西暦二百七年の春。
曹操の率いる十五万の大軍が南下を開始した時、中原の覇王が最初に狙いを定めた「戦端の地」は、益州と荊州の狭間や、長江の上流ではなかった。
曹操軍は、許昌から南へ一直線に下ってくる。
彼らが最初に激突しなければならないのは、荊州の『北の玄関口』――すなわち、かつて劉備が長年駐留し、最前線の防波堤として機能していた『新野』、そしてその南に控える漢水流域の要衝『樊城』であった。
「……益州から攻め下るなどあり得ん。あの峻険な山脈越えは、大軍の兵站を死に至らしめる」
進軍の馬上で、曹操は冷徹に地図を見据えていた。
彼の基本戦略は、極めて王道かつ理にかなっている。北から陸路で圧倒的な質量をもって新野を押し潰し、そのまま南下して荊州の政治的中心である襄陽と江陵を制圧。
そこで『荊州の舟艇と水軍施設』を根こそぎ接収し、自らの十五万の陸軍を水軍へと乗せ換えてから、長江を東へ下って呉を飲み込むという、完璧なロードマップであった。
「先鋒・夏侯惇! まずは新野の城を地図上から消し飛ばせ!!」
「ははっ! 大耳の古巣など、我が騎兵の蹄で一蹂躙にしてくれるわ!」
土煙を上げ、数万の曹操軍先鋒が新野の城へと殺到する。
しかし、いざ新野の城門を力任せに打ち破り、城内へと雪崩を打って突入した夏侯惇の目に飛び込んできたのは、予想だにしない異様な光景であった。
「……何だ、これは? 誰もいないではないか!」
新野の城は、もぬけの殻であった。
兵士はおろか、民の一人すら残っていない。それどころか、一粒の米、一滴の油、一本の矢に至るまで、軍事物資として利用できそうなものは完全に持ち去られ、井戸には土が投げ込まれて使い物にならなくなっていたのである。
「おのれ劉備め……! 戦わずして尻尾を巻いて逃げおったか!!」
夏侯惇が怒号を上げる。
だが、これこそが荊州の頭脳――諸葛亮(しょかつりょう)と比企景明(ひきけいめい)が弾き出した、十五万の『鋼の土石流』に対する唯一にして最大の対抗策、『焦土戦術と遅滞戦闘』の幕開けであった。
襄陽の陣幕にて。
諸葛亮は、羽扇を静かに揺らしながら、北から迫る曹操の巨大な駒の動きを地図上で見下ろしていた。
「……正面から平地で十五万の軍とぶつかれば、いかに我らが精強であろうと、半刻(一時間)で陣をすり潰されて全滅します。相手は、戦を知り尽くした曹操と中原の猛将たち。奇策や小手先の伏兵など、圧倒的な質量の前には無意味です」
諸葛亮の目には、ヒロイックな玉砕や武勇伝への憧れなど微塵もない。
「故に、我々は『引きます』。新野を捨て、樊城を捨て、襄陽すらも捨てる。……敵の補給線(兵站)が限界まで伸び切り、長江という『巨大な水の壁』にぶつかるその瞬間まで、一切の決戦を避けて後退し続けます」
隣で腕を組む景明も、深く頷いた。
「同感だ。曹操は十五万という大軍を動かしている分、毎日の兵糧の消費量は想像を絶する。現地で物資を調達できなければ、許昌からの長い陸路を延々と兵糧車が往復することになる。……俺たちが退けば退くほど、曹操の首を絞める『兵站という名の縄』は長く、重くなっていく」
曹操の十五万は、例えるなら『巨大な鉄の球』である。
止まっている時や、近距離で叩きつけられた時の破壊力は無敵だが、どこまでも続く泥濘(ぬかるみ)の斜面を転がし続ければ、いずれ自重と摩擦によってその勢いは完全に殺される。
劉備軍は、あえて荊州北部の広大な領土(空間)を曹操に明け渡すことで、十五万の軍勢の『勢いと兵站』を極限まで削り取るという、極めて冷酷な算段を起動させたのであった。
「……逃げたか。大耳め、徹底した焦土作戦を採りおったな」
新野の空っぽの城郭に足を踏み入れた曹操は、落ちていた空の籠を蹴り飛ばしながら、忌々しげに呟いた。
「殿。劉備軍の主将・関羽や張飛が、撤退の途上の要所要所で、ごく少数の兵をもって我らの進軍を執拗に遅らせる『遅滞戦闘』を仕掛けてきております。深追いは危険かと」
荀彧が進み出て具申する。
「分かっておる。奴らの狙いは、我らの兵站を伸ばし、長江の水上戦へと引きずり込むこと。……だが、それを分かった上で、我々はこのまま南下して奴らを力で押し潰すしかない」
曹操は、遥か南の空――巨大な水脈(長江)が流れる方角を鋭く見据えた。
「いかに焦土作戦で粘ろうと、劉備たちが長江より南へ逃げることはできん。そこには、江東の孫権という別の虎がいるからだ。……必ず、長江の岸辺で、奴らは背水の陣を強いられる。そこで十五万の質量をもって、完全に圧殺する!!」
曹操軍と劉備軍の最初の戦端は、北の玄関口『新野』周辺における、息詰まるような『撤退と追撃(遅滞戦闘)』という形で切って落とされた。
極東の算段によって極限まで兵站を削り取ろうとする劉備軍と。
その罠を理解した上で、圧倒的な暴力で押し潰そうとする曹操軍。
中華の未来を決する両雄の軍勢は、互いの思惑を孕んだまま、決戦の地となる『長江の岸辺』へと向けて、泥沼の南下を続けていくのであった。
―――
曹操軍十五万の南下に対し、徹底した焦土作戦と遅滞戦闘を繰り広げながら南へ南へと退却を続ける劉備軍の長大な隊列。
そのしんがり近く、土埃にまみれながら馬を進める比企景明の頭の中では、絶え間なく兵站の計算式が高速で回っていた。
「……それにしても、益州からの買い付けが、思った以上に『安値』で通ったな」
景明は、後方に連なる無数の荷車――先日、西の益州から買い付けたばかりの矢や兵糧の束を見やりながら、胸中で一人反芻していた。
本来であれば、十五万の軍勢が迫るこの非常時において、物資の価格は足元を見られて何倍にも跳ね上がるのが商売の常である。だが、益州からの物資は、平時と変わらぬ、いや、それ以下の破格の安値で荊州へと卸されたのだ。
(……益州の算段を握るあの男。奴もまた、盤面を正確に見据えているということか)
景明は、口元に皮肉めいた、しかし頼もしい笑みを浮かべた。
益州にとっても、劉備の治める荊州が曹操の十五万に蹂躙(じゅうりん)されることは、絶対に避けねばならない最悪のシナリオである。荊州という防波堤が決壊すれば、曹操の暴力は水路を遡って確実に益州へと流れ込んでくる。
(『我々が盾となって曹操の血を流させるのだから、そのための兵站くらいは益州も負担しろ』……俺のその無言の要求を、奴らは完璧に理解して安値で応じた。まったく、を知る者同士の取引というのは、話が早くて助かる)
「景明の旦那! 後方三里(約十数キロ)に、曹操軍の軽騎兵の土煙! いつでも反転して迎撃できますぜ!」
偵察から戻ってきた騎兵が、景明の傍らに馬を寄せて報告した。
彼らは、かつて中原最強と謳われた呂布(りょふ)の残党であり、呂綏(りょすい)という女将に率いられて数多の戦場を渡り歩いてきた『并州騎兵』の面々である。
―――
だが、長年劉備の下で新野の最前線を守り抜いてきた今の彼らを、并州騎兵と呼ぶ者は少ない。彼らは今や、劉備軍の機動力の要たる『新野騎兵』として、完全に生まれ変わっていた。
「深追いはするな。我々の任務は敵の首を獲ることではない。嫌がらせで敵の進軍速度を落とし、この隊列を無事に南の江夏まで送り届けることだ」
「へっ、分かってまさぁ! 大切な『荷』に傷一つ付けさせやしねえよ!」
荒くれ者たちの顔には、かつての自暴自棄な凶暴さはなく、己たちが護るべき『絶対的な存在』への誇りと使命感が満ち溢れていた。
景明は、視線を自らのすぐ隣へと向けた。
普段であれば、戦場における景明の隣には、必ず彼女の姿があった。
身の丈ほどもある方天画戟を軽々と振り回し、誰よりも苛烈に敵陣を切り裂く、鬼神の如き女将。彼の唯一の相棒であり、妻である呂綏の姿が。
しかし今、景明の隣を走っているのは、彼女の乗る名馬ではない。
分厚い木の板で装甲を施され、何重にも毛布が敷き詰められて振動を極限まで殺した、『一台の堅牢な馬車』であった。
「……おい、揺れは酷くないか。気分は悪くないか」
景明は、馬車の小窓に顔を近づけ、普段の冷徹な声からは想像もつかないほど、低く気遣わしげな声で問いかけた。
小窓の奥から、少し青ざめた、しかし不満げな呂綏の顔が覗く。
『……平気だ。というか、こんな箱の中に押し込められて、おまけに戦にも出させてもらえない方が、よほど気分が悪い』
呂綏は、忌々しげに舌打ちをして見せた。
『外では連中が血を流しているというのに、大将である私が、こんなところで寝そべっているなど……ッ』
「馬鹿を言うな」
景明は、呂綏の愚痴をピシャリと跳ね除けた。
「お前は今、酷い悪阻を患っている。それに、腹も目立ち始めてきた頃合いだ。……そんな身重の体で、十五万の曹操軍を相手に方天画戟を振り回そうなど、言語道断にも程がある。俺が絶対に許さん」
呂綏の武勇は天下無双である。並の兵士が束になっても敵わないだろう。
しかし、彼女の胎内には今、新しい命――景明と彼女の間に授かった、何よりも守るべき子供が宿っているのだ。
極東の冷徹な算段の怪物である景明にとって、この馬車こそが、天下の覇権や十五万の曹操軍よりも遥かに優先順位の高い『絶対防衛対象』であった。
『……お前、過保護すぎるぞ。私を誰だと思っている』
呂綏が恨めしそうに睨むが、その瞳の奥には、無理やり自分を馬車に押し込んだ景明の不器用な優しさへの安堵も微かに混じっていた。
「知っているさ。天下無双の飛将だろう。……だが、今だけは大人しく俺に守られていろ。前線の指揮も、兵站のやり繰りも、すべて俺が完璧に回してやる」
景明は、馬車の窓枠に軽く触れ、力強く告げた。
「曹操の土石流がどれほど強大であろうと、お前と、その腹の子の命には指一本触れさせん。……必ず、安全な長江の南まで送り届けてみせる」
『……ふん。ならば、しっかりと護れ。算段の怪物殿』
呂綏は少しだけ口角を上げると、疲れたように馬車の奥へと身を横たえた。
―――
中原の覇王・曹操が率いる十五万の大軍が、怒涛の如く荊州の地を蹂躙せんと南下を続ける中。
劉備軍は、一切の正面決戦を避け、徹底した焦土作戦を展開しながら、荊州南部・長江の岸辺へと向けた長大な退却戦を行っていた。
この絶望的とも言える撤退行において、劉備という男の振る舞いは、ある意味で極端に『異質』であった。
彼は、軍の進行ルート、殿の配置、兵糧の分配といった軍事的な実務のすべてを、軍師である諸葛亮や龐統、そして裏で兵站を回す比企景明たちに**「完全に丸投げ」**していたのである。
「孔明よ。我らは次、どこへ向かえばよいか」
「景明よ。輜重の具合はどうだ。馬車は足りているか」
劉備は、自らの頭で複雑な戦術を練ることはしない。
己の才の限界を誰よりも理解している彼は、自分よりも遥かに賢い極東の算段の徒や、水鏡の学士たちの言葉を、一切の疑念なく信じ抜き、その指示通りに完璧に軍を動かした。
その姿は、かつて圧倒的な力を持った覇王・
「……まるで、在りし日の高祖を見ているようだ。己の足りぬ部分を他者に委ね、ただ御旗として君臨する天才」
退却の陣幕で、諸葛亮は羽扇を揺らしながら、劉備の背中を見つめて静かに呟いた。
「だが、決定的に違う部分が一つある」
景明が、泥だらけの帳簿から顔を上げて言葉を継ぐ。
「劉邦という男は、本質的に『冷徹』だった。項羽から逃げる際、馬車を軽くするために実の子供すら蹴り落としたという逸話があるほどにな。……だが、うちの大将は、どうしようもなく『情』に絆される男だ」
景明の言う通りであった。
劉備軍の撤退の足は、軍事的な常識からすれば、あまりにも遅すぎた。
その理由は、新野や樊城を捨てる際、劉備を慕う『十数万にも及ぶ一般の民衆』が、家や土地を捨てて、劉備の軍勢の背後にゾロゾロとついてきてしまっていたからである。
「殿! このまま民を連れて歩けば、一日に十里(約四十キロ)も進めません! 曹操の追撃部隊に追いつかれてしまいます、どうか民を切り捨てて先にお進みください!」
武将たちが血相を変えて進言しても、劉備は決して首を縦に振らなかった。
「大事を成すには、必ず人を本とせねばならん。これほどまでに私を慕い、ついてきてくれる民を、どうして見捨てて逃げることができようか!」
劉備は、馬上から降り、泥まみれになりながら自らの足で民と共に歩いた。
力尽きて倒れそうな老人がいれば自ら肩を貸し、泣き叫ぶ赤子がいれば自らの食料を分け与えた。
軍全体の状況に常に気を配り、最後尾で曹操軍の追撃を命がけで食い止めている関羽や張飛を深く案じながらも、彼は民の先頭に立って決して歩みを止めなかった。
「劉予州様についていけば、必ず生き延びられる!」
「曹操の刃から、我々をお守りくださるのだ!」
民衆は、恐怖によって軍に付き従っているのではない。
劉備という一人の男の背中から放たれる、底知れぬ『仁徳』に魅入られ、絶対的な信頼を寄せていたのである。
逃走を続ける過酷な行軍の中にあっても、劉備の軍勢と流民の間には、不思議なほどの連帯感と、一種の宗教的なまでの熱狂が渦巻いていた。
「……計算式では、民を捨てて軽装で逃げるのが絶対の正解です。しかし」
諸葛亮は、劉備のその愚直なまでの優しさを見つめながら、美しく微笑んだ。
「大将がアレだからこそ、我々も命を懸けて算段を回す甲斐があるというものです。……殿。この苦難の道のりの先、長江が燃え上がる『決戦の地』まで、あと少しの辛抱ですぞ」
劉備はただ一つ、諸葛亮が提示した地図の終着点――曹操軍を迎え撃ち、その巨大な軍事力を完全に灰燼に帰すための運命の地へと向けて、ひたすらに民と軍を導き続けていた。
時を同じくして。
長江の下流、江東の地においても、中華の歴史を左右する巨大な軍事力が、ついにその重い腰を上げていた。
「これより我が孫呉の軍勢は、長江を遡り、荊州の劉備軍と合流する! 目指すは長江中流域の要衝、そして曹操の喉元を食い破る死地である!」
呉の最高司令官たる大都督・周瑜は、主君である孫権から全軍の指揮権を託され、
銅鑼と太鼓の音が長江の水面を震わせる。
大小数百隻に及ぶ巨大な軍船の群れが、一斉に帆を張り、曹操の南下を迎え撃つべく西へと進路を取った。
旗艦の甲板にて、風を切りながら立つ周瑜の美貌には、戦意と同時に、言い知れぬ『苛立ち』と『戦慄』が入り混じっていた。
「……見事なものだ、諸葛亮。完全に貴様の描いた『絵図面』の通りに、我々は動かされている」
周瑜は、諸葛亮から送られてきた書状と地図を思い返していた。
諸葛亮は、ただ同盟を求めてきただけではない。曹操軍の進軍速度、地形、そして劉備軍の焦土作戦による曹操の『兵站の限界点』を完璧に計算し尽くした上で、「曹操軍が疲労の極みに達し、長江の水辺で歩みを止めるであろう『決戦の地』」を、すでにピンポイントで指定してきていたのである。
そこは、長江の南岸に切り立った赤い岩壁がそびえる場所。
のちに天下を三分する運命の地、『赤壁』と呼ばれる水域であった。
「我らがこのまま長江を遡れば、ちょうど劉備軍の撤退の最終地点と合流し、そこに息を切らした曹操の十五万がノコノコと到着する計算になる。……あの男、曹操の全軍はおろか、我が江東の軍の動員日数すらも、己の算段の『駒』として計算に組み込んでやがる」
周瑜は、ギリッと奥歯を噛み締めた。
江東の誇りを重んじる彼にとって、他国(荊州)の軍師の手のひらの上で踊らされるのは屈辱の極みである。だが、軍略家としての彼の理性が、「諸葛亮の指定した場所とタイミングこそが、曹操を打ち破る唯一の最適解である」と冷酷に告げていた。
「……今は、貴様の敷いたレールに乗ってやる。曹操の十五万を長江の藻屑へと変えるまではな!」
北から逃げ下る、仁徳の将・劉備。
東から長江を遡る、美貌の天才・周瑜。
二つの軍勢は、諸葛亮という極東の算段を継ぐ者の見えざる手によって誘導され、運命の交差点へと向けて確実に歩みを進めていた。
北から荊州を一直線に南下する、曹操軍十五万の『鋼の土石流』。
出立の時こそ、天を突くほどの士気と威容を誇っていた彼らであったが、新野、樊城、襄陽と南下を続けるにつれて、その強大な軍勢の内部には、目に見えない、しかし確実な『疲労と飢えの綻び』が生じ始めていた。
「……クソッ! また空っぽか! ネズミ一匹、米一粒すら残っていやがらねえ!!」
先鋒を務める夏侯惇は、無人となった村の井戸を蹴り飛ばし、怒号を上げた。
井戸には泥と動物の死骸が投げ込まれ、完全に使い物にならなくなっている。家屋の柱は焼かれ、畑の作物は青いまま根こそぎ刈り取られていた。
劉備軍が徹底して行った『焦土作戦』。
それは、十五万という大軍にとって、物理的な刃よりも遥かに恐ろしい猛毒であった。
通常、これほどの大軍を遠征させる場合、持参した兵糧だけでなく、現地の村々からの『略奪(徴発)』によって食料や水を補うのが常識である。しかし、荊州北部は劉備の避難指示によって、文字通りの『完全な無の荒野』と化していた。
「殿。前線の将兵から、水と兵糧の不足を訴える声が上がり始めております。現地での調達は不可能……。すべて、許昌や宛からの陸路輸送に頼らざるを得ません」
中軍の陣幕にて、荀彧が顔を曇らせて曹操に報告した。
十五万の人間が、一日三食を食う。それだけでも、山のような米が消えていく。さらに数万の軍馬が消費する水と飼葉(かいば)の量は、人間の比ではない。
それらすべてを、後方から馬車と人力で延々と運び続けなければならないのだ。
「劉備の関羽や張飛らが、我々の補給部隊を執拗に狙ってゲリラ戦を仕掛けてきている。護衛の兵を厚くすれば、その分だけ前線の進軍が遅れる……。まさに泥沼です」
郭嘉もまた、扇子で額の汗を拭いながらため息をついた。
南方の春は、中原の乾燥した気候とは異なり、ジメジメとした不快な湿気と、突然の雨が降り注ぐ。
雨によって泥濘(ぬかるみ)と化した道は、重い兵糧車の車輪を容赦なく沈み込ませ、輸送の速度を絶望的なまでに低下させていた。
「ええい、構わん! 止まるな、止まれば十五万の胃袋が自軍を食い破るぞ! 多少の犠牲には目をつぶり、強行軍で長江まで一気に押し下れ!!」
曹操は、血走った目で地図を睨みつけながら、全軍に非情な前進命令を下した。
どんなに兵站を極めようとも、焦土と化した未知の土地で十五万の大軍を維持し続けることは、神業に近い。
圧倒的な質量は、そのまま自らの首を絞める巨大な鎖となって、曹操軍の兵士たちの体力と士気を、ジリジリと、確実に削り取っていったのである。
焦土作戦による前線の飢えと疲労。
しかし、曹操軍が抱え込んでいた真の『絶望』は、外部からの攻撃ではなく、彼ら自身の最も安全であるはずの「軍の心臓部」に潜んでいた。
後方の兵站基地。
山積みにされた木簡と帳簿の壁の中で、兵站の全権を握る班稀は、一人静かに筆を動かし、膨大な数字の羅列を『処理』し続けていた。
「……前線の第三軍、湿気による皮膚病と腹下しの者が急増。至急、薬草の追加輸送を求む、か」
班稀は、その報告書を無表情に読み上げると、輸送指示の木簡に『承認』の朱印を押した。
しかし。彼はその輸送部隊の出発日時を、本来の計算よりも意図的に「二日後」に設定し、さらに輸送経路を「最近、雨で道が崩れかけている」と報告が上がっていた悪路へと、ごく自然な形で変更した。
「……これで、薬草が前線に届くのは五日遅れる。その間に、第三軍の疫病は防ぎきれないほどに蔓延するだろう」
班稀の工作は、それだけではない。
曹操が長江での水上戦を見据え、現地で接収した船を改修するために後方から送らせていた『大量の鉄釘と防錆(ぼうせい)用の油』。
班稀は、これらの発注書を書き換え、油の質を一段階低いものにし、鉄釘を湿気に弱い材質のものへと密かにすり替えていた。
「見た目には絶対に分からない。だが、長江の濃密な湿気と水飛沫を受け続ければ、一月もしないうちに、船を繋ぐ要の鉄がボロボロに腐食し始める」
一つ一つの細工は、十五万という巨大な軍の規模から見れば、ほんの数パーセントの「微小な誤差」に過ぎない。
薬が数日遅れる。油が少し足りない。船の釘が錆びやすい。
普段の曹操軍であれば、現場の臨機応変な対応で十分にカバーできる程度の些細な綻びである。
だが、焦土作戦によって疲労と飢えが極限に達し、未知の南方気候に晒されている今の曹操軍にとって。
その小さな『帳尻の狂い』は、軍の免疫力を完全に破壊する、猛毒の『獅子身中の虫』して機能し始めていた。
「……許せ、曹操殿。私は、己の血を守るために、貴方の十五万をこの南方の泥と水底に沈める」
班稀は、誰にも見られることのない薄暗い陣幕の中で、己の死刑宣告書とも言える「細工された帳簿」を撫でながら、静かに目を閉じた。
南へ逃げながら、曹操の体力を削り取る劉備の軍勢。
東から長江を遡り、牙を研ぐ周瑜の水軍。
圧倒的な質量を誇りながらも、焦土と獅子身中の虫によって内側から腐り始めている曹操の十五万。
中華の運命を決定づけるすべての役者たちと、すべての算段が、見えざる糸に引かれるようにして、長江の南岸――『赤壁』というひとつの決戦の地へと向けて、不気味な軋みを上げながら収束していった。
―――
中原の覇王・曹操が十五万の大軍を起こし、長江流域へと南下を開始したという未曾有の凶報は、海を越えて極東の島国――日本国の首都・長岡京の『大内裏』へといち早く届けられていた。
中原に潜伏させていた大和の間諜(特務官僚)たちが、風の向きと海流を読み切り、高速の連絡船を乗り継いで運んできた第一級の軍事情報である。
「……曹操の動員数、一十五万。目標は荊州、そしてその背後にある江東の孫呉」
大極殿の奥に設けられた最高首脳陣の軍議の間にて。
次期天皇たる皇太子・稚足彦は、届けられたばかりの報告書を読み上げ、重苦しい溜息を漏らした。
現在の日本国内政は、決して余裕のある状態ではなかった。
つい先月、極北の『高句麗』が燕の公孫康によって完全に滅ぼされ、日本国は公孫康との間で「朝鮮半島の南北境界」および「日本海側の海洋支配権」を確定させたばかりである。
巨大な軍事国家を地図上から消し飛ばすという大事業を成し遂げた直後であり、新たな領海と航路の警備、そして燕への外交的牽制など、処理すべき戦後の内政課題が山のように噴出し、大内裏にはピリピリとした極度の緊張感が張り詰めていた。
そんな矢先に飛び込んできた、中華のバランスを根底から覆しかねない『曹操の南征』。
しかし、若き皇太子と、その弟であり次期右大臣の親王・久仁彦の頭を最も悩ませていたのは、中原の戦乱よりも、むしろ『自分たち自身が提案してしまった、足元の巨大事業』の泥沼であった。
「……兄上。またしても、日本海側の造船所から『計画の遅延と予算の超過』を知らせる決済書が届きました」
久仁彦が、目の前に山積みになった竹簡の束を見つめながら、ひどく苦い顔をして呟いた。
彼ら兄弟が御前会議で大見得を切って提案した、『
未開の極寒の海を切り拓き、大陸の北東部と直接交易を行うというこの壮大な事業は、いざ実行に移してみると、文字通り「誤算と失敗の連続」であった。
未知の荒波に耐えるため、大和の兵部省と造船局は「新しい建造法(竜骨の強化と外洋帆船の試験)」を導入して船の整備を進めていた。しかし、設計図の上では完璧でも、現場の木材の強度が足りずに試験航海で浸水したり、冬の猛烈な季節風によって港の建設資材が丸ごと海に流されたりといったトラブルが相次いでいたのである。
「またか……。これで今月に入って三度目の予算追加だ。国庫の負担が跳ね上がり続けている」
稚足彦が、こめかみを揉みながらうめき声を上げた。
彼らは思わず、部屋の隅で凄まじい速度で筆を走らせている父――右大臣・広庭へと助けを求めるような視線を送った。
しかし。
「……私の顔を見ても無駄だぞ、お前たち」
広庭は、顔を上げることもなく、冷たく言い放った。
「私は今、高句麗戦後の兵站の清算と、来年度の全国の税収予測の決済で手一杯だ。お前たちが自分で広げた大風呂敷だろう。……一つ一つの失敗と予算の超過を、自らの頭で計算し、帳尻を合わせろ」
広庭だけではない。左大臣や各太政長官といった歴戦の老官僚たちも、若き親王たちの提出する甘い決済書を、まるで親の仇のように恐ろしい目で『睨みつけ』、容赦なく突き返してくる。
「……思い知らされますね、兄上」
久仁彦が、血走った目で帳簿の数字を睨みながら、自嘲気味に笑った。
「机の上で盤面を動かすのは簡単だ。しかし、実際に国を動かし、未知の海を拓くためには、これほどまでに膨大な官僚たちの汗と、そして何より……税を納め、木を切り、船を造ってくれる『大御宝』の血のにじむような労働が必要なのだと」
天才である広庭を言い負かし、少しばかり自信をつけていた秀才の若者たちは、今まさに「国家という巨大なシステムを維持する責任の重さ」に押し潰されそうになりながら、為政者としての本物の『胆力』を徹底的に鍛え上げられていたのである。
「……だからこそ、です」
稚足彦は、重い顔を上げ、手元の曹操軍の報告書を強く叩いた。
「我々日本が、大御宝の血と汗をすり減らしてまで北方の海を拓こうと四苦八苦している時に。曹操に中原を完全に統一され、我々の海にまで巨大な水軍を進出されては、日本の交易圏が根本から脅かされます」
久仁彦も深く頷き、その目には先程までの苦悩を乗り越えた、冷徹な算段の光が宿った。
「ええ。曹操に、この南征で勝たせるわけにはいきません。……あの男が十五万という大軍を南へ動かしている今こそ、中原の騒乱に介入し、曹操を『敗北』へと引きずり込む絶好の機会です」
では、いかにして介入するか。
大和国から大軍を派遣して曹操と正面から戦うなど、物理的にも予算的にも不可能である。しかし、彼らには今の自分たちだからこそ痛いほどよく分かる『曹操の最大の弱点』が見えていた。
「我々が、わずか数千の兵站と開拓事業でこれほど苦しんでいるのです。ましてや曹操は、焦土と化した未知の南方へ、十五万という途方もない大軍の胃袋を運んでいる」
稚足彦の言葉に、軍議の間を満たしていた老官僚たちも、思わず息を呑んだ。
「……その通りだ、稚足彦よ」
ついに筆を止めた広庭が、冷たい笑みを浮かべて口を開いた。
「いかに曹操が稀代の英雄であろうと、十五万の兵站線をあの長江の湿地帯で維持するなど、人の業ではない。
……ならば我々がやるべきことは、刀を抜くことではない。曹操の首を絞めている『兵站』という名の縄を、我々の手でさらに外側から強く引き絞ってやることだ」
大内裏の決済が下りたその日から。
海を隔てた日本国から、中原の覇王の足元を崩壊させるための『恐るべき見えない攻撃』が、極秘裏に、しかし大規模に開始された。
日本国が取った策は、極めてシンプルかつ凶悪な『経済操作』であった。
一つ。
大和の商船団を通じて、荊州の劉備軍および江東の呉軍(孫権)に対し、矢や武具、さらに南方特有の疫病を防ぐための『大和産の良質な薬草』や『干し飯』を、採算度外視の超破格で大量に売り捌き始めたのである。
これにより、本来ならば兵糧不足に陥るはずの劉備・孫権の同盟軍は、大和国という巨大な無尽蔵の後ろ盾を得て、万全の態勢で曹操を迎え撃つ準備を整えることができた。
二つ。
曹操軍が占領地(北方の沿岸部など)で買い集めようとしていた『水軍用の建材(油や良質な木材)』を、大和のダミー商人を使って相場の数倍の価格で根こそぎ買い占め、曹操陣営に猛烈な物価高騰と物資不足を引き起こさせた。
「……船の補修用油が市場から消えただと!? 鉄釘の価格が先月の十倍に跳ね上がっているとはどういうことだ!」
曹操軍の補給部隊の将たちは、狂乱する物価と枯渇する物資を前に、頭を抱えて絶叫することとなる。
そして三つ。
これこそが最も恐ろしい事実であるが、日本の中枢は、曹操軍の内部で兵站を司る『班稀』という男が、弟を守るために、すでに自らの命と引き換えに曹操の帳尻に「細工」を仕掛けているであろうことを、完全に『予測』していたのである。
「……班稀ならば、必ず長江の水上戦を見据えて、釘や薬の数字を狂わせるはず。我々大和は、外側から市場の物資を枯渇させることで、彼の『内側からの破壊工作』がさらに致命傷となるよう、盤面を整えてやればいい」
久仁彦が、地図の上に置かれた曹操の駒を、指先で冷酷に弾き飛ばした。
剣を交えることすらないまま。
十五万の大軍を率いる中原の覇王・曹操の頭上には、自らが抱える兵站の限界と、内側に潜む時限爆弾、そして極東の島国から放たれた『経済と物資による見えない土石流』という、三重の絶望の縄が音もなく掛けられようとしていた。