「……これ以上、待つことはできん。全軍、鎖をもって船を繋ぎ合わせろ! 揺れを止め、長江の波を平地へと変えるのだ!!」
西暦二百七年、初夏。
長江北岸・烏林の陣営にて。中原の覇王・曹操は、血走った両目を見開き、もはや狂気すら帯びた声で絶叫した。
大雨と泥沼の水練によって軍内部に蔓延した『日本住血吸虫』と『マラリア』。
これらの風土病は、日本国による薬草の経済封鎖と、班稀が仕掛けた兵站の遅延工作により、曹操軍の内部で一切の治療を施されることなく、猛威を振るい続けていた。
毎日、数百人単位で増え続ける死者。
生き残っている者たちも、高熱にうなされ、奇病によって腹を異常に膨れ上がらせ、恐怖と絶望によって完全に精神を破壊されていた。
曹操は悟ったのだ。このままここに留まれば、一月(ひとつき)もしないうちに十五万の軍勢は疫病によって『全滅』する。帰りの兵糧もない。ならば、軍の体を成している今のうちに、強引にでも長江を渡り、対岸の孫劉同盟軍を物理的な物量で押し潰すしかないのだと。
「しかし殿! 北方の兵は操船に不慣れ。その上、疫病で体力を削られた状態では、江東の熟練した水軍の格好の的となります!」
荀彧が血相を変えて諌めるが、曹操はもはや聞く耳を持たなかった。
「だからこそ、船を繋ぐのだ! 巨大な鉄の鎖と板で、数十隻の船を一つに固定しろ! そうすれば長江の波に揺られることもなく、我らが誇る無敵の騎兵や歩兵が、平地と同じように甲板を駆け抜けることができる!」
それは、史実において龐統が偽りの献策として曹操に吹き込んだとされる『連環の計』であった。
だが、この歴史における曹操は、何者かに唆されたわけではない。自らの兵の船酔いと、疫病による焦燥感から逃れるため、『自発的』にこの最悪の愚策へと飛びついてしまったのである。
「急げ! すべての船を鎖で固定し、巨大な水上の城塞を築き上げよ! 狙うは南岸の赤壁、劉備と孫権の首一つなり!!」
かくして、曹操軍の総攻撃が開始された。
長江の濁流の上に押し出されたのは、数十隻ごとに巨大な鉄の鎖でガチガチに連結され、さらにその上に歩み板を渡された、不格好極まりない『巨大な船団』の群れであった。
「……おおっ! 揺れないぞ! これなら歩ける、剣が振れる!」
「長江の波など恐れるに足らず! 数の暴力で対岸のネズミどもを踏み潰せ!」
高熱にうなされながらも、揺れない甲板に歓喜した華北の歩兵たちが、虚勢を張って鬨(とき)の声を上げる。
物量の上では、圧倒的であった。川面を埋め尽くす黒い要塞の群れは、見る者に根源的な恐怖を与えるほどの質量を持っていた。
しかし、彼らは本質的に『水上の素人』であった。
鎖で繋がれた巨大な船団は、確かに揺れには強くなったが、その代償として『機動力(操船の自由)』を完全に喪失していたのである。風を読み、流れに乗る技術がないため、ただ鈍重に川のど真ん中を漂う巨大な的に等しかった。
さらに恐ろしいことに。
その船と船を繋ぎ止めている巨大な『鉄釘』と『鎖の環(わ)』は、兵站局長・班稀が中原から取り寄せる際に、「湿気に極端に弱い、不純物の多い粗悪な鉄」へと密かにすり替えられていた代物であった。
ギシッ……ギギギィッ……!!
長江のうねりを受けるたび、粗悪な鉄の鎖は悲鳴を上げ、錆ついた接合部からは目に見えない細かなヒビが入り始めていた。
彼らは自らの足元が、見えない時限爆弾によって構成されていることなど露知らず、ただ狂気に急かされるように南岸へと死の行進を続けていたのである。
一方、それを迎え撃つ南岸・赤壁の同盟軍陣営。
「……来たな。無惨な死に体を引き摺って、ノコノコと大河の中央へ出てきおった」
江東の最高司令官・周瑜が、旗艦の甲板から曹操軍の鈍重な巨大船団を見据え、冷酷な笑みを浮かべた。
「風向きは?」
「東南の風、極めて良好! 我が軍の火船の背中を、力強く押し出しております!」
連合軍の軍船には、この日のために用意された『秘密兵器』が山のように積み込まれていた。
それは、劉備軍の頭脳である諸葛亮の妻――黄月英が弩の機構を応用し、自らの天才的な絡繰の知識をもって完成させた、恐るべき大量殺戮兵器。
その名を、『
「……ふふっ。我が愛しき妻が夜鍋をして作り上げた、殺意の結晶。とくと味わうがよい」
別の船上で指揮を執る諸葛亮が、手元の羽扇をバサリと振り下ろした。
元戎連弩。それは、一本ずつ矢を番える従来の弓や弩とは根本的に異なる兵器であった。
上部に木製の『弾倉』を備え、十本の短い鉄の矢を装填。射手は上部のレバーを前後にガシャガシャと動かすだけで、弦の引き絞りと矢の装填、そして発射を『連続的』に行うことができる、中原初の「セミオート連射兵器」である。
「構えぇッ!! 敵の巨大船団を射程に捉えたら、弾倉が空になるまで一斉に撃ち尽くせ!!」
劉備軍の指揮官たちの号令と共に。
連合軍の軍船の甲板にずらりと並べられた数千丁の連弩が、一斉にレバーを引かれた。
ガコンッ! ババババババッ!!
空を引き裂くような特異な発射音と共に、空を黒く覆い尽くすほどの『圧倒的な矢の弾幕』が、曹操軍の連結船団へと向けて斜め上から降り注いだ。
「な、なんだあの矢の数は!? ひぃぃっ!」
「盾を構え――ぎゃあああっ!!」
一本の矢を防いだところで無意味であった。元戎連弩から放たれる矢は、間髪入れずに二本目、三本目と連続して飛来する。
隙間なく鎖で繋がれ、逃げ場のない甲板上に密集していた曹操の北方の兵たちは、まるで嵐に打たれる麦の穂のように、次々と全身に矢を突き立てられてなぎ倒されていった。
「怯むな! 前へ進め! 対岸に取り付けば我らの勝ちだ!」
曹操軍の将校たちが怒号を上げるが、疫病で体力を失っていた兵士たちに、その無慈悲な弾幕を掻き分けて進む力など残されてはいなかった。
血の雨が甲板を濡らし、長江の濁流を赤黒く染め上げていく。だが、これは曹操軍を襲う『真の地獄』の、ほんの序曲に過ぎなかった。
「……敵の足が完全に止まったな。連弩の弾幕で身動きが取れぬようだ」
周瑜が、東南の風を背に受けながら、剣を空へと掲げた。
「ならば、今こそトドメを刺す! 黄蓋将軍! 準備しておいた『アレ』を、曹操の喉元へ叩き込んでやれ!!」
「承知ィッ!!」
江東の老将・黄蓋の指揮のもと、数十隻の小型の快速船が、同盟軍の陣形をすり抜けて、曹操の巨大船団へと向かって猛烈な速度で突進を開始した。
その船の甲板には、兵士の姿はない。代わりに、枯れ草、薪、硫黄、そして強烈な『引火性の油』が、山のように積まれていた。
『
「なっ……火船だと!? 迎撃しろ! 船を近づけるな!」
曹操が本陣の旗艦から絶叫する。
しかし、連弩の弾幕に頭を抑えられ、鎖でガチガチに身動きが取れなくなっている曹操の巨大船団には、突っ込んでくる小型の火船を躱す機動力など微塵もなかった。
ドゴォォォォンッ!!
凄まじい衝撃音と共に、風を一杯に受けた黄蓋の火船が、曹操の連結船団の側面に深々と突き刺さった。
そして、火船に仕掛けられていた導火線が燃え尽きた瞬間。
ゴォォォォォォォォッ!!!
積載されていた硫黄と油が大爆発を起こし、長江の水面を真っ赤に染め上げる『紅蓮の炎』が、天を衝く勢いで立ち上った。
「火だァッ! 船に火が移ったぞ!!」
「鎖を切れ! 燃えている船を切り離すのだ! 早くしろ!!」
曹操軍の将たちがパニックに陥りながら、船を連結している巨大な鉄の鎖を断ち切ろうと大斧を振り下ろす。
しかし、ここでついに、班稀が仕掛けていた『最悪の時限爆弾』が、その真の牙を剥いた。
ガァンッ! ガァンッ!!
「だ、駄目です! 鎖の接合部が、長江の湿気のせいで完全に錆び付いて、癒着してしまっています! 斧で叩いてもビクともしません!!」
「なんだと!? 莫迦な!!」
史実における赤壁の戦いでは、曹操軍はなんとか鎖を断ち切って一部の船を逃がそうとした。
だが、この歴史においては違う。
日本の経済封鎖によって良質な防錆油が手に入らず、班稀がすり替えた『粗悪な鉄』は、完全に錆の塊と化して複雑に絡み合い、いかなる怪力をもってしても外すことができなくなっていたのである。
「う、うわああああッ!! 炎が来るぞォォッ!!」
東南の強風に煽られた炎は、外すことのできない鎖と歩み板を伝い、隣の船へ、また隣の船へと、まるで巨大な導火線を走るように瞬く間に延焼していった。
曹操の軍船は、自らが用意した『絶対に揺れない連環の鎖』によって、『十五万の兵を閉じ込めたまま燃え上がる、巨大な水上の棺桶』へと変貌したのである。
「ぎいやあああああッ!!」
「熱い! 助けてくれ!!」
燃え盛る甲板の上で、華北の兵士たちが全身を炎に包まれながら狂い回る。
逃げ場など、どこにもない。
前方からは、諸葛亮の連弩が容赦なく矢の雨を降らせ、甲板に立つ者の命を刈り取っていく。
後方と左右は、紅蓮の炎に包まれ、木材が焼け落ちる轟音が響き渡っている。
「……水だ! 川へ飛び込め! 焼け死ぬよりはマシだ!!」
炎の熱と恐怖に耐えきれなくなった兵士たちが、次々と重い甲冑を着たまま、長江の濁流へと身を躍らせた。
だが、彼らは北方の兵であり、元々泳ぐことなどできない。その上、彼らの体は『日本住血吸虫』と『マラリア』によって極限まで衰弱し、腹水でパンパンに膨れ上がっているのだ。
「ごぼっ! ぶくぶく……っ! た、助け……っ」
長江に飛び込んだ兵士たちは、誰一人として浮かび上がることなく、ただ無様に水を飲み込み、重い甲冑と共に暗い水底へと沈んでいった。
炎に焼かれて黒焦げになるか。
矢に射抜かれてハリネズミになるか。
濁流に飲まれて溺れ死ぬか。
あるいは、腹の中の寄生虫に食い破られて死ぬか。
圧倒的な質量を誇った中原の覇王の軍勢は、勇壮な激突など一切ないまま、ただ大自然の猛威と極東の算段によって、史実よりも遥かに無様で、残酷で、一方的な『虐殺の宴』の供物と化していたのである。
―――
赤壁の空が紅蓮の炎に染まり、長江が死者たちで埋め尽くされていたその頃。
決戦の地から遥か南、劉備軍の後方拠点である『江夏』の奥深く、厳重に警護された静かな屋敷の居間にて。
二人の女性が、静かに湯気を立てる大和産の茶を挟んで、卓の向かい合わせに座っていた。
一人は、比企景明の妻であり、かつて并州(へいしゅう)騎兵を率いた天下無双の女将・呂綏。
彼女は、身重で大きく膨らんだ腹を愛おしそうに撫でながら、どこか退屈そうに、しかし落ち着かない様子で窓の外の曇り空を眺めていた。
そしてもう一人は、諸葛亮の妻であり、あの恐るべき『元戎連弩』の生みの親である稀代の絡繰師・黄月英である。
彼女は、美しくも知的な顔立ちに微かな笑みを浮かべ、手元の図面(新たな農具の設計図)に筆を走らせていた。
「……そわそわしておられますね、呂綏殿」
月英が、図面から目を離さずに、からかうような声で言った。
「ふん。そわそわなどしていない。ただ……この腹の重さにも慣れてきたというのに、景明の奴め、私をこんな安全な部屋に押し込めて、自分だけ戦場へ行きおって。腹立たしいだけだ」
呂綏は、手元の茶杯を少し乱暴に置いた。
その言葉とは裏腹に、彼女の双眸の奥には、夫である景明の安否を案じる、深い愛情と祈りが込められていた。
「ご心配には及びませんよ」
月英は、筆を置き、真っ直ぐに呂綏の目を見つめた。
「あの赤壁の陣は、私の夫と、貴女の夫が、何ヶ月も前から算段をもって緻密に織り上げた『完全なる死の蜘蛛の巣』です。……曹操の十五万がいかに強大であろうと、絶対に抜け出すことはできません」
月英の声には、夫の知略に対する絶対的な信頼と、自らが設計した兵器への揺るぎない自信が満ちていた。
「それに……私がこの手で組み上げた『連弩』たちが、今頃、曹操の兵たちを小気味よく血祭りにあげているはずですから」
美しい顔に、ふと冷酷な『兵器開発者』としての笑みが過る。
「……お前も、なかなかに恐ろしい女だな、月英」
呂綏が呆れたようにため息をついた。
「あら、天下無双の飛将殿に言われたくはありませんね。……でも、私たちは似ているのかもしれません」
月英は、優しく呂綏の膨らんだお腹へと視線を落とした。
「男たちは、血を流し、盤面を動かして『天下』を争う。でも、私たちが本当に守りたいのは、天下の覇権などではありません。ただ……愛する夫が必ず無事に帰ってくること。そして、新しく生まれてくる命が、平和な世を歩めること。……そのために、私たちは彼らに『力』を貸しているのです」
呂綏は、月英の言葉に、ゆっくりと頷いた。
「ああ、その通りだ。……景明は、私に約束した。『必ずお前と子供を守り抜く』とな。あの男は、戦においては冷酷な算段の化物だが、私への約束だけは、死んでも破らん」
二人の妻たちは、互いの夫への絶対的な信頼を胸に抱きながら。
遥か北の空を染める微かな『赤い光』を見つめ、静かに、ただ静かに、決戦の結末を知らせる使者の到着を待ち続けていた。
―――
「殿ォッ! こちらです! 小舟を用意いたしました! 早くお乗りを!!」
赤壁の長江が、十五万の悲鳴と紅蓮の炎に包まれる中。
曹操は、顔を煤で真っ黒に汚し、兜も投げ捨て、髪を振り乱しながら、炎の隙間を縫って辛うじて接岸された一隻の小舟へと転がり込んだ。
「……ぐ、おおおおぉぉッ!! 余の、余の十五万の精鋭が……ッ!!」
小舟の上から振り返った曹操の目に映ったのは、自らの野望のすべてが、燃え盛る船団と共に長江の底へと沈んでいく絶望の光景であった。
中原を制し、天下統一を目前にしていた覇王の威厳など、見る影もない。
彼に従って逃げ出せたのは、張遼や徐晃といった数名の猛将と、わずか数十騎の親衛隊のみであった。
「殿、泣いている暇はありません! 南岸から、周瑜と劉備の追撃の船が迫っております! ただちに陸に上がり、北へ逃れねば!!」
史実においても曹操は赤壁で大敗し、
しかし、この歴史における彼の敗走は、さらに悲惨を極めた。
なぜなら、逃げ惑う彼らの体内にもまた、南方の風土病の熱が確実に蝕み始めており、算段によって兵站を断たれた彼らには、道中の村で奪うべき食糧すら一切残されていなかったからである。
「……おのれ、おのれ諸葛亮! おのれ周瑜! そして、極東の算段の化物どもめェェェッ!!」
中原の覇王・曹操は、血の涙を流しながら、泥と雨と疫病に塗れた荊州の大地を、ただ命惜しさに北へ北へと這いずり回るように逃げ去っていくのであった。
―――
そして、夜が明け、長江の炎がようやく鎮火へと向かい始めた頃。
江夏の屋敷に、泥だらけになった一騎の早馬が飛び込んできた。
「ご報告申し上げます!!」
伝令の兵士は、呂綏と黄月英が待つ居間の前で膝をつき、興奮で声を震わせながら絶叫した。
「……赤壁にて、我が孫劉同盟軍、『完全なる大勝』にございます!! 曹操軍十五万の巨大船団は、炎と連弩の雨によって長江の藻屑と消え去りました! 敵軍は完全に壊滅し、曹操はわずかな兵と共に北へ敗走! 我が軍の損害は、極めて軽微!!」
「……っ!!」
呂綏が、バッと立ち上がり、その瞳を歓喜に見開いた。
月英もまた、静かに筆を置き、胸の前で両手をギュッと握りしめた。
「して、軍師殿と、比企様は!? 両名は無事か!」
呂綏が、身を乗り出して伝令に問い詰める。
「は、はい! 諸葛亮様も比企様も、傷一つ負っておられません! 現在、後処理の兵站指示を終えられ、こちら(江夏)の屋敷へ向けてお戻りの途中にございます!!」
その報告を聞いた瞬間。
天下無双の女将の目から、ポロリと一粒の安堵の涙が零(こぼ)れ落ちた。
「……ふっ、はははっ! あたりまえだ。あの男が、私を置いてくたばるはずがないだろう」
呂綏は、目元を乱暴に拭うと、自らの大きなお腹をポンと優しく叩いた。
「聞いたか、坊主。お前の父親は、天下の曹操の十五万を、ただの計算式と兵糧の差配だけで消し飛ばして生還する……とんでもない大悪党だぞ」
その横で、月英もまた、窓から差し込む朝日に顔を向け、美しく、晴れやかな笑みを咲かせていた。
「……お疲れ様でした、あなた。これでようやく、天下に少しの安寧が生まれますね」
西暦二百七年、初夏。
長江を赤く染め上げた中華最大の決戦『赤壁の戦い』は。
曹操軍の圧倒的な質量の前に、算段、大自然の風土病、そして絡繰の魔女がもたらした新兵器が完璧に噛み合うことで、史実を遥かに凌駕する『一帯的で無様な殲滅戦』という結末をもって、ついにその幕を下ろした。
そして、戦火から遠く離れた後方の地で、男たちの帰りを待ち続けた妻たちの静かな祈りは。
長江を吹き抜ける熱い勝利の風と共に、来るべき三国鼎立と、極東の影が覆う新たな時代の幕開けを、確かに祝福していた。
―――
赤壁の炎を背に、曹操の十五万の軍勢は、もはや組織としての体を成していなかった。
それは「軍隊の行軍」ではなく、死の恐怖に追われて泥土を這う「敗残兵の群れ」であった。
逃走の果てに病に倒れる兵が続出する。
高熱にうなされ、腹を抱えて悶え苦しみ、道端でそのまま事切れる者たち。
かつては中原を席巻した誇り高き華北の雄たちも、今の彼らには立ち上がる気力すら残されていない。彼らの唯一の望みは、たった一時間でも長く、この地獄のような荊州の地から遠ざかることだけであった。
「追えェッ!! 敵に休息を与えるな!!」
背後からは、比企景明が率いる『新野騎兵』たちが、鬼の形相で追撃を仕掛けてきた。
彼らは、かつて劉備の下で新野の守りに就き、誰よりもこの地の地形を知り尽くしている。彼らは逃げ惑う曹操軍の動線を見切り、ゲリラ的な奇襲で食糧や水、さらには武器すら奪い取り、敵を物理的・精神的に追い詰めていった。
逃げ道に伏せられた罠、冷徹な一斉射撃。
曹操軍の兵たちは、為す術なく倒れ伏し、追撃の手を緩めない新野騎兵たちの蹄の音に怯えながら、泥の中で絶望的な最期を迎えていったのである。
―――
曹操は、襄陽の守備兵力すらも維持できなくなっていた。
南方の拠点をすべて放棄せざるを得ない状況に追い込まれ、彼は北へと敗走を続ける中で、ある一つの場所へと視線を向けた。
それは、劉備がかつて治め、現在はもぬけの殻となっているはずの『新野県』であった。
「……ここを失えば、中原の扉は完全に開放される。許昌まで劉備に追い詰められるわけにはいかん!」
曹操は、新野の城跡にたどり着くと、残存した数万の兵を動員し、死に物狂いで強固な防衛線を構築した。
元々この地は劉備が長年防衛の拠点として改良を加えていた場所であり、城郭の構造は堅固である。曹操は残されたわずかな資材と、倒れた兵たちの遺体、そして自らの威信を積み上げ、ここに『絶対防衛線』を作り上げた。
その執念が功を奏したのか。
執拗に追撃してきた劉備軍の新野騎兵たちも、曹操が捨て身で築き上げた堅固な新野の防衛線を前に、これ以上の深追いは被害が甚大になると判断。追撃を停止し、両軍は新野を境界として膠着状態に陥った。
前線は、『樊城』と『新野県』という二つの要衝を挟み、劉備軍と曹操軍が血の海を隔てて睨み合う形となった。
曹操は、もはやかつての余裕など微塵もなかった。
北からは、劉備軍の新野騎兵が常に視界の中にあり、その背後には連合軍の諸葛亮や比企景明が、さらなる『算段』を練って待ち構えている。
「……劉備め。あの日の捨て身の焦土作戦と、疫病という不運がなければ、今頃は長江の南で酒を飲んでいたはずなのに……ッ」
曹操は新野の天幕で、血走った目で戦況図を睨みつける。
一方の劉備陣営もまた、疲弊した軍を立て直すために安易な突撃は行わず、曹操の敗残兵が疫病と飢えで自滅するのを待ちつつ、同時に江東の孫権との連携を強めていた。
荊州の北半分は、曹操の防衛線。
荊州の南半分は、劉備・孫権連合の掌握下。
この両軍が新野と樊城を境に睨み合う『均衡の地帯』は、中華の未来を決定づけるまでの長きにわたる、血で汚れた緊張の舞台となった。
巨大な火船の炎は消えたが、新たな、そしてより凄惨で長期的な消耗戦の火蓋が、劉備の古巣である新野の地で、ひっそりと、しかし確実に切って落とされたのであった。
―――
赤壁の炎が鎮火し、曹操の巨大な脅威が北の新野(しんや)へと退いてから数週間。
未曾有の国難を乗り越えた荊州と江東であったが、祝勝の美酒に酔いしれる時間はあまりにも短かった。
曹操という『共通の巨大な敵』が目の前から消え去った瞬間、劉備軍と孫権軍という、一時的な利害一致だけで結ばれていた両者の間に、極めて現実的で生々しい問題が噴出したのである。
『領の帰属問題』である。
現在、荊州の広大な領土は、亡き劉表の正統なる後継者である劉琦の御旗のもと、劉備軍が丸々一つを事実上抱え込んでいる状態にあった。
しかし、孫呉からすれば、この状況は到底受け入れられるものではない。
「我ら江東の軍勢は、数万の兵を動員し、莫大な軍資金と船を投じて共に曹操を打ち破ったのだ。……だと言うのに、劉備が荊州を丸取りし、我が国には何の恩恵もないだと? ふざけるな!」
孫権の陣営が激怒するのは当然のことであった。
彼らは同盟者ではあるが、決して「仲の良い友人」ではない。国家の存亡を懸けて兵を出した以上、血と金の対価として、新たな領土を要求するのは軍略と政治の絶対の理(ことわり)であった。
一歩間違えれば、曹操との死闘を終えたばかりの長江で、今度は劉備と孫権による泥沼の領土戦争が勃発しかねない。
この一触即発の危機を収拾するため、両軍の代表者による極秘の『領土交渉』が、長江の船上にて執り行われることとなった。
交渉の場に選ばれたのは、両軍の陣営の中間に停泊させた一隻の豪奢な楼船の船室であった。
「……久しぶりだな、孔明」
先に席に着いていた孫呉の使者が、静かに口を開いた。
温和でありながらも、決して隙を見せない理知的な瞳を持った男。孫権の深い信任を受ける重臣にして、江東の頭脳の一角
――
「ええ。お久しぶりです、兄上」
向かいの席に座り、羽扇を静かに卓の上に置いたのは、荊州の全権を担う劉備軍の最高軍師――諸葛亮。
そう、中華の未来を決定づけるこの巨大な領土分割交渉は、皮肉にも、互いに別の主君に仕える『血を分けた実の兄弟』の論陣によってすべてが決せられることとなったのである。
「私的な情を挟む気はない。江東の使者として、単刀直入に要求を伝える」
兄の諸葛瑾は、姿勢を正し、厳しい声で切り出した。
「我が孫呉は、長江の南岸一帯、および江夏を含む荊州の東半分の割譲を求める。赤壁で炎を放ち、曹操の船団を焼き払ったのは我が軍の黄蓋であり、江東の兵たちの血だ。その対価として、荊州の一部を頂くのは当然の権利であるはずだ」
兄の真っ直ぐな要求に対し、弟の諸葛亮は涼涼しい顔を崩さず、静かに首を横に振った。
「子瑜(しゆ・諸葛瑾の字)殿。その要求は、道理に反します。……現在、荊州の長はあくまで故・劉表様のご長男である劉琦様です。我が主君・劉備は、正統なる荊州牧である劉琦様を『お支えしている』立場に過ぎません。客将の身分である我々が、主の領土を勝手に他国へ割譲することなど、忠義に照らして不可能です」
見事な『建前』の盾であった。荊州は劉備のものではないのだから、譲りたくても譲れないという論理である。
「詭弁だな。病弱な劉琦殿の背後で、荊州の実権を完全に握っているのはお前たちだろう」
諸葛瑾が眉をひそめる。
「それに、もう一つ重要な『事実』があります」
諸葛亮は、卓の上の白地図を指差した。
「曹操は敗れたとはいえ、未だ北の新野に陣を敷き、中原の国力を背景に虎視眈々(こしたんたん)と南下を狙っています。……誰が、あの曹操の怨念を正面から受け止める『防波堤』になるのですか?」
諸葛亮の目が、極めて冷酷な軍略家のそれに変わった。
「我々劉備軍が、荊州という巨大な領土の兵糧と税を丸々使って軍を維持し、北の国境に立ち塞がるからこそ、孫呉の皆様は平和な江東で安眠できるのです。……ここで我々から領土を奪い、劉備軍の体力を削れば、北の防波堤は決壊し、曹操の水軍が再び長江を下って貴国を襲うことになりますぞ。それでもよろしいか?」
「……」
諸葛瑾は沈黙した。弟の指摘は、江東が抱える痛いところを正確に突いていた。
孫呉には、荊州の北半分まで進出して曹操と直接国境を接し、泥沼の防衛戦を泥被りするような余裕はないのだ。
兄は深く息を吐き、口元に微かな苦笑を浮かべた。
「相変わらず、隙のない理屈を並べる。……だが孔明よ。我が主君や、血の気の多い周瑜の顔を立てるための『実利』がなければ、私は江東へ帰ることができん。お前とて、今ここで孫呉と手切れになり、背後を脅かされるのは本意ではなかろう?」
そこからは、天下の天才兄弟による、極めて緻密で高度な『落とし所』の探り合いであった。
「……承知しております。では、こうしましょう」
諸葛亮が、白地図の上に一本の線を引いた。
「荊州の南部に位置する
それは、荊州の政治的な中心と北方の防衛線は劉備が完全に維持しつつ、南方の手薄な領土の実利と、莫大な物資を孫呉に渡すことで『戦の対価』とするという、絶妙な妥協案であった。
「……完全な割譲ではなく、あくまで『孫呉の顔を立てるための貸し』というわけか。抜け目のないことだ」
「比企景明殿が弾き出した、両軍がギリギリ納得できる限界の帳尻です。……我々は今、争うべき時ではありません」
諸葛瑾は、弟の提示した条件と数字の正確さを脳内で反芻し、やがて静かに頷いた。
「よかろう。この条件であれば、我が君と周瑜を説き伏せることができる。……孔明。お前も、良い主と仲間に恵まれたようだな」
「兄上こそ。いつかまた、こうして茶を飲みながら語り合える日が来ることを願っております」
激闘の直後に訪れた同盟決裂の危機は。
極東の算段を裏付けとした諸葛亮の交渉術と、兄・諸葛瑾の冷静な判断力によって回避され、表向きは『強固な孫劉同盟の継続』という形を保ったまま、新たな三国鼎立の時代へとその形を整えていったのである。