四國志   作:丸亀導師

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転 終

 

西暦二百七年、秋。

長江を赤く染め上げた『赤壁の戦い』は、中原の覇王・曹操にとって、生涯最大にして最悪の惨敗という結末をもって幕を閉じた。

 

十五万を誇った無敵の大軍は、長江の藻屑と消え、あるいは荊州の泥濘の中で南方の風土病に冒され、無残に命を散らした。

 

命からがら北へと逃げ延び、本拠地である許昌の都へと帰還を果たした曹操の姿には、かつて天下を睥睨(へいげい)した覇王の威光は見る影もなかった。その顔には深い疲労と、何よりも「なぜ、自分がこれほどの無様な敗北を喫したのか」という、底知れぬ怒りと疑念が深く刻み込まれていた。

 

「……原因を究明せよ。徹底的にな」

 

許昌の宮廷の奥深く、薄暗い執務室の中で、曹操は血走った両目で麾下の天才軍師たち――荀彧と郭嘉を睨みつけた。

 

「我が軍は、確かに水上戦には不慣れであった。孫権と劉備が地の利を活かして抵抗したのも事実だ。

……だが、それだけではないはずだ。十五万の大軍が、あそこまで脆くも疫病に食い破られ、あまつさえ船を繋ぐ鎖の一つすら外せなくなるなど、尋常ではない。何かが、我が軍の内部で致命的に狂っていたとしか思えんのだ」

 

曹操の直感は、軍略家としての研ぎ澄まされた本能であった。

敗戦の責任をただの「不運」や「風土病」で片付ける男ではない。この未曾有の大敗を総括し、次に生かすためにも、彼は全軍の『帳簿』と『兵站記録』の完全な洗い直しを二人に命じたのである。

 

曹操の厳命を受け、荀彧と郭嘉は直ちに兵站局の奥深くに籠もり、過去数ヶ月に及ぶ南征の全物資の動き、調達記録、輸送の指示書のすべてを机の上に積み上げた。

 

「……郭嘉殿。南方の前線へ送られた『薬草』の輸送記録を見てくれ」

 

数日間の不眠不休の調査の末、荀彧が、一枚の木簡を震える手で持ち上げた。

 

「第三軍で疫病の兆候が報告されたのが、この日。そして、薬草の追加輸送の許可が下りたのも同日だ。……だが、実際に輸送部隊が許昌を出発したのは、なぜか『二日後』になっている。しかも、指示された輸送ルートは、連日の雨で土砂崩れが起きやすいと事前に報告が上がっていた悪路だ」

 

「……二日の遅れ。平時ならば誤差の範囲ですが、あの極限状態のマラリア蔓延下においては、数万の兵を見殺しにする『致命的な遅延』です」

 

郭嘉もまた、別の帳簿から目を上げ、青ざめた顔で言葉を継いだ。

 

「それだけではありません。荀彧殿。こちらを見てください。水軍の船を繋ぐために手配された『鉄釘』と『鎖の油』の調達記録です」

 

郭嘉が指し示した数字の羅列。

 

「……表面上は、規定通りの予算が組まれています。しかし、発注先の工房が巧妙に変更されている。この工房が納品する鉄は、不純物が多く、湿気に触れれば一月で完全に癒着して使い物にならなくなる『粗悪品』です。……油も同様、防錆効果が一段低いものへと、数字の操作によってすり替えられている」

 

荀彧と郭嘉は、互いの顔を見合わせた。

その背筋に、氷のような悪寒が走り抜ける。

一つ一つの事象は、巨大な十五万という軍の規模から見れば、ほんの数パーセントの「誤差」に過ぎない。

 

薬が少し遅れた。鉄の質が少し悪かった。

 

もしこれが単発のミスであれば、ただの職務怠慢として処理されるだろう。しかし、これらが『長江での水上戦』と『南方の疫病』という特定の状況下において、「曹操軍を内側から完全に崩壊させるための、最も致死性の高い組み合わせ」として、数学的なまでの精密さで組み上げられていることに、中原最高峰の頭脳を持つ二人は気付いてしまったのである。

 

「……偶然ではない。誰かが、我が軍の心臓部において、極めて意図的に、そして誰にも気付かれぬほど微細に『死の帳尻』を合わせ、我が軍を敗北へと誘導したのだ」

 

郭嘉の美しい顔が、凄まじい怒りと戦慄に歪む。

十五万の軍の兵站を、たった一人で統括し。

これほどまでに複雑怪奇な数字の操作を、一切の矛盾なく帳簿上に成立させることができる『算段の怪物』。

許昌の宮廷において、そのような離れ業ができる人間は、たった一人しか存在しなかった。

 

「……班稀殿。なぜ、あなたが……ッ!!」

 

荀彧は、手元の木簡を握り潰さんばかりの力を込め、血を吐くような悲痛な叫び声を上げた。

 

兵站局の長官室。

武装した近衛兵たちを従え、扉を蹴り開けて踏み込んできた郭嘉と荀彧の前に、その男はいた。

 

班稀。

 

極東の島国から中原へと帰還し、曹操軍の兵站と算段のすべてを裏で支配していた男。

彼は、踏み込んできた兵士たちを見ても微塵も驚く様子はなく、ただ静かに、茶を啜りながら卓の前に座っていた。

 

その顔は、すべてをやり遂げた者のように、ひどく穏やかで、氷のように透き通っていた。

 

「……いささか、遅かったな。荀彧、郭嘉。赤壁の敗戦から、二月もかかるとは」

 

班稀は、茶杯を置き、静かに二人を見据えた。

 

「班稀……ッ! 貴様、自分が何をしたのか分かっているのか!!」

 

郭嘉が、扇子を班稀の喉元に突きつけ、殺意に満ちた声で怒鳴りつけた。

 

「我が軍の精鋭数万が、貴様のその狂った計算式のせいで、泥水を飲んで死んでいったのだぞ! なぜだ! 曹操様は貴方の才を誰よりも高く評価し、全軍の命運を預けられたというのに!」

 

だが、郭嘉の怒り以上に、班稀の裏切りに魂を引き裂かれていたのは、荀彧であった。

 

「……班稀殿。答えて、くだされ」

 

荀彧は、涙で顔を濡らしながら、絞り出すような声で問うた。

荀彧と班稀。二人は、「いつか必ず、この大漢帝国を真なる法と正義によって再興しよう」と誓い合った仲である。

 

冷徹な算段の奥に、誰よりも漢室への忠義と、天下泰平への願いを秘めている男だと、荀彧は信じ切っていたのだ。

 

「私たちは……曹操様という覇王を御輿とし、共にこの乱世を終わらせるはずだったではないですか! なぜ、曹操様を裏切った!

なぜ、我々の悲願であった天下統一を、その手で打ち砕いたのですか!!」

 

荀彧の慟哭が、冷たい長官室に響き渡る。

しかし、班稀の表情は一切揺らがなかった。彼は、かつての同志である荀彧の涙を見ても、ただ静かに目を伏せるだけであった。

 

「……荀彧よ。お前にはすまないことをしたと思っている。だが、私は後悔など一切していない」

 

班稀は、両手を静かに前に差し出した。捕縛を促す仕草である。

 

「すべては、お前たちが帳簿から読み解いた通りだ。薬を遅らせ、鉄をすり替え、曹操の十五万を長江の底へと沈めるよう算段を組んだのは、他ならぬこの私だ。……連行しろ。そして、曹操様と、天子の御前に私を引きずり出すがいい」

 

一切の言い訳も、命乞いもしない。

ただ己の破滅を、あらかじめ組み込まれた計算式の一部であるかのように冷徹に受け入れるその姿に、郭嘉も荀彧も、言い知れぬ不気味さと、底知れぬ『極東の理』の深淵を見せつけられたような錯覚に陥るのであった。

 

数日後

 

許昌の宮廷、大極殿

 

大漢帝国の皇帝である献帝・劉協が座す玉座の間は、張り詰めた殺気と、重苦しい静寂に包まれていた。

 

玉座の上で、青ざめた顔で震える若き皇帝のすぐ傍らには、大漢帝国の丞相(じょうしょう)であり、実質的な最高権力者である曹操が、黒い覇気を纏って仁王立ちしていた。

その足元、冷たい石床の上に、重い枷を嵌められた班稀が引き据えられていた。

 

「……班稀よ。貴様の口から、直接聞かせてもらおうか」

 

曹操の声は、怒りを通り越し、絶対零度の冷たさを帯びていた。

長江で無残に死んでいった十五万の将兵の怨念が、曹操の背後に渦巻いているようであった。

 

「我が軍の心臓部を担う貴様が、なぜ、このような真似をした。孫権に買われたか? それとも劉備の仁徳とやらに絆されたか? ……あるいは、あの海を越えた『日本国』の回し者として、我が中原を分断するために動いていたというのか!!」

 

曹操の激しい追及が飛ぶ。

周囲の文武の百官たちも、唾を飲み込んで班稀の口から語られるであろう『謀略の真実』を待ち構えていた。

 

しかし。

 

班稀は、曹操の言葉を完全に無視するように、ゆっくりと顔を上げた。

そして彼が見つめたのは、自分を問い詰める曹操の顔ではなく。玉座の上で震えている、名ばかりの皇帝・劉協の顔であった。

 

「……天子様。そして、曹操様を始めとする、中原の英傑の皆様」 

 

班稀の声は、枷を嵌められた罪人とは思えぬほどに、澄み切って、宮廷の隅々にまで響き渡った。

 

「私が、なぜこのような大逆を犯したのか。……それは、孫呉のためでも、劉備のためでもありません。私が仕掛けた算段の理由は、極めて個人的で、そして、皆様方にとっても極めて身近な『一つの問い』に他なりません」

 

班稀は、枷の重さに耐えながら、真っ直ぐに背筋を伸ばした。

 

「皆様に、問いたい。……我ら中原の人間が、己の魂の根底に刻み込んでいる『儒教』の教えにおいて。【家族(親兄弟への孝悌)】と、【皇帝への絶対の忠義】。

この二つが天秤にかけられ、そのどちらかを必ず切り捨てねばならない時。……果たして人は、どちらを取るのが『正しい人の道』なのでしょうか?」

 

その言葉が発せられた瞬間。

 

荀彧をはじめ、宮廷に並び立つすべての官僚たちの顔色が一変した。

それは、漢の帝国を支える儒教思想における、最大の矛盾であり、誰もが触れることを恐れる『根源的なタブー』であった。

儒教においては、「君主への忠義(忠)」が強調される一方で、それ以上に「家族への愛と孝行(孝・悌)」こそが人間道徳の根本であると説かれている。

 

もし、君主の命令が自分の親兄弟を殺すことであった場合、儒者はいかに振る舞うべきか。天下よりも、血の繋がりを優先することこそが、真の儒学者の道ではないのか。

 

「……何を戯れ言を。それが、貴様の裏切りの理由だというのか!」

 

曹操が、不快げに眉をひそめて一喝する。

 

「はい。それこそが、私の理由のすべてです」

 

班稀は、一切の悪びれる様子もなく、淡々と告げた。

 

「曹操様。貴方の十五万の軍勢が、あのまま荊州を飲み込んでいれば。その暴力の津波は、必ずや西の益州へと流れ込み、私の実の弟である班竣と我が妻子の命と、彼が築き上げた国を跡形もなく踏み躙ったことでしょう」

 

班稀の目に、初めて人間らしい、狂おしいほどの『情』の光が宿った。

 

「私は、大漢帝国の官僚である前に、班氏の長兄です。私にとって、天下の覇権や、皇帝への忠義などよりも。たった一人の弟の命の方が、何万倍も、何億倍も重かった。……ただ、それだけのことなのです」

 

「貴様ァッ!!」

 

曹操の腹心が、あまりの身勝手な言い分に激高し、剣を抜こうとする。

だが、曹操はそれを手で制した。曹操の目には、怒りよりも、班稀という男の『底知れぬ狂気』への戦慄が浮かんでいた。

極東の島国で、感情を排した「算段のシステム」を身に付け、誰よりも冷酷に数字を弾き出してきた怪物が。

 

その行動の最終的な動機が、最も人間臭く、最も非合理的な「家族への情」であったという、この途方もない矛盾。

 

(……この男は、己の家族の命を救うためだけに。その天賦の才と、大和の冷酷なシステムをすべて使い切り、私の十五万を長江に沈めたというのか……!)

 

曹操は、理解の範疇を超えた班稀の『狂った帳尻合わせ』を前に、言葉を失うしかなかった。

 

「……話は、以上です」

 

班稀は、再び静かな、氷のような顔に戻っていた。

 

「私の犯した罪は、いかなる弁明の余地もない大逆罪。極刑(凌遅処死(りょうちしょし)等の最も重い死刑)を免れぬことは、重々承知しております。さあ、曹操様。私を裁き、その首を刎ねるがいい」

 

「……言われずとも、貴様の一族郎党、九族に至るまで根絶やしにしてくれるわ!!」

 

曹操が、腰の佩剣に手をかけ、玉座の段を降りようとしたその時。 

 

「――お待ちください、曹操様」

 

班稀の声が、鋭く、曹操の歩みを止めた。

 

「私は今、『曹操様、私を裁け』と言いましたが。……それは、貴方という『一介の丞相』が、私を私刑に処すことを認めたわけではありません」

 

「……何?」

 

曹操が、足を止め、危険な光を帯びた目で班稀を見下ろす。

 

「私は、貴方を裏切ったのではない。大漢帝国の正規軍である十五万の兵站を狂わせ、これを死に至らしめたのです。

すなわち、私の罪は『曹操への裏切り』ではなく、『大漢帝国および皇帝陛下への反逆罪』に他ならない」

 

班稀は、床に額を擦り付けるようにして、玉座の上で震えている皇帝・劉協に向かって、深く、深く平伏した。

 

「天子様! 私は、己の家族を重んじるあまり、陛下の大軍を滅ぼすという大罪を犯しました! 私の否は、すべて陛下の御前に認めます! 故に……!」

 

班稀は、顔を上げ、血を吐くような、しかしどこまでも誇り高い声で叫んだ。

 

「故に! 私を罰し、死刑の勅命を下すことができるのは、丞相である曹操様ではありません! この天下の主である、天子様、ただお一人にございます!!」

 

その言葉の意味を理解した瞬間。

荀彧は息を呑み、郭嘉は驚愕に見開いた目を伏せ、曹操は屈辱と怒りに顔を真っ赤にして全身をワナワナと震わせた。

 

班稀が、最後に仕掛けた恐るべき『盤面』。

 

それは、自らの死の形すらも、曹操の権威を削ぐための計算式に組み込むという、究極の政治的トラップであった。

もし今、曹操が自らの怒りに任せて、自らの権限で班稀を処刑してしまえばどうなるか。

 

それは、「班稀は漢の臣ではなく、曹操個人の所有物であり、曹操が法を無視して私刑を行った」という事実を天下に晒すことになる。皇帝の目の前で臣下が臣下を処刑することは、大漢帝国の権威を完全に踏みにじる簒奪者の行為に他ならない。

 

逆に、班稀の要求通りに、皇帝・劉協が『勅命』として彼に死刑を宣告すれば。

 

班稀は、「曹操の裏切り者」としてではなく、「大漢帝国に仕え、法を破ったが故に、正統な皇帝によって裁かれた『漢の官僚』」として、歴史にその名を刻むことができる。

 

そして同時に、「曹操の軍隊は、あくまで皇帝の持ち物であり、曹操個人が裁きを下す権限はない」という事実を、宮廷の全員に知らしめることができるのである。

 

「……この、男は……ッ!」

 

曹操は、抜いた剣を震える手で握りしめながら、ギリッと奥歯を噛み砕かんばかりの音を立てた。

 

死を前にしてなお、曹操という覇王の権威を否定し、あくまで『漢の役人』としての矜持と名誉を守り抜こうとする班稀の執念。

 

それは、かつて荀彧と共に誓い合った「漢帝国再興」という夢の、あまりにも悲惨で、あまりにも歪んだ形での『体現』であった。

 

「……陛下」

 

班稀は、静かに、優しく、玉座の上の劉協に語りかけた。

 

「どうか、ご決断を。大漢帝国の法と秩序を守るため、この大罪人である班稀に、陛下の御口から、極刑の勅を下してください。……それが、私にとって唯一の救いであり、最大の名誉にございます」

 

劉協は、曹操の恐ろしい視線に怯えながらも。

目の前で平伏する班稀の、その狂気すら帯びた『忠義と誇り』の光に押されるようにして、ゆっくりと、震える唇を開いた。

 

「……大逆人、班稀。そ、その罪、天地に容(い)るべからず。……よって、朕の名において、これを極刑に、処す……っ」

 

皇帝の、弱々しくも確かな『死刑の勅命』が、大極殿に響き渡った。

その瞬間。

曹操は、怒りのやり場を失い、剣を床に投げ捨てて天を仰いだ。

荀彧は、両手で顔を覆い、声を殺して泣き崩れた。

 

そして。

 

すべての算段を終え、自らの望む『漢の役人としての死』という最高の名誉を手に入れた極東の算段官・班稀は。

首を垂れたまま、誰にも見えぬように、その冷たく透き通った顔に、美しく、穏やかな微笑みを浮かべていたのであった。

 

―――

 

大漢帝国の天子・劉協の御口から、己の死刑の勅命を引き出すという、政治的盤面における『完全なる勝利』を成し遂げた班稀。

 

己の死すらも法と名誉の内に組み込んだ極東の怪物を前に、中原の覇王・曹操は、怒りのあまり自らの唇を噛み切り、血を滴らせながら嗤った。

 

「……見事だ、班稀。貴様は確かに、私からの私刑を逃れ、天子の法によって裁かれる名誉を手に入れた」

 

曹操は、玉座の間から引き立てられていく班稀の背中に向けて、地獄の底から響くような呪詛(じゅそ)を投げつけた。

 

「だがな、班稀。天子は貴様を『死刑に処す』とは仰ったが……『どのように殺すか』までは指定しておられぬぞ」

 

その言葉の真意を理解した時、冷徹な荀彧や郭嘉でさえ、背筋に氷を詰められたような悪寒に襲われた。

 

死刑の執行権限と、その『手段の選定』は、実務を担う丞相である曹操の手に委ねられているのだ。

 

数日後、許昌の処刑場。

 

曹操が班稀の処刑のために選んだのは、斬首でも、磔刑でも、八つ裂きでもなかった。

 

それは、秦や前漢の初期といった、数百年前の野蛮な時代を最後に、あまりの残酷さ故に廃止され、行われなくなっていた伝説の極刑。

 

――『具五刑(ぐごけい)』であった。

 

それは、人間の尊厳を極限まで破壊する五つの刑罰を、生かしたまま段階的に全て与え、最後に命を絶つという、悪魔の所業である。

 

額に罪人の証を彫り込む『黥(げい・いれずみ)』。

顔の形を奪う『劓(ぎ・鼻削ぎ)』。

歩く自由を奪う『刖(げつ・足切り)』。

男としての尊厳を絶つ『宮(きゅう・男根切断)』。

そして、そのすべての苦痛と失血の果てに、首を刎(は)ねる『大辟(たいへき・死刑)』。

 

曹操は、自らの十五万を泥に沈めた男に対し、歴史の闇からこの凄惨な刑罰を引っ張り出し、実行させたのである。 

 

全身を肉塊のように切り刻まれながら。それでも班稀は、刑の執行中、唯の一度も曹操に命乞いをせず、痛みに泣き叫ぶこともなかったという。

 

彼はすでに、己の算段が完璧に成立し、愛する弟が守られたという『答え』を胸に抱いていたからだ。

 

刑の果てに刎ねられた班稀の首は、見る影もなく損壊した状態で、許昌の城門に高く晒し首とされた。

 

極東の算段の徒は、中原の覇王の底知れぬ憎悪と暴力によって、その肉体を塵芥のように破壊され、この世を去ったのである。

 

それから月日が流れ、季節は冬の入り口へと差し掛かっていた。

西の果て、益州の都・成都。

益州の内政を陰で取り仕切る算段官・班竣の広大な屋敷に、深夜、一人のボロボロになった男が転がり込んできた。

 

「……何者だ。ここは班府であるぞ」

 

夜半に叩き起こされた班竣が、灯りを持って玄関に立つと、泥と血にまみれたその男は、班竣の顔を見るなりその場に泣き崩れた。

 

「班竣、様……っ! お会いしとう、ございました……!!」

 

男の顔に見覚えがあった。

 

それはかつて、中原において兄・班稀の下で長年働き、彼の手足となって膨大な帳簿の計算を支え続けていた、忠実な『秘書官』の一人であった。

 

彼は、主である班稀が具五刑に処されるという地獄の光景をその目に焼き付けた後、曹操の苛烈な残党狩りの網の目を掻き潜り、乞食に変装して何ヶ月もかけて、この西の益州へと決死の逃避行を続けてきたのである。

 

「お前は……兄上の下で働いていた、あの男か。なぜ、ここに」

 

班竣の細い目が、微かに見開かれた。

 

「お伝え、しなければと……っ! 班稀様が、どのような最期を遂げられたのか。そして、なぜ、あのような大逆を犯されたのかを……っ!!」

 

秘書官は、むせび泣きながら、許昌で起きたすべての真実を班竣に語った。

 

班稀が、曹操の軍勢の心臓部をたった一人で狂わせたこと。

その目的が、十五万の軍勢がこの益州(弟)へとなだれ込むのを防ぐためであったこと。

 

皇帝から勅命を引き出し、見事に名誉を守ったこと。

 

そして……曹操の狂気に触れ、『具五刑』という筆舌に尽くしがたい残酷な刑罰の果てに、首を晒されたこと。

 

「班稀様は……刑場に引き出される前夜、私を牢に呼び、こう仰いました。『お前だけは逃げろ。そして、いつか西へ辿り着くことがあれば、弟に伝えてくれ。……私は、最後まで誇り高き班氏の人間であったと』」

 

秘書官の血を吐くような報告を聞き終えた時。

班竣の持っていた灯りの燭台が、ガランッ、と鈍い音を立てて冷たい石の床に落ちた。

 

「……そうか」

 

班竣の口から漏れたのは、ただその短い一言であった。

彼は、顔から一切の表情を消し去り、足元に崩れ落ちている秘書官の肩を、力強く、しかし震える手で二度、三度と叩いた。

 

「よくぞ、ここまで生きて、報せてくれた。……ゆっくり休むがいい」

 

秘書官を従者に任せて下がらせた後。

班竣は、一人、薄暗い自室へと戻り、重い扉を閉めた。

誰もいない部屋の中央で立ち尽くし、彼はかつて兄から送られてきた、あの一通の密書を懐から取り出した。

 

『――信じてほしい。私は、あの金に群がる豚どもと同じになり果ててはいない』

 

かつて、宦官に媚びへつらい、私財を投げ打って家を存続させようとした兄を、若き日の班竣は「豚どもと同じになり果てた」と罵倒した。

あれから数十年の時を経て、兄が己に突きつけてきたこの言葉の『真の意味』が、今、完全に班竣の脳内で復号された。

 

兄は、金に群がる豚ではなかった。

権力に尻尾を振る犬でもなかった。

 

彼は、己の命と、肉体のすべてを極限の苦痛によって削り落とされることすらも計算式に組み込み、たった一人の弟の命(未来)を守るためだけに、自ら『歴史上の大罪人』となる道を選んだのだ。

 

「……兄、上」

 

極東の算段の徒として、感情を殺し、冷徹な数字だけで益州を統治してきた氷の男の目から。

ボロボロと、大粒の涙がとめどなく零れ落ちた。

 

「ああ……ッ、あぁぁぁぁ……ッ!!」

 

班竣は、兄の密書を胸に強く抱きしめながら、床に崩れ落ちた。

声を出せば、屋敷の者たちに聞こえてしまう。彼は己の口を両手で強く塞ぎ、獣のように肩を震わせながら、声にならない悲痛な慟哭を、暗い部屋の中で一人、朝まで上げ続けた。

 

自分が罵倒し、見捨てた兄は。

誰よりも誇り高く、誰よりも深い愛情を持った、世界でただ一人の、偉大な兄であった。

 

翌朝。

班竣は、腫れ上がった目を冷たい水で洗い、元の『冷徹な算段官』の仮面を被り直すと、己の屋敷の奥にある『離れ』へと足を運んだ。

 

そこには、班竣が長年にわたって養い、庇護してきた『班稀の妻』と、すでに数えで二十を越えた『班稀の子供』が、平和に暮らしていた。

 

「叔父上! おはようございます。今朝は随分と冷え込みますね」

 

中庭で剣の素振りをしていた若者が、班竣の姿を認めて爽やかな笑顔で駆け寄ってきた。

その顔立ちは、かつて故郷で共に学んだ頃の兄の面影を、色濃く残していた。

 

「……ああ。風邪を引かぬようにな」

 

班竣は、その眩しい笑顔を前に、胸を鋭い刃で抉られるような痛みを覚えた。

実は、班竣は彼ら妻子に対して、「班稀が曹操に仕え、軍の心臓部を担っていた」という事実を、今日に至るまで一切伝えていなかったのである。

 

曹操という血塗られた覇王の片腕として、修羅の道を歩んでいるなどと伝えれば、残された家族がどれほど心を痛め、肩身の狭い思いをするか。班竣はそれを案じて、ずっと嘘をつき通してきた。

 

そして今。

 

兄が『具五刑』という最悪の極刑によって肉体をバラバラにされ、さらし首になったという地獄の事実を、この無垢な妻子に伝えることなど、到底できるはずがなかった。 

 

「叔父上? どうかなさいましたか。お顔の色が……」

 

若者が心配そうに覗き込んでくる。

 

「……いや。少し、政務で夜を明かしてな」

 

班竣は、無理に口角を上げ、若者の肩にポンと手を置いた。

 

「お前の父(兄上)は、立派な男だった。決して、誇りを失うような真似はしなかった。……それだけは、覚えておいてくれ」

 

「? はい、もちろんです! 父上は私にとって誇りです!」  

 

何も知らない若者は、無邪気に笑って頷いた。

 

(……これでいい。兄上の壮絶な最期も、私を庇って被った泥も。すべては、私一人が墓場まで持っていけばいいことだ) 

 

班竣は、背を向け、離れを後にした。

その背中は、かつてないほどに重く、しかし、決して折れることのない強靭な『鋼の意志』に満ちていた。

 

「……見ていてください、兄上」

 

冬の澄んだ空を見上げ、班竣は心の中で亡き兄へと誓いを立てた。

 

「貴方が命を賭して守り抜いてくれたこの益州を。そして、比企景明という男が提示してきた、法と律令による『新しい国の形』を。……私が必ず、この西蜀の地に打ち立ててみせます。それが、生き残った私の、貴方への最後の『帳尻合わせ』です」

 

中原の冷たい風に吹かれて晒された極東の怪物の死は、その家族には永遠に知らされることはなかった。

 

だが、彼が流した血と、遺した算段の意志は、西の果ての地で一人の弟の魂を覚醒させ、やがて中華の歴史を大きく変革する『巨大な法の帝国』を築き上げるための、最も強固な礎となったのである。

 

 

―――

 

中原の覇王・曹操の本拠地である許昌。

 

その政治と行政の中心である『外廷(がいてい)(一般の政務を行う宮廷の外側の区域)』には、日々多くの官僚や使者たちが行き交う中、ひと際異彩を放ちながらも、完全にその場に溶け込んでいる者たちの姿があった。

 

『辰砂売り』の商人たちである。

 

彼らは、「日本国からの密輸業者」という裏の顔を持つ一方で。表向きは、不老不死の霊薬の原料や、宮殿の柱を塗るための鮮やかな朱色を納める『後漢の古くからの御用商人』としての確固たる地位と通行許可証を持っていた。

 

「……聞いたか。兵站局のトップであった班稀様が、処刑されたそうだ」

 

「ああ。単なる斬首ではない。数百年前の『具五刑』という、見るも無惨な極刑で肉体を刻まれたらしい」

 

辰砂売りの商人たちは、外廷の回廊の隅で荷を解きながら、官僚たちのヒソヒソ話や、宮廷の異様な空気から、その重大な情報を正確に傍受していた。

 

班稀といえば、かつて日本国へと正規の使節として渡海し、極東のシステムをその目に焼き付けて帰ってきた男である。彼ら辰砂売りにとっても、中原における最大の理解者であり、同時に警戒すべき『算段の徒』の一人であった。

 

「あの御仁が、何故……いや、我々が詮索することではない。この事実は、直ちに東の海へ送らねばなるまい」

 

商人たちは、一切の感情を交えることなく、極秘の暗号文を記した木簡を荷馬車の底に隠し、足早に許昌の外廷を後にした。

 

それから、数週間後。 

 

荒波の東シナ海を越え、日本列島・大和国の首都である長岡京。その中枢たる『大内裏』の奥深くへと、辰砂売りたちが放った情報が届けられた。

 

山のように積まれた決済書類と、日本海側の開拓事業の報告書に埋もれるようにして座る男。

日本国を支配する頭脳にして、冷酷なる算段の怪物たる右大臣・広庭である。

 

「……申し上げます。中原より急報。曹操軍の兵站を司っていた班稀という男が、大逆罪に問われ、具五刑によって処刑されたとのことです」

 

黒装束の特務官僚から報告を受けた広庭は、筆を動かす手をぴたりと止めた。

班稀。数年前、この大内裏に現れ、広庭と直接言葉を交わし、大和の理の恐ろしさを誰よりも深く理解して帰っていった、あの中原の秀才である。

 

「……ああ。あの時の理知な男か」

 

広庭は、顔を上げることなく、ただ手元の木簡を見つめたまま、独り言のようにポツリと呟いた。

 

「良く学び、よく読んだあの男か……。惜しいことをするものだ。あの男の頭脳には、十万の軍に匹敵する価値があると言うのに……」

 

その言葉の響きには。 

 

かつて知己を得た異国の俊英の死を悼むような色は、ただの一欠片たりとも存在しなかった。

広庭の顔は、能面のように無表情であり、その声はまるで「優秀な計算機が一つ壊れてしまった」という事実を、ただ事務的に確認しただけのような、底知れぬほど冷たく、乾いたものであった。

 

彼にとって、班稀がどのような想いで曹操を裏切り、家族のためにどれほどの苦痛の中で死んでいったかなど、悲しくも何ともない。ただ純粋に、何の興味も湧かなかったのである。

 

「下がれ。次の報告書を持て」

 

広庭は、班稀の死という情報を、わずか数秒で脳内の『処理済み』の箱へと放り投げると、即座に思考の歯車を別の方向へと高速で回転させ始めた。

 

(……班稀が死んだ理由はどうでもいい。重要なのは、彼が死ぬ前に曹操の帳尻を狂わせ、結果として中原の覇王が長江で致命的な大敗を喫したという『事実』だ)

 

広庭の細い目が、ギラリと冷酷な野心の光を帯びる。

曹操という強大な絶対者が弱体化した。それはすなわち、すぐに終わるはずだった中原の統一が遠のき、劉備や孫権といった勢力が息を吹き返し、中華内部の内戦がより長期化し、収拾がつかなくなるということを意味している。

 

「素晴らしい。皇太子達(息子達)の開拓事業が遅れ、国庫に負担がかかっているこの時期に。

隣の巨大な大陸が、泥沼の殺し合いを何十年も続けてくれるというのだ。これほど都合の良い盤面はない」 

 

広庭は、新たな木簡を引き寄せ、猛烈な速度で筆を走らせ始めた。 

 

「曹操には、死なない程度に物資を売りつけて徹底抗戦させろ。劉備と孫権の間にも、決して決定的な力の差が生まれないよう、裏から兵站の供給量を細かく調整してやれ。

……中華の連中には、我々が北方航路を完全に確立するまでの間、互いの血を最後の一滴まで吸い合い、疲弊し尽くしてもらう」

 

一人の男が家族への愛ゆえに流した悲壮な血すらも。

極東の怪物は、国家というシステムを肥え太らせるための『単なる潤滑油』として、一切の感情を交えることなく、次の残酷な策謀へと組み込んでいくのであった。

 

 

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