家を存続させるための、血を吐くような苦肉の策であった。
だが、若く潔癖であった弟の班竣には、兄のその行動が「権力と金に媚びる浅ましい姿」にしか見えなかった。
『兄上は、班氏の誇りを捨てた。……あの、金に群がる豚どもと同じになり果てたのだ!!』
あの日、何も言い返さずに黙って弟の非難を受け入れた兄が、数十年の時を経て記した『私は、豚どもと同じになり果ててはいない』という一文。
それはすなわち、「私は今でも、誇り高き班氏の人間だ。……そして今から、己の命と誇りを懸けて、お前達を守るための行動に出る」という、悲壮なる決意の表明であった。
なぜ、班稀はこのような文を書き、暗号を忍ばせたのか。
それは、彼がどれほど極東の「冷徹な数字と算段」に染まろうとも、その魂の根底には、中原の人間としての強烈な『儒教の理』が刻み込まれていたからである。
儒教において、最も重んじられるべき絶対の道徳。
それは「忠」ではない。
「孝(親への恩)」であり、「悌(兄弟への愛)」である。
皇帝や天下の覇権よりも、自分と血を分けた家族の命を何よりも優先し、大切にすること。それこそが、人の人たる所以であり、例え天下を平定したとしても、家族を蔑ろにし、見殺しにする者は『下衆』であるとみなされる。
「……許せ、曹操様。私は貴方という覇王を心から尊敬している。だが……」
班稀は、目を閉じ、己の運命を呪うように呟いた。
「もし、貴方の十五万の軍勢がこのまま荊州を飲み込めば。……その絶望の刃は、必ず西の益州へと向かい、我が弟が血と汗を流して築き上げた理想郷を、跡形もなく踏み躙るだろう」
中原の覇王への忠義か。
たった一つの、愛する家族の命か。
究極の二者択一を突きつけられた時、冷徹な『算段の怪物』は、一切の躊躇なく、儒教の理に従って『家族』を選んだのである。
彼は、己の主である曹操を長江の戦いで確実に「負けさせる」ための、恐るべき裏切りの策を、すでに己の脳内で構築し終えていた。
だが、相手は曹操であり、荀彧であり、郭嘉である。
陳腐な暗殺や、露骨な情報の横流しなどすれば、即座に見破られて計画は水泡に帰す。
班稀が選んだのは、大和国から持ち帰った自らの最大の武器――『兵站の帳尻を、極めて微細に狂わせる』という、完全に不可視の暗殺術であった。
「……南方の長江は、北とは違い、異常なほどの湿気と疫病の温床となる。通常であれば、防錆のための油と、疫病を抑えるための薬草を大量に前線に送らねばならない」
班稀は、蝋燭の火に自らが作成した完璧な兵站の計算書をかざし、その一部を意図的に書き直した。
薬草の分配比率の操作: 疫病に効く特効薬の輸送を、あえて「二日」だけ遅らせる算段を組む。
水軍拠点の建材のすり替え: 船と船を繋ぐための「鉄の鎖」や「釘」の発注において、表面上は最高級品に見えるが、塩気と湿気でわずかに早く腐食する材質のものへと、数式をいじってすり替える。
それは、平時であれば誰も気付かないほどの、ほんの数パーセントの「誤差」である。
しかし、十五万という途方もない大軍が、慣れない水上戦と南方の風土病に直面したその極限の瞬間において。この数パーセントの誤差は、軍全体を死に至らしめる『猛毒の帳尻』となって、曹操軍の足元を確実に崩壊させるのだ。
「……この微小な狂いは、戦に敗れた後、荀彧や郭嘉が帳簿を洗い直せば、必ず『私の意図的な操作』であったことが露見するだろう」
その時、自分の首がどうなるかなど、考えるまでもない。
間違いなく、一族郎党を含めた極刑(死刑)である。
「構わん。私の命一つで、一族が生き延び、あの島国の算段が中華に根付くのであれば、安いものだ」
班稀は、書き上げた帛の文を丁寧に折り畳み、信頼できる密使へと託した。
大和のシステムを身に宿した冷酷な怪物が、儒教という人間臭い情に殉じるために選んだ、不器用で、あまりにも悲壮な『死の算段』。
曹操の十五万の大軍が進軍の土煙を上げる中、その心臓部たる兵站の奥深くには、たった一人の男の家族愛によって仕掛けられた『敗北への時限爆弾』が、誰にも気づかれることなく、静かに、そして確実に時を刻み始めていたのである。