曹操の十五万という未曾有の脅威を退け、赤壁の大勝を収めた劉備軍の陣営は、その夜、割れんばかりの歓声と狂乱の祝杯に包まれていた。
「痛快! 実に痛快よ! あの曹操が泥に塗れて逃げ惑う様、思い出すだけで酒が進むわ!」
張飛が大笑いしながら巨大な酒樽を傾け、関羽や趙雲ら猛将たちも、死地を生き抜いた喜びを分かち合いながら杯を交わしている。
彼らは信じていた。この大勝をもって、中原に蔓延る巨大な悪は打ち払われ、間もなく平穏な世が訪れるのだと。
だが、その喧噪の輪から少し離れた場所で、静かに杯を舐める男たちの目には、全く異なる『未来の盤面』が映っていた。
(……阿呆どもめ。一つの強大な脅威が退いたということは、すなわち、残された勢力による『泥沼の領土争い』が始まるということだ)
比企景明は、手元の強い酒をまるで真水を飲むかのように一息に飲み干した。
その顔には、どれだけ酒を煽っても一滴の赤みも差さず、酔いの色は微塵もない。彼と、そして軍師である諸葛亮たち学士だけは、この赤壁の勝利が『終わりの始まり』に過ぎないことを肌で感じ取っていた。
これから始まるのは、中原の魏、江東の呉、そして劉備の陣営による、果てしなく長い――世代を跨ぐほどの泥沼の国境紛争である。
景明は、狂喜乱舞する武将たちの輪から音もなく立ち上がると、一人、祝宴の陣幕を抜け出して夜の闇へと足を踏み入れた。
見上げれば、季節柄のどんよりと重い雲が、月と星を完全に覆い隠している。
景明は、その分厚い雲の向こう側に、これから彼らが血泥を這って進まねばならない『見えない未来の道筋』を透かし見るように、じっと空を見つめ続けていた。
「……ここにおられましたか、景明殿」
ふと、景明の隣に、静かな足音が立ち止まった。
手には小さな酒の入った壺を持っている。この陣営において、景明と同じく未来の泥沼を見透かしているもう一人の男、諸葛亮であった。
「宴の席を抜けるとは、貴方らしくもない」
「俺は元々、騒がしいのは性に合わん。それに、次から次へと舞い込んでくるであろう兵站の調整を考えれば、酔っている暇などないからな」
景明が視線を空から外さずに答えると、諸葛亮は小さく笑い、自らの杯に酒を注いだ。
しばらくの間、二人は言葉を交わさず、遠く陣幕から漏れ聞こえる歓声を背にしながら、重い曇天を見上げていた。
やがて、諸葛亮がポツリと、独り言のように語り始めた。
「……私の生まれは、徐州の泰山郡というところです」
「ほう」と、景明が短く相槌を打つ。
「私がまだ数えで四つほどの幼子であった頃。あの忌まわしい『黄巾の乱』の戦火が故郷を焼き、私の父は、幼い私や家族を連れて南へと逃げ延びました」
諸葛亮の目は、目前の暗闇ではなく、遥か昔の記憶の底――戦火と悲鳴に追われながら歩き続けた、あの日の逃避行の景色を見つめていた。
「……その逃避行の最中、海が見える場所に出た時のことです。私は、水平線の彼方を白波を立てて進む、奇妙な『船の群れ』を見ました」
諸葛亮の言葉に、景明が杯を口へ運ぶ手が、ほんの僅かに止まった。
「それは、私が知る漢の商船でも、水軍の船でもありませんでした。……装飾を排した無機質な船体、鋭く切り立った構造。そして何より、風や波の抵抗を一切無視しているかのような、凄まじく直線的で速い動き。……子供心に、それが『我々の世界の理』とは全く違う法則で動いているのだということが、強烈に焼き付きました」
諸葛亮は、杯の酒を見つめながら静かに言葉を紡ぐ。
「父は、それが東の海から来た未知の国の船であろうと言いました。……それから後年、私が学問を修め、過去の宮廷の記録を読んだ時に、一つの事実を知りました。あの時私が見た船団こそが、大漢帝国の宮廷に現れ、時の皇帝を愚弄する国書を叩きつけたという、東方の使節団のものであったのだと」
『日出処の天子、日没する処の天子を致す、恙なきや…』
「……不思議なものです。我々が同胞同士で血を流し、泥に塗れて殺し合っている最中に、あの船に乗っていた者たちは、星や海流という『冷徹な数字』だけを見つめ、一切の無駄なくただ前へと進んでいた。
……私は、あの時に垣間見た東の海の理に、底知れぬ畏怖と、そして憧れを抱いたのです。」
諸葛亮は、そこで言葉を区切り、横顔を見せたまま沈黙している景明へと、ゆっくりとその理知的な瞳を向けた。
「……景明殿。貴方が組む兵站の算段、そして、その底流にある一切の感情を排した冷酷なまでの合理性は、我々中原の人間が持つ『血の匂い』とは根本的に異質です」
諸葛亮の声は、風に溶けるように静かであったが、確かな確信に満ちていた。
「貴方は……あの船の国。はるか東の海に在るという『倭国(ヤマト)』から、この大陸へと渡ってきた方なのですか?」
直球の問い。
もし彼がただの客将であれば、あるいは細作として潜り込んでいるのであれば、この場を取り繕い、否定するのが定石であろう。
だが、景明は黙したままであった。
彼は否定も肯定もせず、ただ静かに、残っていた杯の酒をゆっくりと啜った。
そして。
曇天の空を見上げたまま、ポツリと、ひどく無骨で、しかし真理を突いた一言を口にした。
「産まれの場所よりも、何かを成したいと思った時、どう行動するかなんてのは、人それぞれだ」
出身がどこであろうと、過去がどうであろうと関係ない。
自分が今、誰のために盤面を動かし、誰の命を護るために兵站を組んでいるのか。その『行動』こそが、自分という人間のすべてである。
「……」
その言葉の奥にある、景明の不器用な誠実さと、底知れぬ覚悟の重さ。
諸葛亮は、それ以上出自を問いただす野暮な真似はしなかった。彼は満足そうに目を細め、何かを深く納得したように、ふっと穏やかな笑みを浮かべた。
「……ええ。おっしゃる通りです。貴方がどこから来ようとも、今、我々と同じ空の下で、同じ主君を支えてくれている。それ以上に確かなことはありません」
諸葛亮は、自らの杯を、景明の持つ杯へと軽く掲げた。
「これからも、頼りにしていますよ。……出処(しゅっしょ)の知れぬ、我が軍最高の算段の徒」
夜風が、二人の間を静かに吹き抜けていく。
どんよりとした曇り空の向こうで、新たな時代のうねりが不気味な胎動を始める中。極東の理を宿した男と、それを受け入れた中華の天才は、言葉少なに、共に歩むべき茨の道へと静かに杯を傾けるのであった。
―――
赤壁の大勝から数ヶ月。
劉備軍の庇護の下、荊州の正統なる統治者として君臨する劉琦は、江夏の自室の寝台で、浅い咳を繰り返しながら深い憂愁に沈んでいた。
「……勝ったとはいえ、息をつく暇もないな」
曹操の十五万という未曾有の大軍を退けたことは、奇跡のような戦果であった。劉備や諸葛亮たちには、どれだけ感謝してもしきれない。
だが、劉琦は決して暗愚な君主ではなかった。病弱ではあるが、周囲の状況を冷静に見渡すだけの知性は持ち合わせている。だからこそ、彼の心には『強烈な危機感』が渦巻いていたのである。
曹操は敗れたとはいえ、中原の広大な領土と無尽蔵の国力を持っている。今は北の新野で態勢を立て直しているが、数年もすれば、必ず再び巨大な牙を剥いて南下してくるだろう。
その時、果たして江東の孫権は、再び荊州と同盟を結んで共に戦ってくれるだろうか?
「……否、だ。あの領土交渉の時の孫呉の使者の目。あれは、隙あらば我々の背後から喰らいつこうとする、飢えた虎の目であった」
劉琦は、薄暗い天井を見つめながら独り言をこぼした。
荊州は、四方を平野と大河に囲まれた交通の要衝である。それはすなわち、北からは曹操、東からは孫権という巨大な二つの勢力から常に狙われ続ける『四面楚歌の平地』であることを意味していた。
いかに劉備の軍が精強であろうと、守るべき天然の要害(防壁)が少なすぎる。このままでは、いずれ荊州はすり潰される。
どうすれば、この荊州の民と、自分を支えてくれる劉備たちを守り抜くことができるのか。
劉琦は、熱に浮かされる頭で中華の地図を思い描き、そしてふと、ある一つの『広大な土地』へと意識を向けた。
西の果て。険しい山脈に囲まれた天然の巨大要塞――『益州』である。
「……そういえば、益州を治めているのは、私や劉備殿と同じく、漢の皇室の血を引く同宗の縁者……劉璋殿であったな」
劉琦の脳裏に、商人や流民から耳にしていた益州の噂が蘇る。
聞くところによれば、劉璋という男は争いを好まず、領内には極めて行き届いた『善政』が敷かれており、民は豊かに暮らし、彼を深く慕っているという。
だが、同時にこうも囁かれていた。
「益州の軍隊は、決して強くはない。中原の修羅場をくぐり抜けた精鋭たちに比べれば、あまりにも戦慣れしていない」と。
平和で安全な土地と、豊かな物資。しかし、それを外敵から守り抜くための『強大な武力』が欠けている。
その事実に思い至った瞬間、劉琦の頭の中で、バラバラだった二つの国の状況が、一枚の絵のようにピタリと重なり合った。
「……互いに、持たざるものを補い合えるのではないか?」
劉琦は、寝台の上で身体を起こし、微かに目を輝かせた。
我が荊州には、曹操の十五万を打ち破った劉備殿という『最強の矛と盾』がある。だが、それを安全に養い、背後を脅かされることなく腰を据えるための『天然の要害』がない。
一方の益州には、他国が容易に攻め込めない『絶対の安全と豊かな兵糧』がある。だが、いずれ曹操や孫権が山を越えて攻め込んできた時、それを撃退するだけの『強力な軍隊』がない。
ならば。同じ劉氏の血を引く者同士、手を結べばよいのだ。
荊州の軍事力で益州の防壁を守り、益州の兵糧と地形で荊州の兵を養う。この二つの州が完全に連携すれば、いかなる巨大な外敵にも対抗し得る『強大な独立国家』が誕生する。
「これだ……。これしか、我らが曹操や孫呉に対抗して生き残る道はない!」
劉琦は、病の熱とは違う興奮に頬を紅潮させながら、ただちに近習を呼びつけた。
「劉備殿を……! 劉備殿と、諸葛亮殿をすぐに呼んでくれ! お話ししたいことがあるのだ!」
程なくして、劉琦の病室に、劉備と諸葛亮が急ぎ駆けつけてきた。
「劉琦殿! いかがなされた、ご気分でも優れませぬか!?」
劉備が血相を変えて寝台の傍らに寄り添い、その手を強く握りしめた。劉備にとって、劉琦は己を頼ってくれた大切な主筋の若者であり、その身を心から案じていた。
「劉備殿、叔父上……。私の体は大丈夫です。それよりも、聞いていただきたいのです。我が荊州の、これからの生き残る道について……」
劉琦は、息を整えながら、先ほど自らの頭の中で組み上げた『益州との連携』の構想を、必死に言葉にして紡ぎ出した。
曹操が態勢を立て直せば、必ず再び攻めてくること。
孫呉は信頼しきれる同盟国ではないこと。
そして、西の益州には『安全と富』があり、我々には『武力』がある。同宗である劉璋殿と手を結び、互いに助け合うことこそが、天下の安寧に繋がるのではないか、と。
「……叔父上の軍事力と、益州の守りがあれば、我々は誰にも怯えることなく、この乱世を生き抜くことができます。どうか、この荊州と益州を結びつける使者として、動いてはいただけないでしょうか」
劉琦は、懇願するように劉備の目を見つめた。
それは、純粋に国と民の行く末を案じた、若き君主の無垢なる願いであった。
「劉琦殿……。貴方という人は、病にありながら、そこまで深く天下の民の安寧を……」
劉備は、その言葉に深く心を打たれ、熱い涙を浮かべて幾度も頷いた。
だが。
劉備の後ろに控えていた諸葛亮の心境は、感動に咽ぶ主君とは全く異なるものであった。
(……なんと。まさか劉琦殿の口から、直接この提案が出ようとは)
諸葛亮は、羽扇で口元を隠しながら、心の中で驚嘆の息を漏らしていた。
彼が長年温め、劉備に説いた天下を三分するための大戦略――『
その核心こそが、まさに「荊州と益州を同時に領有し、二つの州を足場にして曹操と孫権に対抗する」というものであった。
だが、他人の領土である益州を奪うには、天下を納得させるだけの『大義名分』が必要不可欠である。
今、荊州の正統なる統治者である劉琦自身が、「益州と助け合いたいから、軍事介入をしてくれ」と劉備に依頼したのだ。これ以上ない、完璧で純白の『大義の御旗』が、向こうから転がり込んできたのである。
「劉琦殿の御思慮、誠に天晴れでございます」
諸葛亮は、深々と一礼し、静かに、しかし力強い声で言った。
「同じ漢の皇室の血を引く者同士が助け合い、外敵の脅威から民を守る。これこそが、我が主君・劉備の仁徳の道にも適(かな)う、最高の算段にございます。
……私と劉備様にお任せください。必ずや、益州の劉璋殿との間に、強固なる『結び目』を創り上げてご覧に入れましょう」
西暦二百七年。
赤壁の炎が収まり、次なる戦火の足音が忍び寄る中。
病床の若き君主が抱いた純粋な生存の願いは、諸葛亮という極東の理を解する天才の知略と結びつき、やがて中華の西半分を呑み込む『巨大な蜀漢建国への道』へと、その歴史の歯車を大きく回し始めるのであった。
―――
劉琦の病室での会談を終え、陣幕へと戻ってきた劉備は、感動の熱冷めやらぬ面持ちで文武の百官に向けて高らかに宣言した。
「劉琦殿は、己の病を押して荊州と益州の民を救う道を提示してくださった! 同じ漢の血を引く劉璋殿と手を結び、この乱世を共に生き抜く。
……我らは劉琦殿の意思を最大限に尊重し、何としてもこの同盟をやり遂げねばならん!」
劉備の瞳に嘘や計算は一切ない。
彼は本気で、益州の劉璋を救い、共に助け合うという『純白の善意』だけで動こうとしていた。
「御意にございます、我が君。……ただちに益州への使者と、連携のための『準備』を進めましょう」
諸葛亮をはじめとする荊州の学士たちが、深く頭を下げてそれに応じる。
しかし。彼らが頭を下げたその一瞬、諸葛亮の理知的な瞳の奥には、劉備の純白の善意を利用し、最終的には益州の広大な領土と富を『合法的に簒奪する』ための、冷酷で漆黒の策謀が渦巻いていた。
軍議の末席で、その両者の決定的な『温度差』を外から眺めていた比企景明は、誰にも聞こえないほどの深い溜息を漏らした。
(……大将は本気で助け合う気だが、孔明たち学士は、劉琦の提案を『益州乗っ取りの大義名分』としか見ていない。今は良くても、いざ益州に入れば、必ず両者の間で致命的な矛盾と流血が起きるぞ)
中原の歴史において、「二つの勢力が対等に助け合う」などという幻想は存在しない。
必ずどちらかがどちらかを飲み込み、弱者は強者にひざまずく。それが大陸の常識であった。
(だが、本当に乗っ取るしか道はないのか……?)
景明の脳内に、中原の常識とは全く異なる、彼が生まれ育った極東の島国の『特異な統治システム』が浮上していた。
益州の劉璋と、荊州の劉琦。
この二人はどちらも、漢の皇室に連なる血筋(同宗)であり、元々は一つの根から枝分かれした存在である。すなわち、両者ともに、民を束ねるだけの正統な『権威』と『権力』を持っている。
一方がもう一方を力で飲み込めば、必ず反発が起き、血が流れる。
であるならば。
『荊州と益州の双方から権力を移譲された、第三の
という形は取れないだろうか。
劉璋と劉琦は、あくまで国の象徴(権威)として君臨し続ける。
そして、劉備や諸葛亮、あるいは益州の優秀な官僚たちが『共同代表』として実務(権力)を担い、軍事と内政を統括する。
権威と権力を完全に分離する、という発想である。
(……もちろん、そんなシステムを口約束だけで立ち上げれば、あっという間に派閥争いが起きて崩壊する。
だが、それに絶対的な楔を打ち込む方法が、一つだけある)
景明の目は、鋭い算段の光を放った。
日本国が誇る、国家運営の根幹。法によってすべてを縛り、権威の絶対性と権力の執行を担保するシステム――『律令制』の導入である。
属人的な忠義や情ではなく、冷徹な『法』によって二つの州の連携を縛り上げる。
この日本国の律令制の概念を、荊州と益州の合同政府にインストールすることができれば、劉備の善意と諸葛亮の野心を両立させ、流血を最小限に抑えつつ、曹操に対抗しうる強固な国家基盤を安定させることができるはずだ。
「……しかし」
景明は、自らの脳内で組み上げた完璧な設計図を前にして、再び重い溜息を吐いた。
言うは易く、行うは難し、である。
目の前で議論を交わしている諸葛亮や龐統たち荊州の天才学士たちは、全員が「
彼らに向かって、「権威と権力を分離し、二人の君主を並び立たせた上で、法によって両国を統合する合同政府を作りましょう」などと提案すれば、どうなるか。
十中八九、「何を狂ったことを言っているのだ」「それは天地の理に反する異端の思想だ」と一蹴されるのがオチである。
法が君主よりも上位に立つという概念自体が、現在の中原の常識からあまりにも掛け離れすぎているのだ。
(……駄目だ。今のこの熱狂した場で、俺の『極東の理』を口にしたところで、誰一人として理解できまい)
結局、景明は軍議の場で自らの代案を口にすることはなかった。
彼は、己の中に芽生えた『律令の夢』という巨大な矛盾を抱え込んだまま、足早に陣幕を後にし、自らの家へと帰路についたのである。
江夏の屋敷に戻った景明は、重い足取りのまま、妻である呂綏の待つ寝所へと向かった。
「……遅かったな。酷く疲れた顔をしているぞ、算段の化物殿」
身重の腹を抱え、寝台の上で書物を読んでいた呂綏が、景明の顔を見るなり片眉を上げた。
戦場では無敵の飛将も、屋敷の中では一人の妻として、夫の微細な変化を誰よりも敏感に感じ取っていた。
「……ああ。戦の計算よりも、人間同士の『建前と本音』のすり合わせの方が、よほど骨が折れる」
景明は、帯を解きながら、呂綏の傍らにどっかりと腰を下ろした。
普段、彼は軍の機密や複雑な政治の算段を、武人である妻に語ることはあまりない。しかし今夜ばかりは、己の中に抱え込んだ「誰も理解してくれないであろう孤独な設計図」の重さに耐えかねていた。
「綏よ。少し、小難しい話をしてもいいか?」
「なんだ、改まって。私に政治の難題が理解できるとは思えんが……まあ、聞くだけなら聞いてやろう」
呂綏は、呆れたように言いながらも、手元の書物を置き、景明の方へと身体を向けた。
景明は、ゆっくりと、己の脳内にある『権威と権力の分離』、そして『律令によって二つの州の君主を共存させる共同代表制』という、突拍子もない構想をぽつりぽつりと打ち明け始めた。
「……劉備の善意と、孔明たちの野心。両方を満たしつつ、無駄な血を流さないためには、法によって権力の形を固定するしかない。だが、中原の連中にこの仕組みを説き伏せるのは、絶望的に難しいんだ」
景明は、自嘲気味に笑った。
「武辺者のお前にこんな策の話をしたところで、どうなるものでもないと分かっているんだがな。ただの愚痴だ、忘れてくれ」
景明が言葉を切り上げようとした時。
呂綏は、ふっと短く鼻で笑い、夫の広い背中をドンッと力強く叩いた。
「……確かに、お前の言う『律令』とやらの細かい理屈は、私にはさっぱり分からん」
呂綏は、戦場を見据える時と同じ、真っ直ぐで力強い瞳で景明を見つめ返した。
「だがな、景明。お前はこれまで、その誰も理解できない『得体の知れない算段』で、并州の荒くれ者たちを束ね、曹操の十五万を泥に沈めてみせたではないか」
「綏……」
「相手が孔明だろうと、大将だろうと関係あるまい。お前が『これが一番血が流れない正しい道だ』と確信しているのなら。説き伏せるのではなく、お前自身がその仕組みを『外堀から既成事実として作ってしまえばいい』だけのことだ。……それが、お前の戦い方だろう?」
飛将の、あまりにも単純で、しかし本質を突いた豪快な一言。
「既成事実として、作ってしまう、か……」
景明は、目を丸くした後、肩を揺らして低く笑い声を上げた。
そうだ。理解されないなら、理解するしかない状況へと帳尻を合わせてやればいい。それこそが、極東の算段の徒の真骨頂ではないか。
「……ありがとう、綏。おかげで、少し目が覚めたよ」
「ふん。礼を言うなら、生まれてくる子に美味いものでも食わせてやれ」
中原の天才たちが血みどろの領土簒奪を企てる中、孤独な極東の官僚は、愛する妻の何気ない言葉に背中を押され、荊州と益州を縛り上げる前代未聞の『律令の罠』を、誰にも気づかれぬよう密かに編み上げ始めていた。
―――
荊州の若き君主・劉琦の「益州と助け合いたい」という純粋な願い。
劉備という男は、その願いをいかにして違(たが)えずに叶えるか、文字通り己の誠心誠意をもって不眠不休で駆け回っていた。
彼は生真面目すぎるほどに、劉琦の言葉をそのままの『善意』として受け取っていたのである。
だが、劉備の足元では、諸葛亮や龐統といった荊州の天才学士たちが、その善意を隠れ蓑にして「いかにして無傷で益州を乗っ取るか」という、冷酷な簒奪の絵図面を緻密に引き始めていた。
(……このままでは、大将は知らないうちに、孔明たちの野心を叶えるための『強盗の頭目』に仕立て上げられてしまう)
比企景明は、己の陣所の奥深くで筆を執りながら、静かに目を閉じた。
妻・呂綏の言葉通り、外堀から『既成事実』を作ってしまえばいい。だが、この大戦略を動かすためには、何よりもまず、軍の象徴であり最大の意志決定者である劉備本人を、完全にこちら側へと引き摺り込む必要があった。
儒教の建前に縛られた学士たちではなく、底知れぬ仁徳と柔軟さを持つ劉備ならば、あるいは。
景明は、諸葛亮たちには一切の秘密としたまま、劉備ただ一人へ宛てた『極秘の書状』をしたためた。
そこには、学士たちが今何を考え、劉琦の願いをどう歪めて益州を奪おうと動いているのかという『残酷な真実』。
そして、それを防ぎ、無血で二つの州を統合するために、自分がこれからどのような『律(刑法)と令(行政法)』を敷こうとしているのかという『代案』が、一切の装飾を排した言葉で綴られていた。
そして景明は、劉備という男の心にそのシステムを深く理解させるため、書状の後半に、中原の常識を根底から覆すような『独自の宇宙観』を書き連ねた。
『――我が君、劉備様。天には、
本来、民を束ねる【権威】があるからこそ、人々はそれに従おうとします。しかし、あまりにも恐れ多いが故に、すべてを一人に集約しようとすれば、必ずどこかに歪みが生じ、不和と流血が生まれます。
現在の孔明殿の策は、まさに益州の太陽を叩き落とし、すべてを奪おうとする血の策です。
ですが、天の星々に、決して動かぬ
血筋や権威という理とは別に、それを支持する者たちが、天の中心を動かす者を法によって指名するのです。
劉琦様と劉璋様を、対等な一日と一月として天(権威)に並び立たせましょう。
そして、彼らから法によって権力を移譲された貴方様が、北辰の如く中心に立ち、二つの州の実務を動かすのです。……そうすれば、劉琦様の願いを汚すことなく、一滴の血も流さずに、天下を統べる強固な地盤が完成いたします』
権威と、権力の完全なる分離。
それは、劉備がこれまで生きてきた大漢帝国の「皇帝がすべての権威と権力を独占する」という常識からは、あまりにもかけ離れた思想であった。
だが、他国を侵略することに本能的な嫌悪感を抱く劉備にとって、この景明の『誰も傷つかないための法の檻』という提案は、干天の慈雨のように、その心に深く、強く突き刺さったのである。
景明の布石は、劉備だけにとどまらなかった。
彼は、自らが構築した間諜の網を使い、西の益州――その奥深くで実質的な内政の全権を握っていると目される謎の算段官、班竣宛てにも、一通の密書を送り届けていた。
『――荊州牧は、貴国の主と、真に共に歩みたいと願っている』
その書き出しから始まる書状には、荊州の学士たちが侵略を企てている事実をあえて隠さず明かした上で、「私はそれを止め、法による二大君主の並立と、権力を移譲された『共同代表』による合同政府の樹立を目指している」という、極めて具体的で事務的な提案が記されていた。
もし益州側がこれを蹴り、徹底抗戦を選べば、諸葛亮の策が発動して泥沼の戦争になる。
だが、もし益州の首脳(班竣)がこの『律令による統合』に同意し、内側から劉璋を説き伏せてくれれば、合流は極めてスムーズに進む。
「……さあ、益州の算段官殿。お前が真に理を解する怪物ならば、この提案に乗るのが最も出血が少ないと理解できるはずだ」
景明は、西の夜空に向かって、静かにそう呟いた。
その数週間後。
険しい山脈に守られた益州の都・成都の政務室にて。
山積みになった内政の木簡を処理していた班竣は、荊州から極秘裏に届けられたその書状を読み、完全に動きを止めていた。
「……天には一日と一月があり、北辰が中心を動かす、か」
班竣の細い目が、書状に記された特異な文脈と、そこに込められた『権威と権力の分離』というシステムの設計図を、穴が開くほどに見つめていた。
(……なんだ、この提案は。儒教の欠陥を完璧に理解した上で、それを『律令』という未知の法体系で縛り上げ、強引に矛盾を解決しようとしている。……中原の学士に、こんな機械的で冷酷な発想ができるはずがない)
班竣は、この書状の送り主である「比企景明」という男の出身地を知らない。
だが、その文字の並び、論理の組み立て方、感情を排して極限まで流血のコストを計算し尽くした『算段の美しさ』に、彼はどうしようもないほどの既視感と、胸を締め付けられるような郷愁を覚えていた。
班稀が嘗て彼に託したその算段、常軌を逸した計算能力と、巨大なシステムの片鱗。
「……なるほど。兄が私に教えてくれた『計算の果てにある怪物』は、荊州の奥深くに潜んでいたというわけか」
班竣は、書状をそっと胸に当て、目を閉じた。
景明の素性などどうでもよかった。ただ、この書状の文脈の端々から、兄が己の命を懸けて託し、共に天下の算段を回そうとした『極東の理の匂い』が、むせ返るほどに漂ってきていたのである。
「……面白い。中原の理では、どうせ我ら益州は曹操か劉備に飲み込まれる運命だったのだ。ならば」
班竣は目を見開き、そこには兄と同じ、冷徹な『算段の徒』としての昏い炎が宿っていた。
「ならば、この『理』に、益州のすべてを賭けてやろうではないか」
西暦二百七年、秋
中原の誰もが想像すらできなかった「権威と権力を分離する合同政府」という極東の設計図は。
一人の日本人の密書を通じて、仁徳の主・劉備の心と、西蜀の算段官・班竣の魂を同時につなぎ合わせ、中華の歴史を未曾有の方向へと捻じ曲げるための『見えない巨大な歯車』を、ついに噛み合わせることに成功したのであった。